520「縄跳俳句」
519「新しい戦争(2)」
518「新しい戦争(1)」
517「銀漢俳句」
516「2014流行語大賞」
515「朔太郎詩集俳句」
514「安楽死」
513「蜻蛉の眼俳句」
512「浪速の芭蕉祭前句付大賞
511「好きな季語(2)」

510「好きな季語(1)」
509「ひとつの胡桃」
508「風知草俳句」
507「うそ」
506「誤報を狙うゾンビ」
505「裸人俳句」
504「ピカソ自画像」の巻
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520『縄跳俳句』

2月3日付の朝日新聞長野版「俳壇」に筆者の俳句が入選した。次にその俳句と選者の仲寒蝉氏の講評を書き記す。

   縄跳を大きく廻し富士入れぬ  義人

「スケールが大きくていい句。縄跳という遊びが崇高に思えてくる。その意味では「大きく」は不要かもしれない。富士を入れたというだけで十分大きさが伝わるので」――。

富士山という山は広範囲の地域から眺められるが、この俳句の場合は富士山に比較的近い場所、たとえば静岡や山梨などからの眺めと考えたい。

子どもらが小高い丘の上で縄跳をしている。最初はだれも気付かなかったが、縄跳の縄を大きく廻したとき、弧を描く縄のなかに思いがけなく富士山が入った。富士山といっしょに縄跳する驚きと悦びの歓声があがる。

廻す輪のなかに数人がはいる長い縄での縄跳で、富士山を近景ととらえる状況と見たいが、むろん「一人縄跳」であるという解釈も成り立つ。ただその場合だと、富士山は遠景のほうがしっくりくると思うがどうだろうか。いずれにしても富士山の静と、縄を廻す人間の荒々しい行為の動、つまり「動静」の取り合わせ。その衝撃波を表現したいというのが作者の狙いだった。

世に夙に知られる葛飾北斎の代表作『富嶽三十六景』の一つである、神奈川沖浪裏の「荒波と富士」にみられる遠近の大胆な誇張とデフォルメ。北斎のこのような手法を俳句世界に活かそうというのが筆者の考えであり、ライフワークでもある。

単なる写実ではなく、物や人の本質や本情をつかみ取って表現する。より効果的な言葉に置き換えることによって文芸の高みをめざそうというのである。上記の俳句は北斎を下敷きにしての試行であった。

「選者に意義を唱えるわけではないが、わたしは「大きく」には意志を強く感じて大事に思った」と、朝日新聞の一読者から葉書をいただいた。

筆者は選者の「富士を入れたというだけで十分」には納得するが、富士山が近景か遠景かによって、それは変わってくるかもしれない。近景なら「大きく」でよく、遠景なら「大きく」は要らないと思うのだった。作者の手を離れれば、作品はおしなべて読み手の解釈に委ねられるものであろう。(2015/02/08)

 

519『新しい戦争()

コラムの前号で「三竦み」について書いた。三竦みとは三者互いに牽制しあって、いずれも自由に行動できないこと、その意味で釣り合いがとれないことであるが、逆に三者が互いに牽制しあうことによって不自然な力関係が保たれることでもある。

筆者の考える「新しい戦争」にそっていうなら、「象→人→蟻→象・・・」の三者は、天秤(balance)の支点に支えられる非常に危うい平衡感覚に思われてならない。

天秤の一方の皿に「象」を載せるとき、バランスが保たれる分銅は「蟻」だろう。つまり象という大国の「見えにくい多殺」に対して太刀打ちできるものは、蟻というテロの「見えやすい一殺」という図式である。数十万殺vS数十殺という戦争の図式のバランスシートは、少数派のより残酷さによって保たれるだろうから。

ものの情理(人情と道理)でいうなら、今回のことは「情」でなく「理」で対処しなくてはならない。「一殺」の残酷さを憎み嘆くのは人情だが、「多殺」の残酷さ憎しみを無視せず、対比してみるという道理もまた必須であろう。いのちに差別区別はないはずで、数十万の人びとの死についても想像力を働かせるべきだろう。

人を殺してもよい聖戦という戦争はない。いかなる理由があろうともテロで人を殺してはならない。ありとあらゆる武器は人殺しのツールである。バクダンは象の武器、ピストルは蟻の武器。

ISIS(イシス)の人質事件は終焉したかのように見えるが、この終焉は新しい始まりと断言できる。劇場型の新しい戦争の始まりである。三竦みの「人」の役割はきびしくて大きい。象に踏まれないように、蟻を踏まないように・・・(2015/02/02)

 

518『新しい戦争()

「一つの殺人は悪漢を生み出し、百万の殺人は英雄を生む」とは、チャップリンの『殺人狂時代』の有名な台詞で、独裁者ヒットラーを指しているのだろう。この言葉は戦争の不条理さをあげつらうとき、「一人殺せば殺人犯だが、百人殺せば英雄」と言い換えて俚諺として伝わっている。

さらに関連していえば、殺人の人数の多寡やその方法によって、見る者をして残虐に感じさせたりそれほど残虐に感じさせなかったり、感じ取り方に差異を生じせしめる。

たとえば西部劇で、インデアンは白人の頭皮を刃物で剝いたり首を斬ったりする。他方で白人はダイナマイトやニトロ爆破で原住民を根こそぎ殺戮する。刃物による「一殺」は正視するにしのびないが、爆破による「多殺」はそれほどに感じさせない。映画という虚構のフィルターを通過するせいかもしれないが、ラフよりディテールに人間の感性はより反応する。あるいは「瞬間死」と「瞬間でない死」に対する人間の恐怖の感じ方であろうか。

経済や金融などによく使われる「グローバル化」という言葉があるが、テロル・テロリズムもまさにグローバル化している。このたびのISIS(イラン・シリア・イスラム国)の人質事件もその線上(戦場)にあろう。したがって、これは偶発した事件ではなく「新しいスタイルの戦争」である。象と蟻の戦いである。

「三竦み」の喩えに「象→人→蟻→象・・・」があり、象は人を踏みつぶし、人は蟻を踏みつぶし、蟻は象を刺し殺すというもの。(余談ながら、インドネシアではこれが「じゃんけん」の形になっている。親指が象、人差し指が人、小指が蟻)

「象と蟻の戦い」とは大国とゲリラの戦いをいい、象は多殺し蟻は一殺する。三竦みにある「人」であるわれわれは、何を如何にすべきか。蟻を踏みつぶしていても戦いの終焉はない。新しい戦争の終焉はないだろう。(2015/01/30)

 

517『銀漢俳句』

1月20日付の朝日新聞長野版の俳壇に、筆者の俳句が佳作として掲載された。記事が多かったり、特集を組んだりすると文芸欄の「週一掲載」がくずれて掲載が見送られることが多い。また筆者も毎週にわたって投句するわけでなく、気が向いたらというスタンス。そんなわけで、二か月ぶりの掲載ということになる。ただ今回は「歌壇」にも入選として掲載された。歌壇には初めての投稿だった。それについての解説も後述したい。

  銀漢の向きに寝袋打ち添へぬ  義人

「銀漢」とは天の川のこと。天の川は「銀河系の円板部の恒星が天球に投影されたもの。数億以上の微光の恒星から成り、天球の大円に沿って淡く帯状に見える」と『広辞苑』にある。

拙句は、天の川の帯状のかたちに打ち添えて寝袋の位置をきめ、今宵野宿しょうという句意だ。

筆者は若いころ、日本列島ヒッチハイク、自転車旅行、冒険無銭旅行にあこがれた。草枕、寝袋、携帯テント、飯盒炊飯、サバイバルナイフなどにも興味を持ったが、なにひとつ実現しなかった。したがってこの句は経験作ではなく、フィクションであり俗にいう机上作ということになる。(写生派は机上作を軽視するが、筆者は机上作こそが創造だと思っている)

「寝袋打ち添え」は人間が寝袋の場所や位置をきめているので、自分自身が行動していると解釈できる。銀漢のきらめく宇宙空間と、たった独りの男(寝袋だから多分男)とが、暗夜ひそかに息を交わす。コスモスとヒトの遭遇を表現したかった。芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天の河」が下敷きになっている。

人混みに紛れて心許なきを

ショーウインドーにおのれ確かむ  義人

「歌壇」の選者は草田照子氏で、「大勢の人の中での不安感。雑踏に呑み込まれてしまった自分を確認しなくてはいられないのだ」という講評だった。筆者は朝日新聞の「歌壇」には初めての投稿だったが、短歌は若いころ嗜んでいて、『文章倶楽部』という文学登竜門の月刊誌の短歌コンクールで受賞したことがある。最近はまったく短歌から離れていたが・・・。

さて、群衆のなかの孤独とか、群衆とあることの不安というものがある。小説(ロビンソン・クルーソーの小説「ロビンソン・クルーソー」)や、映画(ロバート・デニーロ主演の「タクシードライバー」)にもなっている。動物には群れる動物と群れない動物の二種に大別されるが、ヒトはTPOによって、群れたり群れなかったりする生き物である。「群れるとき」とは哲学用語でいう「他我」として他者につながっていたい欲求であり、「群れないとき」とは「自我」として自己を見つめていたい欲求といわれる。

この短歌は、ショーウインドーに映し出すことによって、他我から引き戻して自我を確かめているところを表現したかった。(2015/01/22)

 

516『2014流行語大賞』

衆議院選挙の投票が12月14日に行われる。政権側のいう突然の解散の大義は消費税10%への増税の延期、アベノミクスの成果を問うというものである。増税ならともかく増税延期の是非を問うというのがそもそもへんなら、道半ばの経済政策について賛否を問うというのも、またへんな話だ。

これには裏があって、じつはそんなことは問題ではなく、特定秘密保護法や集団的自衛権や原発再稼働、憲法改正への委任状を取るための腹積もりにほかならない。争点をすりかえ争点を「隠れ蓑」にして、日本にとって大問題であるこれらの法案や政策を強行しようとする。選挙結果によって「隠れ蓑に隠された諸問題」のお墨付きを国民から貰ったと、いずれいいふらすに相違ない。

「一強多弱」の政党情勢を読んで、今こそここでという姑息な手法が垣間見える。筆者は「隠れ蓑解散」とよぶ。「争点」は政治家が決めるものではなく、有権者であるわれわれが決めるものである。

「2014ユーキャン新語流行語大賞」に「ダメよ~ダメダメ」と「集団的自衛権」が選ばれた。日本エレキテル連合の二人のお嬢さんは授賞式には参加されるだろうが、安倍さんの欠席届はすでに出ているという。

こたびの二つの流行語大賞同時受賞は、日本における国体の危うい未来図を示唆し、後世のコメンテーターをして「運命の奇しきいたずら」と言わしむるであろう。つまり、日本エレキテル連合の掛け合いを「筆者が脚色」するとこんな感じに相成る。

小平市の細貝さん「いいじゃ、ないの~、アメリカが「トモダチ作戦」っていいはるから、いいじゃ、ないの~」。

未亡人朱美ちゃん3号「ん~、ダメよ~ダメダメ」。

小平市の細貝さん「だからさ、いいじゃ、ないの~。ぼくはね、年寄だからヒヒヒコーキはだめだからさ、フフフエリーので航くんだ。だからさあ、いっしょに、いいじゃ、ないの~」。

朱美ちゃん3号「ダメよ~ダメダメ。戦死した主人のことが~忘れられない~のよ」。

小平市の細貝さん「どおして~愛してるよ。だからさ、アメリカのトモダチと戦争にいって、バババ爆弾を落とそうよ。どおせ、徴兵制度で引っ張られる(感電パラレル)」からさ。いいじゃ、ないの~」。

朱美ちゃん3号「ダメよ~ダメダメ!!!」(2014/12/02)

 

515『朔太郎詩集俳句』

11月18日付の朝日新聞長野版の俳壇に、筆者の次のような俳句が入選作品として掲載された。仲寒蝉氏の講評とともに転記する。

  朔太郎詩集蜉蝣圧殺す  義人

「朔太郎の詩集を閉じた時に、紛れ込んでいた蜉蝣(かげろう)が本に挟まれてぺちゃんこになって死んだのだ。このように書かれるとまるで朔太郎が蜉蝣を殺したように読めるから面白い」。

例によって読み物として蛇足的解釈をこころみる。

詩人の萩原朔太郎は「憂愁の詩人」といわれ、憂鬱なアンニュイな詩を書いた。近代詩史に残る『青猫』も、そもそも『憂鬱なる』という題名にするつもりで予告広告まで出したが、当時すでに佐藤春夫の小説『田園の憂鬱』や『憂鬱なる風景』といった詩集が矢継早に刊行されたため、やむなくあきらめた経緯がある。

また知己の詩人に、自分が使う場合にそなえたいので「鬱」の字を詩集の題名に使わないでほしいという書簡を送ったエピソードも伝えられる。

それはさておき、「蜉蝣」は初秋の季語で、幼虫は3年くらい水中にあるが羽化して卵を生むと数時間で死ぬので、むかしから果敢ないことの喩えに使われた。脆弱な翅も体も淡黄色で3本の尾がある。蜉蝣について、違った種類で夏の季語である草蜉蝣や薄翅蜉蝣や、蜘蛛の糸(ゴサマー・遊糸・雪迎え)までを含め、きらきらするものに言ったのであろうと山本健吉は書いている。

さて当該俳句であるが、「朔太郎詩集」を読み止しにするとき、たまたま灯を取りにきた蜉蝣をページに挟んで圧殺してしまう。一次的解釈として、書物によって昆虫を殺してしまったという過失致死的な表現であるが、固有名詞の朔太郎があるので、あたかも朔太郎が物理的に蜉蝣を殺したと錯誤するというのが二次的解釈だ。

朔太郎の憂愁と詩集のもつイメージ、蜉蝣の淡黄色の脆弱な体と果敢なさ・・・生きとし生けるものの哀れ、それでもそれに拘泥するおのれの愚かさ・・・蜉蝣を殺すことは憂愁の自分自身を殺すことにほかならない。

人間である朔太郎と昆虫である蜉蝣のもつ本情(生きる本質とか属性とか)の二者を突き合わせる衝撃波を、文芸の企みとみてとるのが三次的解釈である。

朔太郎には蜉蝣でなくてはならず、蜉蝣には朔太郎でなくてはならない。(2014/11/21)

 

514『安楽死』

さきごろアメリカで安楽死を予告し、その通りに亡くなった女性がいた。末期がんで余命半年と告げられ、安楽死が法律で認められている州に移住し、医師から処方された致死量の薬を飲んで死んだという報道を読んだ。

以下は「天声人語」(朝日新聞11月5日付)の要約である。

詩人の吉野弘さんは漢字を素材にした優れた作品をいくつも残している。「往と住」という詩はわずか2行で、<この世を往かなくてはなりません/この世に住んだものは誰でも>。やさしい言葉で表された真実の前には、ただ一人の例外もない。

精神科医で病や死について著作の多かった神谷美恵子さんは、次のように述べる。死と直面した人の心にみられるのは、すべてのものへの「遠のき」だという。「世界が幕一枚へだてたむこうにみえるというとき、そのひとはすでにみんなの住む世界からはじき出されて、べつの世界から世を見ている」。つづけて「その眼のくだす判断も、すべてにべつの価値基準で行われはじめている」。

・・・死について生について、考えさせられる天声人語の文章だった。安楽死、尊厳死がよく話題になって、結論の出ない堂々巡りの坩堝(るつぼ)にはまりこむ筆者である。ご多分にもれず今回もなんら結論を引き出すことができなかったが、「べつの世界から世を見ている」「その眼のくだす判断も、すべてにべつの価値基準で行われはじめている」という神谷さんの言葉は首肯できるものがある。

「末期の目」という形容句があり、通常の人間にはみえないものを研ぎ澄まされた感性の目でみつめる。それがみえることの精神の静謐さというものが、死に際のひとにはあるように思われる。くだんのアメリカの女性の亡くなるまえに遺したメッセージも、穏やかで美しい詩のようなフレーズだった。

また、それとは逆に、死に際に際してわれを失ってわめき散らし、挙句の果てには四肢をじたばたさせて昇天するひともいるのであろうか。それも人の死かもしれないが、みずからが選べる選択肢はないのだろうか。

余談だが、詩人の吉野弘は、筆者が思潮社の「第三回現代詩手帳賞」を受賞したとき、野間弘、長谷川竜生、清岡卓行らとともに選考委員として筆者をつよく推奨してくれた。当時のことが懐かしく思い出される。「往と住」という詩は知らなかった。(2014/11/08)

 

513『蜻蛉の眼俳句』

10月21日付の朝日新聞・長野版の俳壇(選者は仲寒蝉氏)に筆者の俳句が佳作として採り上げられた。そもそも作品の解釈や評釈は他者に委ねられるもので自句を自解すべきでないが、それはそれとして、そこを敢えて、例によって解釈&評釈しようとするのがこのコラムである。

  蜻蛉の眼くるりと山河覆す 義人

人間の社会では、名義貸し(犯罪)、成り済まし(犯罪)、のりうつり(憑依・宗教)、変身(忍術)などおのれの身柄を隠したり変化させたりする行為をダーティーとみなすが、そんな価値基準は文学芸術の世界にはあてはまらない。感情移入とか擬人法とか、現にある身柄を変えることによって、見えなかったり感じなかったものを見たり感じたりしようと試みる。深く洞察しようとする。

前振りが長くなってしまった。

蜻蛉の眼は昆虫類最大の複眼であり、大きな目玉のなかの一つひとつを小眼といい、アカトンボの約1万からオニヤンマの約2万8千までの数が数えられる。あまたの小眼を有するわけだが、それが動体視力に特化されている影響か、静止視力はあまりよくないとされている。

飛んできた蜻蛉が大木の枝先に止まり、大きな目玉をくるりくるりと廻す。蜻蛉の視野に映るものはなにか?蜻蛉が遥かかなた俯瞰するものはなにか?

大きな目玉をくるいくるり廻す。近くを飛ぶ小虫はよく見えるが、動きのない山や河ははっきりと見えない。目玉をくるくると廻すたびに焦点が狂って、山と河が逆さまに覆って見えたりする。

わたしは蜻蛉、わたしは蜻蛉に成り済まし、逆さまになった山河を眺めているのであった。(2014/10/25)

 

512『浪速の芭蕉祭前句付大賞』

このたび「大阪天満宮 鷽の会」主催による「第八回浪速の芭蕉祭」の献詠前句付の部門において、筆者の付句が大賞に選ばれ金一封をいただいた。投句数が156句あったそうで、うれしくもそのトップという栄に浴した。

前句「女子高生にモテモテのキャラ」というお題に対し、「仙人が猿の腰掛けぶら下げて」を付けたのである。選考委員の下房桃菴氏の選評は次の通りである。

『「ゆるキャラグランプリ」に、今年はなんと、1625ものエントリーがあったそうです。このご時勢、「キャラ」というだけで「ゆるキャラ」を連想してしまうのは、ごく自然なことですね。とはいえ、「ゆるキャラ」だけが「キャラ」でもない。

大賞の「仙人が猿の腰掛けぶら下げて」をご覧になれば、ご納得いただけるでしょうか。意外なようで、そういえば女子高生にモテそうな気もする。ところで、サルノコシカケは漢方の原料。だから仙人が大事に持っているのでしょうか。いやいや、そうじゃない。実はちゃっかり自分の腰掛けに代用しているだけじゃなかろうか。山を歩いて気にいった樹に出くわせば、ひょいと置いて腰かける・・。もちろん、それは深読みでしょうが、私は、そんなイメージから離れることができません』。

さてさて、ここで前句を読み解き、筆者の付合を自ら解釈してみよう。

「箸が転んでもおかしい」とは思春期のおゲラな女の子の慣用句だが、昨今の女子高生は果たして笑うだろか。「蒲魚(かまとと)」は性について分かっているくせに分からないふりをすることをいうが、分かっていれば発言するのが現代っ子。経験がないくせに聞きかじった性知識を「耳年増(みみとしま)」というが、最近の風潮として統計をみると「実技修了」の女子高生が多いらしい。

ともあれ男女同権、むしろ男女逆転し、「世帯層」を主戦場として女のほうが優勢であり、末端の「小中高」にまでそれは顕著に表れている。男なんか怖くない、男なんか平ちゃら、むしろカワイイもんよ、となる。

「カワイイ」はカラオケとならんで今や国際語。日本のアニメのキャラクターから世界を席巻し、そのシンボル的存在がきゃりーぱみゅぱみゅ。そもそもカワイイ(可愛い)の語意は、いたわしい、ふびん、小さくて美しいだが次第に進化し変質し、ペットの蜥蝪や奇妙なかたちの小石などの形容詞にまで使われるようになる。とどのつまりは、志村けん扮する「変なおじさん」や、「ダメよ~ダメダメ」でおなじみの日本エレキテル連合の中野聡子嬢の扮する「髭おやじの磯貝」もそのカテゴリーに侵入してくるありさま。

さてさて、さてさて、「猿の腰掛け」は癌や虚弱体質や排卵誘発の効もあり、古来中国では万病を治す仙人の薬とされた。「腰掛にもなる配置薬」をぶら下げた仙人を見つけた女子高生たちが興味を示さないわけはない。黄色い声で「キモカワイイ、キモイカワイイ」の連発と相成るだろう。

因みにキモカワイイとは、キモくて気持ちわるいが、どことなく愛嬌があって可愛いという意味である。とまれ、「カワイイ」の持つ日本語の曖昧さと多義性って、ええやん!(2014/10/23)

 

511『好きな季語()

「雀蛤となる」・・・講談社版の『日本大歳時記』には次のように収載されている。

「中国古代の天文学にもとづく七十二候による季語。九月の第二候。すべて飛ぶものは化して潜物となると考えられたが、とくに雀の羽根の色と蛤の貝殻の色に似通うものがあるとところから、このようにいわれた」。「雀大水に入り蛤になる」「雀化して蛤になる」ともいう。例句は「蛤になる苦も見えぬ雀かな」一茶。「蛤に雀の斑あり哀れかな」鬼城。

片や空中、こなた海中をフィールドにする雀と蛤が、そうそう容易く棲息する場所を変えられるものか。行動機能や生態型(生態系ではない)が、ワンシーズンにそれほど急変するものであろうか。現実にはありえない出鱈目(でたらめ)、悪巫山戯(わるふざけ)であろうと死語扱いにし、最近の歳時記にはほとんど載っていない。

とまれこうまれ、この季語の出典の言い分をもう少し・・・さきに引用した雀の羽根と蛤の貝殻の色彩の共通性のほか、晩秋に浜辺に群れ飛んでいた稲雀が見られなくなった、そのころの蛤の水揚げがとびぬけて多くなったという実証的なもの。

さらには、中国において古くから伝わる俗信で、物事のかたちが思わぬ方向に豹変するさまを雀と蛤の意表外の棲み分けになぞらえた。諺の具現化であるとするもの。・・・

ジャン・ジャック・ルソー著『言語起源論』には次のようにある。「人間にものを言わせる最初のきっかけとなったのは情念であったのだから、最初の表現は転義的であった」。「人は初め詩的に語るだけであり、論理立てて考えることを思いつくのはずっと後になってからだった」。「人びとが言葉を置き換えるのは、観念を置き換えるからにほかならない」。

人は元始、たとえばライオンを見、雨を見、声を発し、やがてその存在を確認し特定するために名付けるようとする。さらに人はおのれの脳裏に浮かぶ幻想や幻聴など、他者に見えない聴こえない存在についても確認し特定し名付けようとする。それを他者に伝えようとする。

人それぞれには、見える存在と見えない存在があり、その峻別はとくべつ意義のあることではなく、また峻別されずに混在するものである。とくに表現の場においては。文学の場においては。ルソーの「転義的」という意味には深い拡がりがある。(2014/10/19)

 

510『好きな季語()

「われから」・・・乾くに従いその体が割れることから、「割殻」の字をあてる三秋の季語。「藻に住む虫」「藻に鳴く虫」「藻の虫」ともいう。

甲殻類の端脚目ワレカラ科の節足動物の総称で、種類によって体長が8ミリメートル~45ミリメートルの円筒形で軟甲におおわれ、海藻やコケムシ類などに付着して棲息する。――最近の辞書をアバウトに要約すると上記のようになるが、古い辞書にはほとんど見当たらない。

「われから」が詩歌に詠まれるようになった嚆矢は『古今集』の藤原直子(なおいこ)の和歌、「海人(あま)の刈る藻に住む虫のわれからと音こそ泣かめ世をば恨(うら)みじ」がきっかけ。これが後代恋歌の枕詞として多用されるようになるが、自らという意味の「我から」に掛けて恋心が詠まれたのである。

また「われから食はぬ上人はなし」という川柳もあって、戒律を守るお坊さんさえも、精進料理のつもりで食した料理の海藻にわれから(生物)が混じっていたことに気づかない。つまり小さなものの喩えでもある。

この節足動物の実体は古来より正しく認識されておらず、貝の割れた殻だとか、名前の特定できない小蝦だとか、あるいは藻に住む小動物を指すとかの諸説ふんぷん。想像上の生き物だろうという浪漫的な仮説まで書物や歳時記に載っている。

磯辺には磯辺の多くの小動物が棲んでいるが、それらに正式な学名があってもなくても、生態の現状をその通りに理解していてもいなくても名付けて詩歌に詠みこむ。そのようなことが古来よりあったか、なかったかを知るすべはないが「あっただろうな」と筆者はかってに揣摩憶測する。

学名や生態のそれはそれとして、曖昧にして模糊たる浪漫的な仮説を立てたくなる小動物がいてもよい。いたほうがよい。かかる仮説によってイマジネーションは膨らむのだ。

話はかわるが、発声器官のない蓑虫が、ちちよ、ちちよと鳴くと歳時記にある。むかしは昆虫の生態についての学術的な研究がされていなかった点も否定できないが、たとえ充分な観察と知識があっても文学的な効果を狙って敢えて「鳴かせた」のではないか。

蓑虫には、鬼の捨子、父乞虫、みなし子などの別称とともに物語のバックグラウンドがあり、例えば芭蕉「蓑虫の音を聞きに来よ草の庵」には存在しないものを存在させる意味と、「鳴き」を「泣き」に掛けて「ものの哀れ」を表現したかったのではないかという検証が成り立つ。事実と虚構を綯いまぜることによって実証を拒絶し、虚実皮膜にこそ文芸がある、詩的真実があると考えることは一つの成り行きであろう。(2014/10/15)

 

509『ひとつの胡桃』

当庵の裏庭にひとつの胡桃が落ちていた。直径35ミリくらいの小さな菓子胡桃で、鉄平石をならべた敷石の脇に無造作にころがっていた。以前の我が家には菓子胡桃の大木があったが現在はなく、近所にも見当たらない。胡桃がひとつだけなぜ、ころがっていたのだろうか。

鳥が胡桃を銜えたり抱きかかえたりして庭石や道路など硬いものめがけて空中から落下させ、殻を割って中身をついばむ。筆者はそんなできごとを数例見たことがあった。

20数年以前のことだが、四十雀(しじゅうから)が狭庭の敷石に胡桃を落として割り、うまそうに突いていた。四十雀は雀大の小鳥なので銜えることはできず、両肢ではさむように抱えて運ぶ。その姿かわいらしい。それを随筆に書いて新聞の文芸欄に投稿したら、掲載された思い出がある。閑話休題。

おととい胡桃を落とした鳥は四十雀だろうか。敷石を狙ったものが逸れて土に落ちてしまったのか。はたまた鴉(からす)に追われ、まずは身軽になることを優先させたか。あるいは考えごとをしていて両肢を緩めてしまったか。

落としてしまった胡桃は鳥が(たぶん四十雀が)空中から見つかりやすいように庭石の上においたが、きょう現在、舞い戻ってきて再び胡桃割り行為に挑戦した気配はない。

スッピン、スッピンという、金属的な美しい四十雀の鳴き声が耳朶にまつわりついて離れない。四十雀が胡桃を落としてしまった喪失感、胡桃を見つけられない虚脱感。胡桃をかかえていた時間と胡桃をうしなった時間の移ろい・・・筆者にはそれが思われ感じられてならない。四十雀に感情移入してしまうのだ。

話はかわるが、「後期高齢」は「高所恐怖」に似ている。筆者も例外ではなく、よくもここまで登ってきたものという小さな誇りと大きな危うさ、そして心も体も「酸欠状態」になってくるのだ。

この程度の日常であれば平穏な精神状態だろうと自分に言い聞かせつつも、どこか心の隅に隙間がみえてくる。これまでは出来ていたのに筋力が及ばず持ち物を落としてしまう。

感情移入した四十雀の「喪失感&虚脱感」がブーメランのように筆者に返ってくる。わたしは鳥か、鳥はわたしか。(2014/10/10)

 

508『風知草俳句』

  一陣の風の初めの風知草

上記の拙句は、9月23日付の朝日新聞長野版の俳壇の佳作に採り上げられたもの。

「風知草」は『広辞苑』に「イネ科(ウラハグサ属)の多年草ウラハグサの、特に園芸上の通称。本州中部に自生。わが国特有産。葉の表面は白色をおび、風にそよぐさまが美しい」とある。

夏の終わりに花穂を出す。花は見るべきものがないが、細い葉が風に揺れるさまが涼しげで風趣よく、鉢植えとして園芸店などで売られている。裏葉草、風草の別称も。

風知草は文字通り風を知る草だが、逆に風を知らせる草でもあろう。風すなわち気流という、人間の目には見えない気象現象を葉のゆらぎによって視覚化してみせる役割をおのずから担っているように思われる。そうした役割を考えたうえでの命名だろう。

一陣の涼しい風が吹いてくる。ふと気がつくと、傍らの鉢植えの風知草の葉がそよそよと揺れている。最初に風知草が風を立てたという逆転の発想がわが拙句の狙いだった。河童寓には二鉢の風知草があり、ひねもす眺めていて飽きることがない。

ところで今回は、家人の俳句が入選として採り上げられた。

  別れ来てサルビアの赤疎ましや

仲寒蝉氏の評は「サルビアの花を褒める詩や俳句は多いが、「疎ましや」と言挙げするのは珍しい。誰かと別れて来た作者の気分にとって見せびらかすように派手なサルビアの赤が許せなかったのだ。どのような相手どういう別れをして来たのかはすべて読者の想像に委ねられている」。

当人には伝えたが、ここでの筆者の評言は割愛させていただく。(2014/09/24)

 

507『うそ』

「謝罪会見」たけなわである。ここ10年くらいの期間において、テレビや新聞などメディアのまえで責任者たちが平身低頭し詫びる姿があまたみられた。最近の謝罪会見としては朝日新聞、も少し以前ではSTAP細胞の理研、順序は違うかもしれないが都議会の「結婚したらどうか」というセクハラ弥次、兵庫の政務活動費をめぐる号泣県議など謝罪&説明会見は枚挙にいとまがない。

さらに遡れば、「現代のベートーベン」がじつはゴーストライターの作曲だった。iPS細胞で日本人が世界初の心筋移植手術に成功したと特ダネを飛ばした読売新聞の大誤報。

ささやき女将の船場吉兆からはじまり、阪急阪神ホテルズなど有名ホテル・レストランなどの食材偽装。姉歯設計士によるマンションなどの耐震偽装などなど。すでに忘却のかなたに追いやれた感すらある話題いっぱい。

「嘘八百」とは、やたらに述べたてる沢山のうそのことだが、嘘は八百もあるという意でもある。「八百」とは物事の多いことをいうので八百にとどまらず、嘘はほとんど無尽蔵に存在するということだ。お釈迦様も「嘘も方便」といい、みずからも「四十余年もの間嘘を言いつづけて来ました」と告白たまわる。また俚諺に「嘘を百回つくと真実になる」ということばもある。

誤報や偽装を俎上にのせ「嘘礼賛」みたいなことを言い募るのは何の企みかと思われるかもしれない。冒頭に列記した誤報や偽装は糺すべきものかもしれないが、「いい嘘」というものがたしかに存在する、存在させたいと思う筆者である。

「いい嘘」のカテゴリーには「法螺」があり、『法螺吹き男爵の冒険 』に代表されるもの、「大風呂敷」「与太話」など実害の少ない大言壮語という、庶民のユーモアまで排除すべきでない。

ここ十年余のスパンで著しく世は変化し偽装や虚偽は許されず、経営者も政治家も新聞人も首がふっとぶ。このぴりぴりした厳しさの反動が、形を変えた事件を生んでいるように思われる。

連句の捌きでは、一直とか校合とか称して共同制作者の付句を差し替えたり手直ししたりする。筆者はしないが、手練れの付句を作句できないでいる初心者の名前で発表する。これはれっきとした偽装&ゴーストライターだろう。これも犯罪か?

山口洋子作詞、平尾昌晃作曲「うそ」がある。中条きよし唄う「♪折れた煙草の吸い殻であなたのうそがわかるのよ~」。折れた煙草の形状から嘘がわかる・・・吸い殻のディテールに女心の観察の鋭さを表すもの。「いいね!」をぶち込みたい。山口洋子氏はさきごろ亡くなった。ご冥福を祈る。(2014/09/22)

 

506『誤報を狙うゾンビ』

朝日新聞がさきごろ、「吉田調書」に基づく戦時下における従軍慰安婦についてのかつての報道を誤報だったと検証し訂正して詫びた。報道されてから32年が経過しての誤報の取り消し報告とはいったいなんだったろうか。

「吉田調書」が虚偽であるとする調査はある時期から一部でささやかれ、信頼すべき筋からもそのような検証結果がなされていたにもかかわらず朝日新聞は黙殺していたふしがある。

人間に間違いがあるように新聞に誤報はつきものであり、「吉田調書」が虚偽でも「吉田調書」に近似する事例は自民党政権内でも認知され公に報告されていたことなので、速い時期での誤報の取り消しであれば大きな問題にはならなかったはずである。朝日新聞が誤報取り消しの機を逸したのは事実だが、すでに大方の認識として「時効である誤報」が、32年の歳月を経てこんにち突然、ゾンビのようによみがえったのはなぜか。

一つには、韓国の大統領パク・クネによる旧日本軍の従軍慰安婦のネガティブキャンペーンが反日感情を煽り、その結果として日本国内に反韓感情が高まって「慰安婦問題」が掘り起こされ「朝日報道」にスポットがあてられた。

もう一つは、「反韓感情」を千載一遇のチャンスととらえ、朝日新聞の誤報をことさら大きく取り上げ、誤報を「慰安婦問題をはぐらかす稀釈液」とする、あわよくば「慰安婦はなかった」とする思惑の働き。メディアを巻き込んで右傾化への道を主導する現政権にその企みがなかったかどうか。筆者はその企みの異臭ふんぷんと感ずるのだ。憲法改正や特定秘密法や集団的自衛権など、かつての「暗い暗渠」につながるものと考えるのが自然だろう。

もう一つは、五大紙のかかわりだ。五大紙とは日本全土を配布エリアにする大新聞のこと。読売(986)、朝日(754)、毎日(335)、日経(277)、産経(161)(括弧内は購読部数。単位は万部)。読売と朝日はダントツだが、毎日以下はドングリの背比べ。ドングリの背丈といっても戦いは激烈らしい。

ところで新聞は斜陽化一直線。若年層はインターネットやテレビでの情報中心で新聞離れが著しい。各紙は新聞好きな高年齢層の奪い合いとなって凌ぎを削る。食うか食われるか、「誤報」を使わぬ手はない。「朝日」から「自紙」への購読者抱え込みキャンペーンにやっきとなる。

ゾンビは隙をつき、形をかえて現れ、正義ぶったご面相をして跋扈する。(2014/09/18)

 

505『裸人俳句』

9月9日付の朝日新聞長野県版「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として採り上げられた。選者は仲寒蝉氏。ご覧になりたい方は朝日新聞本社記事データベースに収録、提供されている。

  ピテカントロプスの歩き方なり裸人

「ピテカントロプス」とはラテン語で猿人の意で、ジャワで発見された化石人類。約150~50万年前に生息したものと推定され、脳容積は現生人類の約三分の二。眉の部分の骨は高く隆起し、大腿骨の状態から直立歩行をしていたことが明らかにされている。最近では北京原人とともにホモ属に含め、ホモ・エレクトスの学名で呼ばれる。と『広辞苑』に載っている。

「裸人」は「はだかびと」と読み、はだか、丸裸、裸身、裸子などとともに夏の季語。裸人といえばヌーディストに見られるように文字通り体になにもつけていなことだが、そこは季語的解釈として額面通りではなく、ほとんど裸体に近い「猿股一丁」や「ビキニ」なども「裸のカテゴリー」に入るとされているる。

さて、上記の俳句の「裸人」は、猿股乃至は海パン一丁の男が三四人連れ立って、やや草臥れた感じで前屈みになって磯辺をすたすたと歩いてゆくさまをイメージしたい。

科学雑誌や学校の副読本などに人類の進化というか変遷というか、直立歩行をはじめた人類の絵図が載っている。

猿人から現代人へ・・・直立した歩き方の嚆矢である猿人、すなわちピテカントロプスさんそっくりの歩き方の現代人を見かけることがままある。それが磯辺やプールサイドであれば、「あっつ、人類の進化!」と思わず感嘆してしまうのは筆者だけか。めくるめくような「時の流れ」が玉響よぎる。前意識をよぎる。よぎると錯覚するのである。

俳句の評価はみなさんに譲るとして、ピテカントロプスを詠みこんだ俳句はほとんどないのでは。俳句人口1000万人といわれるけれど・・・。

以上は「わたしの俳句作業現場」からのレポートである。(2014/09/10)

 

504『「ピカソ自画像」の巻』

東京文献センターによる「2014リンクト・ヴァース・コンテスト」の「君と巻きたい十二句連句奨励賞」に、河童連句会で巻いた下記の作品が受賞した。新しい形式「十二詩潮」についてのコメントも併せて書き置く。

十二詩潮「ピカソ自画像」の巻     矢崎硯水捌

A面

暮れ泥むピカソ自画像は何を視る      矢崎 硯水

 花もまばらな青の時代          嵯峨澤衣谷

背の羽を煌めかせつつ舞う天使       山口 安子

B面

瀑布の雫に濡れる山脈          佐藤ふさ子

猿飛の風きて浮世を浮遊せん        矢崎 妙子

 PM警報の針は振り切れ            衣谷

C面

街中の眼鼻口閉じウォンテッド         ふさ子

 一寸法師の月影は伸びて            妙子

わが旅のどこでもドアを開け放ち         硯水

D面

 海賊どもが転がす地球儀            衣谷

五頭立ての馴鹿(となかい)跳ばす雪の原      安子

 カノン奏でるヴィオロンとチェロ       ふさ子

形式「十二詩潮」について(バージョンアップ版)

A面・B面・C面・D面の四つの面の長短12句からなり、発句は当季で詠み、季節順に各面に一句ずつ季語を入れる。夏は「任意」、冬は「雪」、秋は「月」、春は「花」を詠む。四季によって連句の骨頂を残し、十二句の言葉の響きあう詩潮(ポエトリー・タイドゥ)を最大限に重んじ、疎句を以て非日常の万象に迫る。一句立ての詩情、四つの面の「三句の渡り」を尊ぶ。

冒頭の連句大会の選考委員のひとりである二上貴夫(ふたかみきふう)氏が、みずから主宰する 『詩あきんど』第13号誌上において「ピカソ自画像の巻」について次のように触れている。

「三句四連系の「ピカソ自画像」だが、矢崎硯水氏の説明に、発句は当季、各連に、夏は「任意」冬は「雪」秋は「月」春は「花」を一句ずつ詠み、十二句の言葉の響きあう詩潮(ポエトリー・タイドウ)を最大限に重んじ、一句立ての詩情、三句の渡り、疎句を以て非日常の万象に迫る、とあった」と、掲載作品につづけて、

「選者(二上貴夫)が注目したのは、この連句形式は四面がすべて三句になるので、長短長、短長短の渡りが平凡にならぬ様に飛躍させて行かねばならない点だ。それを実現したのが短句七七のリズムであって、挙句を除いて字足らず字余りの文体を用い、十二句連句に新しいスタイルを提起した意義は大きい」。

現代詩と連句の融合というのは筆者畢竟のテーマなので、新形式の十二詩潮を認め賛成してくれてありがたい。形式の機能の狙いをここまで評価してもらって感慨ひとしおである。(2014/09/05)

 

503『水馬俳句』

朝日新聞・長野版の俳壇は(歌壇も柳壇も)しばらく休載だった。紙面の割り振りか選者たちの夏休みか知らないが、掲載されることがなかった。珍しいことではある。

さて、9月2日には久しぶり復活掲載され、下記の筆者の俳句が佳作として取り上げられた。

   隠沼の日の斑蹴散らす水馬

「隠沼」は「こもりぬ」と読み、草木などにかくれて見えない沼。万二「埴安の池の堤の━のゆくへを知らに」と 『広辞苑』に載っている。また「隠沼の」と助詞「の」がつけば枕詞で、「下(した)」にかかる。万十二「━下ゆ恋ひ余り」の用例がみえる。

ここに記した俳句の上五の隠沼には「の」がつくので枕詞的には「下」の文言を用いなくてはならないのだが、そこは文字数の少ない俳句ということで、ひらにご海容ありたし。

つぎに「水馬」は、「みずすまし」と読み「あめんぼう」とも読む。半翅目アメンボ科の昆虫で、体は細長く体長はおよそ5~30ミリで三対の長い脚があり、池や沼などの水面をすいすいと走りまわる。ときには多数群集する例もみられる。体に飴のような臭いがあるのでこの名がある。

じつは「みずすまし」の名で別の昆虫もいる。体長約5~10ミリ、紡錘形で背面は隆起し黒色で光沢がある。複眼は腹背の二対にわかれ、空中と水中を別々にみることができる。水上を旋回する習性がある。この虫には鼓虫(まいまい)の呼び名もある。

この二種類の昆虫は、その名が重なり合ったり誤読されたり複雑きわまりない。さらに異称が五乃至は八もあって、関東と関西では昆虫そのものを逆に認識したりする。厄介な昆虫だ。いや人間が厄介の種を蒔いたのであろう。

三対の脚のアメンボ科のこの昆虫に「水馬」の文字を用いるのは適正だ。長い脚で水面を駆けまわる姿は、ズームインすれば牧場のサラブレッドを彷彿させる。筆者少年のみぎりには湖沼の岸辺でじっと観察したもので、「蹴散らす」が気に入っている。

ちなみに先行作品には次のようなものがある。

  水すまし水に跳ねて水鉄の如し  村上鬼城

  自ら倦みあし踏み替ふる水馬  山口誓子

(2014/09/02)

 

502『パソコンドック入り』

8月22日パソコンが可笑しくなった。ホームページの一部を更新してサーバーに送ってもびくとも動かず、エラーになってしまう。エラーに加えてデッドロックというのか、パソコンが壊死して固まって、うんともすんとも応えなくなる。筆者の手には負えないのでPCサポーターさんに修理を依頼した。

パソコンは一旦直って送信できるようになったが、翌日ふたたびダメになり、同時に操作が極端に「とろく」なってしまった。キーボードで文字を打てばスローモーションの映像のようにじょじょに変換されるような塩梅。息絶え絶えという感じである。

サポーターさんのおっしゃるのには、パソコン操作をしていない状態のときも、パソコンの裏側ではパソコン自身が自力で作業をしている。エラーを修復している動きが見えるという。「裏仕事に励むPC君!」・・・そんなジョークはそのときは出て来なかった。とまれこうまれ、ドック入り(サポーターさんのお宅入り)と相成る。

筆者のパソコンは「windows8」だったが、このところ盛んに「windows8・1」を「ダウンロードしますか?後にしますか?」の表示がでる。不具合がでるかもと思って再三にわたって「後にします」にチェック入れていたのだが、ある日windowsから「新しい更新のため再起動せよ」の連絡がきたので再起動したら、それが「8・1」のダウンロードだった。いい意味か悪い意味か不明ながら、騙されたのかもしれない。

ドックから帰還したのが9月1日。すべてをバクアップしたのち、windows8の初期化。新しいくwindows8・1をダウンロードし、改めて「8・1」になったパソコンにバックアップしたものを戻す。その作業中もトラブルは何回もあったそうだが、ともかく、うれしくもありがたきかな。復旧した。

パソコン用語もマシンのシステムもズブの素人なのでこの程度のことしか書けないが、サポーターさんの説明をかいつまんで記すと以上のようになる。

パソコンが使用不能になって約10日。筆者の頭脳にはポカンと孔があいて無気力になり、新聞を読みテレビを観ても気が乗らず、こころの空洞は埋められず、食事も細るありさまだった。これは禁断症状かもしれない。「パソコン禁断症状かもしれない」と思った。(2014/09/01)

 

501『尺蠖俳句』

  尺蠖におのが思索を測らるる

8月5日付の朝日新聞・長野版の俳壇に筆者の上記の俳句が入選した。選者は仲寒蝉氏で以下のように講評された。

「尺取虫が実在の何かを測るというのならいくらでも例句はあろうが思索を測るという意表を突いた表現には参った。しかし言われてみると尺取虫の動きには思考が介在しているような所がある」。

「尺蠖(しゃくとりむし)」は、寸取虫、杖突虫、屈伸虫、土壜割(どびんわり)、招虫(おぎむし)とも呼び、尺取虫の字も当てる。夏の季語。講談社版『日本大歳時記』には次のように記され、例句がある。

「体を伸ばしたり縮めたりしながら進んでいく様子が尺を計るに似ているのでこの名がある。木の枝で止まる時は、尾の端で枝に密着し、枝から斜めに立つので、畑で働く人が木の枝と間違えて土壜をかけ、落して割ることがあるということから、「土壜割」という名前もある。木の葉を食用とする害虫。成虫は尺蛾となる。招虫は古名である」。

  虫に迄尺とられけり此のはしら  一茶

  尺蠖の尺をとらねば逃げられず  不先

尺蠖はその体形や生態から、寸法を計ったり、杖を使う行動になぞらえたり、伸び縮みする形状にたとえたり、物を吊るすための木釘に置き換えたり、人間が用いる諸道具に見立てて名付けられた。

こうした名前の付け方はこの虫の特質をよく表す用具や素材から付けられたというほかに、古来より人びとが日常生活のなかでこの虫になじみ、親近感を持っていたからこその名称ではないだろうか。

筆者は公園などの樹下で尺蠖に出会うと、その動きをじっと凝視する。凝視はいつしか対峙になり対話になる。「対話」はちょっとオーバーかもしれないが、感情移入して向き合っていると、こちらの気持ちが向こうに伝わるのではないかと思えてくる。

「きょうも尺を取っているかい?木を計っているから前世は大工さんだったのかね?」と筆者。

「俺さまをじっと見つめて俳句でも捻ろうってえ寸法か。なけなしの知恵で自然観でも考えているのか」と尺蠖。

木の葉を食害する害虫ではあるが、一寸の虫にも五分の魂。お互い生きとし生ける物として、とりあえず暫くの間、ここで同じ空気を吸っていようではないかと相成る。

アニミズムという超自然観は、自然界のあらゆるものはそれぞれ固有の霊魂や精霊など霊的存在を有するとみなさす原始宗教や信仰における観念。一部でアニミズムは未開の野蛮な社会のものだとされるが、小動物のむやみやたらな殺生や、美しい野花をやみくもに踏みしだくことの戒めは日本社会にも深く根ざしている。歳時記の動植物のカテゴリーにはアニミズム的な考えがあふれる。

自句を解釈&注釈するなど烏滸がましいが、「アニミスト」を自称する筆者、「虫愛づる姫」ならぬ「虫愛づる男」として一筆したためた次第である。(2014/08/06)

500『手長蝦俳句』

7月29日の朝日新聞長野版の俳壇(俳句欄)に、筆者の次の俳句が佳作として採り上げられた。例によって「自句自解」という、要らぬお世話というか赤っ恥というか、そんな作業を試みたいと思う。実のところこの作業の狙いは別のところにあるのだが、それはそれとして――

  水底の日の斑散らすや手長蝦  義人

「日の斑」とは・・・「日」は太陽のこと。「斑()」は簡単にいうと、ぶち、まだら、斑点のことで、「虎斑」という言葉がある。「日の斑」は辞書には載っておらず、一部の俳人や歌人が用いるほか一般的にはほとんど使われない。

類語に「木洩れ日」があり、こちらは多くの辞書に収載されている。枝葉の間から洩れてくる日光のことで、天気のよい日に森を歩けばよく見かける自然の現象である。

「木洩れ日」と「日の斑」とは、どう違うのか。「木洩れ日」がピンボールカメラの原理で太陽を地面に映し出した「そのまま」をいうに対し、「日の斑」は映し出された現象からやや形をかえた「斑点」を形容する言葉だろうと思う。

「斑」について、染色の世界では染めた色が一様でなく、濃い部分、薄い部分があることを指す。ある特定の植物の花や葉には「斑入り」なる用語が使われる。一般品と地の色や形が違って、まだらに混じることをいう。

つまり、そのままではなく、それとは少し変質したもの、そのままを一部に残しつつ、微妙な違いのデフォルメを見つけようとする、賞玩しようとする。「木洩れ日」と「日の斑」の違いは外国人には分かりにくい日本人的な感性なのだろう。谷崎潤一郎著『陰翳礼讃』が思い出される。

さて冒頭の俳句だが、日光が湖面を照らしてきらきらと輝き、波に揺られた日光が、水の波動が斑紋となって水の底に影をおとす。石組みなどの陰にいた手長蝦が驚いて跳ね、日の斑を散らす。

遥かなる青少年期、筆者は諏訪湖で蝦釣りに熱中したが、湖の水も澄んでいて浅瀬では底が見えたもの。手長蝦は名の通り手が長く、普通種の蝦よりも体が大きく、これが釣れると鼻たかだかだった。

――話はがらりと変わるが、今号をもって、このコラムは500回を数える。12年半で500回は大して多いわけではないかもしれないが、筆者自身はよく続いたものだと感慨深いものがある。第1回は『スナック菓子と透析と』というタイトルで、ブッシュとビンラディンのことを書いた。懐かしく思い出される。(2014/07/31)

 

499『金魚玉俳句』

前号につづいて朝日新聞長野版の俳壇への投句が入選した。今回は家人の俳句が入選で筆者の俳句は佳作であった。

  白靴の小さき染みの思い出よ  妙子

「どんな思い出なのか是非お聞きしてみたいもの。白靴は夏らしい涼しげなものだが汚れやすい。どこで付いた染みなのか作者だけが知っている。きっと夏の日の大切なかけがえのない思い出なのだろう」(選者の仲寒蝉氏の講評。7月1日付)

筆者は投句した俳句をA4紙の「手控え」に書き残しておくが、家人は面倒臭がりやで、10センチくらいのメモしか残さない。それもクリップで留めてもしない。案の定「白靴」のメモは探しても見つからず、「これって、私の作かしら?」といぶかる。それでも嬉しそうで講評を繰り返し読んでいた。

選者は「大切なかけがえのない思い出」と推測したが、「白」は「純」であり、白につく染みとは、純をけがすものという印象が暗に感じられる。つまり、いささかの後悔の念のにじんだ思い出ではないだろうかと筆者は深読みする。もっとも筆者もだが家人も、体験描写&実景写生というスタンスで作句していない。俳句は創造でありフィクションである。文芸作品を創り出すという立ち位置で創っている。したがって筆者の知るかぎり家人は白靴を持っていず、白靴がないから染みがあるわけもない。

とまれこうまれ、家人の俳句が入選してよかった。筆者より格上の入選でよかったと筆者は思っている。励みになり自信になろう。

モディリアーニの女の映る金魚玉  義人

モディリアーニの描く女は瓜核顔(うりざねがお)で首をかたむけ、愁いをふくんだような、あるいは退廃的なイメージをもつ。そんな女性像の絵がかかった部屋には金魚玉が吊ってあり、丸い鉢のなかには金魚が泳いでいる。ガラス製の玉を透けてモディリアーニの描く女が映っている。

両者とも華やか艶やか、動かない女と動く金魚・・・そのダブルイメージを通して「美しいものの儚さ」「いのちの儚さ」を表現したかった。以上は手前味噌の自句自解である。

寒蝉氏は傾向の異なった作品を幅広く選ぶようだ。守備範囲の広いところがある。俳句観や作句の裏話として「こぼれ話」的に入選や佳作を採り上げ、このコラムに書いてみたいと思っている。(2014/07/02)

 

498『ががんぼ俳句』

朝日新聞・長野版の俳壇に投句した筆者の俳句が入選した。5月13日につづく二回目である。

  ががんぼの震へと吾の息遣ひ  義人

「ががんぼという奴は確かに壁に留っていてもいつも震えている。一瞬こちらの息遣いが虫に移ったように感じたのだ。そこまで真剣に対象と向き合う作者」と、選者の仲寒蝉氏が講評に書いている。(6月24日付)

「ががんぼ」は、かがんぼともいい「蚊が姥」の転とされる。蚊に似るが蚊よりはるかに大きく、血は吸わない。長くて細い脚はもげ易いが、たとえもげても元気に飛ぶことができる。

夏の夜に燈火をめがけて飛んできて、障子などに留まろうとして翅を打ちつける。その幽かな音が物悲しく聴こえる。蚊の姥、蚊蜻蛉、大蚊ともいう。

「息遣い」とは生きている証左の生理現象のひとつで普段は気に留めることもないが、辺りがしずかな夜間には、おのずからそれを感ずることがままある。

吾が息遣いと、ががんぼの震え・・・人間と昆虫という、どちらも生きとし生ける物の命が小さな部屋の空間にあり、そこに呼応し、何らかの形で通じ合いものがあるだろうと思える。思いたい。ががんぼにとって人間はティラノサウルスほどの恐竜で、生態的に相容れないであろう種類の生き物であるはずだが、それがそこに共に在ることの、ふしぎ。そんなものを表現したかった。根っこを流れるものは、筆者が文芸の畢竟テーマであるところのアニミズムだ。

五大紙の俳壇の選者たちの多くは文学的なポリシーをもって選考に当たっているようにみえるが、地方版やローカル紙の俳壇の選者たちは風景写生や日常のただ事を詠んだ俳句を選んでいるようにみえる。新聞という公器の俳壇なのでそうなるのか、ホトトギス系の俳人が多いせいなのか、その辺はわからないが・・・ともあれ、「ががんぼ」のような傾向の俳句が採り上げられたことが驚きであり、同時に嬉しいことであった。

「自句自解」なんぞ見苦しいが、たまにはと思ってここに書き置く。ちなみに講談社版『日本大歳時記』には下記の俳句が収載されていた。

夜は眼をいたはりががんんぼと遊ぶ  皆吉爽雨

ががんぼ過ぎすぐに蟻来るひげふって  加藤楸邨

ががんぼのタップダンスの足折れて  京極杞陽

(2014/06/26)

 

497『近況報告』

筆者の右手指の正中神経麻痺のその後の経過について・・・ご心配くださってメールなどいただいたが、おかげさまで、じょじょに回復、かなり回復していると申しあげたい。

手指の機能の十全を「10」として、3月20日の発病時に「1~2」程度だったものが、現在の症状は「6~7」まで機能や握力を取り戻している。発病以降むろん一日三回の投薬服用をつづけ、リハビリは逆に良くないといわれたので、手指が強張るとき自分の左手で軽くマッサージするだけにとどめている。

間もなく発病から三か月が経過するので、多分ここまでの回復が限界だろうと自己診断する。不自由ながら、お箸は軽量のご馳走はつまめるし、指が草臥れたときは箸を鷲掴みにする「握り箸」でご飯を口に押し込むこともできる。パソコンのマウスやキーボード操作も元来に輪をかけて「トロイのヘレン」だがなんとかこなせるまでに。

折角戻った機能が退化しないかぎり、現在のまでの回復で自分のなかでは「よしとしょう」(義人しょう)と思っている。

万年筆やボールペンなどの手書きは億劫で草臥れる。荷づくりの紐をしっかり締めるのは困難であるなど日常生活では不自由な部面もあるが、この辺で手を打とうと思っている。6月23日には再受診する予定になっているが、現在の心境として手術は避けるつもりである。(2014/06/10)

 

496『国富とは』

関西電力の大飯原発(福井県)の運転差し止めを命じた福井地裁の判決のなかに、こんな一文がある。

「たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流失や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失である」。

石炭火力発電の原料輸入によって貿易収支が赤字になったり、電気料金にはね返ったり、コスト高で経済が疲弊する。だから原発の再稼働をすべきだという。福島原発事故の検証もとんと進まず、核のごみの最終始末の見通しも立たないなかで、再稼働へと傾斜してゆく・・・

そんな折も折、福井地裁の判決には溜飲がさがる。よく言ってくれた。司法は生きている。法の番人だが、冷たい血が流れているだろうと思われる事例が多かったなかで、こんなにも温かい血が司法に流れていたとは。

「国富」とは国家の富力。国全体の富。一国の経済力をいう。国の富は国民の富であり、国民ひとりひとりの経済が潤うことは望ましいことだが、「心の富」というものもある。それを見ない、あることさえも知らぬかのような、最近の安倍内閣や政治家の姿勢が情けなくてならない。(2014/05/24)

 

495『発句の条件』

連句の実作の現場(捌と連衆が制作する所)の方針や趣意にはいろいろあり、仲良く楽しく学ぼうというところと、文学的な高みを目指そうというところに、大きく分けて二分できようか。

その制作現場自体も、捌と連衆がリアルに顔を合わせて進行させるところ、インターネット等の掲示板やメールで行うところ、現在では少なくなったがファクスや葉書の通信手段で遅遅と巻くのを好むところなどさまざま。

従って発句もおのずから多様であってよく、否むしろ、それぞれの現場の方針や趣意にふさわしい発句を発するべきだろうと思う。

客発句、脇亭主とか、発句は挨拶だという。また連句は即興性を重んずるなどということが多い。

それが求められる現場もあろうが、そうでない現場もまたあろう。独創的な発句を発し、これを冠にして新しい詩情を探ろうではないかいうのも、連衆という仲間へのある意味での(深い意味での)挨拶ではないだろうか。

十把ひとからげに、発句はこうでなくてはというのは間違いだ。多様に考えることが現代連句には求められていまいか。鬼の首でもとったように「芭蕉は斯く斯く云々」のたまうと、いちいち芭蕉に援用してもらうのはどうか。芭蕉作品はすぐれた古典かもしれないが、華道や茶道や芸道など習い事ならともかく、文学や文芸にテキスト(教科書)なんぞはない。テキストはいらない。すべて創造する者が考えることである。

この小文は別のところに提出するはずだったが、出しそびれたのでここに書き置く。(2014/05/18)

 

494『投句マニア』

筆者は「投句マニア」である。正しいくは「投稿マニア」というべきで、青少年の砌には『文章倶楽部』という文壇登竜門の投稿専門雑誌に投稿していた。文章倶楽部は月刊で小説や評論、詩や短歌や俳句を募集していて、筆者はほとんど毎号欠かさず、それぞれの部門に作品を送っていた。

投稿「マニア」はさておき、投句「マニア」の方、つまり俳句を作って投句することは8歳ころからだった。年端もゆかないものが俳句らしきものを捻ると、親が地元の新聞の俳句欄宛に送っていたらしい。14歳には地元紙の俳句ページに掲載され、その切り抜きは多分いまも書庫にあるはずだ。

青少年期には地方紙にとどまらず、産経新聞の全国版の俳壇(皆吉爽雨選で月間賞になり、キンペンの高級万年筆をもらった。中日新聞では上位入賞者には金一封をくれたが、これも数回いただいたような記憶がある。

自慢ついでにいうと、朝日新聞の全国版の俳壇では加藤楸邨選で入選した。ここは週に5千句ほどの投句があると聞いていたので欣喜雀躍したもの。どこで住所を調べたか、土浦の知らない人から感動したとファンレターがきたものだ。

投句して、新聞などの俳句欄をみるときの「ドキドキ感」がたまらない。カルビー製菓「かっぱえびせん」ではないが、「やめられない、とまらない」のである。

俳誌『草茎』に入会し、連句にも携わるようになってからは新聞や雑誌への投句は無理になった。俳句欄(俳壇のページ)を読むこともほとんどしない。したがって、それぞれの新聞や雑誌の「俳句欄のレベル」もよく分からないといってよい。

けれども、ひょんなことから、あるいは懐旧の念が呼び覚まされたか、このたび朝日新聞・長野版の俳壇へ投句してみた。その理由は詳述しないが、選者が仲寒蝉氏に交代したことがきっかけだ。そのかみの「ドキドキ感」の血がよみがえってきた。ところが最初の投句が入選したのである。

  自づから撓みもありて蜷の道

「蜷の生にもメリハリがある。蜷の道の撓みはこの貝がふっと力を抜いて快楽を覚えた瞬間だろうか」(5月13日付)という評言だった。

筆者は仲寒蝉氏についてほとんど知らないが、「新選者紹介」の記事を読んでぴんとくるものがあった。俳句の道に終わりはない、そんな思いだ。(2014/05/13)

 

493『個のおもしろさ』

プロ野球のある選手が、ランナーがいて自分が打者としてバッターボックスに立つとき、ランナーに出来るだけ盗塁させないで欲しいとコーチに願い出た。これが「采配批判」と解釈され、この選手は一軍登録を抹消された。

打撃に専念しているとき、ヒットエンドランのサインなどでランナーが走るのが目に入ると気が散ちるし、ランナーを進塁させるため悪球でも当てに行かなくてはならない。好球必打できない、打者としてモチベーションが保てないという言い分だ。

打者の考えとして分からぬでもないが、野球は団体競技であり個人の事情などはさむ余地はなくチームがすべて。当然ながら監督の考えが何よりも優先する。

誰とはいわないが個性的な男優がいて、映画のロケーションで監督の望む役柄に対して納得がいかず、自分が希望するような役作りに変更したり提案したりした。監督はそれをよしとしないので当然ながら悶着が起きるのである。

俳優という演技者としての立ち位置は、ある範囲内では役作りに自分なりに参画できようが、映画そのもの監督の構想そのものまで足を突っ込んではならないだろうと思う。

連句の捌をしていて、満尾し校合してから、自分の付句が見直されたり差し替えられたりすると変更しないで欲しいとか、自作の改案を提出したりする連衆さんがいる。それも自分の付句だけに注文をつける。そんな付句をしたと仲間に思われたくないともいう。

連句の捌は野球や映画の監督に似ていて、何か大きな間違いでない限り個性を推し進めるもの、むしろ推し進めなくてはならないものである。

合議制という連衆さんが合議して付句を治定するスタイルもあるが、つまらない作品となってしまっている。文芸文学は「個」のおもしろさだ。(2014/05/07)

 

492『正中神経麻痺』

筆者の手指の病気のため、4月28日に赤十字病院にて受診した。再度のレントゲン検査や神経伝達の検査の結果などから、主治医のドクターは「正中神経麻痺」ではないかという診断だった。

右手「五指」の運動能力、すなわち親指と人差し指の二本の動き方と、中指、薬指、小指の三本の動き方の違いなど、筆者が訴える症状をドクターは汲み取って病状や診断にいたるまでの説明をしてくれた。

帰宅後「正中神経麻痺」についてインターネットで検索すると、次のような文章が見つかった。

正中神経のはたらきは、前腕を内側にひねるように回す運動(回内)、手首、手指の屈曲、親指を手の平と垂直に立てる運動(外転)、親指と小指をつける運動(母指対立)などです。知覚神経は親指、人差し指、中指の全部と薬指の親指側半分の手のひら側と、親指側半分の手のひらです。正中神経は手首部にある手根管という狭いトンネルを通り抜ける構造になっており、周囲三方向を骨の壁、残りの一方は強靭な靭帯によって囲まれています。そのため、この部分で正中神経が圧迫されやすい構造になっており、手の使いすぎによる腱鞘炎、妊娠時の水分貯留、糖尿病、やアミロイドーシスなどにより容易に正中神経が損そなわれて正中神経麻痺を起こします。これを手根管症候群といいます。(「家庭の医学)より)

前号のコラムで「手根管症候群のタイトルに偽りありかも」と書いたが、正中神経麻痺は手根管症候群のカテゴリーに入るということである。

またインターネットでは治療法として手指をなるべき使わないこと、手首に添え木して固定すること、患部への注射や最終的には手術のことも書いてあったが、筆者の担当のドクターは引き続き経過見(様子見)という判断をくだした。

それは多少なりとも回復が見られることと、筆者の場合には手指の固定や手術は無理なこと、大変なことと判断されたのであろう。以上、取りあえずの近況報告とします。(2014/05/02)

 

491『手根管症候群()

4月9日、赤十字病院で診断をしてもらった。右手の肘、手首、指などのレントゲン検査と、両手の肘や手指の神経伝達を調べるための伝達検査と思われる検査をうけた。またドクターから五指の運動状態をみせるよう求められ、問診もされた。3月20日の発病以来の症状の経過もつぶさに伝えた。

ドクターは右肘の辺りを念入りに触診し、肘の神経や筋肉の圧迫が原因かもしれないという意味のことをおっしゃった。手根管症候群ではないのですかと訊ねると、さらに検査が必要だが肘が原因と思われるということ。11日に再検査、再診断することが決まる。きょうは4時間30分かかってしまった。

「五指」のうち、親指と人差し指の劣化症状は発病当日のままである。動くことは動くがすこぶる覚束なく、力が入らない。しかし手根管症候群が疑われると診断されたが、そうではなく肘の病気らしいのだ。それも未だ確定したわけではない。

コラム「手根管症候群」はタイトルに偽りあり、ということになりそうだ。パソコンの連句のアップが遅れたり、ファックス連句が中断したりして、「河童昇天」のうわさが流れているらしいので、とりあえずの近況として「手根管症候群()」を書いておく。「昇天」はもう少し先のような気がする。(2014/04/10)

4月11日。赤十字病院の整形外科にて再度の受診。右手首のあたりをミニの鉄ハンマーで叩いて指先への神経伝達を調べ、握力計を握らせて五指の握力を調べ、親指&人差し指の二本だけの握力を調べ、それを健康の左手と比較したり、右肘のあたりをくりくりと揉んでみたり・・・そんな診察をつづけた。

この日のドクターも手根管症候群ではなく、二本の指(親指と人差し指)をつかさどる肘のあたりの腱や神経が原因と思われるという趣旨の説明をされた。手術はできるが手術をしても回復するとは限らないという意味の説明もされた。

先のレントゲン検査で撮っていない部分(角度)もあるので17日に新しくレントゲンを撮り、28日に再診断というスケジュールになった。これまでに病名はいわれなく訊くこともしなかったが、投薬を呑んで経過見(様子見)というスタンスだった。

きょう現在、投薬の効果か、リハビリの効果か(リハビリは言われていない)、運動能力劣化の指なりの対応力か、それら総合の成果か、発病当時よりわずかながら使い勝手がよくなったようだ。動くようになったようだ。(2014/04/13)

 

490『手根管症候群()

3月20日、朝目覚めると右手の五指に力が入らず、強張った感じでパソコンのキーボードが叩けずマウスが使えず、食事の箸も使えない。いやいや、正確にいうならWクリックを試みても10回に1回くらいしか成功せず、クリックはなんとか出来ても動作が至って遅い。箸はやっと指で支えてもご飯やご馳走が抓めない。たとえ抓めてもスルッと落としてしまう。これはいったいどうしたことか。

脳のトラブルが原因で手元が狂ってきたか。いやいや脳はそもそも問題なく、首を左右に振ってみてもガラガラと音がするわけでなく、機能も至って十全に働いているように自覚できる。それではこの握力の劣化と「痛た重だるさ」の症状はなんだろうか。痛くて重だるいのは五指にとどまらず、右の肘や肩甲骨の周辺も同様である。

回復が見られないので22日に整形外科を受診した。背や首や肘や手首のレントゲン写真を数枚撮り、ドクターの問診も受けた。診断の結果は手根管症候群の疑いがある。経過を観察するということになり投薬を処方された。

「手根管症候群とは」・・・ネットで検索すると次のような文言を認めることができた。「手首の手のひら側にある骨と靭帯に囲まれた手根管というトンネルのなかを、正中神経と9本の指を曲げる筋肉の腱がとおっています。このトンネルのなかで神経が慢性的な圧迫を受けて、しびれや痛み、運動障害を起こす病気です」(ヤフージャパン「ヘルスケア」家庭の医学)

投薬の効果か肘と背筋の疼痛と重だるさは快方に向かった感じがするが、五指は発病当日のままだ。自分の名前が書けない。書けても時間がかかって蚯蚓の運動会だ。キーボードを叩くことの遅さよ。電話機(受話器)は持っていられない。やっと持てても落としてしまう。このコラムを書くのに、休み休み一日かかってしまった。(2014/03/25)

その後の経過は・・・右手の五指は相変わらず殆んど使えない。小指・薬指・中指だけは正常に近いまでに戻ったが、このまま親指と人差し指の回復が見込めない場合は手術ということになるらしい。そんな趣旨の診断をされ、日赤病院への紹介状を書いてもらった。近近日赤病院で受診する手筈になっている。(2014/04/05)

 

489『なみだ』

目の下のあたりの膨らみ、この辺の部位を涙袋(なみだぶくろ)という。日本の古くからの言い方では涙堂(るいどう)といい、ホルモンが詰まっていることからホルモンタンクとしゃれて呼ぶ。

目が大きく見える、色気や優しさが感じられる、人相学的に恋愛運がよいとかで整形美容のクリニックで手術を受けたり、マッサージを施したりして膨らみをめざす女性が多いそうな。

「なみだ」といえば、「涙は女の最大の武器」といった小泉純一郎、「習わなくても女は泣ける」と歌った笹みどり、「飾りじゃないのよ、涙は」と歌った中森明菜が思い出される。

・・・ところで、テレビに映る人間たちが、これほどまでに泣いたり涙を流したりしたことは嘗てないことだろう。ソチ冬期オリンピックの日本選手、その家族、応援団のテレビ放映のことである。近頃は泣かなくなったという女たちが、おいおいと泣いた。男まで泣いた。ジャンプで泣いた、スノーボードで泣いた、フィギュアスケートで泣いた、カーリングで泣いた。勝って泣いた。負けても泣いた。

五輪報道の解説者やコメンテーターまで涙ぐんだ。アスリートは頑張ったのだろう、育った環境が劣悪だった人もいるだろう。しかし、なにか、どこか可笑しい、メディアの報道姿勢が・・・。各競技のアスリートも報道関係者も、視聴者を高揚させるための「涙腺操作」意識が多少なりともありはせぬか。「感動の押し売り」が、もっていえば「お涙頂戴」の意識が働いてのではないか。それが、どこかに、かすかに透けて見えるのは筆者だけだろうか。

いやしくもオリンピック出場のアスリートであればプロフェッショナルであろう。身分や立場はアマチュアでもファイティングスピリットの面ではプロでなくてはならない。感極まることもあろうが、簡単に泣いて欲しくない。

あまりにも涙が多かったこと、報道の立ち位置に違和感を覚えたのであった。(2014/02/24)

 

488『十二詩潮のバージョンアップ』

筆者は「十二詩潮」なる連句の新しい形式を考案し、すでに実作品も発表し、昨年の東京文献センター主催の「レンクト・ヴァース・コンテスト」では奨励賞を受賞している。この形式の大まかな説明・解説を下記にしるす。

形式「十二詩潮」について。

A面・B面・C面・D面の四つの面の長短12句からなり、捌手や連衆の自由な発意で、任意な面に「雪」「月」「花」を詠みこむ。それ以外は季語なし。雪月花によって連句の骨頂を残しつつ、十二句の言葉の響きあう詩潮(ポエトリー・タイドゥ)を最大限に重んじ、疎句を以て非日常の万象に迫ろうとする。一句立ての詩情、四つの面それぞれの「三句の渡り」の変化を尊ぶ。・・・

およそ一年弱の期間で、筆者主宰の「河童連句会」やHPの掲示板等でこの形式の作品を約30巻まきあげた。出来栄えは・・・新しい形式で新しい詩の領域をめざすものなので、作品の出来不出来はなんとなくわかっても、文芸・文学としての評価とか位置づけとかは手探り状態というほかない。

十二詩潮で作品を巻いた経験からいうと、各面の三句の渡りは変化に富んでおもしろく出来ても、ABCDの四つの面における流れや繋がりという点では不十分。つまり十二句を貫く統一性にはやや欠けるものがあるようだ。「非日常の万象に迫る」という作品の基本姿勢もあって連衆だけの努力だけではカバー出来ないかもしれない。そんな懸念もあった。

十二詩潮はまだ試行錯誤の段階の形式なのでこの度、バージョンアップを試みた。(バージョンアップという言葉がふさわしいかどうかはともかくとして)

すなわち、ABCD四面それぞれの面に、一句ずつ季語のある付句を詠み込む。四面あるから四季を詠む込むわけで、それも日本の季節の季節順に進行させる。発句にあたる第一句は当季が原則だが当季でなくてもよい。

季語は、雪()、月()、 花()を詠み、夏に限っては季語を指定しない。四季を詠むことで季語を四つの面に差し込んで「横串」とする。その運用をもって12句の統一性を獲得する一助としたいと考えた。むろん素材や詩情での統一性が要であることは言を俟たないのだが。(2014/02/22)

 

487『ドカ雪便り』

14日から15日にかけて当地方に降った雪は44センチ。一週間前に降った雪が根雪になっていて、人通りの少ない場所や裏庭などは約70センチの積雪になっている。寒冷ではあるが比較的降雪の少ない当地としては、俗にいう「ドカ雪」の降り方である。

17日現在、中央高速は通行止め、隣接の茅野市から富士見町にかけての国道20号線は雪で車が200台余も渋滞し立ち往生してしまった。電車もまた運休のありさまだ。

トランク便で運ばれる全国紙は届かず、スーパーやコンビニでは生鮮食料品や弁当の棚はからっぽ、日持ちのしない商品に関しては「陸の孤島」になりつつある。この状況では車での外出は週末になっても不可能かもしれない。

かつて「車蔵ふ(くるましまう)」という季語があり、北海道などでは冬季に車を藁や襤褸切れで包んで乗り回すことをしなかった。のちに不凍液が開発され寒冷地の仕様もできて季語は死語になったが、たとえ車は動いてもこんな雪道では危険極まりない。

雪ちるやおどけも言へぬ信濃空  一茶

「雪月花」という三つの美のカテゴリーに入る「雪」は、ほんらい賞玩すべき対象であるにもかかわらず雪国では歓迎されざるもの。一茶も雪は嫌なものと言っている。「おどけ」、つまり雪が降ってくりと冗談も言えぬ。言う気にもなれぬというわけだ。

是がまあつひの栖か雪五尺  一茶

今週半ばには三度の降雪が予報されている。どうなることやら。「五尺」は150センチ。そこまでは行かないが控えめに見積もって「三尺」には届くかもしれん。(2014/02/17)

 

486『ゴーストライター』

「現代のベートーベン」と称賛された全聾の作曲家の佐村河内さんに、耳を疑うような問題が持ちあがった。

主要な作曲がゴーストライターの手になるもので、18年の歳月にわたって作品を発表し販売してきた。被爆二世であり、長じて聴覚を失ったと自著に書きながら、実際には耳は聴こえていたというから驚く。ゴーストライターであったと自ら認めた新垣さんが、テレビで謝罪会見をした。

演奏やCDなどの制作現場や、佐村河内さんのドキュメンタリーの取材をしたNHKをはじめとするメディアは疑惑を見抜けなったのだろうか。それにしても芸術とは関係のない、お涙頂戴的な物語性をほしがる人間のなんと多いことか。CDがクラシックとしては20万枚も売れたというが、音楽を聴く耳があって売れたかどうか疑わしい。

時代はさかのぼるが、10か月間に約140種の役者絵や相撲絵を残し、忽然と消えた東洲斎写楽にも制作者としての謎がある。能役者の斎藤十郎兵衛が描いたとか葛飾北斎の筆になるとか、絵を能くする、山東京伝、十返舎一九などが描いたという戯作者説もある。

ついでにいうなら、江戸時代には門弟に模写させた絵に有名画家自身が署名を入れる類例もみられ、門弟たちへの激励&褒美の意味があったとされる。

テレビの「開運!なんでも鑑定団」で、三百万円で入手したお宝の絵画の鑑定結果がたったの五千円ということも。本物・偽物で価格は雲泥の差というのが「芸術のお値段」だ。

しかし「制作現場」では、先に書いたような状況が横行していたらしい。絵師の身分とは、宮廷・幕府などに直属し絵画の制作にあたる職人。令制では画工司(えだくみのつかさ)になり、のちに絵所に属して御用絵師といわれたのが始まり。つまるところ、絵画について「芸術」という概念は存在せず「職人」という意識しかなかった。

芸術性の高い音楽や絵画を聴き分けたり見分けたりする聴力や眼力など、筆者を含めてほとんどの人間にない。昨今はブランドとかネームバリューとか、履歴や境遇などを通して価値判断されるが、そもそも音楽や絵画は金銭では評価できないものだが・・・。

再びついでにいうなら、劇作家のシェークスピアは謎のベールに包まれた人物。確実とされる資料だけを用いて伝記を書いたら、恐らく10数頁以上の冊子になることはないだろうと、英文学者の中野好夫が述べていた。

手紙や日記などの遺品はほとんど残っておらず、署名も数えるほどしか確認できないという。そんなことから、まことしやかに「別人説」がささやかれ、作品の多さから複数のゴーストライター説、英国の哲学者フランシス・ベーコン説などかまびすしい。もっともすでに旧聞に属する話ではあるが・・・。

とりとめのない話になってしまったが、ゴーストライターは書き手も書かせ手も「嘘っこき」である。そのかみ、中条きよしの流行り歌に「うそ」があった。「♪折れた煙草の吸い殻で/あなたの嘘がわかるのよ/誰かいい女(ひと)出来たのね/出来た~の~ね」。(2014/02/10)

 

485『雑(ぞう)

連句の付句には有季と無季があり、有季とは春夏秋冬新年、無季とは季節の言葉を表さないものをいう。連句に携わる多くの人たちは無季のことを「雑(ぞう)」という。

雑の句は季節を表さないということ、翻って即ち、季節以外の何を素材にしてもよいということになる。有季の付句が歳時記に収載される約5000題の季語に拘束されるに対し、雑の付句の素材は無尽ということになるのだ。

したがって、新しい詩情の開拓や冒険が可能になるということが考えられ、筆者が「スワンスワン」や「十二詩潮」という形式を考案し試行錯誤している所以である。両形式とも季語を少なくすることによって物理的に雑の付句を多く取り入れられる。むろんその他の理由もあるのだが、ここではふれない。

「雑」は「ぞう」のほかに「ざつ」とも読むが、辞書によると、いりまじったもの、主要でないもの、よけいなもの、不純、粗野、分類しにくいものなどとある。粗雑、雑費、雑用、雑魚寝、雑巾など芳しくない慣用句がならぶ。

しかし慣用句の全体像に統一感がなく、雑駁な「雑」という文字にもかかわらず、どことなく親近感がもて、人間臭い魅力を感じるのは筆者だけだろうか。

きょう節分は「雑節(ざつせつ)」と称される。中国伝来の二十四節気では等分点を由緒正しく立春・雨水などと名付けるが、それ以外である「節分」は肩書きなしのそう呼ばれている

乙に澄ました立春より節分の猥雑さがよい。芭蕉の「俳諧の益は俗語を正すなり」で、猥雑なものこそ詩情に昇華させなくてはならぬ。鬼は外なり、福は内なり。(2014/02/03)

 

484『ギンちゃん乱心』

23日の午後のことだった。飼い猫のギンちゃんが「雀」でもないのに欣喜雀躍としてケージを跳び出てきたはいいが、連れだって廊下を歩く家人のジーパンの足に噛みつかんばかりの威嚇。シェー、シェーを連発し、「狼」でもないのに低い唸り声をあげて狼藉し、歩行を阻止しようと通せん坊。いったい全体なにを怒っているのか、かいもく見当もつかない。

とりあえず家人は居間に逃げこみ、筆者が洋間で宥めようとしたが、筆者に向かってさえ威嚇したり阻止したり。それでもギンちゃんを落ち着かせようとしばらくギンちゃんと「二人」で洋間にこもった。

明らかに怒っているようだが・・・はじめ、家人のジーパンの臭いをくんくんと嗅いでいたのだが、このジーパンは家人が以前に階段を踏み外し、その音に驚いたギンちゃんがパニックになったときのもので、それ以来はじめて履き替えたという。

あるいは、料理の下ごしらえのニンニクと鶏肉の強い匂いに刺激されたか。さらには家人が食欲不振など体調が芳しくないので、病原の臭いを嗅ぎとり、それを知らせようとしたのか。(以前に筆者が前立腺肥大などで薬を服用しているとき、体臭の異常を嗅ぎとって普段と異なる行動をしたことがあった)

ともかく、その夜は筆者がケージのある室まで誘ったが、興奮していてとうとうケージには入らず、箪笥の上で一夜を明かした。

24日は朝よりケージから解放されて歩き回っていたが、どことなくよそよそしく仲良しになれなかった。威嚇や吠えることもあったが、前日よりは少なくなった。

家人がいつまでも避けていては依然の状況に戻れないだろうと、あえて近寄ると、最初はシェー、シェーや唸り声を発していたが、目を合わせないようにしながら「ギンちゃんのお利巧さん」と繰り返しくりかえし話しかけると穏やかになってきた。鳴き声も甘えるような、訴えるような声に変わってきた。

よかった。よかった。あのような状況では「家族崩壊」になってしまう。猫など飼えなくなると危惧したものだったが。

27日。ギンちゃんとは仲良しになり、依然のような状況に戻ってきた。「ギンちゃん乱心」・・・あれはいった何だったのだろう。あの怒り(確かに怒っているように思えた)は何だったのか。筆者たちに何を訴えたかったのか。猫語がわからない筆者には推測しかできない。(2014/01/27)

 

483『伝言ゲーム』

「伝言ゲーム」というゲームがある。

『ウィキペディア』によると、

「伝言ゲームとは、あるグループが一列になり、列の先頭の人に元となる一定の言葉(メッセージ)を伝え、伝えられた人はその言葉を次の人に耳打ちし、それを最後の人に伝えるまで繰り返し、最後の人は自分が聞かせてもらったと思う言葉を発表し、元の言葉と発表された言葉が一致するかどうか、またどの程度違っているかを楽しむ遊びである」。

と記載されている。

言葉や言葉の意味を正確に伝える、媒介させることは大変難しいことだ。わけても人から聞き、それを人に伝える「人伝(ひとづて)」という音声の伝達方法では言葉や意味が変わってしまうことが多い。ときによっては、最初の言葉や意味とは似ても似つかぬ代物となる類例さえある。

「伝言ゲーム」のようなゲームは世界中にあり、英語、フランス語、ポルトガル語、アラビア語などでも伝言ゲームは盛んで、「壊れた電話」などと呼称される。

このゲームは、言葉や意味が似ても似つかぬものになる意外性を遊ぶものだが、ある事象が「伝言ゲームのように変わってしまった」という比喩として使われる側面も持ち合わせている。

言葉と意味を伝えるということは難しいものだ。筆者のように連句に携わっていて、連句の付合について読み手に伝えることは難しいことである。(2014/01/10)

 

482『軍神&厠の神』

神は唯一のものでなく、ご存じのように日本には八百万(やおよろず)の神が存在するといわれる。国語学者の大野晋の説によると、神のそもそもの姿はみえない「隠身(かくりみ)」で、樹木や岩石など憑代(よりしろ)となるところに人間が酒食を供えて祈願するとそこに降臨するという。

日本の全国いたるところの海や川や道などに神がいて(神が隠れていて)、供物や祈願によってたちまちその姿を現すというわけだ。神は恐ろしい威力、超常現象的な力をもつと考えられたので、人びとはこぞって神を畏怖した。神意に背けば死を招く。したがって雷や狼なども神と崇められるようになった。

神のなかには軍神や厠の神が存在する。「軍神」とは武運を守る神や、軍人の手本となるような優れた武勲をたてて戦死した軍人を神にたとえた語をいう。

他方「厠の神」は、厠を守護する神で、埴山姫(はにやまひめ)・水岡女(みずはのめ)の二神をいうと、物の本に載っている。

靖国神社は軍神、いくさの神といってよいだろう。戦争の神、戦争のシステムを司る神である。せんだって安倍晋三首相は靖国を参拝したが、彼の提唱する「積極的平和主義」が「平和を勝ち取る戦争」を意味しなければいいが・・・。そもそも「聖戦」などというものは存在しない。戦争はすべからく犯罪である。人殺しである。

話はかわるが筆者、加齢とともに、腸の蠕動運動がすこぶる悪くなってしまった。したがって雪隠に引きこもることが多くなり、厠の神にお祈りすることも多くなった。厠の神が略称「山姫」「水女」という、御二人方とも女神であることを最近知った。どんな御姿であられるか興味が湧いてならぬ。

八百万の神々のうち、両極端と思われる「軍神」と「厠の神」にご登場願い、このコラムで並んで俎上に載せるニアミスに北叟笑む筆者であった。(2013/12/31)

 

481『政治家の上書き保存』

「嘘八百」とは、やたらに述べたてる沢山のうそのとこ。「―をならべる」などと慣用する。また「舌先三寸」は、三寸ほどの小さい舌の意で、内実の伴わないという気持ちを含む。くちさき。弁舌。「――で人をまるめこむ」と使う。

さらに「舌先」だけでも「――で言いくるめる」と用い、狡猾な人種の専売特許のようなイメージがつきまとう。

それとは違う言葉だが「上塗り」があり、これは壁などの中塗りの上にする仕上げの塗りをいうが、悪いことの上にさらい悪いことを重ねることもいう。「悪性に――する」「恥の――」などの使い方がされる。

「上塗り」の類語というか縁語というか、それに近い言葉に「上書き」がある。「上書き」とは書状や書籍などの表面に字を書くこと、手紙の宛名やその文字をいうが、それに加えて最近は、次のような語意をもつようになった。新しい辞書には載っている。

「既存のデータの上に新しいデータを書き込み、置き換えること。既存のファイルを上書き保存すると変更前のファイルは消去され、新しいデータに更新される」というIT用語である。因みにパソコンを使っていると、「上書きしますか?」というパソコンからの問いかけが多い。

さてさて、嘘や上書きなどの言葉や語意について書いてきたが、畢竟結局、つまるところ何がいいたいのか。生臭い話ではあるが、東京都知事が徳洲会から受け取った伍千円の現金のことである。

報道によると・・・それに関する知事の一連の説明は時間をおいて日日にちをおいて経緯が変わってくる。どういう趣旨の現金でどこの貸金庫に保管したかが変わってくる。言葉が少しずつずれてゆく。聞くたびに何だかおかしい。真実が透けて見えてくるに、それを隠そうとする魂胆がみえみえ。

だれが考えても、どう考えても、嘘をいっているとしか思えない。いったん嘘をつくと、それと整合性を合わせるため嘘に添った論理を組み立てなくてはならない。これが「悪性の上塗り」である。

12月24日、件の知事は「私はアマチュアだった」という言辞を残して都庁を去っていった。アマチュアでない「プロの政治家」はどこかで北叟笑んでいるのだろうか。志半ばで辞任する知事は「都民にご恩返しをしたい」ともいっていたが、どんな恩返しをしようというのだろうか。

IT用語ではないが「上書き保存して変更前のファイルをせっせと消去し、新しいデータに更新しているのであろうか。(2013/12/25)