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コラム「その16」

320「わが俳句」
319「月の異称」
318「連句の友」
317「連句の秋」
316「ねじり飴」
315「言葉における身体性」
314「付句の山折り・谷折り」
313「ニヤくんの猫電話」
312「付句の離見の見」
311「ニヤくん」」

320『わが俳句』

ここ十年来、筆者の俳句はそれ以前と変わってきた。作風ががらりと変わったといってよい。俳句の師が亡くなり俳誌名や主宰が代わったことも間違いなく動因だったが、それだけではない。

結社の主導ではなく、俳句とは何かを自分自身に問い、その返答を中心にして発想しよう。自身の信ずるものだけを純粋に表現していこう。雑詠として毎月五句投句するのだが、月月で作句に対する考え方に矛盾が生じても、とりあえず作りたいものだけを作ろう。結社の主義や主宰の主張に添わなくても、ひたすら我を通そうと決めたのであった。

先ずは自身の従来の「作品」を壊すこと。「創造」とは新しいものを造ることなので、壊さなくては新しいものの入る余地はない。自身の作品を壊すことは即ち、筆者の周辺の俳句や俳句界のある傾向の作品をも否定することでもある。そんな筆者の近作八句を次に書いてみる。

擬態の「gi」

青丹よし奈良には「y」の忘れ角

蛙跳ぶ井にて「w」と踏ん張って

「aa」と交尾中なりかたつむり

尻振って蟻の行列「gggg」と

「pがq」欅へ柘植へけらつつき

天をめざす太刀魚「i」の銀燦燦

「ee」形に背を丸めるや穴の熊

千早ぶる神の伊勢海老「ccc」

俳句としては異端かもしれない。独りよがりで誰も認めてくれないかもしれない。だが詩とはそもそも異端でなければならず、異端であることによって始めて芸術として先端になるのだ。そうでなければ詩ではないのだ。

ところでつい最近、鶴見俊輔著の『限界芸術論』があることを知った。「芸術とは、たのしい記号と言ってよいだろう。それに接することがそのままたのしい経験となるような記号が芸術なのである」というのが書き出しだ。

また柳田國男著『不幸なる芸術・笑の本願』には、「俳諧は破格であり、また尋常に対する反抗であった」という文言がある。ともに俳人の坪内稔典氏が朝日新聞で著作紹介していたなかからの孫引き。

わが俳句、結社ではたぶん孤立無援、頭(かしら)からも白眼視されているに違いないが、両著作から図らずも援護射撃をもらったようでうれしかった。(08/11/04)

 

319『月の異称』

異称とは別の呼び名のことだが、月については沢山の異称がある。玉兎、?娥、嫦娥、金鏡、玉環などは中国の伝説からきているが少しく言葉が硬い。月読男、小愛男、弓張、臥待、望くだりなど和語は柔らかひびきで快い。

月の異称は主として中国の伝説や詩篇から採られ、蟾(がま)が月に棲んで月を食ってしまったため欠けたとか(蟾影)、弓の名人の夫が不死の薬を盗んで飲んだことがもとで、月に逃げた令夫人の名(嫦娥)とか、摩訶不思議な、あるいは浪漫あふれるものが多い。

また異称とはいえないが、月の舟、月の剣、月の氷などは月を比喩的にとらえている。なぜ異称で呼ぶようになったか、なぜ比喩を用いるようになったか。

月を見て、人びとが想像する、口伝する。それが物語になり伝説になり、月を見上げるとき現実の月のほかに異称の月のイメージを膨らめる。比喩に置き換えて本体以外のイメージを膨らめる。月は癒し、こころの良薬といわれるが、月に寄せる人間の思いの深さが異称の多さにつながっているのではないか。中国からの輸入食材はクワバラ、クワバラだが、古い中国の文化は美味しくいただける。

月に限らず、季語には異称がすこぶる多い。たとえば、蓑虫は「鬼の捨子」。放屁虫は「三井寺ごみむし」。紅葉は「春恋草」。梨の実は「有の実」(「梨」(なし)が「無し」に通ずるのを忌んでいう)。比喩に置き換える季語も、これまた数え切れないくらいの多さ。

このように、物事を別の物や別の事に置き換えたり、言い換えたりする言葉、つまり異称や比喩の季語の背景に対して深く心したいと思うのだ。背景には歴史があり膨大な習作があり、日本人(中国人)の感性や考え方があるから。

再び月の話題に戻るが、「夏の霜」という季語がある。これは夏の月の異称で、夏の夜の月が、地面を照らして白々と霜を置いたように見えるのをいう。白楽天の「月平砂を照らす夏の夜の霜」の詩が典拠。

月の異称をなるべく使わないように制限をかけるグループがあるが、異称が効果的に使われていれば歓迎すべきことで、この膨大な文学遺産をみすみす見逃すことはない。封印すれば連句世界を狭めてしまい、森羅万象を詠う姿勢とは程遠いものになってしまうのではないか。そもそも異称が嫌いで使いたくないのなら、個人的に使わなければよいだけのことだ。

「龍天に登る」「雀蛤となる」という季語がある。存在しない龍が天に登るわけはないだの、雀が蛤と化すわけはないだのと言い張る連句人がいるだろうか。もしもいたなら、文学・芸術の全くわからない人といわざるを得ない。筆者は連句とは「万物のパフォーマンス」、「言葉のパフォーマンス」と考えるので、龍が天に登ることも雀が蛤になることも進んで受け入れたい。(08/10/28)

 

318『連句の友』

筆者の捌く連句の連衆さんの数は、現在のところ20余名をかぞえる。ここ十年くらい遡って、筆者が捌きをした作品の連衆さん、また筆者が連衆として加わった連句の友の数は、60名を越える。

合計の約80名の句友は、俳席で言葉を交わした人もいれば、文音だけで顔さえ知らない人もいる。「60名」は一期一会のままだったり、その人にPCがなく、ファックスもなくて通信が不便だったり、地元での会を優先させたりで疎遠になったものが多い。

「20名」は交流の手段が筆者と共通していたり、共通していなくてもこれまでの習慣で参加したり、筆者の連句に対する考え方に共鳴したりしている人たちであろう。

筆者が宇田零雨師の俳誌「草茎」で連句を読み、誌上連句に応募したのは30年くらい以前だ。そして熱心に係わるようになったのは、約20年前と記憶する。さらに零雨師に挨拶して「河童連句会」を立ち上げたのは平成8年1月。かれこれ12年余になる。

去る者は追わず、来る者を拒まず。前者はその通りだが、後者は拒んでいる。筆者がフィールドをホームページに置くようになったので、インターネットが中心。ファックスまではOKだが、手紙や葉書の文音は進行の波長が合わず、拒んでいる。それに仕事量として一杯いっぱいでもあるのだ。

河童連句会の発会のころは、25巻くらい同時進行で捌いていた。朝起きて送られてきた付句を治定し、次の連衆に送信し、自分の順番がくれば付句も付ける。見直して定稿、清書して応募など、新聞を読む時間もないくらい。一年に150巻以上は巻いた。応募も各大会通して80巻を越え、応募料も相当なものだった。

さんざん鉄砲を撃ったのだが、空砲だったとは思っていない。無駄はあったかもしれないが、多く作って多く捨てることで、確かなものが残ったと今では考えるのである。

以上の履歴での、筆者の連句の友はすでに書いたように、顔を合わせた人、声だけ知っている人、顔も声も知らない人など交遊に深浅がある。深浅はあるが付句の10句も読むと、その人の言語圏とか性格とか、趣味や趣向などが垣間見えてくるようになった。「文は人なり」というが、「句も人なり」である。――

1、この辺は地味な付合がよろしいと思うのに、何かにつけて典雅で華麗で、花のある言葉遣いの○○さん。

1、実の句はぎこちないが、虚の句の隠しポケットの数が多く、夢の砂漠をさ迷うばかりの○○さん。

1、台詞もどきの会話体を付けてサマになるが、ときに大向こうを意識しすぎる○○さん。

1、幼児に囲まれておられた反動か飢餓感か、空きあれば恋句を狙う、恋の手足りの○○さん。

1、肩の力を抜くと袈裟斬りに遇うのではと、何時もいつも真剣を構えてゆるぎない○○さん。

付句から醸し出される「人となり」を感じ取りながら、巻きすすめるのは楽しくもある。(08/10/18)

 

317『連句の秋』

文化の秋、芸術の秋。そしてホ句の秋である。俳句に携わる人、俳句がらみの一般的な話題にも「ホ句の秋」という表現が使われるようである。

「ホ句」は「発句」からきているのだが、「ほっく」の「っ」を省いて、響きのよい語呂にしたものだろう。俳諧の最初の句である発句は、独立して俳句と呼ばれるようになったことは、かなりの人が周知のこと。したがってホ句の秋とは「俳句の秋」のことで、おのずから俳句が浮かんでくる季節、一句詠みたくなる秋ですねという意味の言葉だ。

秋は連句大会の季節でもあり、春をはるかに凌いで多くの大会が開催される。国民文化祭をメインに、新庄や浪速や三重県、東京や山口県など有力な大会が目白押し。

連句大会の実行委員会は、作品を募集して審査し、発表して作品集を出し、実作会も開いて交流や親睦を深めるという、大変に手数のかかる作業なのである。その上に、連句人口は一説に3000人、裾野やファンを含めても30000人といわれるマーケット()。各地の大会の参加者はたかだか50人〜300人と、費用対効果ではないが「手間対動員」は涙がこぼれそうな微微たるものらしい。

割に合わないので自治体主催の大会は減って、現在では新庄大会のみとなってしまった。世は効率とか効果とか利潤だけを追い求める風潮が罷り通っているので、それと正反対の効率の悪い、不人気な仕事といっていい連句大会は敬遠される。しかし非効率なものこそが、伝統文化といえないか。文芸の灯を守ってゆく新庄の姿勢は尊い。

連句は複数の作者からなる共同制作である。捌がいて作品の「水先案内」をするにしても制約もあり、それぞれの作者の「創造」を取り込んでゆく。

たとえば五吟作品なら、四人は自分以外の「他者」である。五人の誰もが四人は他者であると思っているが、その四人の他者の「創造」を認めて共有しなくてはならない。賞賛であれ、渋渋であれ、認めて共有しなくては作品として成り立たない。

個個人が創作意欲を満足させるためのものなら、詩や短歌や俳句の方がはるかに満たされるだろう。だが、連句はそうではない。「他者」の創造が「自我」の創造とともに作品上にあること。「他者」が自分の意識のなかに這入りこんでいる。それは「自我」も恐らく、相手にそのように受け止められていると思い込むこと。簡単にいえば連帯感だろうか。

共同制作からなる、連句のような文芸形式は世界に類がない。そのことが、連帯意識が、いまの時代求められているのではないか。個人主義的な考え方が、あまりにも先走りすぎたために。(08/10/10)

 

316『ねじり飴』

金平糖、金太郎飴、芋アメ、水アメ、ドロップ。キャラメルなんぞも甘くて旨いぞ。むかしむかしが懐かしいぞ。分けても綺麗な、ねじり飴。思い出される、ねじり飴。

干支の動物や七福神をあしらった棒飴、とくに人気の「えべっさん」の福飴もわるくないが、鈴の紐を模した紅白のねじり飴は美しい。味覚なんぞ越えて美しい。ねじりの美学。

衆議院は与党多数。一方で参議院は野党多数。「衆参ねじれ現象」なんぞといわれる。衆参の議員諸君がいうのはともあれ、多少なりとも物事を公平に見られるはずのマスメディアまで、ねじれ、ねじれと連発する。「ねじれ」でなくて「ねじり」だろうに――。参議院選挙をやって国民が、ねじったのである。力を振り絞って、ねじったのである。ま、ねじったから、ねじれたというならそれもそうだが・・・。

「衆参のねじれ現象」によって法案が通らず、ストップしてしまう。衆議院を通ったものが参議院で透らず、その逆もあって国会運営が停滞するというのだ。その「現象」にはマイナス面もあろうが、与党のゴリ押しを抑えるプラス面もある。功罪半ば、いや「功」の方がはるかに多いだろう。

また参議院では野党が与党なので、官公庁から情報が取りやすくなったという。隠蔽されていたものが白日のもとに晒される。これはとりわけ大きな「功」かもしれない。

いずれにしても国民がやっこらさと、ねじったものを、ねじれねじれと停滞の原因のようにあげつらいのは大間違い。「衆参ねじれ」というシステムを有効利用し、よりよい政治を行うのが政治家の努めではないのか。そもそも「ねじれ」ではなく、国民の「ねじり」であることの自覚からすべては始まるのだ。マスメディアも「ねじれ現象は、国民がねじったことによって、ねじれた」と付言すべきである。

かくかくしかじかのコラムを書いていたら、ねじり飴を舐めたくなった。しかし手元にないので、仕方なくふたたびパソコンのキーボードに向かう。「ねじり」鉢巻きをして。(08/10/05)

 

315 『言葉における身体性』

辞書には載っていないが「身体性」という言葉があり、耳慣れない人も多いだろうが最近使われるようになった。身体がもつ性質をさす言葉で、分野ごとにさまざまな定義がある。「言葉における身体性」について、ちょっと触れてみたい。

話し言葉以外の言葉は物事を伝達するための記号という位置付けがされ、人間の身体とは関係がないように思われるが、たとえば「筆勢」という手指をもって書く行為は、個人それぞれの身体の動きを顕現しうるものにほかならない。活字に見えないものが肉筆にはみえ、言葉の記号性を越えて訴えるものが存在する。というのが言葉における身体性の大凡の定義である。

また活字の言葉であっても、人がその言葉を発声するときの音声の強弱やイントネーションなど声帯を通じて感受せしめる体感も言葉における身体性というカテゴリーに属するといってよい。換言すれば言葉の音律ということでもある。

日本の伝統的な詩歌の底には、祝詞(のりと)、つまり祭の儀式に唱えて祝福する、神に捧げるものという流れがある。「奉納歌」とか「水無瀬三吟」とかも、神仏に捧げる詩歌である。そしてそれらは記号性よりも、音律性をもって発語され発声される。

これを砕いていうなら、「神の感性」は目で見るよりも耳で聴く、聴覚に重きを置くという特性があり概念がある。拍手とか振鈴とかは、手のひらを打ち合わせる音により、鈴を振り鳴らす音により神を勧請(かんじょう)するのである。来臨を乞うのである。早い話が祈願するとき「音」を立てて呼ばないと、神様は気付いてくれないのだ。

先達てラジオを聴いていたら、万葉集のある研究者がこんな話をしていた。要約すると、

・・・和歌の恋の歌などは掛詞を駆使して恋心を相手に伝える表現のかたちを取りながら実は、和歌(言葉)を読むこと和歌(言葉)を聴くことによって、私たちの心を通り過ぎたり立ち止まらせたりするものがある。言葉の力のようなものが和歌にはあると・・・

文字(言葉)は目視するかぎり「形」であるが、口に出したり耳で聴いたりすると「音」になる。「形」を目視するのも目を通すので身体性はあるが、個個人の範囲。口と耳を通す「音」は自分以外の他者が係わるので、より身体性が高いものと認められるだろう。

さて、筆者が言いたいのは、連句の言葉の音律性、身体性である。付句はむろん意味を主体としてつながってゆくのだが、意味以外の語調や句間のリズムなどの音楽性が重要ではないか。より身体性をもった言葉が重要ではないか。

言葉の意味よりも諧調が、私たちの心の力となり救いとなるだろう。私たちの連句の力となるだろう。(08/09/27)

 

314 『付句の山折り・谷折り』

紙などの折り方に「山折り」と「谷折り」がある。「山折り」とは折り目が外側になるように折り、「谷折り」は折り目が内側になるように折ることをいう。幼い頃、折り紙や厚紙で模型をつくるときなどに学んだはずで、この言葉は多くの人が知っているだろう。

フリー百科事典・ウィキペディアに当たればさらに詳しく、「巻き折り」「段折り」「引き寄せ折り」「かぶせ折り」「中割り折り」など複合的な折り方がいくつか載っている。また「ミウラ折り」という折り方も収録される。折りの技法というもの、改めて奥が深いと思ったのだった。

これら折り方の用語は、主として折り紙から生まれたようであるが、むろん紙だけにとどまらない。布地や鉄板などにも使われる。

さて、連句の付句の姿について、筆者はかねてより「この句は山折りだ」とか「この句は谷折りだ」とか考えながら、付ける句を案じていた。具体的にいうと、次のようになる。

・前句が「接続する側」、つまり付句であるこちら側の面が、山折りか、谷折りかを調べる。折り方の「山」か「谷」かの区分は、句意の内容や語調やイメージ。善悪や感情の起伏、ポジティブかネガティブかという分類。「山折り」とは、主張することが強く、後ろの句に対して働きかけがある。「谷折り」はその逆ということができるだろう。

・前句を読み込んだら、次に付句を案ずるのだが、当然ながら付句にも「山折り」「谷折り」がある。句意や語調やイメージで、そうした断面が表れる。その断面は前句に「接続する側」に色濃く影響を及ぼすのである。例えば、

A例、前句が「谷折り」の場合に「山折り」の句を付けると、がんじがらめの組み合わせになってしまう。想像の余地が狭くなってしまう。

B例、前句が「谷折り」の場合に「谷折り」の句を付けると、合間に空白ができて想像の拡がりが期待できるが、その余地を埋められないと繋がり方が分からなくなってしまう。

前句が「山折り」で、付句が「谷折り」あるいは「山折り」の場合など、それぞれのパターンが発生する。そのことの「功罪」を活かしたり、避けたりする方法は存在すると筆者は考える。一部は 『連句評釈・Wスワンスワン「孑孑の巻」について』でふれた。ここでは、「巻き折り」「段折り」「引き寄せ折り」「かぶせ折り」「中割り折り」などの用語を比喩として挙げるにとどめる。

「A例」「B例」について、単なる「親句」とか「疎句」という言い方で片付けられない問題がひそむ。つまり「言葉の守備範囲」ということを考えたいのである。(08/09/19)

 

313 『ニヤくんの猫電話』

電話機が風邪をひく、という話をご存じだろうか。30年ほど以前の固定電話の電話機、ぴかぴかと黒光りのするダイヤル式のそれ。洋間に置こうが居間に置こうが、でんと座り込んで微動だにしない大旦那風のそれである。

この電話機が盛んに使われていたころ、多くの家庭で電話機が風邪を引くという噂で、洋服を着せたものだ。ブルーやピンクや黄色の、模様やフリルのついたものなど。部屋の調度品として飾り立てるという名目でその実、冬に暖房のない部屋で、夏に冷房の効きすぎた部屋で、電話機が風邪を引いて内部のビニール配線が凍結劣化しないように工夫したものだ。

受話器の口と耳に当たるところは裸で、手で握る部分は着衣。胴体はボディスーツをしっかりと着せられ、指で廻すダイヤルのところは丸く切り取られる。ピンクの大きな穴に人差し指を突っ込んで、右廻りにまわす仕掛け。筆者、これで浮世の人たちとお話ができたのだった。

雷電公社の外郭団体の推奨で「電話の洋服」なるものを買った。たしかに電話機は風邪を引かなくなり、「通話中に話が途切れてしまう」というサボタージュが減ったように記憶している。このときの洋服が、ピンク地に可愛い猫ちゃん模様だった。猫ちゃんの色はなぜか思い出せない。いやいや、前振りが長くなってしまった――。

・・・左の耳元のあたりが、ガサガサする。筆者の左の耳朶の裏側が、ここ二ヵ月ほど痒くてたまらない。メガネの蔓があたって痒くなり、掻くから血がにじんで痛くなり、痛くてもなお痒くて仕方がないという、実にやっかいな症状。ガサガサ。

・・・「モシモシ、おとっちゃん?」。SHARPの子機が筆者の耳元で声を発する。筆者は大声で返事をするが、相手には聞こえないらしい。子機が背中を丸めたように猫背になり、筆者の左耳にかぶさってくる。

ガサガサ、くすぐったい。「ニャーモ、ニャーモ。おとっちゃん?ゴホン、ゴホン」と咳き込む声。「お前さん猫か?ニヤくんか?ゴホン、ゴホンって、風邪を引いたのか?」と筆者。

何のことはない、ニヤくんが筆者の耳元でじゃれていた。アビシニアンのニヤくんは未だ幼猫で、大凡子機くらいの大きさだった。「そうだったのか。電話で来たのか。風邪引いたから、ピンクの洋服を着ているのだな?」。

――筆者、このとき目が覚めた。「電話の洋服の風邪のニヤくんの耳の痒さの・・・」、この奇天烈なつながりは一体全体何だろう。この夢は何の兆候だろう。SONYの「日本大百科全書」でフロイト先生を呼び出し、その辺のところを聞いてみた。返事はさっぱり要領をえない。「夢占」で占ってくれる人を探そっと。(08/09/12)

 

312 『付句の離見の見』

世阿弥の書いた能楽の秘伝書 『花鏡(かきょう) 』に「離見」という言葉がある。「見所より見る所の風姿は我が離見也」というもの。自己(演者)の目を離れて客観的に見ること。舞台で舞う自分を見物人として冷静に眺める、もう一つの目が必要という意味だ。「離見の見」ともいう。

演者としての心得なり、演者が真に観客とあろうするための極意なりをいう言葉であるが、このことは何よりも、言葉を厳密に取り扱うべき連句人についても言えるのではなかろうか。つまり、連句の付句をつくるときは言葉を冷静に眺める、もう一つの読み手としての目が必要ではないかという意味である。

言葉には多義性があり、多くの受け止め方がる。素直に発せられて素直に相手に伝わるときと、正反対に伝わってしまうことすらある。またニュアンスによって、発するものと受けるものと間に誤差が生じ易いものだ。

喋り言葉もだが、文章化される場合も同様に、あるいはそれ以上に文脈等によって複雑な様相を呈しもする。言葉が作者の意図するように取られればよいが、不本意に取られる。物書きや詩人や歌人は言葉に命を削るわけであるが、連句人はそのことに尤も心すべきだと思う。

付句の言葉というものは、前句に打越に大打越に、さらには後句に、もっといえば連句作品の全句に渡って影響を及ぼすのである。また言葉の意味だけでなく、語調やイメージまでも影響するものなのである。連句作品の立場からいえば、影響しなくてはならない特殊性を持っているのだ。「歌仙36歩、戻ることなし」とは、そのことを逆説的に端的にいっているのだ。

付句の言葉は、連想の趣くままに、自然発生的に浮かんで付けているように見せ、その実は作品の全句に渡って言葉への心配りが求められている。

繰り返すが、「離見の見」・・・句を付けるとき、その言葉が読み手に及ぼすものを冷静に、もう一つの目を持って眺めなくてはならない。昨今の作品集に目を通しても、言葉への心配りのない付句が作品が、なんと多いことか。

もっとも連衆は「兵」という立場であり、「兵は拙速をとうとぶ」というように、仕上がりはへたでも早い方がよいという部面も否定できない。とまれこうまれ、拙速でも多少は心配りをしてほしいというのが捌の立場の筆者の願いだ。(08/09/11)

 

311『ニヤくん』

アビくんに弟分ができて、名前をニヤくんという。アビくんとは猫のアビシニアンのことで、猫の年齢でいうと3才くらいか。ニヤくんは同じアビシニアンで、こちらの年齢は08才くらい。ともに大江戸くらしである。

アビくんの写真はすでにパソコンの「マイピクチャー」に何枚も保存してあるが、ニヤくんの写真は一枚しかない。先だって大江戸から写メールが送られてきたのだが、これがアビくんのミニチュアというか、「そっくりさん」というか、とても可愛い。

早速わがホームページの「かっぱ美術館」に取り込もうとしたが、これが何度試みてもアップできず、ホールドアップとなってしまった。世の皆さんにお見せできなくて残念。仕方がなく、筆者だけで眺めている。

筆者の心配事は、アビくんとニヤくんが仲良く暮らして行けるかということ。アビくんの体重は(見た目は)ニヤくんの二倍もあり、義兄弟の弟分をいじめるのではないか?ニヤくんはアビくんを兄貴分として立ててくれるか?いや、立ててくれとはいわないが、本来の猫らしく素直に、仲良くなってくれるか?

そもそも猫は、それも「♂ちゃん」同士は、一つ家で平穏な暮らしができるのだろうか。筆者はすぐに人間界の関係に置き換えてしまうので、それが気になってならなかった。

しかしそれは筆者の取り越し苦労で、杞憂だったようだ。大江戸からの情報によるとテリトリーを設けず、相互乗り入れで居場所を棲み分け、キャットフードの嗜好もそれぞれに、ときには猫らしくはしゃぎ、じゃれあっていると。

大きくて強いアビくんが一歩ひかえ、小さくて弱いニヤくんを自由にさせている。アビくんは偉い。ニヤくんもそれに応えて可愛くふるまっていると。

筆者の脚色もあるが、おおよそこんな情報だった。人間は猫を見習わなくてはならない。筆者、まだニヤくんとは会っていないが、いつの日か会えるだろう。(08/09/03)

 

310『詩の競技』

・・・古代オリンピア祭は盛夏に開かれ、22回大会(前692)まで会期は一日のみであったが、前5世紀のなかばからペルシャに勝ってギリシアの最盛期を迎え、不朽の芸術作品がつくられるころにはオリンピア祭の会期も5日間と盛大にになった。5日のうちには選手の宣誓式、祭儀、優勝者などの招宴などが行われたが、その1日はかならず満月にあたっていた。

そのころオリンピア祭も豪華を極め、政治家、軍人、文人の宣伝の場となり、参加各都市はその名誉のためには不正手段を使っても勝つことに熱中し、有望選手の引き抜き、審判(始め1人であったが、最盛期には12人となる)や相手選手を買収するなど、内部的には腐敗しきっていた。

・・・市民権のない女子は参加できないばかりか、競技を見物することも厳禁されていた。参加者は戦車や馬の御者以外は全裸で試合をした。競技の規則も定められ、格闘競技で相手を殺すと判定負けとなり罰金が科せられ、目の中に指を突っ込むことや股間を蹴り上げることも禁じられた。

優勝者1人が決定され、それ以外の順位は認められなかった。優勝者の特権は、公式的にはオリーブの葉冠と大会の最終の日に神域の祝宴に招待されるだけであったが、実際には、自分の都市に帰ったときには社会的な地位と多額の賞金が贈られ、それが、スカウトされて他の都市に買われていくジプシー選手を生んだりして、大会を汚濁していった・・・。(以上は前沢伸行著・日本大百科全書)

オリンピックたけなわであるが、オリンピックの前身である「古代オリンピア祭」についての記述を抜粋させてもらった。

政治家、軍人、文人の宣伝の場となり、不正な手段があったというが、現代のオリンピックも形こそ変え、政治や権力に結びつき、商業主義的な巨大な欲望のルツボと化している。その最大原因は「テレビ」に代表されるマスメディアの過剰な反応だろう。

「オリンピックに詩を!」。筆者はそう唱えたい。つまり体育系だけでなく文系の「知のオリンピック」も同時開催すべき。古代オリンピア祭には「詩の競技」もあったのである。美しいたおやかな詩の競技が復活すれば、殺伐な世の中も少しは変わるかもしれない。と思うのだが。(08/08/14)

 

309『言葉じいさん』

「のびしろ」という言葉はない。だが「のびしろ」という言葉はあちらこちらで使われている。漢字書きにすると「伸び代」、あるいは「延び代」となろうか。よく「A選手の運動能力は一杯いっぱいで、トレーニングを積んでも将来は期待できない。一方、B選手は余力があり鍛え方によっては『のびしろ』がある」という使い方をする。

手っ取り早くいうと、潜在能力の意味だろう。いずれの業界で使われだしたのか知らないが、昨今では大新聞でもときおり括弧付きながら見かけることがある。たぶん「糊代」をベースに派生したのではと、これは筆者の推定だ。

潜在する能力といえば長くなったり、語調が堅くなったり、ほかに適当な言葉がないので、「のびしろ」はよい言葉ではないか。大和言葉風ではないか。言葉は必要であれば造語すればよい。意味を与えればよい。つまらない言葉は廃れるし、よい言葉は残って使い続けられるだろう。それでいいのだ。

やや旧聞に属するが、「憮然」という言葉の意味が正しく使われていないと文化庁が発表した。憮然は「失望してぼんやりしているさま」「失望や不満でむなしくやりきれない思いでいるさま」という本来の意味でなく「不機嫌でむっつりしている」という使われ方のほうが多いというのだ。

かくいう筆者も間違った使い方をしていたようである。自分の間違いを棚にあげて何だが、「不機嫌でむっつりしている」「不満があって仏頂面をしている」という意味を、この機会に改めて加えたらどうだろうか。

言葉は使われながら変化してもよい。意味が変わってもよい。多義性、両義性、さらには反語、逆説などがわれわれの「言語生活」を豊かにすると思うのであるが・・・。現代若者のボキャブラリーの貧困さは目を覆うばかり、その若者への一石という意味でも。

NHKテレビに、「言葉おじさん」という番組があった。そのタイトルのモジリで「言葉じいさん」とした。(08/08/10)

 

308『詩歌の音楽性』

朝日新聞の全国版の7月24日付「俳句時評」(五島高資氏)に「取り戻すべき俳句の音楽性」という文章を書いている。以下はその抜粋である。

「梅雨明けと共に南風が炎帝を連れてきた。南風と言えば、攝津幸彦の<南風に死して御恩のみなみかぜ>と彼の忌日・南風忌を思い出す。今年は彼の十三回忌。(中略)

例えば、<路地裏を夜汽車と思ふ金魚かな>という攝津の代表作がある。そこには、客観写生の下、言葉の既成的意味やイメージに終始する近代俳句の在り方への痛烈な批判がうかがわれる。実はそうした記号化し形骸化した言葉をいったんその出自に還して再生させる処に攝津の詩境がある。それは俳句の淵源である古代歌謡において、言と事と琴(音楽性)が一体として未分化な原初的な世界に通じるものがある。

掲句において、意味的に固定観念を離れた言葉が放埓にならないのは、五七調定型はむろん、O音による音韻効果によるところが大きい。しかし、近代俳句は、こうした俳句の文学性に不可欠な歌謡性あるいは音楽性を見失って久しい。「現代俳句は文学でありたい」という攝津が嘆いたゆえんである。

<糸電話古人の秋につながりぬ>

まさに音波を介して攝津は真の伝統と結ばれていたのだと思う。(後略)」。

筆者がつねづね考えていたこと言っていたこと、それに近いことが載っていたので転載した次第である。

「散文は歩行、詩は舞踏」と言ったのはポール・ヴァレリーであり、言葉は散文として使われるときと、詩として使われるときと、異なった機能や様相をみせる。見せなければならない。言葉の異なった機能や様相を歩行と舞踏とヴァレリは喩えたのだが、その機能・様相のなかでも言葉の語調やひびき、つまり音楽性とか歌謡性とかは重要なポイントである。散文にも音楽性は必要だが、詩においてはより重要ではないだろうか。

言葉の記号論、言葉の意味論などはよく現代詩のテーマになるのだが、言葉の音楽性、歌謡性はないがしろにされていなだろうか。つまりある考えを主張し、伝えたいことが表現できればそれでよしとする。言葉は意味を伝達するもの、意味を伝えるための記号であればよいという、そのような思考が詩の表現者のなかでも大勢を占めているように思われる。

上記の抜粋にもあるように「客観写生の下、言葉の既成的意味やイメージに終始する近代俳句の在り方」が問われるのだ。言葉には意味や感情を伝える以外に、語調やひびきで伝わる意味や感情もまたあるのだ。それが音楽性、歌謡性ということかもしれない。

詩歌を詠むことである「詠ずる」とは、声を長く引いて読む。うたう。吟誦する。つまり音声を発することである。そもそも神代の詩の成り立ちは「祝詞言」といわれ、祭の儀式に唱えて祝福する言葉。神を称え神に捧げる言葉。それも音声のひびきを重んじた快い諧調であった。

それを小野十三郎が和歌の音調を「奴隷の韻律」などと批判し、一部詩人たちがこれに同調し、歌人もなんとなく腰が引けてしまった。定型をさげすみ、破調が新しいものと錯誤したようだ。

さてさて連句は?連句の付句には、意味論、既成観念、イメージによる付合が幅を利かせている。物事をつなげたがり、関連付けてしまい、強引に付け筋の道筋をつけようとしている傾向がある。それは一概に否定できないけれど、言葉の語調のひびきに支えられる「諧調の妙」が、連句の美しさであることに気付かない。気付く人が意外に少ないように思われる。(08/08/05)

 

307『諏訪湖周遊記』

英国のネス湖と信州の諏訪湖。「ネッシー」が生息しやすいのはどちらか。正解は諏訪湖。ネッシーが魚食性の大型動物なら、漁獲量がはるかに多い諏訪湖の方が可能性は高いという。もちろん仮定の話である。

ミジンコ研究で知られる信大教授の花里孝幸さんが、近著「ネッシーに学ぶ生態系」(岩波書店)で例え話として紹介した。透明度が高くて水のきれいなネス湖は植物プランクトンが少ない。それをえさにする動物プランクトンも少なく、またそれを食べる魚も多くはない。大食であろうネッシーは生存しにくい。諏訪湖の1970年代と比べると、漁獲量に七倍もの差があるという。

その諏訪湖も水質浄化が進むにつれ、生態系に変化が現れている。ワカサギの不漁など、漁獲量減少が目立ってきた。外来種や鳥の食害など、いろんな原因があるだろう。しかし生態学的にはネス湖のように、水が澄んだきれいな湖に魚は少ない。

(以上は長野日報・八面観・7月22日付)

諏訪湖産のうなぎの蒲焼きが売り出された。漁業組合の話によると、諏訪湖で獲れるうなぎはほとんど漁師が自家消費し、市場に流通することはなかった。今年は四国などでうなぎの産地偽装が話題になり、これを期に少ないけれど諏訪湖産のうなぎの評価を見てみようということに。

一人前3000円で百人前、湖畔にあるJAの調理場に依頼して蒲焼きにし、24日の土用丑の日に予約販売。20分で早早完売ということだ。天然物で腹が黄色いのも好評の理由だったらしい。筆者は諏訪湖産のうなぎの味を知っているし、いくら大好物とはえい3000円は高いので遠慮した。

筆者若いころ、鮒や鯉や手長蝦はよく釣ったが、うなぎは釣ったことがない。しかしうなぎを釣った人から貰って食ったことはある。うなぎは何よりも「たれ」。たれがいのちであり、たれが旨くなければ・・・それが本音だ。家庭の味のたれではとても期待はできまい。それにしても30年以前の諏訪湖では、素人でもうなぎが釣れたのである。

諏訪湖には合歓の花が似合う。下諏訪寄りの湖畔の合歓の花が見頃で、眠たげな薄桃色の花の色と、湖水の緑がかった水色がマッチしてフランス印象派の絵画を見るようだ。下諏訪から諏訪市に入るとすぐに「大和」(おわ)という地籍になり、この付近の沖合約300メートルの湖底に「曽根遺跡」はある。

曽根遺跡発見100周年企画で、「諏訪湖底にねむる謎の遺跡・曽根」が諏訪市博物館ではじまった。約一万年前に作られた石鏃(せきぞく)、つまり矢じりなど1500点が展示される。曽根遺跡は地理研究者の橋本福松(当時高島小教諭)が発見し、のちに同市の考古学者の藤森栄一も出土した。

水中遺跡として話題になり、湖上生活説、水没説などの「曽根論争」を巻き起こした。現在は気象変動にともなう降雨量増大のための水没というのが定説となっているが。

この大和界隈の諏訪湖端は「手長蝦」が多いところ。体の二三倍はある長い手の手長蝦。手が短い小形種も手長蝦というのかどうか知らないが、たくさん釣れたものである。

筆者少年のころ、湖畔の国鉄の保養所で留守番をしたことがあった。温泉を引き込む風呂があって、風呂は波打ち際すれすれまで突き出ていた。風呂に入ったまま魚釣りができるのだ。風呂に入って裸のまま釣糸を垂れる。これは忘れられない想い出である。(08/07/27)

 

306『連句の中にある言葉』

『連句の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ』。

付句の言葉は辞書にある言葉の語意を正しく伝え、文法を踏まえて用いることが肝要である。当然ながらそれが望ましい。しかしながら語意の解釈に多少の曲解や逸脱があったり、文法の誤用が多少あったりしても、それが逆に意想外の詩的好結果を生んでいるのであれば許容されるべきだろう。

言葉には魂が宿るとされる反面で言葉は単なる「用具記号」であり、文法には学問的な要素とともに言葉の「交通整理」にすぎないという部面があることも事実だ。

言葉に制限が加えられる韻文において、「用具記号」「交通整理」よりも「ポエトリー」が優先する。優先はするが言葉が辞書の中にある時より、また文法上正しくある時よりも「美しさを加えていなければならぬ」と思う。

付句の多くに見られる、「美しさの加えられていない言葉」が嘆かわしい。語調のみだれた散文のままの用法、平気な句跨り、省ける助詞を省かない字余りや字足らず・・・。

短詩形は言葉の音律性を生命にしているので、嫋やかな言葉のひびきが(ある場合には嫋やかならざる言葉のひびきを含めての詩的効果が)欠如していては、そもそも韻文とはいえまい。理想を求めすぎているかもしれないが、自戒をこめて言いたいのである。

冒頭にかかげた文章の最初の「連句」を「小説」に差し替えれば芥川龍之介の書いたものである。即ち、

『小説の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ』。(08/07/19)

 

305『付句の使い回し』

大阪は船場の有名だった料理屋が、客の食べ残しの料理を使い回していたことが話題になった。鮎、鰻、刺身のツマなどを新しい器に盛り替え、姿かたちをととのえ、次の客の膳にならべた。

またある居酒屋では、焼き鳥、枝豆、パセリを使い回していた。もっとも居酒屋のおやじもさすがに、牡蠣のチーズ焼き、肉ジャガは修復が不可能で、廃棄したそうな。「もったいない」「儲かるから」といって、なんでもかんでも使い回すのはどうか。

連句の付句にも使い回しがある。かくいう筆者も「使い回しの句を治定しました」「消費期限切れの言葉の句を治定しました」「お騒がせして申し訳ありませんでした」と平身低頭するほかない。

月と花の定座の前後、とりわけ「前」では月や花を気遣って詠まなくてはならない。たとえば「月」の場合、月に映りのよい景物がある。芒に代表される植物、昆虫や雁が音など。月の光にもかすかに見え、音がきこえ、巧く打ち添う。古くから添え物として詠まれ、人びとの概念に刷り込まれ、美意識となった。

しかし連句が先進の文芸であるべきとすれば、ステロタイプな表現で凡庸といわざるを得ない。それを承知で限られた季語を駆使し、季語以外の言葉をやりくりし、使い回す連衆さんも理解できる。

それではと、月の前に赤蜻蛉や鶏頭を付けたら・・・なんとも月が治まらなくなってしまう。(昼月は別だが)。連句とは意識の綱渡りの文芸だから、ことは厄介だ。

話を戻して、刺身のツマは普通、大根の千切り、青紫蘇、海藻などであり、これが刺身の旨さや見栄えを演出する。もしも「ツマ」がメロンの角切り、甘い煮豆だったらどうか。

「月」が刺身だとすると、赤蜻蛉や鶏頭は、メロンの角切り、甘い煮豆に等しいのではないか。この違和感!

付句の使い回しがよいはずもなく、付句にも著作権がいわれるようになったことではあるが、これは悩ましい話である。そもそも広義では、季語は使い回し、言葉も使い回しといってよい。

「刺身である月」の「ツマ」について述べたが、「鮎」はどうだろうか。鮎はメーンディッシュと考えられるので、「鮎である付句」とは歌仙のキーポイント、読み手の印象に残るはず。したがって「鮎である付句」の使い回しはゲンに慎みたいもの。応募して没になった付句だからよいということは、「お客の食べ残し」と承知すべき。

「牡蠣のチーズ焼きである付句」とは?これは使い回しができないもの。以前に筆者は「舞踏会貞操帯に鍵かけて」という恋句を付けたことがあった。また「集会はペニスサックを忘れずに」という未開国の酋長の恋句も。

また「ハイカラ」は、消費期限が切れて死語だろうな。使うとしたら皮肉か茶化すため。言葉には当然ながら鮮度がある。

そんなことをつらつら思った。(08/07/11)

 

304『あいさつ』

朝方に知合いと出会ったとき「おはよう」と挨拶するが、「お早う」とは一体なんだろう。朝だから早いのか。主語がなくてただ早いというだけ。なんどきを基準にしているのか知らないが、お互いに「早い、早い」と言い合う意味とは。

晩方には「こんばんは」という。「今晩は」の「は」とはなんだろう。今夜は何かがあると言いかけて、以後省略のような言い方だ。また「おはよう」には「ございます」の丁寧語があるが、「こんばんはございます」とは言わないのはなぜか。(「おばんでございます」というローカル挨拶語はきくが)

一方「こんにちは」は日中の挨拶語だが、これも丁寧にはいわない。下手に「こんにちはでございます」などと挨拶しようものなら、小莫迦にしたとぶん殴られてしまう。

知らない人を呼び止めるとき「もしもし」と声をかける。柳田國男の著作などに関連していえば、妖魔は「もしもし」と言葉を繰り返すことができず、反復語の「もしもし」が人間ですよ、怪しいものではありませんよという発信、相互確認らしいのだ。

「おはよう」や「こんばんは」の意味はなんであれ、お互いが発語して声付きを確かめ合うことなのだろうか。声付きもわからず、発語も全くなかったら不安でたまらない、たとえ知合いであってもということか。

そもそもピテカントロプス時代より、人間関係にはそんな危うさがある。物騒なので確かめ合っているのだろう。(08/07/04)

 

303『行列のできる連句会』

当ホームページの俳席には「次の間」と「奥の間」があるが、それとは別の作品を興行するため急遽、「ちょいの間」というタイトルで増ページ。当初目的の脇起半歌仙はまもなく満尾したのであったが、「ちょいの間」を打ち切りにするのは惜しいという声があり、スワンスワンを巻きはじめることに。

「ちょいの間」の「間」は、部屋のことをいう「間」と同じ言葉であっても、単にちょっとの時間という意のスラング。連句人も忙しいご時世ゆえ、訪問者は少ないだろうと踏んでいた。ところが、どっこい。

全22句のスワンスワンが、4日間で満尾した。連句の興行には遅速があり、顔を合わせての一座は3時間ほどだが、文音やファクシミリは一ヵ月から二ヵ月かかる場合が多い。

インターネットのWeb連句でも、進行が微動だにしないサイトをよくみかける。そんな動きのない興行はまるでゴーストタウンのようで気が滅入る。

しかし掲示板形式ならいざしらず、付句をメールで寄せてもらって、その都度ホームページに書き込んで更新する作業はなかなか忙しい。流れを悪くしたり、障る文字があったりする場合は見直さざるを得ず、コメントも書きたいので時間を食ってしまう。だが行列のできるほどの連衆の参加はありがたし。付勝なので没になるのは気の毒だが。

筆者の文机の周辺には、ページを開いたままの歳時記や電子広辞苑、プリントしたA4紙などがちらばっている。投句がビニール製の紙挟みにはさんである。パソコンの灯は寝るまで落とさない。・・・愚痴をこぼしているのではない。仕事にきりをつけて連句に追われるいまが、一番望んでいたことではないのか。幸いにも私どもの作品(どれもという訳ではないが)は連句界で十本の指に数えられるという自負がある。それを示す実績もある。こうした環境の作業のもとで楽しく学ぶことができるなら、「これでいいのだ!」とバカボンのパパみたいに思うのだ。

他方、投句される連衆さんは何を望んでいるか。楽しくなければ続けないので、間違いなく連句が楽しいのだろう。

付句を寄せ合って添削もして、共同制作の一巻の作品となったもの。それはストーリーもなく、長短の句が並列しているだけにすぎないが、約束事を踏まえた言葉たちがおのずから醸し出すもの。言霊のもつ響きのようなものかもしれず、それは、殺伐なぎすぎすした世の中にあって小さな得難い「フィールド」になっているのかもしれない。連句にはそんな魔力があるように思えてならない。

俳諧から連句へ。座のほかに興行のなかった俳諧が、やがて葉書の文音も行われるようになり、葉書がファックスやケータイに取って代わり、現在はわたしども俳席のようなホームページ経由で巻いたり、ネットの掲示板で巻いたりと進化した。葉書からインターネットは猛烈な速さの進化である。この環境が連句を換えてゆくかもしれぬ、良くも悪くも。(08/06/21)

 

302『つれづれ忙』

裏川に近いところの八畳間の脇に、スチール製の縁台がある。ほんとうは栗の木の濡縁をこさえたいのだが余地がなく、仕方なしに据え置きの縁台を昨年手にいれた。この縁台に腰をかけると、山野草やミニ盆栽が眺められる。小さな畑には、青紫蘇、豌豆、パセリがそれぞれ数本植えてある。

ミニ盆栽は、紅葉、檜葉、椿、額紫陽花、カルミヤなどの小鉢が並んでいる。山野草は、大文字草、風知草、矮化カーネーションなど、その他名前を知らないものも多い。雨が降ると葉を輝かせ、少しずつだが枝を伸ばす。植物は政治家のように嘘をつかないので楽しい。手をかけると花を咲かせ、葉を繁らせる。

「端居」は夏の夕方に縁側や縁台で涼むことをいう季語だが、筆者は昼餉のあとに食休みする。家のなかは肌寒いので夏でも日向ぼっこをする。信濃では夏も寒いと思し召せ。

  ・ 生きてゐるうちよ端居も文音も  けんすい

(師宇田零雨「生きて居るうちよ端居も酒のむも」本歌取)

前庭に株立ちの台杉があり、細い幹が8メートルくらい天を指して伸びている。ほとんど小枝はなく、てっぺんだけ丸く枝葉が繁る、そんな仕立て方だ。

きのう、この台杉の細い幹をスルスルと下から登ってゆくものがいた。何だろう?「ざっと見」には小鼠にみえだが、「よくよく見」には小鳥にみえた。二羽、それは成鳥になったばかりの四十雀だった。断定はできないが、たぶん四十雀に違いあるまい。

飛ぶのではなく、つかまり上がりというか、凡そ小鳥にあるまじき動作、それも敏捷に二本の幹を2〜3メートル登って飛んでいってしまった。親鳥の緑色がかった羽色でなく、利休鼠のような羽の色だった。

隣の新聞屋さんから芍薬をもらった。3センチくらいの蕾をもつ紅と白で、手に持ちきれないほどいっぱい。家人が玄関や洋間やリビング、そしてご先祖さんを驚かそうという訳ではないが、仏壇にも供えた。ご先祖さんはいつも菊系の小花ばかり。ときには艶やかな花もという、無礼講めいた押し付けの心遣いだ。

(ま、親父さんは間違いなく喜んでくれるだろうが、お袋さんは、まあ派手なというかもしれん)

先ずはじめ、白い芍薬が咲きはじめた。3センチが13センチほどの大きさに。白ながらも外側が幽かに銀色をにじませ、単に大輪というにとどまらず、上品な美しさみせる。これから紅が咲くだろうが、楽しみである。新聞屋さんの親戚が栽培し、出荷もしているらしい。ありがとう、新聞屋さん。(08/06/13)

 

301『女性観』

()「きれいな女性」というカテゴリーがある。主として面立ちや肢体の美しさ、それぞれのパーツが過不足なく按分されるときなど稀に出現する。しかし「按分の妙」の見解は主観的なもので逆に、按分の失敗がために一つのパーツが強調され、あるいは強調されないために意想外な「美」があらわれ、それをよしとする好事家の評価も無碍に否定できなかったりする。主観とはそのように曖昧なもの。だが、ある正統な法則をもって均衡が保たれたとき、最大公約数的に美は間違いなく美しいのである。

早い話が美人はいるのである。男性側から女性を意識するとき、いくつか選択できるとすれば、美人は一つの得難いカテゴリーではある。賞玩用という位置づけで。つまり美は醜を凌駕するが(その逆もあり)負荷もまた負うので、実生活では敬遠されることもありだ。

椎名麟三の小説「美しい女」は、美しい女のイメージを思い描くだけで男は生きる力を得るというのがテーマだったと記憶する。さしずめ()がモデルであろうか。

()「ダンマリ女性」というカテゴリーもある。天然物の「ムクチ」は絶滅危惧種に指定されており、共同生活が穏やかに送れることで男性の垂涎の的だ。世にもまれな「ダンマリ女性」が仮にも()であったなら、この上なき人生が送れるだろう。

だが「ダンマリ女性」には「ダンマリ擬き」の亜種があり、これに引っ掛かると大きな問題が派生する。たとえば不満憤懣があるにもかかわらず、とりあえず矛を収めて黙ってしまう女性。言葉を通して思考回路や感情起伏を探ることができないから、男性側として防御の態勢がとれない。あるとき唐突にダンマリの鍵を開錠して堪忍袋の緒をきってしまう。この手は一種の不発弾であるので、天然物の取り扱いとは扱い方を異にする。素人には処理が無理なので、自衛隊の爆弾処理班を呼ぶほかはない。

哲学者のショウペンハウエルの奥さんは、悪妻だったといわれる。筆者は青年の頃にショウペンハウエルの著作を読んで、この人は大変だったろうと思った。さらに「源氏物語」の六条の御息所も気難しい女だったらしい。源氏はジョークも言えず、神経を常時ぴりぴりさせていた。リサーチしたわけではないが「ダンマリ系」か「ダンマリ擬き」だったのかもしれない。

()「おしゃべり女性」というカテゴリーがある。「立板に水」は弁舌によどみのないさまだが、それとは少し違って牛の涎のように話が切れ目なくつづく。ときどき「話は違うけれどね」とワンセンテンスいれ、語調と文脈を代えて次の話題に移ってゆくのである。

この手は放送局的というか情報中心主義者が多いが、それでも何を考えているか、何に対して喜怒哀楽をしめすかという点は探れるので相対者として比較的安心できる。ただ人の噂というネガティブキャンペーンには要注意。「お喋りはきらい」と常日頃に言い募っている女性にこのタイプは多い。

さてさて、三つの「女性カテゴリー」のなかで筆者のお気に入りタイプはどれか・・・それは割愛する。(08/06/09)

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