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     連句のコスモロジー

                ―言語と唯識とー

        矢崎硯水

連句の楽しさ面白さはどこから来るのだろうか。捌や校合など悩みは多いのだが、おもしろくて漫ろに楽しい連句の源泉はいったいどこに存在し、何と名状されているものだろうかと考えることがある。連句には不思議な力がひそむものらしく、魔力、連句力ということばを耳にするがそれは果たしていかなるものか。

連句の式目や作法は煩瑣(はんさ)でわかりにくく、わたしの携わる現代詩の仲間たちは連句には初心なので、連句人ならとうに承知のことを訊ねてくる。

たとえば折や面について、フォルムに境界を設けて折端、折立という必然性はなにか。神祇だ旅体だ人名だと項目(アイテム)から句づくりさせ、発想の妨げになるようなことをするのはなぜか。恋の句を出せ恋離れせよ、ここらで酒を出せと強要するが、詠み手にまかせたらどうか。さらに夏の句のあとに春の句が付けられると自然の法則に反するという。これらに対して縷縷述べると得心がいくようだし、季節の不順ということも、句と句の間は三年否千年経過しているかもしれず、自然のめぐり通りでないと教えると理解してくれる。

さて、連句に少なからざる興味を示すかれら詩人たちのためにもいささかふれて置きたい。

ご承知のように「三句の渡り」は、「A句~B句~C句」の三句のつながりをいうが、これがもっとも難しいところであり面白いところでもある。AとBは何らかのかたちで付いている必要があり、BとCも付いていなくてはならないが、AとCは逆に離れていなくてはならない。

ここは磁場にたとえることができる。ことばの語感や意味等が互いに引きあう磁力と斥けあう磁力となっている場所で、しかも定められた長句、短句という形体のボリュームを保ちながらそれぞれのエネルギーがぶっつかり合い与奪しあい、収まるべきところで渦巻きをおこす。科学的な原理なら一定方向をさすが、付句は独特のハドロン・レプトンの相互作用から予期しない変転をみせ、凝縮された語というほかに、つながりとしての変節を余儀なくされ、慣用になれきらない異化効果を生むこととなる。ここでは散文はむろんのこと短歌などの韻文にもみられない気韻が生動し、新しい詩的発酵が醸しだされるのである。

決められた方角でない走り方、飛び超えた句を認識するむすびつき方は、じつは連句が擁する固有のメカニズムで、三つ物などの短い形体であれ百韻など長い形体であれすべてこの力学のもとに収斂される。ここは真髄というべきところで、作品のどこをカットしてもそうした姿が眺められ、歌仙ならば三十六歩、一歩も後退せずに進行するのがよろしいというのである。もっとも、そんな作品に出会うことはきわめてまれなのであるが・・・。

頌歌や牧歌の類でヨーロッパやアジアにも短い詩は認められるが、このようなメカニズムの詩形はなく、その意味で連句は世界的に稀有な文芸といえよう。しかしメカニズムがいかに優れていてもメカニックがへぼでは成功はおぼつかなく、わたしたち連句人一人ひとりは「パロール・メカニック(言葉の匠)」を目指さなくてはならない。

 

去嫌だ留め字だ自他場だとか、初心ならずも煩わしいものだ。しかしひとたび修得してしまえば手がかり足がかりとなって想が発しやすく、すでに抽出しのありかが分かっているのだから、自分の抽出しをかき回して自分らしい個性が取り出せるし、名付句もうまれるというもの。

式目については古人のさまざまな教えがあり、書き残されている。現代の連句人も連句グループもまたさまざまな考え方があって主張をする。その主張のもとで連句ライフをエンジョイしているのだが、他派と一座して考え方の相違に気づくことがあり、そんなときは垣根を低くして相手と歩調を合わせもする。「でも、わたしはこんなふうに思うのです」などと言いつつ・・・。

連句大会で意見の違いから刃傷沙汰におよんだという話は聞かないし、極端な違いでないからひと括りにくくったらどうか。現代人にわかりやすい統一したものを作り、簡略なハウツー本を出したらどうかという話もある。それも一面ではたしかによい。しかしながら、矛盾することながら、式目に対するグループや個々人の考え方の乖離と反発、そしてそれへの対応の仕方は、じつは連句の営為にとって大変重要なものだとわたしは考える。

式目はいうなればカノン(基準)だが、連句人は堅持するにせよ異論をさしはさむにせよ大いに関心をもっている。季の句数や五句去りのこと、観音開きのこと、どんな類例でもよいのだが、古来より俳書や口授を通してあまた残されてきた。そして現代でも多くの意見が述べられ、見解に対して異を唱える人びとやグループがある。

年月をかさねて検証されてきたはずが強固な俳諧の礎とならず、おおよその潮流として小異を残し、中異を抱え、大同につく流れのもとに淘汰される。それは揺揺するやわらかな物体のようだ。こちらから突けばゆらゆらと揺れて向こうへ、向こうが押し戻せばぐらりとこちら側に傾いてくる。形状はたしかに確認できるが掴みどころがなく、仮に掴んだところで確固たる手応えもない、喩えればこんにゃくみたいなもので、「こんにゃくカノン」といえる。

このような可塑性が不確かさ曖昧さにつながり、解釈次第でいかようにも解釈できるファジーな「装置」となり、これが連句を連句たらしめる。海図なき航海、ストーリーなきドラマである連句はうっちゃって置くとあらぬ方向に向かってしまい、ぐずぐずに崩れてしまう。あまり頼りにならない「こんにゃくカノン」ではあるが、これがうまく機能することで付けと転じがスムーズにゆく。

わたしたちは日日の暮らしのなかで憲法を気にかけて生きているわけでなく、六法全書に抵触せぬようにけんかを控え、悪さをセーブしているわけでもない。願わくは法律はいらないが法律がなかったらどうなるか、心配の点なしとしない。へんな言い方だが意に介しないように在るというあり方もある。連句の法律である式目もこれに似ていて、首っぴきで照合・検証するのでなく、座右からすこし離して横目でちらちらと確かめるくらいのスタンスがよろしいのでは。式目を必要以上にあげつらうことは式目のための式目になってしまい、詩の活性をそぐこととなる。❘重視と軽視とジレンマがあるのだが・・・。

韻文は散文にくらべてメッセージの送り手と受け手のあいだが比較的濃密である。マイナーな詩誌や歌・句の結社など、かぎられた仲間への配布、一部公器への宣伝活動くらいのものだが、連句はさらに極端で小さなパイの狭い間口(奥行きは深いが)からの媒介だ。したがって読み手の享受能力にゆだねられる部分が多く、読み手とのイマジネーションの共有によって成り立つ。(座の文学についてはここでは置くとして)作品としての文学性は解釈や評釈によって引き出され、位置付けられるといっても過言ではない。選句が作句に劣らぬ創造といわれるように、連句の読み手もまた創り手でなくてはならず責任がきわめて重い。連衆が丁々発止とやりあうさまをよく格闘技にたとえるが、連衆はむしろみえない読み手との格闘技といったほうがよい。

 

ことばは近時、「一次的には音声、二次的には文字を用いて、感情、情報、要求などを伝える機能を果たす、社会習慣的に定められた記号の体系」といわれている。言語史のよりはじめを探ることで言語のいまに光が当てられることがある。

ジャン・ジャック・ルソーは『言語起源論』のなかで次のように述べる。

「最初の人間達の言語活動は幾何学者の言語であったとされるが、我々はそれが詩人の言語であったと見る。なぜならば、人はまずはじめに推理したのではなく、感じたのである。具体的な必要を表わすために人間は言葉を造り出したと主張されているが、そうした考え方は私には支持し難いように思われる」。

さらにルソーは次のように叙述する。

「人間にものを言わせる最初のきっかけとなったのは情念であったのだから、最初の表現は転義的であった。比喩による言語活動が最初に生まれ、本来の語の意味は最後に見いだされたのである。人は事物をその本当の姿で捉えるまでは、真の名で呼ぶことはなかった。人は初め詩的に語るだけだったのであり、論理立てて考えることを思いつくのはずっと後になってからだった。・・・人々が言葉を置き換えるのは、観念をも置き換えているからにほかならないからであり、さもなければ比喩的な言葉の用い方はなんの意味もないだろう」。

「最初の表現は転義的であった」「人は初め詩的に語るだけだった」とは、たいへん示唆に富む。

コミュニケーションの手段はことば以外にもいろいろあるが、ことばは他の方法よりも深遠な意味や内容の伝達性・媒体性にすぐれている他面で、機能が複雑で入り組んだ構造をしている。確実に伝えるためになされた表明がときによって意図に反する方向に向かったり、過不足になったり誤作動が生じる。そして多くの同義語をしたがえて反義語を背後にちらつかせ、両義語で意味を左右にゆらしながら反語であざやかな一撃を食らわす。逆説を弄し文節をがらりと組み換え、たとえれば、リバーシブル・ブルゾンのように両面のおしゃれができる恣意的怪物なのである。

言語や文節、なかんずく単語は体系というツールボックスのなかにあって任意に引き出しやすい「インデックス機能」が備わっているもののようだ。知識、情報、歴史の取り出しや貼り付け絞込みもたやすくできるのだが、連句という表現運動にからめて考えてみるに、連句のモチベーション機能がことばの擁するインデックス機能とうまくマッチし、現代詩、短歌、俳句etcよりも「隠匿物としての言語」という点ですぐれた有効性を発揮する。

わたしたちは事物に対してあまたの意味を付与する習性があり、本来的な語意に加えてプラスアルファーさせ増幅させる。ひとつのことばは時代とともに、使用されるごとにリニューアルされ多様性をもちはじめ(同時に欠落もみせはじめ、本来は死滅しないのだがメディア的には死語という墓場も用意され)、わたしたちの「背景知識」のチップとして積みあげられてゆく。

ルソーを援用すれば、ことばは観念(イデア)であり、その置き換え作業がすなわち詩であり連句である。比喩的な置き換えが連句ということになる・・・。

繰り返しになるが、深浅は当然あるけれどことばは容器であり入れ子構造であり、IT的に述べれば、コンピューターで掲示のアンダーラインの箇所をクリックしてリンクすれば、オブジェクト・プログラムに連結し実際にプログラムが使用可能になるような機能をもつ。

 

季題について考えてみると、季題には「時候」「天文」「地理」「生活」「行事」「動物」「植物」などに分類(別の分類法もある)されていて、多くの天然現象や動植物が列挙されている。また歴史や祭事や人間の暮らしに関わることなど広い網羅ぶり。ここを糸口として自然を眺めたり、懐旧に耽ったりできるのだが、季題の側からわたしたちに問いかけてくるテクスト、美意識のテクストであり、アクセスして表現の現場へ参加できるシステムでもあるのだ。人間が自然に目をむけ、また自然に分け入るとき動植物の多くにアニミズムに通じるものを感ずるのは、季題の果たす効のひとつともいわれている。(季題とアニミズムの委細は稿を改めるほかないが・・・。)

データの宝庫というべきファイル(記憶装置)で、同時に実作者にとってはツール(表現用具)でもある季題。周知のように季題とは季節を示すために詠みこむように特に定められた連句、俳句の語であるが、一句として独立した俳句より四季の斡旋による有機的なつながりにおいて、連句のほうがはるかに広くて深い世界をとりこみ、構築をみせるはずである。

余談になるが、さいきん新季題として「パソコン」「コンビニ」「ゲームセンター」などの無季や通季を収載する歳時記が話題になっている。いまはたんにキーワード的な語にすぎないように思われるが、生活にしみ込んで煮詰められてゆくことで、概念が蓄積され内蔵されてゆくことで連句にとっては得がたい用語になるかもしれず、歓迎すべきことかもしれない。

 

付合は即かず離れず、不即不離がよいとされる。不即不離とは、二つのものが付きもせず離れもしないデリケートなつながりをいう。親句・疎句という語もあり、親句は前句が詠じた世界の内容にたよってつける付句をいい、疎句は前句の詠じた世界の意味や姿から離れたところにつける付句をいう。不即不離のニュアンスからは親句・疎句どちらもよろしいとはいえぬようだ。

『連歌比况集』に、「蓮の茎。・・・前句を離れずして、而も離れ〴〵て離れぬやうに有べし。さればこそ連歌を付けるとこそいへ、離すとは云はぬものなれば、付かぬをば如何で連歌とは申べき。・・・蓮の茎を引切て見るべし。切れば切れ安くして而も其糸絶る事なし」。

と記述される。

また『去来抄』には、「支考曰、付句は付るもの也。今の俳諧、つかざる句多し。先師の曰、句に一句も付ざるなし。去来曰、付句はつかざれば付句にあらず。付過るは病也」とある。

さらに「夜の鐘=見えないが響きあう」、「根をきる=前句の根っこを断つ」の口伝もあり、付合は俳諧師の心血を注ぐところであったらしい。

現在の連句は、「移り・響き・匂い・位」の芭蕉の流れをくむと考えるのが一般的だろう。しかしその理念が必ずしも理解され認識されているとはいえず、継承されているとも言いがたい。引き継いで加えるものがあればくわえてよいし、進化があってしかるべきだろう。蕉風がすばらしいことは言をまたないが蕉風一辺倒はどうか。文学に唯一絶対はあってはならず、批判性が失われてはならぬ。詩のフレーズに「文芸は神々の晩餐のデザート」と歌われるが、いろいろな食味のデザートがあって悪いわけはない。

 

「唯識」という仏教の述語があり、『十地経』に「この三界は心よりなるものにすぎない」ということばがある。「自己およびこの世界の諸事物は、わたしたちの認識の表象にすぎず、認識以外の事物は実在しない」の意味だ。

唯識の自己八識と称する広義の意識作用は、第一眼識(視覚)、第二耳識(聴覚)、第三鼻識(嗅覚)、第四舌識(味覚)、第五身識(触覚)、第六意識(知・情・心)、第七末那識(自覚されない意識で我執の源とも)、第八阿頼耶識(前世をふくむ記憶・経験・体験の基底)をいう。

第一の「眼識」から第五の「身識」までを五官(五感)といい、これに第六の「意識」を加えた六つを「表象の自己」とし、さらに第七「末那識」、第八「阿頼耶識」の二つの「深層の自己」をプラスして八識となる。

唯識はインド大乗仏教思想のひとつの頂点とされ、その理論は四~五世紀にかけてアサンガ(無着)とヴァスバンドゥ(世親)という二人の兄弟によって体系づけられる。

「この三界は心よりなるものにすぎない」ということ、すなわち「すべてである心」ということ。わたしたち人間の心がいかなるもので、どんな仕組みになっているかが深く追究される。

これまでも「五官」に「意識」をあわせた六識のベース以外の理解のおよばない基底がいわれてきたが、末那識や阿頼耶識がつかまえられ、深層が理論づけられ体系づけられ、心の深甚がじょじょに解明される。無意識といえばまず西欧の無意識が思いうかび、次にフロイトの学説が連想されるのだが、フロイトよりはるか以前に深層心理学に通じる理論が耕されていたのである。

フロイトは人間の心の深層には(イド・エス)原始のエネルギーが充ち、本能にちかく貯蔵されるそれらを性的衝動、リビドーと呼んだ。そして後期の衝動論的には自我リビドーというものが考えられるようになり、意識内で対立・矛盾する意識や前意識や個人的前意識、すなわち自我・無我のレベルの層を還流するとした。

人間の心を階層構造のモデルでとらえるという点について、フロイトと唯識ははじめから一致していると、岡野守也氏はその著書『唯識のすすめ』(日本放送出版協会)のなかで書いている。

氏は「唯識の全体像」として、「空」「一如」「二空」「三性」「四智と八識①②」「五位」「六波羅蜜」「無住処涅槃」をあげ、「空とは決して「何もないこと」ではありません。私たちのふつうの意識・常識では、何かもの(者・物)は、それ自体として、ほかのものと関わりなく、いつまでもあると思っているけれども、ものは「そういうふうには存在していない」。それが、「空」の意味だと思います」と述べる。

また「一如」とは、空とそのままつながっている真如・一如だという。「私たちが、花そのものが分離・独立して存在していると思うのは、常識的には間違いではありませんが、深く考えていくとやはり間違いである。本当によく考えていくと、ものはすべてつながり合って起こっている。このことをご存じの言葉で「縁起(えんぎ)」というわけです。・・・すべてのものは縁によって起こっている。つながりの中で起こっている」。

「六波羅蜜」では、自分がいて人がいて物があってという分離的なばらばらの捉え方をしがちでそれを分別知といい、いろいろな問題の根っこにある。一切を分けて捉えない、分別しないという心の状態を体験しなければならず、それが修行であり禅定・瞑想であるとする。

「無住処涅槃」では、「自分を自分だけで捉えるという狭い見方で見ていますと、死んだらそれですべては終わりということになります。・・・大乗仏教❘唯識は、そういう、生と死の対立・断絶のある世界や生死が果てしなく続く輪廻の世界を超えることができるといいます。・・・この世とあの世、どちらをも自分の固定的な住みか・住処としてしまわない、どちらにでも自由自在にいられる、行き来できるような生き方・心のあり方があるというのです」。

そして当該書籍の小見出しに、「心があるから世界がある?」「全宇宙なしには私はいない」と書き記す。

 

絵画や舞踏や音楽など言語によらない表現もあるが、ことばを用いての表現はことばによるさまざまな意識が直截付帯するとともに、二歩、三歩と遊離して付帯する場合とがある。事物に対する意識とことばの機能に対する意識と、二つの構造を認めることができると思う。

わたしたちはことばを知っている人間であるがしばしばことばをうしない、五官だけの状態に置かれる。そのような状態にあるときもことばの働きを意識せざるを得ないのであり、いわば言語意識、内的表現欲求というものがあるのである。

「ことばは観念(イデア)であり、その置き換え作業がすなわち詩であり連句である」。

とわたしはさきに書いた。何かを伝えなにかを訴えるということは意識的なことだから、ことばは意識するところから発するが、わたしたちが「夢遊モード」にあるなら、いまだことばの体をなさないどろどろとしたカオスをかかえていることだろう。それは末那識や阿頼耶識の深海に(いかり)下ろすことかもしれなし、無意識やリビドーの森林をさまようことかもしれない。

詩は知や情や思想を伝え、テーマやモチーフをもつ。当然のことながらことばは発信者の意のままに取捨選択されるが、連句はテーマ・ストーリーがないから夢遊モードになったとき、藁にもすがれないで阿頼耶識や無意識というレベルの異境にあるはずである。ことやものを考えることで引き出されることやものでなく、考えない場所、つまり言語が道断されたところから引き出される「偶発的発見」というかたちをとって❘。付合のメカニズムや「こんにゃくカノン」が最大のとっかかりになるのであり、連句は無意識との遭遇ともいえよう。

十七音の長句、十四音の短句、この二つの器はいずれも小さいが大きなものが(つづ)世界だ。小さい具象の断面から抽象を表現し、大きな抽象から小さな具象を生起させる。付合の長句と短句には広がろうとする力と狭まろうとする危うい力学の相克がある。そして句間や行間には余白、余韻、セリフの間、絵画のグラデーション、歌舞伎の隈取りなど、言外に多くの趣や誇張を託してやまない。人間はひとつのものを見て(感じて)いるが、それとは別個の複数のものも絶えず見て(感じて)いて、空間や距離や時間など流れの「巡航」を測っている。そこに在る自分とどこかでそれを確かめている自分と・・・。

見えるものと見えざるものの対比、ずれやひずみや、心身の乖離、さらには自己生成へのたましいの涵養。それをとらえかたちにあらわすことが文学者やアーチストの仕事だが、言語表現の波打ち際、みぎわの先端にあるのが連句と思うがどうだろうか。

唯識の全体像が示すこととものの捉え方、フロイトがいう衝動のエネルギーの各階層への還流。この二つは交差するところが多いようであるし、ある意味では同一方向にあるようにもみえる。そして複雑な要素がからみあう人間のメンタリティーと言葉がそなえる複合構造は、こと連句にとってこの上ない力だろう。

 

「移り・響き・匂い・位」と「根をきる」は、連句の付合のありように関してまことにシンボリックな語だ。森羅万象を詠むとはすでに語られてきたが、消化不良の面をなしとしない。「わかってはいるが森羅万象とはいったいどこまで?とてもそこまでは詠めない」という理由で❘。しかしながら移りでよく、響きでよく、匂いでも位でもよいのだし、前句の根っこを切ってもよい、切るべきだという。前句と地続きの風景や似たような場所で同一人物らしきがうろうろしていては変化に富む世界はおぼつかないが、蕉風理念であれば強力なキャパシティーを有し、広範な世界が手にできるのではないか。

文芸はドキュメンタリーではなく、リアルタイムで進行していることでも表現者の形容というかたちをとる。たとえ現実の事件であっても引用することで客観が主観となるはずだし、連句の場合はかねそなえた「装置」が作動する。風景であれ心情であれ、他者の心情をいうことであれ、心に取り込まれて付句となる。付句が(広義で言語が)心に取り込まれたものの産物であるなら、展開がどのようであろうと許されることであり可能であるわけだ。そのような意味で付句には新も旧もなく現在過去未来もなく、すべて同一レベルといってよい。すべて並列できるといってよい。連句がこの世のこと、この世の物語を語ることだけに終始し、たかだか日本周辺の風景を眺めるだけであったなら退屈きわまりないものだろう。

たとえば、黄泉や高天原、ノアの洪水やネス湖のネッシー、エイリアンやクレオパトラ等々の地界・異界は「連句的リアリスティック」な作業場だし、空想して歓声を挙げるもよいし、異星語をしゃべり歴史上の人物の手を握ってもよい。コンドルに魂を託して飛翔し、獣や昆虫の精霊とたわむれる付句を付けてもかまわない。

このようにして仕掛けられる連句のからくりは、唯識の「宇宙意識」に類似・共通しているとわたしには思われる。自己も他者もなく、事と物のへだたりもなく、時間や空間という概念もなくすべてひとつにつながっている。ある部分ではばらばらでもある認識があっても、次につながっていることをも忘れてしまう宇宙に身を置く。身をおいていることさえときに忘れる。それはパーソナル(自我の確立)のレベルを脱却して、トランスパーソナル(個の超越)の領域に入っていると考えるべきであろう。

詩のそもそもの成り立ちには呪術や祭祀の面がみられるが、詩がわたしたちを突き抜けてゆくことは、わたしたちの精神の解放であり浄化であり、呪文でもあり加持でもある。効用面から眺めれば、現代のみならず遠い時代にも俳諧の連歌にはセラピーとかカウンセリングという部面もあったろう。一部の詩人たちが「真のホモ・ルーデンス(遊びをする人)の持ち物としての連句」に興味をいだくのは、どこかでそれを感じとっているのかもしれない。

宇宙を詠むとなれば(自覚するとなれば)、限りなく疎句になってしまい曖昧の袋小路に入り込むのではないか。仲間内でしか通用しないものとなり、牽強付会や木に竹を接ぐものとなるのではないか。たしかに付かない付句は「付きすぎの病」どころの話でなく、「離れすぎの死」であり、いかんともしがたい。しかしながら蕉風の付合は本来宇宙的だったのだし、連句のメカニズムが橋掛かりの作用をし、連衆心のフィールドが、わたしたちの認識ゾーンや言語ゾーンが、よきパートナーシップを育てることだろう。

言語学者のマリナ・ヤグェーロ氏は『言語の夢想者』(谷川多佳子+江口修・両氏訳*工作舎)のなかで、「「他者」を受け入れるということは、他者を自らに似た者として規定すると同時に異質なものとしても認めることで、言い換えれば、完全に同じというのでもなく、また完全に異なるものでもないというのが「他者」なのです」と書いている。

自我に対する語として「他我」があり、他人も自分と同様に我であるという意味で、他人のなかにある我を指し示す。これに優る連句の心をいう形容はないようだが、それはさておき、なぞの物体である連句のさらなる「レンクゲノム」の解読が待たれる。

平成13年度「連句年鑑」掲載。

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