管理人

日本人の多くは、日教組の反日自虐教育で、本当の日本と朝鮮半島の
歴史を知りません、私もそうでした、
なぜ日本の教育はこんな嘘の歴史を教えてきたのか?
理由は、戦後、反戦の気運が高まり、日本では、反戦のためには
日本が悪いことをした、日本=悪、という考えを、教育で植えつけさえすれば
日本は戦争を起こさないだろう、という考えからです、今もその実態は
変わりません、しかし嘘を教えることはよいのでしょうか?自分の思想を
植えつけるためには、嘘でもなんでもよしとすることがいいとは思えません
この本の作者は、元台湾人の黄さんです、この嘘でたらめな韓国側の歴史主張に
対し、真っ向から立ち向ったのは台湾人なんです
もし彼がいなかったら、おそらく
マスコミの反日、教育の自虐、韓国の謝罪と賠償請求の勢いは止まらず
今以上に日本は追い込まれていたでしょう、まさに日本は中国、韓国の奴隷状態
になっていたでしょう、以下は黄さんの本から抜粋したものです
詳細については
本を買って読んでください

 

 

韓国は日本人が作った  黄文雄

より抜粋

 

当時の世界情勢を見れば、清国はイギリス、フランス、などの列強に

蹂躙され、ロシアはアジアの権益を狙って南下する野望を抱いていた

朝鮮が衰退著しい清国の属国であり続ければ、やがて朝鮮半島も

列強の版図となり日本にもその脅威が及ぶことは必至だった

だが清国は、日本を仮想敵国と想定し、朝鮮半島の支配を宗属関係から

保護属邦関係へと強化、威嚇を繰り返した、そこで危機感を募らせた日本は

自国の存立のために朝鮮独立を画策し、そのために清国との対立が深まり

ついに戦争へと突入した、つまり日清戦争は

朝鮮半島をめぐる老大国、清国と新興国、日本の武力対決であった

 

中国と朝鮮の宗属関係が決定的になったのは、7世紀の統一新羅の時代からだ

新羅は唐の後押しで三国を統一することができた、そのため、当然ながら

新羅は属国として唐に忠誠を誓った、以後、朝鮮は中国歴代王朝の属国に

甘んじ続けた、中華帝国の千年属国であったのだ

 

 

明が清に滅ぼされた後、なおも明に忠誠を誓う両班は、ひそかに明と内通した

だが明の敗北が決定的になると、それからもとっとと手を引いて清国に帰順した

その清国も日清戦争に敗北したため、下関条約の規定で朝鮮の宗主権を放棄し

独立を認めることになった、そして朝鮮は「大韓帝国」と改称し、独立国家

となったのである、ここに朝鮮は、史上はじめて独自の年号を用いるようになった

 

 

朝鮮国王は、満州人の使節が来ると

みずから高官を従えて迎恩門まで歓迎に赴き敬意を表し

宴会を催し、芸を披露して接待しなければならなかった

太子は慕華館で勅使に酌の礼をするのが最大の役目だった

しかしこれだけ天朝に尽くした朝鮮だが、逆に朝鮮の朝貢使節が

北京もうでをする際は朝臣が出迎えの礼を受けるどころか

諸侯の礼さえ受けられない粗末な待遇だった

宿泊先も迎賓館などではなく、百菅と同じ粗末な宿である

そもそも、中国の属邦のなかでも朝鮮の地位はもっとも低く

下国のなかの下国であった、天朝の朝賀の席では

千官が赤色の礼服を着ていたのに対し

朝鮮の使臣だけは黒色の丸首の衣である

また琉球の使臣は籠に乗って宮邸に入るのに対し

朝鮮の使臣は籠に乗ることを禁じられていた、そして

李朝時代の臣民は、琉球以下の扱いを受けていたと嘆いている

いずれにしても、韓国人は、統一新羅の時代から

自ら事大主義であることを決め

属国に甘んじていく道を選んだ、そして朝鮮は

「礼記」にある「天子七廟、諸侯五廟」の規定を守り

天帝を祈ることを避けて五廟だけを祀ってきたのである

古礼に従って天帝を祀ることが再開されたのは

じつに統一新羅から1000余年も後のことである

日清戦争後の下関条約により、朝鮮が開放され独立を果たしたのは

1896年国王の高宗が大韓帝国の帝位に就いてからのことである

これこそ、朝鮮が中国の「礼儀の国」のくびきから解放された証であり

韓国が「千年属国」から解放され主権国家となった象徴である

 

 

日清戦争後、下関条約によって韓国は清国から独立した

しかしその後も朝鮮半島をめぐる日露の紛争は絶えなかった

これが日露戦争の一因ともなり1904年、日露戦争が起こり日本が勝利した

そして1904年の第一次、日露戦争後の第二次、第三次と三回にわたる

日韓協約が結ばれた

日韓協約を経て、大韓帝国は日本の保護国となり、1905年、日本はソウルに

統監府を設立して朝鮮の内政、外交を指導・監督することとなった

これを統監時代といい、韓国人は1910年の日韓合邦から終戦までを

日帝36年と呼ぶが、この日露戦争後の統監時代も

含めて日帝40年という場合もある

 

 

儒教

高麗朝を滅ぼして李朝を成立させた李成桂が、それまでの「尊仏崇武」政策を廃止して

「尊儒崇文」を国是とし「朱子学」を国学と定めた

かつて、高麗時代の半島は、敬虔な仏教国家であった

仏教は、キリストやイスラムより宗教色は薄い

仏教が隆盛した時代は、中国では南北朝時代から隋唐時代

朝鮮では高句麗、新羅、高麗時代

日本では奈良・平安時代であった

こうした仏教の隆盛により、中華では儒教が衰退の一途をたどった

そこで宋の時代になると、儒教に代わって「理気学」という新儒教が

唱えられるようになった

それを朱熹が集大成したものが朱子学である、この朱子学は、仏教が隆盛を過ぎる

と中華社会に定着し、元の時代になると公認されるようになった

やがて朱子学は朝鮮半島にも流れこみ、李朝朝鮮時代に国教化されたのである

 

 

このように、朱子学は李朝朝鮮に大きな影響を与えた

だが、朱子学は、君臣の大儀や、華夷の別を強調するだけの文化防衛の学であり

新味はまったくない、仏教の用語をもちいて

孔孟の学をただ注釈するにとどまったものである

そんなものを、李朝朝鮮はあたかも宝物のように拾い集め、廃仏涅釈、尊儒崇文を

国策として国教化したのだった、まるで、大国人がはき捨てた味のないチューイングガム

を、朝鮮人が拾い上げ再び口に入れて、租借しながら満足げにおいしいと言っている

ようなものだ、朱子学をいくら「大学」として扱ってもそこで主張しているのは

単なる君臣の大儀と衛正斥邪のみで、結局、朝鮮の自律性を妨げることにしかならなかった

 

ハングル

 

李朝の世宗は、ハングル文字を創出し、独自の文化を創り出そうとした

だが、せっかく創ったハングル文字でさえも

李朝時代には普及させることができなかった

なぜなら、李朝社会の中核にいたのは、あいかわらず両班で

彼らは中国の経史や四書五経を好み、決して韓国の経史などは

見向きもしなかったからである、このせいで

ハングルは婦女子の文字と蔑まれるにとどまったのだ

世宗のような独裁権力と独創性のある王がいても、独自の文化を

半島で根付かせることはできなかった

ハングルが一般化したのは、日帝36年の時代からである

 

 

儒教

高麗朝の朝鮮では、科挙制度に僧科が設けられていたほどの仏教国だった

しかし李成桂が高麗朝を簒奪した後は、仏教を廃して儒教を国教とする政策をとり

やがて絶滅した

さらに、これまで拝んでいた釈迦、観音、などに代わって、中国人の皇帝や

小説のなかの英雄も祀られた、たとえば三国志演義にでてくる関羽を祀る関帝廟が

各地に設けられた、その他、明の太祖、明の皇帝神宗、穀宗、蜀漢の昭烈帝劉備、張飛

諸葛孔明、らが各地で祀られ、大国人は、半島で神として拝まれることになった

 

 

 

韓国人は、日本が李朝朝鮮を滅ぼし、国王と国を奪ったと非難している

だが、李朝は腐敗が横行し、権力闘争が絶えない時代だった

国民に対する悪政が続き、内部崩壊が決定的となっていた

そこに日本が現れ瓦解寸前の李朝にとってかわったのである

李朝衰亡の要因は三政といわれる、これは「田政」「軍政」「還税」で

農民に対する奴隷制度だ

「還税」とは国営の高利貸しで、本来は利子なしで貸せるはずが、地方官吏

の不正と着服により利子がないはずの制度にかなり高い利子がつくようになった

たとえば、農民が1両借りれば、返済時には元金が3両にふくれ、さらに

利子が3銭つくといった有様で農民の生活は破綻した、地方官吏は、詐欺

賄賂、横領などさまざまな手段で農民を収奪していった、これが民乱の

一因になったといわれる

 

こうして腐敗と悪政に苦しめられた農民は、ついに団結して官庁を打ち壊し

両班の家を襲い、獄門を開いて囚人を解き放ち、租税、軍布、還穀の

帳簿を燃やす一揆が続いた、東学党の乱がこの一揆を象徴している

梁啓超によれば、朝鮮亡国の二大要因は、大院君と高宗の二人にある

高宗は優柔不断、ミンピという悪女に操られた

 

 

このように500余年にわたる李朝史には、王位、世子、王妃、外戚、権臣、土林をめぐる

簒奪、土禍、朋党の争いなど、残虐な抗争が絶え間なくおこっていた

韓国人に歴史問題をつきつけられてる日本人は、このような半島の歴史を

知るべきである、このような歴史も知らずに

教科書問題をはじめとする韓国人のクレームに日本人はただただ

反省と謝罪を繰り返すのみである

 

 

裏切りと虐殺しかない韓国社会の病巣

フランス人神父ダレは、著書「朝鮮事情」のなかで、朝鮮人について

50人が陰謀を持っていれば、そのうち49人から漏れる」という

形容をした、朝鮮人をよく観察した記述である、半島の歴史は、じつに

裏切りと抗争の歴史である

 

 

北京朝廷が漢城(ソウル)からかなり離れているからといって、李朝朝廷内の

ことが漏れないと思ったら大間違いだ、逆に、ほんの小さなことでも、すぐに

北京朝廷に届くようになっている、李朝朝廷内の裏切りと不正のためである

たとえば、明から清へと、宗主国を乗り換えた当初、廷臣のなかにはなおも

明を信じる頑迷な朱子学者がいたが、さっさと清に乗り換えた廷臣は

それをわざわざ北京朝廷に密告する、政敵が北京に問罪されれば、こんな楽な

政敵打倒方はない

豊臣秀吉の朝鮮出兵当事も、北部へ出奔した王子をかくまうどころか

逆に加藤清正の陣営に献上する官吏がいた

 

 

かつて中国の人民解放軍は、鴨緑江を渡り朝鮮半島の北から南までをくまなく蹂躙した

これは、今日の分断国家を固定させた原因のひとつでもある、このときの

韓人の犠牲者は、日帝36年の比ではない、それなのに現在の韓国人はこれを不問にし

ただ日帝時代を問うている

朝鮮戦争の推定死傷者は、500万人にも達したと言われている

朝鮮半島のイデオロギーを問う自国民族同士の戦争でこの死者数だ

日帝時代の反日運動の犠牲者は、多く見積もっても1万人以下である

半島の人口は日帝36年の間に大きく増加している、自民族

同士の殺し合いにはなぜ触れないのだろうか?

韓国建国後、李承晩政権をはじめとする国内政争や謎の事件によって

多くの韓国人が虐殺されていった

李承晩政権時代だけでも日帝時代とは比べものにならないほどの虐殺が行われている

民衆は、自国政府の官憲に殺されたのだ

済州島で起こった「43事件」では、3万人が虐殺された

1951年の「居昌事件」では「良民虐殺事件処理特別措置法」までが制定されたほど

死者が出た、国会調査委員会の調査によれば、8500余人とある

1951年の国民防衛軍事件」では、10万人が虐殺され

100万人の第二国民兵は飢えと疫病に追い込まれた

朝鮮戦争時に起きた、国民保導連盟事件では、30万人が虐殺され、3000余人が負傷した

これ以外にも政敵の暗殺、処刑、強制連行、不正選挙などが行われた

これに比べれば、日帝36年がいかに平和で幸せであったかがうかがわれる

 

 

1990年以降、日本は経済不振にあえぎながら、現在でも世界有数の経済大国であり

世界最高水準の科学技術を持っている、ODA援助では、世界1を誇る援助大国でもある

にもかかわらず、日本はODAの最大受恵国である中国から、教科書検定、採択

靖国問題をはじめ、憲法、安保、司法など、あらゆる干渉を受けている

このような干渉は中国だけではない、日韓合邦以来、資本と技術をずっと提供

して国造りをささえてきた韓国からも受けている、本来、中韓がいちいち

口を出す教科書問題や靖国問題などは、すべて日本の国内問題であり

日本の堅い決意ひとつで解決するはずだ、ところがそれらは、中韓に

外交問題だと決めつけられ、これに対して日本は受け入れ、対処に

右往左往してしまっている、中韓の身勝手な内政干渉を、文句ひとつなく

ただ甘受してきたのだ

これこそ戦後日本の最大の堕落だろう、なぜ日本は宗主国でもない中国の指導

管理、監督を黙って受け入れ、戦々恐々としているのだろうか、その理由は

中韓の捏造した歴史に同調してばかりで、史実に基づく正しい歴史を検証しない

ところにも一因はある

 

かつて、駐韓外交官を務めたこともあるアメリカの朝鮮史家グレゴリー

ヘンダーソンは、こう言っている

「李朝は、もはや経済的破産と崩壊の寸前であった、すでに軍事力はほとんどなく

政権の分裂と内紛で行政はマヒ状態となり

慢性的百姓一揆の気運に脅かされていた」

まさに19世紀の李朝は、どこかの国から買収合併を受けるか

どこかの国の属国になる以外、財政を維持する資金はなかった

そうはいっても列強から借款する

ため外国の抵当にできるような鉱山や土地といった資源はほとんどなかった

1000年以来の宗主国であった中国も、半島以上に財政が逼迫しており

半島からしぼれるだけしぼって面倒をみてやる場合ではない

そこで日本が助け舟を差し出したのである、崩壊寸前の韓国をもらい受け

年間20%の歳出を補填しながら、半島の民生をはかったのだ

 

 

李朝末期、朝鮮は独自の軍をもたずせいぜい武装警察の程度であった

李朝は内乱があると紛争の平定を清国に頼っていた、国家安全まで

他力本願だった

東学党の乱当時、李朝を統治していたのが清国である

日本はこの反乱平定のため無通告出兵をした清国に対して、天津条約違反だと

いう理由で清国と開戦したのであって、東学党との交戦はほとんどない

しかし朝鮮では日本軍が30万人殺したとでたらめが主張されてる

 

 

東学党の乱は、半島史上最大の農民反乱であったことは確かだ

しかしそれは日本に対する反乱ではなく、李朝とその宗主国・清朝に対する蜂起であった

反乱は、日本軍が朝鮮半島に上陸する前に、すでに清軍にによって平定されていた

日本政府はこのとき「居留民保護」というよりも清政府の条約違反を口実にして

朝鮮出兵し、日清戦争となった、もちろん、東学党と日本軍の小競り合いはあっただろうが、日本の目的はあくまでも清国であった

 

 

90年代に入って、朝鮮人と中国人だけでなく、台湾人の強制連行までもが話題となった

韓国の東亜日報には、神奈川県で台湾少年工8000名が、軍需工場で強制労働させられて

いたことが明らかになり、さらには台湾の子供までもが連行され、酷使されたたとした

いかにも韓国の有力紙が喜んで飛びついてくる話題である

戦争末期の台湾少年工8000人は、戦後も「高座会」をつくって「同期のサクラ」

よろしく、現在も日本人の戦友たちと交流がつづいている、日本で1000人単位の大会

を開いて旧交を温めているのだ、こんなことは韓国人には想像もつかないことだろう

台湾少年工は、大学入試のように厳しい学科試験を受け、身体検査に合格して、さらに

校長先生と父母の許可を得てからはじめて日本に来られたのだ、彼らは、今でもそれを

誇りにしている、あれほど厳しい競争を経て日本に来て、知り合った同期として

旧交を保ち続けている、いくら戦時中であっても、日本は中国とは違って法治国家である

中国のような人さらい、あるいは大航海時代以降の西洋人がやったような奴隷狩りは

日本人にはできない

 

 

アーソン・グレプストの「悲劇の朝鮮」にはこう書かれている

「朝鮮はきわめて盗賊の多い国家で城塞(ソウル)の外で夜を過ごすことは

大変危険だった、ソウルの外廊には人命をハエの命にも思わぬ山賊やならず者で

あふれていた

 

日本が植えつけた、法治国家の概念

李朝時代の制度に違反した者は、五家作統法(五戸相互監視)連座法、全戸徒辺法

圧膝、周牢、乱杖などの残虐な刑罰と、前近代的な律令によってがんじがらめにされていた、ことに連座弩戟法は、三族まで誅殺されるという刑である、朝鮮総督府は

こういった前近代的刑罰を排除しようとした、財政破綻や官僚腐敗などの病巣を

取り除くために、階級制度による身分差別の撤廃、公私奴婢の廃止と解放

女性再婚の自由、答刑の廃止、一族まで罪人連座法の廃止など、徹底的にメスを

入れた、そして、法治社会の確立、個人の独立、人権の尊重など近代的法治国家

の概念を植えつけようとした

おかげで、分断後の韓国の近代化の基礎を築いた

 

李朝末期の監獄で行われた、刑罰や処刑の残酷さについては、グレプスト

にこんな記述がある

「こんな状況がまだこの地球の片隅に残されていることは、人間存在そのもの

への挑戦である、とりわけ、私たちキリスト教徒がいっそう恥じるべきは

異教徒の日本人が朝鮮を手中にすれば真っ先にこのような拷問を廃止するだろうという

点だ

 

韓国にある、もっとも恐ろしい前近代的な刑罰は

「窃盗犯はみな被害者の奴婢になる」というものだった

姦通罪も奴婢に落とされる刑罰である、こうして李朝時代は、不足しがちな

奴婢を大量生産しそれを高官に下賜していた

人類史を見ると、奴婢の供給源としてはたいていは戦争によって敗れた側の

民族を充てることが多い、しかし、朝鮮は有史以来1000回以上も侵略され

すべてを撃退したと自慢しているにも係らず、奴婢に充てるような侵略者の捕虜

はいない、、逆に朝鮮人は唐の時代からずっと中華帝国に強制連行され、奴婢にされる

ばかりであった、ことに、丙子胡乱のときは、50万人以上、あるいは人口の半分が

強制連行され、奴隷にされた、当時の瀋陽では、朝鮮人奴隷の「人市」が大繁盛

したと言われるほどだった

このころの、満蒙八旗軍に強制連行された朝鮮人に関する古典の記述によると

「北方へ強制連行された朝鮮人はおとなしく、あまり抵抗せず、逃げもしなかった

数百人単位で行進させられ、その後を二人の胡人(モンゴル人と満州人)が

ついていくだけでよかった、あたかも牧童がおとなしい羊の群れを追いたてているようだ」

とある

李朝は、民衆を奴隷に取られるだけで、外族から奴婢を得ることができなかったため

奴隷方によって大量の奴隷を拡大再生産し、階級社会を維持していた、人命の尊重も

人格の尊厳もまったくなかった人治社会の朝鮮、日本はそこに法治というメスを入れ

みごとに手術に成功したのである

 

 

不潔

草賊、匪賊の出没で、ソウル以外の宿は極めて危険という治安の問題だけでなく

首都ソウルでさえ非常に不潔であった、当時の洋夷の目から見ても

日本人から見ても、日清戦争前のソウルは世界1不潔な都市だったという

細井肇にはこう記述している

「韓国内地を旅行すれば、路傍や街路中に累々たる黄金の花が狼藉と咲き乱れ

足の踏み場もなく臭気に驚くのだ、真の帝都とされて居る程で、至る処

人糞或いは牛馬糞を見ざる無で、芬芬たる臭気は鼻を襲ひ眼を顰めぬ者

とてはない、そこで京城市内を流れて居る川の如き各戸より、俳拙する糞尿

を混じ、其の水は一種の黄色を帯び、ドロドロとなって居るなど、実に

眼も当てられぬ光景で、洗濯などに遣っている、毎年、夏期になると

伝染病が流行し、其の伝染病にかかる患者の多くは韓人で、非常なる

大流行を極め、何千人を驚かすは珍しくない

氏は、京城の糞は、煙管、しらみ、キーセン、虎、豚、蠅、などとともに

韓国の七大名物として取り上げている、また世界1の糞の国だと称し

その糞を処理するのは犬と豚であるとも言っている

当時、半島を旅したビショップ夫人の「30年前の朝鮮」によれば

「ソウルは汚いことと臭いことでは世界1だったという

また、「市民は地上に瓦またはワラを並べた1階屋の下に潜り込んで生活している

いや、不潔な道路に蠢動していると形容したほうがいいだろうか、その道路は

広くても二頭の馬が並ぶほどではない、道端には悪臭がプンプンとする

溝があり、路面は埃まみれの半裸体の子供と猛悪な犬とによって占領されている

下水道は、市中の汚水を夜に昼に絶えず城外へ俳拙している、そのため、下水道

の泥は真っ黒で、幾世の昔からの濁水によって染められ悪臭を空中に放散して

旅人を悩ましている

 

 

疫病

李朝では疫病が大流行した、その原因の一つに李時珍の不朽の名作「本草綱目」からの影響もあった、そこには人を殺して人肉や肝胆で治療するという漢方医療が書いてあった

人を殺して内臓をえぐって、疫病を治療するという漢方療法や民間療法、あるいは

人間を捕獲して内臓を売る盗賊の暗躍は、諸古典の記録のなかにも散見できる

韓国の医療史や疫病史を見ると、たいていは巫女をはじめ迷信によって治療を行って

いた、グレブストの「悲劇の朝鮮」では、牛糞を塗る、蛙を3匹生きたまま丸呑みする

焼いた犬の足を4本食べる、じっくり沸かしたお湯に40歳の女性の髪の毛を入れて飲む

こういった民間療法は数千年変わっていなかった

大韓帝国の最後の皇太子の后、純明皇后ははじめ、腹が腫れた病気にかかり、女医に

診てもらったところご懐妊との診断であった、女医たちは高宗から褒美をもらったが

間もなく大変なことになると察知して逃げてしまった、妊娠ではないとわかった高宗も

あわてて韓国一の名医に診てもらった

診断は妃の腹に悪霊がすみついたというものだ

医者の指示で、城門の戸板をはがして煎じて妃に飲ませたがその数日後

妃はあえなく逝去した、韓国最高の

名医でさえこの有様である、日帝36年がこの忌まわしい生態系をかえ、飢餓と疫病

の悪循環を根源から断ち切ったのだ、

そんな朝鮮に本格的に近代医学制度が導入されたのは朝鮮総督府の時代からである

総督府が設立した大韓医院は朝鮮半島の近代医学の中心的存在となった

各開港都市と国境都市は厳しい防疫、検疫を実施し、疫病の侵入防止に取り組み

コレラ、天然痘、ペストなどの大流行はなくなり、乳児の死亡率は激減した

その後、地方の医療制度は順次確立され、医師の養成と疫病の防止に全力が注がれた

さらに、1505万円の下賜金から済生会がつくられ、李朝以来存続していた階級制度

の廃止とともに、各道から市町村に至るまで医療制度が整備されていった

賎民も国民として、近代医療の恩恵を受けられるようになった

30年代に入ると、近代医療制度の確立と普及によって、中国大陸から襲来してくる

疫病を完全に食い止められるようになっていた、飢饉による餓死と、疫病による

大量の死亡者を出していた中国大陸とは、天国と地獄ほどの隔世の感があった

ことにインド、中国から朝鮮半島をわたって猛威をふるっていたハンセン病には

徹底して対処し、6000人以上を収容できる小鹿島更正園は世界的に有名になった

日帝36年は近代医学による衛生、環境の改善と疫病の撲滅によって、朝鮮半島の

生命保全、韓民族の繁栄に大きく貢献したのである

 

 

ハングル

朝鮮半島でようやく独自の文字が考案されたのは、李朝朝鮮の世宗25年、1443

である、時の国王世宗により考案された、韓国は文明国のなかでも独自の文字創出が

もっとも遅かったこともあり、世界各国の文字を参考にした、なぜ朝鮮だけが

独自の民族文字を作るのに、こんなに時間がかかったのだろうか、それは千年属国

の伝統を墨守し、事大主義に徹していたため、創作性に欠けてしまったからだ

また中華帝国の誤解や嫌疑を避けるためでもあった、ところがせっかくハングルが

作られたものの、公文書は相変わらず漢文で書かれていた、例によってそれは

朝鮮人の事大であり、宗主国への遠慮であった、実際、世宗がハングルを作った

ときには、両班から猛反対が起った、ある両班は、我々は中国を宗主国として

仰いでいるのだから、新しい文字を作ることは中国からしてみれば謀反であり

怒りを買う恐れがあると語っている、結局、ハングルは婦女子専用で、無学な

庶民が用いる「諺文」と呼ばれ、主に仏教や経書の解説書、散文、小説、農書

婦女子の私文書などに用いられただけだった、なんとハングルが正式に

使用されたのは400年後で、その間漢字の代用文字として蔑まれてきた

 

 

こうして、世宗がせっかく創ったハングルだったが、諺文庁などに所蔵され

ていた諺文口訣は、第10代の燕山君によってことごとく焼き払われた

さらに、1504年学問の府であった城均館が遊湯の場とされてしまい、ハングルの

教授と学習が禁止された、このように、燕山君の時代になると、正音書籍を燃やし

ハングル使用を厳禁とした

 

ビジョップ夫人も、韓国人のハングル蔑視について「朝鮮人は自分の固有の

ハングル文字を軽視して、中国文字である漢字のみをただひたすら尊重する

おかしな国民である」と指摘している

 

 

ハングルを使いはじめたのは福沢諭吉

韓国では、19世紀末から漢字・ハングル混じりの文章体系を使用しはじめた

これはもともと福沢諭吉が提案したものである、それが初めて使われたのは

日本で鋳造したハングル活字を使って印刷された1886年の漢城週報という

新聞であった、そして、その後は近代学校教育に組み込まれて、一般的に

普及するようになったのである、だから、韓国人が日帝36年で国語を奪われた

というのはまったくのでたらめにすぎない、そもそも、自らのオリジナル文字である

ハングルをないがしろにしてきたのは、朝鮮人である

 

 

本格的な「朝鮮語辞典」は1911年から1920年の至るまでに朝鮮総督府によって

完成された、その後朝鮮人が自らはじめて字典をつくったのは1939年、文世栄の

朝鮮語字典である

 

 

日本が考案した漢字・ハングル混じり文

日韓合邦後、金沢庄三郎と小倉進平の両博士を中心とする日本人学者たちは

近代朝鮮語の表記を科学的に体系化し、言語として完成させた、小倉博士によれば

朝鮮が清国の文化から離脱し、独自性を強調するために国学、国文の使用を鼓吹し

ハングルを奨励しはじめたのは、1897年の日清戦争後からで、朝鮮が大韓帝国

として清から独立してからであった、このときはじめて公文書での漢文の使用を

やめ、漢字・ハングル混じりの新訂国文を交付し、使用を奨励することとなった

 

ハングルが韓国の全国民に教えられはじめたのは、1910年の日韓合邦以降である

 

 

 

80%以上が創氏改名したという事実

日帝の韓人に対する創氏改名への非難については、時代背景がまったく

考慮されていない、忘れてはならないのは、当時の欧米植民地下にあった

アジア諸国にとって、日本の存在とは、忌み嫌うどころかあこがれの的だったのである

 

戦前はいくら反日、抗日、反帝をスローガンに掲げている小国、弱小民族でも、とにかく

強くなろう、強国になろうと賢明になっていた、根強い富国強兵志向を持ち、日本のような、強い国を目指していたのだ、もちろん、当の日本人たちも日本が強いことに誇りを

持っており、今の自虐的日本人とは違っていた

 

 

 

日韓合邦当時、満州には、約150万の朝鮮人がいた、彼らは、絶えず漢人から圧迫され

搾取され、農奴に近い生活を強いられていた、やがて朝鮮人狩が起こる、朝鮮人をもっとも嫌ったのは張作霖で、「満州には朝鮮人をひとりも入れさせない」と息巻いていたほどだ

このような歴史背景下で、朝鮮人にとって唯一の救いは、当時五強のひとつであった

大日本帝国の臣民となることだった、唯一、中国人に対こうできる切り札であったため

朝鮮人たちはすすんで創氏改名を強く要求したのである、日本こそが、朝鮮人にとって

の誇りであり、中国人の跋扈に対こうできるただひとつの手段であった

 

在満朝鮮人を圧迫から解放した皇軍

だから満州事変以後、関東軍が関東州から北上してきたのをもっとも喜んだのは

朝鮮人だった、彼らはいたるところで日章旗を掲げ、関東軍を歓迎し、日本人

として集った、日本人になれば悪人にいじめられることもない、満州事変以後は

農民だけでなく反日ゲリラもつぎつぎと武器を棄て日本側へと転向した

 

 

在満朝鮮人の「帝国臣民」としての法的地位要求に対して、当時の朝鮮総督府外事課長

の田中武男は、次のような警告をしている「在満鮮人が、日本国民たる特権のみをふりかざし、驕慢な態度に出、自重を欠き謙譲を失い、不遜暴慢をもって本来の満州国人や

その他との間に紛争を引き起こし、ためにその非難忌避の対象となること甚だ多き

韓国人は一度優越意識に浸るとその自信はどこまでも増長するようだ

 

 

韓国は国王を頂点として、、王族、両班、中人、常民、賤民、の順に成り立っていた

形式的は、李朝の国王が立法、司法、行政、軍事などすべての権力を独占していた

ことになっているが、実際は党争に勝った士林や両班の集団が、国王の名をかりて

暴虐な悪政を敷いていた

常民は平民のことで、良民とも呼ばれた、賤民はいくつもの階級にわかれてて

その最下層が白丁であった、この階級同士の差別が激しく、トラブルが絶えなかった

白丁という身分は忌み嫌われ、殺しても罪に問われない差別された存在だった

このときのスローガンは公平、階級打破「白丁だって人間だ」であった、しかし

彼らに同情して共に階級闘争を繰り広げた一部知識人たちまでもが新白丁と呼ばれ

攻撃される結果となってしまった、これ以後も農民は白丁の集落を襲撃、放火して

家屋を壊し、白丁差別を堅持した

李朝の権力構造は、国王を頂点の下の専制王制で、日本の伝統的士農工商とも違い

東アジアでは見られない、もっとも頑強な階級社会、差別社会だ

 

李朝末期には、奴婢のなかにさらに公賤と私賤の区別が生じた、私賤になるのは婦女子

がほとんどで、読んで字のごとく個人が囲う奴隷で、彼女らは、日韓合邦当時に至っても

一人30円で売買されており、その価格はアメリカの奴隷よりも安かった

婦女子の奴隷は、特定の夫を持たず主人に属していた、また、主人も一人ではなく

何人かの間を渡り歩くのが風習であった、彼女たちが子供を生んだ場合は、主人の

所有物とされ、子供も奴婢として転売された、子供が女子であれば、私賤として

売買されやすいため、その家系は永遠に奴婢の身分から抜け出すことはできなかった

李朝時代の奴婢たちは、賤民というよりも家畜といったほうが近いほどの扱いを受けていた、現在も朝鮮人には、この階級意識は根強く残っている

韓国人は間違いなく世界でもっとも階級差別や人種差別をする民族である

 

韓国は、南アフリカのアパルトヘイト以上の人種差別国家である、ことに在韓中国系

朝鮮人と在日朝鮮人に対する差別はすでに多くの書物で告発されている

在米韓国人は、黒人とヒスパニック系を差別する、1992年のロサンゼルス暴動で

韓国人商店の焼き討ち事件が起こったのも、この差別と関係している、韓国のマスコミは

それを韓国人の成功に対する妬みとして取り上げた、そして、生活レベルの低い黒人の

嫉妬だと論じた、まったく自己本位で自民族の優越意識や人種差別意識から

一歩も抜け出していない

韓国人の差別意識により、韓国にチャイナタウンはない

 

 

在日韓国朝鮮人は、ややもすれば指紋押捺などの問題を、針小棒大に取り上げて

反日キャンペーンに狂ほんした

では、祖国における在韓外国人への指紋押捺の強制、人種差別、人権蹂躙などの

犯罪行為は、いったいどう釈明するのか、さらに韓国知識人たちは

あまりにも反日、克日に夢中になっており、韓民族の人種差別への狂奔を

自己抑制する理性を失った、韓国人は、日本人が韓国人を差別したと非難しながらも

逆に小中華として日本人を蔑視する倭奴やチョッパリ呼ばわりするのもそのためだ

しかしもっとも恐れるべきは、相手が苦境に直面した際に韓国がよく見せる

火事場泥棒根性だ

 

 

台湾との関係

21世紀は韓国人の世紀、などとのぼせあがっているとき、重いもかけず金融が崩壊し

IMFの管理下に入ることとなってしまった、その後、日本に過去の謝罪と反省を迫り

ながら、高圧的な態度で30億ドルの借款を約束させた

さらに、台湾にも100億ドルの借款を打診した、そして

これは国家関係改善であるなどと、都合のいいことを言った

台湾には韓国に対する借りはほとんどない、逆に貸しがある、1963

韓国がはじめて経済開発5ヵ年計画を開始したときも、真っ先に資金援助した

だが、1992年の中国韓国国交樹立にともなう台韓断交直前

「台湾とは断交しない」と甘言を弄し、国際市場で人気がなく売れなかった韓国車を

5万台も台湾政府に無理やり買わせると、その直後に台湾との断交を発表するという

非道を働いた

断交後はさらにエスカレートし、アジアスポーツ大会の主催国争いにおいて

台湾が韓国に権利を譲らなければ大会から追放すると恫喝した

国際会議で「台湾は国家ではないから参加させない」と

台湾の大学生を締め出したこともあった、

ことに台湾史上初の総統直接選挙前夜、中国がミサイルで威嚇してきたときは

韓国の台湾叩きはいっそう激化した、このように韓国の小国に対するいじめは

かなり徹底している

もともと韓国と台湾の関係はそれほど悪くはなかった、かつて、韓国人の台湾留学生

1000人を超え、台湾外国人留学生の半分を占めていたこともあった、しかし

韓国の台湾叩きが冷酷無情なものだったため、逆襲に出た

台湾南部の高雄市議会は与野党が全員一致で、姉妹都市の釜山市と絶縁を決めた

与野党の対立が激しい台湾でこのような決議は珍しいことだ

食道楽の台湾でありながら、韓国の台湾叩きの最中に韓国焼肉店は閑古鳥が鳴き

つぶれる店もあった、これもすべて韓国人の弱い者いじめ、人間差別からくるものだろう

韓国人は台湾人がもっとも苦難を抱えているときに、その弱みに乗じて恫喝してくるのだ

このことで、私がよく連想するのは、戦後日本の焼け跡で、どさくさに紛れて日本人

の土地を強奪したあさましさである、ところが日本人の反応は台湾人とは違って

謝罪や反省をするばかりだ

 

 

祖先より反日運動をするハングル世代

これらの主張をしている韓国の反日世代は、多くが「日帝36年の殖民地時代」

ではなくハングル世代である、彼らは、日帝時代の歴史の証人でもなければ

日帝の搾取、虐殺を見たことも聞いたこともない世代である

 

 

南北分裂後の韓国は、今がチャンスとばかりに、反日をテコにして、民族主義を高揚させ

かつての日本語使用、創氏改名、神社参拝、などを鼓吹した個人や

団体を「親日派」売国奴」などの名目で断罪しはじめた

このような風潮がでてきたのは戦後であり戦前にはなかった

 

 

惨憺たる状況だった半島の農業

朝鮮半島の気候については、一方で雨季の豪雨地帯は往々にして集中豪雨にみまわれ

洪水や干ばつは珍しくなかった

歴代王朝はこれに対し、なんの手もうとうとしなかったが、朝鮮総督府は

いかにして水問題を解決するかと終始努力していた、

李朝時代、農民は資本投下に関心がなく安易な略奪農法(地力のみに頼る農法)に頼っていた

「仁祖実録」には、八年三月は飢饉に疫病、人民はほとんど死に絶えた、とあり

1671年の大飢饉では、墓を暴いて屍体の衣をはぎ取り、親は子供を道端に捨てたとも

記載されている

 

朝鮮の農史を読むと、朝鮮農民は中国農民と酷似している、早害、水害、風害、病虫害

が間断なく年中行事のように各地を襲い、農民は乞食同然である、そのうえ、両班と

酷吏に食い物にされ、小作農は慢性的な食料難と借金苦にあえいでいた

 

戦前日本の農民を除いた中国、インド、東南アジアなどのアジア農民は、きわめて

貧しく飢餓状態にあり、干ばつのたびに餓死者が大量に出るのが常であった

なかでも朝鮮半島の農民は、両班からの搾取、地理、天候などの条件からもっとも

貧しかった、可耕地の広さと比べ農業人口があまりにも多く、地質、土壌、治山治水

の荒廃、気候寒冷などの自然条件も悪い、さらに、山林荒廃による燃料不足、堆肥不足

などの面からも、農業立国となるのは難しかった

そんな朝鮮半島に近代化をもたらしたのは、文明開化、殖産興業に燃える日本人だった

これは、朝鮮半島だけでなく、台湾や満州でも同じことが起こった

 

 

両班こそが土地強奪の犯人

ダレ神父は、「朝鮮事情」のなかで、両班の土地強奪の実態を次のように述べている

「両班は世界中でもっとも強力にして傲慢な階級である、彼らが強奪に近い形で農民から

田畑や家を買うときは、支払いなしですませてしまう、しかもこの強盗行為を阻止できる

守令は一人もいない、戦後日本人が半島で行ったといわれる土地強奪行為は、ほとんどが

この両班をモデルにしてでっちあげられたものである

 

 

 

「河西干拓事業」では、3150ヘクタールの干潟地や沿岸草生地、李完用の一族から

買った黄海道東部の山間にある高原地帯などを開拓していた、それらはもちろん

地味不良で有機物に乏しく、灌漑用水も上がらず水田にもならない不毛の地であった

日本人は、わざわざ朝鮮に行ってこんな不毛の地を耕していたのだ、それなのに、日本の

農業移民が朝鮮半島の良田を強奪したなどとよく、言えたものだ、美田を専有していた

のは朝鮮人自身である、日本人は、朝鮮の農民が一顧だにしなかった不毛の地を開墾し

僻地の干拓を行っていた、交通不便な地に行く場合は、気車から降りると家族全員で牛の背に乗り、荷物を牛車に載せて遠く離れた土地まで延々と行く、行った先に待っているのは厳しい農地開拓である、この日本人の地道で真面目な努力によって、朝鮮半島は数千年

来の農耕国家では考えられないほどの農業革命を経ることができたのである

それもこれもすべて日本人の手によって実現したことなのである

 

 

農民の活力を奪った両班の階級支配

イギリス人の女性旅行家ビショップ夫人が残した「朝鮮とその魔邦」には

「両班はキセルですら自分で持たず、徹底して何もしないのが慣わしだった」

とある、同婦人の「30年前の朝鮮」では次のように書いてある

「官吏の腐敗は目にあまった、彼らは民の膏血を搾り取る吸血鬼だ、彼らは

任地に赴かず、ソウルにいて宴薬をほしいままにし、自己の管轄内の住民

を保護して善導することがまったくなく、虐待し誅求するのだ」両班の生活

倫理からすれば、労働蔑視、労働拒否だけでなく、不労所得こそが最高の

道徳であった、このような無為徒食の輩が李朝を支配し続けてきたのだから

革命が起こらない以上、李朝を救う方法は植民地になることだけだったのではないだろうか

 

そもそも、日本農民は朝鮮農民の粗放農業ではなく、集約農業に慣れており、集約的

多角的な経営によって生活を向上させていた、この技術を持った日本農民が

移民先で行った改良農法、新式農法は朝鮮小作人のモデルになり、改良品種の

試作も行われて新品種や新農法が次々と普及していった、さらに日本人農民が

行っていた養豚、養鶏、養蚕などの多角経営や、農事施設、農業指導などは

かつて小作人からの収奪しか知らなかった李朝にとっては驚くべき生産性であった

朝鮮人の習慣は、午前に働いて午後は寝て暮らす、明日は明日の風が吹く、といった

快楽主義的なものであった

雨や雪の日の労働を嫌い、冬季になると室内に蟄居して無為徒食する、これほど

働く意欲がないのは儒家思想の勤労蔑視によるものが大きい、労働を蔑視する

儒教思想は李朝時代の両班によって体現された

 

こうして朝鮮に広まった日本農民の集約的農法は、自らの資産を増やしていくと同時に

その地域をも潤していった、日常必需品は急増し、地方経済はいっそう刺激され

市場経済は賑わった、さらには僻地にまで組合や学校がつくられ、医療施設も普及した

道路や橋梁が整備されたことによって、流通や運搬も盛んになった

日本農民の移民たちが「土地収奪・搾取」したなどと、机上のみで論じている

戦後世代の主張がいかに間違っているかがわかる、日本農民の移民は、朝鮮農業近代化だけでなく朝鮮半島の近代社会熟成に多大な貢献を果たしてきたというのが事実である

 

 

こうして日帝36年の間に行われた農業改革は、朝鮮半島の人口と穀物を倍増させた

朝鮮総督府は米を強奪するどころか、農業改革、農地改良の一環として

奨励金を出し、逆ザヤ制度まで設けて、その質と量とを安定させた、その結果

史上空前の米生産量倍増という偉業を成し遂げ、朝鮮半島の人口倍増を支える

基盤をつくったのである

朝鮮総督府のスタート当時1910年、約一千万石前後だった米穀収穫量は

18年後、1700万石、23年後には1900万石と急伸した、半島の米産は

史上1度も1000万石を超えたことがなかった、しかし、日韓合邦から

20年後の1930年代に入ると、つねに2000万石を突破するようになった

また大豆と雑穀の生産も合邦当初の6割増しになった

 

 

李朝時代、1753年の人口は730万人、100年後の李朝時代1850年でも

750万人であり、20万人しか増えていない、しかし、日露戦争後に日本の

保護国となった1906年の朝鮮の人口は980万人だったが、合邦後の1912

には1400万人に急増している、6年で600万人も増加した

さらに人口は年を追うごとに増加し1938年には2400万人に達した、なんと、合邦前の2.4倍にも人口は膨らんだ、豊かになったがゆえに人口は増加したのであって、日帝が搾取し

朝鮮の民を貧困のどん底に陥れていたなら、このような増加などない

食料が欠乏していたら、子供を増やすことはできない、また朝鮮人がよく言う

大虐殺があったというなら、なぜ人口が増えるのか、説明してもらいたい

 

朝鮮は、工商ではなく、農業を中心とする社会だった、農業以外には、産業を興す資源も

資本も技術もなかったうえに、産業化に必要な教育も、人材もなかった、故に、海外から

の工業製品の輸入に依存せざるをえなかった、この状況を日帝はわずか36年のうちに

近代化へと導いた

 

日本による統監政治以前の朝鮮半島は、豪雨による洪水が平原に氾濫し

広漠たる平原が一夜にして湖沼と化してしまうことがたびたびあった

朝鮮半島の河川流水量は日本の2倍もある一方、渇水期の流水量は

10分の1から20分の1しかなかった

しかも何の工事も施されておらず、ほとんど自然の状態のままだったこともあり

水害のたびに大きな被害をこうむった、灌漑用水が不足している状態では

農業は雨水に頼るしかなく、きわめて原始的な耕作法しかできない

李朝末期の朝鮮人は自然と共生していたわけでも、自然保護をしていたわけでもなく

ただ単に治山治水ができなかったのである、その理由は多々あるが

ひとつに李朝の財政が破綻していたのもその一つだ

産業は振るわず、文化は興らず、国運は日ごとに衰退していった、そのうえ、洪水

のたびに田畑は荒らされ、収穫ができなくなる、農民は草の根や木の根を掘って

飢えをしのぐこともしばしばだった、まさに山河破れて国ありの自然崩壊状態だった

 

半島の山林が荒廃したもうひとつの原因は、火田民(焼畑農民)の存在だ

彼らの主食はじゃがいも、燕麦、アワ、ヒエ、トウモロコシで、

火田民にとって価値のある作物はアヘンの原料となるケシである、とくに

満州方面では高く売れた、火田民は、安住せずに山林を焼き払い

自給自足に近い生活を送っていた、彼らが入った後の山林は、焼畑の被害を受け

やがて禿げ山と化し、豪雨になると土石が流出した

黄海道にいた火田民は、山林を燃やした後、さらに根まで掘って炭を焼いたのである

皮肉なことに、その炭は根炭と呼ばれ、固くて火持ちがいいということで

ソウル方面の金持ちに高く売れた、これを売買した朝鮮人たちは

山林の消失という高いつけを払うことになった

 

朝鮮総督府は、明治40年代から営林署を設立して朝鮮半島の荒廃した山野の復旧造林

に着手した、そして森林保護令、幼齢林の育成、民有林に対する造林補助、病中害駆除

森林組合への補助、林業試験場の整備、地方官庁職員の増員など、実践的な政策を

次々と断行した

 

 

なお、この治山治水事業にあたって総督府は李朝以来の徭役制度を廃止し、朝鮮人

労働者の日当を支払った、これは、半島有史以来の事実である、朝鮮人にとって

それはまさしく李朝からの奴隷制度解放であった

 

日帝時代の朝鮮は、まだ石油の時代ではなかった、しかし、石炭もそれほど豊かではないし、従来の人力や畜力では近代化は難しい、残る朝鮮半島の資源で、唯一活用できるのは

水であった、そこで朝鮮総督府は、水力発電を利用して総合的な国土開発を行おうとした

水力発電は金剛山からはじまり、赴戦江、長津江、虚川江などに水力発電所が設けられた

水資源が豊かな朝鮮半島では、これで大規模な電力開発が可能となり、じつに画期的な事業となった、朝鮮の水力開発にもっとも大きく貢献したのは野口遵という日本窒素肥料の

実業家で、朝鮮産業革命の祖として朝鮮人の恩人とも言われている

野口氏は、威興の北にある鴨緑江上流をせき止めて、日本国内にもなかった

17万キロワットという巨大発電所をつくった、これは1928年に完成したのだが

さらにその2年後には20万キロワットの発電所を作っている

発電事業が軌道に乗ると、彼は興南の町に朝鮮窒素株式会社を設立した

1キロワット三里五毛という安い電力を利用して

空中窒素から硫安をつくり日本へ輸出した

続いて、白頭山、豆満工、虚川工などに続々と水力発電所を設け、いずれも

15万キロワットの規模を確保した、鴨緑工地域には

義州、雲峰、水豊など7箇所にダムを建設し、巨大な湖をつくることで、180万から

200万キロワットの出力が可能な大発電所建設を計画した

こうして朝鮮のエネルギー確保に大きく貢献した野口氏は、引退する際に

資産の大部分である3000万円を寄付している

文部省の科学振興のために2500万円、朝鮮人子弟の教育のため朝鮮

総督府に500万円という内訳であった、彼の功績は高く評価され、1942年に

1等瑞宝章を授与された

 

 

工業生産を数字でみてみる

1927年〜1933年の工業生産額は3億円台

40年代には18億円を突破し、農業生産額に匹敵するほどになった

そして40年代には台湾にやや遅れて朝鮮半島は農業社会から工業社会へと

変貌を遂げた、このように日本は朝鮮半島に大きすぎる貢献をした

 

韓国はもともとソウルを中心としたごく少数の都市と

7万ほどの村によって成り立つ村社会であった

半万年近くも自給自足を続けてきた世にも珍しい自閉国家であり

隠者の国ともいわれてきた

そのため、交通は発達せず、物流も発達せず、道路らしい道路はなかった

交通手段はソウルではカゴ、地方では小型の朝鮮馬のみで、荷車さえ

なかった、橋梁もちゃんとしたものは稀で、渡し舟や丸木で渡河することが多かった

もちろん大量貨物の遠距離輸送など、不可能だった

その点日本では江戸時代から参勤交代があり、各藩の交流も行われ

東海道や日光街道など巨大な道路も発達していた

また強盗がはびこっていたため交通の未発達に拍車をかけた

 

日本が朝鮮半島と台湾でおこなった鉄道、道路、港湾、空港などの建設は

まさに疾風怒涛の一言に尽きる

日帝36年という短期間で朝鮮半島を

日本に次ぐアジア第二の交通整備国家に仕立て上げたのだ

 

日本の朝鮮半島における鉄道経営は、1899年に始まった

1945年の終戦時には、総営業距離6632キロ、機関車1160両、駅762箇所

となった、港湾は1944年までに通商港が14、指定港が38、関税指定港

9、地方港が326となり、朝鮮半島はアジアで日本に次ぐ

交通発達国家に成り上がっていた

これらインフラ整備に朝鮮総督府がかけた費用は、土木費合計約64000万円

道路、港湾修築費約24110万円、鉄道建設費218364万円、当時のお金で

これがいかに莫大か考えてほしい、日本の国家予算が20億円の時代である

しかもこの中には日本国民の税金が投入されているのだ

それなのに、朝鮮半島の日本の鉄道建設は、朝鮮人を押さえ込み、大陸侵略をするためだとか言う進歩的知識人が多い

朝鮮と台湾における、鉄道の敷設は確かに軍事的色彩はあった、しかし、列強諸国が

活躍するこの時代、鉄道はただの産業開発目的だけではなく、軍事目的もあったのは

当然のことだ、ましてや、朝鮮半島において、東西南北に貫通する鉄道の出現は

政治的、軍事的、だけでなく、朝鮮人がこれまで村社会で閉じ込められていた

自給自足社会からの脱却を促し、産業を発達させたのはまぎれもない事実である

 

 

日帝の朝鮮半島の近代化、工業化において、もっとも障害となったのが

朝鮮人の風水思想だった、朝鮮人は宗教心がより強く、天よりも祖先を絶対崇拝する

祖先を絶対崇拝するということはつまり、死者たちによって国が支配されている

部分も多かった

 

前術したように、アーソン・グレブストは、著書「悲願の朝鮮」のなかで

朝鮮人が皆ソウルに住みたがる理由として、「税金が免除」の他に

「全国一墓地が多い」ことを挙げている、

祖先を重んじる朝鮮人は、生きている人間よりも

死者のほうを大切にするからだ、と解説している

 

死人のために死ねるなどと、尋常では理解できない人生観ではあるが、朝鮮、韓国人

は真剣である、そこに奇聞が生まれる

たとえば、墳墓を暴き死屍、遺骨、死者の生首までをも奪いさった犯人が

死者を人質にしてその遺族に金銭を要求したりする

日本人にとってはなんとも滑稽な話だが、朝鮮半島では深刻な習俗であり

この手の話や墳墓をめぐる争奪、闘争はじつに多い

また埋葬に関する言葉が多いのも朝鮮半島の特徴だ

「勅葬」とは他人の墓地に入葬する意味であるし、「ゆ葬」とは詐欺的な手段で他人の墓地へ入葬すること、「隠葬」とは他人の墓を暴き屍を墓穴からひきずりだしてよそへ棄て

そこへ自家の屍を埋葬すること、「暗葬」とは、暗闇で密かに他人の墓地に入葬することである、これらの行為は墓地をめぐる紛争でよく見られる行為である

 

まるで死人のため人々が生きているような、そのあまりにも極端な祖先崇拝が、死人の国

などと言われる所以である、朝鮮戦争のとき、家財道具よりも祖先の位牌や族譜をかかえて避難する者もいた

 

 

 

日清戦争後に日本は朝鮮半島の後見人となったが李朝は財政破綻をきたしていた

1905年から日本は朝鮮に統監を置き、朝鮮の自治育成、国力増強、のための

巨額な資金を要したため、伊藤博文は、1000万円の援助資金の貸付を断行した

つまり李朝の財政破綻は1997年の韓国通貨危機によるIMF管理体制と似ていて

当時はIMFのかわりに、日本の保護を受けていたのだった

 

これに比べて台湾は、1895年に日本へ永久割譲されてから、1904年の日露戦争

以後もずっと日本政府の補助金を断り続け、財政的には自律していた、だが朝鮮は

ずっと中央政府の財政補助を受け続け、終戦まで日本の資金と資本を得ていた

1998年の日韓共同宣言以後も、日本から30億ドルの支援を受けている

韓国の他力本願はいつまでたっても変わらない、海外からの借金によって

国民経済を支えるという経済構造は、終戦後、半世紀以上たってOECDに加盟した

今日にいたっても、ほとんどかわっていない

 

日本政府は、朝鮮経済を保護するためにも1920年(大正9)から関税制度を廃止する一方

日本から朝鮮へ輸出した製品には関税のかわりに移入税を課した、朝鮮から日本に

入れるものは免税、日本から朝鮮に出すものには移入税をとるという過保護政策を取り

つづけ、この制度は1941年まで続いた

 

 

朝鮮半島は、統監時代から「保護国」として日本に保護され、総督府時代にはいっそう

過保護にされ続けており、財政面のみならず政治、経済、文化、のあらゆる面において

日本に頼っていたというのが史実なのだ、つまり、「日帝36年」とは殖民地搾取など

ではなく、日本国民からの「支援」で支えられてきたのだ

韓国人は「日帝36年」の間、日本国民の血税で日帝におんぶにだっこだったばかりでなく

生存権を守る国防費さえ、ほとんど一銭も払わなかった、そのうえ、日本の敗戦につけこんで、日本が資本投下した施設や日本人資産を食い逃げしてしまった、さらには逆に

日本に謝罪と賠償と反省を求め、ゆすり、たかりを繰り返してきた、そんな理不尽な

ことがあっていいのだろうか

 

 

もっとも、朝鮮の両班が勉強していたのは中国史であったし、夢は中国人として、中国史に名を残すことだった、だから、自国史は蔑視していた、李朝朝鮮両班の苦悩は、大国人

になりたくてもなれないことだった

朝鮮史を研究する歴史学者はいなかった、それを大々的に行ったのは、日本人である

韓国人は、自国史の保存に寄与してくれた日本人に感謝するべきだろう

しかし、戦後の韓国人学者たちは、日本人学者は朝鮮民族の劣等性、後進性と

日帝の朝鮮侵略の合法性を主張することが目的で、そのために史料捏造、歪曲を

行っているなどという

 

 

日韓間の学術会議や、首脳会議などでも、韓国側は被害者に徹して日本を糾弾する

日本も加害者として臨む、日本政府は、一方的に過去の植民地支配について

反省し、謝罪する、韓国の独善的主張に、日本政府はお墨付きを与えたのだ

これがまた、韓国人の独善を助長している、戦後ハングル世代の日本について

の歴史認識を、もっと簡潔に表現すれば、「古代の野蛮な日本と文明の韓国

近現代の悪の日本と善の韓国」この一言につきる、彼らはすべてが日本のせいだという

唯日史観と、韓国人は優秀であるという唯韓史観に取りつかれているのだ

 

 

朝鮮戦争とは

19452次世界大戦で日本が連合国に降伏した、その時点ですでに朝鮮半島北部には連合国の1国であるソ連軍侵攻中であった。同じく連合国であり反共主義を掲げていたアメリカは、ソ連の進軍により朝鮮半島が掌握されることを恐れ、ソ連に対し朝鮮半島の南北分割占領を提案した。ソ連はこの提案を受け入れ、

1945年朝鮮半島は北緯38度線を境に北部をソ連軍、南部をアメリカ軍に分割占領され

同時に北は金日成の北朝鮮、南は李承晩の韓国にわかれた

この19451950年までの間に、韓国は大混乱となり、韓国軍により、北側のスパイと

みなされた人たちの銃殺や虐殺が行われた

 

 

南北の軍事バランスは北側が優勢であったため北朝鮮はその後

1950、韓国軍が半島南部に移動していた機を見て、防御が手薄となっていた国境の

38度線を越え軍事侵攻に踏み切ったことで朝鮮戦争勃発

侵攻を受けた韓国側には進駐していたアメリカを中心に、イギリスフィリピン

オーストラリアベルギータイ王国などの国連加盟国で構成された国連軍が参戦し

一方の北朝鮮側には中国人民解放軍が加わり、直接参戦しないソ連は武器調達などの形で支援し、アメリカとソ連による代理戦争の様相を呈した

 

 

分割→北は安定、南は混乱→

 

終戦後、朝鮮半島は、日本が戦勝国に返還し、半島は戦勝国のアメリカとソ連に分割された

終戦当時、北朝鮮はきわめて安定していた

なぜなら、共産主義以外の政治運動は、いっさい認められなかったからだ

しかし、米軍占領下の南は終戦とともに、混乱のるつぼに陥った

呂運亭らの「建国準備委員会」が民主主義グループと社会主義グループとに分裂し

抗争の収拾がつかなくなった、1920年代から、国内外で展開されてきた

各派各党の抗争は、共通の敵である「日帝」の喪失によって、戦前にもまして

血で血を洗う抗争へと激化していった

老若男女、生まれたばかりの赤ん坊までもが、ひとり2党にまたがって

韓人特有の千奇百怪な党争が繰り広げられたのである

 

 

一方でつねに贖罪意識を持っている日本人にも問題がある、戦後の日韓条約から、終戦

50年の国会不戦決議、小渕元総理の殖民地支配の反省と謝罪の明文化など、日本はこれまでさんざん反省の意を表してきた、しかし、韓国の反日感情は一向に衰えない、逆に

天皇訪韓は義務だ、などと脅しにちかい態度を取り続ける、そんな韓国に対し中国は

「高句麗史と渤海史は中国の地方史だ」と堂々と言ってのけている、また、朝鮮戦争

における中国人民義勇軍の半島蹂躪の過去に対して、中国は「謝罪する必要はないし

将来もするつもりはない」と一喝するだけだ

中国の強気の一喝に、韓国はただただ後ずさりするのみで、何の反論もしていない

このように、韓国の歴史認識がいかに曖昧で政治的なものか日本人も知るべきである