時は関が原の合戦より85年後、大阪の夏の陣より60年後、度重なる廃藩置藩、改易(かいえき)、転封(てんぽう)の措置によって、徳川幕府による中央集権体制はすでに確立していた。

 第五代将軍綱吉の時代だった。
 政治が安定すれば経済は発展する。
 新田開発が全国的規模で実行され、小農中心の集約的農業形態が確立し、穀物生産は安定した。
 手工業は都市で大発展した。
 商業も発展した。たとえば三井高利が松阪から出てきて、現金商いの越後屋呉服店が急成長した。
 商業規模が急成長した結果、貨幣流通量も急増し、金銀の絶対量が不足した。したがって金貨、銀貨の改鋳が実行された。
 住友友芳が別子銀山開坑の準備をした。

  文化も同時に花開いた。
  歌舞伎がはじまり、初代市川団十郎が荒事を始めた。
  花火の鍵屋が奈良から移住して、両国で花火大会が開かれるようになった。
  学問もまけてはいない。
  連立方程式を関孝和が発明した。
  宮崎安貞が農業全書を著し、農芸技術の普遍化に成功した。
  伊藤仁斎が朱子学をはなれ、町人としての孔孟古義学を樹立した。
 
  これらの現象の特徴として、幕府お抱えの学者を凌いで、民間の学者がリーダーシップを握った時代、といえるかもしれない。

白 隠 の 時 代

 衣食足りて礼節を知るというが、宗教も例外にもれず、貧窮に時代に魂の救済を求める時代は去っていた。隠れキリシタンは1664年を境として社会的勢力をうしなった。岐阜県の千光寺を拠点として12万体の仏像を彫り続けた円空は別格として、寺院は宗門改め人別帳作成を手伝った体制派の寺院活動と、現在の大学に似た知的活動の場としての寺院活動の二派に分かれていた。後者は、宗教の本質を自ら立証しようとする人間の集まりであり、白隠はこのグループのなかに飛び込んだのである。

 彼は、満14歳のときに出家して、彼の叔父が中興した臨済宗松蔭寺で単嶺(妙心寺霊雲派)によって得度した。このお寺は弘安年間(1278-88)の開基になる古刹なのだそうだが、とても貧弱なお寺であったようだ。

画題:伝 菱川師宣筆、「上野花見歌舞伎図屏風」
         元禄六年(1693)頃
         サントリー美術館 
         
         白隠は元禄時代に成長した。