したがって、谷口雅春は20歳、アウグスティヌスは17歳の時に身分の低い女性と関係を持った。二人とも易きに就いたのである。

 第二に、二人はともに意志薄弱の人間であった。雅春は23歳のときかと思われるが、自分の相手の女性が台湾芸者に売られていくのを、(そうしようと思えばできたのに)自らの意思で阻止しなかった。アウグスティヌスの場合は、30歳までぐずぐずと関係をひきのばし、その間に息子ができて成長していたにもかかわらず、母の意向で離別する。

 その結果、自蔑の念でさいなまれたのも同じなら、すぐさま別の女と一緒になったのも谷口雅春と同じ、ともに自分で耐えることのできなかった肉欲を自己の意思の結果であると考えずに、自己の内に巣食う(誰かの――多分アダムの)罪と考えたのも同じである。

 その後、多少自己反省し、きちがいのようになって修行した結果、神秘体験Aに到達したのも比較的遅く、雅春33歳(あるいは34歳)、アウグスティヌスは32歳のときであり、これまたよく似ている。

 到達した神秘体験Aを「神と対面した」と感じたのも同じなら、これを人間が到達できる唯一の神秘体験であると信じ込んだのも同一で、これらを総合するに考えようによっては二人とも意思薄弱者の成れの果て、現代語でいえば「当人はその当時心神耗弱(こうじゃく)の状態にあった。よって両名の個人責任を問うことなく、『無罪』」ということになるのかもしれない。

 要するに、二人とも口がうまくて、もっともらしい自叙伝を書いただけなのかもしれない。

 違いはただひとつ。雅春は神と対面して楽天的に喜び、自分の過去の罪を棚上げにしたが、アウグスティヌスはその後も永いこと気に病んだのである。

 ではアウグスティヌスはどうやって自分の罪を捨てたのか。いや、棚上げにすることができたのか。これを次に調べることとしよう。

ア ウ グ ス テ ィ ヌ ス と の 類 似 点

 谷口雅春の『生命の實相』の内容は、仏教と比較すれば珍奇なものかもしれない。だが、昭和4年の世界大恐慌後の混乱期から第二次大戦後の混乱期を通して、この本は読まれつづけた。神秘体験Aに立った物事の見方は、困窮にあえぎ、意識の行方の定まらぬ、ともすればくじけがちになる人たちを励ますことにとても効果があったのである。


 だからといって、『生命の實相』を読めば神秘体験Aが追体験できるものではない。だが、読むと「真実はきっとそうなのだ」と理解させ納得させてくれる力がこの本にはある。


 ところで、この谷口雅春とローマ時代のカトリックの聖人であるアウレリウス・アウグスティヌスは多くの点で似ている。世の中に輪廻転生というものがあるとすれば、谷口雅春はアウグスティヌスの
1500年後の生まれ変わりかもしれない。


 第一に、二人とも貧しい家の出で、学費は他家からの援助でまかなった。つまり精神的な「借り」の状態から出発した。精神的な「借り」の状態にあるのだから、篤志家の意図を汲み学業に専念すればよいものを、二人とも肉欲をコントロールすることができなかった。つまり、耐える精神の欠落した人間であった。

画題: 礒田湖龍斎 「橋上芸妓図」  
     安永年間(1772-81)後半 
     絹本著色 掛幅  No.MA.639
          ギメ美術館蔵
     平山郁夫、
     『秘蔵日本美術大観6 ギメ美術館』
     講談社、1994

     説明は不要であろう。

     世間は甘い誘惑で
     満ちているように見えるのだ。