白隠は、貞享(じょうきょう)二年、西暦1685年、駿州駿東(すんとう)郡原駅(現在の沼津市原)で生まれた。当時の東海道五十三次の第14番の宿場であった。

 父親は、沢瀉屋(おもだかや)長沢権右衛門。二女三男の末子として生れ、幼名を岩次郎と名付けられた。丑年丑月丑の日、丑の刻生れであったという。

 では、岩次郎の実家はなにをしていたのか。

白 隠 の 出 生

 沢瀉屋長沢家白隠の生家は、駅亭の長と記されているが、
宿屋兼民間の逓送を営んでいたのである。役所の逓送事業
は問屋が営んでいたのである。
         (町田瑞峰『白隠とその時代』沼津市歴史民族資料館、
                                                                 昭和58年)

   万治四年、西暦1661年頃に出版された浅井了意『東海道名所記』(朝倉治彦校注、東洋文庫)の注釈によれば、

 原、駿河国駿東郡原宿。いま沼津市内。慶長六年置駅。大塚町、原宿西町・東町をもって構成され、本陣一、脇本陣一、旅籠屋は大なく中小二種。問屋場は当初東西があったが、東の問屋場の焼失後、西のみにて運営された。

とあるから、白隠の実家は原宿の中規模の宿屋であり、副業として私設の郵便局を開設していたらしい。郵便局というよりも、飛脚溜まりのようなもので、たとえば、松阪在住の三井高利が江戸と京都に店を出している息子たちと手紙で連絡をとるときには、この飛脚溜まりを利用しなければならなかった、と考えたらよいかもしれない。

 とはいえ、貧弱な土地柄であった。『東海道名所記』によれば、

沼津より原まで一里半

    まかど町、すは町、松なが町、道中
   沙(すな)地にて、風のたつときハ。
   目もあかれず、まして、すなはらは、
   三里ゆけば二里もどるとかや。道ば
   かのゆかぬ者也。
    うなぎ嶋が原、猟師(れうし)おほき
   所也。うなぎのやきうり、芋餅(いも
   もち)あり。うなぎハ、川瀬にのぼる
   ものなれば、登魚梁(のぼりやな)と
   いふ物にてとる也。
……

原より吉原まで二り半

    道中一番のあしき所なり、馬、こと
    の外すくなし、こうこく寺の城、右に
    ミゆ
     うき嶋が原、こゝも名におふ名所
    也、足柄・富士よくミゆ。

画題:広重、「東海道五十三次」第14宿 原
        児玉幸多『東海道五十三次』
        第一法規出版(株)、昭和60年

と記されている。南は駿河湾、北は浮島(うきじま)原にはさまれた、細長い砂堆上に立地した街道で、浅井了意によれば、景色は素晴らしいが、東海道のなかでは最も悪い道だという。文面から見ると、どうやら鰻の蒲焼だけが名物であったらしい。『東海道名所記』より150年後に出版された十返舎一九の『東海道中膝栗毛二編』にも、弥二、北八両名が、三島でごまの灰に金を盗られたため、原宿では蕎麦しか喰えなかった。蒲焼はにおいだけ嗅いだ、と書かれている。

 どうもあまりいい土地ではなかったようだ。白隠の生れた土地は沼沢地の真中であり、周囲には耕作に適した田畑はなく、最寄の田圃は1615年元和元年に開発免許が与えられた一本松新田で、吉原に向かって原宿より二里もあった。

 東海道で往来は賑やかであったが、沼沢地であり、東海道ではもっとも小さい駅の、しかも中規模の旅籠であって、旅人は原で泊まるよりも吉原か三島で泊まることを好んだ。白隠の実家の暮らし向きは中流であったと想定されるが、末子に分けるほどの財産はなかったかもしれない。