ギンちゃん日記
     
  21号〜40号

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『ギンちゃん日記』40

9月24日。きょうは、驚き、桃の木、そして山椒の木の日であった。吾輩が例のごとく、廊下をフィールド代わりにして紙ボールで「サッカー」をしていた。紙ボールは直径20ミリで、固く丸めてセロテープでぎりぎり巻きに巻いてあるので、よく弾む。それが何処かに隠れて見えなくなってしまった。

お河童先生が「ギンちゃんのボールはどこかな?」と探してくれる。吾輩も、なくした張本人なので一緒になって探しまわる。

「あった、あった。紙ボールがあった。ビー玉があった」。「?ビー玉が?」。ほとんど同時に、河童先生もお河童先生も声にならない驚愕の声をあげた。徹底的に探して見つからなかった、あのビー玉があったと―。

直系15ミリの青いビー玉は、しばらく使用されなかったテーブルの猫脚の窪みに挟み込むように収まっていた。それをたまたま吾輩が紙ボールとともに爪で引っ掻き出したのだった。(おお、テーブルの「猫脚」に挟まっていたとは!)

思えば5月24日。この「ギンちゃん日記」にも書いたように、ビー玉紛失騒動、ビー玉誤飲騒動が勃発。河童先生もお河童先生もたいへん心配してくれた。吾輩自身もうっかり誤飲したかもと、お腹を猫舌でそっと押さえて見もした。ペット病院で検査してもらうことも考えていたそうだ。

あれから・・・四箇月。きょうは奇しくも24日。紛失した日と同じ日であり、日数にすると123日目である。

お河童先生が「ささみ」をレンジでチンして、おやつにしてくれた。吾輩、魚系はどうも苦手で食指が起きず、レトルトの味にも食わず嫌いの気があるが、ささみは好物。ぱくぱくと忽ち平らげてしまった。(2010/09/24)

 

『ギンちゃん日記』39

吾輩は犬である。もとい、吾輩は猫である。間違いなく猫であるが、吾輩が犬になってしまったかと、われながら錯覚するようなときがある。

河童先生が吾輩を調教してくれる。いな、教えてくれる、躾をしてくれるといった方がよいだろう。それは「お座り」とうこと。四つん這いでなくて、座りなさいという意味。主として犬に使われる言葉だが、吾輩はこの「人語」をしっかりと学習し、いつなんどきでも聞き取って座るのである。(機嫌が悪いとき、ごくまれに知らん振りすることもあるが)

犬は群れる動物でボスの統制下で生活し、飼い主である人間に忠誠をつくすが、猫は集団生活をせず基本的には独立独歩の生き方をしている。「忠犬」の語はあるが「忠猫」の語はない。

勝手気まま、しかも怠け者である猫は、人間の「ご託」など聞いて「ハイハイ、承知しました」とはならぬ。「そんなの、知らんニャ」てなことに相成る。

ところが吾輩は、河童先生やお河童先生の「お座り」という声に素直に従うことができる。体が自然に反応してそうなる。犬族の真似をするわけではないが、猫族も人語を聞き取って無理なくリアクションできるのだ。

犬は調教すればさまざまなことができるようになり、警察犬、盲導犬、牧羊犬、麻薬犬などで活躍する。猫は鼠害を減らすがために活躍してきたが、殺鼠剤の進歩とともに実利的な役目の重要さはうすれてきた。しかし猫にも犬に劣らぬ「才能」があるはずで、その眠っている本能を進化させてゆかねばならぬ。

ただし「お手」は狆ころ専用で馬鹿げている。これはご勘弁ねがいたい。こと手に関しては猫族には「招き猫」という、優れて高等なギフト(才能)があるのじゃから。(才能のことを英語でギフトという。才能は天から与えられた贈り物というわけだ)(2010/08/26)

 

『ギンちゃん日記』38

さいきん吾輩、パソコンに凝っている。といってもパソコンの操作をしたりキーボードを叩いたりではなく、パソコンに乗っかって眠るということに凝っている、のである。

わが教室のノートパソコン「LeVie」は、33×28センチの大きさ。吾輩が普通に寝そべると約60センチ。したがって吾輩が丸く身を縮めたところでパソコン上に収まるわけはなく、頭や脚は食み出てしまう。そんな窮屈な場所をよりによって、なんで選ぶのか・・・。

五日前のことだった。河童先生がパソコンのデスクトップから「バーチャル水槽」を開示してくれた。竜宮城に擬した海底にさまざまな魚類が泳ぐ、色鮮やかな夢のような水槽である。魚の泳ぎ方がじつにリアルで、撒き餌をすれば、カクレクマニミやハナミカサゴやキンギョハナダムなどがパクパクと食べる。ほんに優れもの。このソフトは以前にインストールしたものだが。

吾輩は5キロ余の体重をキーボードにでんと乗せ、優美に泳ぐ魚と涼しげなバブル(水泡)の音を楽しむ。そして美しい熱帯魚を肉球で押さえつけ、「きみ、旨そうじゃないか」とか、「派手なドレスを剥ぎ取ってやろうか」とか、猫語でスラングをとばす。

いやいや、それがためではない。吾輩がパソコンに近寄ってくると河童先生は「ギンちゃん、ちょい待ち、ちょい待ち」といって、キーボードに部厚いボール紙をかぶせる。それをしないと吾輩の体重でパソコンがトラブってしまう。以前に壊れてしまい、サポートセンターに依頼したことがあった。

吾輩がパソコンを占拠すると、河童先生は否応なく観念、作業を中断せざるをえない。てなわけで吾輩の相手になってくれる。

こうして吾輩と河童先生との距離感は「目と鼻の先」になる。河童先生は吾輩の頭や首や喉を優しくなででくれる。吾輩は河童先生をお父さん猫のように思い、あるいは吾輩が人間の子どもではなかろうかと思う。こんな「距離感」はパソコン上をおいて他にはないのである。(2010/08/10)

 

『ギンちゃん日記』37

思えば、吾輩がビー玉を「誤飲した・誤飲しない」の騒動の起点は5月24日だった。きょうは7月24日だから、ちょうど2箇月が経過したことになる。

その後の吾輩の体調について「ギンちゃん日記」に書き記すこともなく、いたずらに月日を送ってしまった。ビー玉は誤飲しなかった、あるいは仮に誤飲したにしても、現在のところ大丈夫だという安堵の気持ちがある。しかしわれながら、日記をサボった、この怠惰はなんだ。悔恨の情がふつふつと湧き上がるのである。

暑いニャン。茹るニャン。室内の温度計は29度くらい。これしきの暑さで弱音は吐けないが、やはり暑い。河童先生がときどきエアコンの火を入れてくれる。冷房とドライの繰り返しで、しばらくすると涼しくなる。河童先生は冷房病なので、ひやひや寒いなあと愚痴って、火を落としてしまう。

吾輩はここのところ、食欲がやや減退。お尻の辺りが少し痩せたかなという感じだが、春秋時の90%くらいの食事量は摂っているから大丈夫だろう。

きのうのことだった。お河童先生が廊下の高窓のサッシを開けて網戸にした。涼風を取り入れようという寸法だ。吾輩は外界の音を聴かんと窓枠に飛び乗って、ちょこなんと座り込んだ。これを見て、河童先生とお河童先生がびっくり仰天、おどろいた。

「こんな高いところによく乗れたな。ギンちゃん、羽でも生えたか」と河童先生。そして巻尺を持ってきて計測。高さ150センチジャスト。垂直の板壁を引っ掻きもせず飛び上がり、板幅約12センチの窓へりに乗ったのである。

ギンちゃんは背伸びをすれが約100センチだが、手足と尻尾を縮めて丸くなると35センチくらい。自分の身長の4〜5倍の高所へ、ひょいと跳躍する能力と敏捷さ。シンジラレナイ。しんじられない。

人間に置き換えるなら、道路を歩いていてホップステップジャンプ、いきなり三階建ての屋根に飛び乗るようなもの。

よく映画などで、忍びの者や、くノ一が忍術を遣って屋根に飛び乗ったり屋根から飛び降りたりする。あれは誇張だろうが、猫は誇張ではない。吾輩は猿ではないが、リアルでござる。と、河童先生は吾輩に成り代わって、駄洒落を言ったり感心したり。

人間さんは、猫は寝てばかりだと思っているらしいが、猫は凄いのだ。(2010/07/24)

 

『ギンちゃん日記』36

前号で「地域猫」についてふれたが、けさ、表通りの舗道で死んでいる状態の猫が発見された。河童寓のすぐ前の舗道上でのことである。お河童先生が見つけたが、焦げ茶色の大きな猫で、背伸びをしたような恰好で嘘いえば130センチはあったろうか。

お河童先生が市役所に電話をいれたが日曜日とて埒が明かず、屍体処理は休日明けに持ち越された。いわゆる地域猫か、どこかの飼い猫か、薫陶を受けんと吾輩を訪れた旅の猫か、その辺はわからない。とまれこうまれご冥福を祈るほかはない。

きのうの夕方のことだった。吾輩はたぶん恐らく確かに、なんらかの猫の声らしい声を聴きとめた。玄関の扉越しにただならぬ状況を感知したが、それがなんであるかは認識できなかった。吾輩は玄関の三和土(たたき)の上を行ったり来たり、落ち着かないようすで歩き廻った。

――猫は死んでいたのである。この時代、間違いなく餓死ではないだろう。屍体状態からして交通事故死でもなく、つらつらと想像するに病死がもっとも考えられるところだ。

きょう(6月13日)の三時のおやつの時間に、河童先生が吾輩に「花ささみ」(削り節仕立ての鶏のささみ)をくれた。吾輩の食器のすぐ脇に「ささみ」の小さな山を作り、「これは死んだ猫ちゃんのお供えだよ」と河童先生がいう。「ギンちゃん、自分のおやつを食べたら、お供えの分も食べていいよ。供養だからね」。

「わかっているよ。みんな食べるよ」と吾輩は猫語で言った。猫ちゃんに供えた「花ささみの山」も美味しかった。【生きて食って跳んで眠って、これでいいのだ、人生は!】

6月14日。朝まだき。そぼ降る雨のなか、「送り人」の手によって死んだ猫ちゃんは運ばれて行った。ニャンマイダ。ニャンマイダ。(2010/06/14)

 

『ギンちゃん日記』35

「ピンポーン、ピンポーン」と、ドアチャイムが鳴った。吾輩は反射的に立ち上がり、肉球を利かせて四肢をふんばり、居間の出入り口にすっとんだ。

チャイムが鳴ると訪問者への応対のため、居間で蜷局を巻いているお河童先生が居間の戸をあけ、玄関の開錠に馳せ参じるのがパターン。慌てるお河童先生は、とうぜんながら戸の開閉の注意が散漫になり、吾輩はその間隙を狙って、居間に闖入しようと試みる。

ほぼ50%成功率のこの策略、今回はみごとに成功した。常日頃は入室が禁じられているこの部屋は、禁じられるがゆえにミステリアスな雰囲気を感じる。実際にはときどき突入して「勝手知ったる我が家」なのだが、なぜか探検気分になれるのだ。

――勿体ぶった前振りが長くなってしまった。・・・吾輩が居間の大きなサッシ戸のところまでスプリントを駆使して駆け寄り、そこで遭遇したもの、それは白が汚れて鼠色の大きな野良猫だった。

吾輩は思わず知らず「シェー、シェー」と一発かました。ところがどうだ、野良も同様に「シェー、シェー」と応ずるではないか。硝子越しの威嚇と睨み合いはしばらくつづいたが、間もなくお河童先生が戻ってきた。

「あら、あら。ギンちゃん、どうしたの」。仲裁人のおばさんに怖れをなしたか野良は威嚇をやめ、すごすごと退散。吾輩も吾に返って、ほっと背中を丸くする。

最近この界隈には野良猫が多いらしい。先達ては白くて小形の猫が裏庭を徘徊していたと河童先生が話してくれた。それ以前には、お河童先生が大きな灰色の野良猫を裏川の近辺でみかけたと言っていた。それやこれや、野良猫の噂がしきりだ。

なんでも昨今は野良猫のことを「地域猫」と称するらしい。地域の猫好きが何名かで交代してご飯を与え、去勢や避妊の手術を施し、猫糞の清掃も行うというもの。

野性の獣や鳥に餌を与えるな、野良の犬猫に餌を与えるな、とよくいう。与えることで問題も発生するが、日本には「寒施行」「野施行」といって、寒中に餌を得るのに苦しむ狐や狸などに餌を施し与える習わしがある。動物といえども餓死させまいとする慈悲と、施しによって施行者が免罪された気分になること、仏教的なベースがあるのかもしれない。と河童先生が言っていた。

「地域猫」があるなら「地域人」はどうだろうか?ホームレスとかダンボール家の人人とかいうが、一定の地域を根城にしているだろうから、このネーミングが相応しいのでは。現代では浮浪者とか物貰いとかは、さすがにいわなくなった。しかし乞食(こつじき)には古来より僧侶や托鉢の語意も含んでいて、隠棲にして雅人という面も否定できない。

「ちいきじん(地域人)」は「ちしきじん(ちしきじん)」・・・「い」と「し」だけの違いじゃないか。と、吾輩は猫の身でありながら、河童先生に対してご託をならべた。―やや脱線してきたので、今日はこの辺で。(2010/06/11)

 

『ギンちゃん日記』34

「直径15ミリの青色のビー玉」・・・たまたま棚の整頓をしていたお河童先生がみつけたものだが、吾輩にとってビー玉との遭遇は衝撃的であった。これまでビー玉なるものの存在を知らなかったが、ビー玉のもつ遊びのおもしろさは「ボール遊び」のなかで比類なきものだった。

ガラス製品ゆえに重量感があり、両肢ではじくと相応の手応えがあり、肉球に快さを残して、ビー玉は廊下を勢いよくころがってゆく。重いから加速もついて、「コロコロガラガラ」と響くのである。

5月24日の午後5時ころだったろうか、独りでビー玉遊びをしていたのだが、ビー玉を見失ってしまった。目の前から突然なくなってしまったのだ。河童先生とお河童先生はビー玉のころがって行きそうな場所を探してくれたが・・・ない。

「ギンちゃん、誤って飲んじゃったの?」「ボク、鼻先で触りはしたが・・・飲んでいないと思うよ」と吾輩は答えた。正直なところ、無意識に飲んだか飲んでいないか、自分でもわからないのだ。

「気のせいか、やや元気がない感じだが、歩きも走りも特に変わったところはなく、夕方7時のご飯の食欲は普段通り」と、河童先生もお河童先生も言ってくれる。二人は心配して吾輩をしきりに観察している。

5月25日。いつも朝7時の雲子(排便)は、なし。疾呼(排尿)はあり。朝食は普段通りの食欲。行動に不自然なところは見られない。

午後1時には部屋をでる。やや元気がないように見えるが、廊下を飛びまわり二階へも駆けあがる。3時に排便し、ほっとする。お河童先生は吾輩の雲子をポリ袋越し押さえ、つぶす。「もしかしてビー玉があったら?」。「ボク、飲んでいないと思うよ」。

3時のおやつ「花ささみ」は美味しい。ぱくぱくと食べる、むろん「おやつ」としての適量(約3グラム)以内だが。それにしても、東京の高ちゃんが「誤飲」しない、させないように言ってくれたのにと、河童先生もお河童先生も後悔しきりである。とまれ吾輩は本当にビー玉を飲んでしまっただろうか?

5月26日。今朝はいつも通りの元気のよさで、「むにゅ。むにゅ」(おはよう)も言えた。食欲は普段通り。10時ころ排便あり。お腹を軽くさすると怒って噛むが、これは平常通りの行動。おやつを食べているときには軽くさすっても嫌がらず、痛がるようなことはない。24日、25日はやや元気がなく見えるときもあったが、きょうは平常通り。と、河童先生は観察してくれた。

5月27日。今朝も元気にみえた。疾呼あり、雲子は午後あり。廊下を跳びまわり、すぐに疲れるが、しばらく休憩すると再びあそぶ。3時のおやつ「花ささみ」(約2グラム)を旨そうに食べる。

6時から6時30分までソファーで微睡む。この時間は河童先生たちが食事をしている。だから心置きなく眠ることができる。吾輩のご飯は間もなくだ。

5月28日。ダンボール製の「爪とぎ」にはマタタビ粉がサービスでつく。ポリエチレンの小さな袋の封を切って、それをふりかける。これがたまらんのだ。吾輩は爪をとぎ、涎をたらし、寝転がって頭をすりつける。

「ギンちゃん元気だな」と河童先生。きょうも朝から普段通りの生活や学習ができている。「ビー玉など誤飲してないね。大丈夫だね」と河童先生は言ってくれる。

29日、30日、31日。6月になってきょうは7日、「ビー玉」から2週間が経過した。吾輩は普段通りの生活がつづいている。河童先生もお河童先生も祷ってくれていたというが、ともかく元気である。「ギンちゃんファン倶楽部」の会長さんもよろこんでくれると思うよ。(2010/06/07)

 

『ギンちゃん日記』33

吾輩は「猫」である。猫ということになっている。断っておくが、吾輩や吾輩たちを猫と呼称しているのは人間であり、猫自身が自分たちを「猫」と名乗っているわけではない。

猫でなければ、猫と呼ばれたくなければ、吾輩はナニモノか。「目・科・属」のどこにどのように属したいのか。吾輩自身が吾輩をナニモノであると主張したいのかと問われると、にわかには返答できない。ややこしくなるので、ここはとりあえず「猫」ということにしておく。

猫は「飼い猫」と「野良猫」に二別できるが、数の上では飼い猫が圧倒的に多いようだ。ペットフード工業会の2003年の調査では、飼い猫690万匹に対して野良猫110万匹、合計で約800万匹という。飼い猫のうち、外出自由で「一見野良」は90万匹に達すると推定される。ちなみに2004年の調査では数字がうなぎ昇りで、合計1163万匹とカウントされている。

「鼠算」という言葉があり、聞き馴れないかもしれないが猫には「猫算」ともいえる子孫繁栄の計算があるらしい。バークレイによると、はじめ一対の猫がいて10年間の期間で、子猫も孫猫も曾孫猫もその次の代も順調に出産すると仮定して、8万と399匹生まれるという。

とまれこうまれ、1163万匹といえば、日本の人間の人口は12776万(平成8年)だから約1対10の割合であり、10人が1匹の猫を飼っている計算になる。

さてさて・・・吾輩の書きたかったのは、このことではない。この一週間ほど、明け方にかけて「のら」猫ちゃんが鳴くのである。吾輩の寝ている部屋の窓はサッシの曇り硝子なので外は見えないが、裏庭の小砂利をさくさくと肉球で踏む音や、「ニャー、ニャー」という小さな声が聴こえてくるのだ。

吾輩にとって猫は、アビちゃん、ニアちゃんしか知らない。他の猫とはなんだろう。そもそも吾輩は人間と暮らしているので自分が猫である気がせず、人間だと思っているようなところがある。それで「のら」ときくと妙に落ち着かなくなるのだ。

翌日のことだった。リビングの河童先生が叫んだ、「外に猫がいるよ」。小柄の白い猫が室内をちらっと見て、通り過ぎていったという。また先生は朝方に猫の鳴き声を聴いた、ギンちゃんとよく似た優しい声だったとも。吾輩はますますいよいよ、落ち着かない心境となるのであった。(2010/05/22)

 

『ギンちゃん日記』32

吾輩の知っている言葉について。「ギンちゃん」「お利口さん」「お莫迦さん」。・・・次は「おはよ」。夏期の朝は5:30ころに起床する河童先生。目を覚ますのはそれより30分ほどまえというが、寝返りして内臓や血液の「天地」させたり、手足を屈伸させたりマッサージしたり、して、やおら起き上がる。そして隣室の吾輩の「二段ベッド」をのぞきこむ。

「ギンちゃん。おはよ」。「おはよ」。その声を聴いて吾輩は天井につかまりながら大きく背伸びし、ブルッと毛を震わせ、片手で顔をこする。「ギンちゃん。朝の挨拶しょうね。おはよ。お・は・よ」。

寝惚けた声で、「むにゅ。むにゅ」と吾輩。「むにゅ」と発音してみたが、「にゃむ」と言ったような気もする。そもそも猫にとって「おはよ」はちと難しい発声だ。いずれにしても猫に似合わぬ低音で、河童先生に挨拶を返すのである。

河童先生は「挨拶できたね」と大変よろこんでくれる。毎朝必ずではないが、多分10中9回は返事ができる。吾輩は気侭なので覚えていないが。

つづいて「疾呼(しっこ)」。「しっこ」について、河童先生はなぜかこの字を当てる。それはさておき、先生が「ギンちゃん、お疾呼してね」といって、空気清浄機のスイッチをオンにする。吾輩はトイレットに這入ってシャーと放尿し、砂を威勢よくぶっかける。「疾呼」と「雲子(うんこ)」という人間の発声、つまり人語を聴き分けることができる。

とくに「疾呼」については、お河童先生が「晩ごはん」の少しまえにモップで清掃するのだが、「ギンちゃん、お掃除するから、お疾呼してね」というと二段ベッドの一階のトイレで、シャーと放尿する。「尿袋」に尿が溜まっている場合が多いが、あまり溜まっていなくてもできるのである。言葉に反応するのである。(2010/05/15)

 

『ギンちゃん日記』31

人語について。先ず「ギンちゃん」。東京の高ちゃんの命名だと思うが、これが吾輩の名前である。生後しばらくは名なしの権兵衛だったろうが、縁あって、あるいは里親さんと目があって「人間ちゃん」と共同生活するようになった。たびたび呼ばれているうちに、「ギンちゃん」が自分の名前であることを自覚させられた。猫側からいうと、人語の2音から4音くらいまでは確実に覚えられる範疇であるが、それ以上は自信が持てない。

「ちゃん」はどうでもよいが「ギン」という言葉のひびき、それが吾輩であることを知らしめる。むろん最初からではなく、「人猫同棲」の生活のなかで人間が吾輩に呼びかける、語りかけることによって、おのずから会得したものだ。

あるとき「ギンちゃん」と呼ばれ、吾輩が「ニャ」とひと声返事をして炬燵(こたつ)のうえに駆け上がったことがあり、河童先生は言葉がわかるといたく感動していた。呼ばれていつも返事するわけではないが、尻尾では必ず「返事」をするはずだ。尻尾の振り方をよく観察してほしい。

「お利口(りこう)さん」も知っている人語。音律的に猫にはむつかしい言葉だが、人がこの言葉を発声するとき声に優しさ柔らかさがあること、つまり猫撫で声であること。また吾輩の頭などを愛撫してくれるというノンバーバルコミュニケーションの手助けもあって、褒めていると理解できる。「そうかい。世辞でなければ、うれしいね」という吾輩の返答は、ゆっくりと両目を一回だけ瞬きするのだが・・・。わかるかな?

「莫迦だねえ」。これも知っている。吾輩の通り抜けをおもんばかって部屋の引戸を10数センチ開けておいてくれるが、火急のとき慌てて顔をぶっつけてしまった。「ギンちゃん、莫迦だねえ。お前さんは顔が大きいからね」と河童先生。

またある午後のこと、窓辺の日の当たるプリンターの上で毛繕いをしていて脚をすべらし、危うく落ちかかる。「猫がそんなことでいいの?」。声の調子からいって、語感からいって、とても褒めているとは思えない。

吾輩は利口なのか莫迦なのか。「男一匹、利口か莫迦か、丁半決めてもらおうじゃないか」などとすごむつもりは毛頭ない。さりながら、アニマルの世界での猫族の、吾輩の、「偏差値」を知りたい気持ちがなくはない。

そんな折も折り、こんな本がでた。『ネコのI、Q、テスト』(ダイナミックセラーズ出版。E・M・バード著。犬養智子訳。R・レイデンフロスト画。定価840円(税込))。「家のネコにためしたくなる愛猫家待望の本!≪重版出来≫ネコの個性やおリコウさん度がハッキリわかるユニークなIQテスト。あなたの猫は天才?秀才?それとも・・・おバカ?」(朝日新聞)

それにつけてもこの新聞広告にある「表彰状つき」とはなんじゃい。天才・秀才には表彰状だって。出版社よ著者よ「表彰だと。威張りくさって、あんたネコ科のなんなのさ!」。ま、とまれこうまれ、買ってみたい気はするが。(10/04/29)

 

『ギンちゃん日記』30

この日記を二箇月余にわたって、さぼってしまった。言い訳はあるが、そこはグッと堪え、すべては吾輩の「怠惰」ということにしておこう。ただいたずらに馬齢、ならぬ猫齢を重ねてきたわけではなく、吾輩なりの有意義な日日を送っていたとは自信をもって言えるだろう。

吾輩の信州での「寄宿舎生活」も1年と4箇月、吾輩はそもそも留学という立ち位置であったが、最近では地元コミュニティー(向こう三軒両隣の猫好きさん)や河童寓での学園生活にもとけこんで、諏訪人というか、「諏訪猫」と申したほうがしっくりくる、そんな感じなのである。

黄昏時、窓辺にたたずんで、猫背をさらに丸くして虚空を眺める。雲の行き来、鳶や鴉が塒(ねぐら)に帰るさまをじっと眺めているのがとても好きだ。

この空は遥か東京につづいているだろう。アビ兄もニア坊もひょっとして空を眺めることが出来るかもしれない。東京までの距離は道路・鉄道で約200キロ余、地面は地つづき、虚空は空気つづきで間違いなく「つながって」いるのである。

アビ兄とはよく喧嘩をした。確かに「シェー」とお互いに威嚇し合った。ニア坊はおとなしいので、さらりと交わされた。だが吾等猫族、どこかでみんな仲良しであるはずだ。そんな懐旧に耽っていたら、窓越しの夕闇はいよいよ深まった。

河童先生によると、吾輩は人語を20個くらい覚えたという。吾輩に確たる自覚はないが「人間さん」の発声する声を聴き取ることができる。その音声の意味を理解するかというと、正直やや曖昧模糊としている。その辺は今後に待たれるが、「吾輩が覚えたであろう言葉」について、次に取り上げてみようと思う。(10/04/15)

 

『ギンちゃん日記』29

吾輩が食欲のないことを、河童先生もお河童先生も心配してくれる。お腹が痛いのではないか。歯が痛いのでは。足が痛いのでは。どこか体が悪いのではないかと。

「わたはん」のペット用品売場に出向き、「金のグルメ」「天然かつお節荒削り入り・かつおご馳走グルメ」を購入。パッケージに「香る」「かつお風味と旨味が生きる・かつおパウダー」も入っている。「かつお」が売りの食べ物らしい。別にササミを乾燥させ、かつお節仕立てにして削ったものも一緒に購入してもらった。

上記のグルメを「ライト」に混ぜて、振りかけて出してくれた。「ふむふむ、これがグルメか」と吾輩。謳っているだけあって香りはなかなかいいではないか。でもしかし、それをちょっと、抓んだだけである。

22日頃から、吾輩の食事のパターンがガラッと変わった。これまで盛り付けたものを一気呵成に食べていたのが、ちょっと口にして、何時間かが経過したのち再び食べる。昼間も夜間も、少しずつ食べるというパターンになった。

22日23日ころは、平生食べる75gの約半分と思われたが、その後には三分の二、50gくらいは食べているかもしれない。

いたって元気であり、これまで通りの行動であり、なんら変化はないように見える。「雲子」は時間的にずれるが排泄するし、「疾呼」は普段どおりに排尿できる。こんなふうに、食べ方が一挙に変わることがあるだろうかと、河童先生やお河童先生はいぶかるが、元気だから問題ないと吾輩は猫語で返事するのであった。(10/01/28)

 

『ギンちゃん日記』28

旧臘の4日に、河童先生は左手の中指と薬指の2本を脱臼したのだったが(薬指は仮性脱臼)、14日にギブスを嵌め、のちにはギブスを外してリハビリに励む日日がつづいている。

接骨院の院長先生と女医先生が交代で、3日に2回くらいの間隔で往診してくれる。金属製の洗面器にぬるま湯を張り、電気を流して細かい振動を起こす。振動といっても全く自覚できない性質のものらしいが・・・。そのあとで先生が、曲がらぬ2本の指を捻じ曲げ、運動機能の回復をめざす。

治療時間はかれこれ10分ほどだが、先生の往診で幾分でも曲がるようになった指が元に戻らないように、河童先生自らが行うリハビリテーションが痛くて大変らしい。

吾輩は治療現場に立ち会ったわけではないが、河童先生から内容をきいて、大変だろうなと思うのである。河童先生は2本の指を吾輩の鼻先に差し出し「ギンちゃん、痛いの、痛いの、飛んでいけ!とやってくれよ」という。

吾輩はその指をぺろぺろと舐める。鼻孔をひくひくさせて指の臭いをかぐ。もんで熱をもった2本の指は、他の指とは違った臭いがあり、体温が上がるのだろう。それを感じ取って吾輩は舐めるのだ。

話はガラッと変わるが・・・無免許の天才外科医、ブラック・ジャックを描いた手塚治虫の漫画の一齣であるが、病室に案内され診察するまでもなく「においでわかる。もう手おくれかもしれんぜ」・・・

臭いと病気について、実験ではあるが、五種類の癌の臭いを嗅ぎわける牝犬、真っ黒なラブラドルレトリバーのマリーンが千葉県にいる。という新聞の記事を読んだ。

猫である吾輩とて、当然ながら人間の病気や怪我による臭いや患部の腫れなどを感じ取る本能が備わっている。吾輩は河童先生の指が治ってくれるように「猫パワー」で治療してやるのだ。

「ギンちゃん。ありがとね」と河童先生がいう。(10/01/22)

話はまた変わるが吾輩、やや食欲がない。普段はヒルズ・サイエンスダイエット・ライトを一日に75g(多分)食べるのであるが、22日23日と約半分残す。しかし元気よくて廊下を跳びまわり、行動を観察している河童先生やお河童先生は、心配ないねギンちゃんといってくれる。

「キャミーねこちゃんのおやつ・鶏胸肉・削り節風」(「おやつ」としてペットグッズベンダから購入したもの)は好きで食べる。削り節風のそれを千切って「ライト」にふりかけると、ライトも食べる。雲子も疾呼もちゃんと出ているし、大丈夫だよと河童先生たちはいってくれる。(10/01/23)

 

『ギンちゃん日記』27

暮れも押し迫ってボスのタカちゃんが帰省した。地方都市であるこの辺りの初売りは元旦からだろうか、それとも二日からだろうか。インターネットで調べてみると、大型店によってまちまちだが「えいでん」は元旦から営業しているという。

河童先生がギブス巻きの二本の指を巧く操って車を運転し、「えいでん」と「つたや」を廻る。タカちゃんがケータイ、テーブルタップ、単2乾電池などの電気用品、A4のファックス用紙、パイロット万年筆スペアインクなど河童寓のための備品、文房具の買い出しを手伝ってくれる。

吾輩には係りあいのないこと、また吾輩の関知しないところでの作業であったが、元旦早早の初売り、いや「初買い」だ。

タカちゃんとは約半年振りだったが、吾輩はすぐに思い出すことができた。それは視覚ではなく、嗅覚だったのかもしれない。吾輩にとって嗅覚は記憶を呼び覚ます源泉でもある。

タカちゃんとは数日過ごし、そして正月の6日の11:30ころに上京した。タカちゃんが玄関を出るちょうどそのとき、奇しくも叔父さんおばさんに遭遇するのであったが・・・。

翌日であったろうか。吾輩は2階に上る階段のところで、じっと二階の様子を窺っていた。次に階段を上って踊り場でじっと待っていた。タカちゃんが今にも戸を開けて現われのではないかと。タカちゃんが二階の室内にいるように思えてならなかったのだ。

翌翌日も待っていた。「ギンちゃん、タカちゃんは上京したよ。待っている気持ちは分かるけれどね」と、河童先生は声をかけてくれたが・・・。(10/01/10)

 

『ギンちゃん日記』26

日本郵便の赤いバイクが止まり、郵便受けにガサッと音がして数通の手紙が届いた。河童先生が区分けしていたが、「ギンちゃんにも手紙が来ているよ」といって茶色の封筒をみせ、封をきった。差出人は「ギンちゃんファンクラブT・K」とあった。

「T・Kさんって、知っている、知っている」と吾輩。T・Kさんはホームページの吾輩の写真をみて、「可愛い、可愛い」と吾輩のファンクラブを立ち上げてくれた。Tというお名前からして猫族の「通称」であるように、猫をこよなく愛する方である。

「ギンちゃんから、河童先生とお河童先生によろしくお伝え下さい。寒くなりますから、風邪などひかれませんようご自愛ください」という文面があり、差し入れがあった。

こんなに沢山いただいてよいだろうか。「かつおぶし」「こざかな」「ささみ」のおやつが食べきれないぞ。ハンティングのおもちゃ「ねずこ」も買えてしまうよ。ありがとTさん。なんだか悪いニャン。(09/11/30)

「くんくん」。吾輩は鼻を鳴らす。どこからとなく、何かの匂いがする。よい匂であるが、それが何の匂いであるかたはわからない。「コーコー、コーコー」という何かの鳴き声が聴こえる。かすかな鳴き声なので、それが何であるかはわからない。猫の嗅覚と聴覚は人間の数倍、数十倍といわれるが、それでもわからないことはある。

・・・このとき吾輩は目を覚ました。夢から覚めたようだ。時計が朝の六時をつげる。まもなく河童先生が起きてきて、吾輩の二段ベッド(ケージ)を覗き込むはずだ。

「ギンちゃん、おはよう。暖房入れているけど寒いねえ」と先生。「でも19度あるから大丈夫だよ。ボク夢をみたらしいよ。何か匂いがして、鳴き声が聴こえたもん」と吾輩はいった。

朝のテレビのローカルニュースが流れる。「冬の使者である白鳥の第一陣が、諏訪湖に9羽渡ってきた。例年より14日遅い飛来で、岡谷市の横河川の河口でシベリアからの長旅の疲れを癒している」。

コーコーという鳴き声は、諏訪湖周辺を低空で旋回する白鳥の鳴き声だったのか。何かの匂いというのは白鳥の匂いだったのか。あれは夢ではなく、吾輩の感覚が受け取ったものかもしれない。

吾輩は昆虫に異常なまでの興味をしめすが、鳥に対しても興味津津。鳥は鴉と鳶の他はなんでもよろしいが、就中コケコッコがいいな。ナゴヤコーチンはすてきだよ、姿も味も。あ、ボクの言動おかしくない?やっぱり只今このとき、夢のなかにいるのかな?(09/12/02)

 

『ギンちゃん日記』25

「かつおぶしだよ人生は」という歌が流行っている。高田ひろお作詞、佐瀬寿一作曲、久隆信編曲。うた、加藤清史郎&アンクル☆させ。なんでも、NHK・教育テレビ「みんなのうた」が発信元らしい。歌う加藤くんはまだ坊やで、出だしを踏み外したりするが、吾輩同様その可愛らしさがうけているようだ。歌詞の一番は、こんな感じ・・・。

猫に生まれて よかったよ
気ままに生きても 誰も文句はいわないよ
まいにち毎日 猫の手を
借りたいなんて 人間は
エ〜忙しそうに してるけど
貸してくれよと 頼んでこない
それで それで いいんだよ
ハア〜かつおぶしだよ人生は

「猫に生まれて よかったよ」という件(くだり)は、吾輩も賛同できる。もしも犬に生まれていたらと考えると、ぞっとする。「忠犬」ならぬ「忠猫」なんざあ、御免こうむりたい。飼い主だって忠誠をつくす猫を求めてなんかいないって。したがって、「気ままに生きて」いられるというもの。

さて本道に入ろう。「猫にかつおぶし」とよくいうが、かつおぶしは美味だろうか。じつは河童先生が「鰹本節削り」(シーラック)を吾輩に食べさせてくれた。焼津産削りぶしの小さなパックの封を切って紙皿に入れ、お食べという。吾輩は鼻を近寄せてくんくん。いい匂い。ところが削りぶしは、吾輩の荒荒しい鼻息によって吹っ飛んでしまう。

これは大変と先生は、飛騨・高山の板蔵「越冬水」を数滴たらし、「削りぶしのお浸し」をこさえてくれる。「これなら飛び散らないよ。どうだ」。吾輩はぺろぺろとなめ、「これなら食べられるよ。かつお風味は薄まってしまったけれどね」。

「これが、あの有名な、かつおぶしか?」この風味はすてき、悪くはないが「かつおぶしだよ人生は」といわれちゃ、猫は食い気だけで生きているって思われてしまうな。

それはともかくとして「浪花節」と「かつおぶし」、「ぶし」の語尾の語呂合わせはなかなかおもしろ。歌う坊やも褒めてやるよ。(09/11/17)

 

『ギンちゃん日記』24

猫は尻尾で会話する。吾輩は尻尾をもって、「人間ちゃん」と確かな会話ができると思っている。ところが人間ちゃんは「尻尾語」については認識不足。たとえ認識していたとしても、「尻尾ランゲージ」でコミュニケーションを取ろうとしない。ずぼらなのであろう。

河童先生が吾輩に語りかけるとき、吾輩は尻尾で返事するのだが、なかなか聞き取ってくれない。河童先生はインターネットで検索して「しっぽで見る猫の気持ち」をお気に入りに入れ、ときどき研究しているようだが実践については及び腰。尻尾の縦横ななめ、尻尾の全体や先だけの振り方などのパターンが学習できていない。

河童先生は毎朝6:00ころ蛍光灯を点灯し「おはよう」と吾輩に朝の挨拶をする。いきなり明るくなった寄宿舎で、吾輩は目をしょぼしょぼさせ背伸びをし、尻尾を左右に小さくふる。尻尾を左右に小さくふるのが「おはよう」。

だが河童先生は「ギンちゃん、おはよう」と再びいい、声による返事を請求する。仕方ないので吾輩は「むうにゃー」という低い声を発する。それがすなわち「おはよう」なのだ。

「赤巻紙・青巻紙・黄巻紙」とか「坊主が屏風に坊主の絵を上手に描いた」とか「東京・新春シャンソンショー」とか、早口言葉の練習などしないので、猫はいたって滑舌(かつぜつ)が悪い。猫族の発声の基本形は「nyaa」である。人語の発語はそもそもむつかしい。それでも吾輩の苦心の「むうにゃ」(muunya)が河童先生に通じたようで、「挨拶できたね」と褒めてくれた。(09/10/23)

河童先生は吾輩に「お座り」を求める。大概は「おやつ」を食べるときの行儀作法だが、聞き入れるときと無視するときがある。吾輩がお座りして、おやつを食べると先生は頭をなでてくれる。猫背をなでてくれる。「ギンちゃん、利口だな。人間の言葉がちゃんとわかる」と褒めてくれる。

しかし吾輩、内心ではあまりうれしくない。「お座り」はワン公に対する行儀作法で、猫に作法や躾は無用でござる。そもそも猫は人間ちゃんに尻尾をふらない。猫は野性であること、孤高であることが本性であり、忠誠や服従のワン公とはきっぱりと一線を画す。

河童先生もお河童先生も、自分たちのライフスタイルに吾輩が溶け込んでくれて、そのなかで吾輩と交流できたり、可愛いしぐさや楽しい遊びができたりすることを望んでいるようだ。わからないではないが、猫の「犬化」はご免こうむるといいたい。

とはいっても、吾輩としても、人間ちゃんと仲良くやっていきたい。「えっ?」「人間ちゃん」という言い方が可笑しいって?でも、人間は「猫ちゃん」というじゃないか。

猫の眷属としての立ち位置からすると、人間はある意味でペットでもある。飼育され愛玩される意味でのペットの一方で、たまごっち的育てる心に応えるというのも逆説的意味合いのペットだ。猫という存在が人間に育成というチャンスを与え癒しを与え、生き甲斐や夢を与えているのである。そう考えられないか。そんな意味での「人間ちゃん」ということばである。(09/11/6)

 

『ギンちゃん日記』23

なんだか雲行きが怪しい。雲がすいすいすっ飛んでゆく。吾輩は思いっきり体を伸ばし、ガラス戸に仁王立ちになって空を見上げる。ノートパソコンのあるこの場所からは、よく空模様や天体観測をするのだが、きょうは尋常でない雲の流れ。

「ギンちゃん、目玉ひん剥いてどうしたの?鳥でも見ているのかい」と河童先生が訊く。「先生って、頓珍漢だね。台風がくるのさ」と吾輩は猫語でいう。

(なまず)の地震予知は、ときどき口の端にのぼる。鯰くんの予知の真偽のほどはわからないが、動物には予知能力があるといわれる。通常と違う雲の流れを見、窓越しに伝わる気圧の変化などを感ずると、吾輩の猫っ毛が総毛立つのである。

「18号台風日本縦断って、テレビが放映していたな。ギンちゃん台風を予知したのかな?」「だから、そう言っているでしょう」。

きょうは来客が多い日だ。市役所の看護士さん、長銀の転任挨拶の二人の兄さん、ペットグッズ屋からの吾輩ご飯の宅配さん、ヨーグルト勧誘の牛乳屋さん。玄関先でお引取り願ったり、洋間に招きいれて話をしたり、河童寓の対応は必要に応じてまちまち。

人間には臭いがある。体臭には人それぞれ違いがあり、呼吸や体面から発散するもの、微量ながら衣類や履物などからも認められるものらしい。吾輩は「犯人探し」ではないが、玄関や洋間の臭いを追って確認するのである。(09/10/07)

お河童先生が町の協議委員として外出した。会合もお開きになる時刻になった。吾輩は玄関先に座り込んで待っている。もう帰宅するに違いない。きっとまもなく帰宅する。そんな確信がある。

「ギンちゃん、そんなところにいないで、こっちにおいで。まだ帰ってこないから」と河童先生。

「いまにきっと帰ってくるよ。遠くから靴音が聴こえるもん」と吾輩。「そら、帰ってきた」。「驚いたな。本当に帰ってきた」と河童先生。

・・・予知能力、第六感のようなものが吾輩にはある。犬にもあるが猫にもあり、猫は犬ほどにそれを人間に伝えようとしない。孤高の生き物なのである。(09/10/08)

 

『ギンちゃん日記』22

暑かった夏が過ぎて、あっというまに秋がきた。気がつけば一箇月近くも日記を更新しないでいたことになる。猫は犬にくらべて怠け者というのが定説だが、当たらずといえども遠からず・・・。いやいや、体だけは動かすが考えなしの奴らと比較するなんぞ失礼千万。ナンセンス、ニャンセンス。そもそもマメに動き回る哲学者はおらん。哲学者()は半眼をひねもす宙に泳がせて、よそ目には始末に負えないくらい怠け者にみえる。だが・・・。

さて前振りはこのくらいにして、肌寒くなった。吾輩のお気に入りだった、ヒヤッとした感触の「温泉のタイルの裾」「玄関の三和土(たたき)」は、むしろ避けたい気分になってしまった。窓越しの日向が恋しい。

真夏には敬遠気味だった河童先生のいる教室を、このところ頻繁に訪れるようになった。河童先生は何やら小難しい顔をしてPCに向かっている。手元にはデジカメがあって、吾輩が訪問すると慌ててデジカメを構えてシャッターチャンスを狙う。「モデル」は吾輩であるが、なかなか出来のよい写真が撮れないとこぼす。

「ギンちゃん。じっとして。動かないで」と河童先生。「それはむりです。ぼくは写真など撮られたくありませんから」と吾輩。「猫って、ほんとうに撮り難い被写体だな」。「それ、ぼくには関係ニャイです」。(09/09/09)

「なんだろう?あの小さな蠢くものは」。吾輩は教室の片隅に翅を揺り動かす昆虫を発見した。怪しきそやつに向かって一目散にハンティング。そやつは舞い上がって2メートルほど居場所を移した。「ギンちゃん、よく見つけたね」と河童先生。

痩せこけた足長蜂、あるいは太目の大蚊(ががんぼ)にみえたが、昆虫図鑑が座右になくて正体は確認できず。身の丈は3センチくらいあった。吾輩がそやつを押さえこむと、お河童先生がティッシュでブシュッと圧殺し、屑篭にぽいしてくれた。「ギンちゃん、蜂五郎を征伐できたのね。ありがとう」と褒められた。(09/09/12)

待望の炬燵ができあがった。といっても夏にテーブル、冬に炬燵という電気式の兼用タイプなので、下掛けを敷いて上掛けをかければOKというもの。彼岸に炬燵とは速いではないかという向きがあるかもしれないが、信州信濃の山荘では夏でも炬燵が使われる。木曽節に「♪夏でも寒い〜 ヨイ ヨイ ヨイ」と唄われる。「夏炬燵」という季語もあるではないか。

もっとも以上は河童先生からの伝聞であり、真偽の責任の所在は吾輩にはないのだが・・・。河童先生は炬燵をことのほか喜んでおられるが、吾輩は暖房機能ではなく「隠れスポット」として気に入っている。上掛けをくぐって炬燵のなかに闖入するのだ。そこは昼間でも真っ暗闇であり夜行性の本領を発揮して、いくぶん遮断された音や上掛けの模様など「不思議空間」を楽しむ。

以前にトウキョウのアビ兄いが「隠れスポット」に長時間にわたって隠れていたことがあったが、その気持ちがわかるようなった。猫も年代によって興味の赴くところが変化するのであろう。(09/09/20)

河童先生とお河童先生が菩提寺に墓参。中日の墓参りを予定していたらしいが、天気予報が崩れると報じられて予定を変更。吾輩は留守番というわけである。「ニャーン、ニャーン」「ぽくぽくぽく」・・・ニャーンニャーンは鈴、ぽく、ぽく、ぽく、は木魚。吾輩もベッド(ケージ)でおろがんでいるうちに、猫の習い性でまどろんでしまった。(09/09/21)

 

『ギンちゃん日記』21

「ギンちゃんも散歩できればいいのにね」と、河童先生がいう。マイカーでスーパーなどに買出しにゆくとき、吾輩を連れ出そうというのだ。ペットでも犬は首輪をつけて散歩するし、彼らはよく駐車場の車のなかで遊んでいる。同様に猫も首輪をつけて小径をジョギングしたりドライブに同乗できたりしたら楽しいだろうな、ということらしい。

吾輩の現在のお気に入りの場所は、吾輩がいうところの「温泉プールのタイルの袖」だ。寄宿舎から程近くにある、上諏訪温泉プールに溜まった湯水を抜いた後のタイルはヒヤっとして心地よい。ここに寝そべってガラス窓越しの天空を仰ぐ。ルート20号線の車や人の交通の雑音や、巣があるらしくて子鳶(ことび)のケッケッケッという鳴き声が聴こえてくる。

猫は哲学するので、このような独り沈思黙考できる場所は得がたいスポット。吾輩も吾輩の眷属も決して「外界」が嫌いでなわけではない。むしろ野良系などは一生を外で暮らしているではないか。「♪ 犬(いいぬ)はよろこび庭かけ廻り 猫(ねえこ)はこたつで丸くうなる〜」は一面うそで、一面ほんとう。

河童先生は吾輩が家猫で家にばかりいて退屈だろうということと、先生自身が、哲学するがドライブもする猫の慌てふためく行状を観察したいがためであろうか。それは所詮無茶な話であるが・・・。そもそも犬猫を一緒くたにし、両方のイイトコ取りするなんて!河童先生といえども人権ならぬ「猫権」にかかわることであり、ニャンは怒るぞ。

――あるところにお爺さんがいて、お爺さんの家の前には毎朝欠かさず野良猫が待っていた。朝の散歩を一緒にするために。

散歩は東側の堤を歩き、しばらくして丸橋を渡って対岸の西側の堤を歩いたのちに引き返す。距離にして200メートルくらいだが、お爺さんと即かず離れず、首輪もない野良猫が歩いていた。猫は川面に飛び跳ねる小鮒を眺めて道草はしたが、お爺さんが帰宅するまで必ず同道。それが日課になったという。

以上は河童先生のお話で、テレビで放映されたエピソードの内容。吾輩にそのような行動はできないかもしれない。猫にも種類や性格がある。でも吾輩は「人懐っこさ」「遊び好き」そして気恥ずかしいが「癒し系」という稀有な特徴も備えている。人それぞれ、猫それぞれ、だ。(09/08/13)