昭和1227日の第一回の体験ののち、玉城康四郎は二回の
体験をするにいたった。そのときの記述を読んでおこう。



       悩みは出発に戻って、さらに倍加し、ともかく座禅を続
      け、手当たり次第に学んだ。それから一月ほど過ぎた頃で
      あろうか、図書館の窓際の椅子にくつろいで、デカルトの
      『方法叙説』を読みつづけ、コギト・エルゴ ・スム(我思
      う故に我あり)に到ったとき、突然爆発した。同時に、古
      桶の底が抜け落ちるように、身心のあくたもくたが脱落し
      てしまった。なんだ、デカルトもそうだったのか、そうい
      う思いに満たされた。



       かれは23歳のとき見習士官で出征し、ダニーブ河畔で越
      年した。そのある夜、焚火(たきび)の燃えるのを見てい
      たとき、驚くべき学問の根底を発見したという。それから
      九年のあいだそのことを暖めて、ついに『方法叙説』の執
      筆となったのである。これは単なる思索の書ではなく、 全
      力を傾けて書かれている。コギト・エルゴ・スムは、「我
      思う」そのことが同時に「我あり」ということである。
      識と存在とが合致
している。そのことに思い至ったとき、
      私もまた、あくたもくたが脱落してしまったのである。


       このときは、その体験は明らかにデカルトとつながって
      いる。しかし最初の大爆発は、『十地経』の歓喜地(かん
      ぎじ)に関わっていたかどうか、まったく分らない。無意
      識のうちに依りかかる所があったのかもしれない。また、
      この体験は、最初に比べると、ごく小さな爆発であるが、
      体験そのものは同質である。そしてこの時もまた、数日の
      うちに元の木阿弥に戻ってしまった。
                                                                                   (同上)



  氏の体験された二回目の体験では、デカルトの体験との相似性
が指摘されているが、デカルトについては後にくわしく述べるの
で、ここでは措くとして、私たちの注目すべきポイントは上述の
ほかに、



9. (体験の繰り返し)
  その神秘体験Aは、全く同じ内容をもって繰り返されること
    が可能になるが、二回目以降は悦びの度合いは薄まる。


ことである。


玉城康四郎の二回目のA体験

写真: 「阿弥陀三尊来迎図」
         
鎌倉時代後期(14世紀) 
         
絹本著色 掛幅
         
大英博物館蔵
     平山郁夫
          
『秘蔵日本美術大観1大英博物館T
         
講談社、1992

         コギト・エルゴ・スムは阿弥陀の世界なのか?
         玉城康四郎は「否」と答える。
         仏道はコギトの先、遥かに先。

         ではどのくらい先なのであろう?