昭和12年2月7日の第一回の体験ののち、玉城康四郎は二回の
体験をするにいたった。そのときの記述を読んでおこう。
悩みは出発に戻って、さらに倍加し、ともかく座禅を続
け、手当たり次第に学んだ。それから一月ほど過ぎた頃で
あろうか、図書館の窓際の椅子にくつろいで、デカルトの
『方法叙説』を読みつづけ、コギト・エルゴ ・スム(我思
う故に我あり)に到ったとき、突然爆発した。同時に、古
桶の底が抜け落ちるように、身心のあくたもくたが脱落し
てしまった。なんだ、デカルトもそうだったのか、そうい
う思いに満たされた。
かれは23歳のとき見習士官で出征し、ダニーブ河畔で越
年した。そのある夜、焚火(たきび)の燃えるのを見てい
たとき、驚くべき学問の根底を発見したという。それから
九年のあいだそのことを暖めて、ついに『方法叙説』の執
筆となったのである。これは単なる思索の書ではなく、 全
力を傾けて書かれている。コギト・エルゴ・スムは、「我
思う」そのことが同時に「我あり」ということである。意
識と存在とが合致している。そのことに思い至ったとき、
私もまた、あくたもくたが脱落してしまったのである。
このときは、その体験は明らかにデカルトとつながって
いる。しかし最初の大爆発は、『十地経』の歓喜地(かん
ぎじ)に関わっていたかどうか、まったく分らない。無意
識のうちに依りかかる所があったのかもしれない。また、
この体験は、最初に比べると、ごく小さな爆発であるが、
体験そのものは同質である。そしてこの時もまた、数日の
うちに元の木阿弥に戻ってしまった。
(同上)
氏の体験された二回目の体験では、デカルトの体験との相似性
が指摘されているが、デカルトについては後にくわしく述べるの
で、ここでは措くとして、私たちの注目すべきポイントは上述の
ほかに、
9. (体験の繰り返し)
その神秘体験Aは、全く同じ内容をもって繰り返されること
が可能になるが、二回目以降は悦びの度合いは薄まる。
ことである。
写真: 「阿弥陀三尊来迎図」
鎌倉時代後期(14世紀)
絹本著色 掛幅
大英博物館蔵
平山郁夫
『秘蔵日本美術大観1大英博物館T』
講談社、1992
コギト・エルゴ・スムは阿弥陀の世界なのか?
玉城康四郎は「否」と答える。
仏道はコギトの先、遥かに先。
ではどのくらい先なのであろう?