玉城康四郎(たまきこうしろう)は東京大学の先生であった。仏教学と言ったらいいのだろうか。簡単にいうと、お経になにが書いてあるのか解読することが彼の仕事であった。

 われわれがお寺で読んだり聞いたりするお経は、読んでも聞いても意味がさっぱりわからない。それでも皆それなりにありがたがって、お布施を差し上げ、お経を読んでもらい、先祖の魂はこれで落ち着いたと感じるのであるから、言ってみればお経とは、現代人にとって一種の精神安定剤なのかもしれない。

 玉城康四郎は、漢訳のお経のさらに先の原典、梵語で書かれたお経を解読される方である。玄奘三蔵の現代版というところかもしれない。

 彼は大正4729日(西暦1915年)、熊本県熊本市に生まれた。父親は熊本で鉄道、製紙、製薬関係の事業をされていた事業家で、お母さんは製紙業者の家の出であった。熊本では名門の家柄に属する。家の宗教は代々浄土真宗であったから、小さいころからお経に親しまれたことになる。

 小さいころから秀才であった彼は、五高を経て、昭和15年東京帝国大学印度哲学梵文学科を卒業し、ただちに大学院に進み、昭和34年助教授、同39年教授となった。

 先生は東京大学を退職され齢80歳になられたとき、『仏道に学ぶ』と題された自叙伝を出版された。(『ダンマの顕現』大蔵出版、1995

 この自叙伝のなかから先生の経験された神秘体験Aのくだりを引用してみたい。時は昭和16年、先生が大学院一年を終了されようとしていたとき、印度哲学の先輩奥野源太郎氏について勉学されていたころのことで、先生は勉学の傍ら臨済宗円覚寺で接心(座禅のこと)を続けられていた。人生はいかにあるべきかについて、いろいろと悩まれていた。先生の言葉を借りれば、


 当時は、坐れば坐るほど身も心もへとへとになり、悩みは深くなるばかり、坐禅の外は何事も手に就かず、ただ悶々の日々を過ごすばかりであった。



 そのような或る日、それは突然に彼を襲った。


 ⇒ 玉城康四郎のA体験


 玉城康四郎は、昭和114月東京帝国大学の印度哲学仏教学科に入学し、パーリ語、サンスクリット語、チベット語を習得して仏教原典を読む勉強をし、引きつづき大学院に進学して約一年後、このような体験をした。

 彼は彼自身の「爆発」体験について、それが歓喜地であるのか、はたまた離垢地、発光地、?慧地、難勝地、現前地、遠行地、不動地、善慧地、法雲地のうちのいずれであるのか、少しも説明しなかった。きっと仏典にはこれらの諸段階につき正確な定義が記載されていないことが、その理由であるにちがいない。

 一方、私たちがこの体験記を読んで、このなかから汲み取れる神秘体験Aの特徴は次の通り整理できると思う。


 ⇒ 玉城康四郎のA体験の特徴


 さらに同氏の記述は続く。


 ⇒ 同氏の二回目のA体験


 このような神秘体験Aの客観的な記述はさておいて、彼がその体験のなかで見たものは何だったのだろうか。それは「肉眼で見えた」のではなくて、身体全体で感じられたもののようだが、具体的なイメージはどのようなものであったのだろうか。玉城康四郎氏も大変に表現しにくかったと見えて、その印象を散文詩の形で表現された。


 ⇒ Aの具体的なイメージ


 その内容は「生命」であり、「永遠」であり、「ことばで云い表せない一如感」であったことが読みとれる。

 この瞬間には、ジェームズが『心理学』のなかで述べたような連続的な「意識の流れ」は中断し、心はすべての意識を、天にも届けとばかり、まるで巨大な竜巻のごとく、強制的に巻き上げてしまう。

 この状態は、通常の心の状態とはあきらかに異なる特殊な心の動きと考えられるから、筆者がこれを神秘体験Aと名づけてもおかしくはないのではなかろうか。

玉 城 康 四 郎

写真: 「観音菩薩図」
         法隆寺金堂外陣旧壁画
         
7-8世紀
         『名宝日本の美術 第二巻 法隆寺』 
         小学館 昭和
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