イラン・イラク戦争




JALが日本の「フラッグシップキャリア」だって?
笑わせんじゃねえ! JALには絶対乗らない、という真の日本人は無数にいる!!
イラン・イラク戦争が勃発した

1985年3月17日。イラクのサダム・フセインが

「今から40時間後に、イラクの上空を飛ぶ飛行機を打ち落とす」

ということを世界に向かって発信した 邦人がテヘランに取り残された。
JAL(当時は日本国の国営航空だった)は、労組が

「安全が保証されない」とフライトを拒否。政府要請を無視した。
日本政府は邦人救出の手段を失った。
母国のエアラインに見捨てられた邦人は絶対絶命の情況に。
世界各国のエアラインが続々と自国民を乗せてテヘランを飛び去っていく。
あと四十時間で無差別攻撃が始まる・・・・・ と、そのときだった。

1機の飛行機が日本人救出のためだけに危険を犯して戦争状態のテヘランに飛来した。
トルコ航空機だった。
歓喜の声があちこちからのぼった。「トルコ航空が助けに来た!」
日本人だけ250人を乗せたトルコ航空は決死のフライト。

イラクがテヘラン攻撃を予告した2時間前の間一髪の救出劇だった。
飛行機はイラン国境を脱出、トルコ領空に入った。

機長がアナウンスする:「日本人のみなさん、トルコにようこそ!」
日本人乗客はみな涙を流した。
後に小泉首相はこの老機長をわざわざトルコ訪問の際に招いて感謝の意を直接伝えた。
(この模様はトルコで放送された)
トルコ航空バンザイ!

 

 

 

 

 

イラン・イラク戦争が始まった1985317日、
イラクのサダム・フセインが「今から40時間後に、
イラクの上空を飛ぶ飛行機を打ち落とす」ということを世界に向かって発信した。
イランに住んでいた日本人は、慌ててテヘラン空港に向かったが、
どの飛行機も満席で乗ることができなかった。世界各国は自国民の救出をするために
救援機を出したが、日本政府はすばやい決定ができなかった。
空港にいた日本人は、パニックに陥った。

そこに1機のトルコ航空の飛行機が到着した。
トルコ航空の飛行機は日本人216名全員を乗せて、成田に向かって飛び立った。
タイムリミットの、1時間15分前であった。なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、
日本政府もマスコミも知らなかった。この時、元駐日トルコ大使の
ネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。
「エルトゥール号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、
今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。
トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥール号の事を知っています。
今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている
日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです

 

 

 

 

トルコ航空機長
「任務拒否など全く考えませんでした。行かなければ空爆で死んでしまう人々がいるのですから」
「日本の人々が好きです。親近感を持っています。
 また同じ任務を頼まれれば、喜んでやろうと仲間たちと決めています」

対して当時のJAL(の労組)
「安全が保障されなければフライトできない」

自国民ですら見捨てるJAL
こんな企業に血税をめぐんでやる必要はない








何故、トルコ航空機が来て助けてくれたのか。
日本政府もマスコミもわかりません。
前・駐日トルコ大使、ネジアティ・ウトカン氏は次のように説明しました。


「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人が
なしてくださった献身的な救助活動を
今もトルコの人たちは忘れていません。

私も小学生のころ、歴史教科書で学びました。
トルコでは、子供たちでさえ、エルトゥールル号のことを知っています
今の日本人が知らないだけです。
それで、テヘランで困っている日本人を助けようと
トルコ航空機が飛んだのです」


ウトカン氏のおっしゃる「エルトゥールル号の事故」とは一体何か・・・
明治
23916日、和歌山の熊野の海は、朝から風雨が激しく荒れ模様でした。
午後9時ごろ、灯台守が、爆発音を聞きつけます。
そのとき、進退の自由を失った木造の軍艦が、大波に翻弄されながら

灯台下に流されてきていました
岩礁に乗り上げた船は真っ二つに裂け、大爆発が発生
この爆発音を灯台守は聞いたのでした
午後10時半頃、その木造の軍艦は沈没。
乗組員は海に投げ出されました。

一部の乗組員は、艦の破片にすがって3時間ほど漂流し
灯台に助けを求めたのでした。

灯台守はこの人を見て驚きました。というのも、顔から血が流れ
全身は傷だらけだったからです。言葉が通じない上に混乱状態の中
万国信号書を見せてやっとトルコ人であることがわかりました。

身振りで、多くの乗組員が海に投げ出されたこともわかると
灯台守は考えました
「この乗組員たちを救うには人手が要る、樫野の人たちに知らせよう
そして灯台からいちばん近い樫野の村の人たちに急を告げました。
この当時、樫野には約
50軒の家があり
船が遭難したとの知らせを聞いた樫野の男たちは、嵐の中を総出で岩場の海岸に下りました。

夜が明け始め、海面のおびただしい数の遺体に
村の男たちの胸は張り裂けそうになりました。

嵐の夜半、通信手段も救助のための機材も満足になく
何の方策もたちませんでしたが、あり合わせの着物を着せ
傷の治療をしながら夜明けを待ちました。

この船の乗組員は
650名。生存者69名。船の名は「エルトゥールル号」

生存者は急造の担架で樫野のお寺と小学校に収容
乏しい村の食料は遭難者のために一夜にして底をついてしまいました
それにもかかわらず村民は遭難者のために
蓄えている食料のすべてを喜んで提供したのです。
村民は、生まれて初めて見る外国人を、どんなことをしても
助けてあげたかった
また、亡くなった人を丁寧に葬りました。
このエルトゥールル号遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ

そして明治天皇に言上されました。
明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣をなされ、さらに礼を尽くし
生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて、トルコに送還なされました。

日本とトルコの友好関係は、この事故を機により深まり、その後
共通の敵であった帝政ロシアとの間で行われた日露戦争の勝利を
もっとも喜んだのもトルコです。


約一世紀を経て、トルコの人々はこの時の恩を忘れていませんでした
その恩返しが、イラン・イラク戦争の只中での日本人救出劇だったわけです。
本年1月、小泉首相はトルコ訪問の折、自らの危険を顧みずに
日本人救出にあたってくれたトルコ航空の機長アリ・オズデミル氏に会い
お礼を述べたとのことです。

 

http://ilovenippon.jugem.jp/?eid=87

 

 

 

 

 

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