以上5点を、テレサは恍惚の状態と内容だと記しているが、この状態については、比肩できる体験記は人間の歴史の上ではほかに見当らないように思われる。聖パウロ、聖アウグスティヌスをも含め、他のいずれの人間の到達範囲をも超えていると思われる。

 ただ、過去にさまざまな人たちが自らの体験に基く理論の構成を行ってきたわけだが、この恍惚体験は、他の人々の作り上げた理論の骨組みを変えさせるには充分な能力に欠けている、と思われる。

 言葉を換えると、この恍惚体験を経験しようがしまいが、彼女の申し述べる「一致の念祷」から導き出される結論を変えるにはいたらないのである。

 女性は陶酔を好むがゆえに、このような恍惚状態に男性よりも到達しやすい。実際、霊魂まで取り去られる例は、男性の場合にはほとんどない。

 にもかかわらず、筆者はこのテレサの恍惚状態につき、それは幻覚だと断定したり、それはありえないことだ、と否定したりすることはできない。かといって肯定もできない。肯定するにしては、証例が少なすぎる。後で量子力学の項で述べるが、ひょっとすると人間の精神には、第二次励起状態とでもいうべき状態が存在するのかもしれないのだ。いずれにしても、証明することは不可能のようである。

テ レ サ の 「恍 惚」

 彼女はさらに筆を続けて、この体験にははっきりと二つの段階があると指摘する。先に述べた「天的愛の一致」と「霊の高揚」であるが、後者は精神の集中度を極度に高めた場合に現れる状態で、彼女はこれを「恍惚」の状態と呼ぶのである。では、恍惚の状態とはどのような特徴があるのか、ここでまとめておくこととしよう。

(恍惚の身体的特徴)

 こういう恍惚状態にあっては、霊魂はもう肉体を生かしていないように思われます。体温が低下して、肉体は少しづつ冷えて行くのをたいへんはっきり感じますが、これについて非常な快さと喜びを覚えます。                (自20-3)

(魂が運び去られる)

 恍惚は、あまりにも激しく、急激に力強くおそいかかりますので、その雲、またはこの強い鷲が突如としてあらわれて、その翼の上に自分を運び去るのを、見、感じるのです。                                                           (自20-3)

(脱魂)

 その激しさは、あまりひどいので、私はたびたびこの恍惚に抵抗しようといたしました。……たびたび私は、全力をあげてこれに逆らいました。……時としては、いくらかこれを制することはできましたが、そのためには極度の疲労を支払わねばなりませんでした。……ほかの場合には、もうなんらの努力も不可能でした。私の霊魂は取り去られ、また私の頭までが、とどめるすべもなく、それに従って行くのでした。時としてはからだ全体までいっしょに運び去られ、もう地についていませんでした。                         (自20-4)

(恍惚には抵抗できない)

  私が恍惚に抵抗しようといたしました時、何に比べてよいかわからぬほど強大な力が、私を足もとから持ち上げるように思われました。その力は、私がお話した霊のほかの事柄におけるよりも、もっとずっと大きな激烈さで私を捕えました、それで私はそのためにすっかり疲れ果ててしまいました。なぜなら、それこそ恐ろしい戦闘ですから。そして神が、それを欲し給う時は、私どものあらゆる努力もたいして役に立ちません。神の力に対抗しうる力はありません。     (自20-6)

(恍惚が離脱の効果を促進する)

 恍惚のもうひとつの効果は、どう説明してよいかわからぬほどすばらしい離脱です。しかしこの恍惚は、霊魂だけに関するほかの恩寵といくつかの点で相違するということは言えるように思われます。これらの恩寵も霊魂内に被造物からの離脱を生じるとはいえ、恍惚の効果はさらにいっそう大きいものです。事実恍惚において聖主は、肉体自身も、わざによってこの離脱を表わすことをお欲(のぞ)みになるようで、その時、人は、この地上のすべてのことに対してまったく執着がなくなり、生活の荷がもっとずっとつらくなります。                                                                                                                               (自20-8)

画題:Gustav Klimt, "The Kiss"
        http://www.artmagick.com/images/paintings/klimt/klimt10.jpg

        「恍惚」のイメージはやはりクリムト か?