前置きはこのくらいにして、テレサの自叙伝を読
み始めよう。

 さきにも述べたように、テレサの父親ドン・アルフォンソ・サンチェス・デ・セペダは、ユダヤ人の血を50%以上受け継いだ金持ちであったが、テレサが生まれた頃になにを家業としていたのかよくわからない。父親の残した財産から上がる利益で食べていたのかもしれない。彼は、1543年にテレサが28歳のときに死んだ。

 彼は二度結婚し、最初の妻は3人の子供を産んだ。テレサは二度目の妻、ドナ・ベアトリス・デ・アマウダの産んだ9人の子供のうち、三番目であった。

 ドナ・ベアトリス・デ・アマウダは貴族の出であったが、150914歳のときにドン・アルフォンソの家に嫁した。テレサを産んだのは151520歳のときであった。死んだのはテレサが15歳のときであったと伝えられる。

 テレサが幼少時に受けた教育は完全なものではなく、父の持っていたカスティリヤ語の本で口語をまなび、聖人伝でキリスト教をまなび、キリスト教には真理があると思いこんだ。もっとも、このような事情は日本でも同様であって、中世の西欧でキリスト教が真理そのものであった事情は、日本の中世で仏教が真理そのものであった事情と全く変わらない。

 テレサは長じるにしたがい、キリスト教の教えと自分の行動との間に生じてきた齟齬を自覚する。それは、胸をワクワクさせる騎士物語であり、化粧という名の虚飾であり、魅力的な従兄弟たちとたわむれること、つまり俗世の楽しみを味わうことなのであるが、彼女が美人であり、母親もすでに亡くなっていたため、いささか度を過ごすこともあったらしい。

 そこで父は、彼女を17歳のとき、アヴィラ市の城外にある恩恵(めぐみ)の聖母修道院へ入れてしまう。父親は、彼女に嫁入り前の教育を受けさせるつもりだったようだ。

 ところが、一年半で彼女は重病に罹る。そこでいったん修道院より帰り、父の家で療養し、それが直ったところで嫁に行った腹違いの姉の家に居候となった。18歳のときには、信仰心の厚い叔父からも感化を受けたこともあったようだ。

 母がすでに亡くなっていたこと、

 嫁に行こうにも常に病弱で、時期を失っていたこと、

 当時のスペイン社会の名誉は、未婚の女性の一人暮らしを認めなかったこと、

 以上が直接的な原因で、彼女は1536年、21歳のとき、アヴィラの城壁外にあるご託身修道院に入ることとなった。自叙伝にはいろいろと委曲を尽したいきさつが書いてあるが、当時の社会環境を考えて、簡単に纏めると以上のようになる。

 当初反対していた父親も事後承諾させられてしまい、修道院入りする際に必要な持参金を納めた。とても高額な持参金だった。

 マルセル・オクレールという人は『神のさすらい人』(福岡カルメル会訳、中央出版社、昭和53年)の中で、ドン・アルフォンソが納めた持参金は、

 毎年25ファネグの小麦と大麦、

 それが納められぬ場合は、金貨で200デュカ

だと記している。前述のJ.H.エリオットの記述で、当時の労働者の賃金が年に20ドゥカードであったとしているから、かりに現在の日本での労働者の賃金が年間400万円とすると、200デュカとは年間4,000万円の金額に達する。今と昔ではエンゲル係数が異なるかもしれないが、働くものが肌で感じる感覚的な重さからすると、今の時代にひきなおして、やはり4,000万円というのが妥当であろう。かりに3年間の前払いをしたとすると、12,000万円の支払を父親が行ったことになる。当時は修道院入りするといえど、なまなかのことでは世を捨てることもできなかったもののようだ。

テ レ サ の 家 族

画題:
Antonio del Pollaiuolo
"Profilbildnis einer Jungen Frau" um1450/70
"Die Gemaldegalerie Berlin - ihre Geschichte und 175 ihrer Meisterwerke", 1984
Staatliche Museen Preussischer Kulturbesitz, Berlin, Gemaldegalerie



テレサの時代よりも約70年ばかり遡ったイタリーの女性のファッションなのだが、なんという斬新さだろう。襟刳りは背中に向かって開かれている。服地は厚い絹の刺繍地、袖にはビロードの織りこみ模様が施されている。帽子のセンスも抜群で、現代のファッションモデルよりもはるかに垢抜けている。
国家経済がきわめて好調だった当時のスペインにあって、年頃のテレサが、このような服を身につけていたと考えても、不自然さはないはずだ。