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ギンちゃん日記
     
  41号〜60号

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『ギンちゃん日記』60

郵便受にことりと音がして、河童先生が大きめの茶封筒を取り込んでくれた。それはミツコシおばさんから吾輩宛のプレゼントで、中身はCDだった。さっそく河童先生がおもむろに開封し、パソコンにインストールして聴く。

シンギングキャットとかで、クリスマスソングなどに猫の鳴き声や犬の遠吠えを挿入した、ニャンとも賑やかな音楽、ワンらんく上の音楽。全部で15曲だった。

声はすれども姿の見えぬ猫の嬌声、犬の怒声に、吾輩はしばらくパソコンを遠巻きに警戒していたが、その声がバーチャルであることが次第に知れ、河童先生とお河童先生とともに、仕舞には漱石ではないが「活惚れ」を踊りだすありさまである。

かくして吾輩のクリスマスは始まったのである。(2012/12/17)

 

『ギンちゃん日記』59

気がつけば半年以上も更新してない。怠惰は責められようが、このかん、不健康な生活を送っていたわけではない。食べて遊んで、何よりも猫だから「寝て」、怪我や病気もせず、いちにちを過ごすことができればそれでいい。しあわせだ。

猫だから小判はいらない。庶民派は哲学しなくていい。家猫だから異性を気にしなくていい。ほんとうは人間さんも、なんにもしないのが一番いいに決まっているが、現代人は押しなべて、まいにちまいにち齷齪している。(「齷齪」は「あくせく」と読むが、画数も滅多矢鱈と多いし苦しそうな字だな)

さて、吾輩のライフパターンはいよいよ河童寓のそれに合ってきた。吾輩の方から、おのずから寄り添って行ったといっても過言ではない。時間割のように日常生活が流れてゆくと、体がそれに合わせて動くのである。自由がなくて窮屈というかもしれないが、「ライフリズム」に乗っかって逆にらくちんに思えもする。

尾篭なはなし、朝の6時30分に吾輩は雲子する。疾呼もする。このとき河童先生もそれを遊ばせる。この行事はおのずと身についたもので、いつのまにか吾輩の腸内の正しい蠕動運動を促してくれる。時と所を選ばない猫もいるが、そんな猫は「猫の風上」にもおけないだろう。

「出」の方を先に書いてしまったが「入」は、朝の7時30分にお河童先生が猫茶碗にご飯を盛ってくれる。お吸物()を注いでくれる。ご飯から食べ、お吸物はベロに巻きつけるように、ぺろぺろと舐める。このお作法で充分いただける。

午後の2時30分にはお八つがもらえる。鶏の笹身をスライスした「花ささみ」で、これが大好物。河童先生が喉に痞えるといけないと、さらに千切って紙のお皿に入れてくれる。

ときには炬燵板の上で食べることも。板の上に千切った花ささみを撒き、吾輩が口を近付けると吾輩の鼻息で花ささみが動き、それがあたかも生きているかのように感じられる。吾輩はハンティングの本能がめざめ、動く花ささみの破片を口で追っかけて食べる。いたく興奮するのである。

出すことと入れることとで、生き物は楽しからずや。(2012/12/15)

 

『ギンちゃん日記』58

吾輩は歯を磨くことがきらいだ。歯磨きを口に当てられると逃げる。逃げられないときは河童先生を噛む。毛のざらざらが嫌いだ。

河童先生がネットで調べ「フィーライングリニース・ツナフレーバー」を購入した。原材料は鶏肉、挽きわり米、挽きわり小麦、コーングルテンなど。アメリカ産の輸入品。販売元チャーム。1センチメートルくらいの粒を、4・5Kの猫で一日に6粒から8粒を2回にわけて食べよとある。

おやつにして歯石や歯垢のための歯磨き効果と、口臭も取り除かれるという。河童先生が3個ならべてくれ、吾輩はおそるおそる食べてみた。ごそごそ、ぐにゃぎにゃ、何のことはない。元来鶏肉はお気に入りなので、その風味は悪くない。

それから三日つづけて、一日3粒ずつ食べた。何のことはない。しかしお河童先生が、ギンちゃんちょっと元気ないわね。という。

吾輩はそんなことはないとは思いつつ、元気がなくなっては困るので、とりあえず食べるのを中止して「様子見」ということになった。

なおネットでは「猫草」も購入した。みどりの牧草。これは口を付けてみたが嫌いである。食べる気にならん。

書き忘れたがネットで同時購入のメインは「花ささみ」。これは好きなんだニャー。(2012/05/25)

 

『ギンちゃん日記』57

S市は郊外のスーパーから「ねこモテ」という、またたびシートを買ってもらった。40×50センチのサイズで、その上に寝転んでゴロゴロできる癒し系のシートという触れ込み。退屈しているとき、運動させたいとき、これが有効に働くそうな。特許出願中PAT・P、日本製。潟^ーキー。598円。

早速河童先生が封を切って吾輩の小座布団の上に敷いてくれた。ふむふむ、またたびが摺りこんであるだけあって、ちょっと酔った気分になる。リラックスというよりもハイな気分になるニャン!

そういえば約一カ月遅れの、吾輩への誕生プレゼントということだろうか。毛取りのブラシも消臭スプレーもついでに買ってもらった。ブラッシングも最近では好きになった。以前は逃げ回ってばかりいたのだが・・・。ニャンキューベルマッチ。

話は変わるが猫ひろし、残念だったニャー。吾輩もマラソンがしてみたい。そして旅もしてみたい。

旅といえば映画「ハリーとトント」は、老人が猫のトントをつれて気侭な破れかぶれの旅をつづける爺&猫のロードムービーだが、哀愁が滲んでいて、いいな。トントは死んでしまうのだが、ハリー爺さんがトントに歌を歌って聴かせるシーンがなんとも泣かせる。

吾輩は洋画が好きで炬燵の上の特等席にすわって、河童先生とよく映画を観る。この映画もお気に入りである。

「またたび」を食べて、バーチャルの「また旅」にでも出てみようか。(2012/05/13)

 

『ギンちゃん日記』56

きょうは吾輩の誕生日、4歳になった。4歳は幼児に見られそうだが、猫の4歳は人間の年齢に換算すると25歳くらいの青年であろうか。

吾輩、幼少の砌は東京・新宿に暮らしていたが、縁あって諏訪で生活するようになった。諏訪の生活は3年ちょっとになろうか。

諏訪には「天敵」がいないので比較的のんびりしたものと思われるが、ここにはここのライフスタイルがあって、ストレスが溜まらないこともない。「智に働けば角がたつ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい」なんぞと、漱石の『草枕』のフレーズがよぎる。

河童先生もお河童先生も誕生日を覚えてくれていた。しかし特段の祝賀の宴はなかった。いやいや、吾輩にとってグルメである「花ささみ」を午後2:30分の定時に加えて、午後5時にも出してもらった。そして最近では嘔吐の原因として出してもらえない「マタタビ」の粉末を、河童先生が特別に舐めさせてくれた。

「たまにはいいさ。それに嘔吐の原因かどうか、本当のところは分かっていないのだし」と河童先生。(嘔吐は20日に一回くらい)

「ぺろぺろ、くんくん。ちょっと、よっぱらちゃった。マタタビはいいね。ヤクやった感じだね」と吾輩。

そうだった。きょうは吾輩の誕生日だった。(2012/04/19)

 

『ギンちゃん日記』55

吾輩は猫である。猫であることに間違いはないが、ときどき吾輩は犬になったのではと錯覚することがある。どうやら河童先生もお河童先生も「忠犬的」な猫を望んでいるらしく、おのずから教育されてしまっているようだ。

そもそも猫は飼い主に対して忠義をつくす性格など持ち合わせていない。それを求めるのはお門違い、ないものねだりの子守唄。猫と犬とは生まれも育ちも生きる環境も違っているのだから、と思うではあるが。

吾輩に対して河童先生もお河童先生も、しっかり躾をする。学習させる。たとえば「トイレ」は共同生活者として大切なことなので納得でき、それはきちんと守っている。しかしご飯やおやつを立って食べると「お座り」の声がとぶ。

また爪とぎは用意されているが、ストレスが溜まって壁紙や襖などを引っ掻いたりすると、「ダメ」の怒声とともに霧吹きの水玉が飛んでくる。

更にまた猫の習性だろうか、好きと嫌いの境界線が危うくなり、鼻や顔を撫でてもらっていて当然俄に、ガブリと噛み付いてしまう。「ありがとう。好きだよ」が、「ありがとう。ガブリ」になるのだ。「ガブリ」は人間にとっては嫌いのシグナルであり、排他的行為になってしまう。

ところが猫族は噛むことの概念が人間と異なっている。噛むこととは「好きだよ」&「莫迦ものめ」の二律背反。親猫が子猫の首の後ろを噛んで移動させるのは前者で、相手に傷を負わせるほど噛むのが後者。ただ歯に加える力加減が猫にはよくわからず、可愛さあまって憎さ百倍ということもあり、ときに飼い主の不信を買うこともしばしば。人間族でも男女間に愛咬があるらしいが、とまれ「甘噛み」はむずかしいものだ。

話が脱線した・・・躾や学習の苦手の吾輩だが「お座り」も「ダメ」も「ガブリ」も少しずつながら習得できている。何よりも簡単な言葉が理解できるようになり、「ギンちゃん」と呼ばれれば10回に8回は呼んだ人のもとに跳んでゆく。10回に3回は「う!」と唸るような返事をして跳んでゆく。

「忠猫」が猫の堕落かどうか、そんなことはどうでもいい。吾輩はときには「ワンワン」と鳴いてみたい。猫も進化しなくてはならない。(2012/01/05)

 

『ギンちゃん日記』54

猫はときどき嘔吐すると聞く。病気が原因のこともあるが多くは毛玉を飲み込んだためとか、一気食いのあとに高い所から飛び降りたためとか言われる。

吾輩もときどきゲロ(嘔吐)してしまう。頻度は平均して月に3回乃至は4回。2回くらいの月もある。ほとんどはケージ内の清掃しやすい場所であるが、廊下でやらかしたこともあった。

自分のものとはいいながら、ゲロは臭いがくさいし、気分がすこぶるわるい。吾輩は粗相した場合、硬質プラスチックのケージや合板の廊下に、砂をかけて覆い隠すような擬似行動をとる。手も爪も空をきってがさがさと鳴るだけだが、もって生まれた悲しき習性なのであろう。

河童先生は心配そうに吾輩を覗きこみ、

「いいんだよ。ギンちゃんがやらなくても、お河童先生が掃除してくれるから」

と言ってくれる。(2011/12/05)

 

『ギンちゃん日記』53

吾輩は「両目ウインク」をする。吾輩など猫族の多くが、両目を二回から三回まばたきする。このことをネットで調べると「挨拶である」「仲間だよ」「信頼しているよ」という意味だと書いてあった。吾輩も河童先生やお河童先生と目を合わせたとき、目をしきりに「しばたたく」。

このごろは河童先生が吾輩と目が合ったとき、先生も目をしばたたく。猫族のお株を奪って、そんな行為にでるのだ。

昼間の吾輩は目をしばたたき「ボンジュール」(こんにちは)、夕方になれば「ボンソワール」(こんばんは)と先生と挨拶をかわす。血統書名が「バルザック」である吾輩としては、フランス語で挨拶することは当然のことだ。

河童先生は老眼をしばたたき「こんちは」「おばんです」と日本語で声を掛けてくる。これも当然のことだ。

河童先生とお河童先生がPM1時ごろ、自家用車で外出した。なんでも塩尻・広丘の親戚までお礼に出かけるそうだ。したがって吾輩が留守番をする羽目になる。寝ていることが好きな猫族、われらにとって留守番は嫌いではない。むしろ車に乗せられ、あちらこちらドライブするよりは歓迎というべきだ。

2時半のおやつの「花ささみ」を紙パックに盛り付けてくれてあった。吾輩は洋間の出窓から顔を出して見送った。河童先生はプリメーラの窓を開けて手を振っている。吾輩は窓ガラスに鼻をこすりつけて、いってらっしゃい、気をついけて!

「さて、室内のパトロールでもして、そらからソファーで一眠りし、おやつということにしょうかな」。(2011/11/20)

 

『ギンちゃん日記』52

午後になると河童寓の洋間に日が当たるようになる。吾輩は午前中はまどろんでいて、午後1時頃には「二段ベッド」から起き上がって「外出」する。国道に面した洋間を覗くと、窓越しの日射しがまぶしい。しばらく廊下などをパトロールしたのち、河童先生と日向ぼっこをする。

河童先生は箱枕風の小さな枕を遣って、お昼寝をはじめる。お昼寝といっても熟睡ではなく、まどろんでいる感じなのだ。吾輩は河童先生の傍ら、顔のあたりに座り込み、仲良ししてまどろむ。「半寝」の先生は吾輩の頭や首の辺りをなでてくれる。

――嗚呼、何も考えず、このままでいたい。と河童先生は思っているらしい。吾輩も何も考えず、暖かな日射しのもとでまどろんでいたい。あれこれと考えてしまうと悩ましい、そして苦しくなる。人間は「考えない葦」がよいと先生は思っている。そんな気持ちで仮眠しているらしい。

この日、この時、人間と猫の思いが重なると河童先生が思っていることが、吾輩にも分かるような気がする・・・

しかし、「同床異夢」という言葉があるように、人間と猫だから「夢」は異なっているのかもしれぬ。河童先生は「連句」を追い、吾輩は「ねずみ」を追っている、そんな感じかな?

午後4時頃になると、こんどは二階に上ってゆく。お河童先生がリハビリを兼ねて椅子で背を伸ばす。吾輩はお河童先生への応援で、先生の傍らに座り込んで、まどろく。まどろんでいると頭や首の辺りをなでてくれる。

ただただ寝て食べ、途中ではまどろんでいるだけのように思われる猫族だが、これで結構忙しく、先生たちの「マイペット」になりきるのも楽な稼業ではない。癒し系、ボランティア。これも生きる術である。(2011/10/02)

 

『ギンちゃん日記』51

銀行のお兄ちゃんが用事があって、河童寓を訪れた。吾輩アメリカンショートヘアは、人見知りせず人懐っこいのが売りであるので、人間との遭遇は平気である。平気ではあるが正直、人間に対して好き嫌いはおのずからあり、それが吾輩の貌に出てしまう。これは人情、いた「猫情」というものだろうか。

お兄ちゃんは愛想よく大声で笑うので、吾輩はちょっと驚いてしまう。吾輩の頭を撫でなでしてくれるが、若い男は同性としてひっかかるものがある。吾輩は奥に引っ込んで、しばらしくして、河童先生とお兄ちゃんの会話する洋間に貌をだした。

吾輩は片脚を挙げてぶるぶると震わせ、その脚を払うような動作を二三回繰り返した。するとお兄ちゃんが、「あれ、何をしたのですか?」と河童先生に訊く。「あれはね、マイケルジャクソンのダンスの真似だよ。ギンちゃんに教えています」と河童先生。

「へい、猫にマイケルジャクソンの真似ができるのですか?」とお兄ちゃんは大仰な声をだす。「いやいや、うそうそ。単なる癖なのさ」と河童先生が発言を訂正する。

吾輩の「あの動作」は、習性なのか性癖なのか。はたまた一種ストレスからくる動きであろうか。ともかく気がついたら行っていた。それは河童寓に転居するようになった当初からだ。

先達てドキュメンタリーテレビでの映像が流れ、サバンナのライオンが吾輩と同様の動作をしていた。ライオンはネコ科哺乳類であり、親近感をおぼえたものだ。(2011/07/22)

 

『ギンちゃん日記』50

最大の興味の対象物は?

吾輩がもっとも惹かれるものは「マタタビ」である。紙製の「爪かき」を購入したら、お負けとして付いてきたマタタビの粉末を使いきってしまったため、河童先生がインターネットで調べて買ってくれた。

10グラム入り248円×2袋、麻ねずみくん一匹107円とともに、岡山県の「快適ねこ生活」というペットショップから到着した。遠方にもかかわらず、注文した翌日に入手できたのは驚くばかり。安くて、そのうえ荷物が早くて「快適ね」・・・。

マタタビには、実そのままや実の粉末や虫エイ巣(虫瘤。香気豊か)などがあるらしい。一寸見はお負けと同様の「粉」であったが、味がすこし違うようだ。成分の割合が微妙に違うのか、舐めてみて陶酔感がイマイチだったが、むろん嫌いではなかった。

マタタビは人間にも効能があるらしく、これを食すると長旅から帰ってきた直後でも、「また旅」に出立できるほどの元気がでるといわれている。猫にマタタビ、女郎に小判などと好きなものの例えにもあるが、猫のストレス解消にもなるそうなので、少量を楽しむことにしたい。(2011/01/22)

 

ギンちゃん日記』49

吾輩の今年のお年玉は「トンネル」であった。買い初めに買ってもらった。トンネルとは直径30センチの円筒形で、長さは90センチ。途中に15センチほどの丸い窓が開いている。すこぶる軽い材質である。

ヒョー柄の起毛した布製で、布と布の間には針金やクッションが入っているのか、ふっくら柔らかく、蛇腹になっている。触れると仕掛けでもあるのか、がさがさと音がする。丸い窓のあたりには小さな毛玉がぶら下がって揺れる。

商品名は忘れたが、吾輩は「大蛇のトンネル」と呼んでいる。これをプレゼントされたとき、正直おどろいた。アメリカンショートヘアの吾輩に、なんとヒョー柄ではないか。パッケージされていたときは約20センチと小さかったのに、フックを外すと、びっくり箱から轆轤首が飛び出すように、突然トンネルの長さが90センチになった。

しばらくは警戒していた吾輩も、思いきってトンネル貫通をこころみた。一方の穴から飛び込んで、90センチを突き抜けたのだ。これはいける。ストレスも解消されるニャー。

お年玉はいいものだなあ。(2011/01/07)

 

『ギンちゃん日記』48

吾輩の血統証明書なるものを手に入れることができた。AFC血統書登録協会の公認血統書である。猫種、性別、毛色、目色、生年月日や祖先七代以上にわたる猫名などが記され、登録番号も付される由緒正しいものだ。

そのほかは省くが、吾輩の正式な名前が「Balzac」、つまり「バルザック」であることを知る。

バルザックは19世紀フランスを代表する小説家で、19世紀前半のフランス社会を活写し、リアリズ文学の頂点を示した。自分の作品群に「人間喜劇」という題をつけて全集にまとめた。「ゴリオ爺さん」などが知られる。

吾輩は漱石の「吾輩は猫である」を気取って「吾輩、吾輩」と自称してきたが、戸籍名(本名)がバルザックだったとは青天の霹靂。とは言い条、東西の作家のご縁をいただいたことは霹靂につづく幸いなことであった。それに吾輩「ギンちゃん」→「銀之助」は、漱石の本名である「夏目金之助」の「金・銀違い」であり、これも、もう一つのご縁であったろう。

吾輩の父上は「Hanabi」、母上は「Waka」という名前であり、ひょっとすると国際結婚だったかもしれない。吾輩の記憶は曖昧模糊ではあるが・・・。

なお吾輩は三つ子のひとりとして誕生し、吾輩のほかに男ひとり、女ひとりの「兄妹」が存在する。どこにいるのか兄さんよ、どこにいるのか妹よ・・・。

さて、吾輩の生年月日は、2008年04月19日。この年の6月14日、ふかふかした白い布マットに佇んでこちらを見、尻尾をピンと反らした子猫ちゃんがいる。つぶらな瞳の可愛い子猫ちゃんが、何を隠そう吾輩である。

飼育者の登録屋号、つまり猫舎号「TWC」の担当者さんが、写真に撮ってくれたのだろうか。ともかく吾輩は、ちゃんとしたにゃんである。(2011/01/01)

 

『ギンちゃん日記』47

猫は生涯のうち寝ている時間がすこぶる長い。「寝ている」「子」で「ねこ」と呼ぶようになったという説すらある。

吾輩も夜中と午前中はケージで過ごすが、ここではご飯を食べるか水飲むか、トイレで雲子をするか疾呼をするか、その他は寝ている場合が多い。

ケージから跳び出して廊下や洋間を駆けまわっても、たちまち草臥れ丸くなって寝てしまう。寝たり眠ったりといっても実は90%以上は覚醒していて、いざ鎌倉というときは脱兎のごとく逃げたり、身構えたりしなくてはならない。ハンティング眷属のしがない定めである。

吾輩が人間に戻れる、いや猫に戻れる、ほっとするホットタイムは夕暮れどき。ガラス窓越しに国道20号線を通行する車列を眺め、同時に空を眺めること。灯りはじめたヘッドライトやテールランプ、澄みきった青空を流れる茜色の雲が揺蕩うさま・・・。

こんなとき猫は哲学するのである。吾輩はじっと窓辺に凭れ、動こうとしないのであった。(2010/12/24)

 

『ギンちゃん日記』46

この頃、ときどき「ゲロ」してしまう。ときどきとは10日に1回くらいにわりあい。一気食いして二階(ケージ)から飛び降り、やってしまう。一気食いが悪いか、飛び降りが悪いか。

とうきょうさんの話では、猫族のゲロはそれほど心配いらない。病気でない限り大丈夫だというので、少し安堵した。お河童先生が、一回の食事量を減らし、食べる回数を多くしてくれたので最近はそれもほとんどなくなった。(2010/12/10)

 

『ギンちゃん日記』45

きょうは十月の三十日、寒くなってきた。朝方の室温は18度くらい。小布団にうずくまって丸くなって寝ていると、早起きの河童先生が電気ストーブをつけてくれる。たちまち部屋は暖かくなり、河童先生はいう。

「ギンちゃんはお宝猫ちゃんだ。人間さんより暖かい部屋にいるもん」。「ありがとう。猫は暖かいのが好きだよ。暑すぎはいやだけどね」と吾輩は答える。

十一月四日。この朝は外気温が零下になった。室温は14度。この寒さは何だろう。秋がなくて、いきなり冬になってしまったではないか。灯油のホームタンクを満タンにして準備万端、暖房のスイッチを入れてくれた。

暖房効果は急速には出ないので、とりあえずの暖房として電気ストーブが入る。吾輩はしばらく丸くなっていた。だが、大丈夫だ。吾輩は厳冬の地の生活にも慣れているはずである。越冬の経験があるのである。

すでに書いたことだが、吾輩のおやつはペティオの「花ささみ」で大好物だった。ところが先達てお河童先生が「人間食」の「ささみ」を買ってきてレンジでチンし、室温にして戻してから出してくれた。これがすこぶる美味しいのだ。

「かんな屑状のささみ」と「生肉らしいささみ」の違いは歴然というべき。ときには「花ささみ」の方は敬遠することも。「ギンちゃん。贅沢言ってはダメですよ。どっちも食べるのよ。うちはそんなに金満家ではありませんから」と、お河童先生に叱られる。

話はかわるが、「かつお・削り節」もおやつとして仕入れてくれたが、これは匂いを嗅ぐだけで吾輩、食さない。「以前には食べたのに、なんでそうなるの?」と、これは河童先生に叱られる。

そして猫用にもかかわらず、河童先生が、ひと片、ふた片頬張って「けっこういけるじゃないか!」。(2010/11/04)

 

『ギンちゃん日記』44

午後のひととき、河童先生が仰向けになって炬燵で仮眠をとっている。いや、眠ってはいないが寝ている。休憩しているらしい。吾輩は炬燵板の上にちょこなんと座って、ガラス越しに国道20号線を眺めていた。

「ギンちゃん、抱っこ。抱っこしてやるからおいで」と先生。吾輩はおもむろに片足ずつ炬燵から下り、河童先生の分厚い胸板のシルクの黒ブルゾンに乗っかった。いくら肉球でも「これはすべる、すべる」。

吾輩がすべり落ちないように、先生は両手を添えて体を支えてくれた。先生の顔と吾輩の顔がつと接近し、口付けしそうになる。「グググ、ググッツ」と吾輩は鼻で小さく唸る。

――思い出していた。吾輩が東京の子だったころの東京のお父ちゃ、お母ちゃのことを。あのころは一才にも満たず、自分を吾輩とはいわず、ぼくちゃんと言っていた。抱っこもされた。

諏訪の子になってからも抱っこされたが、そもそも吾輩は抱っこが好きでないので、その後はご無沙汰になっていた。

テレビで観たが、瓜坊が背中に子猿を乗せたまま猪突猛進したり、仲の悪いはずの犬と猿がじゃれあったり、猫と鴉が隠れん坊のような遊びをしたり・・・。

異種の動物同士、人間と獣類や鳥類のつながり。むかしから多くのお噺や口碑が語り継がれている。また鳥獣戯画に代表されるように、擬人法など用いて感情移入され「人獣鳥虫の交流」が図られた。これは底の方で、アニミズムに結びついているのでは・・・。などと河童先生が言っていた。

脱線してしまったが、猫に生まれて猫として育って、吾輩の楽しい寛ぎの30分だった。(2010/10/12)

 

『ギンちゃん日記』43

「猫にまたたび、お女郎に小判」(『広辞苑』)という言葉がある。効果のいちじるしいたとえだが、猫一族とお女郎たちをどこかで蔑んでいるような、ある種のウイークポイントを突きつけられたような、うれしくない慣用語だ。

木天蓼(またたび)は、マタタビ科の蔓性落葉低木で山地に自生し、初夏に白い花を咲かせる。秋に果実を結び、これを乾燥したものは中風やリウマチ、また強壮に効があるいう。名の由来は食べるとまた旅ができるからとの説がある。

やはりというか、それでもというか、吾輩もまたたびが大の好物である。ダンボール製の網目の「爪とぎ」を購入すると、ポリ袋に入ったまたたびの実の粉末がついているので、爪とぎに振り掛けて用いる。

吾輩はボール紙の網目で爪をとぎ、またたびの粉を掘り起こして舐めるのだ。これがじつに美味い。いや美味いというよりも、酔っ払うのだ。爪とぎの台に顔をこすりつけ、でんぐり返って両手で活惚れを踊るようなしぐさをする。

これを見ていた河童先生は、「ギンちゃん。ほどほどにせよ。あんまり酔っ払ってはいけないよ」という。「でも、河童先生も晩酌しているじゃん」と吾輩は言い返した。(2010/10/11)

 

『ギンちゃん日記』42

この夏は暑かった。猫は寒がりだが暑がりでもあり、当然ながら、ちょうど良い気候・温度がよい。夏負けしたのか、このところ吾輩、ダラッとしている。

そして食べたものを嘔吐してしまった。ケージの下段にひと塊、淡い黄色のカステーラのようなもの。吾輩はこれを見るのも触るのも嫌いだ。脚で踏まないように細心の注意をする。まもなくお河童先生が取り除いてくれた。

それからは食事の全量を三等分し、食べたら追加するように、少しずつ食べることになった。嘔吐は一回だけだったが、いささか元気がない。

ソファーのコーナーの、柔らかいマットによりかかって微睡む。河童先生が、すぐ近くの文机でパソコンのキーボードを叩いている。パチパチパという小さな音がする。人好きな吾輩ゆえ、こんな状況でいられるのが至福のひととき。

グルッとひっくり返って仰臥。天井を眺めているうちに、しばらく熟睡した。夢をみた。これが夢というものだろうか。夢とは逃げ足の速い「ねずみのしっぽ」だろうか。

じつは、これが夢であることは後から知った。

「ギンちゃん。爆睡していたね。両手で何かを掴まえるようにもがいていたよ。きっと夢でも見ていたのだね」と河童先生がいった。そうだったのか。吾輩は夢をみていたのだ。夢とは「ねずみのしっぽ」なのだ。

「河童先生も夢をみるの。どんな夢をみるの?」と吾輩は猫語で河童先生に訊いてみた。「もちろん夢をみるよ。夢とは『にんげんのしっぽ』だよ」と先生はいった。

「でも、にんげんに、しっぽはないじゃん」と吾輩は言いかけて、はたと膝を打った、いや肉球を打った。「そうなんだ。そうなんだ!」・・・。

吾輩、元気を取り戻しつつある。「花ささみ」」も美味しく食べられる。(2010/10/05)

 

『ギンちゃん日記』41

吾輩は人である。否、吾輩は猫であるが、「吾輩は人かもしれない」という方が正しいだろう。

吾輩が東京から諏訪に留学して一年と九箇月が過ぎようとしている。諏訪の学園を訪れたのは多分生後六箇月くらいだったろうか、紛れもなく猫であった。幼い猫の男の子であった。爾来20箇月余、この期間を猫の寿命と人の寿命とを換算して算出すると、人の10年に置き換えられるだろう。

江戸っ子の吾輩が諏訪っ子になってゆくさまを、吾輩も河童先生もお河童先生も無意識のうちに認識していたのである。はっきりと目に見えてではなく、熏習(くんじゅう)という、物に香が移り沁むように、あるものが習慣的に働きかけることにより、他のものに影響・作用を植えつけるように、それはそうなった。

つまり吾輩は、人間のライフスタイル、河童先生やお河童先生の生活習慣に作用され影響され、いつのまにかじょじょに「人的」な行動パターンを取るようになってきた。獣の野性を残しながらも本能の残滓を残しながらも、人間になじんできた。

たとえば吾輩の生理現象である雲子(うんこ)や疾呼(しっこ)は、ケージとトイレが隣接しているので人間の気配や行動を読み取って「一緒にすませる」のである。また河童先生とお河童先生のご飯やおやつのときは、吾輩もケージの食台の上のご飯を食べ、おやつは用意してくれるのを待って食べる。

習慣的に定期的に繰り返していると、おのずから学習する。さらに行動とともに話しかけてくれるので「人語」も覚える。

ギンちゃんという吾輩の名前はむろん、「ご飯」「おやつ」「雲子」「疾呼」「お座り」「待って」「お父さん」「お母さん」「ボール遊び」「ピンポン」「鼠子(ねずこ)」「きれい、きれい(ブラシ)」「お首、くちゅくちゅ(くすぐり)」「上」「空」などの言葉がわかる。指差しなどの補充手段をすることによって、これ以外にも理解できることがたくさんある。

このような人間との共生は、猫の「犬化」だとか「猫権蹂躙」だとか口さがない連中は小莫迦にするが、そうではなく、吾輩は猫の進化だと思っている。進化のプロセスの「人化」だと思っているのである。

吾輩を猫とはいわせない。脳タリンの猫どもにいいたい。「吾輩は人である」と。(2010/09/27)