引き続く第十章7には、これらの体験を告白することによっ
て、テレサが将来蒙ることになるかもしれない事態につき、
悲痛な溜め息が漏らされる。

 もしもこの報告がよくなければ、私がこれをお送り申
し上げるそのかたが、お破りくださればよろしいのです。
彼は私よりも、もっとよくその血管を発(あば)くこと
がおできになりましょう。けれども私は、私の悪い生活
と罪とについて、ここまでお話してきたすべてを公にし
てくださるよう神の愛のため、彼に懇願いたします。も
ういまから、私は私のすべての聴罪師がた――この書が
あてられているかたもそのおひとりですが――に、まっ
たくの自由をさしあげます。もしも彼らがお望みなら、
いますぐ、私の存命中、そうなさってくださいませ。…
…私はいわば寸暇を盗んでこれを書いておりますが、そ
れでもなお心苦しい思いをしております。なぜなら、こ
の仕事のため糸紡ぎができません。しかも私は、貧しい
修院におり、用事は山のようにあるのです。もしも聖主
が私にもう少し才能と記憶力をくださっていましたら、
私は読んだり聞いたりしたことを有利に使うことができ
たでしょうに、私はごくわずかしかそういうものを持っ
ていません。                   (自10-7)

  この箇所については、注釈が必要だと思う。

 先述したように、カトリック教会は神の恩寵を七つの秘蹟を通じて
人間に注入する器官なのであるから、この教義に反して神と直接交流
するなどということは、見方によっては、教会の存在を軽んじ、無視
し、軽蔑することと同義であると解釈されかねない。

 教会の収入は10分の1税でしっかり取り上げているから、財政的に
は被害はないとはいうものの、「教会はもう必要ない」と主張する人
たちが輩出すれば、10分の1税の支払拒否運動が起こる可能性がある。
ましてや、当時のカトリック教会は10分の1税でも充分ならざる膨大
な資金需要を抱えていた。ミケランジェロの設計したサン・ピエトロ
寺院建設計画がそれであって、教会はその資金需要を充たすため、理
論的には辻褄の合わぬ免罪符まで売り出していた。

 このような背景があって、教会はきわめて神経質になっていた。教
会は、神と直接交流することができるとか、あるいは、神を直接自分
で見ることができる、と主張するいわゆる神秘主義者を徹底的に弾圧
してきたのである。

 例を挙げよう。

 フランシスコ修道会の修道女であったスペインのイサベル・
デ・ラ・クルスは1520年代にアルカラとトレドで活動していた。
彼女は神と霊が直接交感できると主張(照明派)したがゆえに、
1524年、異端審問所により逮捕され処罰された。

 霊魂も体操することができる、霊魂に体操させることにより
聖霊を見ることができると主張して、『霊操』という本を書い
た神秘家のイグナチオ・デ・ロヨラは1525年、アルカラで異端
審問所により尋問され、さらにその後、1538年、教皇パウロ三
世とローマで会見した後も、「異端である」と非難された。

 つまり、「神は果たして存在するのか」と質問すること自体
が、異端であるとして断罪されかねなかった時代であった。神
を自分の目で見ようと志した人が、そこに到達するやいなや、
(その宗教体験は、たしか聖パウロのそれと同一であり、聖ア
ウグスティヌスのそれとも同一であったはずなのに)異端審問
所のドアが待っている状態だったと言っても過言ではあるまい。


 こういうわけで、テレサも彼女の宗教経験(神秘体験A)に
到達するやいなや、ひどく怯えたのであった。ただ、彼女の基
本姿勢は、断罪されるなら、それでも結構。私は自分を信じる、
という自己信頼の姿勢であったことは、上述の記述のなかでお
読み取りいただけると思う。

 彼女にとって幸いであったことは、その当時カトリック教会
が、ルターに対抗すべき理論、反宗教改革の理論を求めていた
という背景があったことであろう。反宗教改革運動の旗頭と見
なされて、テレサは辛うじて危機を免れた。

テ レ サ の 怯 え

画題: ペドロ・ベルゲーテ
        「異端者の火刑を取り仕切る聖ドミニクス」1500頃(?)
        ホセ・アントニオ・デ・ウルビノ
        『プラド美術館』1988
         Scala Publications Ltd.

    この絵は、15世紀末に建てられたアヴィラ郊外のサント・
        トーマス僧院に飾られていた。
        この僧院が異端審問所として使われていたので、テレサも
        この絵には見覚えがあるはずだ。
    火刑に処する理由は、肉体を滅してしまい、最後の審判の
        際、霊との再結合を不可能にすることが目的だった。