ここでは、『パイドロス』(プラトン全集5、藤沢令夫訳、岩波書
店)をテキストとして使用することとしよう。引用する箇所は246A、
「美について」である。


         そこで、魂の似すがたを、翼を持った一組の馬と、その
        手綱をとる翼を持った馭者とが、一体になってはたらく力
        であるというふうに、思いうかべよう。――神々の場合は、
        その馬と馭者とは、それ自身の性質も、またその血すじか
        らいっても、すべて善きものばかりであるが、神以外のも
        のにおいては、善いものと悪いものとがまじり合っている。
        そして、われわれ人間の場合、まず第一に、馭者が手綱を
        とるのは二頭の馬であること、しかもつぎに、彼の一頭の
        馬のほうは、資質も血すじも、美しく善い馬であるけれど
        も、もう一頭のほうは、資質も血すじも、これと反対の性
        格であること、これらの理由によって、われわれ人間にあ
        っては、馭者の仕事はどうしても困難となり、厄介なもの
        とならざるをえないのである。


 人間というものは、善のみを体現する神様ではないのだから、必
然的に善と悪とが入り交じった存在なのであることは読者もご了解
いただけるであろう。その混在のなかにあっては、魂は魂の本然
(ほんぜん)の性を見きわめることが出来ないものなのだ。また、
混沌のなかに在るときは、右へ向けばよいものやら、左へ向けばよ
いものやら、自分の進むべき方向性がつかめないものなのだ。だが
待ってくれ、魂には必ず翼がある……、とプラトンは力説する。


        そもそも、翼というものが本来もっている機能は、重きも
       のを、はるかな高み、神々の種族の棲(す)まうかたへと、
       翔(か)け上らせ、連れて行くことにあり、肉体にまつわる
       数々のものの中でも、翼こそは最も、神にゆかりある性質を
       分けもっている。


 人間の魂というのは、(貴方はそれを知っていないが)内在的な
指向性があるものなのだ。それは先天的な方向性というべきであろ
うか……、とプラトンは説明する。現実的な話をすれば、人間は自
らの魂をみつめることにより、魂を深く耕すことにより、瞑想する
ことにより、努力を重ねることにより、その方向性を把まえうる…
…、とプラトンは言っているのである。


        けれども、饗宴におもむき、聖餐(せいさん)にのぞむと
       きがくると、彼らは、天球のはてを支える穹窿(きゅうりゅ
       う)のきわまるところまで、けわしい路をおかしてのぼりつ
       める。神々の馬車は、馬たちの力がつり合い、手綱のさばき
       も容易であるから、この道程を足どり軽く進んで行く。だが、
       神以外のものの馬車にとっては、それは苦難多き道のりでは
       ある。ほかでもない、悪い性質をもつほうの馬が、馭者によ
       って立派に訓練されているのでないかぎり、地のほうに傾き、
       彼を下へと引くことによって、重荷となるからである。かく
       してこのとき、魂には、世にもはげしい労苦と抗争とが課せ
       られることになる。
                                                                                            (同上)


 魂の深耕をどんどん進める。先述の通り、人間は善と悪との混合
物なのであるから、悪との闘いが、非常な苦痛となって魂の上にの
しかかる。潰れそうになるのを必死になってこらえる。すると、


         不死と呼ばれるものの魂は、穹窿のきわまるところまで
        のぼりつめるや、天球の外側に進み出て、その背面上に立
        つ。回転する天球の運動は、そうして立った魂たちを乗せ
        てめぐりはこび、魂たちはその間に、天の世界を観照する。
                                                                                          (同上)


 必死の努力を続けたのち、われわれの魂は異次元の世界に突き抜け
る。その世界は、「美」と「知」と「善」の支配する世界である。玉
城康四郎の表現するごとく、


         不可思議なる光
         かってやぶれることのない
         厚い厚い疑惑の壁を
         うち抜いて噴きいずる
         聞光力よ


という次元の世界となり、また、林武の表現するごとく、


           杉林の樹幹が、
           天地を貫く大円柱となって
           僕に迫ってきた。
           それは畏怖を誘ふ実在の威厳であった。
           形容しがたい宇宙の柱であった。


……ということになる。

『パ イ ド ロ ス』 (1)

画題:ラファエロ「アテネの学校」
      (部分、プラトン−左側)
      『ヴァティカンにおける
           ミケランジェロとラファエロ』
    
 Monumenti, Musei e Gallerie Pontificie,
            1978

    ずっと後世になってラファエロが、
       ユリウス二世の要請にもとづいて
       描いたプラトンであるから、
       はたしてこの画像が、
       実在のプラトンを描写したのかどうかは疑問。