連句評釈

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  歌仙『野分』の巻について        矢崎硯水

発句 三吟の屋を撼がす野分かな        虚子 秋天文

脇    萩しどろなる水の隅々       四方太 秋植物

第三 後の月跛の馬にうち乗りて        漱石 秋天文

四    わからぬ歌も節の可笑しき      虚子

五  年々に淋しくなりし熊祭        四方太 冬行事

六    九郎の館は迹ばかりなり       漱石

一  静舞今も残れる曲舞に          虚子

二    黄金作りの太刀佩いて立つ     四方太

三  鉄網の中にまします矢大臣        漱石

四    御鼻を食ふ虫も百年         虚子 夏生活

五  土用干顔輝が軸を見暮しつ       四方太 夏生活

六    眠い時分に夕立が来る        漱石 夏天文

七  燈台を今日も終日守る身にて       虚子

八    浦の漁師に蟹貰ひけり       四方太 夏動物

九  恵比寿屋に娘連れたる泊り客       漱石

十    朧の月に三人の影          虚子 春天文

十一 花更けて御室の御所を退るなり     四方太 春植物

十二   銘をたまはる琵琶の春寒       漱石 春時候

ナオ

一  入唐を思ひ立つ日に舟出して       虚子

二    反吐を吐きたる乗合の僧      四方太

三  意地悪き肥後侍の酒臭く         漱石

四    切って落せし燭台の足        虚子

五  絵襖に夜な夜な見ゆる物の怪      四方太 冬生活

六    百日紅の赤過ぎるなり        漱石 夏植物

七  白壁に名主の威光ほのめきて       虚子

八    村の出口に立つる高札       四方太

九  落人の身を置きかねて花薄        漱石 秋植物

十    うそ寒き夜を籠に乗るなり      虚子 秋時候

十一 関守も今宵の月を眺むらん       四方太 秋天文

十二   歌心ある髷の結様          漱石

ナウ

一  発句にて恋する術も無かりけり      虚子

二    妹の婿に家を譲りて        四方太

三  和歌山で敵に遇ひぬ年の暮        漱石 冬時候

四    助太刀に立つ魚屋五郎兵衛      虚子

五  鷹の羽の幕打渡す花の下        四方太 春植物

挙句   酒をそそげば燃ゆる陽炎       漱石 春天文

この歌仙は、高浜虚子、坂本四方太、夏目漱石による三吟である。題名はなく、捌の有無や治定の方法も明らかでない。勝手ながら私が仮題として『野分』の巻とし、季の句と雑の句の振り分けもした。間違いがあればご指摘願いたい。(参考資料・岩波書店『漱石全集』第17巻1996年版)

明治37年9月、東京の本郷駒込千駄木町の漱石宅における興行で、漱石はじめての歌仙といわれる。俎上に載せるわけは、小説家として俳人として夙に知られる人たちの作品であること、そのインパクトを利して連句評釈の意義や連句の特殊性に言及したいこと。当時は作家として俳人として著名ではなかったが、それでも彼らにとって連句は余技(あるいは酔余の戯れ)であったろうから、本来は批評の対象にすべきでないかもしれぬ。だが敢えて付合の優劣をあげつらい、連句とは何かという本質への手がかり、深遠なるその正体を浮かび上がらせ掌握したいがための企みでもある。(文豪だから大御所だからと色眼鏡で見、手心を加えるは逆に非礼になろう)

発句 三吟の屋を撼がす野分かな        虚子 秋天文

脇    萩しどろなる水の隅々       四方太 秋植物

さて、発句を発したのは虚子だった。虚子は愛媛県松山生まれの俳人、小説家(1874年~1959年)。二高中退。正岡子規に師事して『ホトトギス』主宰。当時31歳。「客発句・亭主脇」という作法から客の立場の二人のうち、四方太より年下ながら俳句や俳諧に造詣の深い虚子が詠んだのだろう。

「野分」は多くの歳時記が仲秋の天文に分類し、野も草も吹き分ける強風をいう。「三吟」は連座メンバーが三人であること、「屋」は建物のことで「おく」または「いえ」と読ませるか。「撼がす」は「ゆるがす」。

発句は亭主への挨拶であり、歌仙の顔触れをいう「三吟」は状況の表現としてよく、「これから歌仙を巻きましょう」という言詞である。ただ「屋」を「撼がす」はどんなものか。穿った見方をすれば、「家屋が揺れますね。安普請ですね」ととれなくもない。賃貸ながら大枚25円をはたく漱石の身になれば、「この発句、なんじゃい」と憤慨に堪えぬかもしれない。もっとも小難しい間柄ではないので、最初から裃を脱いでいたろうと贔屓目にみよう。

千駄木町は古くは駒込村といい、雑木林から伐採して薪を作っていたが、その数が千駄に及ぶことからこの名がつく。早くより町屋の佇まいをみせる界隈だったが、雑木林の名残から野分の荒れは相当のものだったろう。「きょうは凄い風ですね」という挨拶と理解したい。

脇は四方太が受け持つ。四方太(よもた)は鳥取県生まれの俳人、文人(1873年~1917年)。帝大。子規をとりまく河東碧梧桐や内藤鳴雪とも親交をむすび、『ホトトギス』に写生文を書いている。後年自叙伝『夢の如し』を著す。当時32歳。「四方太といふ人は子供もなく夫婦二人きり全く水入らずで、ほんたうに小ぢんまりとした、そして几帳面な生活をしてゐる」と、漱石の話として寺田寅彦が書いている。

「萩しどろなる」は萩の乱れ咲くこと。「水の隅々」は水面の隅々まで萩影が及ぶさまだが、「池の隅々」でよいのでは。発句の「仲秋」に打ち添えて同季の求められる脇が「初秋」()は問題で、季戻りになってしまった。

さらに問題なのは、当主の漱石が返すべき脇をなぜ四方太が返礼したか。勘ぐるに、漱石が千駄木町に家移りするころ夫人の鏡子が病の床にあり、転居の際も友人の助勢を頼んだくらいだ。脇を詠むとき、妻女に呼ばれた漱石が折悪しく席をはずしていたか。いやいや、そうではあるまい。「亭主脇」なる作法を知らなかったか、知っていて無視したか。初興行であれば漱石は責められず、咎は俳諧を学び助言できる虚子にこそ重大といわねばならぬ。

脇    萩しどろなる水の隅々       四方太 秋植物

第三 後の月跛の馬にうち乗りて        漱石 秋天文

四    わからぬ歌も節の可笑しき      虚子

第三は漱石の順番である。漱石は慶応3年、現在の東京都新宿生まれの小説家(1867年~1916年)。帝大。作家活動についてはふれるまでもないが、俳句や漢詩もよくした。父母晩年の子として世間体もあって疎まれ、生後まもなく里子に出される。のちに夏目家に戻ったが、必ずしもあたたかく迎えられたわけではない。長年にわたる胃弱や神経衰弱などの宿痾をかかえ、中学や大学で教鞭を執ったり朝日新聞に入社して執筆したりした。当時37歳。

「後の月」は月齢13でやや欠ける。「跛」は怪我などのために脚に支障をきたした馬。月夜にそんな馬に跨り出かけようとする。第三が発句同様の天文とは理解に苦しむ。天文は天体の諸現象をいうが、歳時記的には風や空などもふくむ。それが冒頭から打越とは。また脚に問題がある馬をなぜ登場させたか。初折表のここは、発句は自由でもその他は穏やかに治めるところ。たとえれば客人を迎えて挨拶をかわし、客間に案内して近況を語り合い、忌み言葉は避けるところである。

打越や季戻りなどの作法・式目の疎さはあるが、「発句・脇」のリアリティーから、「第三」をフィクションに転じたのは褒められてよい。句勢もある。(当時は乗馬して外出する時代ではなく、「駒込」だから「駒=馬」なのだろう)

三者とも俳句を子規に学び、同時に小説を書きたいという希望を持っていたと推し量れる。小説と俳句を両手にする人間は必ず連句に興味を示すはずである。連句はプロットを組み立てることなしに形式や作法や式目の有機体的な働きによって言葉が鋭利な切っ先をみせ、創造の翼をぐんぐん拡げて飛翔できるから。一巻を貫くストーリーはないが、言葉の衝突による鮮烈なイメージの喚起が起きるから。

漱石は明治36年3月に留学先のロンドンから帰って千駄木町に住むのだが、じつはこの借家が気にいらず、小石川周辺も探しまわった。野間真綱への手紙に、「美しい少女の死ぬ程詩的に悲しいことはないが、死んでいい奴は千駄木にゴロゴロして居るのに思ふ様にならん」と書いている。かつては森鴎外も住んでいて一高や東大に近い屋敷にもかかわらず、である。この家は愛知県犬山市の明治村に保存され安普請のはずもないが・・・。

「四」は虚子の番で「わからぬ歌」。「わからぬ歌」は歌詞がわからない、よく知らないことか。調子外れの意もふくむか。

景色が二句つづき、「第三」は人情自。「四」も人情自にとれる。歌は馬上で聴いたか、場面が移行して別の局面という解釈も成り立つ。「跛」が誘発する「節の可笑しさ」ちぐはぐさから俳味を引き出し、「馬にうち乗った」人物の印象のディテール描写に成功している。

四    わからぬ歌も節の可笑しき      虚子

五  年々に淋しくなりし熊祭        四方太 冬行事

六    九郎の館は迹ばかりなり       漱石

「五」の「年々に淋しく」は衰退の意。熊祭はユーラシアから北アメリカの狩猟採集民の間で行われ、アイヌもよく知られる。イヨマンテと呼び、熊を矢で射止めて首を落とし皮も剥ぎ、祭壇に飾ったり酒宴で食ったりした。当時すでに廃れていたようだ。仲冬、晩冬の季語。

ここで冬季を施すのも一興だが、熊を神の使者として神聖視する行事なので、神祇が濃厚といわざるをえない。さらに主体ではないが熊のイメージが強烈で、その熊と第三の馬が獣類として差し合う。アイヌなる固有名詞もちらつく。

「六」の「九郎の館」の「九郎」は源義経のこと。「館」は「かん」「やかた」と読むか。中尊寺の丘陵の「高館(たかだち)」を暗にさすのかも。背景に歴史を秘めるが表での固有名詞は残念。これにて表六句を読みすすむ。

作法・式目を盾にとって、あげつらう。重箱の隅を楊枝でほじくるのは、ひねくれ根性との指摘もあろう。ルールのためのルール重視は面白くないという外野の声もきくが、他方で独りよがりは賛成できない。

連句の読み手のほとんどは作り手で、いわゆる一般読者は皆無に等しい。なぜなら作品に目を通しても理解できないから。ルールを知らないと意味が分からず連想も拡がらないから。

連句の作り手と読み手との関係は、相対して行う格闘技に似ている。プロレスに似ている。作り手が言葉の効力によるバックドロップや四の字固めで攻めれば、読み手は知識の受け身や寝技を用いて己が芸術の許容域を広げ受けとめ、ときに体をかわす。攻撃と防御のあくなき鬩ぎ合いから、「レンク・コスモス」はその姿を現してくる。作法・式目のしばりは「レフリー」であり「セコンド」であり、一定のルールのもとに形式や言葉の「暴走」をおさえ、去嫌に睨みをきかせる。連句は作り手と読み手がルールを確認しあってはじめて「読書」が成り立つ文芸である。相対なしには受け止められない言葉たち。付句の言葉はそんな特質をもつ。

六    九郎の館は迹ばかりなり       漱石

一  静舞今も残れる曲舞に          虚子

二    黄金作りの太刀佩いて立つ     四方太

つぎの「静舞」の「静」は義経の側室で、義経の京都退去に同道したが吉野でわかれる。鶴岡八幡宮で義経を恋う「しずやしず」。義経の訃報をきいて池に身を投ずる。「曲舞(くせまい)」は室町時代に流行った芸能で、鼓に合わせて謡いながら扇をもって舞う。

「迹ばかりなり」に「今も残れる」の呼応はスムーズだが、折端と折立で無常がらみの恋情を出してしまった。恋句にはならなかったが、べたべたのべた付けで人名がかぶる。

つづく「黄金作りの太刀」は舞踏劇や能・狂言に用いるそれ。「佩()いて」は刀などを身につける意。太刀を身につけて立ち上がった人物を表わすが、「静の舞」の所作なのかどうか。書割的な付け運びともとれる。

二    黄金作りの太刀佩いて立つ     四方太

三  鉄網の中にまします矢大臣        漱石

四    御鼻を食ふ虫も百年         虚子 夏生活

つぎの「鉄網」は、金属として「黄金作り」に近いのでは。「矢大臣」は随身門に安置の二神の像のうちの、閽神(かどもりのかみ)の俗称。弓矢を持った二人一組で親王さまを護衛する武官。これは雛人形。

つづく「御鼻を食ふ」は「食らふ」で、その「虫」といえば「紙魚」。百年にわたって雛人形を食いつづけ、代替わりして生き永らえる。矢大臣→鼻食ふ→虫で夏の生活の季語。この三句の渡りは難ありだが褒められてよい。

四    御鼻を食ふ虫も百年         虚子 夏生活

五  土用干顔輝が軸を見暮しつ       四方太 夏生活

六    眠い時分に夕立が来る        漱石 夏天文

「顔輝」は、釈教画を得意とする中国元初の画家で『蝦蟇鉄拐図』(がまてっかいず)という蝦蟇を背負う仙人の絵が知られ、京都の知恩寺に伝存する。『寒山捨得図』も有名。お気に入りの軸をかけて眺め暮らすさま。「御鼻を食ふ」が季語と見なせるのに土用干(夏生活)とは。ケアレスミスではすまされまい。

ここ数句を眺めてみるに、「九郎の館」「静舞」「矢大臣」「顔輝」など、人名や史実や古典の素材の目白押し。バランスよければよいが、「相殺」となればデメリットしか齎さない。

つづく「眠い時分に」の人物は、「見暮らしつ」と同一人物と断定してよい。曲を凝らさず人物像を引き立てる。

六    眠い時分に夕立が来る        漱石 夏天文

七  燈台を今日も終日守る身にて       虚子

八    浦の漁師に蟹貰ひけり       四方太 夏動物

「燈台を」がつく。連日終日にわたって燈台を守りつづける燈台守の職業を描く。「眠い時分」に「終日」は時分の打ち重ねで本来なら小煩いが、職業柄さもありなんというリアリティーよし。

「浦の漁師」。漁師から蟹をもらった。情景の分かり易さは歓迎すべきだが、無季をはさんで、再び夏になってしまった。しかもここ、夏の季語が頻発してバランスすこぶる悪し。蟹をやめて旬のない貝類では駄目か。

八    浦の漁師に蟹貰ひけり       四方太 夏動物

九  恵比寿屋に娘連れたる泊り客       漱石

十    朧の月に三人の影          虚子 春天文

つぎは「恵比寿屋」。恵比寿は商売繁盛の神として信仰されるので、さまざまな商売にみられる商号。その名の旅籠に親が娘を伴って投宿。

四方太の「蟹貰ひけり」は燈台守が蟹をもらうのだが、その後の「恵比寿屋」によって旅籠の関係者が蟹をもらったようにも推測できる。「蟹」が仲立ちして付け筋が取って代わる。小説的プロットではなく、連句システムがもたらす意識の綱渡り、識閾の綱をも渡っていくのである。

さきに「旅籠の者」が蟹をもらったと書いたが、じつは娘をつれた親が海岸を散歩していてひょんなことから漁師と昵懇になり、蟹を進ぜるから旅籠で調理してもらえ、と言われたのかもしれぬ。いかように取ろうとも、すべては読み手に委ねられる。

「朧の月」がつく。こぼした月を花前に据えた。六句目「夕立」の後にはさすがに月は出せないと、そのとき虚子は思ったか。狙いは正しかった。

「娘を連れた泊り客」につける「三人の影」は想像をかきたてられる。娘と両親の三人ではいかにも芸がなく、別人が加わっての恋の呼び出しの気息が感じられるものの、ここで恋は仕掛けないだろうとも・・・。ならば親族か、やんごとなき事情、はたまた事件かと疑うのは深読みか。いずれにせよ「蟹」「泊り客」「朧」の三句の渡りは、イマジネーション・スペースをたっぷり取っておもしろ。さすが小説を書く連衆だ。

十    朧の月に三人の影          虚子 春天文

十一 花更けて御室の御所を退るなり     四方太 春植物

十二   銘をたまはる琵琶の春寒       漱石 春時候

花の定座は「花更けて」。一日の時分を表わす「朧」と季節の時分を表す「春更けて」との、レベルの違う二つの時分をダブらせた措辞。「御室の御所」とは、仁和寺の異称で京都・右京区にある真言宗御室派の総本山。宇多天皇が光孝天皇の志を継いで仁和4年に完成し、宇多天皇は譲位後に出家する。

余談ながら、宇多天皇は黒猫を溺愛した。「その毛色、類はず愛しき云々。皆、浅黒色なるに、此れ独り黒く墨の如し。其の歩行する時、寂寂にして音声聞こえず。恰も雲上の黒龍の如し」と書き残す。じつは漱石も以前から黒い猫を憎からず思っていたらしい。当歌仙のはじまる二ヵ月前()に黒い野良猫が漱石宅に迷い込んだ。「黒」は縁起がわるいという縁者の言もあったが飼うことになり、この猫がヒントになって『吾輩は猫である』の執筆にとりかかる。明治38年1月号の俳誌『ホトトギス』に発表して好評を得、黒猫が福をもたらすと堅く思い込むようになる。漱石は生涯で黒猫を四代飼った。

三名でこの歌仙を巻くさなかにも、「初代黒猫」はしっぽをピンと立てて闖入してきたはずで、四方太は「黒猫」→「宇多天皇」→「御室の御所」と時空を越えてイメージしたのではと、例によって深読みしてしまう。

「銘をたまはる」がつく。銘は優れた琵琶だけに彫られる。龍田とか花月とか。「たまはる」は付け運びのリアリティーというよりも「退る」行動に即した一種文脈的措辞と取ってよい。「春寒」は初春で季戻り。

十二   銘をたまはる琵琶の春寒       漱石 春時候

ナオ

一  入唐を思ひ立つ日に舟出して       虚子

二    反吐を吐きたる乗合の僧      四方太

初折が巻き終わって、これより名残の折に入る。

「入唐を」がついた。「入唐(にっとう)」とは、唐の国にゆくこと。日本から僧や使節が唐にゆくことをいう。「入唐八家」といって、平安初期に空海や円行など八人の僧が唐にわたり密教経典を伝えた。ただしここは、たんに思い立って唐の国にゆくことか。「舟出して」は思い立ったが吉日という類のフレーズ。人情自。

「反吐を吐きたる」。乗り合わせた僧が船酔いして反吐を吐く。仲間の僧侶の反吐と取ってはおもしろくなく、入唐は「使節」という設定がよろしい。人情自に対して人情他の向付。

二    反吐を吐きたる乗合の僧      四方太

三  意地悪き肥後侍の酒臭く         漱石

四    切って落せし燭台の足        虚子

つぎは「意地悪き」。舟に乗り合せた僧と肥後侍とが、もめごとでも起こしたのか。肥後侍は意地悪をする。

「切って落せし」は燭台の足だが、「意地悪き」(もめごと)の見立て換え。連句的手法で巧く逃げる。

連句の評釈を喩えるなら、読み手が手持ちの「カード」を出し、作り手の「カード」と符牒合わせをする。読み手が式目をしらべ、付合のよしあしを検証。読み手の「カード」のレベルが高いと、未熟な作り手の「カード」と符牒が合わない。逆に読み手の「カード」のレベルが低いと、優れた作り手の「カード」も水泡に帰す。作り手は「字札」であり、読み手は「絵札」。その突き合わせ。「字」によって「絵」が、「絵」によって「字」が喚起せられる。

四    切って落せし燭台の足        虚子

五  絵襖に夜な夜な見ゆる物の怪      四方太 冬生活

六    百日紅の赤過ぎるなり        漱石 夏植物

「絵襖に」。心得のある文人や絵描きの襖絵は、オークションや鑑定家の間で高値をよぶ。異類の品種は不明ながら、夜な夜な妖しい物の怪が現れる。天井の染みの類の話かもしれぬが、ロールシャッハ・テストを受けるべき人物を登場させる。「燭台の足」からの着想で、四方太の照準は捨てたものでない。「序破急」の「破」の句所だから。

「百日紅」は樹皮がすべすべと滑らか、鮮やかな紅の花を咲かせる。シンプルな句であるが、おどろおどろしい「物の怪」との呼応によって「ぎこちなさ」を演出する。ぎこちなさとは「夜」「暗い」「物の怪」「室内」VS「昼」「赤過ぎ」「すべすべの幹」「室外」という、異質物の突合せにより(ブレヒトのいう異化効果を齎すことにより)、読み手の心理にある種の危うさを植えつける。冬から夏への牽強な季移りではあるが、ここは見所。

六    百日紅の赤過ぎるなり        漱石 夏植物

七  白壁に名主の威光ほのめきて       虚子

八    村の出口に立つる高札       四方太

「白壁」がついた。すぐれた君主の威光がそれとなく知られる、立派な白壁の佇まい。居所を外側からとらえる。「百日紅」に「白壁」の紅白の対比は虚子の狙いだが、この色彩感覚はさて?

「村の出口」。「高札」は人目をひく場所にかかげる立札で法度や掟書を記し、さらし首や重罪人の罪状を掲示した。昨今の駅前交番の警視庁重要指名手配ポスターのようなもの。身分の貴賎を背景において深入り回避。「名主」は人倫だが「白壁」に重きあり、「六」「七」「八」は叙景に近い。

八    村の出口に立つる高札       四方太

九  落人の身を置きかねて花薄        漱石 秋植物

十    うそ寒き夜を籠に乗るなり      虚子 秋時候

漱石が「落人」をつけた。「落人」は戦いに負けて逃げる人をいい、ただたんに人目を避けて逃げる人もいうが、前者のほうが付け心地よろしい。逃避の身ゆえに野辺を歩いても身を置きかねる。

「うそ寒き」。「籠」をみつけて乗り込み、どこかに行く。人情他を人情自に引き取って変化をつけるはよい。ただ「百日紅」以降、屋外の景色や人の動きが一連だ。また「なり」が四句、「けり」も二句あり神経が図太すぎ。

十    うそ寒き夜を籠に乗るなり      虚子 秋時候

十一 関守も今宵の月を眺むらん       四方太 秋天文

十二   歌心ある髷の結様          漱石

つぎは「関守も」。「らん」は「眺めているだろう」の推量で、「落人」「籠」「関守」と人情自他の工夫はあるが三句がらみになってしまう。

「歌心ある」。髷とは髪をつかねて結ったもので、男の髪にも女の髪にもいう。髷によって、侍、若衆、奥方、女房、遊女が見分けられる。「髷の結様」はヘアスタイルだが、「歌心」はきわめて曖昧。伝統を踏まえた和歌のような大らかさか。むろん関守のそれではなく、関守と相対する人物をつける「女髷」だろう。いきなりの髷は唐突感が否めず、取るものも取りあえず恋の呼び出しをかけた漱石。名月ながら夜目遠目のミステークでおもしろ。

 十二   歌心ある髷の結様          漱石

ナウ

一  発句にて恋する術も無かりけり      虚子

二    妹の婿に家を譲りて        四方太

「発句にて」。恋の呼び出しに慌てふためく虚子の姿がある。「歌心」に俳諧の「発句」を思いつき、発句からいきなり「恋する術も無かりけり」、すなわちハナから恋はできませんよ、という対応。前句の内容を探って付けるのではなく、「恋」の文字を措いて逃げの一手。

「妹の婿」。妹の兄と思われる人物は何らかの事情で家督を継がない道を選んだ。妹がハンディキャップを負っていて、そのため妹に家を譲り自分は地元を離れたのかもしれぬ。物語をひろげ連想をふくらめる。虚子の前句にストーリー性を持たせ、よくぞここまで陰影をつけたものと四方太の手腕に感服。

二    妹の婿に家を譲りて        四方太

三  和歌山で敵に遇ひぬ年の暮        漱石 冬時候

四    助太刀に立つ魚屋五郎兵衛      虚子

つぎは「和歌山」がついた。「敵」とは何者だろう。辞書に当たると競争相手、恨みのある相手、戦争の相手国、配偶者など。たとえば仲の悪い友人を設定してもよいわけだ。

つづく「助太刀」。敵に対して「助太刀」とくれば敵討ち。友人への助勢という現代的ストーリーは消えた。任侠の魚屋五郎兵衛は、歌舞伎狂言『仇討乗合噺』で、宮城野・信夫の姉妹を助けて仇討ちする。四世松本幸四郎が扮し、東洲斎写楽が役者絵に残す。

「敵」の語意からいって椿事も想定されたが、通俗小説に落とした。四方太先行の「太刀佩いて立つ」があるのに。歴史や史実をバックボーンに奥行きや陰翳をつけてゆくのはよいが、ざっと見渡しても「九郎の館」「矢大臣」「静舞」「御室の御所」「肥後侍」「落人」「関守」など、てんこ盛り。

四    助太刀に立つ魚屋五郎兵衛      虚子

五  鷹の羽の幕打渡す花の下        四方太 春植物

挙句   酒をそそげば燃ゆる陽炎       漱石 春天文

いよいよ匂いの花。四方太は初折でも花を詠んでおり、どうしたことだろう。月の定座は、漱石、虚子、四方太で分けあうが、花の定座にはそうした配慮がない。花の定座のひとり占めは尋常でなく、月の按分もたんなる偶然か。

つづく「鷹の羽」は鷹の羽紋のことで、これには「丸に違い鷹の羽」「月輪の覗鷹の羽」などあり、「忠臣蔵」の浅野家のそれが知られる。鷹の羽紋の幕を打ち渡し、花の下で花をめでるのであろう。語調も大らかでよいが「浅野家」を連想してしまい、「敵」「助太刀」につづく三句がらみで、無念のほかはない。

挙句は「酒をそそげば」と漱石が治めた。花の下での酒盛り。酔っ払いの粗相で陽炎にこぼした酒を、あえて「そそいだ」と執り成す。これは秀逸だった。

これにて歌仙『野分』の巻を読み終えた。季語の配置がぞんざい、作法違反あまた、出しそびれの式目も多い。先にも書いたように史実や演劇を俤にした句がめだつ。連句について過価観念があるらしく、小説の一プロットに見立てた付け方、蘊蓄の傾けすぎの嫌いも。それがプラスに働いた名残の表の一句目「入唐を」から「絵襖に」までの五句、名残の表の十一句目「関守も」から名残の裏の二句目「妹の婿に」までの四句は変化に富んでいておもしろい。

明治38年秋には、上田敏が訳詩集『海潮音』を刊行する。名訳と誉れ高い翻訳で、フランス、イギリス、イタリアなどの清新な近代詩を紹介した。上田敏は1903年に漱石とともに東大講師となって、この歌仙の巻かれる一年前には漱石と上田敏は多分知り合っていただろう。ベルレーヌやマラルメなどフランス象徴派と連句とはなんの脈絡もないが、漱石や四方太にフランスやイギリスなど西洋を視界に入れた付句があったらと惜しまれる。その頃すでに新しい波を蹴立てて「ポエトリーの黒船」は入航していた。私はあえて連句の固有装置であるファンクション(機能)を利し、みずからの詩精神の「絵札」を掲げて問いかけたのである。
(連句協会会報掲載)

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