谷口雅春は、明治261122日、現在の神戸に
生まれた。

 彼の生まれ育った当時の日本は、とても貧しい
時代であり、日本人の大部分は農奴に近い状態に
あった。日本の輸出産業は絹織物と陶器類に限定
されており、織り子の悲惨な生活を活写する女工
哀史が書かれた。人身売買が日常的に行われ、人
間の魂の尊厳という観念はまだ充分に確立されて
いなかった。

 父親は音吉、母親はつる。六人兄弟の次男であ
ったが、四歳のとき資産家の石津又一郎の家に養
子に出され、石津家の資産のおかげで早稲田大学
に進学することができた。

 明治46年夏、20歳のとき、彼が早稲田大学高等
予科(文科)在籍中のことであるが、ヒョンなき
っかけで
17歳の、こともあろうに前科もちの小娘

房江と同棲することになる。

 娘は妊娠、流産騒ぎをおこし、谷口雅春も親類間で鼻つまみ扱いされ、結局は警察沙汰となった。房江は親元の借金のかたとして台湾芸者として売り飛ばされてしまう。

 雅春は、大学ではつねに首席で特待生であったが、この事件をきっかけに中退せざるをえなくなり、大阪の摂津紡績で技術工として働くが、またしても二人の女性問題がからんで転落を続ける。

 この後の雅春の零落ぶりは『生命の實相、自伝篇』にくわしく書かれているが読むにたえない。

 彼は房江事件で社会的に深く傷つけられたが、彼の魂もまた、房江が台湾芸者として売り飛ばされることを阻止しえなかったことによる自己侮蔑によってひどく傷ついた。

 彼は魂の平安を求め、失われた自己の尊厳の回復を求め、地位も金もすべて投げ捨てて求道生活にはいる。最初は大本教、次に西田天香の一燈園、更に賀川豊彦等々。入手できる書物はすべて読み、魂を救ってくれそうな場所はすべて経験し、まるできちがいのようになって、彼の言葉を借りれば「聖フランシスのようになって」道を求める。

 そして大正132月、アメリカのフェウィック・ホルムスによる『心の創造活動の法則』を読み、「自我は拡散して無限我になる」黙想法を体得する。

この後、大正141月、ヴァキューム・オイル・カンパニーに翻訳係の仕事を探し出し、妻と娘の三人で神戸市御影町に転居したころ、大正14年か15年(昭和元年)のある日、33歳か、34歳のとき、彼はとうとう、そこに(神秘体験Aに)到達したのである。

谷 口 雅 春

画題: Pierre Puvis de Chavannes,
         "Le pauvre pecheur"  
         Musee d'Orsay, Paris
         高階秀爾『世界美術大全集』第24巻、
         小学館 1996

         貧困と惨めさと未来への不安。
         全ての人の出発点なのだが、
         働けど働けど働けど、
         明るい世界は開けない。
         
        この世界の持つ意味は一体なにか?
         と人は問う。