コラム「その27」

640「【かっぱ句会】終了」
639「斜にかまへ・俳句」
638「朽野・俳句」
637「白鳥・朝日新聞全国版俳壇」
636「シャガールの馬」
635「忽然と短歌・やまびこ俳句」
634「詩あきんど29号」
633「みづうみ・俳句」
632「霧襖・俳句」
631「人を呪わば穴二つ」
630「人語より・俳句」
629「詩あきんど28号」
628「非懐紙「前頭葉」の巻」
627「滴りは・俳句」
626「歯科眼科・俳句」
625「郭公・俳句」
624「早蕨・俳句」
623「詩あきんど27号」
622「水温み・俳句」
621「燕の巣・俳句」

640『「かっぱ句会」終了』

【河童文学館】即ち、当ホームページの誰でも参加型「かっぱ句会」は、第194回をもって終了することになった。2002年から約16年に亘って毎月一回のペースで休載なく続けてきた。投句者は多くて15名少なくて12名とほとんど移動がなく常連で占められた。

規定は「投句一句&選句四句」(佳句は2点に数える)の決まり。月末〆切で翌月5日に発表。参加者の互選点数のランク付けと、筆者の天位・地位・人位の選定とその講評である。

「句会」の在り方として、参加者が自分の作りたい俳句を作るのは当然のことながら、読み手がその俳句を理解してくれるか、感動してくれるかが重要だという思いがあった。

従って選句者からより多く加点されること、言い方をかえれば「点取り虫」になることが一つの学習方法だという学び方。まずはそこから入りたい。俳句は何をどう詠んでもよく、独創は素晴らしいことだが独善であってならない。独善は誰も見向きもしない。個性や独創は読んでもらえるようになってからでもよいと。

そんな思いから選考する立場の筆者も、互選の高点句を中心にして天・地・人の位をきめ講評するというスタンスをとった。また講評は季語の成立を伝えたり内容を掘りさげたり、表現の語意や音律などの解説を中心にして優れた点をとりあげた。俳句はここまで物が言えるのだ。ここまで深く耕して表現できるのだということを述べてきた。

俳句の作者は自らの俳句の評価や感想を求めている。むしろ評価や感想に飢えているといっても過言ではあるまい。それが高評でも悪評でもだ。しかし筆者は高評されて成長すると思っているので欠点の指摘はなるべく抑えてきた。

自分で作句しながら、自分が気付かない句意をさぐり批評され俳句の奥深さを知った、というメールをもらったこともあった。194回の継続は長い道だったがここで終了とする。筆者このたび、「詩あきんど全国Web句会」の選考に携わることになり筆を擱くことにしたのである。(2018/01/27)

 

639『斜にかまへ・俳句』

1月24日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたいと思う。

  斜にかまへ炬燵をおのが砦とす  義人

「斜にかまへ」即ち「斜に構える」の意は、「剣道で、刀をななめに構える。転じて、身構える。改まった態度をする。また、正面から対応せず、皮肉な態度をとる」と『広辞苑』に載っている。

も一つ「砦(とりで)」とは、「昔、本城外の要所に設けた小規模な要塞。木柵をめぐらし、内に兵営を置く。出城(でじろ)。柵塁(さくるい)」と、これまた上記『広辞苑』に当たった。

辞書で調べた二つの語意から、この俳句に登場する人物は身構えたり皮肉な態度をとったりする性格で、木柵をめぐらして兵営にこもって相手の様子を窺い、場合によっては敵対して戦う。いうならば偏屈で血の気が多いという見立てだ。

そしてこ「炬燵」を「砦」にしているのだから一国一城の主ではなく、現代であっても旧世代のおやじ。頑固で偏屈でもからきし力のない小市民的な「あがき」に取れないこともないだろう。

俳句は一人称の文芸なので「おのが砦とする」の「おのが」とは筆者自身という読み方になる。それはそれでよろしいが、俳句の読み方として「おのれ」という「他者」を詠んでいるという解釈はどうだろうか。そうした多岐な解釈による「物語性」を考えるこの頃の筆者である。(2018/01/25)

 

638『朽野・俳句』

1月17日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたいと思う。

  朽野をゆくやギターを横抱きに  義人

「朽野(くだらの)」は草が枯れ果てた蕭条たる野原をいう。「枯野」の副題にある冬の地理の季語である。

枯草の野原の小道をギターを横抱きにかかえて歩いてゆく、という句意だ。この人物は男であろうし、ギターはケース入りだろう。依頼をうけて演奏会場に向かうというより、「朽野」という状況設定からしてギターを質草にするとか、買い取り業者に持ち込もうという場面が浮かんでくる。

俳句には二物衝突なる手法がある。「朽野」と「ギター」だ。「朽野をゆく」「ギターを横抱き」・・・この二者をぶっつけて、「さあ読んでください。考えてください」。

さらに言い募れば、「読み手の想像力次第ですよ」というわけだ。ストーリーを読み手に委ねる。そういう俳句があっていい。

身近にころがっている素材の「極私的ただごと」を詠む俳句が圧倒的に多い。それにもむろん詩はあろうが、それ以外の俳句のありようを眺めてみることも重要なことだ。われわれは文芸としての俳句を創造しているのだから。(2018/01/18)

 

637『白鳥・朝日新聞全国版俳壇』

1月15日付の朝日新聞全国版の「俳壇」に、筆者の俳句が入選一句目として掲載された。選者は大串章氏。当該の俳句と選者の講評をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたいと思う。

  羽搏きて白鳥湖のほむらなす  矢崎義人

大串章氏「白鳥が激しく羽搏き、水しぶきを上げる。飛び散る水玉が炎のよう」。なお「羽搏(はばた)」「湖(うみ)」には括弧内のようなルビあり。

「白鳥」の漢字で「はくちょう」と「しらとり」の二つの読み方がある。「はくちょう」はカモ目カモ科の水鳥。大形で首が長く、世界に五種類数えられる。日本には青森県小湊、新潟県瓢湖、長野県諏訪湖などに飛来。天然記念物で鵠(こく)、スワンともいい、晩冬の動物に分類される季語である。

他方で「しらとり」は白鳥(はくちょう)のこともいうが、特定しい白い羽毛の鳥をいう。カモメやシラサギなどを指す。また「白鳥の」といえば枕詞で「鷺」や「鳥羽」にかかる。

若山牧水『海の声』の「白鳥は悲しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」は夙に知られるが、これは「しらとり」の読みでカモメを詠んだ和歌とされる。

掲句「羽搏きて白鳥」で切れ、「湖のほむらなす」と読みくだすと羽搏きによって湖にほむら()が立つという句意。「湖のほむら」とは水しぶきであり、白鳥の羽毛の白色を反映しての「水しぶきの白いほむら」という解釈になる。大串章選者の解である。

一方で、敢えて「羽搏きて白鳥湖の」と切って、「ほむらなす」と読めば、白鳥自身が「白いほむら」に見まがうという解釈も成り立たぬことはない。その辺は短詩形の解釈の曖昧さ&面白さであろうか。天然記念物で白鳥の俳句は世に多いが、「ほむらなす」の一語が利いている。筆者毎年冬には白鳥の俳句を作ってきたが、十数年費やして「白いほむら」のイメージを捕捉できた。

朝日新聞全国版の俳壇は大串章氏、長谷川櫂氏 稲畑汀子氏の共選でそれぞれが12句を選びだし、一席、二席、三席と順位付け。(金子兜太さんは体調がすぐれないため、しばらく選句を休みます。と今回は載っている)

朝日新聞全国版の俳壇への投句は葉書一枚に一句、一週間で5000句の投句がある超難関。白鳥の飛来する諏訪湖のほとりに身をおく者として、白鳥句が入選したことは幸いであり誇らしい思いだ。(2018/01/16)

 

636『シャガールの馬の巻

四吟さざんが「シャガールの馬」の巻  矢崎硯水捌

一面

風が鞭ふるシャガールの馬        矢崎 硯水

バーチャルの時計廻りの旅をして          同

 またも仏陀の手の平の上         嵯峨澤衣谷

二面

籤引けばころころころり赤い玉           同

 愛憎を越え天城嶺を越え         矢崎 妙子

山賊の衣装の似合うぬらりひょん         硯水

三面

ワイドショーでは話題騒然           衣谷

百九十二の魚偏漢字書きあげて       軍司 路子

 しかと抑える可杯の底             執筆

平成二十九年十月二十七日首尾

形式「さざんが」は掛算九九の「三三が九」から、三行×三つの面の合計九句を以て構成する。発句は長句でも短句でもよく季語は要らない。三句の渡りを尊び、三つの面のジョイントによる虚実衝突の小宇宙を表す。矢崎硯水考案。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『留書き』

形式に拘らない自由詩のほか、「行連節韻律」を守る詩形もある。「連詩」というと、数人の詩人が何行かを一連ずつ受け持って節をなすスタイルが多い。

 私が青年のころ、連句では門外漢の同人詩誌の詩人たちを誘って連句の捌きをしたが、季語按分の煩雑さと、一句治定では個性が発揮できないという不満がでた。そこで長句&短句を交互に付ける点は譲れないが、季語は全廃しよう。数句で一連とし三連で満尾としようと提案。未熟ながら「連句詩」の嚆矢として公器にも採り上げられ、当時は現代詩の一部門という評価をいただいたが。

 その改訂版「さざんが」は三行×三面。句数の凝縮と省略、反発と連結が齎す言語パフォーマンス・・・生後間もない赤児の形式なので、言わずもがなの説明「虚実衝突の小宇宙を表す」を加えたのだった。矢崎硯水。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このたび「NPO法人俳句&連句と其角」が主催する「第三回近未来連句交流大会」において「四吟さざんが『シャガールの馬』の巻」が大賞を受賞した。「留書き」は俳誌「詩あきんど」30号に掲載のため追記したものである。

互選や選考における作品講評や連句大会の状況などについては後日に譲りとして、とりあえず結果を発表します。(2017/12/24)

 

635『忽然と短歌・やまびこ俳句』

11月29日付の朝日新聞長野県版の「歌壇」「俳壇」に、筆者の短歌と俳句が佳作として掲載された。当該の短歌と俳句をここに転載し、併せて「自歌自解」「自句自解」を試みたいと思う。

  忽然と森に消えたるブーメラン

   少年の日の記憶引きずる  義人

「ブーメラン」は、「オーストラリア原住民の使う木製の狩猟用飛び道具。「く」の字形で、投げると回転しながら飛んで手許にもどる」と辞書にある、

また「ブーメラン効果」という経済用語もあり、先進国が発展途上国や新興工業経済圏などに資本財輸や技術移転をすると、やがてその当の先進国へ安い製品が逆輸入されたりすることをいう。

「狩猟用具」「回転しながら戻る」というブーメランの特質を比喩や象徴として用いられる用例がほかにもみられる。

筆者は少年期にブーメランを投げて興じていたわけではなく、ブーメランとは「僕のかけがえのないツール」、「失ってはならない原点」のメタファーにしてシンボルの意味合いが込められている。

  やまびこに育てられしか月夜茸  義人

「月夜茸」は担子菌のきのこ。猛毒。わが国の特産品。半月扁平、厚い肉質で短茎をもち、シイタケによく似る。上面は平滑で暗紫色。ひだは白色で一種の臭気があり、暗所では青白く発光する。秋、ブナなどの枯木に生ずる。と、これも辞書からの引用。

月夜茸にかぎらないが、『今昔物語』には毒キノコを御馳走にみせかけて高僧の暗殺を目論んだ話があり、また、暴君ネロの母親のアグリッピナは息子を皇帝にせんと夫や政敵にタマゴテングタケを食わせて殺したとされる。昨今でもロシアのスパイの暗殺事件に毒キノコが使用された噂もささやかれる。

とまれこうまれ、夜に光る月夜茸は美しい。きっと、やまびこ、即ち山の神、山霊(山の精)に育てられたに相違あるまいという句意だ。(2017/11/29)

 

634『詩あきんど29号』

俳誌「詩あきんど」第29号が届いた。筆者は「会員Ⅰ」なので表題付きの12句と書留を掲載できる。12句から筆者好みの3句をここに転載し、蛇足ながら「自句自解」を書くことにする。

  ときを追ひ釣瓶落しの岬まで

「釣瓶落し」は、①釣瓶を井戸に落とすように、まっすぐに早く落ちること。平家九「大盤石の石の苔むしたるが━━に十四五丈ぞ下ったる」。②転じて秋の日の暮れやすいことをいう。と『広辞苑』にある。

掲句の「とき」とは時間を意味するのだが、秋の日の暮れだから当然「残り時間」を言外で表わす。また「岬」は陸地の端、つまり断崖絶壁のこと。俳句は一人称の文芸ということから、ときを追いかけて岬まで一直線に突き進んでいる「私」を表現する。

人生の最晩年の述懐(おもうことを述べること)の喩え、メタファー(隠喩法)である。

金輪際硯洗はぬけんすいさん

「硯洗(すずりあらい)」という秋の季語がある。七夕の前夜、子供が硯や机を洗って手習いや学問の上達を祈ること。

俳号「硯水(けんすい)」の筆者だが、毛筆を遣って書くのが下手糞で嫌いだ。毛筆での指圧の入れ方がわからず、毛先がグニャグニャになってしまう。「毛」は柔らかいので手加減できない。こんなんだから硯なんぞ金輪際洗ったことはなく、したがって、そもそも手習いも学問も上達するわけはなかったのだ。

余談ながら「硯水」の俳号の由来は、「水」に浸りながら「石」を「見」る。清冽な泉のただなかにあって、じっと「石」を「見」ていたい。子供心(十歳くらいだったと思う)にそんなイメージで俳号を考えたものだ。ところが後年、「硯水」の語意に、上方語で三時のおやつ。大工の隠語で酒の意が含まれることを知ったのだった・・・

  お借りした地球返して秋逝かん

「お借りした」とは、借用証書なしに借用した。賃貸契約もしないで借りていた。というほどの意味だ。自分が死んだ後も、恐らく地球は現状のままだろう。地球を持って死んでゆく訳ではないから、地球はあくまでも借り物。借り物は返すべきものという論理&感覚が筆者のなかにずっと居座っている。

「秋逝かん」は今回たまたま秋の季語で詠むにあたって「秋」になっただけである。

12句の並べ方で「ときを追ひ」を巻頭におき、「お借りした」を掉尾においたのには、筆者の狙う配列でのストーリー性が込められている。(2017/11/18)

 

633『みづうみ・俳句』

11月15日付の朝日新聞長野県版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたいと思う。

  みづうみの匂ひ夜学の窓に来ぬ  義人

「夜学」とは、①夜、学問をすること(秋の季語)。②夜学校の略(――に通う)と『広辞苑』に載っている。①と「夜学生」「夜学子」をふくめて秋の生活の季語である。学問というほど大袈裟ではなく、読書会、文化講演会、老人大学、句会、歌会なども夜学のカテゴリーに入るかもしれぬ。

特定されていないが、「みづうみの匂ひ」は諏訪湖の匂いと取ってもよい。夜学の窓から吹き込んでくる、その匂いに浸りながら学んでいるのである。(2017/11/16)

 

632『霧襖・俳句』

11月8日付の朝日新聞長野県版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたいと思う。

  霧襖開くやトリックアートめき  義人

「霧襖」は霧が濃く流れ、襖(ふすま)のように立ちはだかって視界を遮るさまをいう。三秋の天象。霧の傍題の季語。

折しも風が吹いて、文字通り霧が霧散する。それはあたかも和室の襖がしずしずと開いたようだというのである。遮られていた視界がひらけ、目を見張るような光景乃至は物体が出現する。その光景や物体が如何なるものかについてはこの俳句にはなく、すべて読み手のイマジネーションに委ねられる。

「トリックアート」とは視覚における錯覚を利用した絵画で、実際にはない窓や扉があるように描かれたり、立体的に見えたりもするもの。錯視アートともいう。

ところで、二十世紀でもっとも影響力のあった芸術で、フランスの詩人ブルトンらが唱えたシュルレアリスム(超現実主義)にはトロンプルイユという手法があり、騙し絵と訳される。これは広義には昨今流行りのトリックアートのカテゴリーに入るだろう。

鬼面人を驚かすというが、筆者は「詩面人を驚かす」を作法とする、つまり詩歌にはそうしたインパクトというか喚起というかが必要であり、書き手と読み手の間にはある種の緊張関係があってこそ優れた芸術が生まれると思っている。

さてさて閑話休題。話が逸れてしまった。霧の襖が開いてトリックアート、騙し絵の世界が広がったのである。(2017/11/08)

 

631『人を呪わば穴二つ』

俚諺(りげん)にこんなのがある。「人を呪わば穴二つ」。つまり、人に害を与えようとすれば、やがて自分も同じように害を受けることになるという意味だ。

その由来は、他人を呪い殺せば、自分も相手の恨みの報いをうけて呪い殺される。相手と自分の分とで、墓穴が二つ必要になるというもの。

平安期の陰陽師は人を呪殺しようとするとき、呪い殺されることを覚悟して墓穴を二つ用意させていたという。類義語には「剣を使う者は剣で死ぬ」「人を謀れば人に謀られる」がある。

恨み辛み、理不尽、癪の種もあろうが、そいつをいつまでも呪っていては自分も等類のレベルの人間になってしまう。仲良くとは行かぬまでも呪うことはやめよう。そのように考えるのが普通の考え方であろう。

—————話は変わるが、このたびの国連総会におけるアメリカのトランプ大統領の演説の金正恩第一書記をあげつらう「ちびのロケットマンの自殺行為」。これに応酬する金正恩(総会には欠席)のトランプを指しての「米国の老いぼれ茶毛狂人」呼ばわり。それぞれ一国の最高権力者の、まるでガキの喧嘩のような品性を欠く演説にはおどろきと同時に辟易した。二国の長(おさ)の罵りあいは、まさに「穴二つ」に値するだろう。

英語には「穴二つ」に類似するこんな俚諺がある。「呪いはひよこがねぐらに帰るように我が身に返る」。「呪いは呪う人の頭上に帰ってくる」。

トラップのねぐらに呪いのひよこは帰り、金正恩の頭には放射した呪いが帰ってくる。

————さてさて話はまた変わるが、「人を呪う」のところを「人を恨む」「人を妬む」「悪口をいう」などに置き換えられよう。町内会や友人同士や家庭内で、そのような邪心を抱くことは結果的に「穴二つ」掘ることになろう。

ひるがえって、こうしてトランプや金正恩を軽蔑&罵倒する筆者自身も間違いなくかれらと「同類児」、同じ穴のムジナ。穴は三つ掘っておかなくてはならないかもしれぬ。(2017/09/26)

 

630『人語より・俳句』

9月13日付の朝日新聞長野県版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたいと思う。

  人語より鳥語たのしや木下闇  義人

「人語」は人間の発する言葉。人の話し声をいう。他方で「鳥語」は鳥の鳴き声をいう。人語はかなり使われる言葉だが、鳥語は限られた辞書にしか収載されていない。

余談だが、鳥の鳴き声を研究している学者が、鳥の声のいくつかのパターンを組み合わせると意味があると発表した。たとえば「危険だから逃げろ」とか、「ここには餌があるぞ」とか、「♀鳥が恋しい」とか・・・これは正しく「鳥語」だろう。

掲句はもんちゃくの起きやすい人語より鳥語の方が楽しい。鳥語の「語意」まではわからなくても楽しいな、というほどの句意である。

————さてさて、話はガラッと変わるが、「一線を越える」「一線は越えない」という言葉が巷間とびかっている。じつは筆者の「孕み句」(連句の付句を前以て考案しておくこと)にこんな付句がある。二十数年まえに作句したものだ。

アトリエの画家とモデルの鬩ぎ合い(長句)

一線越えず一糸まとわず(短句)

長句につづけて短句を並べたが、これとは逆に短句の後に長句を配しても悪くない。「アトリエ」を「山小屋」に改案してもよい。芸術性が深まるだろう。(2017/09/14)

 

629『詩あきんど28号』

俳誌「詩あきんど」28号がきた。筆者は「詩あきんどⅠ」に投稿できる会員なので「物語れ」という題名の12句と書留の小文が掲載されている。12句のなかから3句をここに転載し、自句自解を試みたいと思う。

  ぴんと跳ね句の体をなす手長蝦

この俳句は手長蝦の生態、その特質を借りての俳論である。「俳論」といっても大げさなものではなく、滑稽を下敷きにした俳句の作法を面白おかしく表現したもの。つまり俳句の、「や」「かな」「けり」などの切れ字を手長蝦の尻尾の動きに擬して「ぴんと跳ね」と置き換え、跳ねることによって俳句としての表現の体をなす。訴求力を高めることができるというものだ。それを手長蝦の生態を通して述べたのである。

ごきぶりほいほい鍵盤のff

「ごきぶりホイホイ」はアース製薬のごきぶり粘着テープで、ごきぶりを捕獲する殺虫剤。ごきぶりがピアノの鍵盤を一目散に横っ飛びに横行する。するとピアノがけたたましく鳴りだす。「ff」、すなわち、音楽記号フォルティシモで「より強く」を意味する。

ごきぶりは台所のフローリングの隅などを突っ走り、ピアノの上までは登ってこないはずだが、そこは固いことはいわず、想像力を働かせてほしい。ごきぶりの命がけの演奏は小澤征爾を上回るかもしれない?

もうひとりの自分を探す夜の秋

多重人格という疾患があるが筆者、少なくとも「もうひとり」の自分の存在を認めざるを得ないようだ。「こうしよう」という思いのほかに「それだめ」という思いが頭をもたげる。自分と自分とが対峙する、喧嘩する。考え方でも、ときには動作の部面でも・・・

しかしある日突然「もうひとりの自分」が見当たらないときも。そんなときは反対ばかりしていて胡散臭い「そ奴」を探している自分自身に気づく。

折しも「夜の秋」。夜の秋とは晩夏の季語で、晩夏の候に夜だけ秋めいた気配があることをいう。すなわち一日のうちで昼の夏と夜の秋という二重構造の気候の変化、気候のめくるめく狂態を含ませる季語であることに気づくだろう。(2017/08/26)

 

628『非懐紙「前頭葉」の巻』

三吟非懐紙「前頭葉」の巻      矢崎硯水捌

  夏立つや前頭葉を撫でてみん        矢崎硯水

   目高の群れる大き水槽          中尾美琳

少年の嘘は嘘とてきらめける        大塚丈湖

   Dバッグ掛け子午線の旅           硯水

  ロンドンは今日も雨ですBBC         美琳

   扉にひそむ銀の鈴虫             丈湖

  たかまがはら雲井の曲の凄まじさ        硯水

   軛の果てに嫦娥戯れ             美琳

  さり気なく本音の毒を含ませて         丈湖

   アングラ劇の顛末の妙            硯水

  テーブルの上の荒野に鴉鳴き          美琳

   激辛料理緑酒添へられ            丈湖

  雪景色「いいね!」と眺め写楽顔        硯水

   しゃらくせえのは大統領で          美琳

  狂ひつつ狂はざる詩を捧げれば         丈湖

   河童ミイラはまこと灼然           硯水

  花冷えのよもつひらさか分け入らむ       美琳

   夕東風浴びて雀躍りの婆           丈湖

      平成二十九年六月十六首尾

平成二十九年七月十一日満尾

(俳誌「詩あきんど」28号より転載)

(2017/08/20)

 

627『滴りは・俳句』

8月16日付の朝日新聞長野県版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたいと思う。

  滴りは読経にも似て磨崖仏  義人

「磨崖仏」とは石仏の一種で、自然の懸崖や巨石を彫刻し、仏像などを陰刻や浮彫りで表したものをいう。インド、中央アジア、中国では早くから創られており、朝鮮には優れた遺例が多い。

「滴り」は水がしたたること。特に夏に岩や苔などから落ちるしずくをいい、夏の地理の季語。

滴りの音が止むことなくつづいている。それは読経にも聴こえる。まさに自然(じねん)の企みである。(2017/08/17)

 

626『歯科眼科・俳句』

8月2日付の朝日新聞長野県版の「俳壇」に、筆者の俳句が入選として掲載された。当該の俳句と選者の仲寒蝉氏の講評をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたいと思う。

  歯科眼科胃腸科まはる梅雨晴間  義人

「年を取るとあれこれと体調が悪くなり、かかる医者の数も増えてくる。梅雨の晴れ間を縫うように回れるだけの医者巡りをしてしまおうという気持ちはとてもよく分かる。科の名称を羅列したのが効果的だった」。仲寒蝉氏。

病院でよく顔を合わせる老人同士が馴染みになって、きょうも待合室で顔を合わせた。「やあ、体調が悪いのか?」。

「いやな、きょうは大分良くなったから病院に来たのよ。悪ければ病院に来られんもの」。

歯も眼も胃も悪化したときは病院には行けない。病状が安定した良いときを見計らって受診する。梅雨の晴れ間を狙って受診するのである。(2017/08/03)

 

625『郭公・俳句』

6月28日付の朝日新聞長野県版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたいと思う。

  郭公のこだまコーヒー啜るとき  義人

「郭公のこだま」という聴覚と、「コーヒー啜る」という味覚の突き合わせをテーマとする俳句である。

状況としては、山の麓のコーヒーショップか森林のなかのペンションでコーヒーを啜っている「私」が、丁度そのとき郭公のこだまを聴いたというもの。俳句は「第一人称」文芸であるので、そのまま「私」が聴覚を働かせ、味覚を働かせたという表現になる。

つまり、「こだま」を聴いた聴覚の「耳」と、「コーヒー」を啜った味覚の「舌」という五感うちの二つの感覚、器官がほとんど同時期に作用したことの面白さを狙った俳句だ。それを下五の「啜るとき」の「とき」で表している。(2017/06/30)

 

624『早蕨・俳句』

6月21日付の朝日新聞長野県版の「俳壇」に、筆者の俳句が入選として掲載された。当該の俳句と選者の仲寒蝉氏の講評をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたいと思う。

  早蕨のほぐれて谺駆けまはる  義人

「蕨のことを万葉時代から早蕨と呼ぶ。先が渦巻状になっているうちに採って食用にする。ほぐれてシダのようなったらもう食べられない。この句ではその蕨がほぐれる頃には人も山に入り、生き物たちの営みも活発になって、様々な音が谺として山河を駆け回る様子を詠んだもの」。

「早蕨」は「さわらび」と読み、芽を出したばかりの蕨をいう。寒蝉氏の引くのは、万葉集八「石走る垂水(たるみ)の上の早蕨のもえいづる春になりにけるかも」であろう。

「早蕨のほぐれて」は、蕨が芽を出して三日から四日くらいでほぐれてくる。山菜取りも初動はややのんびりで「ほぐれ始める頃」がもっとも山が賑わうのであろう。そんな状況を詠んだものである。(2017/06/23)

 

623『詩あきんど27号』

俳誌「詩あきんど」27号の「詩あきんど集二」に収載の筆者の十句から三句だけ自選して転載する。

  さよならの代はり空より菫撒かん  硯水

 ◎逃げ水の隊商の列amazonへ  硯水

  地球をばぐるぐる巻きの御蚕の糸  硯水

なお「◎」印は二上貴夫氏が付けたもので、次のようなコメントが添えられている。

「時事句というものは二年で意味が褪せてしまうので、俳句では不可とされるが「逃げ水」の句は時事世相を読んだ柳俳一致の句」。

さて、「さよなら」とは言うまでもなく「辞世」であるが、筆者は「さよならはいらない」という辞世の詩を、生前葬ならぬ「生前詩」として創っている。すでにネットにも流し、キーワードの言葉を入れて検索すれば誰にでも閲覧することができる。

「辞世」の俳句や短歌を今わの際ではなく、そのずっと以前から創っておいたり、門弟が代わりに造ったりする例は高名な詩人や歌人俳人でもやまほどある。掲句は、もし仮に霊魂が「昇天」するものであるなら、虚空から菫の花を撒き散らしながら高みを目指したいという句意である。

「逃げ水」とは、蜃気楼の一種。草原などで遠くに水があるように見え、近づくと逃げてしまう幻の水をいう。夫木二六「東路にありといふなる逃げ水の逃げ隠れても世を過すかな」。自然現象だが得体のしれない儚いものについてもいう。

「隊商の列」とは、砂漠など鉄道の発達しない地方で隊伍を組み、象や駱駝やラバの背に商品を積んで運ぶ商人の一団をいう。キャラバン。

「逃げ水」はこのごろ蔓延する「買物シンドローム」というか、物を買ってばかりの病的な物欲という、幻の水を追い求める人間心理の比喩だ。(人間本来無一物。何もないから考えが浮かぶ。何もないから何かを創るという大切なものが失われてしまった)

「隊商の列」は文字通りクロネコヤマトのキャラバン。象や駱駝に代わる黒猫印のトランク便だ。「amazon」とは、そもそも私たち人間の何だろうか。「物という暴力」を運搬する装置だろうか。文明批判をめざした句でもある。

「地球をば」の「御蚕(おこ)の糸」とは、蚕の糸のこと。蚕には春蚕、夏蚕、秋蚕とあるがただ「蚕」といえば春の季語である。高級なシルク製品を編み出すので蚕は「御蚕」とか「蚕さん」と崇められる。また病気になった蚕は「捨蚕(すてこ)」といって捨てられる昆虫でさえ季語として扱われているのだ。

蚕の紡ぐ繭を地球に見立て、地球を白い糸でぐるぐる巻きに巻いてゆくという心象(イメージ)だ。地球とはおのれ自身の比喩でもある。(2017/06/10)

 

622『水温み・俳句』

6月7日付の朝日新聞長野県版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたいと思う。

  水温み河馬は尾を以て糞飛ばす  義人

「水温む」は仲春の地理の季題で、温む水の副題がある。「暖かい日射しの差し込んでいる水辺に立つと、水の色や動きにも、温まって来たような感じがする。これを「水温む」という」と草茎社の「季寄せ」にある。

河馬の尻尾は、その図体の大きさに比べて至って小さく可愛らしい。糞をするとき糞をしながら小さな尻尾を振りまわす。糞があたりに吹き飛んで汚いことおびただしいが、何故かにくめず、つい笑ってしまう。

「カンガルー黄沙かぶって決闘す」「国晴れて象の耳より東風が吹く」「五輪にはあらずや猿の半仙戯」「サファリーや駱駝の瘤が暮からぬ」など、動物園や野外の動物をイメージして詠んだうちの一句である。(2017/06/08)

 

621『燕の巣・俳句』

5月31日付の朝日新聞長野県版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたいと思う。

  燕の巣ありて蔵の戸半開き  義人

燕はわが国に春飛来し、人家に営巣して、秋に南方に去る。背面は光沢のある青黒い色で、顔や喉は栗色。上胸に黒帯があり、下面は白色。尾は長く、二つに割れている。

燕の営巣は新しく巣をつくる場合と、旧年の巣を再利用する場合とがあり、再利用はリニューアル工事をする例もあるといわれる。

上記の俳句は土蔵のなかに「燕の巣」があって燕が出入りしているため、その邪魔をしないように扉を半開きにしておく。蔵の戸を閉め切ってしまっては燕の死活問題だから・・・

昨今は燕を見ることが少なくなったような気がしてならぬ。(2017/06/01)

 

620『第3回宝井其角俳句大会二十句詠』

このたび、「第3回宝井其角俳句大会二十句詠」が「NPO法人俳句&其角」によって開催され、筆者の「俳俳俳」が大賞を受賞した。その俳句作品と「受賞の言葉」、中根明美氏の「選評」とが「詩あきんど」27号に掲載されたのでここに転載する。

  「俳俳俳」

綿津見のさより身を以て感嘆符

吾に尾のあらば凭れて春逝かす

躁過ぎて鬱来にけらし世は朧

千の眼に視られ縮緬雑魚を干す

鈴懸の花よトカレフ購ひそびれ

ああ運否天賦卯の花腐しかな

あなたへの繭の中から糸でんわ

ラムネ呑んで微分積分解く気分

夏期補習ダリの柔らか時計見よ

井の中の蛙見つけぬ井戸浚へ

作麼生の梨の有の実ありやなし

雲隠れしてじらすかよ星の恋

自然薯の尻尾を任じよっこらさ

残り蚊を矯めて嬶への大びんた

釣瓶落しの身は耐へがたし二日灸

勿体なや辻にふぐりを落しける

ゲゲゲバス角を曲がれば葱の剣

裏返し着る一刻がちゃんちゃんこ

俳諧師しをり利かせて米こぼせ

独楽澄めり地球の芯をさぐり当て

・・・・・・・・・・・・・・・・

「受賞の言葉」

綿津見のみおつくしは憧れの異国への「さより符」。少年期は腺病質にて吾が「尾に凭れ」「世を朧」と見做してやり過ごす。

密航の夢やぶれ原罪へ鉄槌の「トカレフ」買いそびれ、青年期には「糸でんわ」のプラトニック。「微分積分」は解けるが「ダリの時計」の柔らかさが逆に桎梏となる。

やはり「井の中の蛙」。禅問答で「ありやなし」とこねくり廻すころ、三角関係の地獄から「星の恋」を知って「よっこらさ」。

妻帯して「大びんた」は撲ったが、中年は躁鬱を患い「二日灸」。「ふぐり」まで辻に落とし、心身を「裏返し着る」一刻ぶり。

さてさて、俳諧師は正月から泣け「米こぼせ」。わが最晩年、独楽という言語回転を以て「地球の芯」の詩嚢をさぐり当てたか?

わが生涯における虚実をピンポイントで捉え、その皮膜を現代の詩として表す。「俳」とは、おどけ・たわむれ。わざおぎ・エンタメ。ハイになって「俳俳俳」。 矢崎硯水。

【選評/中根明美「長すぎる。―――蛇」ジュウル・ルナアル】

『俳俳俳』をソナタに聴くようにハイハイハイを一位に推した。ここには、俳諧の骨法の芯を鷲掴みにして取り出した様がみられた。詩は蛇よりも短きをよしとする言葉を彷彿とさせ、悲喜こもごもを地球の鼓動に乗せた創作には自在感が溢れている。『俳俳俳』の二十句は軽い風刺のあとに見る情に深さがあることも見逃がせない。時の匠は蛇の長きを謡わない。流行では「神つてる」というのであろうか。勿体なやと「ふぐり」を落とした作者の益々のご健吟をお祈りするばかりである」。(2017/05/17)

 

619『寄居虫・俳句』

5月3日付の朝日新聞長野県版の「俳壇」に、筆者の俳句がトップ入選として掲載された。その俳句と選者の仲寒蝉氏の講評をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたいと思う。

 寄居虫のよろけ太平洋荒るる  義人

「近景と遠景、小さいものと大きなもの、俳句の骨頂を憎いまでに踏襲している。なおかつ面白い。寄居虫がよろけたことと太平洋が荒れることとは直接関係ないが、まるで寄居虫が転んだために太平洋が傾いたかのよう書かれている」仲寒蝉氏。

「寄居虫」はエビ目(十脚類)ヤドカリ亜目の甲殻類のうち巻貝の空殻に入る種類の総称。

体はエビ類・カニ類と同じく一枚の頭胸甲で覆われた頭胸部と、七節に分れた腹部をもつが、腹部の甲羅や腹肢の発達の悪いものが多い。歩脚のうち第一体は疳脚、最後体は極めて小形。成長して大きくなると貝殻を取り替えるが、貝殻を取り替えない種類もある。異尾類。

別称別字古名に、かみな・ごうな・宿仮り・おばけがい。春の動物の季語に分類される。

「寄居虫」について辞書など引用したが、寄居虫の体は前部と後部の脚のバランスが悪く、転倒したりよろけたりすることが多い。掲句の「寄居虫のよろけ」の根拠の一部にと辞書等から援用したものである。

仲寒蝉氏の講評はすべてを言い尽くす有難きものだった。(2017/05/05)

 

618『蕗・句歌』

4月19日付の朝日新聞長野県版の「俳壇」と「歌壇」に、筆者の俳句と短歌が佳作として掲載された。その俳句と短歌をここに転載し、併せて「自句自解」「自歌自解」を試みたいと思う。

  蕗味噌のほろほろ苦しUターン  義人

蕗の薹ほろほろ苦きふるさとよ

   都落ちせしおのれ噛みしめ  義人

「Uターン」とか「都落ち」とかいう言葉は、一旗揚げようと都会に出たが故郷に錦を飾れず、故郷に戻って農業や稼業を継いだり、新しい学業に就いたりすることをいう。おおざっぱにいって、「Uターン」は戦後の比較的新しい言葉だが、「都落ち」は相当古い言葉である。したがって「都」とは「京都」を意味している。

「蕗の薹」は「ほろほろと苦い」のが相場である。「苦み」は『浮世風呂二』に「苦みのある能()い男」と男の顔のひきしまってりりしいことをいう意もあるが、これとは別に「不快な気持。また、不快そうな様子」という意味も辞書にはある。

いづれにしても、故郷に錦を飾れない人間が数の上では圧倒的に多いわけだ。「ほろ苦さ」がふるさとの暮らしでの味蕾であろう。(2017/04/19)

 

617『グラウンド・短歌』

4月5日付の朝日新聞長野県版の「歌壇」に、筆者の短歌が佳作として掲載された。その短歌を転載し、併せて「自歌自解」を試みたい。

  グラウンドの大縄跳びは続きをり

   ときに輪っかが富士を捉へる   義人

「大縄跳び」とは10~30メートルの長縄の両端をつかんで大きく廻し、その輪をくぐって多勢の者が跳ぶ競技(遊戯)である。跳び手が多い場合を敢えて「大縄跳び」という。

長縄を廻すと円が描かれる。その円が遥か彼方の富士山を捉えたもの。富士山がたまたま縄の円形のなかに這入った情景だ。これは葛飾北斎の絵画手法で知られる遠近法をもって、縄跳びという卑近な遊戯と霊峰富士をドッキングさせたのである。(2017/04/07)

 

616『草餅・俳句』

4月5日付の朝日新聞長野県版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。その俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたいと思う。

  草餅をひさぐ権兵衛峠かな  義人

「権兵衛峠」にはこんな昔咄が伝わる。昨今はテレ東などでよく放映されるが大昔も「大食い競争」という催しが盛んに行われ、木曽に住んでいた権兵衛さんが団子の食い放題で晴れて優勝した。だがしかし、競り合った相手方の男が団子を喉に詰まらせ頓死してしまった。

それを悲しみ悼み、加えて食糧の流通として、米が採れない木曽の村民へ伊那から送り出すため「米の道」として権兵衛さんが切り開いたというのが「権兵衛峠」といわれる。

さて現実にもどろう。権兵衛峠は国道361号の一部をさす道路だ。長野県伊那市から同県塩尻市に至る全長約7・6キロの地域高規格道路である。道路の大半を権兵衛峠(4467メートル)が占めていることも特筆される。

権兵衛峠には茶店や権兵衛パンや権兵衛アイスなどの店があるといわれるが、「草餅をひさぐ(商う)」店屋があるかどうか筆者は寡聞にして知らない。したがって想像作である。

上記の話とは別に「権兵衛が種撒きゃ烏がほじくる」という俚諺があり、これは人のした仕事を、あとから他の人が壊してゆく無駄骨を折ることの意。権兵衛さんとは、好人物ながらちょい愚かで、ひょうきんなところのある人名らしい。「団子」の昔咄があって草餅と権兵衛峠はふさわしいと思わないか。(2017/04/07)

 

615『寒鯉・俳句』

3月22日付の朝日新聞長野県版の「俳壇」に、筆者の俳句が入選として掲載された。仲寒蝉氏の講評と当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたいと思う。

  寒鯉を包めば跳ねる新聞紙  義人

仲寒蝉氏「寒コイを料るために新聞紙に包んであるのだが、元気がよいために新聞紙ごと跳ねているのだ。その光景がまざまざと目に浮かぶ」。

日本各地の湖沼のある地域には、多寡はあるものの川魚の店が確認できる。たとえば琵琶湖、諏訪湖、十和田湖、印旛沼、霞ケ浦、摩周湖などなど。凡そだが多くて三十軒くらい、少なくても三軒ほどの川魚を商う業者がいるはずだ。「川魚(かわざかな)」という言葉があり『広辞苑』にも収載されている。「川にいる魚・川で捕れる魚」をいう。

余談ついでにいうと、川魚とは(敢えて漢字で表記すると)、鯉(こい)・鮒(ふな)・鰻(うなぎ)・鯰(なまず)・鮎(あゆ)・山女魚(やまめ)・虹鱒(にじます)・蝦(えび)・公魚(わかさぎ)・泥鰌(どじょう)・・・

さらに書き募ると、江鮭(あめのうお)・岩魚(いわな)・諸子魚(もろこ)・柳鮠(やなぎばえ)・白魚(しらお)・鈍甲(とんこ)、それに蜆(しじみ)・田螺(たにし)も、このカテゴリーに入るのでは。

海水魚とはあきらかに異業種なのだ。

諏訪湖周辺には数は減ってきたが十軒弱くらの川魚屋があるのではないか。諏訪湖で獲れた鯉や鮒を、店内の生簀(いけす)で飼っていて客が訪れると売ってくれる。公魚や蝦などは佃煮にして硝子ケースに並べてある。

現在は販売方法がじょじょに変わってきたが、以前は水道かけ流しの硝子製生簀に泳いでいる鯉を網で掬って、新聞紙に包んで販売した。そうして買ってきた大鯉を今は亡きお袋さんは出刃包丁で捌き、旨煮や自家製みそでの鯉濃(こいこく)にしてくれたものだ。

「新聞紙が跳ねて落としそうになった」と、買い物帰りのお袋さんが厨(くりや)でぼやいていたことが思い出される。(2017/03/29)

 

614『八ケ岳・俳句』

3月8日付の朝日新聞長野県版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。その俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたいと思う。

  八ケ岳颪よ荒れよ凍み豆腐  義人

「凍み豆腐」は「荒野豆腐」ともいい、寒中に豆腐を小形に切って熱湯をかけ、屋外で凍らせた後、乾かしたもの。もと高野山で製したからいう。今は冷凍して年中作る。凍り豆腐、凝り豆腐。冬の生活の季語。

「凍み豆腐」は高野山で製したと先に述べたように辞書にある。最初の産出はその通りだろうが、長野県茅野市界隈でも古くから製されている。この地方の冬季の厳寒さ、八ケ岳颪の厳しい風を利しての生産である。

上記の俳句は「よ」という切れ字を二か所に措辞する。「八ケ岳颪よ」「荒れよ」。そもそも「颪」は冬季に山から吹き下ろして風をいうから「荒れ」は不要だが、ここは「念押し」、強調である。ダメ押しで風の強さ寒さを表現したものだ。(2017/03/17)

 

613『隠れん坊・短歌』

3月1日付の朝日新聞長野県版の「歌壇」に、筆者の短歌がトップ入選として掲載された。その短歌と選者の草田照子氏の講評を転載し、併せて「自歌自解」を試みたい。

  隠れん坊うたへる誰も見つからず

   淋しからずや置き去りの鬼   義人

草田照子「外で遊ぶ子どもが少なくなったこの頃、隠れん坊の声を聞くこともない。子どもそのものが少なくなっていることも含めて、自らのさびしさを鬼に重ねる」。

「置き去りの鬼」つまり、鬼になったはいいが、隠れた仲間が誰も見つからない。あちらこちら探し回っても人っ子ひとり発見できず、時間ばかりが過ぎてゆく。

「鬼」とは罰をうけた者、ある意味では罪を償っている者である。そういう立場の者は「仲間を見つける」ことによって刑期を務めあげ更生への道がひらかれるのだ。そして最初に見つけられた者が次の鬼になるとは「罪業は誰の身にも起こりうる」という規範、定めにほかならない。

子供遊戯「隠れん坊」には、救済あっての罪業、罪業による救済という犯罪理念が隠されている。隠されているというよりも、これは仏教に根ざした「お説教」であろう。

「置き去りの鬼」は救済されない淋しい運命なのだ。(2017/03/02)

 

612『詩あきんど26号』

俳誌「詩あきんど」26号の「詩あきんど集2」より筆者の俳句を転載する。会員は12句投句できるが、そのうち10句が二上貴夫氏により選ばれて入集された。10句のなかから筆者の好みで3句を俎上に載せる。

   ◎師走身心リバーシブルで押し通す

屏風の虎瓶底メガネ以て捕らふ

くっさめの果てや大荒れ日本海

◎印は二上貴夫氏が付けたもので「この作者は季語と俗語とのマッチングに境地を見いだそうとされている。師走とリバーシブルの取り合わせに詩が生まれる」との講評がある。

「リバーシブル」とは、布地などが表裏ともに使えること。両面兼用のことをいう。つまり、表は表であるが裏でもあり、裏は裏であるが表でもあるのだ。表が火急ないしは緩やかに裏になり、裏が火急ないしは緩やかに表に取って代わることができる。

リバーシブルとは衣類や布地についていう言葉だが、この俳句の場合はリバーシブルの機能性を「身心」、自分の身と心に置き換えている。師走は師も走るほど忙しい。身と心を表裏すばやく着替えて、すばやく取り繕って暮らしてゆかねばならない。身と心はある意味では、そのような利便性がある。つまりは自分自身を押し通したり胡麻化したり操作できるものでもあるのだ。

「屏風の虎」は古い日本間の屏風にはよく見られる図柄。この家のあるじが夜中に魘されて飛び起き、虎が逃げたと騒ぎだす。枕元においた瓶底メガネをかけて、虎の存在を確認し安堵したという筋立てである。

「くっさめ」は嚔のこと。ハクションの声を発する。くっさめは放つとか捨てるとか形容するが、放射されたその果て、果ての果ては日本海で海は大荒れであったという状況の設定だ。

なんのことはない下らぬ発想だが、俳句の「俳」とはそもそも「おどけ」「たわむれ」である。(2017/02/23)

 

611『第二回近未来連句交流大会()

十二詩潮「ブーメラン」の巻        矢崎硯水捌

A面

    子午線を越えブーメラン飛ぶ      矢崎 硯水

   セロ弾きのゴーシュ弦月仰ぐらん     三神あすか

    神がかりなる発想の妙            硯水

B面

   たましいの叫びを綴るペンの先        あすか

    雪を蹴散らし犬橇の列            硯水

   人はみな骨伝導でみちびかれ           同

C面

    瑞穂の国の花の佳ければ          あすか

   ITの技を駆使するドラえもん         硯水

    カヌーあやつり恋の激流          あすか

D面

   隠しには埋蔵金の地図入れて          硯水

    過去より照らす光芒一閃          あすか

   玉杯を交すヴュジャデの遠花火         硯水

2016年9月22日首尾

形式「十二詩潮」はABCD各面に長句と短句を交互に三句ずつ付け、合計十二句を以て構成する。発句は長句でも短句でもよく、当季または雑。(雑の場合は二句目か三句目を有季とする)。季節順に各面に一句ずつ季語を入れる。春は「花」、夏は「任意の夏の季語」、秋は「月」、冬は「雪」を詠み込む。

十二詩潮「ブーメラン」の巻自注

ブーメランはオーストラリア原住民の使う木製の狩猟用飛び道具。投げると回転しながら手許に戻るのだが、ここでは子午線を越えてしまう。越えることでセロ弾きのゴーシュにも遭遇する。心象と語勢で不条理をねじふせて詩界を渡り歩こうという企み。

犬橇の列が雪を蹴散らす音が骨伝導を以て伝わる。「音」は古来より「訪れ」であり、鼓膜を介してではなく頭蓋骨を介して中枢神経へと伝わる。

「みちびかれ」「花の佳ければ」。行間を渡るとき読み手の意識が前後逆転し次のように繋がる。「佳ければ」→「みちびかれ」。

カヌー&恋の激流といえばエンターテイメント的には埋蔵金&地図だろう。

連句は読解力ある読み手を得て成り立つが、ホップステップなしでジャンプという「行き成り三宝」の先行きは厳しい。現代連句評釈にも「安東次男」出でよ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

上記は入選作品。この作品は「互選ルール」の点数からして入選が妥当なものと思われる。(2017/02/22)

 

610『第二回近未来連句交流大会()

スワンスワン「枇杷の種」の巻     矢崎硯水捌

壱面 枇杷の種ころげて寓話生れけり      矢崎 硯水

    猫も鎮座の早苗饗の膳         三神あすか

   スマホ出しここぞとばかり自撮りして   嵯峨澤衣谷

    古都巡りするレンタサイクル      吉本 芳香

   江戸からの湯屋の廃業つたえられ     渡邉 常子

    月影淡く五郎助の声            あすか

弐面 富士山を一夜で作るだいだ坊          硯水

    虚実織り交ぜ映画撮影         佐藤ふさ子

   すばしこく美人姉妹の入れ替わり        衣谷

    的の外れたキューピッドの矢      軍司 路子

   濡れ衣が罷り通れるユーチューブ     矢崎 妙子

    閻魔庁にも閻魔こおろぎ          あすか

   酔うほどにいざよう月の旅果てて        常子

    白秋短歌水郷を詠み             硯水

   画仙紙を広げ墨客待つとせん          芳香

    名残尽きない空薫の院            路子

参面 天を突きスカイツリーは聳え立ち        芳香

    微かに響く出航のドラ           ふさ子

   いつむうな偽名使って密輸入          妙子

    流言飛語が疾風に乗り           あすか

   若木にも老樹にも杖花並木            同

    陽炎分けて詩あきんどゆく          執筆

       2016年10月19日首尾

形式「スワンスワン」はアラビア数字22(句数)を2羽の白鳥(スワン)に見立てる。「壱面」が6句「弐面」が10句「参面」が6句。春秋は二句から三句。夏冬は一句から二句。「月」は壱面の五句目と弐面の七句目。「花」は参面の五句目。「鳥は句所の指定なし

スワンスワン「枇杷の種」の巻自注

古代インドの釈迦の仏典「大般涅槃経」は枇杷を「大薬王樹」と称し、種の成分が生命維持や万病に有効と説いた。また明治の文豪が枇杷を慌ててかじって種を噛み当て歯が抜けたという逸話がある。枇杷の果肉と種と、その配色の造化の神秘さ異様さ。

田植えを終えた早苗饗の膳には猫も参加して祝う。菩提寺の田植えで枇杷も寺領からの収穫なのだろう。

美人姉妹の入れ替わりはプリンセス天功のイリュージョンを想像されたし。それあって的を外したヴィーナスの子が活きる。

ユーチューブは「文春砲」や「あべ様のNHK」など虚実の坩堝と化す。睨みをきかせるべき閻魔の庁の「舌抜き」の可視化はとんと進まず、閻魔蟋蟀が鳴いているのみ。

スカイツリーは屹然と聳えて天を突きさすが、耳に入るは出航のドラ。ツリーより船に乗りたいとこじつける。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

上記は入選作品。大会賞は一席1、二席2、三席2の合計5作品。入選は合計7作品。なお「スワンスワン枇杷の種の巻」は応募者による「互選ルール」では一席につぐ点数を獲得したが選者三人の合議でなぜか「入選」となってしまった。投票の点数の合計が多い作品が少ない作品より下位になったのはふしぎだった。(2017/02/22)

 

609『枯蔓俳句』

2月15日付の朝日新聞長野県版の「俳壇」に、筆者の俳句が入選として掲載された。その俳句と選者の仲寒蝉氏の講評を転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  枯蔓が宙に象るクエスチョン   義人

仲寒蝉「これは面白い。自然の妙とでも言おうか、枯蔓が空へ伸びているが、よく見ると先端がクエスチョンマークみたいになっている。その発見を見たままに描いている。クエスチョンだけに謎の残る光景である」。

筆者は「自句自解」において言葉の意味や印象や音律の解説をよくするが、今回もそれに倣って書くことになる。そのわけは「言葉の守備範囲」を確かめ、その範囲の境域から出るか出ないの「すれすれ感」をさぐりたいがためである。文芸文学の見所の一つの部面はそこにあると考えるからだ。余談はさておき・・・

「象(かたど)る」とは「形取る」の意で「模る」の字も当てる。①物の形を写しとる。まねる。似せる。②形のないものをなにかの形にうつしかえる。象徴する。(以上『広辞苑』より抜粋)

講評にあるように「その発見を見たままに描いている」のであるが、言いたいのは「造化」である。ここでまた前記の辞書に当たるが、造化とは「①天地の万物を創造し、化育すること。また、造物主。②造り出された天地。宇宙。自然。また、自然の巡行。芭蕉『笈の小文』「――に従ひて四時を友とす」。③ものをつくり出すこと。造作」とある。

「クエスチョン」の形の枯蔓は、冬になって枯かれてしまった蔓という偶然の産物と見るか、万物を創造し化育する「造化」のなせるものと見るか。

水門光圀の印籠のように芭蕉を持ち出して持論を敷衍するやからを多くみかける。それを筆者は軽蔑するが芭蕉曰く「造化に従ひて四時を友とす」には賛成できるのだ。それはアニミズムに通じるところがあるからだ。(2017/02/21)

 

608『みづうみ短歌・ままならぬ俳句』

2月8日付の朝日新聞長野県版の「歌壇」に筆者の短歌が入選し、「俳壇」には俳句が佳作として掲載された。その短歌と選者の草田照子氏の講評および俳句を転載し、併せて「自歌自解」と「自句自解」を試みたい。

  みづうみに白鳥数舞ひ降りて

   白き炎をたてて羽搏く  義人

草田照子「冬真っ盛りの諏訪湖。炎のように白いしぶきを立てる白鳥の動きが、命の美しさのように見える」。

諏訪湖には毎年白鳥が飛来する。数十羽くらいだろうか。しかし犀川ダム湖に飛来する白鳥と行き来(交流)があるので、実際の滞在数は確認しにくい。

あたりに宵闇がせまる薄暮のころ、編隊を組んで飛んできた数羽の白鳥が湖面に舞い降りる。着水のときに羽で「ブレーキ」を掛けるために羽を羽搏かせる。白い大きな羽が「白い炎」のように見える。見紛うのである。

「羽搏(はばた)くと白い炎にみえる」というところを「白い炎をたてて羽搏く」と倒置法を用いて敢えて「白い炎」を強調する。「炎」は当然ながら赤いものだが、赤と白の言葉の置き換えがこの短歌の眼目だ。

選者の「炎のように白いしぶき」は、「水しぶき」つまり液体の飛散をいうのだろうか。水しぶきの白。白鳥の白か。

  ままならぬ世を寒灸に重ね耐ゆ  義人

「ままならぬ」とは、「思い通りにならない。自由にならないこと」をいい、儘ならぬ世と慣用される。「儘の皮」という言葉もあって、「仕方がなくなって、物事を成行きのままにほうっておく時にいう語。ままよ」もある。また「儘に」は「その状態・心情などにそのまましたがうさま。その通り。時をうつさず」などとある。(以上『広辞苑』より抜粋)

大方がご存じの言葉を、なぜに辞書に当たってまで書いたか。それは偏に「ままならぬ世」に込める作者の心持をわかったほしかったからだ。

ところで「寒灸」は冬の季語で、歳時記には数少ない「病態&治療」の季語だ。しかし「灸」は病気の治療ではあるが重篤な病状に用いる治療行為ではない。また艾を通して火気をあてることから人間の我慢や忍耐力の試されるバロメーターであり、「根性くらべ」という笑いの側面も無視できない。

石川五右衛門やジャンヌダルクは「火あぶりの刑」に処せられたが、お灸が生体にあたる火気の面積はすこぶる少なく、火刑に比するべくもない。「灸を据える」は痛い目にあわせる。強く叱責の意であるが、どこかユーモアが入り込む余地がある。

さて掲句であるが、「ままならぬ世」と「寒灸」を「重ねて耐える」、二つを一緒くたにして耐えるという句意である。異質な二つを一緒くたにしたところがユーモア発生源であろうか。(2017/02/10)

 

607『大根抜け・俳句』

1月18日付の朝日新聞長野県版の「俳壇」に、筆者の俳句が入選の一位として掲載された。その俳句と選者の仲寒蝉氏の講評を転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  大根抜けでんぐり返る八ケ岳  義人

「「大根引く」については昔から色々と面白い句があるけれどもこの句は笑い話とすれすれ、何とか俳句側にとどまっている危うさがいい。実際に転んでいるのは人であるが八ケ岳がでんぐり返ったように詠んだ所が手柄」。以上は寒蝉氏の講評。

「大根(だいこん)」は日本でもっとも用途の広い野菜といわれ、歳時記には沢庵大根、千六本、おおね、大根馬、大根焚など五十におよぶ副題がある。

歳時記の分類で「大根」は三冬植物だが「大根引」は初冬生活に分けられる。大根は文字通り大根そのものをいい、大根引は晩秋から初冬にかけて畑から引き抜く収穫をいう。

「山女に投げて通るや大根引」許六。「大根引き大根で道教へけり」一茶。などの古句がみえる。

さて掲句「大根抜け」は、大根を引いたから大根が抜けたという倒置法的なイディオム(慣用)を用いた方法の季語というべきか。ともあれ歳時記の副題にはない季語だが通用するだろう。

なお大根は一般的には「だいこん」読みだが、俳句的には「だいこ」の読みも多くみられる。

句意は寒蝉氏の評される通りで、「八ケ岳」を措辞したことで俳句側にとどまったのであろう。

自分が動作したにもかかわらず自分は静止で、対象の物体が動いたと錯覚することがある。

こんな比喩が許されるなら、たとえば「地動説」。コペルニクスが唱えなければ「天動説」のままで、自分は動くはずはなく対象が動いたと言い募るだろう。勘違いを正当化するのは見苦しいが、心理学でいうところの「錯視(視覚における錯覚)」が文学文芸の世界では「物の見方」の一つの深遠な手法となっている。

大根が抜けるたび「八ケ岳はよくでんぐり返る山だなあ~」と言っていたかもしれない。

これに類する勘違い、錯覚&誤解は実はよくあることである。(2017/01/21)

 

606『蓑虫は・短歌』

12月21日付の朝日新聞長野県版の「歌壇」に、筆者の短歌が佳作として掲載された。その短歌を転載し、併せてその作品についての「自歌自解」を書き記す。

  蓑虫は父よ父よと鳴くといふ

   われ父として何成し得しや  義人

「蓑虫」は昆虫ミノガ類の幼虫。体から分泌した糸で枯れ葉や樹皮の細片をつづり合わせ、袋状の巣をつくって棲む。その状態で枝にぶらさがったままで越冬する。

雄は春に成虫の蛾になった飛びたつが、雌は袋のなかで一生をおくる。木の枝にぶらさがり風に揺れているさまは淋しく哀れ深い趣がある。「父よ父よ」と鳴くと伝えられる。

副題には、鬼の子、鬼の捨子、みなし子、親無子、木樵虫、蓑虫鳴くがある。

「蓑虫の音を聞きに来よ草の庵」芭蕉。「元禄の蓑虫の音と聞きにける」零雨。という俳句がある。「蚯蚓鳴く」「竈馬鳴く」など本来は鳴かない昆虫を鳴かせたり、蟷螂を「拝み太郎」、放屁虫を「三井寺斑猫」と擬人化したり言い換えたり、感情移入する季題が数多く見受けられる。季題がアニミズムに深く根差していると思われるのだ。意識する意識しないに関わらずアニミズム的な精神性が日本人の底流を流れているだろう。

話が逸れてしまった。掲歌にもどろう。「父よ父よ」の鳴き声もだが、木の枝にぶら下がって風に揺れるさまの寂寥感、鬼の子、みなし子などの別称のイメージが「われ父として」に仮託して表現されていることは言うまでもない。「何を成し得しや」という疑問符は、ほとんど何も成し得なかったという意味にも取れるだろう。(2016/12/22)

 

605『豆引けば・俳句』

12月21日付の朝日新聞長野県版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。その俳句を転載し、併せてその作品の「自句自解」を書き記す。

  豆引けばぐっと迫りぬ八ケ岳  義人

「豆引く」は初冬の生活の季語で、副題には大豆引く、小豆引くがある。おおまかな括りは、秋の収穫、農作業の季題だ。

筆者は少年の頃、親が借り受けた土地で豆を栽培し、収穫の手伝いをしたことがある。

豆の莢が鈴生りの豆の木を地面から引く抜き、それを天日で乾燥させる作業だが、豆の木を引く抜くときの感触が忘れられない。

力を込めると土中から張った根っこが抜け、自分の立ち位置が低いので目前の豆の木があっというまに消えさる。辺りがにわかに明るくなる。

さて掲句についてだが、豆引きの動作があるのでそれに連動して八ケ岳が不意に、ぐっと迫ってくるように錯覚させるところがミソ。「引く」と「迫る」にあたかも因果関係が存在するように表現しているのである。

なお筆者少年時の体験は「八ケ岳」ではなく、単なる近くの名もない山だった。いや単なる山でも名称はあるが、それでは俳句にならないので音に聞こえた山を据えたしだいなり。(2016/12/21)

 

604『枯れ山・俳句』

12月14日付の朝日新聞長野県版の「俳壇」に、筆者の俳句が入選した。その俳句と選者の仲寒蝉氏の講評を転載し、あわせて掲載句の「自句自解」を書き記す。

  枯れ山の谺里まで筒抜けに  義人

「空気が澄み草木が枯れて風通しがよくなった山河を谺は直線的に里まで駆け下る。筒抜けという言葉が適切かは難しい所だが面白い表現だ」。以上寒蝉氏。

「筒抜け」を『広辞苑』に当たると「(筒の底が抜けていて、さえぎるものがない意から)①話し声がそのまま聞こえること。また話したことや内密の計画などがすぐに他に伝わること。「暗号文が敵にーだ」②素通りして通り抜けること。金銭を収入があるに従って費消してしまうこと」とある。

そもそも「筒」とは、円く細長くて中空になっているもの、管のこと。それを抜けてゆくことを「筒抜け」というから、掲句の情景に当てはめて適当ではない。ありのままの自然状況として、山から里に向かって「筒」があるわけではないので、「谺」が筒抜けになって下ってくるという表現には違和感があろう。選者の「適切かは難しい所」という評言はそれを言っていると思う。

ところで筆者は、ずっと以前から「言語飼育」(「言語培養」)と表記した豆手帳にお気に入りの言葉(主として単語や形容詞)を書き込み、その言葉を詩歌で用いるとき、通常の文法や語意からあえて逸らし、ずらすことを試行してきた。言葉のもつ「守備範囲」を自分なりに設定して表現の深遠をさぐろうとした。

当然ながら、読み手には表現上の不全とか違和とかの感じを与える他方で、カルチャーショックならぬ「ラングショック」(言語に接したときに受ける精神的な衝撃)を与える効果はあったろうと思っている。広義にはそれが即ち「詩」であると。

掲句に即していえば、山から里まで筒が敷設されその底が抜けたかのように谺という音響が一直線に下りてきた。あたかも筒がそこにあるかのように・・・詠み手にそんなイメージを描かせれば成功である。(2016/12/16)

 

603『この辺り・俳句』

12月7日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品を転載し、あわせて「自句自解」を書くことにする。

   この辺り活断層か螻蛄鳴ける  義人

「活断層」とは、「過去約百万年間にずれたことのある断層。将来もずれる可能性があり、活動中とみられる。地形にずれが残っていることなど近い過去に活動した痕跡が存在。断層の活動は震源となるので、活断層の調査は地震予知上重要」と『広辞苑』にある。

「活断層」は、ある意味でここ20~30年の「時の言葉」である。電力会社の原発が活断層の上にあるとか、ないという問題が何よりも重要な課題になっている。原発は日本列島に点在しており、大きな地震災害のときには未曾有な被害が予想される。

活断層は日本に2000あるといわれ、活断層マップ、活断層データベースも公示されている。活断層は折にふれて飛び出す言葉であり、われわれの居住地の近くにも存在するものだ。

他方で、「螻蛄(けら)」はバッタ目(直翅類)ケラ科の昆虫。コオロギに似て体長約3センチ。昼間は土中に潜み、夜間はよく飛びまわる。土中で「じいい」と鳴き、これを俗に「みみず鳴く」と聞き違える。余談ながら「お螻蛄」は俗に無一文のことをいう。

この辺といわれる活断層の一隅で、螻蛄が「じいい、じいい」と鳴いている。ここが活断層と知ってか知らずか、地中からの単調な鳴き声。いつ果てるとも知れぬ機械的なひびき・・・

活断層という地球の地底の、亀裂と歪みと軋みと、至って小動物の螻蛄との取り合わせを表現したい衝動を抑えきれなかった。作者にとって、そんな作句意欲から齎された俳句である。(2016/12/09)

 

602『花野より・俳句』

11月30日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品を転載し、あわせて「自句自解」を書いてみたい。

  花野よりタイムカプセル朋と掘る  義人

「タイムカプセル」とは「現今の文章・物品などを収納し、将来の発掘を期待して埋める容器」と『広辞苑』にある。辞書の解説では「埋める容器」とあるが、掲句の場合は「埋めた容器」を発掘するところを表現している。

タイムカプセルといえば、小中学校の生徒たちが組単位やグループで、何年後かに掘り起こす予定で文集なり自分宛ての手紙なりを書いて埋める事例が多い。

だがしかし、掲句では「朋(とも)」の字を当てている。前記の辞書を「とも」で当たると「友・朋・伴・侶」がならぶ。「朋(とも・ほう)」にかかわる言葉には「同朋」(足利将軍に近侍し、お伽の役に当るもの)や、「朋友」(朋は同門。友は同志)など友達や親友など一般的な語意のほか上記のような意を含む言葉である。

何を言いたいかといえば、タイムカプセルは学校関係のイベントで容器を埋めたのではなく、少年期(あるいは青年期)の僕と君、二人の同志&同門が意気投合し。檄文とか記念品とかを埋めたものと言いたいのだ。それあっての「花野」、花の咲き乱れる秋の野辺。単なるモニュメントを超越した意味深な場所、いささか偏執的なロマンチシズムを描きたかったのだ。それが筆者の本音である。(2016/12/03)

 

601『コラム600号』

当コラムが600号まで刊行(UP)され、今号は601号である。思えば我ながらよく続いたものだ。2002年1月15日がその1号だから間もなく15年になる。一回の字数は四百字詰の原稿用紙に換算すると3~4枚、継続は力なりというが、続けることはなかなか大儀なもの。

世上のへんてこな題材、二枚舌的な政治家の話、困ってしまった連句の話題、筆者自身の俳句や短歌の自句自解(自歌自解)など、ちょっと目先を変えたり、藪にらみしたり、受け狙い、お道化だったりのスタンスを通したいと思いながら書いてきたが、結果は果たしてどうであったろうか。

最近では入選入賞した自作の俳句や短歌について書くことが多くなったが、自分の文芸作品についてあれこれ説明したり弁解したり、果ては評釈まですることは全くもって邪道だが、その邪道をあえて試み、作品誕生の「🔓を表そうというのだ。

「文芸創作ストリップショー」の齎すものは、決して少なくないと筆者は考えるのであるが・・・(2016/12/01)

トップページ
メニューページ
620「第三回宝井其角俳句大会二十句詠」
619「寄居虫・俳句」
618「蕗・句歌」
617「グラウンド・短歌」
616「草餅・俳句」
615「寒鯉・俳句」
614「八ケ岳・俳句」
613「隠れん坊・短歌」
612「詩あきんど26号」
611「第二回近未来連句交流大会()
610「第二回近未来連句交流大会()
609「枯蔓俳句」
608「みづうみ短歌・ままならぬ俳句」
607「大根抜け・俳句」
606「蓑虫は・短歌」
605「豆引けば・俳句」
604「枯れ山・俳句」

603「この辺り・俳句」
602「花野より・俳句」
601「コラム600号」