テ レ サ の 神 秘 体 験 A (3)

(三位一体)

 聖主は、次のお言葉を私にお聞かせくださいました。「わが娘(こ)よ、霊魂はわがうちに、より深く沈むために、自らを消滅するのである。生きているのは霊魂ではなく、われこそ霊魂のうちに生きているのである。霊魂は自分が把(とら)えているものを理解することができないので、それは把えつつも把えないということである」と。この恩寵を経験した者は、このみ言葉のなにかしらをつかむことでしょう。……私が言えることはただ、霊魂は自分が神に一致しているのを見るということと、この恩寵のあまりにも強い確実性が霊魂に残るため、霊魂はそれについて少しの疑いも持つことができないということです。                                  (自18-14)

   ここで初めてテレサは、自分の真意を吐露している。この体験で把握できる霊魂の本質は、霊魂が霊魂自身を対象として評価することはできぬから、断定は不可能だが、体験したことのある人なら理解していただけるだろう。それは霊魂が神と一致することなのであるから、これこそ聖霊の顕現なのだと。

   さらに彼女は後半の第二十七章で、このポイントを再説する。

 事実、霊魂は一瞬ですっかり学者になり、聖三位一体の奥義や、そのほかのきわめて崇高な奥義が、非常に明らかな光のうちに彼に示されますので、どんな神学者を向こうにまわしても、これらの偉大な真理を防御する勇気があります。                                                          (自27-9)

 ここでわれわれは、キリスト教の最奥義とされる三位一体論に逢着する。三位一体とは、天の座(ま)します神(父)と、人であるキリスト(子)、と聖霊の三者は一体であり、不可分であるという説であり、テレサはこの瞬間に、私の身体に内在する聖霊を、超越的認識方法で、「見た」、「確認した」と主張する。

 テレサのこの記述は、イグナチオ・デ・ロヨラの体験と同趣旨であり、この両者の信念が、当時のローマ教皇パウロ三世によって認知されているので、まず間違いがない。

 すなわちここで、
    神秘体験A = カトリックの「聖霊」
という公式が成立する。

(神の内在)
 わたしははじめのころ、神がすべての被造物のなかに実際にましますということを知りませんでした。それで私の霊魂にとって、このように深く親しく思えるご現存は不可能に思えました。いっぽう、そこに神がましますことを信じるのをやめることもできませんでした。なぜなら、私がはっきり悟ったと思っていたところによれば、神は、ほんとうにご自身、そこにおいでになるからでした。あまり学問のない人々は、神はただ恩恵によってだけそこにおいでになると私に申しました。けれども私は、彼等を信ずることができませんでした。なぜなら、繰り返して申しますが、私には神がおん自らそこにおいでになるように思われましたから。(自18-15)

 この体験(神秘体験A)を得た後は、通常の信者が考えるように、神は神のお恵みによってのみ、姿を現わす、とは考えることができないようになる。現実にその体験は、「神が私自身の体内に存在する」、と確信させる力をもっている、と彼女は述べる。

 西田幾多郎が純粋経験に到達したとき、その本質を「これは神だ」と言い切った事実を思い起こそう。神秘体験Aという現象は、洋の東西を問わず、「神の内在」を実感させてくれるもののようだ。

画像:
エル・グレコ
「聖三位一体」 1577/79頃
『プラド美術館』、
Scala Publications Ltd. 1988 

 父(神)と子(イエス・キリスト)と聖霊(白鳩)が公式通り描かれている。
 ルネサンス後期以降は白鳩はあまり描かれることがなくなったが、スペインでは、描かれ続けた