聖女テレサ・デ・アビラの祖父は、ファン・サンチェ
スとかいう名前のトレドの商人で、セペダ家という貴族
の家柄の娘と結婚した。彼は、ユダヤ教の教えを実践し
ていたかどで、
1485年に罰せられ、その後、家族ととも
にアビラへ移った。そこで彼は、トレドの異端審問所と
かかわりを持ったことがある程度知られていたにもかか
わらず、うまく、自分の子供をみな地方貴族と結婚させ
、また、服地と絹布を扱う商人として、非常に恵まれた
生涯を送ることができた。その後この一家は、商取引を
やめて地代の管理業務および収税請負業務に転じた。し
かも、聖女テレサの父親ドン・アロンソ・サンチェス・
デ・セペダは世間から、金持ちであるばかりでなく立派
な人物だという評判を得た。労働者の賃金が一日
1520
マラベディぐらい、一年に20ドゥカードであった時に、
彼の全財産は、
1507年に30万マラベディという巨額の負
債を差し引いても、
100万マラベディ(約3000ドゥカード)に達していた。
    (J.H.エリオット『スペイン帝国の興亡』、藤田一成訳
                                                岩波書店)

 ではテレサにとって何が問題であったのであろうか。J.H.エリオットは、彼女の血筋に問題があったのだと指摘する。

 スペインのセビーリャに異端審問所が教皇の命令で設置されたのが1480年。翌年には初の宗教裁判が始まり、6人のマラーノ(キリスト教に改宗したユダヤ人)が火炙りの刑に処せられた。14839月には、悪名高きトマス・トルケマダが初代大審問官に就任し、そして早々にファン・サンチェスも捕まってしまう。1481年から1485年までにスペインで700人以上のコンベルソ(改宗者)が火炙りとなり、5,000人以上が教会と和解したと報告されているから、ファン・サンチェスはその5,000人のうちの一人であったと思われる。

 このような場合に、火刑を逃れる方法は、

 1. 財産を異端審問所に提供する。かつ、

 2. 仲間のユダヤ人を密告する。

 3. そして、火刑を逃れた上は、市外に追放される。

ことであったらしいから、この定式通りにことは進み、
ファン・サンチェスは残った財産を持ってアヴィラに
移り、アヴィラで高利貸しを始めたと推定される。金
の借り手は貴族と王であり、彼等からとれる担保は地
代と税金であった。したがって彼の新しい職業は、表
向きは地代の管理業務ならびに収税請負業務となって
いるが、じつは高利貸しであった、と断じてもよいだ
ろう。

 その後、1492年にユダヤ教徒の国外追放が実施され、
16万人のユダヤ人が国外へ去り、引き続き、1496年に
隣国ポルトガルでもユダヤ教徒の国外追放令が発布さ
れた。

 歴史は、ローマ教皇の名の下に、1808年までの300
年間に、スペインで火炙りの刑に処せられた人の数が
合計
32,000人であったと報告する。(ハイム・バイナ
ルト『裁かれるコンベルソ』エルサレム、
1981

 こうしてユダヤ人の血を引いている人たちに対する締
め付けは、スペイン帝国の絶対王政が強固になる過程で
刻々と厳重になっていき、
16世紀の後半には「血の純潔」
がすべての社会的価値の出発点となるにいたる。

 J.H.エリオットは、このような環境が聖テレサの幼年
期をおののかせ、そしてこのような環境が彼女をして絶
対の神を求めさせた一因だ、と示唆しているように受け
取れる。

 なるほどそう考えてみると、アヴィラのテレサが、

 被圧迫者の意識を幼年時代に抱き、
 未来に対する救いのない展望を持ち、
 同じ殺されるなら、
 同じく被圧迫者であり、犠牲者の多発したモーロ人に殺され  よう

と考えて、6歳のとき、家出をしたという事実も納得できる気もする。

 しかし、J.H.エリオットが「なにゆえに?」と問うのであれば、じつはテレサこそ「なにゆえに?」と問い返すだろう。彼女の生きた大部分の時間の間、「わたしの生まれてきた意味はなにか? わたしはいったい何者か?」と彼女は問い続けたからだ。

ユ ダ ヤ 人 の 血 筋

画題:
El Gleco
“Cardinal Don Fernando Nino de Guevara
c.1600
Leo Bronstein
“El Greco”
Harry N Abrams, Inc. New York
The Metropolitan Museum of Art

トルケマダより118年後に、
セビリヤで「大審問官」に就任した。
大審問官のどこが、と問うと、
「手が怖い」のだそうだ。