話はかわるが、では、魂の深耕を行わない人、つまり神秘体験Aに
到達しない人たち、あるいは魂の深耕を行ったが神秘体験Aに到達し
なかった人たちは、どうなるのであろうか。

 プラトンは、『国家』のなかで次のように述べる。いわゆる「洞窟
の比喩」である。本文は第五章514A〜であるが、くだくだしいので簡
略法として、藤沢令夫『プラトンの哲学』(岩波新書)の該当の箇所
をそのまま引用させていただくこととしよう。


          地下深い暗闇の洞窟。奥底の壁(ab)に向かって、囚人たち
         (cd)が縛りつけられている。上方はるかのところに火(e)が
         燃えていて、その光が彼らのうしろから照らしている。火と
         囚人たちの間に衝立(ついたて)様の低い壁(fg)があり、そ
         の上(ij)をあらゆる種類の道具物品が、差し上げられて運ば
         れていて、その影の動きが火の光によって囚人たちの前の壁
         面に投影されている。

        囚人たちは、子供のときからずっと手足も首も縛られたま
       ま、動くことも、うしろを振り向くこともできずに、壁にう
       つる影しか見ることができないので、それら動物や器物の像
       の「影」を真実のものだと信じこんでいる。――「われわれ
       自身によく似た囚人たち」の姿。

        ――これが、「洞窟」の比喩の状況設定である。この比喩
       は三つの比喩(「太陽」「線分」「洞窟」)のなかで最もよ
       く知られていると思うので、これから先のテクストの記述―
       ―細かい一つ一つの点が示唆に富むのだが――を逐一追うの
       はやめて、私の訳文(岩波文庫『国家』下)に委ねることに
       する。

        要するに、あるとき囚人の一人が縛(いまし)めを解かれ
       て、目がくらむ苦渋に堪えながら洞窟内の急な登り道を力ず
       くで引っぱってゆかれ、外界の太陽の光のもとに連れ出され
       る。もちろん当初は、ぎらぎらとしたまばゆさで何一つ見え
       ない。目を慣らすために彼は、まず事物の影や水にうつる映
       像を、ついでその事物を直接見ることができるようになって
       から、天空に目を向ける。そして夜に月や星を見ることから
       始めて、しだいに目を慣らし、水などにうつった太陽の映像
       をへて、最後に太陽それ自体を観察できるようになる。

        そのとき、彼はすべての真相を知る――この太陽こそは、
       四季と年々の移り行きをもたらすもの、目に見える世界の一
       切を支配するもの、さらには自分が地下で見ていたすべての
       ものにとっても、その原因となっているものだ、と。

「洞 窟 の 比 喩」

画題:
Lucas Cranach the Elder,
"Stag Hunt of the Elector Frederick the Wise", 1529
ウィーン美術史美術館



普段は高台の
宮殿に居ます宮廷人が、
低地へ降りてきて
手慰みに鹿を追い回す。

犬をけしかけ、
馬で追いかけ、
船で行方を遮断して、
木蔭にひそみ弓を射る。

Nein, Danke !
と鹿が云う。

 政治の実態が、2,400年経った今でも、理想の哲人国
になっていないというのは、藤沢氏の考えるごとく「現
実が間違っている」からなのであろうか。

 2,400年もの間、プラトンのうち立てた理想政治が実現
しなかったのは、その間、人間が何も努力しなかった所
為であろうか。
  
  あるいは2,400年もの間、人間は向上のための思考を停
止したというのであろうか。

 2,400年の間、人間は金と名誉の泥沼に浸かったまま脱
出しようとする覇気を持たなかった、というのであろう
か。

  はたまた、プラトンの主張する人間像に、現実との整
合性が欠落していたことを意味するものであろうか。

 たとえば、「百年河清を俟つ」という中国の諺がある。
やっても無駄だ、ということの譬えとして使われている諺
なのだが、百年待っても黄河は清流になりえない。上流に
黄土の厖大な堆積のある黄河のほとりに暮らしている人た
ちが、たとえ百年河清を俟ったとしても、黄河の濁流が澄
んで清くなることはありえない。

 このような場合、百年を俟つまでもなく、人間はかなら
ずその理由を調べ始める。上流にはなにがあるのであろう
か、と。

 つまり、プラトンの主張するポイントは、


1. 人間は生まれたとき以来、洞窟の中に閉じこめられた囚人のよ
  うに理屈がわかっていない。(生れて以来、無明である。)

2. 人間の眼に映ずるものは真実ではなく、影ばかりなのだ。

3. しかも、それに気づいていない。

4. たまたま洞窟の外に連れ出された囚人だけが、真実を直接に眺
  めることができる。つまり、彼自身がそれまで洞窟の中に閉じ込
  められていたことも、初めて理解することができる。

5. だから、(この箇所には触れられていないが)努力して、瞑想
  して、真実在に到達した哲人だけが(理屈がわかっているのだか
  ら)、その真・善・美の究極の概念をもって政治にあたることが
  できる。それが理想なのだ。

……ということになる。



  読者にお尋ねするが、この記述をお読みいただいて、「おかしい
なあ」とは思われぬだろうか。貴方がたは(神秘体験Aに到達して
いないという、ただそれだけの理由で)「盲」だとか「囚人」だと
か名指しされ、しかも、貴方がたはそのゆえに政(まつりごと)を
行う資格に欠けている、と指摘されているのである。

 藤沢令夫は、ここに述べられたプラトンの思想が、現在も実現さ
れていないのは「遺憾」だと述懐されておられるが、現代のわれわ
れから判断すると、なんだかおかしい。