言語の岸辺で

TOPへ戻る
メニューへ

比喩と詩歌と()

 小さな島の自然言語である母語によって育ち、その言葉を用いてわたしは詩歌を書いている。人工語や混種語にかくだんに浸食されている訳でなく、英語、フランス語になかば強圧的に押しやられる弱小言語国でもない。そういう意味では環境安定の言語国だが、それとは別に言語のもつ構造性、機能効用といったものは詩歌に携わっていて、 (もっとも、韻文、散文を書くことに無縁であっても多かれ少なかれ)つねに離れられない問題である。

 「おれがある言葉を使うと」と、ハンプティ・ダンプティはいくらかせせら笑うような調子で言いました。「おれが持たせたいと思う意味をぴったり表わすのだ――それ以上でも、以下でもない」。

 「問題は、言葉にいろいろな遣う意味を持たせることができるかどうか、ということです」とアリス。(『鏡の国のアリス』岡田忠軒訳)

 周知のように「見立てる」という言葉は、なぞらえる、仮定する、見すの意であり、また「見立て」の語は表現技法の一つで俳諧(連句)、戯作、歌舞伎等にみられる。

 浮世絵に多い「見立絵」という絵画のメソッド。これは古典の題材を当世風におきかえる絵で、故事伝承によってなじみ深い人物に時代を無視した風俗をそえ服装をつけ、機知的なアートショックを喚起させるものだが、制作・鑑賞の両者に等量等質の教養やイデアが求められる。

「譬喩歌」というのは、『万葉集』において「正述心緒=ただにおもひをのぶる」の歌、「寄物陳思=ものによせておもひをのぶる」の歌とともに、事物それだけを表に表出して心に思うことを譬える「譬喩」の歌とする三分類の一である。この分類になる歌は多くが恋愛歌であったが、平安時代以降はこの分類があまりみられず、和歌における比喩的な技法が一般化したためといわれる。

 また「比喩体」は、享保(1720)のころに一派が流行らせた卑近な見立てをしてよむ俳譜(の風体)で、談林派に受け継がれた。その後蕉風が興こるにおよんで衰えたが、広義の深遠なるメタファーは俳諧理念を支えているし、詩性の脈流といっても差し支えないと思われる。さらに俳諧には、いったん見定めた趣向を次に付ける句が別の意味に解釈し、一句をはさんで前の句と連結させて読むときと、後の句と連結させて読むときと、その内容がラディカルに変転する「見立て替え」という手法もある。

 比喩は三種類に分類される。 「 直喩」は譬える事柄と譬えられる事柄、譬える行為とによって成り立ち、「隠喩」は譬える事柄と譬えられる事柄のみで、譬えであることを明かす語が示されない。「諷喩」は譬える事柄しか言語化されておらず、譬えられる事柄は背面に隠される。また比喩は当然ながら古今東西を問わず散文、韻文の違いに関係なく広範な表現方法である。

 ジャン・ジャック・ルソーは『言語起源論』(1781)のなかで次のように述べる。

  「 我々に知られている中で最も古い言語である東洋の諸言語の特徴は、そこに期待される言語の模範的な行き方を完全に否定している。東洋系の言語には方法的で推論的なものは何もなく、いきいきと比喩に富んでいる。最初の人間達の言語活動は幾何学者の言語であったとされるが、我々はそれが詩人の言語であったと見る。」

 「 最初の言語は転義的であった。 比喩による言語活動が最初に生まれ、本来の語の意味は最後に見いだされたのである。人は事物をその本当の姿で捉えるまでは、真の名で呼ぶことはなかった。人は初め詩的に語るだけだったのであり、論理立てて考えることを思いつくのはずっと後になってからだった。」

 ハンプティ・ダンプティのように「おれが持たせたいと思う意味をぴたり表わす」など考えられず、「言葉にいろいろな違う意味」があり、異なった意味が負荷されるものだろう。両義性どころか多面性であり、言語の守備範囲は不断に変化してやまない。

 詩歌における比喩とは、表現と非表現、行間と語間にそれを託すものである。そしてつねにゲル的存在であり、負荷値によって傾斜し流失もする、不確かなものだ。発信者は受信者と知識や教養、わけても言語圏の軌を一にしていなくては理解不能に陥るだろう。一概に日本語といっても世代、職種、さまざまなジャンルの「言語ネット」と称すべきものが重複してかぶさっているが、日本人の脈管系、呼吸器官、いうなれば生理的な息遣いからなる七五調や五七調、言語の持ちそなえる語感、流れしらべ、内在律はゆめおろそかに出来ないものと考えたい。

 現代詩の散文化がすすみ、韻文たる文字の排列、音数に一定の規律や声調をととのえた作品がきわめて少なくなった。それが最近の詩の脆弱さだとは言わないが―。

 一方に実在記号をおき、自然言語、人工言語、空想語、火星語、宗教的な異言や交霊術にいたるもの、果てはコンピューター言語までを取り込むべきわたしたちの比喩とは? 詩歌の比喩とは?

 

言語意識への触手()            
媒介(言語活動)における送信と受信の基盤にあって、両者間でたやすくキャッチボールできる場合もあるが、交信の通暁が難しい部分のほうが多い。言うまでもなく認識のずれがあり、恣意的なそのずれの境域や疎通のひずみを作者・読者とも認めて整合につとめる。そのことにこそ詩歌の営為はあると考えるのだが――。
 たとえば「カラス」について。
 ―確乎たる「絶対カラス」というものは存在しない。形づくる以前のわたしたちにとっての「始原のカラス」(見聞による鳥類としての形状や生態、羽毛の色や鳴き声など)の感受性(類概念)はそれとして、必ずしも共通の認識のカノンをもつものではなく、認識の差違は個々人に渉っている。カラスというサンプルに「烏天狗」「八咫鳥(やたがらす)」「烏金(からすがね)」などの言語経験を有する者もあろうし、「烏の行水」「烏が鵜(う)の真似」「不吉な」「口うるさい」などの連想しかもてない者もいよう。そうした端的な相違はあるにしても、言語(比喩)は一カ所に留まらずつねに流動的で姿形を換えてゆくものと思われる。
 「カラスのような黒ずくめ」と直喩するとき、いったんは読み手のなかで形を結んだイマージュがあるが、それは「ような」の語を手がかりにして「カラスの」「黒ずくめ」の二者に代替されるイマージュを探査し増殖してゆく。それは読み手の言語ネットの範疇、個の資質にかかわるパターンの数量だけ示される。
 また「空のつぶてとなるカラス」と隠喩すれば、「空」「つぶて」「カラス」の三者のアナロジーが、「のような」という直截でない分だけ浮遊的になり広範なアナロジーを以て「置き換え」られる可能性があろう。
 ジェームズ・ハリスは次のように記述する。(『ヘルメスあるいは普遍文法についての哲学的探求』)
 「語は外界にばらばらに存在する対象のシンボルではない。だとすると、当然我々が抱いている概念を示す記号ということになるだろう。なぜなら語は我々人間の外部に存在するものを直接に指示表象できない以上、人間の内部にある何ものかを指示表象することは明らかだからである」。そしてさらに言及する。
 「―なぜ事物の特性や本質を(鏡が色や形を忠実に映し出すように)そのまま表すことのできる言語がひとつとして存在したことなく、造り出すこともできないかが理解されるだろう」。
 言語学者のF・D・ソシュールは記号内容(シニフィエ)と記号表現(シニフィアン)の恣意性を明かし、さらに言語間に成り立つ「二つの関係」について述べる。
 (a)統合関係―話線に添っての語と語との結合関係。
 (b)連合関係―連想によって思い起こされる語と語の関係。
 この「統合関係」と「連合関係」とが人間の精神活動の二つの形式に対応するのではないかとソシュールは推量している。これはさらにヤコブソンによって比喩の典型的な二種類のスタイル、隠喩と換喩に適応するものとして規準化し、広範囲のコンセプトとなってゆく。すなわち次の「二種の関係」である。
 (a)統合関係―対応―隠喩(メタファー)。
 (b)連合関係―対応―換喩(メトニミー)。
 (a)の意識は、いささかの移行はあるにしても主としてベクトルが縦の方向に働くパラシュート型の飛び降りであり、代替されるものに対して距離が保てるし、またアナロジーの「取り換え作業」が容易である。新しい抽象・具象が取り込みやすい。
 (b)の意識は、「のような」という語から近似が集められ、「置き換え作業」がなされる。跳躍でなくベクトルは横に働き、拡散より連用と言えるだろう。
 言葉は存在喚起力だといわれる。存在するものが厳然とあるのではなく言葉によって存在せられる。言葉のイマージュのアナロジーが、「取り換え作業・置き換え作業」を繰り返しそのときどきで「非在の在」となり、イデア(概念)を象る。言葉(パロール)とは広義には比喩と言えるのだが、それは自我意識のアスペクト(様相)の汀線(みぎわせん)で鬩ぎ合っているものにほかならない。
 唯識(哲学)では、すべての存在のタネを蔵している意識の基底部を「アラヤ識(阿頼耶識)」と定め、存在の解体とはアラヤ識が空洞化した状態をいう。また言語同断は前言語、意味以前の境界、記号表現が未だ見つけられない記号内容をいい、アラヤ識のさらに奥には「無垢識」があるというのだが、意識・無意識、そしてその汀線における詩歌の比喩の働きはむろん一様ではない。それを言語意識への触手と仮称してもよいが、これまでこうした部面での「触手」が、詩歌論としてあまり機能していない。当然ながら、詩歌と俳句や連句の識閾(しきいき)の肌理はそれぞれ違うのである。  

 

     意識と言語秩序()
 無意識といえばまず西欧の「無意識」が思い浮かぴ、フロイトの学説が考えられるのであるが、衆知のようにフロイトは心理学者であり精神医学者であり、神経症やヒステリーの精神分析、治療が専門である。『夢判断』を著わしたのが1900年で、性や性愛などセクシュアリズムの部面で捉えられていて、医学的というよりも芸術的興味がもたれた。
 四〜五世紀にかけて無着(むじゃく)、世親兄弟らによって始まった唯識思想、唯識説をもって現象世界をとき明かし、ヨーガの実践を行じて自己を改革し悟りに到達しようとする教え。東洋の唯識思想(深層心理というべきもの)は、言語論的にもフロイトやソシュールよりはるか以前に先取していたと思われぬでもない。

 「唯識の自己八識」は、第一眼識(視覚)、第二耳識 (聴覚)、第三鼻識(嗅覚)、第四舌識(味覚)、第五皮膚識(触覚)の五官に、第六意識(知・情・心)を加えた六つの「表象の自己」。これに、第七末那識(まなしき)(自覚されない意識で我執の源があるとされる)、第八阿頼耶識(記憶・経験・体験)の二つの「深層の自己」を追加して八識となる。「阿頼耶識」は人格を形成するありとあらゆる右脳左脳のチップが蓄積されてゆく基底なので、「一切種子識」と呼ばれたり、「平安時代の貴族たちが、衣服に香をたき込めたように、経験がしっとりと人格の中に浸透していく(熏習)(くんじゅう)」(太田久紀氏『仏教の深層心理』)の蔵するところの「蔵識(ぞうしき)」とも呼ばれたりした。 さらに、八識に加えて「九識」の「菴摩羅識(あんまらしき)」があり、これは清浄なる真如の理体で、無垢識(むくしき)である。阿頼耶識が前世の記憶をふくむ根底をさぐるもの、菴摩羅識は仏教のひとつの到達点を示すもので、言語や表現の成り立たない辺境とされる。
 人間のもつ五官や意識によって事物がとらえられ認識され、言語が発せられることはいうまでもないが、ニ十世紀初頭のA・ブルトンの「シュールリアリスム宣言」により、無意識の世界を創造の場としてオートマチック記述の実験が試みられた。無意他の言語化である。無意識がかかえ込む抑圧されたところから人間の根元的解放、自由を復活させるための運動は、フロイトやユングの少なからぬ影響があった。フロイトは無意識から発現されるエネルギーをリビドーと名づけ、性的欲求を本流とするものであると解く。一方、フロイトと共に研究したユングはリビドーを性的エネルギーに限定しないで、人間の生命活動全般を通じてあらわれるエネルギーと考えた。
 衝動のエネルギーは五官(五感)や意識の刺激を絶えずうけているが、矛盾したり葛藤すると、無意識の領域(「末那識」「阿頼耶識」)に迷いこんで無力感や自律不能な状態になる。しかしながら、エネルギーはそこに停滞することなく表象の自己や深層の自己など、それぞれの階層を環流し、スクランブルする。そして自我が他我がつかまえられてゆく。

 絵画や舞踏や音楽など言語によらない表現はさておき、言語を用いて表現する形体は、われわれの意識(あるいは無意識)が即時に表現されて体裁をなすのでなくランガージュ(言葉活動)の濾過作業、プロセスを経て表現形体がとられる。
 《ランガージュによるランガージュ的思考経路の通詞、若しくは整合》というべき行為が、自己のなかで行われると思われる。このプロセスは、言語が作動するためのあるべき反応にほかならない。なぜなら、言語を習得したものは表現するとき言語体系的−C (集積回路)を以て思考するからである。そして人間は畢竟、ボキャブラリーの範囲による思考しか持ち得ないのだ。 われわれが真に形容したいと思いながら未だ形をなさない流動的な事物はつねに仮現(けげん)し、つぎつぎに妄分別され、ときには名付けられもする。そうしたリピート(繰り返し)によって輪郭がじょじょに顕わされてゆく。表現行為とは、イマージュや意味や語の多義性を取捨選択すること、アナーキーな語群に秩序を与えてゆき一つのかたちを象(かたど)る行為ではないだろうか。
 わたしが「言語意識」というのは精神分析的にいう意識や無意識ではなく、個々人がもつべき言語に対するそれであり、語句がつながったり、ぱらけたりする謂の《逢着と離反》なのである。詩歌の営為とはそれら一連の流動体に触手を延ばして結実させること、これを措いてないと言ってよいだろう。
 現代詩や短歌、俳句や連句、それら総括する短詩形の「言語意識」の識閾の肌理は違うとさきに書いたが、肌理は当然違うがジャンルを越境して通底する古典の水脈があり、現在も脈々とつづいているはずだ。それを頑なに汲み取ろうとせず、定型のフォルムを性急に捨て去ってしまった現代詩に、ひとつの病弊を見るのである。

 

    定形と韻律と()

詩のフォルムについてラフな分類をすれば、定形詩、無韻詩、自由詩、散文詩に分けられるだろう。

 アメリカの詩人ポー(1809〜1849)が「美の韻律的創造」と詩の定義をしたとき、決められた脚韻構成を備えたいくつかの聯からなる定形詩を考えたことはうたがいない。規則ただしい韻律をもった詩は表現内容を高めたり、意味をより深化させる。

 しかしながら、定形詩は長詩や劇詩の部類では単調さがさけられず、一定の律格(弱強五歩格)に基づきながら脚韻を不規則に用いる無韻詩がうまれた。シェークスピアの劇や、ミルトンの『失楽園』はこれが使われて書かれている。くわえて韻律の要素をもたない散文形式で効果を求める散文詩がつくられる。自由詩も韻律からはなれ、口語のリズムを駆使して自由にして闊達であった。

 これもアメリカの詩人フロスト(1874〜1963)は、「自由詩はネットを使わないでテニスをするようなものだ。韻律の価値はテニスにおけるネットと同じで、それを使ったほうがはるかに楽しい」と定形詩を擁護した。定形は日本以外の国のほうが重んじられているようだ。

 押韻は語頭にあるものをアリタレーション(頭韻)、語尾にあるものをライム(脚韻)、母音だけの押韻、類音の一致をアソナンス(半諧音)というが、西欧のような意識的な詩作はわが国ではごくまれで日本語ではむずかしいとされている。

 (和歌をはじめとする伝統的な短詩形では、畳韻や対韻などの押韻方法が自然発生的に試みられた・・。)

 九鬼周造の『文藝論』(1941)によって、中村真一郎や福永武彦ら押韻定形詩に関心をよせたマチネ・ポエティクの詩人たちの詩が、日本語押韻不的確論(三好達治)で否定的にみられたし、詩史的に眺めてもきわめて少数派であった。上田敏の名訳でつとに知られるヴェルレーヌの『秋の歌』など、美しい諧調の作品もあるのだが―。

 詩歌における音声や調べを形成する韻と律をあわせて「韻律」というが、二要素の一方である「律」(リズム)は定形短詩のスタイルでは骨組みをなすもので、フレーズの語数、音数に一定の規約を設けることによって成り立つ。

古典和歌に例をとれば基本とする音数律は五七調、そして七五調。前者は『万葉集』などの荘重さ雄大さ、後者は『古今集』などの優雅さ軽快さに適しているといわれ、調べがおのずからなる方向性をしめす。シラブル(音綴)の拘束が音楽性を付与しているのかもしれない。

 文語では捉えることが困難な屈折する自己内部を口語によって表現しようとした(『月に吠える』などの)萩原朔太郎、かれは形式の外側からでなくて口語のもつ語感、柔軟なタームやデリケートな調べをさぐり、可能性を追いもとめた。自由なスタイルで書きながら、音楽的統一感という点でも広義の定形のカテゴリーに入るといえよう。

 周知のように現在書かれている詩は、現代詩とか自由詩とかいわれる自由な形式であり、他方、日本の詩歌には短歌や俳句、連句その他の伝統的で純然たる定形詩がある。

これらの作者はそれぞれ詩人、歌人、俳人と呼ばれ、かなり明確なジャンル別の棲み分けがされている。

(本来は渾然とあってしかるべきだが―)

 西欧の詩が輸入され明治以降は自由なスタイルで書く詩が多勢を占めるようになる。一部で日本の詩に定着するかにみえたメトリックの萌芽が、谷川俊太郎氏などの試行は認められはするものの、新体詩からたかだか100年というスパンでもろくもくずれる。

 「詩とは何か」「詩に何ができるか」とは旧くて新しい設問である。そもそも詩の発生のところでは宗教性、唱和性、芸能性があったはずで、定形や韻律の砦は詩が根幹で担うべきものだと考えるのだが、いささか等閑に付した。

自我が中心となり他我がかえりみられず、隅へ押しやられる。個人主義の到来がひとつの因子とは言い条、思想や精神、意味論が先行したため詩が言葉の霊力を失ってしまった。日本詩歌の多面体、ミラーボールを見ることがかなえられない。詩は呪術であることも忘れさられている。そしてこんにち、サブカルチャー化したミーイズムの詩(厳密には自我も他我もない没個性の詩)がはんらんし、ゴムひもは延びきったままだ。

 「現代詩にとり“型”とは何かを、あらためて問いかけたい」とは小田久郎氏の言であるが、古典的なソネットや四行詩、バラッド形式を倣いながらの新しい定形の探求か、もしくは日本的な短歌俳句連句など叙情の岩漿へと通じる坑の発掘か、いずれにしろ岐路であろう。

 詩とはいうまでもなく人間の全体的な認識行為(意識・無意識行為)だが、内容もさることながら言語のアプリオリ(生得的)な力、喚起力が何より肝要なのである。

 

   絵文字と表現と(5)

 知り合いからの伝聞だがカリフォルニア、アリゾナ、ニューメキシコなど各州の砂漠地帯にはあまたの岩壁図象がみられ、たいへん見事で貴重な芸術遺産だという。これはネーティブ・アメリカンが古代に克明に刻んだもので、強く訴える表現意欲に心打たれたというのでる。図象の多くは動物、植物、魚類、男女、日輪や月、星や虹の類であるが、伝達内容の圧倒的なボリュームとそれに何かを託そうとする思いや祈りの深さがすばらしく、こうした始原の絵図をロックアートとアメリカではよんでいるそうだ。

 岩壁絵図はむろんひとりアメリカだけでなく、旧石器時代のフランス北西部のラスコー洞窟、少女が発見したというスペインのアルタミラ洞窟などに彩色豊かな壁画があるし、日本や中国の仏教遺跡からも数えきれないほどが発掘されている。

 知られるように壁画は王宮や神殿に描かれ、また墓室に描かれもしてモニュメントの部面があり、頌歌とか献歌という意味合いも濃いのだが、大噴火によって噴出した岩石にこつこつと絵文字を刻むはるかに時を隔てたわたしたちの祖であるアーチストの、描かずにいられない衝動が写真からもひしひしと伝わる。壁画を単純素朴なものだとか、記憶補助の一手段にすぎないというひともいるが、造形的に優れたものもあって、観る者の立つ場所を考えて空間に働きかける仕掛けもあるとされ、またルネッサンスの壁画はイマジネーションの世界を開く窓、シンボリックな窓とも称される。

 古代エジプト象形文字はヒエログリフ(神聖な刻文、聖刻文字)などといわれるが、早期の遺産は紀元前三千年頃にさかのぼる「ナイルのパレット」とよばれる紀念書板。このような寓意的な絵画はエジプト象形文字の前身だろうし、文字はごく初期から表音性をもっていて研究のうえでも重要に考えられていた。またメソポタミア文字体系の影響を強くうけたとされる。そしてナイル河畔の古代文明がきわめて具象的に表現されている。

 絵文字といい象形文字といい、乱暴に敷衍すれば両者に表現形態としてそれほど大きな差異はないものと思われ、むしろ「絵」とか「字」というカテゴリー自体が不自然なくらいだ。それがたとえ記号的に書き残されたもの、あるいはモニュメントやオードの類であっても、始原のメッセージが現代のメッセージとさほど代わるものとはいえないのではないか。

 音素に本来表現力があるとする考え方の支持者であるシャルル・カレは、『言葉の秘密』(1929)で次のように述べる。

 「はるか時代を遡り、猿人がその知能を開花させ言葉が生まれる神秘的で叙事詩的瞬間に降り立つとしょう。/すでにしっかりとした手を持つ猿が、ほど遠くないところをうろつくもう一匹の猿の動静を窺っている。危険を感じ、その猿は《ムー》と低く唸った。あるいは《ルッ、グル、クル》かもしれないし、歯をかみ合わせてぎしぎしいわせながら、荒々しい憎悪に唇を引き攀らせ、息の洩れる音を続けて出すかもしれない。それとも鼻にかかった《ニィ、グニィ》という音を転がすように出すのだろうか」。

「これらの常に認められる意味作用は言語創造のあるひとつの同じ法則からもたらされる不可避的結果である」。

 文芸についての一般的な定義は言語による創造であり、創造するとは形象的な表現に帰結する。形象はそもそもかたちである形と、すがたである象とを組み合わせてできた語だが、良質な作品は「すがたかたち」を通して理念が立ち顕われるものといっても差し障りあるまい。

 小田切秀雄氏は「文学の起源は、人類があるときから言語を表現的に(形象的に。たとえば、神に祈るときに、その神の心を動かすように具体的に表現する)使うようになった遠い原始の時代にさかのぼる。以来文学は実に長い期間にわたって・口承の文学であり、文字による文学表現が行われるようになったのは、たかだかシュメールの『ギルガメシュ物語』以来の5000年ほどにすぎない」と叙述している。

 いわゆるロックアートがたんなる「自然記号学」のそれか、コミュニケーションの意図乃至は信号を前提にした「文化記号学」のそれか見解が分かれようが、わたしは徴候学的な(黒雲は嵐を告げる自然記号で徴候)立場をとらず、むしろ後者を推したい。神々に奉げること君主に語りかけることであれ猿人が唸り声で伝えることであれ、表現とは自分以外の他者につながろうとすること、自分もまた他者として相手から認識されたいということであるはずで、自他をつなぐ橋掛かりにほかならない。絵や字は人間や動物や星など事物の確認ということと、現物たるオリジナルを指すコピー用具であるということ、(コピーはやがてオリジナル自体を変化させるが)つまりは、比喩としての置き換え作業が文学表現といえないだろうか。

   
日本語事情など(6)

当エッセー(1)の冒頭に、この国は「・・人工語や混種語にかくだんに浸食されている訳でなく、英語、フランス語になかば強圧的に押しやられる弱小言語国でもない。そういう意味では環境安定の言語国だが・・」とわたしは書いた。

日本列島は大陸から孤立しているため、侵略や政治謀略などに起因して言語が圧迫されることがまれであったし、他の言語とのあいだの相互関係において深刻な事態に陥ることもなかった。有史以来の日本語は、それ自体がもたらして変遷を遂げたというのが大方の捉え方で、不協和音は軽微だったといえよう。わが国の汎文化の範は古く中国に、新しくは欧米諸国に多くを仰いだのであるが、こうしたあまたの知的事象の取りこみ、外国からの言語の輸入にもかかわらず、日本語(とくに文法の部面で)は大きな影響を受けていないとみなせるのは、おおよそが語彙の摂取にとどまり(現在の外来語氾濫はおびただしいものがあるが)、根幹のところで壊滅的パンチを食わなかったことが幸運といえるかもしれない。

朝日新聞の『私の視点』(2002・1・20)で、津田幸男氏が『「日米言語協定」の締結を』というタイトルで書いておられる。日米コミュニケーションについて、総理大臣への提案という形をとって。

「言語の不平等は、両国の不平等な関係につながっており、「対等なパートナーシップ」の障害になっています。「英語支配」では日本の考えは十分に伝わりませんし、母語を使う「言語権」も奪われています。また、日本国民が熱心に英語を学んでいるのとは対照的に、アメリカ政府・国民は英語の上にあぐらをかいて、「日本語が障壁だ」とさえいうほど傲慢(ごうまん)です。これでは、相互理解は不可能です」。さらに氏は次のように述べる。

「「日米言語協定」は日本のアメリカへの従属意識やコンプレックスの軽減にも役立つはずです。「英語が出来なければ」という「英語信仰」から、英語は充満しており、日本人の精神の植民地化は悪化の一途をたどっています。政府は「英語公用語論」や「公立小学校での英会話教育」を打ち出していますが、これによってアメリカからの精神的自立が達せられるとお考えでしょうか?」。

日本対アメリカという言語関係はまさに氏のいわれる通りだろう。そしてこのことは単に日米のみならず、強大と弱小という国の力関係と、先進と未開といういわば貧富の差をもって多くのことばが蹂躙・占拠されようとしている。こんにち、世界のどこでもあまり目立たずに進行して行くゆゆしい問題である。

英語圏はたいへんに広範であるし、確かに公用に供するには利便であるが、だからといって都合がよいからといって、公用語として認めることは、日本語をなし崩しにくずすことにほかならない。地球上にはたくさんの国があって先住民族がいて、それぞれ異なった言語を用いている。そうした言語や文化の固有性がなにより肝心であり、質の異なったものを互いにつき合わせ、ともに認知しあって共有することが求められている時代ではないか。「位相言語の翻訳」というべきこと、「異同形体の翻訳」というべきこと、それをともに生かしてゆく共生こそが、今求められているのではないか。

デカルトはメルセンヌ神父宛の書簡で(1629年)、こんなことを書き送っている。

「・・もし誰かが、人間の想像力の内に在り、それから人間の考えうること一切が成り立つ単純な観念がどんなものかを十分に説明でき、それが万人に受け入れられたならば、私は是非とも世界共通語を実現してもらいたいと思う。覚えるにも、発音するにも、書くにも非常に簡単で、しかも、これが肝心なことですが、一切の事物を見誤ることのないようはっきりと提示でき、判断に役立つような世界語を。では実際に我々が持っている語はどうかと申しますと、まったく逆で、不分明な意義しか持たないのがほとんど。しかも人々の精神はこれに慣れて久しく、それゆえ、精神はほとんど何も完全に理解することができないのです。だからこそ私は世界共通語が可能であり、それを可能にする方法、それによれば農夫でも現在の哲学者達よりもはるかに能く事物の真理を判断できるような方法が見いだせると信じます」。

英語が、人間の想像力の内に在り、それから人間の考えうること一切が成り立つ単純な観念がどんなものかを十分に説明でき、それが万人に受け入れられるだろうか。答はひとにぎりの日本人を除いてノーと言わねばならない。

デカルトも、「このような言語がいつの日か用いられるようになるなどと期待なさってはなりません。それにはまず事物の秩序に大きな変化が起きなければなりませんし、全世界がまさに地上楽園そのものとなる必要もあります。さてこんなこと言い出せるのは物語の世界だけでしょう」と継ぎ足す。(詩誌「エウメニデス」連載作品)