ギンちゃん日記
     
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『ギンちゃん日記』20

人間は「猫語」をいっかな覚えてくれないが、吾輩は「人語」を少しずつ覚えている。さいきん覚えた吾輩の頭のなかの「ノートブック」をひもとくと・・・。

「疾呼(しっこ)」。これは幼児語「しっこ」で尿のこと。疾呼とは本来忙しく呼び立てる意味であり、当て字ともワープロの変換ミスから起きた誤字だともいわれる。つぎは「雲子(うんこ)」。雲子は糞つまり「うんこ」の当て字だが(排泄残骸物と雲の形が似ている)、ヤフー検索では181000のヒット。「くもこ」「うんし」と読んだ別の意味もあり、この呼称での魚卵もあるらしい。市民権を得た単語ではないが使用例は多いようだ。

ご託はこのくらいにして、「疾呼」。昨晩のことだった。「ギンちゃん、お疾呼しましたか?」とお河童先生が、雑巾棒で廊下を拭きながら後先になる吾輩とともに寄宿舎(ケージ)にむかった。廊下を拭き終えトイレを清掃し、ご飯を食べて寝る手順だが、ご飯をすませ消灯してからお疾呼したのでは、ギンちゃんが夜間ずっと指呼の臭いと「同居」することになる。できれば疾呼し片付けてから、寝るのがベスト。

「ギンちゃん、お疾呼すればいいのにね」。「ハーイ、わかりやした」と、吾輩はトイレに入ってシャーをした。「あら、ギンちゃん、お疾呼したの。よかったね。驚いたわ」とお河童先生。それを伝え聞いた河童先生もびっくり仰天。猫は人語がわかると主張しつづける河童先生と雖も鳥肌が立つというか、甲羅肌が立つというか、そんなありさまだった。

疾呼は一日に4回くらい、雲子は1回。したがって「雲子」は慣れないので覚えにくく、テキストの解答は開示できないが。(8/06)

「おすわり」「お手」。この言葉も教えられている。これって、ワン公のテキストと違う?納得できない部分はあるが、折角だから学習しようと決めた。

ご飯を食べるとき後ろ足を立てて食べると、「ギンちゃん、おすわり」と躾される。吾輩はやおら腰をおとす。「お利口ね、おすわりができて」と撫でてくれる。そうだな、この方が落ち着くし、立ち膝でがつがつ食べるより優雅に見えかも。「招き猫すわり」は福を招く猫に、セレブ猫に見えるニャンか。

「お手」は知っている、できる。しかしワン公の阿呆らしいイメージが頭に浮かんで真似るのが情けなくなる。一度は「お手」をして河童先生を引っ掻いてしまった。手を遣うなら「かっぽれ」。これは吾ながら巧いものだぜ。

河童先生が歌う。「♪ギンギンぎらぎら夕日が沈む ギンギンぎらぎら日が沈む 真っ赤かっか空の雲 お池にはまって さあ大変 ドジョウが出て来てこんにちは ギンちゃん一緒に遊びましょう〜」。へんてこりんな歌だが、この歌に合わせて吾輩はでんぐり返り、両手首を曲げたり伸ばしたりして空を掴む。空をつかむように踊るのだ。河童先生はこの踊りを「かっぽれ」と称して悦に入っている。(08/08)

 

『ギンちゃん日記』19

ミステリアスな出来事は夜起きる。丑三つには魔物が跋扈(ばっこ)するとは河童先生の日頃の言辞だが、どうやら嘘でもないらしい。それは真夜中の2:00ころ(吾輩の腹時計で推定)であったろう。いきなり「がさがさ、ぎりぎり」と物体がこすれる音がして、「ぐえぐえ、ごほごほ」と嗄れた獣の鳴き声が聴こえてきた。

吾輩は昼夜にかかわらず熟睡ということはなく、耳のアンテナはつねに張り巡らせているのだが、微睡むことはままある。唐突な物音に体が3センチくらい飛び上がった。あの音はなんだろう。三角耳をおっ立てて様子をうかがう。

ひと部屋おいて教授たちの宿舎があり、「なんの音かしら」とお河童先生が河童先生に問いかける。話し声が聞こえてくる。さらに障子を開ける音がして「しっ、しっ」、そして「どんどん」と窓枠を何かで叩いている。

「へんな鳴き声だな。猫じゃないぞ。浣熊(あらいぐま)かな、裏には川が流れているから」と河童先生が推理する声。「引っ掻くような音だから鼬鼠(いたち)かもしれん」。

「きっと野良猫よ」とお河童先生は断定。「しっ、しっ」が利いたのか物音はやんで、静寂がもどってくる。

「劫経し猫は尻尾が割れて化ける。これを「猫又」というのじゃ。『徒然草』に「奥山に猫又といふものありて」とあるのじゃ」。河童先生の日頃の薀蓄(うんちく)を思い出すが、あの鳴き声が猫とすれば吾輩も認識を改めなくては―。

「この家にはショーヘアの青年猫がいる。ちょっかいを出し、威嚇してみようと猫又が夜陰に乗じて来襲したのではないか」・・・浣熊説をとりさげ、猫又説をぶちあげた河童先生。

「ニャーゴ、ニャーゴ」。浮世は桑原、桑原。吾輩もびっくりするだけの猫ではいけないと、反省。(07/28)

お河童先生が小さな紙の礫(つぶて)、名づけて「たまたま」を作ってくれた。紙を丸めてセロテープを巻きつけただけのシンプルなもの。だが、肉球で叩けばぶっ飛び、ころころところがる。これを廊下といわず教室といわず、サッカーボールよろしく飛ばしながら駆け抜ける。

現在「たまたま」は三つある。ところがこれが紛失しやすい。物陰に入って見つからない。「ギンちゃん。たまたまどうしたの?」とお河童先生。紛失したのは吾輩だけれど、大声で叫ばないで。なぜって「たま」にはいろいろあるけれど、「おちんちん」の意味もあると『広辞苑』に載っているもん。ショートヘアの顔が赤くなるもん。(07/30)

 

『ギンちゃん日記』18

二大ペットの犬と猫、犬は人間に対して忠誠で救助や介護などのお手伝いもするが猫は従順でなく、忙しくて猫の手も借りたいときに手を貸してもくれない。ギンちゃんも、「ちょっくら」考えて欲しいというのが河童先生の内心らしい。ま、分らないことではないので、罪滅ぼしに番犬ならぬ「番猫」をすることにした。

聴力・嗅覚にかけてはワン公に優るとも劣らない吾輩、錠前の下ろされた玄関内にすわりこんで、ドアの外側の気配をうかがう。車が停止してアイドリングになりドライバーが近づく。あるいは宗教の勧誘、宣伝ビラなどを配る足音や衣擦れの音など。それを感知して吾輩はいち早くアクションを起こし、河童先生やお河童先生に知らせる。

ブザーが鳴って、宅配便かインチキ宗教かがわかる前段で、吾輩がただならぬ状態で駆け回ることが河童先生やお河童先生に伝わり、心の準備をしてもらえるのだ。これも立派な「番猫」の勤めだろう。まだ押し込み強盗に入られたことはないが、もし入られたときは鋭い爪で引っ掻き、肉球パンチでやっつける。

それはともかくとして、玄関は涼しいポジションで、吾輩にとって警備と納涼は一石二鳥である。(07/18)

「お父さん猫」はキャラメルを食べる。ふつうの猫はキャラメルなど食べないが、吾輩のお父さんは食べるのである。森永ミルクキャラメル、むかしなつかしい黄色いパッケージのエンゼル商標のキャラメル。風邪をひいて喉が痛いといって噛む。

「お父さん猫」とは、河童先生のこと。吾輩はいつとはなしに人間を猫と認識して接する。したがって吾輩の興味のないキャラメルを頬張る「お父さん」が不思議でならない。不思議だけれど、甘い香りを漂わせて美味そうに噛むのをみると心穏やかではなく、吾輩にも何か食べさせろということになる。

「ギンちゃん、悪かったな。君にはドライのおやつを上げよう」と河童先生。こうしてキャラメルとドライチップの異なる「お菓子」を食べるのであった。同じものが食べられたら素晴らしいのに。猫と人の境界は大きな隔たりがあるのだろうか。寄り添って昼寝をしているときは、気持ちが通い合っているのに。(07/20)

 

『ギンちゃん日記』17

朝の4:00頃だろうか、雷鳴がとどろいた。どこかに大きな雷がおっこちたかと思われるほどの凄まじい音響と閃光。それは一回だけで、あとは子どもの雷が散発的に鳴ったけれど・・・。

人間の数倍も聴力がすぐれている吾輩が、このような雷鳴に驚かぬわけはない。寄宿舎の二段ベッド(ケージ)のピンクの敷布から、おそらく眠ったままの状態で10センチメートルくらい跳び上がったかもしれない。

しばらくして5;00ジャスト、河童先生が「おはよ」と顔をだし、吾輩も「ううん」と応えて朝の挨拶をする。「おめざ」のドライも約10粒もらって、さて二度寝でもしようかと微睡む。雨は降りつづいているが雷鳴はやんでいた。

しばらくして、お河童先生が「ギンちゃん、おはよう」と吾輩に声をかけてきた。取り立てて変化のない吾輩のライフスタイルであるが、なぜかこのとき、吾輩はわけもなく「びっくり仰天」した。窓の外の気配に目玉をひん剥き、物陰に隠れてじっと辺りをうかがい、見慣れたお河童先生にも怯える始末。大好きなご飯さえ半分も食べられない。

お河童先生は河童先生に状況を話していた。「烈しい雷雨に驚いたのでしょうか」とお河童先生。「いや、わたしが最初に見たときは何でもなかったよ」と河童先生。

「悪い夢でも見たのでしょうか」。

「猫も夢を見るかもしれないね。三味線屋の夢だろうか」。

「雷さまにお臍をとられたのでしょうか」。

「猫の臍は小さいから雷公には見つけられん」。

・・・吾輩自身、何がどうなったのかわからない。びっくり仰天したことだけは確実だ。すべてが今年の1月5日の留学時にリセットされたような感じとなり、河童先生もお河童先生も部屋も窓も新しいものを眺めるように眺めた。

2〜3時間経過しただろうか。吾輩はじょじょに落ち着きを取り戻していった。食事や排泄や運動などは問題ないので大丈夫だ。(半分残した朝のご飯はその後完食した)。この日のできごとは悪夢か雷鳴か、吾輩にもとんとわからない。(07/17)

 

『ギンちゃん日記』16

動物が自分の体を大きく見せようと背中を盛り上げたり、総毛立てたりして相手を威嚇する。尻尾をおっ立てて吼えたりもする。エキサイトしたそんな動物を見たことはないだろうか。

吾輩も由緒あるネコ科の動物で、眷属にはヒョウやチーターやピューマがおり、こと「ケンカ」にかけては人後に落ちない、いや「猫後」に落ちない。

尤も動物だけでなく、格闘技などのメーンイベントに登場した選手が腕を高く振り上げるのも体力誇示と相手への威嚇。八九三がパット入りの背広の肩を怒らせて風をきるのも、検察や政治家が高みからものをいうのも、威嚇の範疇に入るだろう。

さて、先だって吾輩が件の「肩怒らせ」ポーズをとって廊下を闊歩しているとき、運悪くというべきか、幸運にもというべきか、河童先生に出会った。ところが何を思ったか、河童先生がみずからの左肩を極端に怒らせ、吾輩の真似をしたのである。

河童先生は知る人ぞ知る、知らない人は知らないブルゾン派。キャンパスでは背広でなく冬は黒シルク、夏は白綿のブルゾンを愛用する。吾輩はグレー系まだら毛皮の一張羅だが、先生は材質の異なる二種類の一張羅というわけだ。

話をもとに戻そう。吾輩はこれまでアビ兄さんとニアくんとしか「威嚇ポーズ」を交わしたことはなかった。人間である河童先生と交わしたことは意想外だった。弱肉強食の生き物に飽食の時代がおとずれ(野性はともかくとして、ペット関係では)、本能が退化した訳でもないだろうが、知らぬまに遊びの要素が加わりゲーム化したのだろうか。

先生も驚きながら「ギンくん、一丁やるか」と張り切った。先生との威嚇ポーズの交換は三回ほどつづいた。こうして「猫&人」のゲームが出来たことはうれしいことだった。(07/04)

ヒルズ・サイエンスダイエット・ライトという商品名の「ご飯」が到着した。武蔵村山市の業者から宅配便で取り寄せるのだが、4キロ×2袋はなかなかの重量。1歳から6歳は一日に65グラムというが、吾輩はそれよりも多く食べているらしい。

お河童先生は心を鬼にして節食に努めてくれるが、吾輩がもっとちょうだいと要求してしまうのだ。ダイエットのための効能ありと書いてあっても食べすぎは禁物、デブ猫にはなりたくない。が、腹へるんだ、ニャン。(07/05)

 

『ギンちゃん日記』15

「ポジション」という言葉は、位置とか地位とかいうこと。野球などで守備位置をいったりする。吾輩が座りこむポジション、寝転んだり眠りこけたりするポジションも当然ながら、季節に合わせ、温度に合わせて変わってゆく。

冬場や早春は日差しの入りこむ窓辺が特等席だったが、このごろの真夏を思わせる暑さは願い下げにしたいもの。したがって吾輩は、書棚や戸棚や廊下の隅にねそべって、木製のもつ自然の感触で体を冷やす。ときには玄関の三和土(たたき)に腹部をぺたりとくっつけ、地面(アース)の冷気をいただくのである。

吾輩や吾輩の仲間たちは、環境のよい場所を本能的にみつけてそこに身をおく。室内でも四季による変化を察知し、よりよいポジションを得る。だから、寝転ぶ場所も眠る場所も一定ではなく、猫は気まぐれだと蔑まれるが、人間以上のセンサーがちゃんと機能しているのだ。

6月に入って吾輩の「居場所」が変わってきた。河童先生のいる窓際はカーテンを閉めても暑いので、そこから離れた場所にいることが多い。また闇雲に走り回ると体が熱くなり熱をもつので、運動をひかえて体力の温存につとめる。

河童先生が、こんな話をしてくれた。

ギンくんは「ポジション」を身のおきどころという概念でのみ捉えているが、「身」とともに「心」というものが存在する。「身心」というではないか。人間にだけ心があって、猫には心がないと断言できるだろうか。人間世界と共通する「心」ではないかもしれない、軌を一にする感情ではないかもしれないが、存在すると思う。

喜怒哀楽・・・ご飯を食べようとするとき喜んでいないか。テリトリーを侵されて怒っていないか。哀しそうな鳴き声、楽しそうな目は認められないか。

人間は「身」のポジションとともに、「心」のポジションを考えて生きている。曖昧に思われがちな「心」ではあるが、ポジションを間違えると飛んでもないトラブルを引き起こす。また「身」から離れすぎる「心」は身心乖離となり、悩みのタネとなり病気になる。

「心のポジション」は「身のポジション」と同じように、ライフスタイルによって位置づけられてゆく。日常のこまごました生活習慣が「心」を決めてゆくともいえる。その点では人類も猫類も変わることがないだろう。

吾輩が座りこんだり眠りこけたりするポジション、このポジションに吾輩の「心」もある。括弧付きだが「心」がある。(06/26)

 

『ギンちゃん日記』14

「ねこ新聞」という月刊誌がある。実のところ吾輩にはファンがいて、一軒置いて隣の豆屋のMさんが吾輩の熱烈なファンである。Mさんは五十代の女性で、料理教室を主宰する傍ら長年にわたって穀物を販売している。丹波の黒豆など「ブランド」を取り扱っているので、「豆屋さん」として名が通る。

ま、それは余計なことだが、このお姉さんが無類の猫好き。猫を飼っていないにもかかわらず、「ねこ新聞」を購読していて、旧号を貸してくれた。約3年前の紙面には与謝野晶子の題名「黒猫」の八行の詩が掲載されていた。

さらにお河童先生と河童先生にとって奇遇というべきは、お河童先生の学生時代の絵画の女先生の「黒猫」の絵がトップページに、また河童先生が若かりし頃の現代詩の創作における好敵手だった群馬県の詩人のMOさんが「猫の詩」を執筆していた。

こうした猫の「霊力」が、人間界の「えにしのあや」をひそかに紡いでいるように吾輩には思えるのだが、それを知らない人間のなんと多いことか・・・。(06/15)

吾輩にファンがいることは前述したが、「ギンちゃんファン倶楽部」を立ち上げ、自ら会員になってくれた人がいる。金の鯱鉾で知られる尾張の国の佳人で、猫をこよなく愛し、連句もこよなく愛する方。お名前まではここに書かないが、もしも名前を聞いたら、皆さんアッと驚くだろう。なぜなら、猫と区別がつかない名前だから。

猫の好きな人は、深海の色を湛える猫の目のように心が澄んでいる、といわれる。猫は甘えん坊のように見えて、それだからこそ孤独。逆に人を寄せ付けない面も。犬のように尻尾をふらない。猫は哲学をする。吾輩のファンがいて、河童先生の連句ファンがいてくれるのはありがたいことだ。

なお当ホームページ「かっぱ写真館」に新しい吾輩の写真をアップしたので、見てくだされば幸いだ。(06/17)

 

『ギンちゃん日記』13

「クロネコトマト」といえば、若いお兄さんドライバーが荷物の集配をする。地域によってばらつきはあるものの、決してイケメンではないが「勤勉で愛想のよいお兄さん」のイメージが定着している。ところがこのたび、「若いお姉さんドライバー」が誕生するという。皆さんご存じだろうか。

夏季限定の宅配業界「クロネコ戦略」とかで、タンクトップにホットパンツ姿のきれいなお姉さんが集配するというのだ。しかも盛夏にはキャミソールに着替え、一回の配達につき洩れなく「冷酒・マタタビ」ワンカップのプレゼントもあるという。信じられないなら「クロネコトマト」のホームページをご覧になるとよい。

――このとき不意に、吾輩は夢から覚めた。自動車のエンジン音がして、やがてドアフォンが鳴る。「荷物がきた〜ギンちゃんが飛び出さないように見ていて」と、お河童先生が叫ぶ。「大丈夫だ。ギンちゃんの身柄を確保した」と河童先生の声。

エンジンやドアの音、人の気配に過剰反応するのはなぜか?吾輩自身にさえわからない。パニクって突拍子もない行動にでるかもしれず、吾ながらあきれかえる。どうやら猫には「番犬」の役目などできはせぬ。

普段通りというか、期待はずれというか、若いお兄さんドライバーが荷物を届けて帰っていった。

さて、と。何をしようかな。そうだ、善はいそげ。吾輩は寄宿舎の傍らの「営繕室」に馳せ参じ、トイレットペーパーのロール一巻を取り出した。ペーパーは「寄宿舎」の清掃に使うもので、消臭剤やポリ袋などの備品とともにストックされている。

吾輩は、幅12センチ×直径10センチくらいの「紙の丸太」を銜え込み、うなぎの寝床のような長い廊下を一目散に突っ走る。この情景を「ちょいと見」の人は、あっ、トイレットペーパーが飛んでゆくと騒ぐだろう。

配達先は、河童先生の脇にあるデスクの下。そこにはパソコンの外付けバックアップ機、お絵描きソフトなど周辺機があるが、その棚に載せる。先生は「ご苦労さん」といって受領印を押してくれる。いやいや、それは嘘。「ギンちゃん宅急便ありがとう。だが、牙が紙に食い込んで穴だらけだ。涎で紙もべとべとで使えないよ」と先生。「シルバートマト」は残念ながら一丁前とはいえない。(06/09)

お河童先生が北国の研修の旅をしていて、きょう帰ってくる。吾輩は正門の内側でじっと待っていた。ときどきは教室のガラス窓から外の景色を眺め、再び正門に戻っては待機。吾輩をふくめて眷属は、すぐれて気配に敏感で第六感がはたらき、30〜50メートルさきの音なき足音を聴き取ることができる。

「あっ、お河童先生お帰りなさい」と吾輩。「ただいま。ギンちゃんお土産だよ」とお河童先生はいって、箱入りの紙袋をくれた。河童先生が開けると、それはなんと「猫」だった。ずっしりと重たい和倉温泉うまれの「陶猫」で、端厳な顔立ちの吾輩と違って、ひょうきん族だった。これの子、可愛いニャン。

河童先生がデジカメに撮って、近近アップすると約束してくれた。ご期待あれ。(06/11)

 

『ギンちゃん日記』12

吾輩の学習した人語に「ゴロン」がある。ゴロンを補完する言葉として「ネンネ」もある。ゴロンは体をころがして仰向けになること、腹部をさらすことである。

動物にとって内臓があり皮膚も薄い腹部はウイークポイントで、外敵に狙われ命の危険がひそむところ。みだりにさらさないかわり、信頼できる相手に対しては気を許し、気を許すので当然ながらリラックスできる。

午後の陽射しのさしこむ室内で、お河童先生がゴロンを繰り返し、それにネンネをはさむ。吾輩は手を畳みこむようにしてゴロンと体を裏返し、両手両足を空中に突きだして「悶絶ポーズ」をとる。

河童先生まで吾輩をとりかこんで腹部の柔らかい猫っ毛をさすったり、浮き出した抜け毛をガムテープで取ってくれたりする。気持ちのよさに吾輩は両手を交互に上げたり下げたり、河童先生曰く、さながら江戸時代の大道芸「活惚れ」を踊っているようだ、と。

吾輩、アメリカンショートヘアは、遊びが好きで明るく、人懐っこい。さらには記憶力がよいといわれる。だから人語をおぼえて遊びに取り入れる授業は得意中の得意であり、教授たちからの受けもよいというもの。ただその反動として「淋しがりや」の部面もあるのだが・・・。

「ゴロン」も「ネンネ」も、吾輩にとって特段にむつかしい人語ではない。最初は意味不明だったが、先生がゴロンという言葉を発して吾輩を押し倒すような所作をしたので、吾輩が体をひっくりかえすと「お利口ね」と褒めてくれた。ああ、ゴロンとはそういう意味かと、このとき理解した。

ゴロンもネンネも畳語のように繰り返し発語することができるので、われわれの耳朶にふれやすい利点もある。「人獣」コミュニケーションは畳語をメインにすること、授業環境をなるべく変えないで復習することが必須かもしれない。

余談ながら、吾輩の眷属は聴力がすこぶるさとい。人間の可聴範囲は約2万ヘルツ、犬は4万ヘルツ、猫はなんと犬より広い6万ヘルツといわれる。それを知らない河童先生もお河童先生も、吾輩の耳元で「ゴロン、ゴロン」と大声で叫ぶのは困ります。勘弁して〜えな。「聴こえています、ってば」。(06/04)

次は「カタ、カタ」。「カタカタ」とは電動バイブレーションの発する音のことで、河童先生は夕方の休み時間に使用する。一般的には肩叩きとして用いるのだが、先生は足裏のマッサージに転用。「ギンちゃん、カタカタやるよ」と声をかけてくるので吾輩は先生の組んだ膝に両手をかけ、その手に首をのせてバイブレーションを楽しむ。吾輩の「猫っ毛」が小刻みにゆれる。猫背なので猫も背中が凝り、肩が凝るのである。

先生は「カタカタやるよ」と同時に「抱っこ、抱っこ」も連発。つまり抱っこしながらカタカタしようよ、というわけだ。おかげで、これらの人語も聞き覚えた。マスターした。

また「ピンポン」という言葉も学ぶ。文字通り卓球のことで、ピンポン球を両手でふっ飛ばし、追っかけてさらに猫パンチを食らわす。球は意想外の方向に飛んでゆき、それをあたかもサッカーボールのよう転がすのだ。

ときにはピンポン球が「フィールド」の死角に隠れてしまうことも。それを取り出すのは苦手で、そんなとき吾輩は河童先生の顔をじっと見て「ウ、ウ」とくぐもった声を発すると、先生がピンポン球を拾い出してフィールドの真ん中に投げてくれる。分かってくれているのだな。

こうして吾輩が人語をおぼえるとともに、猫と人とのつながりができる。人の立場から猫の立場から、これを意味あるつながりとか、ましてコミュニケーションと果たして言えるかどうか。・・・畢竟、言えないと思えばいえない。が、言えると思えばいえるのではなかろうか。人と人のつながりにおいて人間世界で、どれほどの「深遠なつながり」があるのか?アンチテーゼとして。

吾輩の悪い癖で、理屈っぽくなってしまったニャー。(06/07)

 

『ギンちゃん日記』11

コラム・ページに間借りしていた「ギン坊」がこのたび独立し、トップページに躍進した。タイトルも「ギンちゃん日記」に変わった。スライドするプロフィールも面映いが、継続は力なり、キーボードを肉球で叩きつづけることにしよう。

テーマの一つである約束の「進化論」は、まだはじまっていない。河童先生のカリキュラムには載っているので、いずれはと思っている。

人語、猫語、翻訳機など、いわゆる「人獣」におけるコミュニケーションを取り上げると『桃太郎』『浦島太郎』『鶴の恩返し』など昔噺につながり、アニミズムやマナにもつながっていく。生きとし生ける物として、同じ一つの生命体でありながら人間だけが偉いのか、獣や鳥は人間より軽んじられていいのか。もっともこれは吾輩の考えではなく、河童先生のテーマでもあるので期待している。

きょう6月1日は、1792年にケンタッキーがアメリカ合衆国の15番目の州になった。ケンタッキー州。ケンタッキーフライドチキンを食べたいな。トリは眺めてよし食べてよし、トリは好きだな。

また6月1日は「更衣」。着たきり雀の吾輩には関係なし。いや「着たきり猫」といってほしいな。いやいや「一張羅の毛皮」といってほしいな。ほいなら、きょうはこの辺で。(09/06/01)

 

『ギンちゃん日記』10

吾輩の鳴き声、すなわち言語に「u」と「unn」がある。カタカナ表記すれば「ウ」と「ウン」だが、吾輩が河童先生とかわす朝の挨拶は、小さくて低い声の「ウ」。

吾輩が「寄宿舎」の二段ベッドを「とん」という足音とともに降りるのは、ジャスト5:00時。先生も起床したとみえて引戸を開け、蛍光灯を点灯して「ギンちゃん、お・は・よ」という。吾輩は寝惚け眼をしょぼつかせながら「ウ」と忍び音をもらす。

このとき忘れてならぬことは、小首をかしげるポーズ。可愛さが売りの、ペットが生きるために身につけた「ポーズ」だ。洋画『キャッツ&ドッグス』の一場面、もともとは犬についての挿話だが、小首をかしげて人の顔をじっと見つめる。チャーミングなその表情に犬好きはマイってしまうという台詞がある。吾輩もそれにならう。先生もみごとひっかかって「可愛いな」と。

オメザの「ヒルズ・サイエンスダイエット・ライト」10余粒をお皿に入れてくれる。その芳しい香りに吾輩は不覚にも涎をたらしてしまい、ぱくぱく、がつがつと食べる。

しばらくして起床したお河童先生が、吾輩の所有物だった砂まみれの雲子や疾呼を片付けてくれる。飲み水も新しく取り替え、ご飯としての「・・・ライト」約35グラムをいただく。

日に二回で、約12時間ごとの食事間隔は食べ盛りの吾輩にはきつい。飢餓もいいところ、腹はぺこぺこ。がつがつ食べ「ク、ク、ク」と唸ってしまうのはハシタナイかもしれないが、「ニャンコライフ」も分かってほしい。「ゆっくり食べてね。お座りして食べるのよ」と、お河童先生は寄宿舎をさがる。

吾輩の「言語」はさておき、吾輩がおぼえた「人語」について書いてみよう。吾輩は「ギンちゃん」「ギン坊」「ギン」と呼ばれる。どうやら「ginn」という音声が吾輩の名前らしいことは確実に理解できる。

しかしながら、サル目(霊長類)ヒト科とネコ目(食肉類)ネコ科という異種生物であり、やすやすと音声の意味が分かったり、言語として通用したりするわけもない。人も猫もお互いの頭脳や本能に「翻訳機」を備えておく。そうすることで伝わるものがあるはずだ。

「ギン坊」と呼ばれると、吾輩は「ウ」と返事する、いつもではないが返事をする。返事がないときは左右に尻尾をふる。尻尾をふることは「意思表示」だと、人類が猫を飼育したルーツから学んだ生態に関する蓄積があり「猫が返事した」と翻訳されて人に伝わる。

話はそれるが、パソコン(「LaVie」)から、カウント・ベーシー楽団の古き良きジャズが流れてきた。さすがビッグ・バンド・ジャズ、部屋に音がとけ込む位の音量で鳴らしておくと気分がいい、そうな。

これは先達てプレゼントされたものであり、軽快で浮き浮きしてきて、吾輩は窓越しに20号線を通行するモーターカーを眺めながら、尻尾を烈しくふった。ジャズに合わせて尻尾をふった。あっ、これは返事でも怒っているのでもない、つい浮かれて、だぞ。感動だぞ。(09/05/29)

 

『ギンちゃん日記』9

「猫語」について、書かニャーならない。俗に犬語、猫語というが、犬語はさておき、われわれ猫族にも当然ながら「言語」がある。伝えたいこと、嬉しいこと哀しいことを知らしめるため発声する。鳴き声で、テリトリーの内外に猫がいれば猫に人間がいれば人間に「喜怒哀楽」らしきものを発信する。

尻尾の振り方や、頭部から頚部を「すりすり」する行動はノンバーバル言語というべきもので、言語でない言語、つまり「非言語」。じつは動物のみならず、動物よりはるかにボキャブラリーが豊富と思われる人間でさえも、ノンバーバル言語で意思や感情の伝達をする。「目は口ほどにものを言い」はノンバーバル言語の表現。そんな意味で猫の「しぐさ」も広義の言語にほかならない。

猫族の発声のパターンは多種多様。基本形は「nyaa、nyaa」で、猫撫でモードのかるい乗り「ニャー、ニャー」から、懇願と要求のミックスした「ニャーォ、ニャーォ」、もう限界だ、怒っているぞという「ニャーゴ、ニャーゴ」。

たとえば「ニャー」につづく語尾の「ォ」に耳を澄ませてほしい。「ゴ」に耳を澄ませてほしい。さらにイントネーションを読み取ってくれれば、われわれの「言語表現」が理解できるはず。人間はそこまで読み取ってくれないが。

基本形に準ずるものとして「Wa、Wa」がある。アビシニアンにこの発声はほとんど聴かないから、アメリカンショートヘアの特性であろうか。それとも吾輩だけの個性であろうか。この音声をカタカナや漢字で表記すると「ワ、ワ」とか、「和、和」「羽、羽」となる。

「ワ、ワ」は吾輩にとって「甘え鳴き」「おねだり」「感嘆符」であるが、その意味が人間界に正しく伝達していない。

先達ても河童先生が、吾輩の喉元を「なでなで」してくれたとき、河童先生の手をがぶりと噛んでしまった。

「可愛がってやっているのに、がぶりはないだろう。猫はよく噛むなあ、犬はそんなに噛まないぞ」と先生。

「ワ、ワ」と、吾輩は罪滅ぼしの甘え鳴きをする。(ほんとうは罪などなく、噛むのも甘えの一種だけれど)

「『和、和』そうだよ。和が大切だよな。猫も人も仲よく和やかに暮らさなくては。ギン坊もそれが分かればいいさ」。

――ある日の黄昏どき、吾輩は窓辺の横板に座り込んで、暮れかかる西空を眺めていた。吾輩の一張羅の毛皮コートに打ち添うように河童先生の顔がヌッとあらわれ、「東京の空が懐かしいかい?」と訊かれた。

吾輩は「東京には空がない」と答えようとしたが、『智恵子抄』の高村光太郎みたいでキザなのでニャンとも返事せなんだ。

「ギン坊、前庭の台杉に黄色い鶸(ひわ)がとまっているけれど見えるかい。鶸は可愛いね。いくつ見えるかな?」と河童先生にふたたび訊かれる。

「羽、羽」と二回、吾輩は例によって甘え鳴きした。河童先生は「そうだよ、二羽来ているね」。・・・・・

やっぱし、翻訳機は必要かもしれない。(09/05/23)

 

『ギンちゃん日記』8

「ギンちゃん日記」は、2月中旬のbVから中断していた。久し振りに筆ならぬPCのキーボードをたたく。間をおいてしまったので肉球もぎこちない動きだが、仕方ニャイ。

5月3日の午後3時頃だったろうか。吾輩の「寄宿舎」の窓が開いて、美味しそうな「レトルト食品(魚肉)」の差し入れがあった。うつらうつらと睡魔に襲われていたとき、腹空きでもなかったが、刺身のような匂いにつられ、われしらず貪りついてしまった。

江戸の兄ちゃんと姐ちゃんが、しばしのお別れにご馳走してくれた。日頃は食べられないグルメの大盤振る舞い、いささか早いが吾輩の「晩餐」の姿はデジカメに納められる。ああ、そうだった、きょうはさよならの日だった。

アビ兄イとニアくんとは、4月28日のノッケに対面したが、何となく他人行儀、「他猫行儀」で打ち解けず、挙句の果てにはお互い突っ張りあって旧知の間柄にもかかわらず「シエー、シエー」と威嚇。こうなるとメンツもあって「幼猫時代」にはすんなり戻れず。残念。

さて、食べ慣れない豪華食を食べたせいでもあるまいに、糞詰まりになってしまった。「ポンポ張るニャー、ポンポ張るニャー」。このとき吾輩は、麦酒を飲んで池で溺死した漱石『吾輩は猫である』の猫のことを思い出していた。糞詰まりで死んでは男が廃る、猫が廃るというもの。

「猫は二・三日便秘しても大丈夫だといっていたよ」とお河童先生。なんでも江戸の兄ちゃんがあるときに言っていたらしい。それを訊いて河童先生は胸を撫で下ろしていた。胸を撫で下ろされても吾輩の腹は張ったままだが。

とまれこうまれ、翌日にはめでたく山盛り雲子をおとす。少し時間をおいて二回目の雲子を盛り上げ、砂をかけて消臭した。食いすぎは猫ちゃんにも、人ちゃんにもよろしくないようだ。

河童先生の「進化論」の講義は立ち消えになっていた。吾輩も少しく怠惰になっていた。「ニヤー、ニヤー」と擬声語で、駄洒落をとばすコラムを以ってお茶を濁してはならない。もっとレベルの高いことを書かニャーならん。(09/05/15)

 

『ギンちゃん日記』7

オリンパスのデジカメは、いいカメラだ。猫はうそはつかない。このデジカメで、吾輩の可愛いプロフィールが10数枚撮影された。ケーブルによってパソコンにも取り込むことが出来、やがてはHPに開示できるかもしれぬ。

デジカメは吾輩にプレゼントされたもの。吾輩が、河童先生やお河童先生に撮ってもらったのである。河童先生がすでに撮影した分を「再生」して眺め、よく映っていると言っていた矢先、河童先生の左手の肘に激痛が走った。痛みは治まってきたらしいが、作業はなかなか進まない。

それやこれやで、デジカメの撮影もパソコンにつなぐお勉強も、中断になってしまった。しかし吾輩はいたって元気なので、安心してください。

外は寒いが、ガラス越しに入ってくる日脚は伸び、とても暖かい。午後は吾輩にとって天国で、マットに寝そべって毛繕いをしたり、うたた寝をしたりする。ときには河童先生に凭れかかって鼾をかくこともある。(09/02/17)

 

『ギンちゃん日記』6

サッカーの練習があった。サッカーボールを左右の前脚で交互にはじき飛ばしながら、ゴールをめざす。サッカーボールとは殻付きの「ピーナッツ」、ゴールとは廊下の東と西の「終点」である。

理解できない向きがあろうから、もう少し詳しく書いてみよう。今日は節分で、わが学び舎でも「豆まき」が執り行われた。お河童先生が、各教室や魚肉解剖室や先師礼拝堂や雪隠にピーナッツを二・三粒投げこみ、大きな声で「鬼は外、福は内」を連呼。吾輩も先生にしたがって、「鬼ニャーモ、福ニャーモ」と猫撫で声を一オクターブ上げる。

行事を通じ吾輩も恙なく学業が修められ、身につけるべき躾が修められ、河童先生やお河童先生を襲う鬼が追い払われ、福が齎されるのであれば勿怪の幸いである。

さて、ピーナッツは人間さんの食べるものらしいが、一粒5億円もすると米国のコーチャンちゃんが言っていた。昭和51年のロッキード事件のこと。そんな高価な豆を投げるとは!

ま、それはともあれ、吾輩にとって軽くてキックしやすく、殻のなかで豆がかさかさ鳴るピーナッツは得がたい「ボール」なのだ。ねずみの「ねず子」以外に貴重なすぐれものを見つけ、欣喜雀躍ならぬ「欣喜猫躍」。

「ピーナッツ・サッカー」は翌日の午後の体育の授業に取り入れられ、廊下フィールドを隅から隅まで使って駆け回った。

ペットショップでは「毛玉」「ネズ公」「ケセラン」「パサラン」「ボンボン」などの「猫だまし」グッツを売っているが、低俗な商業主義は嘆かわしい。お仕着せの玩具は払い下げにしてほしいもの。「ピーナッツ・ボール」の面白さを見つけるにつけ、そんな感想をもった。

来週からいよいよ河童先生の授業がはじまる。「進化論」だそうで、身が引き締まる思いだ、ニャー。(09/02/07)

 

『ギンちゃん日記』5

いたずらに日がすぎる。人間にとって1日24時間と、吾輩にとっての1日24時間とは、いかなる「バイト」(単位)であろうか。

とまれ、吾輩が留学して「ひとり」暮らしをはじめて、まもなく1ヵ月になる。近況報告もままならぬ忙しさ、不馴れな寄宿舎でもあって、1日を送ってほっとするまもなく朝を迎える。

吾輩は階下の寮に移動し、二段ベッド(ケージ)を買ってもらう。縦横が63×93で、高さが121センチ。スチール製のパイプが3センチ間隔に縦縞状にならび、下段は大きなトレーで屋根つきトイレが入り、上段は小さめのトレーで我輩の「食事処」兼「寝室」。

ケージ内の上段のトレーには、真っ白い、ふかふかしたマットを寮母さんが敷き詰めてくれた。夜はここで就寝するが、昼間は廊下や教室にも自由に出かけることが可能。二階から階下に移ってきたので、河童先生やお河童先生の足音や衣擦れが身近になり、甘えて「ニャーモ、ニャーモ」と鳴いてしまう。

吾輩は6:30には目が覚める。洗面所の小窓から外の明りが入ってくるので、「ニャー、ニャー」と発声。お腹が空くのでご飯が食べたい。何としても早く食べたい。朝の時間は、人間さんも猫さんも忙しい。てんてこ舞い。朝の決まりごとや、ご飯や、雲子や疾呼の片付けや。それなのに吾輩は「鳴いてばかりいる子猫ちゃん」なのだ。嗚呼。

寒中休みか、河童先生が風邪気味か、授業ははじまっていない。昼間はうつらうつらと微睡む。ときには河童先生の膝によりかかって微睡む。(09/01/31)

 

『ギンちゃん日記』4

「ぺたん、ぺたん、ぺたん」。この音は何の音かって?実際の音は「ぴしゅ、ぴしゅ、ぴしゅ」と聞き取れるのだが、これはガムテープを小さく切って衣類や炬燵布団に押し当て、猫の毛を付着させる音なのだ。

賢明な読者はすでに想像されたと思うが、吾輩の「猫っ毛」が寄宿舎をはじめ教室の隅隅まで飛散している。お河童先生は散らかった毛が嫌いらしく、5×7センチの「テープ片」を炬燵や机などに「仮付け」して置き、毛を見つけると「ぺたん、ぺたん」と叩いてくっ付ける。テープに接着力がなくなってくると、ゴミ箱にぽい。

「猫って、どうして、こんなに毛が抜けるのでしょうね」と、お河童先生は愚痴をこぼす。吾輩にこぼされても・・・毛が抜けないように努力することなんぞできん。

お河童先生がD2から「猫ブラシ」を買ってきた。ピンクの柄で6センチ角のブラシは可愛く、ブラッシングの感触は悪くない。お河童先生は、アビ兄イはブラッシングを嫌がったが、ギン坊は嫌がらないで、むしろ気分よさそうにしている、と吾輩を観察して独りごちた。

ブラシを当ててくれるから、「ぺたん、ぺたん・テープ」は無用と思いきや、そうではなのだ。ブラシは毛を毟り取って付着させるものでなく、毛根をマッサージするためでもあるようだ。相変わらず浮き出た毛を「ぺたん、ぺたん」。

かくして、寄宿舎や教室のあちこちにガムテープの「護符」が張り付けられる。護符は神仏が加護し、さまざまな厄難から逃れさせる札だが、吾輩は幸いにもブラシも「ぺたん、ぺたん」も嫌いではない。少なくてもアビ兄イよりは拒否反応を示さないらしい。

東京のボスも姐さんも以前に寄宿舎を訪れたとき、コートや洋服の猫毛取りに「ぺたん、ぺたん」をやられたことがあるという。災難除けの「おまじない」という部面もなきにしもあらず、か。

「ギン坊、おいで」と、いきなり「人語」で河童先生に呼ばれる。「なんでしゅか?」と吾輩は「猫語」で返事して馳せ参じる。「抱っこして、爪を切ってやる」と先生。吾輩は、抱っこが大嫌い。爪きりが大嫌い。首根っこを掴まれるのも嫌。それで脱兎のごとく、いや「脱猫」のごとく逃げた。

河童先生、そしてお河童先生の悩みは尽きないが、ともかく吾輩は元気で修学している。きょうは大安。あしたは大寒。吾が眷属の平安を祷る。(09/01/19)

 

『ギンちゃん日記』3

吾輩が留学し、寄宿舎暮らしをはじめて10日になる。「学猫」、つまり学生の身分の猫である吾輩は、環境になじむのも当然ながら早い。

最初は慣れない二階への上り下りに脚がもつれたが、いまでは肉球をとんとんリズミカルに響かせて駆け上り、下るときは体重を上半身と下半身に分散させるように首振り尻振り、音もなく駆け下りる。その姿を「優雅なる猫舞」とはやしたてられる。

吾輩には階下の教室があてられ、河童先生とお河童先生に教えを請う。

40センチのプラスチックの棒切れに長い紐を取りつけ、先にネズミがぶら下がっている教材。この教材は以前にアビ兄イが使用したもので、皮製で毛の生えている「小ネズミ」で利休鼠色の毛皮はすり切れた代物だが、内臓がカラカラと音を発し、自在に暴れまわるので、よきハンティングになる。

河童先生は教室のマットで「利休鼠」をブンブン振りまわす。吾輩はこざかしいそやつを狙い澄まし、気合もろとも跳びかかる。鋭い歯で噛みしだく。「まいったか!」と吾輩。「チュー」と降参するそやつ。これでハンティングの腕は上がるというもの。

二時限はお河童先生。お河童先生は「利休鼠」をぶら下げて、うなぎの寝床のように長い廊下を突っ走る。吾輩は遅れてなるものかと全力疾走。「ギンちゃん、ギンちゃん、そら走れ!」と先生。「もう無理ニャー。子猫だから無理ニャー」と吾輩。お河童先生は37キロと痩せているくせに体育系で、吾輩をしごきにしごく、鬼先生だ。三往復すると「二人」ともへとへとになる。

きのうのことだった。「利休鼠」の尻尾がむしれ、お腹もパンクしかけた。教材が使えなくてはと、河童先生が炬燵のオペ室でメスを使って手術、縫合してくる。ついでに新教材の「大ネズミ」を作ってくれることになった。これは期待がもてるぞ。

休み時間が終わってチャイムが鳴り、我輩は階下に下りてきた。河童先生の手元には「小ネズミ」と同様ながら、ネズミとは似て非なる「大ネズミ」がいた。「それではギン坊、ハンティングしてみろ」とネズ公をけしかけ、吾輩に歯向かわせる。

「痛テテッ」痛いなあ。吾輩は鼻柱に「ネズミ・パンチ」を食らってたじろぐ。たしかに皮製で、尻尾もある。おまけに内臓は「鳴物入り」で鈴のような音がする。センスは悪くない。が、この重さは何とかならんか。

吾輩がそっぽを向いたせいか、河童先生は大ネズミを進化させるべく内臓の一部を摘出し、縫合や抜糸の傷跡をカモフラージュするため黒色のマジックインキで斜線を数本ひいた。「大ネズミ」は痩せ細ったが、どう見ても槌の子だ。

このとき、吾輩は肉球で、はたと膝を打った。河童先生によって、「大ネズミ」の遺伝子が組み換えられて「槌の子」になった。今日の授業はハンティングのスキルでなく、ポスト・ダーウィンの『進化論』だったのだ。(09/01/14)

 

『ギンちゃん日記』2

河童先生は吾輩を「ギン坊」と呼ぶが、吾輩がなぜに「吾輩」と自称するのか。すでにご案内のように夏目漱石著『吾輩は猫である』があまりにも有名で、猫が物をいったり物を書いたりする場合、「吾輩」といわなくては治まりがつかないのである。

人間を「現代人」というなら、吾輩は「現代猫」であり、しかもアメリカンショートヘアなので、「僕」という呼称がふさわしいかもしれない。だが「僕カア」などと発音すると、なんとなく『裸の大将』の芦屋雁之助扮する山下清みたいになってしまう。それやこれやで、「吾輩」で押し通すほうが格調も高くてよかろうと思った。

さて、吾輩が「おひとり様」として寄宿舎「河童寓」でくらしはじめて、まだ三日目。一日に二回のご飯は「朝8時」「晩8時」にほぼ決まり、雲子2回に、疾呼2回、それも「猫砂」を丸めると結構大きな固まりになる。お河童先生は、「ギンちゃん、山盛り雲子したわね」と愚痴りながらもせっせと片付けてくれる。「臭いの、悪いね」と吾輩。とまれ体調はよろしい。

きょうは、明日の「資源物」排出に備えて、新聞紙や菓子箱や酒のダンボールを束ねる日。河童先生は荷造りにとりかかる。このような作業こそが吾輩の出番だ。「先生、猫の手も借りたいのと違う?お手伝いしてやるよ」。

「ギン坊にできるかな」。

吾輩はダンボールを爪で引っ掻き、ポリエチレン製のひもを銜えて、荷物のまわりを一回りする。「疲れたニャン。でも、お仕事は好きニャン」。

――河童先生は文机のノートパソコンに向かって、なにやらはじめる。キーボードを片手で三本指、両手で六本の指を使って叩いている。吾輩はその傍らで眺めている。画面のロケット形のカーソルを目で追う。「これ、カーソルっていうんだよね?」と吾輩が猫語で問いかける。先生は返事もせず、キーを叩く。

「さて・・・」。吾輩はやおら立ち上がって、キーボードのキーのひとつを肉球で踏みつけた。身をひるがえした。そのときパソコンが「ポン」と鳴った。

「おー。むつかしい言葉の変換ができた」と、先生はいたく感動。「そうだよ。むつかしいことは、吾輩にまかせなって!」。吾輩は気分をよくする。因みにその言葉は次の通りである。「ォ;pお」。これは嘘ではない。異星人からのまぎれもない伝言である。

このようにして吾輩は、いつしか寮長さん寮母さんとも馴染んできたし、可愛がられている。ひとえに吾輩の人懐っこさ、「猫徳」に由来するだろう。(09/01/07)

 

『ギンちゃん日記』1

「それじゃ、ギン。行ってくるね。さよならね」とボスがいって、吾輩の鼻先に人差し指を突きつけた。「分かったよ。クンクン」と吾輩。「ギンちゃん、元気でね。いたずらしないでね」と今度は姐さんがいって、喉元を撫でてくれた。「分かったよ。いい子にしているよ」と吾輩は目を細めて応じた。

正月も三日の午後3:40頃だろうか。吾輩は「分かったよ」と生返事したが、本当のところは現状認識していなかった。しばらく惰眠をむさぼって階下におりると、ボスも姐さんも、アビ兄もニアっ子もいないではないか。蛻(もぬけ)の殻ではないか。

このとき吾輩は、はじめて自分のおかれた状況を理解することになる。教育界に夙に知られる山国の名門校に、吾輩は「留学」したのだった。寄宿舎はS湖に程近い瀟洒なかまえの建物で「河童寓」といい、寮長は河童王を自称してエヘンと威張っている。河童の皿は凹んでいて水が容れられるが、寮長のそれは光ってはいるだけでの代物。もっとも吾輩はそれをいえる立場ではないが。

ここで吾輩のプロフィールを簡単に記そう。

アメリカンショートヘア。毛色はシルバータビー。年齢推定生後7ヵ月、体重約2キロ、男の子。「ウイキペディア」には、愛情深く人といるのが好き、活発で社交的な面もある。運動神経は鈍いが記憶力はよいと載っている。

吾輩のボスは、吾輩を「トロイ、オバカ」とおちょくるが、かれは人を見る目がない。いや「猫を見る目がない」。昨今エンタメ界をにぎわす「お莫迦系」と一緒くたにされてたまるか。

とまれこうまれ、江戸のボスと姐さんは、吾輩を猫族の模範にすべく留学を許してくれた。さらなる愛情や社交性、高貴なるキャットマナーとして、「開かずの間には入らない」「みだりに人を噛まない」「トイレ以外では糞尿をしない」「がつがつ食わない」「バタバタ駆けない」など習得させるために。

話が前後し平仄の合わないところは、吾輩が「マタタビ酒」をぐい飲みしたせいかも。明日からはキチンとするから許せよ。

河童先生は歳時記を炬燵の上に広げて沈思黙考、ときどきボールペンを走らせ、一行(ひとくだり)。どうやら、それが俳句というものらしい。吾輩はソファーからひょいと跳んで、歳時記に乗っかり、歳時記を体毛の下に隠してしまう。たった一行なんぞ吾輩にだってできるぞ。そんなの屁のかっぱだ。先生は歳時記を隠されて俳句が詠めず、吾輩の毛並みを撫でるしか仕方がない。

申し遅れたが、吾輩の名前は「ギン」。毛色「シルバータビー」に由来する。江戸では「ギンくん」「ギンちゃん」と呼ばれていたが、河童先生は「ギン坊」「ギン之介」とも呼ぶ。

突然「ギンちゃん、ご飯ですよ。カリカリですよ」と吾輩を呼ぶ声がする。ソプラノ音域の声は、寮母さん(寮長の奥さん)に相違ない。そういえばこの人「おかっぱ頭」に近いよね。お河童先生と呼ぶことにしよう。(09/01/05)