540「十二詩潮について(1)」
539「戯れに歌」
538「百足虫句」
537「詩あきんど18号」
536「まくなぎ句」
535「新しい季語」
534「作麼生モデ歌句」
533「二等辺三角形歌」
532「地虫句」
531「詩あきんど17号」

530「マーチにも句」
529「着流し歌」
528「寄居虫大仏の句歌」
527「臍曲がり短歌か」
526「野火俳句」
525「蟻穴壁の絵の句歌」
524「詩あきんど16号」
523「来し方の短歌」
522「黄昏れジャケット句歌」
521「わが脳短歌」

コラム「その25」

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560「マフラー句」
559「蟷螂歌」
558「スワンスワン「閻王」の巻」
557「詩あきんど集三句」
556「詩あきんど21号」
555「ヴェルレーヌ句・過去形歌」
554「近未来連句・三句の渡り賞」
553「近未来連句交流大会三位賞」
552「柚子は黄句」
551「詩あきんど第20号」

550「茸山は句」
549「道すがら歌」
548「捌きの立場」
547「桃熟るる句」
546「連句形式『さざんが』」
545「いのち得し句」
544「詩あきんど19号」
543「人語より句」
542「少年の歌」
541「十二詩潮について(2)」

560『マフラー句』

1月26日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句がトップ入選した。その作品と選者の仲寒蝉氏の講評を転記する。

  マフラーに嘘を隠して立ち話  義人

仲寒蝉「読みようによってはちょっと恐い句。これは男性ではなく女性同士の、所謂井戸端会議であろう。マフラーで口を押さえて話す様子をこう詠んだものか。それにしても「嘘を隠して」とはよく言った。口元を隠せば大胆になるのか、嘘も冴えわたる」。

「マフラー」は襟巻のことで冬の生活の季語。首に巻いて寒さを防ぐ防寒グッズである。素材は毛糸や獣毛や肌触りのよい布を用いる。南国ではともかく寒冷地ではほとんど必須用品といえる。

選者のご推察通り、男性ではなく女性同士の井戸端会議・・・しかし「会議」ではなく「立ち話」なので、二三人が交わす会話とみたほうが無理はないだろう。嘘をいうと口元歪み目が泳ぎ、ぎこちなくなるのをカモフラージュするためマフラーをもって覆い隠す。

俳句は一人称の文芸なので、それに添った解釈では「私がマフラーを使って嘘を隠し立ち話をしている」という句意になる。しかし連句に携わる者は「貴女の嘘を私はすでに知っている。マフラーで隠しているのね」という立ち話中の自他の「他者」という二人称の解釈もする。

さらに突っ込んで「あの女性たちマフラーで嘘を隠して立ち話している」という、三人称的な解釈も可能となる。つまり小説などでいう「地の文」という見立てだ。

俳句は一人称の文芸というのは通り相場であるが、読み手はじつは、二人称や三人称で読んだり解したりしているのではないか。寒蝉氏の講評も一人称ではなく三人称的に読み解いているように思う。

さて、掲句のいう覆い隠す嘘そのもの、嘘がなんであるかについては表現されていない。いかなる事柄の嘘であるかは読み手に委ねられ、読み手の想像力に丸投げされているわけだ。

「嘘」は真実でないことと辞書にある。しかし真実とはそもそもなにか。嘘と真実の境界線はどこにあるのだろうか。閑吟集「人は嘘にて暮らす世に」とあり、「嘘から出たまこと」「嘘も方便」などの俚諺もある。とまれこうまれ「嘘」は文学&文芸にとって魅力的な人事素材だ。

いっとき流行った中条きよしの流行り歌に「うそ」がある。♬「折れた煙草の吸いがらであなたのうそがわかるのよ/誰かいい女出来たのね/出来たのね~」。

「折れた煙草の吸いがら」だけでは「科捜研」でもたぶんわからないが、このディテールには詩的リアリティがある。17音ではそこまでのディテールは出せないのだろうが。(2016/01/28)

 

559『蟷螂歌』

1月19日付の朝日新聞長野版の「歌壇」に、筆者の短歌が佳作として掲載された。選者は草田照子氏。その作品を転記する。

  蟷螂の生きつつ枯れて目ん玉が

ぎょろりと動き吾を視るなり 義人

「蟷螂枯る」「枯蟷螂」という初冬の季語がある。『日本大歳時記』(講談社版)には次のように載っている。

「蟷螂は雌雄交尾後、大きな雌は小さな雄を頭から食ってしまう。生き残った雌は、あたりの草が枯色になってくると、保護色で緑色から枯色に変り、最後は枯れるのは目玉である。それを「枯蟷螂」という。枯葉の先に枯蟷螂がじっと動かないで止まっているのをよく見かけるが、枯死してしまったのかと思うと、まだ生きて飛び立ったりする」。

秋深い庭先などで蟷螂の枯れるさまを見ると、筆者は即身仏をイメージしてしまう。即身仏とは肉身のままで成仏した人。江戸時代に衆生救済のため自ら断食死してミイラ化した行者をいう。蟷螂の枯れは救済でも断食でもないが、生と死の鬩ぎ合い今わの際という点では、どこかに共通する心象があるように思えてならない。

上記の掲歌は、身は枯れながら目玉だけは生きる意志を残しているかのように、ぎょろりと動かして筆者を視る。凝視するように見る。筆者と蟷螂の交感、「人虫の交感」である。

戸川稲村氏にこんな俳句がある。「海荒るる枯蟷螂の彼方から」。

(2016/01/22)

 

558『スワンスワン「閻王」の巻』

スワンスワン「閻王」の巻           矢崎硯水捌

壱面

   春雷や閻王目玉をひん剝ける          矢崎 硯水

    慌てふためく庭の小綬鶏           渡邉 常子

   酒提げて思いがけない友が来て         吉本 芳香

    鯣を炙る匂い充ち満ち            三神あすか

   窓を開け港の景色眺むらん           嵯峨澤衣谷

    月の光のくねる銀竹             佐藤ふさ子

弐面

   偉丈夫がふぐり落として急ぎ足            硯水

    通せんぼうの婀娜な橋姫           山口 安子

   片恋の記憶はすべてモノトーン           あすか

    丘のモスクのややに傾き              芳香

   宇宙船国境越えてたゆたえる             安子

    肌の色では差別しません              硯水

   仮面つけわたくしを消す舞踏会            衣谷

    秋の旅路に急な飛び入り           矢崎 妙子

   燦燦とステンドグラス今日の月             同

    オルガン弾けば亡母の俤             ふさ子

参面

   石橋を叩いてついに渡らざる            あすか

    荘子の書から探す格言               衣谷

   就活の自己紹介は誇張して               同

    融通利かぬロボットへ喝             ふさ子

   太極拳いよよはじまる余花の園            常子

    翠微の辺り夏めける雲               執筆

2015年4月15日首尾

「スワンスワン」は、アラビア数字22(句数)を二羽の白鳥に見立てる。春秋二句から三句。夏冬一句から二句。二月一花一鳥(鳥は非定座)。恋二句から三句(弐面か参面)。三つの面による序破急。

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この巻は「第一回近未来連句交流大会」で、投稿者による互選選考は通過したが大会賞にはならなかった作品である。しかし選者の一人である中根明美氏が一位に推薦され、懇切な講評を書いてくださったので「詩あきんど21号」より転記する。

【中根明美推薦の弁】

「この度、「近未来連句交流大会」に参加して日頃の俳句の選とは少し趣も感覚も違う選ゆえ私にとっては重たいものであった。また、交流大会であるので選者自らも連衆に加わった作品もあり、これは選し難く、こうした点を考慮することとなった。が、素直に感じたままの鑑賞をさせて戴く。

今回は惜しくも大会賞とはならなかったが、様々な形式の応募の中から一位に次の「閻王」の巻を選んだ」。

「一面ののっけから、閻王のひん剥ける目玉に鷲掴みされたまま銀の月の竹林を抜け、絢爛にして洒脱な二面の恋句をたどれば、「ふぐり落とし」の厄払いの効き目もなく婀娜な橋姫に心奪われ立ちつくす。ふと、己にかえれば現世ならぬ万葉の恋のお話。仮面をつけたまま国境を越えステンドグラスに亡き母の後ろ姿を追う。「おかしうてかなしき」恋の物語にオルガンの演奏は永遠にペタルを踏み続け、月日は過ぎる。三面では荘子を読み、機械化に慣らされた現代人への喝を入れる。荘子の哲を踏み石橋は渡らぬままの沈黙。翠微の辺り、まことに憎し。凝縮された詩片に衝撃とかすかな嫉妬を感じながら、ふうーっと深息を吐く」。

(2016/01/15)

 

557『詩あきんど集三句』

第21号「詩あきんど集」(会員の投句欄)に筆者の俳句が9句掲載された。そのなかから次の3句を自選し、併せて貴夫氏の講評も転記する。

  疣多き柚子と地球儀撫でてみん  硯水

「疣」について『広辞苑』には、

「①皮膚上に突起した角質の小さな塊。表皮が局限的に増殖し角質層の肥厚をともなって円形または乳頭状の扁平小隆起をなすもの。原因の多くはウイルスで、伝染することもある。疣贅(ゆうぜい)

②物の表面に現れる小突起」。と載っている。

ほとんど誰でも知っているであろう疣について、なぜ辞書まで引用して説明したのか。「柚子」の表皮の小さなでこぼこを疣と表現したのは広辞苑の②に該当するが、筆者の俳句でそれと同列に比喩した「地球儀」は①に該当すると考えたいからだ。

地球儀はリアリスティックな地球そのものであり、「局限的に増殖し角質層の肥厚をともなって円形または乳頭状の扁平小隆起をなす。原因の多くはウイルスで伝染する」。つまり地球はウイルスに冒されて糜爛し角質を厚くして病んでいる。テロもその疾患の延長線上にあるといいたいのだ。

そんな意味合いで拙句について、「広辞苑の疣」を引いて敷衍したのだった。「撫でてみん」。そっと撫でてみん。

世もすゑの偏頭痛なり帰り花  硯水

「帰り花」は季節外れに咲く花のことで初冬の季語。二度咲。忘れ花。狂ひ咲。狂ひ花ともいう。

「世も末」は仏教の末法思想による言葉で、この世も終わりであること。救いがたい世であることをいう。「世もすゑの偏頭痛」とは「救いがたい世が原因で偏頭痛になってしまったわ」ほどの意。花も狂い咲くわけである。「訳あり」で咲いている訳である。

くっさめの骨伝動に身をまかす  硯水

「骨伝動ヘッドホンというのがある。空気を伝ってではなく、頭蓋骨を伝わり直接生体内部を伝播する音が聴覚神経の伝わる」と二上貴夫氏。

「くっさめ」は不随運動であり自力で抑制できない。鼻腔と咽喉を通じて痙攣がきてハックションとなる。くっさめの振動音声伝播は主として骨伝導といわれる。(「皮肉」を通しての伝播もあるがそれは微々たるものとされる)

英語圏の人種は他人がくっさめをすると殆どといってよいほど声掛けをするそうだ。その定番は「ブレス・ユー」で「神の祝福あれ」の意味という。

くっさめは見かけによらず強烈な瞬間パフォーマンスなので、不用意にすると肋骨を折ったり、ぎっくり腰になったりする。体を柔らかくリラックスさせ、不随運動に対して「身をまかす」のがよいだろう。

(2016/01/10)

 

556『詩あきんど21号』

HAIKAI其角研究「詩あきんど」第21号が到着した。最初のページの「第二十号より抄出 編集委選評」に筆者の俳句が採り上げられ選評されているので転記する。

  パリコレの脱衣の綺羅や蛇の衣  硯水

選評「綺はあやぎぬ、羅はうすぎぬの意と古典辞書に載っている。要は美しい衣服とそこから来るはなやぎや栄華を意味する。パリコレの衣装そのものではなく、その衣装が「綺羅や」というのは俳諧だが、それに加えて「蛇の衣」とくると、これぞ俳諧といわざるを得ない。でも、綺羅と蛇の衣はなぜかそういわれてみるとぴったり嵌る。そこに一行形式の尽きない謎がある」。

「パリコレ句」については、当コラム545号にて「自句自解」のスタンスで触れているので省くが、詩あきんど編集委氏の「そこに一行形式の尽きない謎がある」という評言にはハッとするものがあった。そのことについてちょっと書いてみたい。

俳句は俗に一行詩ともいう。十七音の言語を一行で書き記す方法をとるからである。しかし十七音は散文のようにだらだらと繋がるものではなく、上五、中七、下五と三ブロックに分けられて成り立つ。それは俳句の初心者でも知っていることだ。

さらに多少なりとも作句経験がある者なら三ブロックのどこかで「や」「かな」「けり」「なり」「ぞ」「がも」などの切字を用いて意味を完結させ、詠嘆や感動の意を表して修辞的に言い切る形をとることを知っている。(「や・かな・けり・なり・ぞ・がも」以外の言葉も切字の役目を代用するといわれ、「四十八文字切字ならざるはなし」と古典が遺している)

何が言いたいかというと、すでに述べたように俳句は十七音一行ではあるが五音・七音・五音の三ブロックに区分けされている。俳句によっては二句一章的な二ブロックがあれば、区分けを多くした四ブロックもなしとはしない。

そしてさらにここで言いたいのは、日本に根付いた俳句という一般的な概念では俳句はあくまでも一行であるということ。読み手は一行として読むということである。

「一行形式の謎」とは、例えブロックが二つ三つに分かれていても、読み手は一行という概念、一行という意識のなかで二つ三つを繋げて読んでしまう、連結して読んでしまうということだ。それを「謎」と称したのかもしれない。

上記の拙句について述べるなら、「一行意識」によって「脱衣の綺羅」と「蛇の衣」が違和感なく繋がるのであろう。ちなみに掲句を三行分けに書いてみる。脱衣と蛇の衣とに違和感はないか。違和感はあるか。いかがだろう?

パリコレの脱衣の

     綺羅や

        蛇の衣

(2016/01/03)

 

555『ヴェルレーヌ句・過去形歌』

12月15日付の朝日新聞長野版の俳壇と歌壇に筆者の俳句と短歌が佳作として掲載された。次にその作品を転載して「自作自解」、つまり自分の作品を自分で解釈する。

  ヴェルレーヌ詩集に挟む柿紅葉  義人

ポール・ヴェルレーヌはフランスの詩人で、象徴派の代表者。詩集には「華やかな饗宴」「ことばなき恋歌」「叡知」「秋の歌」(上田敏訳)などがある。(1844~1896)

ヴェルレーヌ詩集「秋の歌」の一連「秋の日の/ヴィオロンの/ためいきの/身にしみて/ひたぶるに/うら悲し」は上田敏訳になる。名訳として夙に知られるものだ。

いっぽう堀口大學訳では「秋風の/ヴィオロンの/節ながき啜泣/もの憂き哀しみに/わが魂を/痛ましむ」がある。また題名は「秋の歌」のほか「落ち葉」の訳もある。この詩はヴェルレーヌの二十歳のときの作とされる。

四季の持つ心象乃至はイメージとして、春が青春ならば秋は晩歳であろうが、ヴェルレーヌの詠み込む幽愁には、どことなく甘美な青春性がにじむ。栞として詩集に挟むにふさわしいのは、鮮やかに紅葉した柿の葉だ。第三者的に述べるなら、秋の清冷な日射を浴びてベンチで詩集を読んでいるのであろう。

  過去形になると会話が弾むなり

   タイムカプセル開くかのごと  義人

晩年ともなると過去を振り返ることが多くなる。人との会話も昔日の自慢話や失敗談ばかり。すでに終わってしまったことの羅列、過去形で言葉がつながってゆく。

「タイムカプセル」とは現今の文章・物品などを収納し、将来の発掘を期待して埋める容器と辞書にある。

上記の短歌の後半の七七「タイムカプセル開くかのごと」、つまり土中に埋めた容器であるタイムカプセルを発掘して中身を見ているかのようだという歌意である。自分自身のことながら(あるいは友人のことながら)、ああ、そうだったのかと、いまさらながら呆れ返るのだ。

会話がすべて過去形になってしまうという爺むささ、あるいは婆むささに、タイムカプセルという容器の具象を付与した。そんな点が読み取れるが、ほんとうは、さらなる別個の具象化が求められていたのであるが・・・。(2015/12/21)

 

554『近未来連句・三句の渡り賞』

「近未来連句交流大会」の「三句の渡り賞」は互選で32組が候補作となり、さらに選考委員によって6組が選ばれた。そのうち2組を筆者が受賞、その作品を転記して「自作自解」したい。

『さざんが「パプロフの犬」の巻UFO』

打越 神がかり砂漠越えれば黄昏れて  矢崎硯水

前句  誰の心にも錆びたトカレフ

付句 少年が稚児を愛した開かずの間

『打越』の「神がかり」は「神懸り」「神憑り」の字を当て、神霊が人身にのりうつること。また、その人、と辞書にある。そんな人が砂漠を越える。イメージとして駱駝で越えるのも徒歩で越えるのもよいだろう。神のご加護をいただき心を奮い立たせての砂漠越えが、ようやく達成される。そのとき黄昏れる。

『前句』の「トカレフ」とはトカレフTT-33のことで、米軍のコルト45の対抗馬として1929年に開発された。旧ソ連製の軍用拳銃。「錆びたトカレフ」とは戦争という殺戮システムと兵器ビジネス、その兵器を使用した側の記憶、使用された側の記憶。誰の心にもある傷痍。

『付句』は、君主や僧侶が稚児を愛するインモラルな性愛が洋の東西を問わずあるが、少年が男子の稚児を愛した。人間は生まれながらにして原罪を背負う、その「開かずの間」。

「神」→「砂漠」→「黄昏」→「誰」→「殺戮」→「愛」→「罪」。これらイメージを筆者なりの言葉に置き換えれば、「心像」とか「表象」とかいう意味になり、それをなぞってゆく意識を表現する。

『さざんが「説破せり」の巻UFO』

打越  酒場のドアを肩でぐい押し  矢崎硯水

前句 詩神へと言辞奉げる詩あきんど

付句  はるか潮路の果ては羊水

『打越』は型破りの気取った男である「私」が、酒場のドアを手ではなく怒り肩を使って押し開ける。ぐいと押し開ける。これから酒を呑み食らう。

『前句』の「詩あきんど」は詩商人のこと、つまり詩を売って生業を立てるもの、プロとしてセミプロとして詩歌や作詞を書いているもの。フランスなどのトルバドゥール(吟遊詩人)もカテゴリーに入る。

むろん表現者として筆者自身の憧れを言外に言っているが、俳誌「詩あきんど」はイメージとしてあるが固有に指しているわけではない。詩の神へと言辞を奉げる。

『付句』は外界へと視線を転じ、はるか彼方に青青とのぞむ潮路。そして潮路のはるか彼方へ時空を遡れば、そこは母なる海の羊水にゆらゆらと揺蕩う「私」がある。

以上の三句のつながりを「心像」「表象」をもって辿ってゆくのである。(2015/12/12)

 

553『近未来連句・大会三位賞』

NPO法人俳句&連句と其角の「近未来連句交流大会」が開催され、筆者の独吟さざんが「説破せり」の巻が三位賞を受賞した。その作品と「形式さざんが」について、ならびに選考会での推薦の弁と受賞のことばを転記する。

独吟 さざんが「説破せり」の巻 矢崎硯水

一面

作麼生をしたり顔して説破せり 

  鞄ひとつで犬連れの旅

 赫赫とピサの斜塔へ日は落ちて

二面

    酒場のドアを肩でぐい押し

   詩神へと言辞捧げる詩あきんど

    はるか潮路の果ては羊水

三面

   高台の画家とモデルの鬩ぎ合い

    一線越えず一糸まとわず

   あめつちを意識するとき無尽蔵

2015年9月19日満尾

形式「さざんが」について。

掛算九九の「さざんが九」による「さざんが」の形式名。三行×三つの面の合計九行を以て構成する。発句は長句でも短句でもよい。季語は不要。疎句を以て三句の渡りを尊び、三つの面のジョイントで虚実の宇宙を表現する。

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【選者二上貴夫推薦の弁】

「さざんが」は十二句連句の「賜餐」が三句四連で、これより短い形式は不可能と思っておりましたが、それを破っての三句三連です。「三句ずつで一面を構成しそれをクルリと一面と三面が三角形にまるめるとちょうど万華鏡になるような形をなしている」との面白い感想がありましたが、一巻九句に季語という要件を外して、無季による長句と短句との交叉に詩情をさぐろうとした点は、季語を知らない詩人や外国人にも受けるかもしれません。なお、現代連句にややとも嫌われる独吟に、三句三連の短さが可能性を開いた点も加味し、新形式としての文芸的価値を評価致します」(詩あきんど21号より)

連句はそもそも言葉のパフォーマンスであり、文学的エンターテイメント性もあると思う。連句に限らず詩歌や俳句にはむろんそのような要素があるし、むしろ必須の要件でもあろう。

さきに「宇宙を見据えた」と書いたが、筆者が見据えたいものは「句間」が表すイメージに他ならない。筆者のいう「イメージ」とは映像や姿形、心に思い浮かべるものだけでなく、「心像」とか「表象」とかいう意味である。深層心理を流れるものを見据え捉えたい。それを文芸文学と言いたいのである。

この作に対する自己評価はさておき、長句&短句の「定型システム」には現代詩に近づける能力がある。新しい皮嚢である形式「さざんが」には新しい世界に踏み込める能力があるかもしれないと思う。(2015/12/04)

 

552『柚子は黄句』

11月17日付の朝日新聞長野版の俳壇に筆者の俳句が佳作として掲載された。次にその俳句を転載する。

  柚子は黄ににきび可愛いや島娘  義人

「柚子熟れる」「柚子香る」など柚子の熟する季語での五句連作の一つが採り上げられた。その他には「柚子熟れて島々つなぐどんこ船」「地球儀と柚子をならべぬ疣多し」「ふるさとに似たる他郷や柚子香る」など。

掲句は小豆島をイメージし、柚子が黄色く完熟する季節に、たまたま見かけたにきび顔の島の娘。その化粧もしない娘のなんという可愛さよ純朴さよという句意である。

柚子の実の表面のでこぼこ感、ところどころ疣状に飛び出たものを「にきび」に置き換えた。この句だけで読むと南国の観光ポスターの写真のような感じであり、それ以上の意図もないし、また感興もない。それだけの俳句だろうと作者ながら思う。

じつは筆者が本当に表現したかったのは、「柚子の実の表面のでこぼこ感、ところどころ疣状に飛び出たもの」なのだ。丸い柚子の実を地球に擬える、でこぼこ感やところどころの疣状を、地球におけるそれぞれの国の国土と見做す。その異化効果を描きたいとずっと思ってきた。その意味では今回の俳句は習作の境を出ないものだ。

因みに「柚子」は秋の季語で「柚子の実」は冬の季語である。(2015/11/18)

 

551『詩あきんど第20号』

HAIKAI其角研究「詩あきんど」という俳誌の第20号がきた。以前にも書いたが筆者はこの俳誌の会員である。「第19号より抄出編集委選評」という前号から優秀作品を再掲するページがあって、筆者の俳句が載っている。その作品と選評を転載する。

  誰そ彼はへくそふんぷん灸花  硯水

「ニーチェが「神は死んだ。神は死んだままだ。そして我々が神を殺したのだ。」と言ってから既に百年以上過ぎた。二十一世紀も十五年経った今、「人間は死んだ。我々自身が殺したのだ。」と言ってもそう間違いではない。「近代の「なれの果て」の時空間をわれわれは生きている。近代の「たそがれ」は「へくそふんぷん」で一部の人間は敏感にそのいやな匂いを感じている」。

「誰そ彼」とは「たそがれどき」のことで、黄昏時の漢字をあてる。夕方うす暗くなって「誰()そ、彼は」と人の顔の見分け難くなった時分のこと。夕方。夕暮をいう。

一方「灸花(やいとばな)」は子供たちが灸に擬して遊ぶところからの呼び名で、屁屎葛(へくそかずら)の別称である。屁屎葛はアカネ科の蔓性多年草で、山野や路傍にふつうに見られる。全体に悪臭があり、葉は楕円形で夏には内面紫色の小花をつける。

掲句の「誰そ彼は」は時分を表現していると解釈してもよいが、「誰だ?彼は」「彼は誰だ?」という相手の素性の見分けのつかない、うす暗い状況の暗示という解釈もできる。

余談ながら、そのかみ「夜や闇」は夜陰に乗じてとか夜逃げとか夜這いとか、丑三つ時のお化けとか、悪行や畏怖や隠微などホラータイムと考えられた。他方で「昼や陽」は明るくて善意に充ち、親切で人助けなどフレンドリータイムであるとされた。しかし昼夜という時分の交わる境域では、善悪不明な人間が行き交い、たしかな見定めが難しかった。そんな曖昧模糊たる時刻の夕方を「黄昏時」といい、明け方または夕方を「かわたれ時」といった。現世と魔界のスクランブル交差点といった場所だった。

上記の講評は、人間が鵺(ぬえ)のようで掴みどころがなく信じられない現代の状況を、屁と屎がふんぷんと俗臭を放つという、比喩の表現であると読み取ってくれた。このように深く読みこんで、それを俎上にのせてくれた俳誌ははじめてだった。

今号の二上貴夫選評「詩あきんど集」に筆者の俳句は10句収載された。「山車跨ぐ衒ひ男のててらかな」には「「ててら」とは「ててれ」とも言う襦袢、ふんどし、下帯のこと。柳俳一致などと思うなかれ「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会い」をゆく」。とある。

次に自作10句から筆者自身の好きな3句を転記する。

  万有引力といふありて落し文

  地動説の地を掴まへて百足虫這ふ

新酒酌むダリの時計で何時かや

以上三句の自句自解は省き筆を擱くことにする。(2015/11/1

550『茸山は句』

11月3日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句がトップ入選した。選者は仲寒蝉氏。次にその作品と講評を転記する。

  茸山はひねもす谺ほしいまま  義人

「茸山に丸一日いて茸を採っていた人ならではの見方と言える。空気が澄んでいるのでいつ声を張り上げてもそれは谺としてかえって来るのだ。久女の「谺して山ほととぎすほしいまま」を踏まえた句であろうが季節も雰囲気も全く違うものとなっている」。

茸は多くは傘状をなし、裏に多数の胞子が着生。山野の樹陰や朽木などに生ずる。松茸・初茸・椎茸などの食用から薬用にもされる。有毒の種類もある。と辞書には載っている。これが茸のもっとも簡略な説明だろう。

菌類である茸は木蔭や湿った樹木の洞などに着生し、日照よりも降雨を好む環境に育つ。生育環境から考えて林檎や梨のようにずっしりとした重さが想像されるが、茸の茎や傘には空気層が張りめぐり、形から推測される感じよりはるかに軽いのだ。

このような茸の特性を表現したいものと筆者はずっと思っていた。そのキーワードは「谺」だ。谺は木霊の字も当てる。山彦とも言い換える。樹木の精霊、山の神のことである。また「彦」とは日子の意で男子の美称であり、山彦は男が山で発しているひびきだ。

つまるところ、空気層を通り抜けてゆく谺、音ひびき、霊魂たましい、人の声である。その爽やかさである。茸という植物と霊気との一体感である。

谺によって茸がすくすく生育するとか、傘などの隙間を透過によってヤッホーがビブラートするとか、そんな視点で作句を試みてきた。試行錯誤してきた。掲句は必ずしもテーマに添ったものではないが、一連の関連作ではある。

久女の俳句は有名なので知っていた。また「ほしいまま」は筆者がかつて所属した俳誌「草茎」ではよく用いられる表現で、筆者もこの言葉を使って数句は詠んで掲載された。

それはともあれ、上記の掲句は茸そのものではなく、茸山(たけやま)、つまり茸の生えている山を詠んでいる。その意味では選者の寒蝉氏の「空気が澄んでいるのでいつ声を張り上げてもそれは谺としてかえって来る」という評言通りである。筆者の長年のテーマに迫る句ではないが、快く爽やかで好きな句ではある。(2015/11/05)

 

549『道すがら歌』

10月27日付の朝日新聞長野版の「歌壇」に筆者の短歌が入選した。選者は草田照子氏。その作品と選評を転記する。

  道すがら片手拝みのマリア像

   ときにマリアの笑まふ日もあり 義人

「マリア像がどこにあるかわからないのが残念だが、日によって笑みかけてくれるような気がするという。目には見えない交流が思われる」。

――とある小径を歩きながら、道の辺の粗末なつくりの礼拝堂のマリア像を拝む。この道はいつも通る道で、通るたびにマリア像を拝むのだが、忙しさにかまけて小急ぎになり片手拝みになってしまう。そんな拝み方であるが、マリア様はときに優しく微笑んでくれるように感じる、という歌意である。

「マリア像がどこにあるかわからないのが残念」と講評にあったが、筆者にはこの短歌のモデルはある。木曽の奈良井のお寺にマリア観音がおわす。キリスト教徒は迫害されるので、隠れキリシタンは「マリア観音」とマリアに観音の言葉をつけて祀ったものらしい。

ただ地名や寺院などを詠み込むと、とても三十一文字には収まらない。筆者は現実や生活に立脚した短歌を詠みたいのではなく、人間心理の綾を表現したのだ。こちらの心の持ちようで「ときにマリアが笑まふ」こと、実際はマリアが表情を変えるのではなく、マリアを拝む人間が変わること。神は筆者にとって絶対ではなく、自分があって神がある。そんな意味では無神論者であるということを表したかった。(2015/10/29)

 

548『捌きの立場』

筆者このたび、インターネットの掲示板が興行する連句の捌きをはじめた。(筆者は「興行主」ではなく、いうなれば雇われママ的な捌き)。形式は歌仙で、3日~4日の投句期限で締め切り、寄せられた付句のなかから一句だけ治定してゆく。満尾するまでには約半年かかる長丁場。

捌きが発句を立て、脇以降の付句を募集する。「文台控」という留め書で毎回にわたって応募句の傾向や、予選、候補、治定ならびに講評をする。

連句作品を語るのではなく、捌きの立場について語るので発句や付句にはふれず、専ら捌きのあれこれを書いておきたい。

発句は仲秋の動物の季語で、カタカナ語を入れた人情なし、景色の句(場の句)を立てた。これに付ける脇は、動物以外の仲秋か三秋の季語。初秋は季戻りになるので不可。体言止という注文を出した。

これらは多くの流派やグループで守られている約束事である。もっとも脇を体言止にしなくてよいという流派もあるが、大多数は体言止派。また発句が鳥類(動物)の場合に虫類(動物)ならよいという流派もあるが、これは少数派。

上記のような条件であれば、連句界の大方の理解が得られるものと思うのだが、じつは脇にもカタカナ語を入れて欲しいというのが筆者の密かな願望であった。

カタカナ語が日常的に使われる現代では、カタカナ語が打越になったり大打越になったりしてもかまわない。必要ならランダムに頻発しても問題ないという意見もあるが、連句作品は「文字面(もじづら)」つまり文字の並んでいる姿を賞翫する文芸であると筆者は思っている。カタカナ語の「二句連続」は句意のつながり、表記の美しさを表す手法だ。(漢字・カタカナ・ひらがな、その違いは短詩形の作者にとって、文学的価値をつかさどる「生殺与奪」である)

因みに表記の美しさという点では、語尾の体言止や用言止の制限について、例えば体言&用言とも三句までよいとか、四句までよいとか問題視することもその類例である。

カタカナ語「二句連続」の賛同者はかなり多いが、応募の条件にまではしなかった。それは筆者の個人的な考え方の範疇に入るだろうからと。結果的にカタカナ語を用いた優れた脇が寄せられ治定することができた。

「発句&脇」で、カタカナ語二句連続、二句人情なし景色の句となった。ここで筆者の出した注文は、季語分類厳守と季戻りと、人情あり、人倫ありを詠むことだった。

思えばこれら注文は、連句人に課せられた最低限度の条件である。注文されるまでもなく知っていなくてはならないのだ。連句の生命線である「付けと転じ」、すべてはここから発する。つまり、付けるとは「前句」に付けること、転じとは「打越」から離れることだ。このことを考えれば、カタカナ語二句連続、景句二句連続なら次は人情句という意味が分かるだろう。

連句の式目や付合などの条件に絶対はなく、連句界の大方の理解が得られる条件と、捌きの個々人の考え方に基づく条件とがある。

つまり絶対条件がないということは、すべて緩やかな条件下にあるということでもある。筆者かつて「こんにゃくカノン」なる言葉を用いたが、こんにゃく(蒟蒻)が比喩する柔軟さと、適度の弾性が保持されていて、その運用が条件と言えばいえる。

さきに述べた「捌きの個々人の考え方に基づく条件」こそが、連句の文芸性の基本になるものである。古典を引用するのも参考になろうが文芸文学は飽くまでも自らの発信でなければならない。(2015/10/25)

 

547『桃熟るる句』

10月20日付の朝日新聞長野版の俳壇に筆者の俳句が佳作として掲載された。次にその俳句を転載する。

   桃熟るる月の雫を夜夜享けて

「桃」つまり「桃の実」は、果物のなかで大形の球形で美味。古くからわが国各地で栽培され、邪気を払う力があるとされた。改良種が多く白桃・水蜜桃のほかに皮に毛のない脂桃(ネクタリン)などがある。初秋の季題。ただし早桃(さもも)は晩夏の季題になる。

「桃熟るる」は歳時記の季題にもその副題にもないが、桃の実が熟すことを意味する。(ちなみに桃の実は、「歳時記」によって夏であったり秋であったりまちまち。したがって連句の付句に使うときは神経を使う)

「桃」(桃の花)は襲の色目についてもいう。「表は紅、裏は紅梅。また表は白、裏は紅。一説には表は薄紅、中倍(なかべ)は白、裏は萌葱(もえぎ)。三月頃用いる」と『広辞苑』に載っている。

桃の花と桃の果実とが、その色彩と果汁の瑞瑞しさにおいて「果実界」では際立った存在である。また「桃色」という言葉があり、桃の花のうすあかい色、淡紅色・桃紅をいうのだが同時に、男女間の情事に関することをいう語でもある。そして、さらには俗に、やや左翼思想を帯びていることも併せていうのである。桃から生まれた桃太郎の昔咄も宜なるかな、である。

「自句援用」として桃についてあれこれ引用したが、「桃」と「月の雫」を取り合わせるとき筆者のなかには、これらもろもろの意味やイメージが這入っていたことを述べなければならない。

桃の実は初秋の月光のしずくを幾夜も享けとめ、そのしずくを皮越しに蓄えて果汁の甘みに変える。そして完熟してゆく。天からの月のしずくの恵み、地中に根を張った桃の樹がそれを享けとめて蓄える。乾坤の自然(じねん)の力、自然における物たちのすばらしい循環が作句動機だった。(2015/10/21)

 

546『連句形式「さざんが」』

筆者はこのたび、新しい連句形式「さざんが」を考案した。「さざんが」は連句形式のかたち、そのありようを次のように標榜する。

「掛算九九の「さざんが九」による「さざんが」の形式名。三行×三つの面の合計九行を以て構成する。発句は長句でも短句でもよい。季語は不要。疎句を以て三句の渡り尊び、三つの面の連結による虚実の宇宙を表現する」。

これまでの連句の形式は、特殊な千句、万句、そしてむかしは一般的であった百韻(100句)をはじめ、五十韻(50句)、世吉(44句)、歌仙(36句)、短歌行(24句)、非懐紙(18~24句)、スワンスワン(22句)、二十韻(20句)、半歌仙(18句)、十二詩潮(12句)、オン座六句(一連6句)などなど、このほかにも数え切れないほどある。

「さざんが」の第一の特徴は季語がないこと、次に疎句を用いること、続いて宇宙を表現すること、であろう。ほとんどの連句には季語があり、季語がなくて連句と言えるかという指摘もあろうが逆に、拠り所を外してしまうことのイマジネーションの拡大と圧縮を求めたい。

疎句によって転じの大幅の跳躍を求める。また「宇宙を表現する」の宇宙とは、たんに天然天象の意を指すにとどまらず、『広辞苑』「②()「時間・空間内に存在する事物の全体。また、それら全体を包むひろがり。もっと限られた範囲の事物全体を指していう場合もある」の観念を表すものである。

新しい形式「さざんが」を使って筆者、ことのとろ作品を3巻ほど巻いている。季語を使わない行分け作品は、ほとんど現代詩を思わせる感覚だ。筆者は十代後半から約五十年のあいだ現代詩を書いてきたが(年に数編とか年に三十編とかむらがあったが)、「さざんが」くらい難儀したことはない。

現代詩は当然ながら思想がありテーマがありプロットがあり、それにそって効果的な言葉を措辞してゆく。石工のように言葉を嵌めてゆく。ところが連句には、そのすべてがない、そのすべてを必要としない。思想もテーマもプロットも必要なく、むしろ無用である。

それでは「さざんが」は何を造り出そうというのか?「虚実の宇宙」とは?一行の言葉の語意とか語調とかイメージとか。前句に微かに付きながら打越には反発する三句の渡り。三句のひびき合い。言葉による世界観の構築、一句立てには思想があっても全体では無思想、一句立てには意味があっても全体では無意味。言葉がテーマなくつながってゆく、言葉そのもののインパクト。・・・それらが脳裏を飛び交って、作品化には難渋した。

拠り所である季語や、耳慣れた外在律のリズムを敢えて壊し、自分の息遣いに合った内在律で作句することの何と大変な作業であることか。

「近未来連句交流大会」は独吟作品もよいので、連衆参加作品とは別個にひそかに「さざんが」に取り組んだしだいである。(2015/09/25)

 

545『いのち得し句』

9月15日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。次にその俳句を転載する。

   いのち得しごと風に這ふ蛇の衣

「蛇の衣」とは、「蛇の脱殻(ぬけがら)。白く半透明で、蛇の形そのままに樹の枝や垣根にかかっているものを、多く梅雨明けの頃に見かける。≪季・夏≪と『広辞苑』にある。

脱皮した蛇の殻を「衣(きぬ)」、すなわち蛇の衣装とは言い得て妙というか、日本人の感性がいわせたものだ。風に吹かれて風の道なり地面を飛んでゆく衣は、まるで蛇が命を得たもののようだ。蛇が鎌首をもたげて這いまわっているかのようだ、という句意である。

上記の辞書には「白く半透明」とあるが、実際には幽かに光沢があり、蛇の銀色の鱗の紋がついている。形は蛇そのままで非常に軽く、ある程度の耐久性もある。完全な形のものは金の溜まるお守りとして、財布や鞄などに収めるという俗信の地方も。因みに蛇が皮を脱ぎかけている状況は、決して見せないそうだ。

ところでこの朝日俳句の投稿の後に筆者、こんな俳句をものした。

  パリコレの脱衣の綺羅や蛇の衣

略称「パリコレ」、パリコレクションといえば、世界三大ファッションショーと称される。スーパーモデルたちがきらびやかな衣装に身をつつみ、あるは胸元をはだけて(裸けて)舞台を闊歩し、立ち位置でしなやかにポーズをとる。舞台裏の衣装の着替え部屋には、モデルたちの脱衣した衣装があちこちに・・・それもパリコレだけあって真にきらびやか!銀色の鱗の紋様があしらってある!

筆者のなかで、モデルの衣装と蛇の衣とのイメージが重なる。ある人はこれを机上作、作り物といって蔑む。吟行などで見たままの情景を写生すればいいのか?頭で考えたり想像したりすることは俳句でないのか?

「パリコレ蛇」は更に推敲してきんきん、別のところに投句したいと思っている。ふと思い出したが、一茶に次のような句がある。「御仏の膝の上なり蛇の衣」。(2015/09/16)

 

544『詩あきんど19号』

俳誌「詩あきんど」19号が送られてきた。「第18号よりの抄出 編集委選評」に筆者の俳句が再録される。次にその俳句と講評を掲げる。

  アンニュイにあらず蛙の目借時

『「目借り時」とは、「妻狩る」・「雌離る」とも言われ、蛙にとっては眠いどころか生存競争の真っ盛り、アンニュイどころではないが、われら人間にとっては、時に眠気に襲われながらも、スキャットのテーマソングと共にフランス映画「男と女」を思い出す晩春の候だ。その辺りにこの句の俳諧性がある。因みに「千万の眼が日をあふぐしらす干」にも諧謔と共にどこか生きていることへの哀感を感じさせる』。

この号の「詩あきんど集 二上貴夫・選評」に筆者の9句が収載された。二上氏が選評を書いているので転記する。

『転失気とは「おなら」のこと。ヴュジャデ(未視感)はデジャヴュ(既視感)の逆読みで見慣れたものをはじめて見るかのように見る錯覚。啄木の三行詩にそれを見たのか』。

次に9句のなかから、筆者好みの2句を自選して自句自解してみたい。

東海の小島のヴュジャデ蟹が這ふ

上記の俳句は、二上氏が◎印をつけて採り上げてくれた。石川啄木の「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」をベースにする。三行に書き分けた当該の短歌は『一握の砂』の冒頭に載っている。「東海」には、茨城県北東部だとか愛知県西部だとか、果ては東海道の略称、日本国の異称などの諸説がある。またこの短歌には、啄木ゆかりの七人の女性の名前が織り込まれているという説も発表されている。

それはともあれ、小島の磯や湖水の砂浜・・・筆者の人生にとってそんな場所は見慣れているはずであるが、そこで視る蟹は、なぜか初めて視るもののように感じられてならない。蟹は横這いだけでなく、縦這いもあるということなどなど。

啄木の短歌が人間の意識を深掘りさせるのであろうか。俳句に「ヴュジャデ」という言葉を用いて生臭さふんぷんではあるのだが。

ムーンライト透る窓辺の水羊羹

「ムーンライト」は文字通り月の光、月光。余計なことかもしれないが、「ムーンライトソナタ」はベートーヴェン作曲のピアノ・ソナタの通称。月光の曲のこと。

瀟洒なスイーツ店の窓辺の席で、水羊羹を食べている。折からムーンライト(月光)が玻璃越しに射し込んで、食べかけの水羊羹を照らす。水羊羹は透明感があるので、芯までムーンライトが射し込んでくる。ムーンライトを銀の箆(へら)で、適宜の大きさに切って食するのである。(下意識で、ベートーヴェンのムーンライトソナタを聴きながら)

  深海の蒼さを湛へ水羊羹  零雨

わが師に上記の俳句がある。掲句の足元に及ぶ句を詠もうと夏になる挑戦してきた。まだまだ及ばないながら、コラムに採り上げたのであった。(2015/09/12)

 

543『人語より句』

9月8日付の朝日新聞長版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として採り上げられた。選者は仲寒蝉氏。その俳句を転載する。

  人語より鳥語聴かんと木下闇

「人語」は『広辞苑』に次のように収載されている。①人間の言語。日葡「ワウム(鸚鵡)ジンゴヲマナブニニタリ」②人の話し声。一方「鳥語」については広辞苑にはないが、『大辞林第三版』には次のように収載されている。鳥の鳴き声。鳥の声。

「鳥語」は一部で使われているが、まだまだ市民権を得ている言葉とはいえないようだ。しかし鳥の鳴き声を研究している人に言わせると、カラスならカラス、インコならインコの鳴き方にも、交尾の囀りとか仲間との交信とか警戒の伝達とか意思を伝える意味があるそうだ。これなどは広義の「鳥語」(鳥の言葉。鳥の語らい。鳥の話)かもしれない。

また「百舌(モズ)」はヒバリやウグイスなど他の鳥の鳴き声の真似が巧く、百舌の字を当てるのもそこからきている。オウムやキュウカンチョウやセキセイインコは人間の声を真似ることがよく知られる。

とまれこうまれ、政治経済事故事件ニュースはんらん、親戚知己向こう三軒両隣・・・人語の遣り取り人語のボクシングに撃ち疲れ撃たれ疲れる現代人、わたしたち。

人語より鳥語を聴こうと、(木が茂って木陰の暗い)「木下闇」へと出かける。ひとときの隠棲、ひとときのエスケープである。(2015/09/10)

 

542『少年の歌』

9月1日付の朝日新聞長野版の「歌壇」に、筆者の短歌が佳作として採り上げられた。選者は草田照子氏。その作品を次に転載する。

  少年の紙飛行機が風に乗り

   消えてしまった少年のわたしも

この短歌を言葉通りに解説すると、少年が紙飛行機を飛ばしていた。急に吹いてきた風に乗って、紙飛行機が消えて見えなくなってしまった。ここまでの「五・七・五・七」が一章である。

つづいて、少年であるわたしも消えて見えなくなってしまった。この「七」が二章目である。

一章は崖の突端などから、風向きを考えて紙飛行機を飛ばす少年の情景で客観描写だ。つづく二章の「少年のわたしも」は、少年期にさまざまな事情や事象を抱え込んでいたわたし・・・が容易に推察できるであろう。主観描写と解釈することができよう。

子ども時代の紙飛行機遊びを懐かしむ懐旧短歌といわれればそのようにも取れようが、消えてしまって、あれから還るすべもない「少年のわたし」としての少年らしさの喪失感、ジェネレーション・ロスのようなものを描き出したかったのである。(2015/09/01)

 

541『十二詩潮について()

「疎句」とは親句の対義語で、親句が前句に近く付けるのに対して疎句は前句に遠く付けることをいう。ただし遠く付けると言ってもまったく付かなくては連句にはならないので、付ける距離感がむずかしい。

「虚実」とは「①無いことと在ること。空虚と充実。②うそとまこと。③防備の有無。種々の策略を用いること。『―を尽して戦う』」と『広辞苑』に載っている。余談ながら、近松門左衛門の言になる「虚実皮膜」とは、「芸は実と虚との皮膜の間にあるということ。事実と虚構との中間に芸術の真実があるとする論」。

筆者が連句の内容の在り方として「虚実」というのは、以上の引用の辞書の意味に尽きると思う。そんなことは文芸文学として至極当然のことと反駁するかもしれないが、従来連句は「無」「虚」「策略」を等閑視し、古人は「無いものは付かない」とノホホンと構えていたのであった。従って筆者のいう「虚実」は従来連句へのアンチテーゼでもあるのだ。

「宇宙」とは、これまた『広辞苑』から引くと、宇宙の語意は種々あるが哲学的な解説として「時間・空間内に存在する事物の全体。また、それら全体を包むひろがり。もっと狭い限られた範囲の事物全体を指していう場合もある」と。

宇宙はギリシア語「コスモス」で、その語意として「秩序。転じて、それ自身のうちに秩序と調和とをもつ宇宙または世界の意」とある。

捉えられないほどの非常な巨大なものと、狭くて限られた些細なものたち。それらが不可思議と思えるまでの秩序と調和をもつ世界があるのではないだろうか。これも従来連句に対する十二詩潮のアンチテーゼなのだ。

「疎句」「虚実」「宇宙」の三項目についての筆者の考えを述べたが、式目には書いてはないが、「内在律」についても触れておく。

内在律の対義語は「外在律」だが、外在律は大雑把にいって日本の詩歌の伝統的は音律である七・五調とか五・七調をさす。連句の短句の「三・四」がよくて「四・三」や「二・五」がタブー視されるのも、日本人の大多数の音感がそのように感ずるからだ。それは一種の外在律である。

他方で「内在律」とは、個々人が体内に感ずる音感といったらよいだろうか。独りひとりが感ずる音感(語音と助詞や副詞などの音律)なので、極端なことを言えば呼吸のようなもので、日本人の誰ひとりとして同一はないはずのものだ。・・・十二詩潮は外在律ではなく内在律を重んずるのである。

文芸文学は既成作品を破壊すること、新しい世界を開拓すること、連句にもそれが必須である。連句が文学文芸であるならば。(2015/08/25)

540『再び十二詩潮について()

筆者は「十二詩潮」という新しい連句の形式をすでに考案し、その形式を用いた連句作品についてのメリットとデメリットをひそかに検証してきた。試行錯誤の末にたどりついたバージョンアップ版を次に書き記す。

「十二詩潮」(バージョンアップ版)

A面・B面・C面・D面それぞれの面に長短句、または短長句を交互に三句ずつ付け、十二句を以て構成する。

発句は長句でも短句でもよく、当季または雑(雑の場合はA面の二句目か三句目を有季とする)、以降は季節順に各面に一句ずつ季語を入れる。春は「花」、夏は「任意の夏の季語」、秋は「月」、冬は「雪」を詠み込む。

雪月花と夏の四季を配して連句の真の骨頂を継ぎ、十二句の言葉の響きあう詩潮(ポエトリー・タイドゥ)を最大限に重んじ、疎句を以て虚実の宇宙を表現する。一句立ての詩性、四つの面の三句の渡りを尊ぶ。

以上が最新の十二詩潮の「形式&式目」だ。「形式」とはフィールドであり、フィールドは競技者(連句制作者)の活動する場所である。他方「式目」とは、競技者(連句制作者)が競技するために用いる用具である。連句制作者(競技者)が「場所」と「用具」の二つを手にしたからと言って、優れた作品が誕生する訳のものではない。すべてはその運用、つまり場所を使っての用具の使い方にかかっていると言ってよいだろう。

さきに「場所と用具」の運用の大切さを述べたが実はそれよりも肝心要なのは、「十二句の言葉の響きあう詩潮(ポエトリー・タイドゥ)を最大限に重んじ」であり、「疎句を以て虚実の宇宙を表現する。一句立ての詩性、四つの面の三句の渡り」である。

これは明らかに従来の連句とは観念を異にするものだ。従来連句の観念の否定・破壊、そして再構築しなければ成り立たないものである。その最大のキーポイントは「疎句」であり、表現する対象が「虚実」であり、「宇宙」であると言いきる点だ。

従来連句にも限られた部分ではそれらしい表現は散見されたが、「疎句&虚実&宇宙」でなければならないと主張した連句作品は存在しなかった。次に疎句と虚実と宇宙という、三つの用語について少しく説明したい。(2015/08/15)

 

539『戯れに歌』

7月28日付の朝日新聞長野版の「歌壇」に筆者の短歌が佳作として掲載された。選者は草田照子氏。作品を転記する。

  戯れに魚眼レンズを覗き込み

   おのが今宵の酔顔を見る

「魚眼レンズ」とはカメラなどに使われる写真レンズのことで、中心射影方式でない射影方式を採用しているものをいう。

「魚眼」は、魚の視点である水面下より水面上を見上げたとき、水の上の物体や情景がすべて円形に見えることからきている。

魚眼レンズはプロやセミプロの写真家が写真を撮るのに用いることが多いが、iphoneなどのカメラレンズにも用いられる。

それとは異なるが「魚眼ミラー」という、見慣れた日常の自分の部屋や人物を異空間とか別人に映して見せるとかの、特殊な鏡が存在し売られてもいる。

さて上記の短歌だが、魚眼レンズに映し出された今宵の自分の酔っぱらった顔を、自分の目でとくと眺めてご覧なされ。その酔顔は赤くて真ん丸くて歪んでいるではないか。晩酌が過ぎたのではないか。そんな自戒と諧謔をにじませた歌意が込められる。

覗き込んだら自分の顔が即刻見られるという表現からすると、「魚眼レンズ」というよりも「魚眼ミラー」と表現した方がよかったかもしれない。それはともかくとして、デフォルメ、変形である。リアル感でも酔顔と日常の顔との差異はむろんあろうが、それ以上のデフォルメ感を魚眼レンズという用語で表したかった。

すなわち自らも見られる外面的な「顔」と、酔っ払った聊かの羞恥心のある内面的な「心」との、祖語&乖離を表したかったのであった。必ずしも表現できたとは思っていないが・・・(2014/07/30)

 

538『百足虫句』

7月21日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に筆者の俳句が入選トップで掲載された。選者は仲寒蝉氏。その作品と講評を転載する。

  百足虫這ふ未だ信じぬ地動説

仲寒蝉氏の評。「地を這う百足を見て、今では疑う余地のなくなった地動説に思いを致したのだ。この発想の飛躍も魅力的だが、それ以上に俺はまだ地動説など信じないぞと宣言している点が面白い。地動説は自明のものと思っている現代人への痛烈な張り手」。

「百足虫(むかで)」は蜈蚣・百足とも表記し、『広辞苑』には次のようにある。

「ムカデ網の節足動物のうち、ゲジ目を除いたものの総称。体は扁平で細長く、体長5~150ミリメートル。頭と胴とに分かれ、多数の環節から成る。各節に一対ずつの歩脚があり、数は種により異なる。頭部に一対の触覚と大顎をもち、大顎から毒液を注射して小昆虫を捕えて食う・・・日本に百種以上。地表・地中にすみ、人に有害なものもある。古来、神の使い、また怪異なものとされ、藤原秀郷(俵藤太)の伝説は有名・・・」。

百足虫は姿形が奇異な節足動物というイメージが強く、俵藤太の「大ムカデ退治」をはじめ、歳時記に載る俳人たちの俳句も百足虫を打ち殺すなどの表現が多くみられる。筆者も決して好ましい昆虫とは思わない反面で、脚の数の圧倒的な多さ、地面に脚がついている安定感の快さのようなものを感ずる。百足虫は数えきれないほどの足という意味で百足の字を当てるが、普通は30~40。ただジムカデは354本あるといわれる。

百足虫が這うときは間違いなく地面を掴む。百足虫が確りと大地を掴んで這うとき、地球が丸かったり大地が動いていたりすれば、足がもつれ足場が狂って歩けないのではないか?

これは観察者である筆者の、百足虫に成り代わっての感覚である。百足虫に感情移入し、筆者はこう宣(のたま)う。「地動説は信じない。地球は微動だにせず真っ平らである」と。

リアリティーな眼を働かせて百足虫を凝視しがら、言葉に置き換えるときは精緻な写生でなく、アーティスティックな表現手法をとる。サイエンスを誤認識し錯誤し、イメージ・パフォーマンスするのが筆者の考える俳句である。(2015/07/24)

 

537『詩あきんど18号』

「詩あきんど」18号の投句欄「詩あきんど集」に筆者の俳句が九句掲載された。前号にならって集中の三句を選んで「自句自解」してみたい。

  アンニュイにあらず蛙の目借時

「蛙の目借時」は蛙の鳴くころは眠気を催すことが多く、これは蛙に目を借りられたためとする、俳諧味あふれる晩春の時候の季語。目借時、目借る蛙の傍題がある。

漱石の『草枕』の一文に「春は眠くなる。は鼠を捕る事を忘れ、人間は借金のある事を忘れる。時には自分の魂の居所さえ忘れて正体なくなる」とあり、また唐の詩人孟浩然(もうこうねん)に「春眠暁を覚えず」の詩語があり、春という季節がもたらす気怠い季感を表している。

他方で「アンニュイ」とは倦怠感、退屈を意味するフランス語で、世紀末的な風潮から生まれた病的な気分をいう。生きる空虚感あるいは常識に対する反抗的な気分も含まれると辞書に載る。

当該俳句は、この気分はアンニュイではない、目借時の季感がもたらす倦怠だという句意である。しかし句意を読み取った直後に「この気分は目借時のせいではない、アンニュイが原因かもしれない」という「句意の反転」が呼び起されるのではないか。そうした読み手の心理の「反語喚起」を狙った俳句である。

わ印の綴ぢ目つくろふ千金夜

「わ印」は笑絵・笑本の隠語。春画・春本のこと。歌舞伎の『小袖曽我』には「もしや、わ印の新板ではないか」という台詞があるが、当世出版事情に置き換えれば、ビニ本、袋とじを指すのであろうか。

わ印をひんぱんに耽読するので、綴じ目が手擦れしてページがばらばらに散佚(さんいつ)しそうになる。「これは困ったことだわい」と、細君が寝静まった夜中に起きだし、綴じ目を繕っているという句意だ。緻密な作業で根気を要するが、垂涎の蔵書ゆえ労を厭わない。折しも千金夜であり作業さえも心浮き立つというものだ。

なお「千金夜」は七言絶句「春夜」のはじめの『春宵一刻値千金』を季語化したもので、「春宵」の傍題に収載する歳時記が多い。収載してない歳時記もある。

さより尾を揮ふや汝が感嘆符

「さより」はサヨリ科の海産の硬骨魚で体長約40センチ。下顎はいちじるしく延びて嘴状をなす。肉は白く味は淡泊。細魚・針魚の字を当てる。

「揮ふ」(ふるう)は振って動かすという意味のほか、腕を揮うとか勇みたたせるとかの意味もある。また「汝」(なれ)とは、さよりの身をさす。つまり、さよりが尻尾を揮っているのは、君が自らの細長い体を記号化して感嘆符を打っているのではないか。身を挺して自分の人生を訴えているのではないか。というのが句の内容だ。

さよりを擬人化し、さよりが人間同様に意志や感情をもっているというスタンスで作句している。動植物中心に多くの季語は、アニミズム的な考え方を基盤にしていると筆者は考える。(2015/07/05)

 

536『まくなぎ句』

6月30日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に筆者の俳句が佳作として掲載された。次にその作品を転記する。

  まくなぎに過ぎられ御籤引けば凶  義人

「まくなぎ」は「めまとい」ともいい、蠛蠓の字をあてる。ヌカカの類で、糠(ぬか)に似て至って小さな虫。一団となって眼のまえにうるさく付きまとうが刺さない。

神社に参拝のとき、まくなぎが執拗に顔のあたりを飛翔する。一部は眼に這入ってしまい眼をこすり、激しく瞬きする。社務所で御籤を買い求めて引くと、やんぬるかな「凶」だった。

「やっぱりな、そんな予感がしたぜ」。付いていないときは付いていないもの。悪いことの後には悪いことがつづくもの。悪いことは連続して三つつづくという。(その逆で、良いことの後には良いことが三つつづくという)

きょうは悪いことが二つつづいた。この後は悪いことが一つ待ち構えているが、それをもって悪いこと(悪い流れ)に終止符が打てれるならば、それでよい。それでよい。

気分がよろしくない(まくなぎ)に対して、気分がよろしくない(御籤の凶)を被せる表現は凡庸の誹りはまぬかれまい。これで悪いこと三つということか?(2015/06/30)

 

535『新しい季語』

松尾芭蕉の弟子である、向井去来の『去来抄』「故実」の文章のなかに次のような記述がある。

「先師『季節の一つも探り出(いだ)したらんは、後世によき賜(たまもの)』となり」という引用である。分かり易くいうと、季節(季語)の一つも創出できたら、それは後世へのこの上なき贈り物であろうという意味だ。

季語は大手出版社の歳時記で凡そ5000題目の掲載を公称しているが、結社やグループの刊行する歳時記では2000題目そこいら、それよりもさらに貧弱な歳時記もある。季語はそもそも大雑把なもので、ざっくりした括りのなかに存在するものといえよう。

5000題目の季語のうち30%は死語乃至は絶滅危惧語といわれが他方で、新しい季語の創出はなかなかむずかしいようだ。それでも季語ではなかったものを季語に定めて俳句表現の領域を拡げよう、短詩のバイト(byte)をさらに拡大しようという試みがみられる。

「季語を定める」といっても俳壇や俳人協会に登録したり官報に載せたりするものではなく、「これは季語である」といえばよく、結社などの歳時記や冊子に収載すればさらによろしい。逆にこれは季語でないと考えるのもむろん自由であるが、それによって「これは季語である」という主張が消滅するものではない。

ペンギンを季語にしようというキャンペーンがある。PCやスマホや恋愛、ラーメンや大トロなど季感のないものを季語にしよう、つまり「雑の季語」を立てようという運動もさかんで、俳壇の大御所も力を入れている。

因みに筆者、十余年まえ「鵙爺(もずじい)」という季語を創出した。秋季「鵙」の傍題で、肉食系にして口の五月蝿い、ちょい悪おやじをイメージした。当時は美術専門の一部の女子学生が、ユニークなイラストにしてくれた。

芭蕉の正門俳諧では、漢詩や和歌以来の伝統的な季語を縦題(たてだい)といい、俳諧からの新しい季語を横題(よこだい)といった。芭蕉には「歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな」「むさし野やさはるものなき君が傘」などの無季俳句がある。「杖突き坂」「傘」を横題にしていたならば、後世で名句が生まれたであろうと思う。

現在の季語のおおかたは、新しく定められた横題であろう。現代にふさわしい新しい横題が待たれる。(2015/06/22)

 

534『作麼生モデ歌句』

6月9日付の朝日新聞長野版の「歌壇」と「俳壇」に筆者の短歌と俳句が佳作として掲載された。次にその短歌と俳句を転記する。

  作麼生と説破の声のひびくとき

   井戸の中なる蛙鳴き止む  義人

「作麼生(そもさん)」「説破(せっぱ)」は禅宗で用いる用語(禅問答)で、前者は疑問の意を表す語。いかが、いかに、さあどうじゃ。いっぽう後者は、他の説を言い負かすこと。ときやぶること、ときふせること。論破を意味する語である。

禅寺の一隅において禅問答が行われている。老師と稚僧が問答をくりかえし、真理を探っているのだろう。あるいは頓智を極めようとしているのだろう。

折しも寺領の井戸に蛙が鳴いていたのだが、問答の声に驚いたのか鳴き止んでしまった。「井の中の蛙大海を知らず」なる俚諺は、考えや知識が狭くて、もっと広い世界があることを知らない。世間知らずのこと、見識の狭いことをいう。

当然ながら蛙には、作麼生&説破の発する言葉の意味はわからない。だから口にチャック、鳴き止んでしまったという歌意である。つまり問いと答えという最高の教本ともいうべき「作麼生&説破の問答」の発信に対し、「井の中の蛙」は「問答不要」とばかりダンマリを決め込んだのである。一種レジスタンスだ。そんな寓意の一面を表現したかったのである。

  モディリアーニの女よ頬の春の蝿  義人

「モディリアーニの女」とは、アメデオ・モディリアーニ画伯が描く女の絵のこと。壁にかけられた絵の「その女の頬」には蝿が止まっている。見方によっては大きめの黒子か、吹出物の古い痕跡のようにもみえる蝿が・・・

モディリアーニの描く女は、いずれの絵も瓜核顔(うりざねがお)を斜めにかたむけ、気怠いような不機嫌な表情をしている。このような女にはただの蝿でなく「春の蝿」でなくてはならない。動きの少ない身の柔らかい翅が湿るような春の蝿が、女の心象を象徴する。女の心象を風景するのである。(2015/06/13)

 

533『二等辺三角形歌』

5月26日付の朝日新聞長野版の「歌壇」に、筆者の短歌が入選として掲載された。次にその作品と講評を転載する。

  二等辺三角形のわが家族

   視線飛び交ひ目力が勝つ  義人

選考委員は草田照子氏で「二等辺三角形の比喩が家族の形をよく表している。一番遠いのは作者だろうか」。

二等辺三角形という数学の用語を用いて、三人家族の家族間における視線の「動線の距離感」を表すのが一義的。二義的には三人の立ち位置の遠近とはかかわりなく、目力(めじから)によって力量の優劣があろうという、あえて勝ち負けを表すというのが短歌の意味、つまり筆者の歌意である。

「二辺が相等しい三角形、等しい二辺に対する内角も相等しい」という二等辺三角形的な三人の視線の動きを捉える。つまり両親と一人の子という三人の関係で、父親と母親と子のそれぞれの辺の、それぞれの立ち位置が問うのであるが、同時に目力という視線の訴求力によって勝ち負けは決まるといいたいのだ。

三人家族には正三角形もあれば、四人家族には四角と正方形があり、五人家族に五角形、大家族には六角形、八角形もあろう。それぞれの「形体」にはそれぞれの愛憎の視線や感情の交錯があろうと思うのだ。

そうした数学の用語の形を通し、短歌フィールドに何かを持ち込めるのではないかと考えたのである。

「視線飛び交ひ」はともかく、「目力が勝つ」の言葉の措き方はわれながら不満である。勝ち負けで片づけるものではないと作歌時点で思ったのだが、投稿してしまったのだ。(2015/05/30)

 

532『地虫句』

朝日新聞長野版の5月19日付の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載されたので転記する。

  地虫出づ活断層の隙間より  義人

「地虫」とは土中にすむ虫の総称。また特にコガネムシ科の兜虫の幼虫をいうと辞書にある。多くが植物の草根を食害する。スクモムシ、ネキリムシ、入道虫も地虫と称する仲間だ。

さらに「地虫鳴く」は、秋の夜に土中で何とも知れぬ虫が鳴いているさまと、これも辞書にある。

他方で歳時記に収載されている「地虫出づ」は、狭義には兜虫のほか黄金虫や斑猫を入れ、広義には越冬する多くの昆虫が土中から出る状態をいう。いわゆる啓蟄である。ちなみに蟻は人間の身近にみられること、集団生活や茸栽培の統制のみごとさなど昆虫界のスーパースターであることもあって、歳時記には「蟻穴を出る」と別題が立てられている。

ところで「活断層」とは、過去約百万年間にずれたことのある断層で、将来もずれる可能性があり、活動中とみなされるものをいう。地震予知上重要なポイントである。

筆者の住む長野県も一部活断層のベース上にあり、地虫たちもこぞって冬篭りしているのだが、春の目覚めとともに隙間をこじ開けるようにして地上に出てきたのであった。

上記の俳句の「地虫出づ」の「地虫」とは、どんな数類の虫が想像されるだろうか。作者としては、体の柔らかい芋虫風ではなく、体の硬い甲虫をイメージしたいのだが・・・そやつが土くれや小石を掻き分けて地上に頭をもたげるのである。

この活断層に生きているのは地虫だけでなく、当然ながらわれわれ人間も生きているのであり、人間も虫螻(むしけら)も同一線上にあるということを表現したかった。読み手の立ち位置としては「やや深読み」ではあろうが。(2015/05/22)

 

531『詩あきんど17号』

「詩あきんど」という俳誌があり、今回の発行は17号を数える。筆者一年ほどまえから、この俳誌の会員になった。

俳句を70余年やってきた筆者の作句数は、2万句以上になるだろう。はじめは句数をカウントして句帳に書き留めていたが、それさえも面倒臭いので止めてしまった者が、いまさらながら入会して作句を始めようというもの。

ただいま現在、自分が偽りなく向き合える、作りたいものが作れる俳句を作ってみよう。何といったらいいか、初物を食するような、物珍しい思いで俳句をひねっている。今号の「詩あきんど集」には10句投稿して9句掲載されているが、そのなかから3句自選して「自句自解」してみたい。

  春宵のミザントロープ独語せり

「ミザントロープ」とはフランス語で人間嫌い厭世家の意で、余談ながら、坂口安吾に『蝉―あるミザントロープの話―』という小説がある。

片や「春宵」は春のよい、春の夕のこと。季語でもあり『広辞苑』には次のようにある。『蘇軾、春夜詩「「春宵一刻値千金、花有清香月有陰」」花は盛りで月はおぼろな春の夜の一刻の情趣は、千金にもかえがたい価値がある』。

人間の肉体にとって過ごし易い気候であり、美しい花や穏やかな月という植物や天象の恩恵をうけているのだが、人間の精神は皮肉にも逆の方向へと反応する。肉体の喜悦を受け入れない精神が倦怠を呼び、いっときの仮性鬱から次第にフレンドリーになれなくなる。嫋やかな春の宵にもかかわらず、独語するだけであった。

馬刀の孔地球の芯へ届くらん

「馬刀(まて)」はマテガイ科の13センチくらいの横長の二枚貝で、形状が西洋剃刀に似ていることからの呼称。美味で珍重される。

馬刀が明けた砂浜の孔・・・この孔はひょっとして地球の芯まで明いているのではと錯覚する。大法螺吹きの見え透いたアクションが売りで、「俳句って、そんなんでええの?」というのが狙い。

  作麼生が問ふお白酒?盗み酒?

禅問答の作麼生&説破。「作麼生(そもさん)」は禅宗で用いる疑問の意を表す語。いかが、いかに、さあどうじゃ。「説破(せっぱ)」は他の説を言い負かすこと。ときやぶること。ときふせること。論破。

師「なんじ()が、手に持するものは、なんじゃ?」。

修「お白酒でござりまする。甘味豊かな濃厚な、おささ(お酒)。3月3日のけふ、お雛さまにお供へするによって」。

師「お雛さまは可愛ゆいのう。ところで、なんじ、今なんじ?こんな丑三つ時にお供へするのか?」。

修「今どきのお雛さまは夜更かしによって」。

師「白酒で白を切るでない。なんじが、飲もうとしたのではないか」。

修「滅相もない」。

師「ふたたび作麼生!なんじが手に持するものは、お白酒?盗み酒?(「現場検証」ではお白酒じゃが、「判決罪状」では盗み酒じゃ。作麼生!)」。(2015/05/05)

 

530『マーチにも句』

4月28日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に筆者の俳句が佳作として掲載された。選者は仲寒蝉氏。その作品を転載する。

  マーチにも似て熊蝉の羽音かな  義人

「マーチ」は「行進曲」と訳される。行進を規則正しく行うために用いられる実用的な音楽あるいは、その情景を描写した音楽であるといわれる。マーチの実際に使われた歴史は極めてふるく、古代エジプトやメソボタミアにまでさかのぼるという。

ところで「熊蜂(くまばち)」はミツバチ科のハチ。大形で体長約25ミリメートル。体の大部分は黒色で、胸背は黄色の毛におおわれる。体には毛が密生して熊を思わせることからの呼称。朽ちた材のなかなどに長い穴をあけ、そのなかに花の蜜や花粉を集めて産卵する。スズメバチの俗称。「くまんばち」ともいう。

「♪ぶんぶんぶん蜂がとぶ/お池のまわりに/野ばらが咲いたよ/ぶんぶんぶん蜂がとぶ」という童謡があるが、普通の蜂の羽音が「ぶんぶんぶん」なら、熊蜂の羽音はどんな音だろうか。

筆者が耳朶にふれた限りでは、熊蜂の羽音は「ぶわんぶわんぶわん」というもの。「ぶ」と「ん」のはざまの「わ」は、ステンレスを硝子でこすったような金属製の音声がはさまる。それが「ぶ」を強調するので一種独特な怖いひびきが感じられる。

熊蜂の行進曲・・・筆者の聴覚の先には、きな臭い臭いが芬芬。いつか来た道が見えてくるのだが・・・

「積極的平和主義」のまやかしが垣間見える。「平和」のアントニムが「戦争」なら、平和という言葉に「積極的」と冠すれば、軍事的な行動を惹起して「戦争」せざるを得ない結果が考えられてならない。

「平和」はただただ、それだけでよい。平和から足すものも引くものもないはずである。

とまれこうまれ、上記の俳句はむろん、そこまでは言っていない。筆者の戯言である。(2015/04/30)

 

529『着流し歌』

4月21日付の朝日新聞長野版「「歌壇」に筆者の短歌が佳作として掲載された。その作品を転載する。

  着流しで着るロボットを着たくなる

    筋肉落ちし老残の身は  義人

「着るロボット」は、ただいま研究&開発途上にあるが、すでに一部の大学や企業で試作品が発表されたり発売されたり、一般に使用されてもいる。

用途別に多種あるのだが、たとえば「ロボットスーツ」は病気や障害等で行動が困難な者の機能を助けるためのもの、「アシストスーツ」は介護士などが装着して介添え時の腰の負担を減らすためのものなど、「着る」に限定してもさまざまある。

上記の短歌の言わんとするところは、筆者にとって境涯にして述懐というか、四肢の筋力が衰えて動きの悪くなったおのが老躯、着るロボットがあれば、そしてそれが着心地よければどんなによいだろうかという趣旨だ。

ここで「着流し」について一齣(ひとくさり)

着流しとは、男性の略式の和装のことで、羽織・袴をつけない着物だけの姿をいう。くだけた身なり、庶民や身分の低い者のいでたちについてもいう語だ。

下級な侍、素浪人の着物姿に対して、着流しと表すことを時代小説で読み、チャンバラ映画で観た覚えがある。略式や庶民や下級というけれど、更にはちょい悪なアウトローまで含め、さらっと着流す潔さ、気取らない粋という感覚が暗にひそむことも見逃せない。それなりの和装の美学があるのである。

そんなこんなんで、「着るロボット」という現代最先端のハイテクの衣装を、「着流し」という古色蒼然たる日本語を用いて表してみた。「取り合わせの妙」、言い換えると「違和感の妙」を狙ってみたのだった。

歌意は愚痴を言い立てる述懐だが、筆者自身は「着流しで」に拘ったのである。(2015/04/23)

 

528『寄居虫大仏の句歌』

4月14日付の朝日新聞長野版の「俳壇」と「歌壇」に筆者の俳句と短歌が佳作として掲載された。はじめに俳句を転載する。

  寄居虫のよろけて日本海荒るる  義人

寄居虫(やどかり)が体の均衡をうしなってよろける。そんな折も折に日本海の波が荒れるというのが言葉通りの句意だ。しかし現実の状況は日本海が荒れてきて、磯辺の寄居虫が波に脚をすくわれてよろけた、と見るのが自然であろう。

この短歌は「因果関係」をあえて逆転させ、寄居虫がよろけたことによって日本海が荒れたと表現する。つまり一寸にも満たない小動物の動きに起因し、巨大な海峡の波を荒立たせる結果が生じたというのである。誇張したイメージを表したのである。極小&巨大「二物衝突」である。

大仏の胎内にゐてしばらくは

あるがままなる私に遇ふ  義人

「大仏の胎内めぐり」がある。鎌倉の大仏さま、牛久の大仏さまなど胎内めぐりができ、お参りの(入胎料)は二十円くらい。因みに大仏ではないが、善光寺や清水寺には「胎内めぐり」がある。

「私(わたくし)」は、あるがままで居られることは少ない。他者と対話したり、宅配さんや銀行さんと話したり、家族といるときでさえも本当の自分自身の姿で居られるとはかぎらない。

極端な虚勢をはるわけでなくても身構えはあろう。精神的に一糸まとわぬ「私」を曝すことはありえない。なんらかの扮装を凝らした心的部分があるように思えてならない。意識すると意識しないにかかわらず・・・。

しかしけれども、大仏の胎内にいるとき、しばらくだが「あるがままなる」自分に出会ったという歌意である。「胎内」はむろん子が孕まれる母親のはらのなか、子宮を意味している。

話は変わるが、ビートルズの「レット・イット・ビー」の歌詞一聯は次のように和訳される。

「自分自身が難しい時期に/あるって気づいた時に/マリア様が現れて/賢者の言葉を言うんだ/『あるがままにしておきなさい』」。

大仏の胎内にあることの安らぎ、マリアが賢者の言葉を伝える安らぎも筆者のなかでは共に通じ合う。(2015/04/17)

 

527『臍曲がり短歌か』

「マーフィーの法則没と思ふとき秀逸なれどこの歌も没!」「メビウスの帯かやおのが性格の内と外とで陰日向あり」。

以上の二首は筆者の詠んだ短歌で、新聞の文芸欄に投稿したものである。二首とも当然というべきか「没」になった。

「マーフィーの法則」とは、簡単にいうと「失敗する余地があると考えるとき失敗する」というもの。この短歌は失敗作かもしれないと思って投稿すると、たとえ内心では、ひょっとして秀れた作品だと思っても没になってしまう。秀作駄作に関係なく「失敗の余地」を考えてしまうことが問題だ、それがマーフィーの法則というものだという歌意である。

歌意とは別に、「さて選者よ、この短歌を知らん振りして没にするのか?それとも反応するのか?」という選者への挑戦、選者へのからかいが暗にひそんでいると思わないか。

「メビウスの帯」とは、メビウスの帯の「おもて」の帯にそってたどってゆく。一周すると「うら」の面になる。したがってメビウスの帯には「おもて」も「うら」もない。

おのれの性格の内面(うちづら)外面(そとづら)、つまり砕いていうなら、たとえば「内弁慶の外地蔵」(内では威張りちらし、外ではおとなしい)という俚諺があるが、そうした陰日向のある性格をメビウスの帯に比喩した短歌である。

「メビウスの帯かや」の「かや」は「自分はひねくれた性格だろうな?!」という意であり、いやしく豹変する自身の性格を慨嘆するさまを表すのである。だがしかし、このような真情の奥底を描写する短歌は往々にして没になることが多い。

「黄昏といふカンバスに立ち向かひ少し朱を混ぜ老残の黒」。

これも拙作だが、出来栄えいかが。(2015/04/04)

 

526『野火俳句』

3月24日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に筆者の俳句が佳作として採り上げられた。次のような作品で同紙より連載する。

  野火猛るときに獣の匂ひさせ  義人

「野火」とは、早春の晴天で風のない日に野原の枯草を焼き払う火をいう。害虫を駆除し、その灰が肥料になり馬や牛の飼料にもなる。野焼き。焼野。また焼く場所によって、堤焼く、丘焼くという。

野火は風の強弱や風の向きによって、穏やかに燃えるときと、猛り狂うように燃えるときがある。風のない日を選んでも、それなりの風の変化はあるだろう。野火が激しく火の粉を発しながら猛るとき、風に乗って獣の匂いがしたという句意である。

春から夏、秋から冬と、ウサギやテン、タヌキやキツネ、マングースやヘビなどが草叢を駆けたり、体を摺り付けたりしただろう。毟りとれた体毛や乾いた糞尿などの匂いが枯草に残っていて、野火の風になって匂ってきた。

「獣の匂ひ」という言葉を措いて、自然の厳しい循環と生きとし生ける物の生理を語りたかった。暗にイメージしたかった。

「野とともに焼くる地蔵のしきみかな」蕪村。「つやつやと露のおりたる焼野かな」一茶。「旧道や焼野の匂ひ笠の雨」漱石。先行作品から任意に拾ってみた。(2015/03/27)

 

525『蟻穴壁の絵の句歌』

3月10日付の朝日新聞長野版の「俳壇」と「歌壇」に筆者の俳句と短歌

が入選した。その作品と選者の講評を転載する。

  蟻穴を出て立ち向かふ八ケ岳  義人

選者の仲寒蝉氏「これもまた大と小の取り合わせ。こちらは八ケ岳である。ただ「立ち向かふ」と言ったことで作者の意図が見え透いてしまった」。

蟻という小さな昆虫と八ケ岳という大きな山岳の「大と小の取り合わせ」とあり、それはその通り。筆者は大と小とか、強と弱とか、美と醜とか、両極の対象を描き込んでその誇張と変形と違和に詩の在り処を探ろうとする。

俳句では二物衝撃という取り合わせがこころみられ、絵画では北斎の遠近法や特異な視点などデフォルメがみられ、詩ではシュルレアリスム詩人のロートレアモンが「解剖台の上での、ミシンとこうもり傘の、偶然の出会い(のように美しい)」と超常現象的な世界を表現しようとする。

これに対して、太宰治の『富嶽百景』の一節の「富士には月見草がよく似合ふ」も大と小の取り合わせではあるが、これでは絵葉書か観光ポスターのレベルを免れまい。「取り合わせ」といっても取り合わせ方が問題なのだ。

さて上記の俳句だが、「立ち向かふ」は蟻に感情移入し、蟄居の穴を出て八ケ岳を打ち仰ぎ「これからだ」という意気込みを表現したかった。筆者はアニミズム信仰者なので、蟻にもアニマ(霊魂)が宿っていると考えるので、こうした表現をあえて取ったのである。

  壁の絵のダリの時計を眺めつつ

    おのが履歴の道草を悔ゆ  義人

草田照子氏「大きくゆがんだダリの時計を見つつ、それに重ねるように来し方を想う」。

ダリの描く時計は歪んでいたり、文字盤が垂れ下がっていたり、針が逆回転に廻っていたりする。ダリがこれらの絵で何をいいたかったか。彼は「時」というものはない。「時の概念」というものはないといいたかったのではないかと考える。

『ゾウの時間ネズミの時間サイズの生物学(本川達雄著)によると、サイズが違うと機敏さが違い、寿命が違い、総じて時間の流れる速さが違ってくるという。それはその通りであろうが、時間とは人間が利便主義的に編み出した概念で、そもそもそんなものは存在せず、空空漠漠、漫漫たる計り知れないところにわれわれは在るのであろう。

話が逸れた。そんなダリの時計を眺め、ゆがんだ「時」の概念をリサーチしながら「道草を悔ゆ」るのである。(2015/03/15)

 

524『詩あきんど16号』

筆者、「詩あきんど」という俳誌の購読者になって俳句を投句している。「HAIKAI其角研究」の唱道をかかげる隔月刊で、今号は16号。秦野市から発行され、編集発行人は二上貴夫氏。

【第十五号より抄出 編集委選評】に筆者の俳句が二句採り上げられ選評されている。その作品と講評を次に転記する。

ピテカントロプス歩きの夜学生

「夜学生とは妙に郷愁と哀感のある言葉だが、それに直立猿人を持ってくるとは・・・。かけ離れているものを結びつける二物衝撃の典型だが、見事に成功している。(ピテカンとロプス歩きの)と読むのもナンセンスだが楽しい」。

  地軸やや軋む蚯蚓の声すれば

「地球の回転軸は約23・5度傾斜しているらしい。微妙な偶然の中で生きとし生けるものが存在している」。

筆者は長年にわたって俳誌「草茎」、それを後継する「くさくき」に所属していたが、先年「くさくき」を脱退した。俳誌が届いてもときめかないことが最大の理由だった。俳句作品に対して無批判とまでは言えなくても、技術的なこと季語的なことの評価が主体で、文芸文学の視点に立っての批評を好まない結社だった。いわゆる作品論をしないというスタンスだ。

「ピテカントロプス」とか「地軸」とかいう言葉は俳句に縁遠い言葉と思われるが、俳句が敬遠する言葉をあえて用いて何が表現できるか、何が表現できないか。そんな試みが現在の筆者には興味があることである。

「詩あきんど」の編集子は上記の二語の俳句を採り上げてくれた。その言葉がつかみ取る世界を共有してくれたので、ありがたいことだと思っている。(2015/03/09)

 

523『来し方の短歌』

3月3日付の朝日新聞長野版の「歌壇」に筆者の短歌が佳作として発表された。次にその短歌を転載する。

  来し方の失せものしかと探さんと

    窓辺に凭れギター爪弾く  義人

『広辞苑』によると「失せもの」(失せ物)は、紛失や盗難で、なくなった物のことをいうとある。

さらに「失せる」を引いてみると、うすれて見えなくなる意。①見えなくなる。なくなる。消える。②死ぬ。③「去る」「来る」「居る」の意をいやしめていう。行きやがる。来やがる。居やがる。『四谷怪談』「向うから花嫁を連れて来る。お岩がーせては大変大変」。とある。

筆者が短歌で表現したい「失せもの」とは、品物の紛失や盗難ではなく、また死ぬでもなく、去る、来るでもない。敢えて上記の辞書の語意から当てはめると、「見えなくなる」「なくなる」「消える」もの。「うすれて見えなくなる」ものとなろうか。しかし当該の「もの」が何であるかは短歌から推測できない。読み取れない。

じつは作者である筆者自身、失せものの正体が不分明だ。「失せ物」と表記するのが正しいだろうが、その正体が「もやもや認識」ではあるが精神性と考えられるので、「物」ではなく、「もの」と平仮名書きにした。「もの」と表記することで表現したい気持ちには添ってきたが、そうはいっても、曖昧模糊とした下意識の「もの」なので「しかと探さん」としても、しょせん探しようがないわけだ。

「ギター爪弾き」・・・最近はとんとご無沙汰だが、青年の砌には下手な横好きでぽろんぽろんと爪弾いた。「失せもの」を探す方法としてギターの爪弾きが有効かどうか・・・

思えば青年の砌にも「失せもの」があったような気がする。ギターを爪弾いてそれを探していたような気がするのだ。(2015/03/04)

 

522『黄昏れジャケット句歌』

2月24日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に筆者の俳句が入選し、「歌壇」には短歌が佳作として掲載された。例によって作品と講評と自作についての解釈を書き記す。俳句から俎上にのせよう。

  黄昏れて白鳥白き炎となりぬ  義人

はじめに選者の仲寒蝉氏の講評を転記する。「この句の眼目は偏に「白き炎」という譬えであろう。黄昏の湖の白鳥の羽の白い色だけが暮れ残る。その様子をこう表現したのだ。何とも美しいイメージではないか」。

「火の鳥」は手塚治虫の作品やロシアのバレエに登場する架空の鳥だが、他方で「白鳥」は実在し天然記念物にもなっている。バレエの「白鳥の湖」は夙に知られる。

この句では「炎」を「ほ」とよむ。本来の炎はいうまでもなく赤色で灼熱であり、「白い炎」というものは存在しない。不可視のもの、イメージの世界であり心象の産物でもあろう。

黄昏どきの闇が深みを増してゆく黒のさなかで、白鳥が羽搏いて白い羽の白い炎をあげる。闇の「黒」と、羽の「白」の白黒のコントラスト。異なった色彩の鬩ぎ合い。当然ながら白鳥の住処は湖水なので、俳句に湖水の言葉はなくても湖上での白鳥のパフォーマンスであることはイメージできよう。作者として「炎となりぬ」の措辞は、白鳥に感情移入しての自然のなかでの心象風景と取ってもらえればありがたい。「わたしは湖の中芯で羽搏いている」という、生きとし生けるものの自己主張である。

次は短歌について。選者は草田照子氏。

  ジャケットの袖のほつれの毛糸垂れ

始末できない己が原罪  義人

「原罪」( original sin)とは宗教用語で、「アダムが神命に背いて犯した人類最初の罪(旧約聖書創世記)。人間は皆アダムの子孫として生まれながらに原罪を負うものと考えられる(原罪説)。宿罪」。と『広辞苑』にある。

筆者は洗礼を受けていないし、仏教の教えを守ってもいない。敢えていうなら無神論者に近いかもしれないが、ライフスタイルでは仏教的な言動をしたり考え方をしたりしている。

したがって筆者のいう「原罪」とは、朝の蜘蛛は窓から逃がしてやり、夜の蜘蛛は撲殺する。友人に対して方便的な嘘をついたり、妬み嫉み猜疑心をいだいたり。呪いはしないが、嫌いな奴は死んでしまえと思ったりする。そう思って後悔し落ち込んだものだが、それが果たして深い懺悔だったか?

ジャケットの袖がほつれて毛糸が垂れ下がる。気になっていじくっているうちに毛糸はさらいほつれる。鈎針もないので繕うすべもなく、状態は悪化の一途をたどり見苦しくなる。自分のジャケットの袖のほつれさえも始末できない。原罪を告白し悔い改めることができていないのだ。

以上のような歌心である。毛糸の始末と懺悔の始末。つまり毛糸の具象と懺悔の抽象を繕い紡ぐという・・・「始末」の掛詞で掛けたのであるが、底の浅さが筆者自身は気になるところである。(2015/02/27)

 

521『わが脳短歌』

2月10日付の朝日新聞長野版の歌壇に、筆者の短歌が佳作として掲載された。選者は草田照子氏。次にその短歌を書き記す。

  わが脳を過ぎる語感を掴まえて

歌を詠まんと黄昏の浜  義人

これまでコラムに書いてきた俳句の「自句自解」にならって、自作の短歌についての解説も試みたい。もとより自分の作品を解説したり説明したりするのは本意ではない。手許を離れた作品の評価はなべて読み手に委ねられもので、作者が口をはさむ余地はないものだろう。

しかしながら、さりながら、作句入門に資するためという、このコラムを読んでいる二三の読者からのたっての所望と、筆者がコラムの素材(ネタ)として「自句自解」を利用したいという思惑が一致し、このようなことをはじめた次第である。鼻白む向きはひらにご容赦願いたい。

さて「語感」とは、「①言葉の与える感じ。言葉の持っているニュアンス・ひびき。「―の微妙な違いは外国人には分かりにくい」。②言葉に対する感覚。「―が鋭い作家」。と 『広辞苑』に載っている。

筆者の作歌のスタンスは、言葉を通して情景や感情を見、対象を見るというもの。情景や感情や対象を見て感じて短歌を詠むのが一般的と思われるが、筆者は逆にというか反対側にというか、言葉が先にあって言葉に導かれて対象を捉えようとする。

上記の短歌にそっていうなら、黄昏の浜にきて黄昏の浜を眺めながら、言葉の与える感じ、両義性や拡がり、ひびきなどをもって探る。黄昏や浜の意味やイメージを探る。

自然主義や自然発生派の歌人にいわせれば作り物に見えるかもしれないが、これが筆者の作歌スタンスである。ただこの短歌に限れば、楽屋落ちというか裏話というか、理屈になってしまった点もなしとしない。(2015/0
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