河童文学館

コラム「その26」

600「似て非なる・俳句」
599「進化論退化論」
598「免許証更新手続き」
597「高齢者講習会」
596「マネーファースト」
595「詩あきんど(4)」
594「詩あきんど(3)」
593「詩あきんど(2)」
592「詩あきんど(1)」
591「トランプの黒い言霊」
590「登り窯・俳句」
589「キャンバスに・短歌」
588「ひぐらしに・俳句」
587「目薬させば・短歌」
586「さくらんぼ・俳句」
585「詩あきんど24号」
584「跳ね近き短歌・紙魚喰ひ俳句」
583「せせらぎの俳句」
582「海底の俳句」
581「子連れ狼ハリウッド
映画化」
580「生涯の歌」
579「思考液状化」
578「見た目、思い込み、勘違い」
577「汐まねき俳句」
576「百千の俳句」
575「詩あきんど第23号
574「20句詠部門」
573「フリー投句部門」
572「ユトリロの俳句」
571「吾輩は俳句」
コラム column

600『似て非なる・俳句』

11月16日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品と「自句自解」を書き記したい。

  似て非なるピカソも混じり美術展  義人

「似て非」は「似而非(にてひ)」で「外観はよく似ているが、内実はちがうこと。また「似而非(えせ)」は①似てはいるが、実は本物ではないこと。まやかし。にせもの。②劣っていること。③悪質。一筋縄ではいかないこと。したたか。」(『広辞苑』より抜粋)

「ピカソ」といえば奇妙、奇天烈な物体や女体を極彩色で描き、どうかすると餓鬼のいたずら描きに見えなくもない。テレビでピカソと小学生の絵とを名前を伏せてならべ、どちらがピカソかという検証をやっていた。回答の半分近くは間違えていた。

さて掲句であるが、「美術展」が三秋の行事の季語。「美術展覧会」が正式で、副題として「日展」「院展」「二科展」がある。秋は美術を賞玩するシーズン。各地で展覧会が催される。

ここでいう「美術展」は夙に知られる画家たちの絵が展示されるのではなく、素人に毛が生えたレベルの絵描きたちの展示場なのだ。したがって「ピカソ擬き」も大目に見られるというもの。それも楽しからずやと、暗に優しく揶揄している俳句である。(2016/11/22)

 

599『進化論退化論』

「ヒト」は時代が進むにしたがって人間として「身心」ともに進化し、壮健で慈愛に満ち満ちてゆくものと思っていた。核兵器廃棄、戦争をしない、人種差別をしない、人権重視、京都議定書・・・そういう方向に行きかけたのだったが、ところがどっこい、昨今は世界的規模で逆方向に舵がきられる。切られようとしている。プーチン、トランプ、小胆者では、ドゥテルテ、アベ、シュウなどが、隙あらば「人間として恥ずべき野望」を燃え滾らせている。

「進化論」は生物の形態について生理、行動、生態など「身」についていうが、その「心」も当然ながら影響されるものと考えられていた。とことが「心」つまり精神&感情&心理の部面でヒトは進化せず、むしろ退化してゆくのではないかとさえ思えてならない。

蒸し返され繰り替えされる、有色人種差別、難民入国拒否、ヘイトスピーチ、極右翼、ヒットラー賛歌・・・開高健の小説『パニック』の最終章ではないが、鼠の大群が集団ヒステリーを起こし、湖水のなかに次々と飛び込む奇怪なさまをイメージしてしまう。あれはヒトの末路なのかもしれない。(2016/11/20)

 

598『免許証更新手続き』

免許証更新手続きのため警察の交通課を訪ねた。すでに自動車教習所での視力検査では合格ラインだったが、眼(視力)は「水物」というそうで、その日の体調によって見える日、見えない日があるとか。知り合いの眼科医もそう仰っていたので、果たしてどうだろうかと心配だった。

裸眼では左右とも普通免許の視力水準には届かず、眼鏡使用で合格という結果になった。自分では道路や路肩、通行人や器物はしっかり見えているのだが、それでも辛うじて視力合格ということだろうか。

昨今の「高齢者ドライバー事故」のなんと多いことか。高速道の逆走やブレーキとアクセルの踏み間違えなど連日のように報道されている。70代80代の事故が急増しているように感じられるが、この年代のドライバーが多くなってきたのか。

ともかく目の敵にされる高齢者ドライバー。その年代の渦中にある筆者。肩身が狭いのだが、事故を起こさず迷惑運転をしなければ許されるのであろうが・・・

筆者は運転免許証を取得してから50年を越える。青年の砌にスピード違反で罰金を食らったことは一回あるが、交通事故を起こしたことはない。遠くは仙台や京都くんだりまでの「漫遊ドライブ」もあったが無事故である。慎重居士なのだ。それでも最近は運転自慢者が事故を引き起こすとテレビで報道していた。とまれこうまれ、これが最後の免許更新かもしれない。(2016/11/18)

 

597『高齢者講習会』

運転免許証更新のため、筆者このたび自動車教習所で「高齢者講習」を受けた。視力検査や運転実技のほか、認知症に関する検査や講習も受診受講した。

生年月日や今日は何日の何曜日で、現在の時間は何時何分か?そしてペーパーに時計の文字盤&時間の算数字を書き、長針と短針でリアルタイムを示せよ。というもの。

筆者は大好きな「ダリの柔らかい時計」やAmazon通販の「文字盤逆回転腕時計」が頭に浮かんで、危うく回答を間違えそうになってしまった。

そもそもこの年齢になるとカレンダーも時計もほとんど不要である。世間では「ゴールデンウィーク」とさも楽しげに騒ぎたてるが、こちとら一年365日がゴールデン(黄金)。タイムカードもランチタイムも退社時刻もないから時計は無用の長物だ。本川達雄著『ゾウの時間ネズミの時間』という書物があったが、こちとら凡て「おれの時間」で、正確な時報なんぞどうでもよろしい。

また講習のスライド画面に、ヘリコプター、豚、猫、寿司、ジーパン、自転車、金槌など約40種のイラストが現れ、それを記憶せよ、という。記憶したことは記憶したが、それから交通法規の改正点の話があって、さてさて、先ほどの「イラスト」を思い出して書き出せというのだ。「意地悪~」、すぐなら大方は思い出せたのに・・・。

ともれこうまれ、教官から今日は何日で何曜日と丁寧に話しかけられ、アナログ時計の文字盤を書かせてもらい、長い針と短い針を間違えないようにと優しく教えられ、幼稚園の年少さんのような「童心」に帰ることができた。後期高齢者なんぞ世間も政治も鼻もひっかけてくれないが、大昔に帰って「小さなお坊ちゃま」の自分と遭遇したような錯覚を覚えた一日だった。(2016/11/17)

 

596『マネーファースト』

2020年の東京オリンピック・パラリンピックの競技会場について、都知事やその周辺者が「アスリートファースト」と言っている。競技場の場所や建設や改築について、選手の希望を第一に考えるべきだというのだ。アスリートやその所属する競技団体などが立派な競技施設を作るようつぎつぎ要求してくる。

競技場や施設は当然ながら多額な費用がかかる。費用は全額といわないが都民、国民の税金である。

どうも彼らには日本の現状が認識できていない。震災被災者や生活困窮者が多く、また15年末で1049兆円にもおよぶ莫大な国の借金(国民一人当たりの借財826万円)や年金制度の先行きが危惧されるこの国の「国情」に対して心を配ることができない。また知ってはいても、自分たちのためのエゴイスティックな考え方しかできない。

立派な競技場でなければ良い結果が出せないというのは言い訳にすぎず、それを理由にするのは真のアスリートではない。ドーピングなしでは勝てないアスリートと同類だろう。

レガシー(遺産)などはいらぬ。長野冬季オリンピックの負の遺産を検証してみたらいい。ここでいうレガシーとは所詮そんなもの。「マネーファースト」・・・とにもかくにもお金を第一に考え、費用を絞れるだけ絞らなくてはならない。(2016/11/17)

 

595『詩あきんど25号()

  千万のげそ靡かせて烏賊を干す  硯水

「烏賊干す」・・・烏賊は種類によって漁期が異なるが、鯣(するめ)にする烏賊(するめいかなど)は秋が最盛期である。大漁が続くと縄を張りめぐらした烏賊干し場には、胴を切り開いた烏賊をすきまなく並び干される。秋日の白さに輝く烏賊の白はだが、空や海の紺を背景にして秋澄むの感じを深め、烏賊襖という言葉がぴったりする。『日本大催事記』。

「げそ」とは下足の略の意もあるが、鮨屋などで烏イカの足のことをいうと辞書にある。

蛸や烏賊など頭足類は4対、つまり8本の足をもっているが、烏賊はさらに蝕腕という獲物を捕らえるために使う2本の腕()があり、都合10本あるように見えるという。

浜辺の「烏賊干し場」には数えきれないほどの烏賊が並べて干され、海風にかすかに揺れている。靡いている。ぶら下がった「げそ」も揺れている。

烏賊1匹(1杯)についている足10本!!

沢山を「千万」といい、烏賊の足をあえて符牒語(隠語、スラング)で「げそ」と叙した取り合わせである。(2016/11/15)

 

594『詩あきんど25号()

  蜉蝣の翅やヒッグス粒子これ  硯水

「ヒッグス粒子」はわれわれの身を含めすべての宇宙空間を充たしている素粒子として、イギリスの物理学者ピーター・ヒッグス博士が1964年にその存在を予言。そして2013年に博士はノーベル物理学賞を受賞している。

ヒッグス粒子の役割は宇宙すべての物質に「質量」を与えること。すなわち、あらゆる物質に「重さ」を与えることである。質量があるから物質は「動きにくくなる」というわけだ。ヒッグス粒子についての説明にはよく「雪」(質量)が喩えられる。

これまでに16種の素粒子が認められ、ここにきて見つかった素粒子「ヒッグス粒子」は「神の粒子」といわれている。

さて掲句であるが、「蜉蝣」はカゲロウ目、広くはアミメカゴロウ目を含む昆虫の総称。体も翅も弱々しく、二本または三本の長い尾毛がある。水辺に飛び、交尾・産卵を終えれば数時間で死ぬ。幼虫は二~三年を経て羽化。種類が多く、また別種もこれに含めて呼ばれることもある。古来よりはかないものの喩えに用いられる。

「蜉蝣の翅」はうす黄色に透けて弱々しく打ち震え、水辺の草に止まっている情景がみられる。このときの「翅の質量」はどうだろうか。それを眺めている私の「質量」との重さの対照。両者の「動きにくさ」はどうだろうか。(2016/11/15)

 

593『詩あきんど25号()

  クオリアの林檎をかじる歯応へよ  硯水

「クオリアとは心的生活のうち、内観によって知られうる現象的側面のこと。とりわけそれを構成する個々の質、感覚のことをいう。日本語では「感覚質」と訳される」と『ウィキペディア』に載っている。

簡単にいうと人間が感じる「感じ」のことで、たとえば、「赤い色」をみて私が赤い色といえば、友人も赤い色だよねという。赤い色という言葉では共通認識しているが、視覚から脳に到達した色が果たして私と友人とが同じ「赤い色」であろうか。

「クオリア」は脳科学の側から神経科学、認知科学など内外で論究され、哲学の側から心身問題や自由意志の問題として研究されている。

これだけの引用では「クオリア」用語説明の態をなさない。詳しく知りたい方はインターネットで検索してほしい。

さて掲句であるが、「クオリアの林檎」とは、今ここに在る赤い色の林檎・・・これを感じている私。「かじる私」「その歯応へよ」。視覚から味覚への一直線の怒涛!(2016/11/15)

 

592『詩あきんど25号()

俳誌「詩あきんど」25号が刊行された。二上貴夫選「詩あきんど集Ⅱ」に筆者の俳句が10句収載された。そのなかから数句選んで「自句自解」を試みたい。初めに貴夫氏が◎を記した一句を取り上げる。

  芬芬と三井寺斑猫なんまいだ  硯水

「「三井寺斑猫」は秋の季語で亀虫。放屁虫。へこき虫。俗臭芬芬と言うので悪臭かというと、良い香りと感じる御仁もある」二上貴夫選評。

「二説あり、一つは三井寺ごみむしの別称。いま一つは、かめむし・ごみむし・おさむしなどのように、捕えると悪臭を放つ昆虫の俗称。三井寺ごみむしの場合も、危機にあうと石炭酸に似た臭気を放ち、これが皮膚につくと、赤黄色のしみを残して、なかなか落ちない。いずれにせよ、悪臭をだすことでは同じで、ここから放屁癖のある人のことを放屁虫という。滑稽感になんとないあわれの感が伴って、うまくこなすと妙な味わいのでる季語である」『日本大歳時記』。

貴夫評と歳時記の説明の援護射撃でほぼ言い尽くされているが、「なんまいだ」について書き加える。

「なんまいだ」とは「南無阿弥陀仏」の転で、南無阿弥陀仏とは阿弥陀仏に帰命する意だ。これを唱えるのを念仏といい、それによって極楽に往生できるという。つまり屁糞虫の悪臭をいただかなければ極楽往生できないのだ。悪臭香気表裏一体。(2016/11/14)

 

591『トランプの黒い言霊』

フィリッピンのドゥテルテ大統領もだが、アメリカの大統領になるドナルド・トランプ氏も日本語表記ならば「暴言太郎」だ。

卑猥な言葉で女性を軽蔑したり政敵を罵ったり、常軌を逸した悪意にみちた外交方針や経済政策をアジテーションする。アジテーションというよりも口汚くぶちまけるといった方が正しいだろう。

これが政治家の言葉だろうか。政治家というよりも人間の言葉だろうかと思ってしまう。というよりも、このような言葉の横行が示唆するところは「世界の終りの始まり」かもしれない。民主主義や資本主義の危機の始まりかもしれないと思ってしまうのだ。

日本には「言霊の幸ふ国」という言葉があり、言霊の霊妙な働きによって幸福をもたらす国の意で、わが国のことを指す。

「言霊」とは言葉に宿っている不思議な威力をいう。古代、その力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられた。

「罵詈雑言」も言葉である以上は霊魂が宿っている。どす黒い色をした悪魔の霊魂に相違あるまい。ドナルド・トランプ氏が当選時に神妙な面持ちで敗者のヒラリー氏を称えたり、バラク・オバマ大統領ににこやかにすり寄って握手を交わしたりしても、(これはこれで良い言霊であり多少割引されることはあっても)それ以前に投擲した「嘲罵(ちょうば)のどす黒い霊」は消え去ることはない。世界中に拡散し人びとの心を蝕むであろう。発せられた言葉を消す「消しゴム」はない。言葉の霊を閉じ込める魔法の筐はない。(2016/11/13)

 

590『登り窯・俳句』

11月9日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に筆者の俳句が入選として掲載された。選者は仲寒蝉氏。その作品と選評を転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

   登り窯火入れ促す百舌鳥の声  義人

「百舌鳥の鋭い一声を登り窯の火入れを促していると聞いたのだ。確かにあの声は炎の激しさにふさわしい」。仲寒蝉氏。

「百舌鳥」はスズメ目モズ科の鳥。日本・中国北部で繁殖し、北方のものは冬は南に渡る。昆虫・蛙などを捕食。他種の鳥や動物の鳴き声をよく真似る。秋から冬には雌雄別々になわばりを張り、その宣言として高い梢などで鋭い声で鳴き、それを「モズの高鳴き」という。「モズの速贅(はやにえ)」を作るのは有名。なおモズはわが国に五種類が分布」と『広辞苑』にある。

百舌鳥は決して美しい鳴き声ではなく、わけても「高鳴き」は強烈鮮烈な鳴き方だ。

登り窯の火入れ・・・窯に入れた「半作品」の出来栄えに思いを馳せながら、これで火入れしてよいだろうかという心に逡巡があるとき、それを促すような百舌鳥の鋭い声が聴こえてきた。「(さい)を投げろよ」と百舌鳥に背中を押されたのである。

余談ながら、筆者考案に「百舌鳥爺(もずじい)」という季語がある。百舌鳥を擬人化したもの。三秋動物・百舌鳥の副題。

芭蕉は「俳諧師たるもの季題の一つ二つはこさえよ」と門弟に述べたそうで、「百舌鳥爺」は十数年以前にネット発表し、それを見つけた美大の女子学生が、ひょんなことから彼女自身のHPで描いてくれた。

もっとも、そんな季語が歳時記に収載されたり句会で題詠になったりすることもなく、筆者自身さえ忘却の彼方に追いやらていたが、今回の掲句でふと思い出した次第也。(2016/11/12)

 

589『キャンバスに・短歌』

11月9日付の朝日新聞長野版の「歌壇」に筆者の短歌が佳作として掲載された。選者は草田照子氏。その作品を転載し、併せて「自歌自解」を書いてみたい。

  キャンバスに向ひて描く自画像の

   よそよそしさに募る苛立ち  義人

「自画像」を描くことは、「自分史」を書くことと共通するものがある。自画像は抽象的に描く手法もあろうが、デッサン重視のリアリティがないと見方によって似ても似つかぬ人物画になる懸念がある。しかしひるがえって写実的にディテールを描くことは、自分の醜い部面を見つめざるをえないことにもなる。恥部を凝視しなくてはならない。

「自分史」もしかりで、賞罰や経歴に嘘は書けないにしても、過去の考え方や感情など内面的なものは脚色したくなる。嘘偽りなく述懐できるとはかぎらない。

「自画像&自分史」に通底するであろうもの、それは、あるいは自意識過剰な筆者だけのものかもしれないが、「自己欺瞞」が避けて通れないように思えてならないのだ。

自画像と自分史を敢えてくっつけて御託をならべたが、掲歌の「よそよそしさに募る苛立ち」という、いかに内省的にクールにおのれを見つめることが困難であるかを表現したかった。「キャンバス」も「自画像」も筆者の実生活とは無縁の素材で、心象を描写するための具体化、形象化の小道具だった。こういう歌づくりは歌人たちに軽蔑されるであろうか。(2016/11/12)

 

588『ひぐらしに・俳句』

10月26日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品をここに転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

  ひぐらしに鳴かれて馬籠泊りかも  義人

「ひぐらし(蜩・茅蜩)」は蝉の一種。体長2・5から4センチメートル。全体は栗褐色で緑色および黒色の斑紋が多い。雄の腹部は大きく、薄半透明で、共鳴器となる。夏から秋にかけ、夜明けや日暮に、高く美しい声で「かなかな」と鳴く。カナカナ」。(『広辞苑』)とある。

「ひぐらし」の語音には「日暮し」の言葉がかさなり、一日を暮らす意。朝から暮れまで。一日中。ひねもす。終日。また、その日ぐらしの語意もある。

吉田兼好『徒然草』の「つれづれなるままに、日暮し硯に向ひて、心に移り行くよしなしごとを、そこはかとなく、書きつくれば・・・」があり、日本三大随筆ゆえ人口に膾炙するので「日暮し」の言葉はよく知られる。そして語音が同じためもあって、蝉の「ひぐらし」が俳壇の「季語ランキング」で近代以降の人気季語とされている。

さて掲句の句意であるが、宿泊場所を定めない気軽なぶらり旅を続けていたのだが日の暮れちかく、「かなかな、かなかな」とひぐらしに鳴かれる。宿泊の決断を迫られるように鳴かれ、木曽馬籠宿に宿を取ろうかと思い始める。

語尾の「かも」は疑問のカに詠嘆のモを添えたもの。詠嘆しながら疑う意を表す。願望を表す、しようかな。つまり「馬籠に泊まることにしよう」と決めかけている状況である。五七五のリズムがよいところが取り柄だ。(2016/10/27)

 

587『目薬をさせば・短歌』

10月19日付の朝日新聞長野版「歌壇」に、筆者の短歌がトップ入選した。その作品と選者の草田照子氏の講評を転載し、併せて「自歌自解」を書いてみたい。

  目薬をさせば目裏ひんやりと

   今朝の秋てふ言葉身に沁む  義人

「「今朝の秋」は、秋の季語で立秋の朝のこと。目薬をさした時のいつにないひんやり感は、立秋という言葉のよび起こす朝のさわやかさであり、また信濃の短い夏への思いもあるのだろう」草田照子氏。

「目裏(まなうら)」は間違いではないが「眼裏(まなうら)」と書くのが正しいだろう。これは筆者のミス。「眼裏」は一般的にかなり使われているが、『広辞苑 』など多くの辞書には収載されていない。(一部の辞書には載っていて「目の奥、強い印象やはっきりした残像を映すところとしてのたとえ」とある)

人体の部位で、目鼻口耳肛門性器など通称「孔(あな)」と称されるもののなかで、尤もレアな部位は「目()」といわれている。筆者詳しくは知らないが、涙腺や血管や神経などすこぶるソフトでデリケートなところなのだろう。

「目薬」はそもそも冷たいが、秋から冬にかけては目薬をさしたとき秋は「ひんやり」し、冬は「ぞくっと」する。その嚆矢が「今朝の秋」、つまり立秋というわけだ。

話が回りくどくなってしまった。人体のレアな部位と冷たい液体との遭遇・・・その背景には「信濃の短い夏への思いもあるのだろう」。

さらに回りくどく更に牽強付会すれば、「信濃の夏」はむろん暑いことは暑いが「糞暑く、汗みどろ」ではなく、冬の寒さとの「代償作用」として、そのバランスとして快い暑さなのだ。そんな感覚が信州人にはあるのである。(2016/10/21)

 

586『さくらんぼ・俳句』

9月28日付の朝日新聞長野版の俳壇に、筆者の俳句が入選した。その作品と選者の仲寒蝉氏の講評を転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  さくらんぼぐるぐる廻し倦怠期  義人

「上五中七を平仮名にしたことでアンニュイな気分が出ている。さくらんぼを口に含んだり食べたりはするがぐるぐる回す人はあまりいない。倦怠(けんたい)期は通常夫婦の間に対して言われるが何があったのか気になるところ」仲寒蝉氏。

そのかみ、わが草庵にはナポレオンという品種のさくらんぼの木があった。幹から脂(やに)が吹き出したり枝葉が毛虫に食われたりして枯死してしまったが、大粒で甘くて美味しかった少年時代の記憶がある。

さくらんぼは、寒冷地に育つバラ科サクラ属のセイヨウミザクラの果実。果実といっても林檎や梨と比べると至って小粒であり、茎をふくめて独特な姿形をしている。可愛くてメルヘンチックな形状なのだ。むろん食べて美味しいが、親指と人差し指で茎を持って小さくて丸い果実をぐるぐる廻したり、自分の頬を叩いたりして戯れ遊んだものだ。

倦怠期という言葉は、寒蝉氏がおっしゃるように夫婦の間の関係に対して使われることが多い。たとえば世俗的には三年目とか七年目とか浮気とかの例証として使用される。

話はいささか逸れるが、心理学には十七歳と四十八歳が人間の一生における倦怠期であるという一部学説がある。上記の年齢をふくむ前後三年間が生きてゆくことに対する倦怠、つまり「いやになってなまけること。あきあきすること。疲れてだるいこと」(広辞苑)。だというのだ。精神医学における、いわゆる厭世の症状が根源にあると言われている。

さてさて掲句の「倦怠期」を、俳句は第一人称であるというなら、筆者自身の身の上話となろう。第二人称ならば筆者と家人を題材にしているといえよう。しかし第三人称というならば「倦怠期」は創作であり物語ということになろうか。

与謝蕪村は俳句を第一人称だけにとどまらず、第三人称的にとらえ説話や物語、フィクションを多く取り入れた。筆者も俳句は自分を表現するだけのものとは思っていない。

・・・これから頬張ろうとするさくらんぼを、肩肘ついた姿勢の指先でぐるぐると廻す。小さくて可愛い果実の動きに、「いやになった。なまける。疲れてだるい」そんなアンニュイな気持ちが連動してかさなる。(2016/09/29)

 

585『詩あきんど24号』

俳誌「詩あきんど」24号が、隔月刊から季刊として改めて刊行された。

今号は「時鳥集」の序として「詩あきんど集十五号より頁を繰っていき、前号までの抄出に選ばれた俳句を主に、懐かしく集にまとめようと思い立つ。集の名は『古今和歌集 夏歌』三十四首のうち二十八首が詠まれている「時鳥」を選んだが、「雪月花」につぐ伝統美であり。其角も多く詠んでいる」(以下略)

入集された筆者の俳句を転載する。

    「夏」

誰そ彼はへくそふんぷん灸花  硯水

パリコレの脱衣の綺羅や蛇の衣  硯水

    「冬」

吾輩はへっつい猫の末裔ならん  硯水

而してふぐり落して生き延びよ  硯水

    「秋」

ピテカントロプス歩きの夜学生  硯水

地軸やや軋む蚯蚓の声すれば  硯水

疣多き柚子と地球儀撫ででみん  硯水

    「春」

春宵のミザントロープ独語せり  硯水

アンニュイにあらず蛙の目借時  硯水

つづいて、「詩あきんど集Ⅱ」(二上貴夫選)には筆者の俳句が10句選らばれているが、筆者自身も佳いと思われる作品を転載する。

  歯磨きチューブ絞り切って土用明

  キュビスムの風蘭視覚ひん曲がる

 ◎箸といふ接続詞もて冷さうめん

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  白夜の月は姫を孕んで産み月へ

  喃語あぶあぶと渡る江の島虹の橋

  明易きわたつみ抜けて董子誕生   (2016・5・17)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

二上貴夫氏コメント。「日常の中に胚胎する騙し絵というところ。一点透視図法を否定したキュピスムを俳句にしたら。接続詞の喩は面白い」。

「23号よりの抄出」として四人の同人が10句ずつ前号より再選している。

  子午線の旅の途次なり朧なり

この俳句は二人の同人が選び、

  虻の飛ぶ非ユークリッドの蜜の原

は一人の同人が選んでいる。

今号は作品の転載だけにとどめ、すでに当コラムで採り上げている作品も多いので「自作評釈」は遠慮したい。

(2016/08/18)

 

584『跳ね近き短歌・紙魚喰ひ俳句』

8月17日付の朝日新聞長野版の「歌壇」と「俳壇」に筆者の短歌と俳句が佳作として掲載された。例によってその作品を転載し「自作解釈」を試みたい。初めに短歌。

  跳ね近きおのが人生劇場の

   主役なれども「ごみ出し」の役  義人

言わずもがだが、「跳ね近き」の「跳ね」は、物事の終わり。結末。その日の興行の終わること。ここでは興行の終わることが間近いことをさす。

「人生劇場」は尾崎士郎の長編自伝小説を俤にして、自分自身の人生を演劇になぞらえる。演劇の「主役」に対比させて「ごみ出しの役」は、実生活の作業の「役割」に置き換えている。

「跳ね近き」は輝かしい主役を張ってきた人生も終焉に近く、その輝かしさとは対照的な「ごみ出し」の役柄(端役)になりさがってしまう。演劇の「役」を通しての述懐の短歌である。

つづいて俳句。

紙魚喰ひの中也詩集の欠字追ふ  義人

「紙魚」はシミ目(総尾類)シミ科の原始的な昆虫の総称。体は細長く無翅。体長約一センチメートル。体は一面に銀色の鱗におおわれ、よく走る。衣類、紙類などの糊気のあるものを食害。体が魚に似ていることから魚の字を当てる。世界中に分布。しみむし。きららむし。ともいう。夏の季語。

「中也」は詩人の中原中也。山口県生まれ。抒情的で透明な独自の詩境をひらいた。詩集「山羊の歌」「在りし日の歌」。

紙魚に喰われた詩集のページの欠字。つまりあるべきはずの文字が脱落していて読めない。何とかして文字を追おうとする。眼と心を研ぎ澄まして追おうとする。紙魚(銀色鱗)と中也(透明抒情)の取り合わせ。(2016/08/18)

 

583『せせらぎの俳句』

7月27日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に筆者の俳句が入選した。その作品と選者の仲寒蝉氏の講評を転記し、併せて「自句自解」をこころみる。

  せせらぎは読経にも似て破れ傘  義人

「せせらぎを読経の声に喩えた。ふと脇の林の中を見ると破れ傘があのユーモラスな姿をさらしている。取り合わせの句であるがとても実感がある」仲寒蝉氏。

「破れ傘」はキク科ヤブレガサ属の落葉多年草で、山地の樹下に生える。草丈は約60センチ、葉は大きく掌状に七つ八つに深く裂け、傘を畳んだように垂れ下がっている。この傘の形状は洋傘ではなく、唐傘を指すのであろう。夏の季語。

この草の名を冠した「破れ傘刀舟」副題「悪人狩り」という萬屋錦之介主演のテレビ時代劇(1974年~1977年NETテレビ(現・テレビ朝日))がある。蛇足ながら・・・。

さて、掲句であるが、山歩きをしていて渓流のせせらぎが聴こえてくる。せせらぎの響きが、山間の反響のせいか読経の声に聴きとれることがある。読経に似ていると感じられた。

「読経」と「破れ傘」の取り合わせだが、せせらぎを読経に喩えることはいささか牽強付会であるが、破れ傘がそもそも草を傘にたとえており、さらに悪人狩りの時代劇の題名になったように、勧善懲悪主義的な正義感乃至は大向こうから拍手される無頼派のイメージがある。無常観もある。

決して可憐な草花ではないのだ。そのことが牽強付会を寛容させる力になっているのかもしれない。一読、散文調を思わせるが「読経にも似て」の「似て」で切れ、程近い場所に破れ傘が生えていたという状況である。(2016/07/30)

 

582『海底の俳句』

7月20日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に筆者の俳句が佳作として掲載された。選者は仲寒蝉氏。その作品を転載する。

  海底のごとく街見ゆサングラス  義人

いまさらながら「サングラス」を辞書に当たると「強い日光の直射を防ぐための色ガラスめがね。日よけめがね。季・夏」と『広辞苑』にある。

こうした効用面にかてて加えて、装飾面でも重要視されている。意匠を凝らした色メガネをかけることによる顔面のグレードアップ、それとは逆に、素顔を他人に見せたくないという偽装効果。すなわち「変身の小道具」の一つでもあるだろう。

サングラスのデザインやレンズの色合い、紫外線カット、超撥水や雨除けワイパーなど機能も多種多様だ。ただレンズの色合いについては青系が売れているといわれる。

さて筆者は、若いころサングラスを3本ほど持っていたがいずれも安物で、レンズは青色のものだった。青系のなかでも濃淡はあったが、濃い目のレンズは細かいもの、物の陰にあるものを見落としそうで何となく馴染めなかった。車の運転にも不安がつきまとった。

さて掲句は、サングラスをかけて街並みを眺めると、街並みが海底のように見える。青いレンズに透けると商店街や電柱や看板が、海の底での暗礁や海草や沈没船の残骸に見えたりる。通行人の衣装が青さに透けて魚が泳いでいるかの如く錯誤してしまう。少しく深読みすれば、そういう句意である。

()を海()に見立てる。違うものに喩える。水陸という全く違うものを入れ替える。入れ替えることによる認識や意識の変質とか違和とかを引き出す。文芸文学とは、そして言語とはそもそもなべて比喩である。

マリナ・ヤグエーロ著「言語の夢想者」(工作舎刊)から大ざっぱに敷衍していうならば、阿弗利加象(あふりかぞう)は、言葉をほとんど知らない人類の驚きの発語から喩えられて名付けられたのである。言語のはじめは比喩から成り立っているというのである。

話がだいぶ脱線してしまった。色メガネの曇りガラスを拭こう。(2016/07/23)

 

581『子連れ狼ハリウッド映画化』

「子連れ狼ハリウッド映画化」という見出しのニュースが飛び込んできた。『子連れ狼』は小池一夫原作、小島剛夕画の日本の時代劇漫画として夙に知られ、主だったものでは若山富三郎主演で映画化、萬屋錦之介主演でテレビドラマ化された。

ハリウッド版の「攻殻機動隊」の製作も担当しているスティヴン・ポール氏の手によりハリウッドでの映画化の話が動き出しているというのだ。スティヴン・ポール氏は、長年にわたって日本の「子連れ狼」に関心をいだきつづけ、映画化を熱望していた。

「子連れ狼」の殺陣である「乳母車」に仕掛けられた秘密兵器は、鉄の盾、ガトリック銃のほか、大量殺傷兵器であるマシンガンも装置されている。大五郎の揺りかごであるべき乳母車が、意表外を突く武器であることが劇画のセールスポイントの一つだ。子連れ狼ハリウッド映画化を大いに賛成する筆者である。

話は変わるが、そのかみ、一節太郎のダブルミリオンとして知られる「浪曲子守唄」(作詞作曲・越純平)を主題歌とする任侠映画「浪曲子守唄」はかつて東映から映画化された。歌謡「浪曲子守唄」を知る人はいまでは少数派だろうが、BSやYouTubeで島津亜矢がカバーして入魂の歌唱を誇っている。

乳飲み子をかかえたイカサマ博打打ちが、やくざ稼業から足を洗うため山の露天掘り(土方渡世)をしながら我が子の世話をする歌である。一番から三番まである各節の最終フレーズを「♬ 浪曲節(なにわぶし) 一つ聞かそか」「浪曲節 二つ聞かそか」「浪曲節 三つ聞かそか」・・・「ねんころり」と絶唱する。

筆者は「浪曲子守唄」も「子連れ狼」同様ハリウッドで映画化すべきだと固く思っている。

マカロニ・ウエスタンの仕立てで、幼い我が子の世話を酒場の女給にたのみ、賭けポーカーで今宵の食いぶちを得ようとする。喧嘩となれば、相手の拳銃よりも速くドスがすっとぶ。「鉄砲玉より速い投げドス」と大平原のもっぱらの噂。正義の旗印のもと残虐な殺しもいとわぬが幼い我が子にはいたって優しい。その極端なギャップ。「浪曲子守唄」の「マカロニ・ウエスタン」への置き換えだ。

我が子の世話をする文吾役にはいうまでもなく、「荒野の用心棒」で棺桶を引きずるジャンゴを演じたフランコ・ネロで、浪曲節(なにわぶし)に代えておんぼろギターを爪弾き、メキシコ民謡「ラ・バンバ」を我が子にとつとつと歌い聞かせる・・・

現代ただいま、尤も求められているのはポップカルチャーだ。ちかごろ男が幼い我が子の世話をする「イクメン」が話題になっているが、そのルーツが「子連れ狼」の拝一刀であり「浪曲子守唄」の遠藤文吾である。

「浪曲子守唄」のハリウッド映画化を進言すべく、筆者ハリウッド事務局に電話しようとしたが電話番号がわからなくて断念したのだった。(2016/07/02)

 

580『生涯の歌』

6月29日付の朝日新聞長野版の歌壇に筆者の短歌が佳作として掲載された。選者は草田照子氏。その作品を転載し併せて「自歌自解」を試みたい。

  生涯のジグソーパズルに吾が嵌める

最後のピースいかなるかたち  義人

原作は「五七五七七」の最後の下七が「見つからぬまま」だったが、「いかなるかたち」と添削され発表された。

「ジグソーパズル」とは、ばらばらになった断片を嵌め込んで一つの絵にする玩具。はめ絵。と辞書にある。幼児用の簡単な色付きピースを嵌め込んで遊ぶものから、名作絵画風の色彩豊かでピースの数が多くて難易度の高いものもある。

たとえば、上級者向ピース3000個の「秋の田園」には一個だけ真っ赤な「🍎」のピースがあり、これをパネルのどこに嵌め込むか。秋の紅葉という絵柄ゆえ、赤茶系の色彩の多いなかで嵌める場所を見つけるのは大変むずかしい。

さて上記の短歌だが、わが生涯をパズルの「パネル」に見立て、そこに一個ずつピースを嵌めてゆく。箱からピースを取り出して治めるべき位置に嵌めてゆく。嵌めることが生きる証(あかし)、嵌めることが生きている証(あかし)

嵌め終えて完成・・・完成はすなわち死を意味する。これはジグソーパズルという遊具に比喩した筆者の境涯の歌、述懐の歌でなくてはならない。

ピース箱をひっくり返すなどして逸散した最後のピース、あるいは自分が心から希望する最後のピース・・・それが「見つからぬ」と表現したのが原作。

最後のピースは紛失していない。そこに存在しているのだが、その形は如何なる形であろうか。というのが添削の歌意であろうか。

さて読者諸氏はどちらに軍配をあげるだろうか。(2016/06/30)

 

579『思考液状化』

「トランプ現象」という「現象」がある。トランプとはアメリカ大統領共和党候補者のドナルド・トランプ氏のこと。アメリカは移民を禁止すべきとか日本は核兵器を保有すべきとか、度重なる暴言で物議をかもす人物である。

さらには、イギリスの庶民院議員で元ロンドン市長のボリス・ジョンソン氏は、イギリスは主権を取り戻せとか移民制限せよとか、そしてEU離脱をかかげる人物だ。

両者とも赤茶けた髪色で髪型も似ていてキャラが濃く立ち、しゃべくりは大喜利よろしくポピュリズムである。大向こうの拍手喝采を狙った、こうした演芸もどきの政治家がまことしやかに登場して派手にふるまう。それをマスメディアがこぞって採りあげる。たとえればそれは、思考のグローバル「液状化現象」ともいうべきであろうか。

古くは官から民へとか自民党をぶっ壊すとか息巻いた小泉純一郎氏、大阪都市構想や米兵に風俗を勧めた橋下徹氏、もともと日本人所有である尖閣諸島を東京都が買うと悶着のタネをばらまいた石原慎太郎氏などなど・・・これらは「トランプ現象」以前の話だが、大衆受けしそうな問題を大言し壮語して人気を得ようとしたことも同様の現象だろう。

洞察力なき考えなしか、敢えて本質を隠してか、かかるアジテーション的な言動は百害あって一利なし。相撲の一手「猫騙し」ではないが、政治家の遣う「騙しのテクニック」にころりと騙される国民もなんと多いことか。

格差社会、貧富の差などで現代人はいらいらが募り、フラストレーションが蓄積する。若者の特権であった「きれる」が、昨今では伝染し蔓延して老人も「きれる」のだ。老いも若きも癇癪玉をポケットに抱え込んでいる。危うい時代が来たものだ。(2016/06/20)

 

578『見た目、思い込み、勘違い』

とある日、河童寓の裏庭に新芽をもたげ、成長をはじめる植物を見つけた。朝顔にして朝顔ならず、豆類にして豆類ならず。とまれこうまれ新しい蔓を威勢よく突き上げてくる。

「栴檀は双葉より芳し」というが、将来性豊かな花実を実らせるのではなかろうかと家人は蔓を誘引した。プラスチックの支柱を立て新芽をひもで優しく導いた。蔓は日に日にたくましく育ち、天空をめざした。

とある日、筆者は件の植物の葉っぱをスケッチし、インターネット画像で調べてみた。ところがその結果は、他感作用で他の植物の生育を妨げるとされる背高泡立草だった。忌み嫌うべき外来植物だった。・・・見た目、思い込み、勘違い。

話は変わるが、「きせい」で辞書を引くと「規正」と「規制」がある。「政治資金規正法」は「規正」の字を当て、悪いところを正しく直すこと。他方「規制」は、おきて。きまり。規律を立てて制限することとある。

噛み砕いてざっくりいうと、何をしてもよい、悪いことをしてもよい。正しく直せばそれでよいというのが「規正」で、規律のもとにしっかりと制限する、決まりがあってそれを守るというのが「規制」である。

たとえば、道路交通法の踏切での一旦停止違反、刑法235条の窃盗罪の万引きも「規正」解釈であれば、ついうっかり見過ごしてしまった御免なさい、出来心でした。もうしませんと謝罪すれば罪に問われることはない。他方で「規制」解釈であれば罰せられ罪を負うことになる。

話はまた変わるが、「罠」は「縄を輪状にして餌をなかに置いて鳥獣を誘い、その足をからませ、締めて捕える仕掛け。また、いろいろな装置により鳥獣をおびきよせて捕える猟具の総称」と辞書にあり、冬の季語。また「他人を陥れるための謀略」の意もある。

「罠」を「規制&規正」で検証すると、スピード違反などの取締りにおいて「ねずみ捕り」があり、この「罠」にかかると言い逃れはできない。罰金をくらう。すなわち「規制」だからだ。

一方「政治資金」でシルクの中国服や筆硯を買ってもよく、不適切と思うなら正しく直せばよいというのが「規正」だ。「当不当」を決めるのが国家か個人かの違いだ。

入口の金網の扉がバタンと落ちて逃れられない罠と、中から開け閉めできて罠に落ちた者みずからの意志で調節できる罠とがあるのだ。

「きせい」に二種類の言葉があり、似ているようで大違い。素人衆も玄人衆もよく考えるがいい。・・・見た目、思い込み、勘違い。(2016/06/13)

 

577『汐まねき俳句』

5月18日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品を転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  汐まねき太平洋を横っ飛び   義人

「汐まねき」は「(干潮時に大きな鉗(はさみ)を上下に動かすさまが潮を招くように見えるからいう)。スナガニ科のカニ。甲は四角形、帯緑褐色で、幅約3センチメートル。腹面は橙色。眼柄は長い。鉗は、雌のは小さく、雄のは左右の一方が大きく、ほとんど体に匹敵する。有明海の砂泥地に群棲し、蟹漬として食用」。と【広辞苑】にあり、潮招き、望潮、汐招きなどと表記される。

有明海が有名だが、どこの海岸の砂泥地でも見かけるカニで、人影や物音などに驚いて巣穴や岩陰に素早く身をひそめる。

「カニ」は日本だけに限ってもあまたの種類があるが、体と脚の構造上「横歩き」がその多くを占める。「汐まねき」もご多分にもれず横歩きであるが、時と場合で「縦歩き」もなしとしない。「縦歩き」というにはいささか語弊があり、正確には前に歩く、後ろに引き下がるという範囲の前後移動である。

さて掲句の「横っ跳び」は「横跳び」の促音化で、からだを低く構えて威勢よく走り出す意だが、汐まねきの移動の表現としては的確でなくやや誇張がある。

「太平洋」という途轍もない大景と微小な生物である「汐まねき」との、「二物突き合わせ」のおもしろさ。突き合わせの衝撃波を詩にしようとするものである。当然ながら誇張は敢えての試みで、微小な生物であるがより躍動感を狙って「横っ跳び」と表現したわけであった。(2016/05/22)

 

576『百千の俳句』

5月11日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句がトップ入選した。その俳句と選者の仲寒蝉氏の講評を転記する。

  百千の眼が日を仰ぐ白子干  義人

仲寒蝉氏「白子干はカタクチイワシなどの稚魚を煮干しにしたもの。大量の白子がゆで上げられ、天日で干される。その光景を詠んだ。実際は百千どころか万の単位ではないかと思われるくらいの数である。当たり前のことであるが白子の一匹一匹には眼があって日を仰いでいるという発見」。

「百千」という数詞の語は、百から千ほどの数をいうのではなく、数の多いこと。そして、いろいろ、さまざまの意でもある。同様数詞をいう言葉に「千万」があり、これは万の千倍。非常に大きい数をいう。

ちなみに「百」という言葉は十の十倍の数詞のほか、多くのもの、種々のものをいう。「百に一つ」は確率がほんのわずかであること。極めてまれであること。「百も承知」「二百も合点」とは十分よく知っていること。「嘘八百」はやたらに述べたてる沢山のうそをいう。以上【広辞苑】から引いた。

数詞について上記の辞書を引用し援用したのは、掲句の「百千」の語を措くに際して、作句当時あれこれと推敲したからである。白子の眼の数をたとえば数千とか数万とか限定してしまうと嘘っぽくなってしまう。現実に数えきれるものではないからだ。それでたびたびの推敲のはてに「千万」に落ち着いたのであった。

白子が日を仰ぐ時点で白子はすでに死んでいるはずだから、「日を仰ぐ」の表現は不自然であるが、それをあえて人間の行為であるかのように言ったのは、白子の哀憐と痛憤の情を表わしたかったからである。

感情移入であり心象仮託である。もう一ついうと「俳句詩」の肝心であるところの、筆者の考えるアニミズムにほかならない。(2016/05/14)

 

575『詩あきんど第23号』

俳誌「詩あきんど」第23号が送られてきた。「第22号より抄出・編集委選評」と「詩あきんど集」のそれぞれの筆者の俳句、及びその選評を転記する。

  而してふぐり落して生き延びよ

「人間は「而して」生き延びてきた。しかも「ふぐり落して(厄払)生きてきた。みごとなニンゲン賛歌。動物も人間も強いからではなく、臆病で弱い「陰嚢無し」だから変化に対応し、生き延びことができた。季語の「ふぐり落し」と「陰嚢」が巧く掛け合わされている。ついでながら、「おおいぬふぐり」は、なんと美しいことか()」以上。

・・・「而して」とは、漢文訓読系の語で、そうして、それからの意。ライフワークだの遣り残した仕事だのと余生の大切さについてご託をならべる人がいるが、所詮は付会であり「そうして、それから」生き延びているだけにすぎないだろう。

季語「ふぐり落し」は「厄払」の意であるが、その背後には「陰嚢落し」という「喩のイメージ」が隠されている。畢竟生殖的役立たずの意を表わしているのだ。したがって「ニンゲン賛歌」であると同時に「ニンゲン挽歌」でもあろう。

「他人事」みたいな書き方で、第三者的に批評した「自句自解」になってしまったが。

  てふてふの工器らせんが風起こす

「北京で蝶が羽ばたけばニューヨークで嵐が起きる」など、自然現象の可能性と非可能性を言外でいうところの予測の危うさは、夙に知られるグローバルな俚諺である。

「工器」とは昆虫などの周囲にあって食物を摂取する器官で、咬み型、吸い型、舐め型があり、蝶の螺旋(らせん)は「吸い舐め型」といえようか。

「風起こす」・・・具体的に何の風とは言ってはいない。だから連句の発句的な構えの俳句かもしれない。このような発想の俳句を表わしてみたかった。

  啓蟄の地球ころがってだんご虫

  だんご虫の擬態を真似て春愁ひ

日本が啓蟄のとき地球はだんご虫。地球がころがって自転して、だんご虫になる。

だんご虫の擬態は丸くなること。人間もだんご虫のように丸くなると欝欝とした気持ちになる。春の愁いに似て・・・

閻魔王から「来世は虫けらだ」といわれたら、筆者は「だんご虫を希望します」と懇願したい。(2016/05/10)

 

574『20句詠部門』

「第二回宝井其角俳句大会」(「NPO法人俳句&連句と其角」主催) の「20句詠」部門において、筆者の俳句が特別賞壱席を受賞した。(因みに大賞・準賞につぐ三番目の賞)。その俳句20句と選者の講評を俳誌「詩あきんど」第23号より転載する。

  「蠢蠢百態」

蝌蚪揺らぎ揺らぎG線上のアリア

わたつみの馬刀以て神は髭剃らん

てふてふの睦むまんだら蝶結び

躁鬱のおのが尾骶より蝿生まれ

眼を狙って刺す熊蜂のオスプレイ

百足虫の脚もつれてやはり地動説

ががんぼの翅の震へが死の始まり

糸とんぼそなた助詞抜き一行詩

ナポレオンの帽子に飾れ黄金虫

斜に構へれば網膜舐るなめくぢり

臥所越えスマホを越えて蚤が跳ぶ

伸びきって尺蠖天をまさぐれり

まくなぎの森抜けられぬ少年期

吾とわがザムザの目覚めへこき虫

地球の芯の蠢き募りみみず鳴く

轡虫のラップがちゃがちゃ近未来

蜻蛉の眼くるり廻ってUターン

髭打ち振り活断層を跳ぶいとど

綿虫のうしろの正面だあ~れ

冬の蚊をだざいおさむの書に挟む

・・・・・・・・・・・・・・・・

「推薦の言葉/二上貴夫」

其角に「蚊柱にゆめのうき橋かかる也」がある。定家の「春の夜の夢のうき橋とだえして峯にわかるる横雲のそら」を「本歌取」した句である。「蠢蠢百態」は、勿論句振りは其角とは違うが、もしかしたら其角の「蚊柱に」に触発されたのかも知れないと思いつつ、特別賞に推した。

春は「蝌蚪揺らぎ」から五句、夏は「百足虫の脚」から八句、そして秋は「へこき虫」から五句を経て、冬は二句で終わる二十句。「蠢蠢」とは蠢くの意だが、誰がうごめくかと問えば、虫に仮託した作者でなくてはならないだろう。

 糸とんぼそなた助詞抜き一行詩

と自身に呼びかけながら、其角流にはなりきれない自らの文体の「詩俳」を披瀝する。

  まくなぎの森抜けられぬ少年期

この句もまた「詩俳」である。最早少年の感性ではない大人らしいおさまりに作者はジレンマを感じているのだ。どのくらい悶え吐き遊べば「俳」を自得できるのか。この状況を越えるべく再チャレンジして、大賞を狙って頂きたい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「誰がうごめくかと問えば、虫に仮託した作者でなくてはならないだろう」の評言はその通りだと思う。形状や行動がそれぞれ違う虫類でも、作者の感覚や心情にとってそれは蠢蠢。すべては作者が蠢くところから発想した俳句だといいたい。

蕪村の俳句についてよく物語性がいわれるが、たとえば「馬刀以て神は髭剃らん」「ナポレオンの帽子」「轡虫のラップ」など一見無鉄砲なランダムな題材と思えるものを羅列した作者の「心因」が即ち、「20句詠」の意図であり作品であると言いたかったのだ。(2016/05/05)

 

573『フリー投句部門』

「第二回宝井其角俳句大会フリー投句部門」という俳句大会において、投句した筆者の俳句が「大会賞」に選ばれた。

  蟻出づる活断層を押し分けて  硯水

全投句数は287句、一次選考は秦野市の俳句グループ二者の手によって36句選出し、「詩あきんど」のHPに発表された。さらに4月24日の大会当日の選者5点、大会参加者1点の投票によって11句が受賞した。

ちなみに一位は25点、二位は19点で2名、筆者は四位で17点の合点を得た。

「蟻出づる」とは暖かくなってきた春半ば、蟻が穴を出て活動をはじめるのをいう。地虫穴を出づ、蜥蝪穴を出づ、などとともに仲春の動物の季語である。

ところで「蟻の一穴」は、「江河の大潰も蟻の一穴より」という中国渡来の俚諺からきている。ほんのわずかな不注意や油断から、大きな失敗や損害にいたることの喩えだ。

「江河」とは中国の揚子江と黄河のことで、たとえ大きな河であっても蟻が作った小さな穴が原因で決壊するというのが、そもそもの意味。比喩として「千里の堤も蟻の穴から」「蟻の一穴天下の破れ」などのバリエーションがある。

ところで日本列島には800を数える活断層があるとされる。地質学者によって発見され検証されたものの数だが、発見されないものを予測すると、われわれは活断層の真上で暮らしているのかもしれないと思えてくる。

この春も穴で越冬した蟻が、活断層を「よっこらしょ!」とばかり押し分け、地上に現れた。折も折とて熊本大地震。「本震余震」の地震観測概念がくずれ、本震を超越するまでの「余震」が襲った。余震が本震を凌駕したのだ。

ところで筆者は活断層にとどまらず、南海トラフや相模トラフ、フィリッピン海プレートなど、いわゆる「海底俳句」や「地中俳句」を長年にわたって試みている。

掲句を投句したのは2月20日で、むろん熊本地震は発生していなかった。グローバル化した俚諺の「蟻の一穴」という怖さ、「働き蟻」というたとえの人間の逞しさ・・・相反する感慨を暗にこめて「押し分けて」と下五に措辞したのであった。

熊本地震によって活断層という言葉が新聞やテレビで取り上げられた。したがって「選句時点」では時宜を詠んで共感を得たということになるのであろう。(2016/05/05)

 

572『ユトリロの俳句』

4月20日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に筆者の俳句がトップ入選した。その作品と選者の仲寒蝉氏の講評を転記し、併せて自句自解を試みる。

  ユトリロの描く街のごと陽炎へり  義人

「ユトリロはアルコール中毒の療養にために絵を描き始めた。画家であった母親譲りの才能でパリの町の風景画を数多く残したが白のイメージが強い。輪郭がゆがんだり斜めになっていることがあるのは精神状態の表れか。作者は陽炎の町の揺らぎを見て、そこにユトリロの絵のタッチを感じたのだ」(仲寒蝉氏)

モーリス・ユトリロ(1883~1955)はフランスの画家。画壇に属さず、純朴、堅実な筆致でパリの市街風景を好んで描いた。生活環境に恵まれず、幼いころから身体が弱くて情緒不安定なところがあった。

寒蝉氏の講評で述べられているように、アルコール中毒の療養のために絵を描き始めたり母親譲りの才能が発揮されたり等々が知られるところである。

ユトリロの絵が彼自身の境涯から表れる心象風景であるとするならば、当該俳句の作者自身が目前に見る街が、陽炎によってユトリロの描く街の如く見えてしまうのも、これまた俳句作者の心象風景にほかならないのである。

陽炎による物のゆがみひずみは自然現象だが、それを単なる自然現象と見なさず、精神状態の表れであるとする。さらに踏み込んである種の精神疾患の表れだと見立て直しをする。

心像を陽炎に置き換える。そうした果敢なる行き過ぎですらある「デフォルメ」によって、心象の奥深くを表したいのである。(2016/04/23)

 

571『吾輩は俳句』

4月13日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品を転載し「自句自解」を試みる。なお選者は仲寒蝉氏。

  吾輩は今宵恋する猫である  義人

この句の季語は、歳時記「初春動物」のカテゴリー「猫の恋」で、文豪・夏目漱石の長編小説『吾輩は猫である』を俤にしている。「俤」というよりも小説の題名を半分にぶった切って、そのまま上五と下五に措辞したものだ。

多くの歳時記の「猫の恋」の副題には、春の猫・うかれ猫・猫の妻・猫の夫・孕み猫などがある。猫の交尾期は年に四回といわれるが早春のころがもっとも盛んで、人間の赤子のような独特な鳴き声をする。

ざっくりいうなら、犬は従順で単純、猫は気儘で複雑となろうか。猫は野性をより多く残していて、人間と相容れない怪しさを漂わせる。そんなところから逆に、人間の心象を仮託したくなる動物なのかもしれない。

掲句の中七「今宵恋する」によって猫の季語が成り立つわけだが、逆説的にいうと恋をしない猫は季語のカテゴリーに這入らないことになる。(竈猫、いわゆる、へっつい猫はあるが)

この短歌の作者として、「今宵恋する」には「今宵以外は恋しない」という下意識的な反語が潜ませてあるつもりなのだが、読み手の見方はさて、どうだろうか。

折しも今年は夏目漱石没後100年で、朝日新聞では『吾輩ハ猫デアル』のアーカイブス掲載がはじまった。ある意味ではそれを睨んでの投句だった。(2016/04/16)

 

570『ランボー短歌』

4月6日付の朝日新聞長野版の「歌壇」に筆者の短歌が佳作として掲載された。その作品を転載し、併せて書かずもがなの「自歌自解」を試みたい。

  ランボーの詩を諳んずる公園の

   ベンチの隅がわがお気に入り  義人

アルチュール・ランボーは、フランス象徴派の詩人で世界的に夙に知られる。37歳で夭逝したが初期の17歳ころの詩に「夏の感触」がある。

夏の青い黄昏時に/俺は小道を歩いていこう

草を踏んで/麦の穂に刺されながら

足で味わう道の感触/夢見るようだ

そよ風を額に受け止め/歩いていこう

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

一言も発せず/何物をも思わず

無限の愛が沸き起こるのを感じとろう

遠くへ/更に遠くへ/ジプシーのように

まるで女が一緒みたいに/心弾ませて歩いていこう

一聯の「黄昏時」「麦の穂」「夢見る」、二聯の「何物」「無限」「ジプシー」。この一聯と二聯の三つずつの単語をキーワードにしたい。それを突き合わせて読み取ることが、ランボーを鑑賞し愛称することになろうかと思う。

掲歌では「公園のベンチの隅」と叙したが、現実は炬燵に尻までもぐりこんで諳んじたものだ。ただしそれでは短歌にならない。作品としての魅力や訴求にいちじるしく欠ける。

俳句もそうだが短歌も表現としてリアリスティックな立脚点が求められ、さらにそれがより効果的であるかどうかが肝要となる。

ランボーなら「炬燵」でなく「ベンチ」でなければ、ランボーが文学的に死んでしまう。真実ありのままを描写するなら「炬燵」だが、それでは、いわゆるクソリアリズム以外の何物でもない。現実の真実ではなく、詩における真実なのである。(2016/04/08)

 

569『人生てふ短歌』

3月29日付の朝日新聞長野版の「歌壇」に筆者の短歌が入選した。その作品と選者の草田照子氏の講評を転記する。

  人生てふ大き舞台の主役われ

   老いて台詞を忘れたりする  義人

草田照子氏「大舞台の主役であっても老いた今は、若いときのように言葉が出てこないことがある。誰もがいだく悲哀だろう」。

さて、尾崎士郎に『人生劇場』という長編小説がある。自伝的な小説といわれ、自らの人生を劇場での(演劇での)役者になぞらえたストーリーとなっている。

ところで、役者とか役職とか役目にかかわる言葉として「役割」があり「役割理論」がある。

たとえば「役割理論」は『広辞苑』によると、「役割の概念を基軸とする人間と社会についての社会学理論。社会は役割を通して人々の行動を規制し、人は役割を演じることによって社会を構成・変容させると考える。アメリカの文化人類学者リントン(Ralph Linton 1893~1953)やパーソンズらが展開」とある。

人は役割をもって生きている。役割を演じて生きているといってもよいだろう。人は演者であり演技者であるのだ。人はだれでも、人の一生という「時間&空間」における劇場での役者をつづけなくてはならない。

檜舞台たる演劇ではつねに主役を張っているが、ときと場合では端役にもなりさがる。そしていずれにしても、そんな舞台の上に居続けなくてはならないなのである。

「人間・劇場・役者」という三つの括りの概念では、文化人類学と文学文芸における比喩とは相通ずるものがあるように思われる。

ところで筆者の上記の短歌であるが、「老いて台詞を忘れたりする」という老化&台詞の比喩は安直の謗りをまぬがれない。「台詞」ではなく、作歌時には「アドリブ」なる用語を使って人生演劇の意表外の状況を表現したかったのだが、それは叶わず妥協してしまったのである。(2016/03/31)

 

568『第22号・詩あきんど集』

「詩あきんど」第22号の「詩あきんど集」というページに筆者の投句した10句中から「3句」を自選し、ここで採り上げてみる。「詩あきんど集」とはこの俳誌の投句欄で、会員は10句投句することができる。

今号から10句のほか、句解のヒントとなる自注、語句の説明、作句の背景や経緯なども130字以内で書き込めるようになった。俳句は判じ物のようなところがあるから、俳句を読む一助になるかもしれない。けれど半面、書く内容によっては読み手の想像力を削いでしまう点もなしとはしないが。

  小殿原よろ昆布福茶お奈良漬

この句は主宰の二上貴夫氏から◎をもらった。自解には「お奈良漬→お屁漬でめでたさの笑撃波」と筆者は書き込んだ。

「小殿原」は田作り、ごまめのことで正月の祝肴。「結昆布」「昆布飾る」は正月の祝意。「福茶」は若水で沸かした茶。「奈良漬」史蹟の多い奈良の瓜の漬物・・・正月の祝賀の飲食物である季語と、そうでない題材を織り込んだ俳句である。

みずから「めでたさの笑撃波」というように、17音とんとんとリズムよく詠み、たったそれだけの下らない内容でも俳句は成立すること、成立させたいということを表現したかった。「目には青葉山ほととぎす初鰹」が俤。

くだら野の果てに地球の斜を見たり

「くだら野」は朽野とも書き枯野のこと。冬の地理の季語。草の枯れ果てた粛条たる野原をいう。

「斜」は、かたむくこと。ななめ。すじかい。斜に構える。などと辞書に載っているが「地球の斜」とは・・・

よく水平線が丸みを帯びて見えるというが、くだら野の果てに地球が何物かに対してななめに、すじかいに、かたくむさまが見えたという句意。

地球は丸いという意識&認識は多くの人にあると思うが、それがななめに、すじかいに、かたむくさまをみた。地球は瑾瑜(きんゆ)、つまり地球は瑕(きず)のない美しい珠であり、きれいに据えられていなくてはならないと筆者は考えるが、それがそのとき「斜」に見えてしまった。それは見えてしまった作者の病める錯誤だったかもしれないのではあるが・・・。

空耳かパレイドリアの木莵の声

「パレイドリア」とは対象が実際と違うものに見えたり存在しないものが見えたり聴こえたりする現象で精神医学用語。と自注。

木莵はフクロウ目フクロウ科の鳥のうち、頭側に長い羽毛(いわゆる「耳」)をもったものの総称。ずくともいう。ワシミミズク・オオコノハズク。冬の動物の季語。

筆者の聴覚は虚実を見分けられないような疾病があるらしい。(2016/03/22)

 

567『詩あきんど・第22号』

俳誌「詩あきんど」第22号が送られてきた。「第21号より抄出・編集委選評」というページに筆者の俳句が採り上げられ選評されている。その作品と選評を転載する。

『○疣多き柚子と地球儀撫でてみん

柚子の枝には鋭いトゲがあって、それが実に当たると傷ができる。ある意味では柚子の「疣」は自傷作用といえる。その自傷をまた自分で治すためにデコボコになる。その巧みな自己防衛の「疣」から、また、われわれを癒すいい香りが立ちあがる。一方、地球儀の一見のっぺりした表面()から、なんと多くの悪性腫痬()が不気味に噴き出しているか(琳・著)』。

俳句「疣多き柚子」については、当コラム「557」で自句自解的にふれているのでここでは省略するが、筆者の意図するところをほぼ正確に受け取ってくださってありがたい。

現代詩をのぞく短詩形、とりわけ俳句や短歌において、比喩とか寓意とかの方法を用いる作品は理解されることがきわめて少ない。理解できないか、あえて理解しようとしない俳人や歌人も見受けられるが、筆者のそうした方法が認められたことは素直にうれしいことである。

俳句や短歌の世界で幅を利かせる、写生一辺倒、生活詠一辺倒にはうんざりするのである。(2016/03/20)

 

566『鉤外す俳句・真理をば短歌』

3月15日付の朝日新聞長野版の「俳壇」と「歌壇」に、筆者の俳句がトップ入選と短歌が佳作となった。入選&佳作のそれぞれの作品と入選の講評をつぎに転載する。

  鉤外すとき寒鮒に視られけり  義人

選者の仲寒蝉氏講評「これはちょっと恐い。自分が釣った鮒に見られている訳だ。恨みとも悲しみとも言えぬ眼差しが作者を捕らえる。もっとも鮒にそんな高度の思考があるとは思わぬから、そう思うのはこちらが後ろめたい気持ちを抱いているからだ。ただ作者はそのようには言っていない。「視られけり」というばかり、心情を表わさないから逆に作者の心が伝わってくるのだ」。

「アニミズム」について『広辞苑』には次のようにある。「宗教の原初的な超自然観の一。自然界のあらゆる事物は、具体的な形象をもつと同時に、それぞれ固有の霊魂や精霊など霊的存在を有するとみなし、諸現象はその意志や働きによるものと見なす信仰」。

アニマティズムやマナなど西洋的な用語は原初宗教にかかわる超自然観をいうのだが、一寸の虫にも五分の魂があるとか、路傍の可憐な草花を踏みしだいてはならぬとかの自然観は一般的な考え方として日本にはある。

そして「やれ打つな蝿が手をすり足をする」の一茶句が代表するように、動植物や鉱物や器物にさえ感情移入する俳句が多く、歳時記の季語はある意味でアニミズムの宝庫とも言えよう。

掲句「視られけり」と、「見られけり」をあえて凝視の「視」の文字を用いたのは、寒鮒に霊魂があること意志があることを意識したかったのである。

なお「鉤」の文字に「かぎ」のルビを振ってあったが、「釣針の場合『鉤』とも書く」と『広辞苑』にあり、魚の口から外すとき一般的に「はり」という評言を用いるので、「はり」のルビを振ってほしかった。ルビは選者ではなく編集&校正の作業だったかもしれないが・・・。

   真理をば射止めんとして投擲の

    わがブーメラン未だ戻らず  義人

「ブーメラン」は、オーストラリア原住民の使う木製の狩猟用の飛び道具。「く」の字形で、投げると回転しながら飛んで手許にもどる。これを投擲して真理を射止めようと試みたが手許にはもどらず、行方知らずになってしまった。純真な少年の日の「真理探究」を顧みての述懐である。(2016/03/18)

 

565『シジュウカラの話』

『シジュウカラに「文」作る能力』という見出しで、次のような新聞の記事をみつけた。以下その全文を転記する。3月9日付の長野日報。

『市街地で見かける身近な小鳥のシジュウカラが、複数の「単語」を組み合わせた「文」を作り、情報を伝達する能力を持っていることを、総合研究大学院大の鈴木俊貴研究員が発見した。こうした能力は知能が高いチンパンジーなどでも確認されておらず、ヒト以外の動物では初めて。鈴木さんは「人間の言語能力獲得のプロセスを解明する手掛かりにもなる」と話している。論文は9日付の英科学誌ネイチャー・コミュニケーションズに掲載された。

シジュウカラは、危険を仲間に伝える「ピーツピ」という甲高い鳴き声、仲間を集める「ジジジジ」という濁った声など、状況に応じたさまざまな鳴き声を使い分けることが知られている。

鈴木さんは、野生のシジュウカラがこれら二つの「単語」とも呼べる鳴き声を組み合わせ、仲間を集めて天敵を追い払う行動が見られたことから、録音した鳴き声で反応を調べた。

まず、警戒(ピーツピ)と集合(ジジジジ)を別々に聴かせると、周囲を見回したり、スピーカーに接近したりするなど「単語」の意味に応じた行動が見られた。二つを組み合わせた鳴き声(ピーツピ・ジジジジ)では、周囲を警戒しつつスピーカーに接近した。

しかし、順番を入れ替えた鳴き声(ジジジジ・ピーツピ)では、警戒も接近もしなかった。シジュウカラが「単語」の意味だけでなく、語順を含めた「文」として認識していることが分かった。

シジュウカラは10種以上の音の要素を組み合わせてさまざまな鳴き声を発するといい、鈴木さんは「他の音の組み合わせの意味や、この能力が学習によるものか、生まれつきなのかなどを調べたい」と話している』。

シジュウカラ(四十雀)は『スズメ目シジュウカラ科の鳥。小形で、頭頂・のどなどは黒、背は緑黄、頬と胸腹とは白。胸腹の中央に縦の黒色帯が一本ある。わが国の林地の鳥の代表。欧亜大陸に広く分布』と「広辞苑」にあり夏の季語でもある。なお蛇足ながら、シジュウカラの同科に「ゴジュウカラ(五十雀)」もある。

筆者は鳥類が好きで、以前に「鳥類百態」のタイトルで鳥類だけの俳句を100句詠んで俳誌「草茎」に掲載したことがあった。好きな鳥を敢えて三種にしぼれば、白鳥(スワン)、コンドル、四十雀であろうか。(コンドルは映像でしか見てないが)

さてそのかみ、河童寓の裏庭には胡桃(くるみ)の大木があって、秋には熟した菓子胡桃を狙った四十雀がよく訪れた。胡桃を敷石に落として殻を割り好物の果肉を啄むのである。このエピソードをエッセーに書いて新聞の文芸欄に掲載された思い出がある。進化したシジュウカラは「胡桃を割ってください」と「作文」して人間に伝えるのであろうか?

さてさて、ここでジョークが二発ととのった。「おれの財布はシジュウカラ」「男の値打ちはゴジュウカラ」。(2016/03/10)

 

564『時世見て短歌』

3月1日付の朝日新聞長野版の「歌壇」に筆者の短歌が佳作として掲載された。その作品を転載し「自歌自解」してみたい。

  時世見てムンクの如く叫びたし

   二合半酌めばややに治まる  義人

簡単な解説をすると、「ムンクの如く叫びたし」はムンクの絵(画題「スクリーム(叫び))にあるように叫びたいことで、省略して表現されている。

また「二合半」は「こなから」の読みで、米や酒の一升の四半分、すなわち2合五勺のこと。少量の酒という意味である。

昨今のご時世は刑事や教師がセクハラしたり、医者や社長が脱税したり、総理大臣が憲法違反したり大臣が賄賂がらみの犯罪をしたり・・・枚挙にいとまがない。嗚呼なんたることかと、叫びたくなる。

しかし叫んでいては血圧が上がるばかりで、精神衛生上すこぶるよろしくない。したがった晩酌に二合半の酒を酌むのである。そうすればややに治まってくるもの。精神が多少なりとも安定するという歌意である。(2016/03/04)

 

563『竹馬俳句』

2月23日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に筆者の俳句が入選した。その作品と講評を転載する。

  竹馬の児が跨ぎゆく八ケ岳  義人

「遠近法で遠くの八ケ岳が小さく見えるのだ。分かっていてもこう書かれると八ケ岳に腰を下ろした「だいだらぼっち」伝説など思い起こされて楽しい句」(選者の仲寒蝉氏の講評)

筆者が第三者的な立ち位置で解説すれば、竹馬に乗った児が大股に八ケ岳連峰を跨いでゆく。悠然と闊歩してゆく。八ケ岳が遠望できる小高い丘か、堰堤のような場所からの眺めだろう。

竹馬の児のベルトのあたりからカメラレンズでしゃくって、遠くに小景としての八ケ岳を捉える。児の歩く動線に添ってカメラで追ってゆけば、児が八つの山岳を跨いでゆくように見えるのだ。

寒蝉氏のいう「だいだらぼっち」は東日本に広く分布する巨人伝説。絶大な怪力を有して富士山を一夜で作り、榛名山に腰をかけて利根川で脛を洗ったなどの伝承をもつ。竹馬の児を巨大児童に見立てたのだろう。

筆者は、遠近法を用いた構図の誇張とデフォルメを俳句の表現に取り入れ、これをライフワークにしている。そのテキストはといえば葛飾北斎である。

『富嶽三十六景』のわけても「尾州不二見原」の、桶職人が鉋(かんな)を使って作業する巨大な丸桶から見える遥かかなたの富士山。「上総ノ海路」の帆掛け船の帆の合間から覗く小さな富士山。

「信州諏訪湖」の突き出た岩に祀られた祠の二本の老松のかげから見える、これまた小さな富士山。意表を突く構図と、思いもかけない微小の富士山の取り合わせ。

三十六景のなかから任意に選び出した三点でも北斎の遠近法の素晴らしいさが感じ取れるだろう。

筆者の俳句はたまたま「八ケ岳」だったが、「富士の山」に置き換えたい思いもなくはない。(2016/02/25)

 

562『短日俳句・大仏短歌』

2月16日付の朝日新聞長野版の「俳壇」(選者は仲寒蝉氏)と「歌壇」(選者は草田照子氏)に筆者の俳句と短歌が佳作として掲載された。転記してそれぞれの作品に筆者みずから解説&評釈をこころみたいと思う。

  短日の無為を嗤ふか鳩時計  義人

日本で「鳩時計」と呼ばれているものは、本来は郭公の鳴き声の時計のことである。諸説あるが、郭公の別称は閑古鳥であり、商売が不景気のときに鳴く鳥と慣用されて縁起が悪いことから変更されたという説が有力だ。種類を特定しないで「森の時計」として鳥の鳴き声の時計を販売しているところもあるという。

「鳩時計」には時を知らせる鳥の声だけの掛時計から、手の込んだ機関時計(からくりどけい)もあって、木製ロッジの窓が開いて鳥があらわれ、嘴を動かして鳴き声を発するものもある。

さて、冬の日は短い。いちにちがあっという間に終わってしまう。筆者のような老境にあれば、あまっさえ「作業」がはかどらないのだが、日が短いゆえさらに無為に打ち過ぎてしまうのだ。鳩時計の鳩に嗤われるのがおちだ。

ところで「無為」という言葉を『広辞苑』で我田引水的に抜粋すれば「①自然のままで作為のないこと。老子で、道のあり方をいう。③何もしないでぶらぶらしていること。「無為にして化す」・・・自然のままにまかせておけば人民は自然に感化される。聖人の理想的な政治のあり方をいう」とある。

上記の俳句の解釈としては「何もしないでぶらぶらしていること」がもっとも正当性があるのだが、「自然のままにまかせておけば」、つまり嗤う者には嗤わせておけば・・・という一段上の達観も捨て難い深読みであろうか。ビートルズの「レット・イット・ビー」とどこかで通底するような・・・。

大仏の背窓より身を乗り出して

   はるか彼方の海を眺むる  義人

鎌倉大仏をイメージして詠んだが、背窓から湘南の海が見えるか見えないか筆者は知らない。想像しての机上作だ。

大仏の胎内に在ることのえも言わず昂ぶる高揚感。その高揚感を抱きつつ遥かなる海原を眺めている自分がある。大仏&海&わが立ち位置。そんな三点セットのワールドを描写したかった。(2016/02/19)

 

561『スプリング・ドリーム』

ホットニュースが飛び交っていることをご存じだろうか。北朝鮮の弾道ミサイル(地球観測衛星)打ち上げ成功に対してアメリカ大統領のオバマ氏が祝電を打った。アメリカ、ロシア、フランス、イギリス、中国の五か国のほか、インド、パキスタンにつづいて核保有国に加わったことに惜しみない称賛の辞を述べた。

右に倣えの日本の安倍総理は、ご丁寧にも諸大臣の連名の祝電をこれまた金正恩(キムジョンウン)に対して打電したのだった。さらに祝電だけに留まらず、早期の国交正常化、友好国として歓迎する旨の国会決議を併せて行った。

当然ながら安保理も北朝鮮の常任理事国入りを議題にあげ、各国に人道援助を行うように提案し多数の賛成を得た。流れは急転しすべては「積極的平和主義」に傾いたのだ。

ホットニュース「二報」では、オバマ氏がジョンウン夫妻をラスベガスに招待し、安倍は東京ディズニーランドに招待すると報じられた。国賓として招かれる北朝鮮キムジョンウン氏が欣喜雀躍しないわけはない。国民服の巨体で軽やかにステップを踏んで歓喜を表し、もう二度と粛清はしません。国民を飢え死にさせませんと国営ニュースをもって報道された。

ところで「週刊文春」は数少ない使命感あふれるマスメディアである。日本の大方のテレビや新聞やタブロイドが政府の「やわらか官憲的」な発想でじょじょに骨抜きにされ、障らぬ神に祟りなしの報道姿勢になりさがっている。だが文春はメディア魂をもって「甘利問題」を追求した。取材手法にえげつなさは垣間見えるものの、その正義感はゆるぎないものだった。

何を隠そう、冒頭のホットニュースは「文春」の特ダネであり、特ダネの背後には文春取材班の洋の東西を股にかけた囮取材やハニーストラップの仕掛け、CIAに捕まった際の司法取引などを含む努力のたまものだ。オバマ&ジョンウン口説き落としエトセトラ、エトセトラ。しかしそれも世界平和達成のためであれば・・・・・このとき筆者は夢から覚めた。

このごろ朝方、全くもって複雑奇怪な夢をみる。歳時記に「春の夢」という季語がある。

「文春」→「センテンス・スプリング」。「春の夢」→「スプリング・ドリーム」。(2016/02/10)

570「ランボー短歌」
569「人生てふ歌」
568「第22号・詩あきんど集」
567「詩あきんど・第22号」
566「鉤外す句・真理をば歌」
565「シジュウカラの話」
564「時世見て歌」
563「竹馬句」
562「短日句・大仏歌」
561「スプリング・ドリーム」