480「ギンちゃんびっくり」
479「高みへ」
478「特定秘密保護法案」
477「添削&偽装(3)」
476「添削&偽装(2)」
475「添削&偽装(1)」
474「連句の過渡期」
473「♪卵卵気分」
472「反動形成」
471「三つの言葉」

470「色つきのもの」
469「蚯蚓ご飯とザムザ虫」
468「近況三話」
467「とんだ8月15日」
466「十二詩潮「少年は老い」の巻
465「ブロークバック・マウンテン」
     &「また逢う日まで」
464「富士山俳句評釈(2)」
463「富士山俳句評釈(1)」
462「うなぎ談義」
461「ねじり&ねじれ」

コラム「その23」

460「選挙のあとさき」
459「マスコミ・シンドローム」
458「富士山と諏訪湖と北斎」
457「老人のサーフィン」
456「十二詩潮作品(2)」
455「十二詩潮作品(1)」
454「十二詩潮」
453「連句形式のことなど(2)」
452「連句形式のことなど(1)」
451「イカっ飛び」

450「神経質」
449「何かがある」
448「皮を切らせて骨を切る」
447「珍薬奇薬良薬」
446「デルタ万年筆ドルチェ・ビータ」
445「自句自解(2)」
444「自句自解(1)」
443「死と生と」
442「現代連句の評釈」
441「大誤報?」

480『ギンちゃんびっくり』

十七日の夕方のことだった。家人が二階から降りるとき階段を踏みはずし、下段を二段すべり落ちた。大きな音がして家人は廊下にかがみこんでしまった。

そのとき猫のギンちゃんは偶々その現場に居合わせ、物音と家人の声にびっくり仰天して脱兎のごとく走り、廊下の角をころがるように曲がりながら筆者のいる洋間に駆けこんだ。

そこへ立ち上がった家人があらわれ、筆者に事の顛末を話した。幸い怪我もなく、足腰に痛みもほとんどなかったという。

ところが、ここでギンちゃんが猛烈に家人に食ってかかった。シェーシェーと威嚇し、ニャーオニャーオと低い唸り声をあげ、しまいには家人の足に噛みついたのである。甘噛みではなく本気噛みで、ジーパンの上から噛んだのだが血が滲んでしまった。

家人を庇う筆者にも、ギンちゃんは同じように食ってかかってきた。筆者はブルゾンを脱いで、家人をギンちゃんの攻撃から防衛しながら引き離し、落ち着かせようとした。

ギンちゃんは日頃、人間好きで人懐っこく、甘えん坊で、甘噛みや軽く引っ掻くことはあっても、これほどの剣幕でいきり立ったことはなかった。

恐らく身辺での家人の転落する音にひどく驚いたこと、さらに自分を威嚇したと思い込んだのだろう。そしてかつてないパニック状況に陥り、戦闘態モードになってしまったのだろうと解釈した。

筆者は、なお歯向かおうとするギンちゃんと洋間に籠城し、「ギンちゃん、びっくりしたんだね。お母さんは階段から落ちたんだよ。ギンちゃんを苛めたりなんかしてないよ」と繰り返しくりかえし、静かに語りかけた。

目を三角にして怒っていたギンちゃん、このまま平静にならなかったら・・・その夜は筆者がギンちゃんをケージへ案内し、マタタビを与えてやっと寝かせることができた。大分落ち着いてはきていたが、いつもとは明らかに違っていた。

翌朝に筆者がケージを覗きこむと、普段のギンちゃんになっていた。ほっとした。(2013/12/19)

 

479『高みへ』

筆者男でもあるし、自分の裸の体をじっと眺めたり、鏡に映してみたりすることはほとんどない。手足や顔なども何気なくみていることはあっても、しっかり確認し観察することはむろん、しみじみと賞玩することなど生まれてこのかたない。

ところが最近、よくよく我が腕を眺めてみて、上膊の筋肉がなくなってふにゃふにゃなこと、手の甲の皮膚をつまみ上げると富士山ができ、しばらくしないと山が低くならないことなどを思い知らされた。これは我が肉体の部位の、劣化のほんの一例にすぎない。

体の内部、臓器類についてイメージを働かせると・・・働かせることもなく、大腸の壁にある憩室というところが破れて血液が吹きだしていた。11月29日と12月9日に分かった。

体内のもろもろの臓器や、その機能が、目にみえる腕などと同様に劣化していたのだった。ああ、そうだったのかと、いまさらながら納得するというか観念するというか、そんな心境である。

「高齢」は「高所」に似ていて、劣化した機能を騙しだまし使いながら日々、高みへ高みへと昇ってゆく。風も吹かないのに体はゆらゆらとまことに覚束ない。30センチ体を移動させようと踏み出したら25センチしか移動できず、危うく「5センチの断崖」に落っこちるところだった。そんな例もあまたある。

だから何だといわれれば、おもむろに斜に構え、だからおもしろいといえなくもない。血気盛んなやつらには経験できないであろう、貴重な立ち位置にいるのだから。(2013/12/12)

 

478『特定秘密保護法案』

自民党と公明党が中心になって、「特定秘密保護法案」という法案を今国会の衆議院にあげ通そうとしている。これにみんなの党や日本維新の会も半ば賛成して修正協議にも応じ、多数の力をもって通過させようとしている。

この法案の「秘密」の定義は定まっておらず、しかも拡大解釈され恣意的な判断をされる可能性がある。秘密だけあって内容は文字通りつまびらかにされず、権力がもろもろの隠匿を企むための「法的装置」にみえてならない。

国家機密、防衛機密、テロ対策のための「特定秘密」という尤もらしい名を借り、広範におよぶ情報統制や市民の知る権利の抑制、表現や集会の自由を制限し監視し、それを萎縮させるのが権力側の本来の目的ではないかとさえ勘繰りたくなる。

運用次第では国民の意志や行動をコントロールすることが可能な法律になる要素があるとされ、法案や附帯の用語の不充分なことや曖昧さなど、ときの権力者にとって「使い勝手のよい」天下の宝刀と思えなくもない。

女の井戸端会議はともかく、男三人で立ち話をしていれば権力に楯突く教唆&扇動&共謀とにらまれ、官憲(警官)にしつっこく職務質問されたそのかみ。反抗的な態度をとろうものなら、その場でしょっぴかれた時代を生きた筆者にとって、この法案は「いつか来た道」への「道路標識」と思えてならぬ。

(筆者が官憲にしょっぴかれた訳ではないが、筆者は子どものころ身近で見聞きした)

法案の「特定」をとっぱらい、「保護」をとっぱらい、「秘密」だけで運用。?という簡素な解釈で運用されたなら、国民は「聾桟敷(つんぼさじき)」に追いやられ、いろいろな事情を知らされない状態に陥ることは想像に難くない。

(「聾桟敷」とは、江戸時代の劇場で正面二階桟敷の最後方の席。現在の三階および立見席に当たるところで、役者のセリフがよく聞こえない観客席のことをいう)

「国際ペンクラブ」が表現の危機を感じて声明文を発表した。「政治家と官僚が過剰な秘密保全の考えに隠れて自らに権力を集中させようとする」と。・・・悪法であり廃案以外は考えられない代物だ。(2013/11/24)

 

477『偽装&添削()

付勝(出勝)作品で連衆が多人数の場合など、それぞれの連衆の付句の句数を揃えるため、できるだけ同数になるようにするため句数の制限&配分を決める捌手がいる。

それは平等主義というか人間尊重というか、ある意味で理想的取り決めかもしれない。「一巡」といって全連衆の付句が治定される(一巡される)まで、先に治定した連衆は参加せずに待機しているという古くからの慣例もある。

しかしそれは一見民主主義的にみえるが、逆に不平等ではなかろうか。(演劇で役者たちが平等の頻度で舞台に登場しているわけではなく、演奏会で奏者たちが平等の頻度で楽器を演奏しているわけではない。演劇でも演奏でも、終盤にちょっと顔を出したり楽器を奏したりしただけでも演劇や演奏を引き立てることがある。引き立てる者がいる)

したがって、数字的物理的な区分けの仕方は連句という共同制作文芸にふさわしくなく、かえって意欲や興趣を削ぐものではないだろうか。

たとえば、いったん治定された連衆「A」にとって現在進行形の連句の流れに実質参加できないこと、優先順番がめぐってきた連衆「B」にとっては優先順番ゆえに「おこぼれ的治定」と受け止められ僻んでしまうことになりはせぬか。そうであれば、これはAとBの双方にとってのデメリットだろう。

作品の出来栄えは二の次三の次という親睦重視派と、作品の文学性追求派という二派の(捌手の)考え方に帰趣する問題かもしれない。捌手でもある筆者にとっても悩ましい問題であるが。(2013/11/20)

 

476『偽装&添削()

前号で「連句の付句について書き加えたり削ったりして改め直すことを専門用語で一直(いっちょく)という」と書いた。「一直」は捌手が連句を巻いている途中で手直しすることをいうが、満尾後にさらに見直して定稿とすることを「校合」(「きょうごう」または「こうごう」)という。

本来「校合」とは「写本や印刷物などで本文などの異同を基準とする本や原稿と照らし合わせること」をいう言葉で、連句の定稿のための推敲作業には当てはまらないのだが、連句はマイナーな文芸でまだまだ用語が未整備であり、そのため「校合」の言葉で間に合わせているだろう。

「定稿」は文字通り稿が定まったのだから手直しはしない。しかし定稿となったものを手直ししてほしいと希望する連衆さんもごく稀にはいる。(誤字・脱字や表現のあきらかな間違いの指摘は当然ありがたいが・・・)

「合議制」という連衆さんが合議して定稿とする場合にさらなる手直しはよいだろうが、連句は捌手の言葉や文芸に対する考え方を賞玩するものでもあると思うので、独断や偏見を押し通すという独裁的な「個性」が求められる。それが文学的な価値にもつながるのだ。制作者側が共同責任というか、「へんに」民主主義的になると連句も文学もつまらなくなる。

捌手の権限の緩和策とか独裁性とかを避けるためか、誌上発表のとき捌手の名前を消す冊子もある。また別の俳誌では付句の作者名を隠し、制作の参加者として連衆名を一括発表しているところもある。

それそれぞれ考えがあってのことだろうが、筆者にはどうも納得できない。捌が誰かわからず、付句が誰かもわからずでは鑑賞の手がかり足がかりがなくなり、没個性化につながりかねない。「詠み人知らず」は現代にはふさわしくないのだ。(2013/11/11)

 

475『偽装&添削()

添削とは、俳句や詩歌などを書き加えたり削ったりして改め直すことをいう。それに近い言葉に、斧正(ふせい)、朱正(しゅせい)がある。

他方で連句の付句については、書き加えたり削ったりして改め直すことを専門用語で一直(いっちょく)という。いったん改め直したものをさらに二回三回と見直すことを二直、三直という。

(余談ながら、多くの辞書に「一直」は収載されていないが、一部の辞書には「野球で、一塁への直飛(ファーストフライ)のこと」「勤務形態で、交替制勤務の第一番目のこと」とある)

食材の「誤表示」が問題になっている。有名ホテルから始まって東西の百貨店や老舗のレストランまで、メニューに芝エビと表示しながらバナメイエビやブラックタイガーを、ヒレ肉は牛フィル肉を接着剤でつなぎ、フレッシュジュースは市販品を用いていたとされる。

信州そば、九条ねぎと称しながら、それぞれ信州でなかったり京都でなかったりという誤表示がつぎつぎと発覚した。そもそも誤表示という言葉はなく、レストラン側がいくら表示の間違いだったと弁解しても、結果的に「偽装」であることに変わりはない。

ところで詩歌や俳句の添削は宗匠や指導者がするが、「添削教室」と称して「原作」と「添削後」を列記する場合をのぞき、一般的に添削されたものを断りなく発表する例が多い。

連句の付句の一直も、ほとんどの場合「一直後」に原作者が知るだけで作者の「了解をとる」ことはせず、発表に際しても一直した作品である旨の断り書きをしない。これは悪意の「誤表示」に当たらないか。

また、初案の季語を別の季語に差し替えたり、提出した句所で使わないで別の句所で代替したり、連衆の治定句数のバランスをとるため他人の付句の作者にさせられたり・・・これはそれぞれ「食材偽装(季語偽装)」「期限偽装(句所偽装)」「産地偽装(作者偽装)」に当たらないか。

俳句や詩歌の文芸や、小説や評論などの文学作品を不当に改めることは偽装といわず、「改竄(かいざん)」という。(正当に改めることは改竄といわない。なんというだろうか)

他人の作品を無断利用すると盗作とか剽窃とかいう。盗作や剽窃はあきらかな犯罪である。添削や一直は偽装であり犯罪だろうか。筆者、ここではあえて結論めいたことはいわず、このまま書き捨てることにする。(2013/11/05)

 

474『連句の過渡期』

東京文献センターの『2013年レンクト・ヴァース・コンテスト入選作品集』(500円)、および『2013年レンクト・ヴァース・コンテスト投稿全作品集』($5・55)(上野遊馬・二上貴夫)(kindlnキンドル版)Amazonで販売されている。

じつは筆者、このコンテストには数巻捌いて応募し、奨励賞や入選を果たしたので、作品集には作品が収載されているのである。

これが電子書籍というものだろうか。ダウンロードして読むのであろう。第一回ということでコンテストの規模はまだまだ小さいが、連句の作品集がこうした形で発行されるのは恐らく日本で初めてのことであり、画期的なことというべきだろう。

「いいね!」と推奨するマークも張られ、一般的な書籍にくらべてマイナーな連句作品集ではあるが、ある程度は売れているのかもしれない。売れてほしいと願っている。

連句の形式も内容も変わってくるだろうし、変わらなくてはならない。過渡期の最初にさしかかってきているように思われる。(2013/10/15)

 

473『♪卵卵気分』

ココココ コケッコ

ココココ コケッコ

私はミネソタの卵売り

町中で一番の人気者

つやつや生みたて 買わないか

卵に黄身と白身がなけりゃ

お代は要らない

ココココ コケッコ

上記は、佐伯孝夫作詞・利根一郎作曲・暁テル子が歌った『ミネソタの卵売り』という歌の第一章。昭和26年リリース。

「ミネソタ」はアメリカのミネソタ州のことだろうが、ミネソタ州は鶏卵の生産が図抜けて多いとか、品種が優れているなどの情報はインターネット検索で確認できなかった。「つやつや生みたて」は新鮮だが、「黄身と白身がなけりゃ」「お代は要らない」は至極当然のことで、「黄身」はまれに無いことがあっても「白身」まで無いことは寡聞にして知らない。(昨今流行りのホテルの偽装食品も、はじめから「お代は要らない」とすればよかったのだ)

それにいても、この歌はなかなかの傑作だ。

閑話休題。「卵」というもの、筆者の大好きなものの一つである。「鶏が先か?卵が先か?」という始原論があるが、いずれにしろ卵は生命の嚆矢の姿であり、地球に擬えることができるという球形が素晴らしい。球形とは永遠の循環であり、往路があって復路があり、後戻りできることが素晴らしい。

かてて加えて。鶏卵は物価の優等生といわれ、万能栄養素ともいわれ、さらにはレシピの女王といわれ、料理のバラエティーを誇っている。卵焼き、温泉卵、卵かけご飯、目玉焼き、スクランブルエッグ、ふわふわエッグなど、いずれをとっても味蕾を堪能させてくれるものだ。

鶏は啼いてよし、眺めてよし、食べてよし。その嚆矢である「卵」のまろやかな美しさ・・・右脳で卵をイメージすると、≪♪卵卵気分≫になるというもの。(2013/10/05)

 

472『反動形成』

筆者は、ある特定の作家や音楽家や女優などに対して嫌いだと思い込んでしまう感情をもち、性癖をもってしまう。ほとんど、それら作家の小説を読んでいなかったり、音楽家の演奏を聴いていなかったり、女優の出演した映画を観ていなかったりしても、だ。

言葉に対しても好き嫌いがあり、好きな言葉については当然ながら多用し、嫌いの言葉については意味が多少ずれても言い換えたり、敬して遠ざけたりするのだ。

青少年のころ「言語飼育」とか「言語培養」とか称して好きと嫌いをふくめて特定の言葉をピップアップし、その言葉を駆使して文章や詩を書く練習をした記憶がある。

これはいったい何だろうか。早い話が「へそ曲がり」というのだろうか。しかもそれが無意識であることを、われながら意識してしまう場合さえある。

ところで「反動形成」という心理学用語があり、自我防衛機制の一。フロイトの強迫神経症に特異なものとして記述されたものである。

「受け入れがたい衝動や観念が抑圧されて無意識的なものとなり、意識や行動面では、それとは正反対の言動に置き換えられることによって抑圧を強めようとする心的過程をいう」と辞書などで解説されている。

卑近な例でたとえると、好きな女の子に対してわざと意地悪することにより、好きという感情を無意識的に高揚させる作用が働く。欲しくてたまらないゲーム機器が手に入らないと、そのゲーム機器が壊れやすくて危険なものであると思いたくなる心理状態をいう。などなどをいうらしい。

心理学用語の「反動形成」という言葉はつい最近知ったのだが、ある種の病癖というか疾病がかったものであるともいわれている。それを聞いて逆に筆者は、安堵した気分になったのである。(2013/09/28)

 

471『三つの言葉』

2020年の東京五輪招致のプレゼンテーションで、女性の招致委員がフランス語にまじえて日本語で「お・も・て・な・し」という言葉を使った。「もてなし」とは取り扱う、待遇、歓待などが主たる意味だが、接待(摂待)やご馳走の意味もあり、とくに「摂待」の文字を用いて季語にもなっている。

一茶に「摂待や猫が受取る茶釜番」という句がある。

摂待はお寺参りをする人に、各寺で湯茶の施しをすること。山門や本堂のかたわら摂待所を設け、茶や麦湯などを供する。仏家の布施のひとつであるが、個人の家でも往来の人びとに湯茶を振る舞う風習もあった。門茶、振舞水。

摂待(接待)は昭和の初めころまで東京や地方の名所などに見られたが、しだいに廃れていった。交通事情もわるく飲食する茶店も少なくて外出困難な時代には、ありがたい風習だったに違いないが、このような摂待の趣意と相反するような過剰な「接待」もある。

川崎長太郎は昭和二三十年ころに活躍した作家だが、たしか『文芸春秋』に、「上にも置かない持て成しをされることは性に合わない。放っといてくれるのが最大の持て成しだ」という趣旨の文章を随想欄に書いていた。

これが妙に忘れられない。なぜなら筆者も幼少時や少年期に親戚でご馳走を出され、味蕾に馴れない味や量に辟易した思い出がある。ゲ〜となっても見苦しく、食い物を残しても相手にわるく。親戚の叔母さんを恨めしく思ったものだ。

話変わるが、「真逆(まぎゃく)」という言葉があり、「逆」を強調した俗語。ありていにいえば、逆であること、正反対のこと。2004年ころから使われるようになり、同年の流行語大賞にノミネートされた。すぐに廃れると思われたがしぶとく生き残って、昨今ではテレビのアナウンサーや司会者や政治家まで使う。

「逆」で充分なのにもかかわらず、ことさら強調することでもないのに強調する。「自己顕示アジテーション」として使う使い方を許したくない。言葉は変遷するものなので目くじらを立てたくないが、どうも好きになれない言葉だ。

話変わるが、「駝鳥症候群」(オーストリッチ・シンドローム、またはオーストリッチ・コンプレックス)という言葉がある。アメリカの心理学者ワイナーによる用語で、目に前にある問題や危険を直視せず、何もしないで遣り過ごそうとする心の状態をいう。駝鳥は砂に頭を突っ込んでいれば危険が去るものと思い込み、逃避の姿勢を通そうする。

じつは筆者もそんな「疾病」をかかえる。どんなときに砂に頭を突っ込むかは割愛するが、われながら逃げの姿勢であることは否定できない。性格なのであろう。(2013/09/20)

 

470『色付きのもの』

「色眼鏡」とは色つきガラスを用いた眼鏡をいうほか、先入観や感情に支配された見方のこと。「人を―で見る」などという。「色付きのもの」は間違えやすく、騙されやすいともいえよう。

言葉や感情や物質は色に喩えられ表されることが多い。「青の時代」「白無垢の衣装」「腹黒なやつ」など色付きの用語を用いて表現される。色がつくことで、本体や実質がより強調されるようだ。

風もよく色に喩えられる。「色なき風」という秋の季語があり、逆説的にいうなら、その他の季節には「色つきの風」が吹くことになる。じじつ「青嵐」「白南風」という季語の風には、それぞれ色がついている。

声にも色がある。「黄色い声」は女性や子供の甲高い声をいうが、感覚的に「なるほど」とうなずけるものがある。心理学などから発した「色聴(サウンド・カラー)」なる言葉もあり、ある音を聞くとそれに伴って一定の色が見える現象。共感覚の一種をいう。

前振りが長くなってしまったが、「黒いもの」を大きな声で「白い」と言い放つと、聞かされる側はその勢いに気圧され、一瞬「白いかもしれない」と思ってしまう。勘違いしてしまう。

「・・・同じフレーズを反復して、人びとの記憶に刻み込ませる。嘘も百回いえば、それが真実となる」というドイツのヨーゼフ・ゲッベルスの言葉がある。それがたった一回でも、堂々と自信たっぷりにいわれると、ついつい騙されてしまうのだ。

安倍首相が五輪招致のプレゼンテーションで福島原発の現状にふれ、「汚染水は港湾内で完全にブロックされている」と大声で演説したのには驚愕した。汚染水がタンクから漏洩し、海に流れている懸念が否定でないという東電の発表があったばかり。

「黒」を「白」と強引に言い募る「真っ赤な嘘」である。ちなみにヨーゼル・ゲッベルスは初め作家を志したが挫折し、ヒトラー総統に見いだされてナチ政権の宣伝相になるが、一揆には加わらなかったとされる。

彼はプロパガンダの天才といわれ、近現代のマスメ・ディアはそれと意識せずとも、あるいは意識しつつも、ほとんどこの手の手法を踏襲して憚らない。

引用のフレーズにつづいてゲッベルスは、「真実は国家の最大の敵である」とのたまう。宜なるかな。宜なるかな。(2013/09/10)

 

469『蚯蚓ご飯とザムザ虫』

筆者はほとんど毎朝、夢をみて目覚める。車を運転して崖っ縁に乗り上げたり、廃墟に隔離されて出られなくなったりで、汗みどろになる。また虫の夢もよく見る。蚯蚓(みみず)とか青虫とか蛞蝓(なめくじ)などの環形動物、俗にいうヌルヌル系が恐ろしい。触ることなどとんでもなく、見ただけでも虫酸がはしる。

醤油かけ蚯蚓ご飯や、青虫のマヨネーズ・サラダなんぞは想像だに気持ちわるいが、頭脳がお膳立てして想像してしまう。

ただ虫でも兜虫(かぶとむし)や鍬形虫(くわがたむし)など甲殻類はそれほど恐くないない。蝉も指でつまむことができる。どうやらヌルヌル系の柔らかな表皮、潰れたときの体液や臭いが恐怖を誘うようだ。

「ある朝、グレゴール・ザムザがなにか気がかりな夢から目を覚ますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変わっているのを発見した」「鎧のように堅い背中を下にしてあおむけに横たわっていた」。

以上はフランツ・カフカ著の小説『変身』の書き出しである。筆者は総じて「虫嫌い」だが、「ザムザ虫」なら、まあいいか、という感じになる。なんとなれば甲殻類だから。

話は変わるが、澁谷盛興氏が「虫の音波はf分の一」という付句を寄せてくれた。「f分の一」は「f分の一のゆらぎ」のことでピンクノイズとも呼ばれ、自然現象においてしばしば見ることができる。人の心拍の間隔や金属のすれ合う幽かな音や、蝋燭の炎の揺れ方、川のせせらぎ、木漏れ日の強弱のそよぎ、蛍の光り方などにノイズが現れるとするもの。

しかしその根拠や効果については曖昧で、説明自体も信頼できないとする主張もあり、オカルトがためにする波動の一種であるともされる。

筆者は「f分の一のゆらぎ」について知らなかったのだが、こうした内容の深いデリケートな題材が登場すれば、連句もステロタイプを突き抜けてより「深化」するだろう。盛興氏に感謝したい。

因みに「虫の音波はf分の一」に対し、筆者は「芸術に殉じてこころ癒す秋」と付けた。出来栄えはいかがだろう。

ザムザ虫の歯噛みの音はいうに及ばず、蚯蚓がくねくねと這う音なき音にすら、筆者は「f分の一のゆらぎ」を感ずる今日この頃である。夢見の朝である。(2013/08/26)

 

468『近況三話』

きのう濡れ縁に置いたモモが夜中に一個なくなっていた。きょうはトマトが一個なくなっていた。きのうの朝きょうの朝、気づいた。スーパーで購入したモモは、痛み防止のためのポリ製「ネットの袴」を履いていたが、ネットの袴とモモの種だけを残し、中身はどこかに消えてしまった。他方トマトは半かじりで、残骸が濡れ縁の下に落ちていた。いったい誰の仕業だろうか。

泥棒かイノシシかサルイヌかネコか。消去法でつらつら推理すると、泥棒ならモモなんかではなく、拙宅の家構えからして金の延べ棒だろう。ご主人様の干支で親近感があっても、イノシシのテリトリーの霧ヶ峰からは離れ過ぎている。サルは富士見町には多いが、モモトマトの類で諏訪までの遠征は割を食うだろう。

残りとなれば、ペットやノラ系など地域になじみのイヌとネコとネズミに絞られてこようが、筆者も家人も鳴き声や物音を聴いていない。しかしネズミはともかく、「イヌ&ネコ」が果たしてモモやトマトを食うだろうか。

話は変わるが、『雲は天才である』は石川啄木の処女小説のタイトルだ。啄木は擬人法になぞらえ、雲は類まれな筆力を有する画家であると言いたかったようだ。

鰯雲の精緻なデッサンから、瑞雲の多色のコラボレーション、夕立雲のシュールレアリスム、春の綿雲の象徴性など、雲は天空というカンバスに縦横無尽な筆致で、絵の具を惜しみなく使って描き込んでいる。

筆者この頃、外出するたび、iPhoneの写真機能を駆使して空を撮っている。雲を撮っている。もっとも絵画的芸術的にすぐれた雲や空が簡単に撮られるわけはなく、そのほとんどは削除という結果になるのだが・・・

雲の形もさることながら空の色も、単に常に同じ色ではなく微妙な色合いの「青さ」を見せる。先に天空をカンバスと書いたが、天空の「青さ」を映し撮ったとき、多くを削除して大切な一枚を保存したとき、それは我が「心象」に他ならない。心象風景なのだ。

話は変わるが、フランス語に「デジャヴ」という言葉があり、翻訳すると「もう見た感じ」という意味で「既視感」の日本語が当てられる。一度も経験したことがないのに、すでにどこかで経験したことがあるように感ずること、錯覚することをいう。

そもそも「デジャヴ」は視覚についていう言葉だが、聴覚や触覚を含めて言い表すこともある。つまり、初めての経験であるはずなのに「もう聴いた感じ」「もう触った感じ」という感覚を共有させるのである。

じつは筆者、「デジャヴ」の感じにいつも襲われる。襲われるというよりも、意識&無意識、下意識。そして意識閾という意識作用の生起と消失の境を行ったり来たり・・・そんな感じがしてならないのだ。

それは長年にわたる連句という付句というバーチャルリアリティー、擬似体験を繰り返してきたために染み込んでしまった性状なのだろうか。(2013/08/20)

 

467『とんだ8月15日』

8月15日は敗戦記念日である。(世間では「終戦記念日」というが、紛れもなく「敗戦」だから、筆者は「敗戦記念日」と書く。自虐でもなんでもなく、戦勝ではないから当然敗戦だろう)

前振りはこのくらいで、きょうは8月15日。午後5時頃のことだった、拙宅の玄関でけたたましい音がした。暴走車が飛び込んできたかと思わず竦むと、猫のギンちゃんが一目散に廊下を走って逃げた。びっくり眼で、脱兎のごとく(脱猫のごとく)遁走したのだった。

なんのことはないというべきか、とんでもないことというべきか。その音は、ギンちゃんが高さ60センチの花台上の花瓶を落として割ってしまった音だった。紺色で楕円形の花瓶が砕け、活けてあったトルコキキョウが飛散した。辺りいちめん水浸しとなった。

花瓶の下敷きの白いレースを引っ張ったか、遊んでいるうちに爪が絡んで大事になってしまったか。ギンちゃんは恐縮し、長い廊下のはるか彼方に小さく座り込んでいる。

「どんまい。どんまい。たまのやんちゃじゃないか」「いつもお利巧のギンちゃんじゃないか」。例によって、筆者は親莫迦ぶりを発揮する。

――この騒動のころ、遠くの方でごろごろと雷鳴が鳴っていた。今夜の諏訪湖花火大会は大丈夫だろうか。

ところが烈日赫赫と輝いていたものが一転にわかに掻き曇り、烈しい雨粒と強風が屋根や硝子サッシを叩きはじめる。天候急変である。しかしこの天候急変も30分と続かず、日差しが戻ってくるではないか。この分なら花火大会は開催されるだろう。

宵の口の7:00、どどどどと音花火が鳴って、いよいよ諏訪湖花火大会が開幕する。拙宅から花火は見えないが、花火の炸裂音は聴こえるのだ。

そして、しばらくして、再び烈しい風雨。烈しい雷鳴。7:30頃だろうか、ゲリラ豪雨は頂点に達し、花火大会は中止となった。筆者は落雷を避けるためパソコンの電源を抜いた。ギンちゃんは洋間の隅っこで両手をそろえ、神妙な貌で鎮座していた。

諏訪湖花火大会も65回をかぞえ、観客も公称50万人というが、大会が途中で中止になったのは初めてのことだそうな。大雨、強風、雷のため、短時間ながら電車も高速も不通になり、遠来の見物人は市役所や市民センターなどで一夜を明かしたという。

とんだ8月15日だった。(2013/08/16)

 

466『十二詩潮「少年は老い」の巻』

十二詩潮「少年は老い」の巻     矢崎硯水捌

A面 

水切りの小石飛ばして少年は老い    河童

    ごろた縄にも引っ掛かる玉響     うみ

塞翁が馬いななけば今日の月      もくれん

B面

留学生を迎えシャンパン       もくれん

無神論は地平線へと旅つづけ      河童

    ブルカ脱ぎすて放つ鸛        ディジー

C面

手品師が指を鳴らせば花の束      衣谷

    肝臓移植し角膜も植え        うみ

山折りと谷折りの過去なじゃもんじゃ  河童

D面

宙吊りされたグランドピアノ     衣谷

雪の精オーロラのベール翻し      ディジー

    金銀積めばかしぐ方舟        河童

2013年5月14日首尾

形式「十二詩潮」について

A面・B面・C面・D面の四つの面の長短12句からなり、捌手や連衆の自由な発意で、任意な面に「雪」「月」「花」を詠みこむ。それ以外は季語なし。雪月花によって連句の骨頂を残しつつ、十二句の言葉の響きあう詩潮(ポエトリー・タイドゥ)を最大限に重んじ、疎句を以て非日常の万象に迫ろうとする。一句立ての詩情、四つの面それぞれの「三句の渡り」の変化を尊ぶ。

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このたび筆者らが掲示板で巻いた上記の連句作品が、東京文献センターの「2013レンクト・ヴァース・コンテスト」にトップ入賞した。この連句大会は形式自由を謳い、くわえて一巻の句数をおよそ24句以内に制限する。さらに入選作品集は紙ではなく電子書籍で発行するという画期的な大会だった。

伝統から学ぶものは多いが、300余年そのままでは現代に相応しくない諸問題が出てくる。鉢を突き合せて懐紙に書き込んでいたものから、遠隔地でもインターネットで瞬時につながり連句興行が可能だ。これ一つ取っただけでも、時代は間断なく流行している。不易流行である。

この連句大会が毎年開催されて、連句界に一石が投じられることを願ってやまない。

このたび筆者が新しく考案した形式「十二詩潮」については当該コラムの「454」で触れたので、ここでは省く。また「少年は老いの巻」は受賞作品なので捌からのコメントも遠慮したい。(2013/08/14)

 

465『「ブロークバック・マウンテン」&「また逢う日まで」』

「ブロークバック・マウンテン」という映画がある。1963年ワイオミング州のブロークバック・マウンテンでの羊の放牧に、季節労働者として雇われた二人の男の話。対照的な性格の若い牧童二人が、美しく峻烈な大自然での過激な羊の世話やテント生活のなか、越えてはならない精神と肉体の境界を越えてしまうというストーリーである。

封建的な片田舎での「ゲイ」はひた隠しに隠すほかはなく肩身の狭い思いや罪悪感に苛まれるが、二人はそれぞれノーマルな結婚もして子供もなす傍ら、山での季節労働の数回だけのバイセクシャルな関係を享受。そして二十年の歳月を送ることになる。

刺激的なテーマでありながら監督はじめ演者に浮ついたところがなく、二人の生い立ちや貧困な生活状態もシリアスにえがかれる。男同士のラブストーリーだが下種な演出はみられず、男同士というよりも「人間同士」と言いたいような切なさ哀しさを滲ませ、泣ける映画である。

筆者はハードディスクに録画してたびたび観た。女性の理解は得られないだろうが、ゲイやゲイがかった人には理解され評価されると思う。

話はがらりと変わるが・・・「懐メロ」に「また逢う日まで」という流行歌があった。筒美京平作曲、阿久悠作詞で歌うは尾崎紀世彦。日本人離れした声量で一世を風靡した。

「また逢う日まで」

また逢う日まで逢える時まで

別れのそのわけは話したくない

なぜかさみしいだけ

なぜかむなしいだけ

たがいに傷つきすべてをなくすから

ふたりでドアをしめて

ふたりで名前消して

その時心は何かを話すだろう

 

また逢う日まで逢える時まで

あなたは何処にいて何をしてるの

それは知りたくない

それはききたくない

たがいに気づかい昨日にもどるから

ふたりでドアをしめて

ふたりで名前消して

その時心は何かを話すだろう

ふたりでドアをしめて

ふたりで名前消して

その時心は何かを話すだろう

以上は全歌詞だが、流行った当初から筆者には理解しにくい面があった。嫌いではないが別れる羽目になった男女が、再会を期待しつつ別れてゆく状況がイメージできるが、日本の恋歌にはふさわしくない筋立てであること。

ところがつい最近、筆者は「また逢う日まで」を聴く機会があり、はたと膝を打った。「嗚呼、これはゲイを歌った歌だったのだ」と。そして「ブロークバック・マウンテン」のストーリーと重ね合わせた。ぴたりと嵌った。

「ふたりでドアをしめて」は男ふたりの密会、「ふたりで名前消して」は社会からの解脱を意味し、「その時心は何かを話すだろう」は愛情と苦渋の述懐を語り合うのだ。肩身の狭い思いの同性愛。現実と理想の乖離。既成概念と自由を求める人間の偽らざる姿を浮き彫りにする。(2013/08/08)

 

464『富士山俳句評釈()

  雪消富士見ゆる浦なり雑魚干せる  北洲。

田子の浦港あたりから眺める初夏の富士山か。もっとも富士山が望める浦はあちらこちらにあるだろうが・・・。

海辺には粗末な蜑小屋があって、その周辺で雑魚が干される。雑魚というが、アジ、サンマ、カタクチイワシ、キンキなどの丸干し、開き干しが干し台に広げられ、天日干しされている。そんな浜辺から未だ山頂に雪をいただく富士が眺められるのである。

遠景と近景のコントラスト、富士と干物の取り合わせはおもしろいのだが、どこか観光写真のような、ステレオタイプの景色の印象がぬぐえない。一茶の試みた景物配置とは創作の立ち位置、意図があきらかに違うように思われる。

初不二の雪を貢の日の出かな  千兵

新年はじめて眺める不二の山。お山は雪をかぶり、初日の出に翠微も頂上もきらきめき、燦然と輝く情景を詠んでいる。

この句のポイントは「貢(みつぐ)」。「貢」とは金品を献上する。みつぎものを贈る。人に衣食の資などを与えて助けるなど。また「貢」には「見継ぐ」の字をあて、力を添えて助ける。助勢するとの意もある。この句はむろん後者の意で、雪という雲井からの助勢によって不二の美しさをより引き立てることが可能になったという句意だ。雪という自然現象に対して、「助勢」とか「力を与え」とかいう意味の「貢」の用語を用いたところが見所である。

元日の富士にあひけり馬の上  漱石

「馬の上」とは乗馬のことで、元日そうそう馬を跳ばしている途次、思いがけなく富士山に出会ったという句意。

漱石がこうした情景にゆくりなく遭遇したとか体験したとかではなく、「元日」「富士」「馬」の三物を連結し、そこにある特殊なイメージを描こうと「創作」したものと考えたい。蕪村作品に多くみられるように、一種、物語性を俳句世界に持ち込んだのではないか。

  竹馬の子供が背負ふ富士の山  硯水

子供が竹馬を上手に乗りこなして、生垣に添った小径を歩いてくる。遥か遠景の富士山が子供の背後にあり、あたかも富士山を背負い込んでいるようだ。竹馬の子供のほど近くから、子供と背景の富士山が望める位置から詠んだものである。

「次第高」という妖怪がいる。山口県厚狭・阿武両郡に出現するもので、見上げれば高くなり、見下げれば小さくなり、路上を主たるフィールドとするもの。この種類の妖怪は「伸び上がり」「見越入道」「高入道」など日本各地にいる。因みに筆者の俳句は「次第高」がヒントになっている。

前号から続けて富士山の句を七句選んで評釈した。ことし富士山が世界文化遺産に登録されたので、あえて採り上げた次第である。(2013/08/03)

 

463『富士山俳句評釈()

  有明や不二へ不二へと蚤のとぶ  一茶

朝目覚めて寝床に横たわっていると、枕元から一匹の蚤が跳びたつ。蚤が視界に這入り、さらに窓越しには有明の月をいただく借景の不二が聳える。あたかも蚤が不二の山をめざして跳躍するかのようだ。

写実的な表現法から導いて評釈してみたが、この評釈は恐らく間違っているだろう。

一茶の狙いは、霊峰として誉れ高い不二と卑近な昆虫である蚤との対比、二物衝突から起きる観念の突飛さ違和さ。見慣れてきた「不二」と「蚤」の両者に与えるよそよそしさは、ブレヒトのいうところの異化効果にほかならない。かてて加えて、不二の「遠&大」と、蚤の「近&小」の取り合わせの誇張が後押しする。

俚諺「蚤の息は天に上がる」(力の弱い者でも一心に行えばしとげることが出来るという喩え)を一茶が知っていたか、どうか。シュールレアリスムとかモダニズムとかいう認識がなくても、一茶俳句はシュールでありモダンである。写生派の俳人は作り物だと酷評するだろうが・・・。

不二ひとつうづみのこして若葉かな  蕪村

山頂に雪をいただく不二の山を埋め残す、あたり一面にひろがる若葉の緑の大海原。遠景の雪の白さと近景の若葉の緑との色彩・視覚の鬩ぎ合いは、若葉のむんむん噎せかえるような匂いの嗅覚によっていっそう覚醒する。

王安一の石榴詩「万緑叢中紅一点」が蕪村の意識のバックグラウンドにあり、「紅一点」を「不二」に置き換える。王朝浪漫派の蕪村らしい抒情的な景色である。

霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き  芭蕉

富士山の絶景スポットに立っているが、霧しぐれによって富士は山容を隠す。今日は生憎と富士は見えないが、それも亦よかろう。それも面白いではないかという句意だ。

見せる美と隠す美があり、見える美と見えない美がある。女性を例にとれば衣装や化粧によって「本体」を偽装し仮装する。事物や景色を例にとれば、諸現象によって「本体」を本体とは異るものに形作る。つまり、「見える美」を超越する「見えない美」を賞玩するという美学が日本にはある。

感性的な知覚を通して与えられる心理作用をいう言葉に「感官界」とか「感性界」とかがあり、深読みすれば、この俳句の底のそんなところにぶっつかる。(2013/07/30)

 

462『うなぎ談義』

7月22日は土用丑の日、うなぎの日である。うなぎを夏の土用の丑の日に食べる風習は、平賀源内が仕掛けたとされる。うなぎの旬は元来が晩秋から冬で、夏場は脂ののりが悪くて売れ行きも芳しくなく、当時どこのうなぎ屋も夏は閑古鳥が鳴いていた。

そこで、あるうなぎ屋が、該博な知識を有する平賀源内に打開策の指南を乞うたところ、土用の丑の日に「う」の字のつく食物を食べると夏負けしないという民間に伝わる伝承を利し、うなぎ屋の店先に「けふは『う』の日」と貼り紙をかかげよと宣った。

これが奏功して夏でもうなぎが売れるようになり、他のうなぎ屋もこれに習ったといわれる。

昨今はうなぎの稚魚であるシラスの価格が高騰し、うなぎの蒲焼きの値段はうなぎ登りとなり、庶民の口に入りにくい。また日本うなぎが絶滅危惧種に指定されるのではという情報もある。

そんなうなぎの食文化の危機から、「鶏肉の蒲焼き」と「なすの蒲焼き重」が登場した。

「鶏肉の蒲焼き」は鶏肉をふっくらと炊き上げ、「うなぎの開き」のような形状に仕上げる。うなぎ専用のタレもしっかりとつけ、見た目もうなぎの蒲焼きそのもの。(丸大食品。1パック380円)

一方、「なすの蒲焼き重」は、長めのなすをうなぎのような形に開いて重箱のご飯の上に寝かせる。バーナーで焼いた焦げ目もうなぎを欺くうなぎ色で食欲をそそる。(群馬県「かわとみ」。一人前800円。1000円の特上は金箔掛け)

うなぎの生態には不分明なところが多く、その形状とぬめぬめ感から「山芋変じてうなぎになる」という俗説もある。鶏肉やなすが変じてうなぎになることも、あながち荒唐無稽ではない。とはいうものの、うなぎの身代わりがなすとは、ずいぶん「人を食った」話である。おもしろい話ではある。

 ・石麻呂に 吾物申す 夏痩せに 吉しと言ふものぞ 武奈技とり食せ

上記は大伴家持が吉田石麻呂に宛てたうなぎの歌で、「万葉集」に載っている。日本人が食したうなぎの最古の記録とされる。

次は吉田石麻呂の返歌。

 ・痩せ痩せて 生けらばあらむ 将や将 武奈技を漁ると 河に流るな

うなぎには「武奈技」の字が当てられている。

ところでこのコラム、丑の日に因んでうなぎのことを書いたほか、言外に言わずもがなのことがある。それはむろん、言わずもがな。(2013/07/22)

 

461『ねじり&ねじれ』

「ねじり飴」という飴がある。近頃ははやらないが、その昔は子どもたちにしゃぶられた菓子の一種だった。材料が何でできているか知らないが、見た目は、理髪店の紅白青の回転するサインポールのような感じである。金平糖や金太郎飴、キャラメルやドロップなど飴の種類はあまたあるが、ねじり飴はかたちから言って印象の強い飴だ。

ところで「ねじり」という言葉には、「ねじり結び」「ねじり取る」「ねじり切る」「ねじり鉢巻き」「ねじり草(ねじ菖蒲)」「ねじり貝(ねじ貝)」「ねじり編み込み」などがある。

他方で「ねじれ」という言葉には、「ねじれが生ずる」「ねじれ切り」「ねじれこっかい」「ねじれさせる」などなど。

「ねじり」は意志を持って(あるいは動植物の生態として)多くは能動的な力が加えたものであるのに対し、「ねじれ」は「ねじり」によって生じたものの結果を表していう言葉だろう。

今回の参議院選挙で、与党は「ねじれ解消」を声高に叫んでいる。「衆参のねじれ」によって国会運営がスムーズにゆかず、法案がなかなか成立しないと慨嘆している。しかし「いわゆる・ねじれ現象」は何かの間違いでそうなったのではなく、他ならぬ日本国民が「ねじって」「ねじれた」なのでる。理屈っぽく繰り返すならば、国民の意思によって能動的に「ねじり」、その結果として「ねじれた」のに相違はない。

重要法案が成立しないのは「衆参のねじれ」が原因のように喧伝されるが、与野党の駆け引き、もっといえば党利党略に起因するとは衆目の一致するところだろう。

「ねじれ解消」で与党の通したい法案がじゃんじゃん通ったら、政治家は何をするかわからない。かれらは信用ならずかれらには任せられない。(2013/07/17)

460『選挙のあとさき』

「アベノミクス」は、つまり「印籠」である。「この印籠が目に入らぬか」と格さんが黄門様の印籠を掲げると、木っ端役人をはじめ村民どもが「へ〜へ〜」とひれ伏す。経済政策に対して政権に対してそんな風潮が透けてみえる昨今だ。

アベノミクスが原因で株が値上がりし為替が円安にふれ、限られた大企業や株を保有する資産家のふところが潤っている。長きに亘って閉塞感に充ちた状況にあったので、マスコミはとりあえず景気のよい話にとびつき盛りあげる。

コメンテーターも庶民とは比較すべもない準資産家なので、アベノミクスの恩恵を受けているかもしれぬ。「アベノミクスの負」は知っていても、それをいう人は少ない。下手にいうと日本経済が上向きかけたところへ水を差すのかと反感を買うから。

「三本の矢」という政策も発表されているが、この政権は強者に甘く弱者に辛く、庶民には全く以て手が差し伸べられていない。ノーベル賞経済学賞受賞者のジョセフ・E・スティグリッツ著『世界の99%を貧困にする経済』によれば、経済の成長を支え、それを軌道にのせていくための鍵は、中および低所得者層の所得を増やし、需要を拡大していくことにあると言っている。インフレを呷って中および低所得者層や年金受給者には知らん振りしているつもりであろうか、安倍さんは。

世論調査による安倍政権の支持率は高止まりしたまま。日銀をねじ伏せて金融緩和で景気回復をうたい、経済政策を半ば成功させたように喧伝する効果であろう。この勢いで参議院選挙に多数を勝ち取り「衆参のねじれ」を解消したいと息巻く。

選挙があるので、「改憲」はとりあえず横に置いている。96条の三分の二で改憲できるルールを、二分の一にしようという。その先にみえるのは9条の改正だが、その他にも、自由民主党の改憲のための「草案」には言論統制につながりかねないもの、道徳教育乃至は家庭教育などの押しつけが垣間みえる。危うさをふくみ、戦前回帰の俗臭ふんぷん。

そもそも憲法とは権力や政治の暴挙を制御するためのものであり、国民のもろもろの権利を抑圧するためのものではないはず。ところが96条のハードルを低くして政権を取ったとき、その時の政治や権力が憲法を容易に改定できるようにしようという。そして立憲精神のあり方を、権力を縛るものから国民を縛るものに百八十度変えようというのだ。

もしも7月の参議院選挙の結果「衆参のねじれ」が解消されたら・・・その後のことが気になって仕方がない。国に騙され権力や政治に騙されて育った筆者世代は疑い深く、猜疑心のるつぼを抱えて生きている。掲げられる「印籠」も胡散臭いが、その印籠と引き換えられる「結果」をしっかりと凝視しなくてはならぬ。もっとも「結果」が出たあとでは取り返しはつかないが・・・。(2013/06/30)

 

459『マスコミ・シンドローム』

そのかみ巷間いわれた「テレビのダニ」とは、テレビに頻繁に登場しテレビ業界に巣食う人種の揶揄嘲弄の比喩だが、その進化したものだろうか、最近「マスコミ・シンドローム」という疾病にかかった人種が数多くみられる。

マスコミの仕事として重要な使命もあろうが、それとは事を異にして、新聞でいえば三面記事、テレビでいえば視聴者の息抜きのコンテンツが欲しいため、有名人やタレントなどの危ない話、暴言すれすれの「ネタ採り」に奔走するところが多い。(ここでいう「マスコミ」の語にはブログやフェースブックなども含む)

従って「シンドローム」とは、取材する側にもされる側にも冠せられるが言辞でどっともどっちだが、この症状、される側が発語しなければ情報は発生しないのだから後者の症状がより重篤と思われる。それも政治家や官僚などに多発する。

アメリカくんだりまで行って尖閣諸島の買い取りをしゃべったり、沖縄基地の米軍人に風俗を使えと推奨したり、学問的には占領の定義は定まっていないとか、左翼の糞どもから罵声を浴びせられたとか、病院で医療費支払いのとき番号で呼ばれ、ここは刑務所かと怒ってみたり・・・そんな話題がマスコミやブログで姦しくおどっている。

物議を醸しやすい余計なことを敢えていったり、威圧的に自己主張したりして、拠ってたつ立ち位置や権威をより強固にしようと企むエゴだろうか。口先だけで力量のない政治家や官僚がマスコミ相手に放言する。ぶら下がりのマスコミやブログにしがみつく。これは舌禍という域を越えて媒体パラサイトのなれの果て、末期病状に見えてならない。

政治家はうろ覚えや間違った認識で歴史を語るべからず、知事や市長はいたずらに国政に口をはさむべからず。官僚は国民の公僕であることを改めて胆に銘ずること。以上老婆心ながら。老爺心ながら。

シンドローム、つまり症候群とは、「相伴っておこる一群の症候。一つの症候群に属する諸症候は同一の根本的原因に発すると見られる」と『広辞苑』にあるが、ここ数年とみに多いのは一体どうしたことだろうか。(2013/06/29)

 

458『富士山と諏訪湖と北斎』

富士山がユネスコ世界遺産委員会できょう、世界文化遺産に登録された。「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」が正式な名称である。

ところで富士山の美しい山容は、遠く離れた諏訪からも望むことができる。富士山と諏訪湖のとりあわせの絶景は、葛飾北斎の富嶽三十六景「信州諏訪湖」に描かれているのだ。

富士山の見える景観を街づくりに生かそうという国土交通省が選定した「関東の富士見百景」(128景・233点)に、長野県内で6景9地点が選ばれ、このうち諏訪地方では4景6地点がすでに選ばれている。

「塩嶺御野立公園展望台」(岡谷市)、「霧ヶ峰高原」(諏訪市)、「下諏訪町湖浜」、「富士見町からの富士」(3地点)が挙がっていて、信州の「富士山ビュースポット」というわけだ。

筆者は諏訪湖一周のドライブをよくするが、「下諏訪町湖浜」辺りで一休み。湖畔に車を停めて遥かかなたの富士山を眺めるのである。小さい富士山だが、たとえ小さくても威厳のある山だ。

北斎えがく「信州諏訪湖」は、富士山を甲州や信州から望む俗にいうところの「裏不二」で、中央に大きく二本の株立ちの巨木と社を配し、左右に湖水をひろびろと表す構図。左手には高島城のある岬、そして遥か遠くに、勿体なさそうに小さな富士山を措いている。遠近法や誇張やデフォルメを利かせるなどなど、北斎の面目躍如。藍の濃淡だけの(藍摺り)という色彩表現も味わい深いものだ。

話変わるが歌川広重にも「富士三十六景」「信州諏訪之湖」があり、北斎とは筆致がガラッと変わるが、これも省略と洒脱と遊び心とがあってなかなかのもの。人呼んで、「北斎VS広重三十六景筆くらべ」ということらしい。

ふたたび話変わるが、遠近法、誇張、デフォルメ、省略、洒脱などは俳諧、連句の付合において最も大切なものと筆者は考えている。自己分析すれば、浮世絵から付合を考えたとも、付合から浮世絵を眺めるようになったともいえるだろう。(2013/06/23)

 

457『老人のサーフィン』

わがパソコンは「XP」で来年四月にはウィンドウズのサポートが終了するとか、また約八年使って「後期高齢」になってしまった今日この頃であり、ここを先途と思い切って新しい機種に買い替えた。

新しいパソコンは当然ながら旧型と違って、手触りから使い方に至るまで様相&機能を異にする。

ネットサーフィンという言葉があるが、新しいパソコンを駆使し海の波頭に乗ってすいすい乗りこなすのはまことに至難の技で、ここ数日は連日連夜にわたって厳しいトレーニングをしている。しかしキーボード一つを取っても旧型とは感触が雲泥の差だ。とんだ「サーフィン」となってしまった。言ってみれば「老人と海」である。

けれども本当は「サーフィン」なんぞは、どちらでもよろしい。筆者にとってはホームページの「移行」こそが最大の作業であり難関である。

これまで使っていた「ホームページビルダー6」から現在は「ホームページビルダー17」と大幅に進化している。編集の細かい指示やフォントや段落などの進化はいいが、「コピペ」や「元に戻す」などあるべき機能が、あるべきところにない。ないのである。これはビルダーの進化のせいでなく、問題は「ワード」のせいでもあり、さらにいうなら筆者の「貧弱なスキル」のせいなのだが、難儀し戸惑っているのはこの「ビルダー」「ページ」だ。(2013/06/10)

 

456『十二詩潮作品()』ホームページ

十二詩潮の作品を以下に2巻掲示する。このコラムの前号につづく作品で、パソコンのメール機能を使って佐藤ふさ子さん、嵯峨澤衣谷さんとそれぞれ両吟を巻いたものだ。

十二詩潮「ダリの時計」の巻 矢崎硯水捌

A面

目を瞑りダリの柔らか時計読む   矢崎硯水

   自分の影を踏んで旅人     嵯峨澤衣谷

汀線の三日月痩せて右ひだり      硯水

B面

   彼方から響く鐘の音         衣谷

窮鼠にも似て安酒を呷る者ら      硯水

一輪挿しの花はむらさき       衣谷

C面

振り向けば闇に煌めくエッフェル塔   衣谷

   歴史の隅には忘れ物あり       硯水

海深くシーラカンスは夢に生き     衣谷

D面

iPS細胞ぜひ私にも        硯水

創られた記憶に積もる小米雪      衣谷

   地軸鎮めて黙す火の山        硯水

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十二詩潮「命の潮路」の巻 矢崎硯水捌

A面

フラスコに透ける命の潮路これ   矢崎硯水

   月の雫を捏ねるパレット    佐藤ふさ子

卜占の旅は最果て山のてっぺん     硯水

B面

   那智の落ち口笹舟揉まれ      ふさ子

苦と楽と龍がのた打つこの世なり    硯水

   「願いましては」で掃う算盤    ふさ子

C面

ルームシェア恋へと進む確信犯    ふさ子

   氷の微笑で雪見大福食べ       硯水

ツイッター溢れパソコン心病み    ふさ子

D面

   撫で仏をなで雨男です        硯水

飾り牛簓鳴らせて花田植       ふさ子

   瑞穂の国の丸やかな「円」      硯水

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『新約聖書』マタイ伝第九章の一節に、「新しき葡萄酒を古き革袋に入るることは為じ。もし然せば袋張り裂け、酒ほとばしり出でて袋もまた廃らん」とある。これは新しい思想や内容を表現するには、それに応じた新しい形式が必要だという意味で、故事諺にもなっている。

筆者、「十二詩潮」という新しい形式(革袋)を考案したのだが、形式を作りたかったわけではなく、新しい「連句詩」(葡萄酒)を表現したかったというのが本心である。ただ結果的に、「葡萄酒」は「革袋」の容量や形状を考えながら注ぎ込んだというが現状だった。手探り、試行錯誤の作句と治定であった。

一句立てでも矛盾や違和を抱えつつ、句から句へ渡るときの三段跳びの跳躍。言葉のもつ語音や余韻やイメージの美しさ。「三句の渡り」の意識と無意識の空中ブランコ。それがABCD四つの面の橋掛かりなって展開してゆく。

言葉は意味と語音、派生するイメージや比喩というバックグランドがあり、そして何よりもこの国には、言葉に宿っている不思議な霊威「言霊」なる語もある。言葉は霊であり魂であるというのだ。

間違いや未熟による「矛盾や違和」でなく、思考をめぐらせた末の「三段跳びの跳躍」であれば霊や魂と触れ合わぬわけがない。

作品の出来映えはともかくとして、そんなことを思いながらの「十二詩潮」都合三巻の付句と治定であった。(2013/05/14)

 

455『十二詩潮作品()

十二詩潮という新形式を用いて初めて連句を巻いた。三神あすかさんとの両吟で、通信手段はファックスを使った。下記にその作品をアップする。

十二詩潮『駱駝の瘤』の巻 矢崎硯水捌

A面

子午線の駱駝の瘤より日は暮れて  矢崎硯水

少年恋うる揺籃のうた     三神あすか

言霊を花片に透かせ散らし文字     硯水

B面

   楕円えがきて遺跡旋回       あすか

神の手に導かれつつ旅するも      硯水

   時代の小枝をつかむ怪鳥      あすか

C面

不倒翁眼を光らせて壁に座す     あすか

   真善美などひた隠す雪        硯水

待ち兼ねの遠国の沙汰届くらん    あすか

D面

   海を山にして兆す胎内        硯水

乾杯は月のしずくへ白ワイン      あすか

   スフィンクスが右に見えます      硯水

                    以上

形式「十二詩潮」について簡単に説明する。

A面・B面・C面・D面の四つの面の長短12句からなり、捌手や連衆の自由な発意で、任意な面に「雪」「月」「花」を詠みこむ。それ以外は季語なし。雪月花によって連句の骨頂を残しつつ、十二句の言葉の響きあう詩潮(ポエトリー・タイドゥ)を最大限に重んじ、疎句を以て非日常の万象に迫ろうとする。一句立ての詩情、四つの面それぞれの「三句の渡り」の変化を尊ぶ――。

たしかに長句と短句が並んでいるが、何がどうつながっているのか分からない。これが果たして連句と呼べるかという疑問や疑念を持つむきがあろう。制作者張本人である捌の筆者と連衆のあすかさんとの、付合での添え書きにさえもそんな遣り取りが交わされ、お互い手探りだねと話した。

――前句の説明をしてはならない。前句の続きを言ってはならない。「親句」は句間の想像のスペースを狭くし、イメージを貧するから避けるべき。しかしつながりのほとんど考えられない「疎句」は、もはや連句とは言えない――。

以上のような見解&論調がいわれて久しい。そして作品集にみえる連句作品も、どこかに既に発表されたような表現や付合や、ある句所では類似の付句が頻発する。大げさにいえば、どこかを任意にちょん切ると似たような付句が飛び出てくる「金太郎飴的症状」に陥ってしまっている。形式や季語や作法などを含めた、従来の連句パターンの病弊が現れていると思われてならない。

十二詩潮はそれら病弊に対するアンチテーゼとして、言葉の意味と響きの美しさイメージの豊かさ、句と句の間合いに通わすイマジネーションを大いに喚起したい。

十二詩潮「駱駝の瘤」の巻はそんな考えを持ちつつ巻いたファックス文音だったが、さて出来映えはいかがだろうか(2013/04/25)

 

454『十二詩潮』

筆者このたび、「十二詩潮」という新しい連句形式を考案した。

十二詩潮は長句と短句の12句からなり、A面・B面・C面・D面の四つの面をもつ。A面は長句と短句と長句、B面は短句と長句と短句、C面は長句と短句と長句、D面は短句と長句と短句と、それぞれの面に長短あわせて3句ずつ、合計12句で構成される。

ABCD四面の任意な三つの面に、捌手や連衆の自由な発意で「雪」「月」「花」を詠み込む。それ以外の季語はなし。雪月花を詠むことによって連句の骨頂を残しつつ、この形式の趣旨たる、十二句の言葉の響きあう詩潮(ポエトリー・タイドゥ)を最大限に重んじ、言葉の力の働きを利して句間のイメージを膨らめ、疎句を以て広く万象に迫ろうとする。非日常的なアドベンチャーの旅を試みる。

さらに加えて、一句立てとしての詩情、四つの面それぞれにおける「三句の渡り」の変化を尊ぶ。雪月花の措き方による発想の自在さを享受する。

破調や字余り字足らずも文学的効果があれば許され、括弧や英文字も排斥するものではない。

新しい革袋には新しい葡萄酒を盛り、新しい詩潮を流し込まなくてはならない。

話は変わるが、筆者数年まえ、「十二指腸潰瘍」になって腹痛に悩まされたが、実はこの病名は後から知ったものであり、レントゲン検査で「あなたは十二指腸潰瘍でしたが治っていますね。その痕跡がありましたよ」とホームドクターにいわれた。病院は好きであるが病院に行くのが大変で、激痛でなかった腹痛を半年くらい我慢しているうちに自然治癒したのだろう。

そんなことから、当初は「十二詩潮海洋」という形式名も思い浮んだが、これは巫山戯すぎと自戒したのであった。

「十二調」という連句形式はすでに存在するが、十二調は裏表などの面はなく、また月花の定座もない。句数は同じでもそれとの差別化を図ったつもりだ。

新しい形式「十二詩潮」で興行を試みたいと、連衆の顔ぶれを想像しては手薬煉ひいている。(2013/04/10)

 

453『連句のことなど()

他方で「読者側」はどうだろうか。連句は一巻を通読して理解&鑑賞するものであり、長句と短句が交互にならぶなか、その句間を渡るイメージや余情を味わい、季節感や式目や規範などを探ることも読むという作業の範疇に含まれる。したがって連句を読むことは多大な根気と努力が求められるのだ。

連句はまた、小説や評論や詩の読者と違って「読者層」のほとんどが連句作家自身だという特質をもつ。だから連句作家は熱心な連句の愛読家かというと然にあらず、恐らく自分や友人や一部の作品しか読まないだろう。

「読まない連句」「読まれない連句」は連句人口が増えない原因でもあり、連句人の端くれでもある筆者の、正直なそして慙愧に堪えない告白である。もっと関係しない連句作品を読むべき。読んで鑑賞すべきだ。ところが物理的に読めない、内容がつまらなくて読めないというのもまた、正直なところである。そんな連句という文芸が抱えている矛盾、あるいは筆者自身も抱える自己矛盾を感じてならない今日この頃だ。

とことで最近、「東京文献センター」主催で、「リンクト・ヴァース・コンテスト」(連句コンテスト)が開かれる。その応募要項では形式自由がうたわれ、12句から24句前後の句数の連句を募集するという。

また投稿規定はデジタル原稿に限られ、推薦作品集は「電子書籍」に掲載される。募吟は紙によらず、出版もまた紙を使わないという形をとっている。

形式自由で一巻の句数を凡そ20句余としたこと、そして電子書籍での出版という点でも賛成である。現代という時代にふさわしい連句の形態、内容をふくめて新しい連句が待たれる。(2013/03/18)

 

452『連句形式のことなど()

各地の連句大会において連句作品が募集される。いわゆる「募吟」である。それぞれの大会の固有名称は挙げないでざっくり言うならば、全国レベルの大会で作品を募る連句大会は、年間を通して大小あわせて8大会くらいであろうか。大きな大会の募集には約800巻の応募があり、小さな大会では約70巻の応募がある。

この他に「三つ物」とか「前句付」など二句から三句のごく短い形式の募吟には1000から2000作品の応募があるようだ。こちらは年間に3大会くらいだろうか。

前者の募集する形式は、歌仙、半歌仙、形式自由が中心である。歌仙は36句、半歌仙は18句。形式自由とは文字通り形式が自由であり、百韻100句でもよく、八十八興88句、世吉44句、二十八宿28句、短歌行24句、スワンスワン22句、二十韻20句、ソネット14句、十二調12句などなど約30ある。新しい形式を考案して応募してもよいわけだ。

連句の句数の長短について・・・募集する側と応募する側からみて、どうだろうかと考える。例えば36句募集側のその選考と作品集の編集刊行はかなりの労力を要するだろう。36句×800巻=28800句を数人の選者が読みこなし、一句だけでなく一巻の表現するものを審査する。かなり大変な作業だ。

応募側も句数が36句もあると、遠輪廻や類語、体言止&用言止の配慮など気遣うことがあまたある。連句は共同制作なので出来るかぎり差し替えや改案は避けたいもの。

これが20句くらいの句数の形式になれば、募集側、応募側とも大幅な負担軽減となる。句数半減なら三分の二の軽減になろうか。(2013/03/08)

 

451『イカっ飛び』

「イカ(烏賊)が空を飛ぶ」。体内にためた海水を体外に噴射するジェット推進で加速し、鰭を使ってバランスを取りながら約30メートルの距離を滑空するところを、北大大学院水産科学院の村松康太さん(海洋生態学)らのグループが撮影に成功した。連続撮影は世界初という。

北海道発のちゃんとしたニュースソースで、「如何様」報道ではない。イカはヤリイカで、さすが院生さんらはヤリ手だ。

イカが飛ぶならタコも飛ぶだろうか。当然ながら「凧」は空高く飛ぶが、墨を吐くほうの「蛸」は重いので飛べない。蛸入道は踊るのが関の山である。なんせ肥満体、プリン体である。

ここで薀蓄を傾けると・・・凧のことを「いかのぼり」といい、季語(新年&春)にもなっている。「いかのぼり」は「烏賊幟」の意で、玩具の一種。ご存じのように、竹で骨をつくり、紙を張り、糸目をつけて風の力で空へあげる。もとは、その形がイカに似たものが多かったことからの呼称という。

ひょっとすると・・・おおむかし、イカが沖つ海面を飛び、あるいは空中を飛翔する情景を漁師たちが眺めたのかもしれない。そしてこれは、「いかのぼり」(いかが空に昇る)だと歓声を上げたのかもしれない。

蕪村の俳句に「凧(いかのぼり)きのふの空のありどころ」がある。(2013/02/08)

 

450『神経質』

神経質で潔癖症の主人公の登場するハリウッド映画がある。筆者お気に入りの二本は「マッチスティック・メン」と「恋愛小説家」で、前者の詐欺師を演ずる俳優はニコラス・ケイジ、後者の小説家を演ずる俳優はジャック・ニコルソン。

小さな詐欺を得意としてこつこつと金を貯め込む「悪い人ではない」ニコラス・ケイジ、恋愛小説を書いているくせに好きな女性に対して皮肉や嫌味しか言えないジャック・コルソン。両者とも人間的で憎めない一面があり・・・

映画のストーリなんぞ、この際どうでもいい。この二人の演ずる役柄が神経質で潔癖症で・・・それが何とも可笑しいというか、身につまされるというか。

当家の状況に置き換え、潔癖症は家人に譲るとして、神経質なところは筆者も人後におちない。家のドアをロックする場合など、一旦ロックして本当にロックできたかどうか開錠し、機能の正確さを確かめてみる。これなら大丈夫と、今度は厳重な思いをこめて改めてロックする。そして「ロックしたロックしたロックした」と三回唱え、しっかりと自己意識に意識させる。

また就寝時に電気炬燵のコンセントを抜くのだが、コンセントを抜いたあと「指差し」で抜いた状況を目視で確かめる。人差し指で時計まわりに円形を描いて三回転させ、円形のなかに電気コードがないことを再確認。これで間違いないと安心して眠りにつく。

他のことには頓着しないと自分では思っている筆者だが、ことドアの施錠と火の元にかけては、こうなってしまった。

・・・「コンセントを抜く」なんぞと書いたが、コンセントは配電を取るための接続器(受け口)なので、ひっこ抜いたら壁に孔が開いて家が壊れてしまう。「プラグを抜く」というべきだった。しかし「コンセントを抜く」と、人はよくいうよね。慣用語には注意すべし。(2013/01/15)

 

449『何かがある』

「喝采」「四つのお願い」「矢切の渡し」「紅とんぼ」などの流行歌で知られる、ちあきなおみという女性歌手がいる。現在は表舞台から遠ざかっているが、いち早く彼女の才能を見出した作曲家の船村徹氏は「彼女は、オタマジャクシ(音符)の裏側を歌うことができるのです。文章でいうなら、行間を読むことと同じことなのです」という。

ものまね、お笑いタレントで知られる、コロッケという芸人がいる。歌手や俳優、果ては恐竜のティラノサウルスや鯉などの声帯模写、形態模写300余のレパートリーをもつ。彼の演ずる模写は、極端な誇張と過剰なまでのデフォルメにより本体(対象)を超越して「別人」「別物」になる、つまり「コロッケ自身」と化してしまうところに特質がある。

ちあきなおみといい、コロッケといい、歌手や芸人という芸能の人間でありながら、芸能という限られた領域を突き破る素晴らしい何かがある。流行り歌や物真似としてのみならず、人間の本質や真理、ひいてはその裏側にひそむ歪みや戯けを覗かせるのだ。

筆者は連句の付句と付句の間のことを「句間」と称している。ちあきなおみのオタマジャクシの裏側を歌うとは「句間」で表現すること。コロッケの誇張とデフォルメも「句間」で表現することにどこかで通じる。

「表現外の表現」にこそ、本質がある真理がある。これを筆者のコラムの掉尾を飾る言葉としたい。(2012/12/30)

 

448『皮を切らせて骨を切る』

連句を巻き進んでいて、凡庸な付句ばかりが並んでしまうことがある。在り来たりの題材で表現に工夫がなく、既発表のものと似たり寄ったり。そこから優れた一巻が誕生するはずもない。

連句は「詩」でなくてはならない。付句は前句との連結において、あるいは打越との関連において、詩精神の働くものでなくてはならない。「詩」の行為とは、既成概念の破壊であり、新しい概念の構築である。新しい題材とその表現である。

これまでに表現されなかったもの、異質な題材や特異な情景は、連句に容易には取り入れられない場合が多い。旧概念にどっぷりと漬かっている立場からは、違和感や抵抗感が頭をもたげるものだ。それは作り手側にも読み手側にもあるだろう。

連句における詩とは、付句一句だけで表される詩、付句と前句との間において醸し出される詩、付句と打越とにおいて醸し出される詩とがある。三句の付け運びを「三句の渡り」というが、三箇所の「詩」の表現が連句の要だ。

連句は他の詩歌よりも形式や式目などが重んじられる文芸であり、共同制作という形態においても、作り手は読み手との共有事項の確認がより求められる。したがって旧概念を打ち壊す「連句詩」は抵抗があり難しいものである。

詩の創作は、ある意味で読み手との格闘技だ。ボクシングだ。読み手の許容範囲のボディーへ言葉のブローを撃ち込み、顔面めがけて俳味のジャブをかます。

「皮を切らせて骨を切る」という言葉がある。相手に自分の皮を切らせて相手の骨を切る。自ら浅手を受けることを覚悟して踏み込み、相手を切り倒す剣術の奥義。(典拠は『葉隠』の「剣術聞書」)

筆者が連句を巻き進むうえでの座右の銘は、「皮を切らせて骨を切る」だ。奇想・珍想・愚想は、当然ながら鼻持ちならないと感じる読み手もあろう。ときにデメリット(瑕瑾)として皮を切られようが、敬遠されようが、新しい詩精神の表現の獲得として読み手の骨をザクッと切る。もう一歩進めて「身をすててこそ泛ぶ瀬もあれ」が、筆者の立ち位置である。(2012/12/28)

 

447『珍薬奇薬良薬』

「良薬は口に苦し」という。病気によく効く薬は苦くて飲みにくい。身のためになる忠言が聞きづらいことをいう。たとえ苦くても副作用があっても、病気や怪我に効いて快癒するのであれば容認できよう。良薬という呼び名の所以だ。

「妙薬」という言葉もある。不思議なほど効き目のある薬。「問題解決の妙薬」というように、こちらも良薬が「身のためになる忠言が聞きづらい」と同様に比喩的にも使われる。

「珍薬」という言葉は一般的にほとんど通用しない。インターネットで検索すると、中国の珍薬とか、いかがわしい薬品に冠したものがヒットするくらいだ。一方で「奇薬」は不思議によく効く薬のことで多くの辞書にも収載されている。妙薬に近い言葉だ。

「民間薬」という言葉は民間療法で使用される薬物をいう。民間薬はその土地にある動物・植物・鉱物などを利用するため、民俗や地域によって独特のものがある。珍薬・奇薬は民間薬にあるといってよいだろう。

「雀の脳みそ」は「霜焼け」に効くといわれる。霜焼けは強い寒気にあたって局所的に生ずる凍傷のこと。遡ること70余年前、幼かった筆者の姉君はひどい霜焼けに悩んでいた。手の甲が赤く腫れあがり一部は血がにじんで痛々しいものだった。

父上は「つて」を頼って雀を数羽手に入れ、羽を毟って丸裸にし、小さな包丁で雀の頭を割って白い脳みそを取り出す。それを姉君の患部にあてて包帯をきりきり巻いた。薬効のほどは分からないが、数回試みたから多分効いたのだろう。頭以外は串に刺し、焼鳥にしてみんなで食べた。

余談ながら、京都・伏見稲荷の名物は雀と鶉(うずら)の焼鳥だそうな。雀は骨が柔らかいので丸ごと食べられるが、親指大の頭を齧ると白いトロッとした汁が出る。それが俗に脳みそと称されるもの。脳みそは治療に使ったため、筆者は「脳なし」の雀しか食べなかったが・・・。

「おしっこ」は蜂刺されに効くといわれる。これも筆者の少年期のこと、庭で遊んでいて手指の部分を脚長蜂に刺された。チクッと激痛がはしったので、咄嗟に自分のおちんちんを引っ張り出し、尿意の許す限りおしっこをかけた。

おしっこのアンモニアが蜂刺されに効くと、当時のこの地域ではひそかに喧伝されていた。おしっこの薬効かどうか分からないが、痛みや腫れは二三日で引いた。

ネットで調べると薬効なしが多数派だ。おしっこは無害で飲んでもいいという医者と、雑菌だらけで飲むのは以ての外という医者とがある。(2012/12/20)

 

446『デルタ万年筆ドルチェ・ビータ』

「ピンポン、ピンポン」とインターホンが鳴って、飛脚の佐川急便の兄さんが現れた。愛想なしで一見、警視庁重要指名手配犯のようで怖いが、声が意外と幼くて朴訥な青年にみえてくる。

先達てのクロネコ・ヤマトの兄さんは逆に愛嬌があり、玄関に飾ってあるポール・セザンヌの「たまねぎのある静物」を眺め、「いい絵ですね。私は絵が好きで、ついつい見蕩れてしまう」とうそぶき、判子を貰うと別れを惜しむように絵を見上げながら帰っていった。

前振りが長くなってしまった。佐川急便の紙袋の中身は、DELTA(デルタ)dolce vita(ドルチェ・ビータ)の万年筆だった。オレンジとブラックのツートンカラーのそれは、黒い天鵞絨(ビロード)を敷きつめた小筥(コバコ)にしゃれっ気たっぷり、ちょこなんと収まっていた。

デルタはイタリアの万年筆メーカー。ドルチェ・ビータのボディー(胴軸)は、地中海の輝く太陽のもと、鮮やかなオレンジのレジンのブロックを伝統的な職人が手仕事で製作したもの。色彩のコントラストといい、太短いボディーといい、天衣無縫、陽気で猥褻で、ちょい悪なイタリア男を髣髴させる。

この万年筆は息子夫婦が贈ってくれたもの。そして以下のコメントが添えられてあった。

「年寄りへの贈り物といえば縁起担ぎの鶴や亀は定番だ。鶴は千年亀は万年。婉曲な表現も洒落ているけど、万年筆は品名にそのまま万年とついているのだからメッセージとしてよりわかりやすい」。

車や時計とならんで、男の好きなものの一つである万年筆。わけても物を書いたり「詩歌句」を書いたりする筆者にはありがたいものだった。デルタ万年筆の醸し出すアトモスフェアからして、焙煎珈琲を啜りながら、あるいは葉巻を燻ゆらしながら、淫靡で屈折した愛の詩を書くにはもってこいである。幸い筆者には温めている題材がある。

添え書きはつづく。「『ドルチェ・ビータ』、イタリアの言葉でドルチェは甘味。ビータは命を指す。あわせると『甘美な人生』といったところだろうか。筆記用具につける名前とは思えない、いかにもイタリア人らしい放埓なセンスだ。同名の古いイタリア映画には『甘い生活』という邦題がついていた」。

――「ドルチェ・ビータ」の試し書き、試筆をこころみる。ペンの穂先をインク壷につけ後ろの可動部をねじってインクを充填し、葉書に向かって即興の俳句をかきなぐり、息子夫婦宛のそれをポストに投函した。

・幸不幸天秤にかけ喜寿の冬

・花もなき漢の喜寿へ雪の花

添え書きは更につづく。「朗らかさと健やかさの隠喩としての華やかな万年筆で名前が『甘美な人生』。長くて甘い人生なんて胃もたれがしそう?この甘味は血糖値に響かないのでご心配なく」。

「冬」も「雪の花」も「甘美」とは言い難いが、かえりみれば筆者の「文芸する心」には、猥雑なそして邪曲な妖魔のツールが仕掛けられている。ある意味それは、姿をかえた「甘美な幻視」なのかもしれない。(2012/12/14)

 

445『自句自解()

・短日や猫の小鈴の鳴ることも 硯水

冬の日は短く、夕暮れが早くなる。いちにちがすぐに暮れてしまう。「短日」は日短し、暮早し、とともに冬の時候の季語だ。

猫の首環に鈴をつける話は『イソップ童話』で夙にしられるが、日本ではいつころから猫を飼い、猫の首に鈴をつけたのだろうか。猫は平安時代に飼いはじめ、江戸時代には鈴をつけることが流行ったとされる。

江戸時代の『本朝食鑑』(1695年)という書物には、「本邦古来宮中多く之を愛す。頸に錦繍を纏ひて金鈴を著け、或は之に名づくるに美称を以て喚び、懐抱し之を弄す」の記述がみえる。猫の首の小鈴が妙なる音を鳴らして遊ぶさまは可愛いが、聴力が人間の三倍といわれる猫にとっては傍迷惑なことかもしれない。

さて掲句だが、下五の「鳴ることも」には「鳴ることも原因(事由)のひとつ」という言外の言がこめられる。つまり「日暮れが早い」のは猫の鈴が忙しなく鳴るためであると、非論理な理由で牽強に関連付ける。そこに暗に因果関係があるかのように決めつける。

時候の変化という外的なものと、鈴の音にかかわる聴覚という内的なものをぶっつけて、そこに「俳句詩」をみつけようとする。

  時の日や鸚鵡は過去を饒舌に  硯水

「鸚鵡」はインコ目オウム科の鳥で、嘴が太く厚く著しく湾曲している。アフリカ、オーストラリアの森林に棲むが、多く人に飼われ、口まねが巧みなことが知られる。また『礼記曲礼上』に「鸚鵡よく言えども飛鳥(ひちょう)を離れず」とあり、「鸚鵡は人の言葉をまねてうまく話すが、やはり鳥であることに変わりはない。口先ばかり達者で実際の行動が伴わない人は、鳥獣と変わらない」の意味。

鸚鵡がぺらぺらと饒舌にしゃべる過去は、当然ながら鸚鵡を飼っている飼主の過去である。鸚鵡は飼主の過去を「鸚鵡返し」しているにすぎない。自慢話を交えつつ懐かしそうに過去をしゃべる人がいるが、必ずしも聞いている人の心にひびくものではない。「飛鳥を離れず」「鳥獣と変わらない」のだ。「時の日」の時間軸という概念のなか、鸚鵡のおしゃべりの声と、飼主の過去が悠揚と流れ、あるいは虚しさと停滞を見せつつ流れてゆく。

・いと高きに登るも谺聴かぬなり  硯水

「高きに登る」は仲秋の行事の季語。中国の故事に重陽の日に高山に登る風習があった。いまは廃れているが、敢えて現代に当て嵌めれば、さしずめ秋晴れの日にハイキングに行くことなのだろうか。

「谺」は「木霊」の字を当てて樹木の精霊をいい、木の魂をいう。また「山彦」も類語で山の霊、山の神の意をふくむ。高きに登れば身のほとりで「谺」が聴けるはずだが、どうしたわけか聴こえない。聴こえないのは聴こえるはずという先入観が邪魔するのか。あるいは「現場」では逆に聴こえないものなのか。寓喩をこめる。

俳句は嘱目写生だという結社が多く、机上作は敬遠され莫迦にもされるが、筆者は俳句は机上で創るものと思っている。以上の自句自解には跡付けの解釈もあるが、だんなものだろうか。(2012/11/20)

 

444『自句自解()

・句も飴も舌にまろばせ四月馬鹿

・短日や猫の小鈴の鳴ることも

・時の日や鸚鵡は過去を饒舌に

・いと高きに登るも谺聴かぬなり

筆者の作句による以上の四句が、インターネット上に流れている。「矢崎硯水」で検索すると、ランダムな順番でいきなりぬっとヒットする。例句集とかいうタイトルで、芭蕉、蕪村、一茶から楸邨、秋桜子、万太郎、はては竜之介、漱石など錚々たる人物、また一般人らしい作者名もまじって掲載されている。

上記の四句は筆者が俳誌「くさくき」に所属していた頃の作品で、選ばれて俳句の総合誌に収載されたらしい。なんという総合俳誌かも覚えていないが、恐らく公器であるその雑誌に収載されたことよってインターネットに開示・陳列されたものだろう。

筆者は八歳から俳句を詠んで、これまでに凡そ二万句を作った。俳誌は「草茎」「くさくき」に属し(現在は脱会)、五大紙の全国版や地方版の文芸欄の俳壇にも掲載されたが、二万句中で気に入った俳句は10句くらい。冒頭の四句はそのなかには入らないが、一般受けはするだろうと思う。捨て難いという程度の作品ではある。

俳句の友から「ネットで俳句を読み、良い句と思いますがちょっと分かりにくい」というメールをもらった。自句の解釈なんて真っ平様だが、返答に代えて簡単な「自句自解」を書いておく。

・句も飴も舌にまろばせ四月馬鹿  硯水

筆者は自分が呑気なのか短気なのか、自分の性格がよくわからない。滑舌がわるいのでスローモーな喋り方の他方、飴を頬張ると溶けるのが間怠っこしく、すぐに噛み砕いてしまう。先だっては煮豆を抓んだ箸の先を10ミリほど食いちぎって飲み込んでしまった。

俳句もだが付句もまた語調がいのち。連句は懐紙の字面(じづら)のほか、語調の美しさを賞玩するものと考えるので、ときには意味よりも語の形と語の響きを優先する。

「舌にまろばせ」るのが、お前らしい行為なのさ。嘘の許される四月馬鹿を逆手にとって、お前らしい真実のための決意をせよと、自分で自分に言い聞かせる。そんな屈折した句意をこめたつもり。むろん芭蕉の「句整はずんば舌頭に千転せよ」(「去来抄」)を下敷きにしている。(2012/11/13)

 

443『死と生と』

9月20日に筆者の次兄が亡くなった。そのことについては当コラムの438回「今わの際」というタイトルで書いたばかりだが、11月6日に今度は四つ年下の弟が亡くなった。癌を患っていて余命が少ないことは知っていたが、立て続けに二人の兄弟を失ってしまったことになる。

筆者の兄弟姉妹6人、家人の兄弟姉妹6人、その連れ合いを含めた合計は24人いて(いたが)、これまでに3人亡くなってしまった。全員が70歳前半から85歳くらいなので幽界婿入り、嫁入りの「適齢期」と先号のコラムで書いたのだったが・・・

今年は筆者も、筆者の親族でも大きなこと、それも不幸なことが起きた年である。筆者は救急車で救急救命センターに三回も運び込まれて入院・手術し、親類の二家族が戸主を失ったのであった。

死とはなんぞや、ひるがえって生とはなんぞや。悲嘆や哀悼もあるがそれとは別に、死と生のねじれからまり、メビウスの帯状の「死生観」、考え方が渦をまいている。残り少ない余生が、このままでよいかとも?(2012/11/09)

 

442『現代連句の評釈』

インターネットを検索していたら、週刊「川柳時評」というブログに出遇い、そこに如月和泉のペンネームで小池正博氏が次のような文章を書いていた。河童連句会の作品である「埴輪馬」の巻が採り上げられており、また連句界にとって示唆に富む提言があるのでここに転載させていただく。なお前略、中略することをお詫びします。

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昨年の京都に続いて、応募作品の選者を務めさせていただいたのだが、今回の募集は二十韻という形式であった。二十韻は東明雅の創始による、表4句、裏6句、名残の表6句、名残の裏4句の連句形式である。742巻の応募作品を読むのは貴重な経験でもあり悩ましいことでもあった。「入選作品集」の「選者のことば」の中で私は次のように書いている。
「応募作品を拝読しながら考えたのは形式と内容の問題です。二十韻という形式にどのような内容を盛ることができるのか、どこが読みどころなのかと自問しました。付けと転じを生命とする連句精神は同じでも歌仙と二十韻では違いが出てくるのは当然です。異なった皮袋には異なった酒。しかし、二十韻相互の間では、二十句の組合せの中で独自の世界を構築し、差異を際立たせるのはなかなか困難です」
その結果、私が特選に選んだのは「埴輪馬」「白梅に」「仏徒なり」の三巻である。そのうち「埴輪馬」の巻(矢崎硯水捌)の前半を紹介する。
  埴輪馬いざ駆け出さん秋の風
   篁さやぎ新涼の楽
  観月のヴィラの上座に招かれて
   衿のバッジが誇り高くも
ウ 俳諧の鳴門海峡わたる旅
   渦潮に似て想ひ渦巻き
  素粒子が育ってぽんと腹を蹴り
   笑まひ絶やさぬ盧舎那仏像
  雪催ひ利休鼠に昏るるらん
   ペチカが燃えて偲ぶ鉄幹
この作品を選んでいるのは私だけである。そういうとき、選者としては選に失敗したかと自信を失う場合と、自分だけがこの作品を認めたという自負をもつ場合とがあるが、この場合は後者であって、「選者のことば」には次のように書いている。
「私は平句のおもしろさに注目していますから、『埴輪馬』の『渦潮に似て想ひ渦巻き/素粒子が育ってぽんと腹を蹴り』の付合が嬉しいです。ここには自在な俳諧性を感じます。『白梅に』は、蕪村を下敷きにした発句にはじまり、西洋的素材と日本的素材のバランスが心地よいです。『仏徒なり』は何といっても発句のおもしろさですね。私たちは連句を作ることに熱心ですが、連句を読むとはどういうことなのだろうと改めて考えさせられました」
連句の評価について、東明雅が示した次の基準が比較的広く踏襲されている。
@一句一句のおもしろさ
A前句と付句との付心・付味のおもしろさ
B三句目の転じのおもしろさ
C一巻全体の序破急のおもしろさ
しかし、これを実際の作品に適用して評価を決めようとするのは容易なことではない。「おもしろさ」と感じるところは人によって異なるから、結局は読む者の言語感覚によるしかないのである。どこかで見た陳腐な表現と受け取るかどうかも、ふだんその人の読んでいる範囲によって違ってくることがある。

作品の読みが意識されることは連句批評への第一歩である。連句においても読みの時代が始まりつつあるのではないか、そんな感想をもった。

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「芭蕉俳諧」について、芭蕉は確かに優れたものを遺しているが、幸田露伴や安東次男などの評釈があり、評釈あっての芭蕉の偉大さが強ち否定はできない部面もある。現代連句には評釈が皆無に等しいが、評釈する値打ちもない作品ばかりかというと筆者にはそうは思えない。氏が言われるように「作品の読みが意識されることは連句批評への第一歩」であり、現代連句に対する批判性、評釈が待たれるのである。

各地の連句大会の選考や解説や評価は単なる好き嫌いだけでなく、詩的文学的な基盤からの眼力、そして評価が必要であろう。その延長線上に評釈があろう。そして、評釈はまた優れて文学であるからである。(2012/10/28)

 

441『大誤報?』

米ハーバード大客員講師を自称する、日本人科学者の森口氏による「世界初のiPS臨床応用」「心筋移植に成功」の報道には度肝を抜かれた。しかもノーベル医学・生理学賞の山中氏の報道につづいて間髪を容れぬビッグニュースである。臨床例も六例あるとかで(のちに一例に訂正された)患者の術後の経過も良好という詳細まで流れ、これはノーベル賞の三つくらいに値するというお負けのコメントを付するメディアまであった。

ところが10月14日現在の状況は新聞やテレビの報道に見るように、森口氏の発表に対する疑義や異論が噴出し、ハーバード大はじめ名前の挙がった大学や病院の研究機関などもiPS臨床の否定や弁解にやっきとなっている。

一面トップで報じた読売新聞や、それを後追いした共同通信は勇み足を修正する記事をつぎつぎ掲載し、詫び状や訂正文までぶった。取材はしたが「ウラ」を取るため一部しか報道しなかった朝日新聞などはほっと胸を撫で下ろしている。

大嘘か大誤報か。これはある意味で「マスメディア論」的にはグローバルな未曾有な「事件」であろう。こんな破天荒な「騙し絵」に報道関係者は騙されてしまうのであろうか。信じてしまうのであろうか。そして視聴者も読者も、これまた同じように信じてしまうのであろうか。

これら「騙しのテク」のキーワードは、ハーバード大、東大先端科学技術研究センター。さらに鏤められた客員、特任教授、講師、研究員、交流研究生etc。肩書きにこのような「ブランド名」が冠せられると、マスメディアはころりと騙される。一般の人間もころりと騙される。

冒頭の「ハーバード大客員講師」は詐称らしく、実際は「ハーバード大客員研究員」で一ヵ月限りにおいては事実という。日本での森口氏の経歴や研究も事実と虚偽の部分が入り混じっているそうだが、これがことを一層厄介にしている。

東大病院の管理・研究棟の会議室にて・・・森口氏は「バクバク拍動する心臓に注射をするとオオッてなる。手に来る震動がすごいんよ」と。そして6秒の動画やノートパソコンや冷蔵庫のような実験結果らしい箱を、朝日新聞の取材記者の示したという。(朝日新聞10月14日付)

ラフな出で立ちで多少ぞんざいな口調で対応すると、ハイレベルの仕事をしている人は日頃の強烈なストレスによって、そうした頓着しない態度をとるのだろうと、へんてこな先入観を持ってしまうものらしい。

もしも「iPS臨床応用」がとどのつまり虚偽と断定された場合、筆者は森口氏よりも騙されマスメディアに大いなる問題があるように思えてならない。(2012/10/14)

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