トップページへ

コラム「その15」

メニューへ

300「ゴーストバスターズ」
299「呑・ヒル」
298「哲が句」
297「連句観」
296「あっ、宝石が出た」
295「瓶詰めの鮭」
294「大食い」
293「鳥とりトリ」
292「UFOからの・・・」
291「蟻さん歯磨き」

290「好きなもの」
289「春のきざし」
288「猫の日の余話」
287「白の世界」
286「エロ季語」
285「近況」
284「闖入者あれこれ」
283「日本の未来なんか尻ません」
282「正月五日」
281「鼠よ、こんにちは」

300『ゴーストバスターズ』

「ゴーストバスターズ」という掃除機をご存じだろうか。大手家電のナチョナルが社運をかけて開発し、売り出した新しい製品。ただこれは隠れ名称で、仕様書には電気掃除機、品番SC−M555PX、外形寸法や消費電力などが記されているだけである。いうならば「吸引の裏技」ということか。

家人は細腕体力なしのくせに「掃除魔」で、ほとんど連日「ゴー、ゴー」「ピピッ、ピピッ」と音響をひびかせながら洋間にやってくる。ゴーゴーは運転音、ピピッはICが吸引状況を知らせる電子音で、やかましくて筆者の思考能力が跡切れてしまう。

しかし、つらつら思うに、掃除は悪いことじゃない。塵あくた、ばい菌、ダニの死骸などハウスダストを吸い取って清潔になるならば。この掃除機「裏技見つけ隊」とキャッチコピーにあるように、吸い取りノズルと特殊なブラシでゴースト、つまり幽霊を吸い込む機能がある。ノズルとブラシの部品を換え、部屋の隅や天井に潜んでいるゴーストの眷族の姿に合わせて吸引するもの。

また「ゴーストバスターズ」の先端にはゴーストレーダーがあり、微弱な磁気を発するゴーストを探知する。センサーがゴーストを確認して人間を捕獲に向かわしめる。ゴーストの種類は家庭内にふわふわと漂うフライ級で、浮遊霊、言霊、透明人間、火の玉など。毛玉お化けのケセランパサランは最たるもの。有無をいわせず、あっというまに吸い込んでしまう優れものだ。

説明書には「見えないゴミをお知らせ」とあり、ノズルを通過したゴミ(捕獲したゴースト)の種類を「赤」「緑」の点滅で知らせる「ハウスダスト発見」機能もある。またゴミ(ゴースト)が溜まるとクリーニングサインがピカピカするので、丑三つどきに風下に向かってふっ飛ばす。ダストボックスの「霊血」などの汚れは「自分でおそうじ」機能があり、ゴースト自身が後始末する技も。

妖怪学会では「ダスト」と「ゴースト」は同義語で、どちらも「生きている」と定義される。実は家のなかには、浮遊する霊、さ迷う魂、ペットの化身や鳴き声などが潜んでいる。人間の耳目にキャッチできないだけにすぎない。

「霊」には正邪あり、性格のよし、あしもある。多くは陰気で恨みがましいのだが、なかには「お馬鹿系」もいて化け損ねたり、お化けが好きでお化けを気取りのモドキもいたり。

また財宝をもたらす「金霊」がいて、衝動買いして財布が空っぽになると万札を入れてくれたり、肩が凝っているとき、肩を揉みほぐしてくれる「蛸の手」がいたり・・・など、善意のゴーストもいる。邪悪のゴーストの方が多いことは多いが。

さて、妖怪や霊魂を吸い込む「裏技」を備えた「ゴーストバスターズ」を、ナチョナルはなぜ宣伝しないのか。それは妖怪学会のOKが出ないから。学際的協力を得て、異分野の家電との研究が実ったのだが、いまもって「ゴースト」の定義がなされない。「善悪」の区別さえもなされない。

きょうもまた家人を先導に、「ゴー、ゴー」「ピピッ、ピピッ」という音響が近づいてくる。(08/05/30)

 

299『呑・ヒル』

試みに回虫を『広辞苑』にあたってみると、次のようにある。

「カイチュウ科の線虫で、人体寄生虫。形はミミズに似、黄紅色。雄は体長20〜40センチメートルで、尾端が鉤状に曲り、雌は体長15〜25センチメートルで尾端が鈍く尖る。野菜・果物などに付着した卵が口から入り、成虫は小腸に寄生するが、胃・脳・泌尿器などに移行することもある。ハラノムシ」。

ところで皆さんは、「呑・ヒル」(どん・ヒルと訓む)という医薬品をご存じだろうか。腫れ物や褥瘡やニキビの飲み薬、生薬である。冒頭に辞書を引いたのも、筆者によって「ガセネタ」を噛まされ、ありもしない法螺話を聞かされるのではと警戒する向きがあるらしいので、ちゃんとした資料を示さんがためである。

「呑・ヒル」は、エチオピア国立病院のJ・ビーン博士の長年の研究になるもの。ヒル網の馬蛭(うまびる)の一種である「センチュリー」という名の個体を養殖し改良し、生き血を吸う性質を利して人体に害を及ぼさない改良の寄生虫・ヒルを開発した。

改良種「センチュリー・J」には、人間のいわゆる「悪血」(科学雑誌「サエス」2月号の同博士の論文に詳しい)を吸うことを覚えさせ、数千万代という累代をかさねて進化させ、ヒルの食性の狭食化(一つだけを食餌とする体質)に成功。このヒルはたとえおのれが餓死するとも、人間の「良血」(上記の同号に詳しい)は吸わず、いわば忠誠をつくすという寄生虫のサラブレッドだ。

「呑・ヒル」は「センチュリー・J」が原薬(寄生虫)で、ヒルの幼虫を濡れたスポンジ状のものに宿らせ、瓶詰めにして販売された。「スポンジ状」といったが、実はこれ海の藻に似た軟体動物で、幼虫のための宿主である。このように優れてユニークな製法の良薬にもかかわらずエチオピア国内では売れず、日本の塩間義製薬が触手を伸ばし、合弁会社を立ちあげた。したがって「呑・ヒル」のネーミングは日本国内用のものである。

以前はインターネットの「アングラ薬局」で販売されていたが、大手の製薬会社の販売ルートができてからドラックストアやマジモトキヨシで売っている。年間11億円を売り上げ、実績を好調に伸ばしていると業界紙は伝える。

ところで先日、お尻に腫れ物ができてしまった筆者。3センチメートル大で腫れがいっかな引かない。以前は「蛸の吸い出し」を張って血膿を吸い出したものだが・・・。

そこで思いついたのが「呑・ヒル」。善は急げと、「マジキヨ」に行って買い求めた。瓶からスポンジ状の軟体動物を取り出し、約2センチメートルの「ヒル・幼虫」を一匹つまんでゴックンと嚥下。指先に蠢きが伝わって、いささか気味がわるい。

効能書によると、ヒルは成育とともに人間の体内を移動して患部を探し当て、血膿を内部から吸い取るとある。朝晩の服用。三日つづけて以後は呑まない。効能は10日後から。ビールは幼虫が腸内を泳ぎ回るので副作用あり。焼酎はOKなり。なお効能を発揮後のヒルは「天失気」となって、肛門からぷうと排泄される。

さて、結果はどうなるか?(08/05/23) 

 

298『哲が句』

俳句とは何だろう。筆者にとって、俳句とは何だろう。作句をはじめて六十余年になるが、その解答は出せないでいる。

十歳に満たないころの俳句は、言葉をたんに「五・七・五」にまとめるだけだった。十五歳ころは季語に託して、自然の風物をそのままに詠みこんだ。傾向的には写生句といわれるものだ。当時、地方紙の俳壇の選者(小平雪人。慶応義塾で福沢諭吉と同窓)が古体を好んだので、見様見真似で句をひねっては投稿した。少年らしい俳句も老人のすさびごとに添削された。

その後は全国紙の俳壇に投句するようになり、産経新聞の月間賞(皆吉爽雨選)を受賞した。さらに何年かにわたって朝日新聞の加藤楸邨選、中日新聞の橋本鶏二選、小川双々子選などにもたびたび入選した。この間に「俳人100人のアンソロジー」を買い込んで読み耽り、俳句といってもさまざまな流派のあることを知ったが、いずれかの俳人の俳句に心酔することはなかった

十七歳ころだったろうか、『文章倶楽部』という投稿雑誌の俳句欄に投句するようになった。選者は宇田零雨で俳壇では珍しい抒情的な俳句を提唱された。筆者の投句を毎号上位に採ってくれ、可愛がってもらった。まなしに筆者は俳誌『草茎』に入門し、主宰の零雨先生をはじめて師と仰ぎ、先生が亡くなられるまでの四十余年間にわたってご指導いただいた。

筆者の俳句にも、ある程度は変化がみられる。『ホトトギス』に代表される写生句に対しては早くから訣別し、俳句という短詩形には不向きで稀有な抒情をめざした。ここ数年は、俳句とは「脳に在るものの形象化」「あらゆる自然、ひらめく感性の符号化」。別の言い方をすれば「呪文」であり「哲学」であろうか。

アジビラまがいの言を打ち上げたり、気取ったレッテルを貼ったりでは「俳句とは何だろう」の説明にもならないが・・・。

俳誌「くさくき」に発表の「J・U・R」などの英文字や「♂・♀」などの記号を詠み込んだ俳句について、何を意図するかと問われたが、前述の「呪文」「哲学」が筆者にはいちばん、ぴったりする言葉なのである。(08/05/16)

 

297『連句観』

連句の付句と付句は、何によってつながっているか。この命題に答える適切な解答がみつかっていない。明快に簡単に答えられないのである。「物付け」「心付け」といったり、「匂い」「移り」「ひびき」など情趣や余情をもって付けるといったり、確たる形をいうことができない。また論理の組み立てがむずかしいものだけに、ことはすこぶる厄介だ。

「付け筋」と称して、景色や場面や人間の関係がいかなる筋道によって付けられたかという説明は筆者もよくするが、それは結果からの検証にすぎない。経過の理由を述べているだけの、単に都合のよい用語にすぎない。

そもそも連句とは何か。そこを押さえて置かないと用語も機能しないし、説明も徒労に終わってしまうだろう。ところが連句が何であるかが、これまた難問である。

「連句観」は人によって、さまざまな考え方を持っていよう。連句を茶道や華道のそれに類似したものと考えたり、言葉を通しての人との交流であると考えたり、文芸性に重きをおいて拘ってみたり・・・そのいずれもが間違いではないだろう。

連句観は人それぞれ違っていてよく、結社やグプールが強制したり拘束したりするものではない。他者に対して強制、拘束はしないけれど自分の連句観は主張してなんら差し支えない。連句はつまるところ「フォルム」である。詩、短歌、俳句などのような、あくまでも文芸の一ジャンルである。

連句は「言葉による意識の綱渡り」だと思っている。言葉を使って意識(あるいは無意識)の世界の綱を渡ってゆく。言葉の意味や音感やイメージを紡ぎながら、ときには解きながら眺めてゆく、渡ってゆく。渡りの微妙な呼吸のようなもの、句から句への阿吽の運びに文学性を見出すのである。

筆者は連句をそのようなものと考えている。冒頭の命題に対する解答ではないないにしても、連句観を深めたい心意気あり、である。(08/05/07)

 

296『あっ、宝石が出た』

何がどうなったのか、世界が転覆したのか。ピストルで襲撃されたのか。筆者、けさの雪隠での珍事である。「痛っ」という感じではなく、「冷っ」という感じなのだ。

医者にゆくことになるが、それまで激痛に耐えられるか。少しの身動きにも、冷たい剃刀で肉を削ぐような痛みがはしる。やはり「ピストル」をピストルで襲撃されたのだろうか。香港マフィアのカラシ二コフで。

これでは何もできないから、河童文学館を閉館し、メールやファックスの文音をとりあえず中断し・・・などと痛みで劣化した頭脳で考えをめぐらす。大きな溜息をもらさざるを得ず、筆者、「硯水自身」の痛みを制御できないのだ。

「ああ、あれだ」と、痛みの原因である疾患を、本当は混濁した意識の底では掴んでいた。尿路結石、それなのだ。

思い出せばかれこれ20年以前になろうか。けさのような激痛に襲われ、日赤病院に受診するため採尿していた。顔をしかめて排尿しているとガラスの薬瓶がカチッと鳴った。「あっ、宝石が出た」と咄嗟に思った。その瓶を持って受診し、泌尿器科の先生に診せ、事の顛末を縷縷告げると先生は、「作り話だろう」という覚めた微苦笑をされた。

だが嘘偽りない真実。筆者のなかでは、採尿のとき「宝石」は瓶に入っても不思議でないという妙な確信があったのだった。・・・

あのときの痛みと、痛みが「瓜二つ」だ。家人を呼んで伝えると、きっとそうでしょう。一度罹った人は、10年くらいすると再度罹るということよ。水をたくさん飲みなさい。・・・

筆者はお茶を湯呑みに二杯、水をコップに二杯飲んだ。お尻を浮かせ痛みを少なくして坐り、朝刊の紙面を追っているが新聞記事がさっぱり分からない。頭に入ってこない。お尻が草臥れて尾てい骨の角度を変えようとすると、「冷っ」と何かが突っ走るような痛み。ふたたび、雪隠にいってみよう。

TOTOの便器を使っていると、「出たのである」。音はなかったが、約7ミリ大の石が。その「宝石」を指でつまんで水洗いし、洗面所の棚の上に置いた。よかった、よかった。一度ならず二度までも「発射」できた。

痛みはケロッとひいた。(本当は僅かな痛みはある。結石の移動で付いた傷のせいだろう)(08/04/23)

 

295『瓶詰めの鮭』

「晩餐」としてはおかずが少ないと、家人は思ったのだろう。鮭の瓶詰めをおかずの食膳に列席させようとしたらしい。当家が最終的に「婆抜きの婆」となった贈答品のたらいまわしの瓶を開けるべく、封切りにとりかかる。容器は直径12センチくらいの平ったい瓶、蓋は金属製。家人が蓋をいくらねじっても開かない。

それではと、筆者が出動して蓋をまわしてみる。いくら力を加えても、加えても、手のひらは蓋の外周り(「そとまわり」と読んでね)を空転してしまう。開かない。手がこすれて痛い。

蓋の外周りを木槌で叩いたり、熱湯をかけたり、しまいには生護謨をぐるぐる巻きに巻いて滑り止めにし、渾身の力をこめて廻す。それでも開かない。疲労困憊、手先がしびれてくる。

「じじばばにゃ、開けられませぬ。こんな瓶詰め、食ってやるものか」。ニッポン有数の水産会社が、消費者の瓶の開け方についてこれほど心配りがないとは。ニッポン有数の会社だから心配りがないのかもしれんが。

「鮭」を賞味するには金槌で瓶を割るか、金属の蓋にくさびを打ち込んで穴を開けるか。しかし、いずれも食前にする手仕事ではない。工具箱を持ち出し、鮭やガラス片が飛散しないように布を敷き詰め、作業場を確保しなくてならない。この時点では、ご免こうむりたいのが人情というもの。おかずの品数は少ないながら「いただきます」の段取りに入っていたのだから。

つぎは以前のことだが、ワインのコルクが抜けない話、訊く?

到来物のかなり高級なワインを晩餐に嗜むことになった。そのワインの蓋はコルク製で、コルクは35ミリくらい瓶のなかまで詰め込まれていた。これが抜けない。筆者が汗みどろになって、コルクの上部を抓んで引き抜こうとする。

それじゃ駄目だよと、息子がワイン瓶を抱え込んで苦闘する。「ワイン・オープナーという栓抜きがあること知っている?」と息子。「知っている、知っている。洋画なんかでよく観るよ」と筆者。「洋画じゃなくて家にあればいいのに」と息子。それでも、お手上げのおやじに成り代わって、息子はワインの栓を開けた。ワインのなかにコルク片が浮かんでいたが・・・。

「じじばば」は指先に力がない。感覚も敏感でない。たとえ眼鏡をかけていてもよくは見えないので、説明文を読み落す。指先同様に頭脳にも力がない。そのくせ食べるものは早く食べたい。

瓶詰め、缶詰め、薬箱のセロファンの切り口、ポリチャックの余地の狭さなど、開け難いものの数すこぶる多し。もう少し考えてほしい、メーカーさんよ。心配りのあるメーカーさんもあるが・・・。(08/04/17)

 

294『大食い』

テレビで「大食い番組」が流行っている。ラーメンや寿司や唐揚げなど、食材を選ばずたらふく食って、分量と時間を競うのである。番組によっては地区予選があり、勝ち残ると海外にまで遠征してご当地のメニューで雌雄を決するのだそうだ。

以前にはグルメ番組はあったが、大食いはなかったように思う。あるグルメ番組で旅にでかけて旨そうに食べ、その食べ方や表情や、コメントに一家言ある中年の男がいた。そもそも俳優だが本職は鳴かず飛ばず、だが「食べ屋」としての器量が買われて仕事が増えたといわれる。その後かれは、からだを壊して消えていった。

大食いバトルではないが、いわゆる「デブヤ」のタレントが、これも旨そうに食べる。メタボリック・シンドロームなんぞには、とうにパスし、行き着くところに行き着いたと思われる体形だ。ご馳走を食べてはテレビカメラに向かって、微笑んでコメントする。「生業」とは辛いものである、と筆者には思えてならない。

不味くて質素のものを食う番組はないので、想像するに確かに旨いのであろう。「食べ屋」の仕事とは、食べ方と表情とコメントで旨さを(たとえ嫌いなものであっても)表現しなくてはならぬ。下手な「食べ屋」は堪え性がなく頬張った瞬間に「美味しい、美味しい」と連発する。上手な「食べ屋」は嚥下してしばらく無言を通し、声をひそめて「うんうん」とうなずくそうな。

食べることは文化である。歴史である。古今東西にわたって食に対する欲望には限りがなく、皇帝や貴族などは美食のかぎりをつくし、晩餐会でご馳走を食べては自らの手を喉に突っ込んで嘔吐。その後に、再び食して味蕾の求めに応じたといわれる。

――あるけちな男が、飯をあまり食わない女房を求めていると、その通りの女が来て夫婦になったが、食わぬにしては米が減る。おかしいと思って男はある日出かけるふりをしてこっそり天井に上がって中のようすをうかがった。すると、女房の頭にはパックリと口があいていて、にぎり飯をポイポイほうりこんでいた。(水木しげる著「日本妖怪大全」)

これは「二口女」という大食い妖怪の話である。

「食」とは何だろう。グルメとは何だろう。筆者に言わせてもらえば、腹が減って食べれば何でも美味しく食べられる。逆説的に「空腹が最大のグルメ」だ。戦中戦後、雑草やサトウキビの幹さえも粉にして食べた者には、キャビア、フォグラ、トリュフは馴染めない。食べたいとも思わない。再び言わせてもらえば「舌に馴染んだものが最大のグルメ」だ。(08/04/06)

 

293『鳥とりトリ』

マイカーを駆って湖畔まででかけた。お馴染みのガソリンスタンドで給油し、下諏訪は高浜の俗称「死んでみるか・交差点」を通って、諏訪湖畔のカーパークに駐車した。「死んでみるか・交差点」の説明をしないのは不親切だが、きょうは鳥のことを書くので割愛する。

日射しが暖かいので車の窓を開放。すると一陣の風が、ダッシュボードの上のガソリンの領収証を車外に吹き飛ばした。そのとき突然、黒装束のカラスが十羽ほどいっせいに急降下し、マイカーを取り囲んだ。なにごとかと(いぶか)る筆者を横目に、カラス黒い目玉をぱちくりさせ、ボンネットから車中を窺っている。餌をくれるかと覗き込んでいる。どうやら、はらりと舞った領収書が餌だと勘違いしたようだ

そのカーパークでは昼時に弁当を使う人が多く、食べ残しを面白半分にカラスに与えているらしい。ご馳走の味をしめたカラスが、街路樹の枝でマイカーの様子をウオッチングしていたのだ。それにしても、風に吹き飛んだ紙片を見逃さない視力、すばしっこさにおどろく。

ひるどき、それも12:00〜12:30にかけて、当庵の庭の(かえで)の木にヒヨドリがくる。楓はリビングのすぐ前なのでランチを食している最中が多い。ヒヨドリはよく肥えた、落ち着きのある♂らしい一羽。枝に止まってリビングの様子を覗き込み、しばらく枝移りなどして飛んでいく。こんなことが四日も五日もつづく。

餌を見つけるため、あるいは啄ばむためというより、なんとなく遊びにきて、この家の住人を観察しているように見えてならない。腹を空かしているのではないかと、「ピーナッツを砕いてやろう」と筆者。「洗濯物にうんこ落とすから」としぶる家人。ヒヨドリといえば以前、数年にわたってこの楓の木に巣をかけて抱卵し、雛鳥を巣立ちさせたもの。

家人の話によると、ピーヒョロ(家人は鳶をこう呼ぶ)が隣接するNTTの鉄塔に棲みついている。小鳥をやっつけて食べる。物干場にときどき小鳥の骨や羽が散らかっている、というのだ。ピーヒョロは雑食性と聞いた気がするが、小鳥を捕殺するかは知らない。

当庵にも、たまさかシジュウカラがくる。いつもペアでやってきて、忙しなく枝から枝へ。以前にはピーナツを与えたが、砕いたピーナツを小枝とともに両肢でかかえて啄ばむさまが可愛い。ツッピン、ツッピンと高い声で鳴き、敏捷な動作。なによりも頭が黒く、ほおが白、背面の緑色がかったグレーの姿が美しい。

――あった方がいいが、お金なんかなくてもいい。筆者の財布は「始終空」である。財布が「始終(しじゅう)(から)でもシジュウカラがくれば、それでいい。(08/03/28)

 

292『UFOからの・・・』

オルトランという殺虫剤(樹木の根から吸収させる殺虫剤)と使い捨てカイロ(ホットマジック)を購入するため、「D2(デイツー)」に車を走らせる。D2は日曜大工センターであるが、何でも売っているディスカウント店。いやいや、買物や店舗などどうでもよろしい。運転中のハプニングを書かなくてならない。

バイパスの歩道橋をすぎたとき、突然フロントガラスが「びしっ」と鳴った。昆虫とか鳥の糞とかが当る、そんな生易しい音でなく硬質な一種異様な音だった。一瞬どきっとしたが、銃弾ならガラス全面がひび状に割れるだろう。空気銃のようなもので撃たれたかなと思った。しかし急停車もできないので、そのまま運転をつづける。

D2の駐車場で確かめてみる。フロントガラスの中心、下側から約20センチのところに10ミリ大の「きれつ」のようなもの、「ひび割れ」のようなものが見つかる。一見、ガラスが割れた状態なのに内側から触ると、つるつるで普通のガラスの状態。外側はと日本手拭で拭き取ろうとするが、やはりつるつる。

これはいったい、何だろう。そういえば運転していて一瞬歩道橋を見上げたとき、上空に「鳥のようなもの」を見たような気がする。微小な隕石か飛行機のパーツでも落下し、ぶつかったのだろうか。それともUFO、未確認飛行物体からの発信、あるいは記号のようなものの発射だろうか。

家人が買物をしている間、筆者は車中にとどまって、フロントガラスの小さなひび割れを眺めていた。

晴天で午後のひざしがガラスに照りつける。するとひび割れの部分がキラキラとまぶしく光る。たわむれに両目を半眼にすると、それは銀色と青色の混じった光線となり放射線状に燦燦と輝いた。万華鏡のようでもある。「きれいなだ」。

金属だった疲労する。ガラスだって疲労する。六回目の車検を迎えよとするニッサン・プリメーラ2000CC、老体の車であること疑いない。微小とはいえガラスに入った傷は危険でないこともない。いつ大事に至らないとも限らない。

だが、どこかで何となく、UFOがある種の「チップ」を打ち込んだのではないかという、途轍(とてつ)もない空想が頭をもたげる。スパイもどきの危ういチップでなくて、「幸せを齎すチップ」のような・・・。

コラムにこんなことを書くと、それは夢だったと片付けるのではないか、担いでいるのではないかと思われそうだ。だが、これは真実である。今朝も車をころがしたが、フロントガラスには「ひび」が入ったままだ。UFOからのアクセスは未だないが。(08/03/21)

 

291『蟻さん歯磨き』

商品名「蟻さん歯磨き」という、歯磨きと歯周病の殺菌のための液剤をご存じだろうか。数個月前にヨンスター製薬から1750円(500mm)で売り出されているが、現在はマスモトキヨシでしか販売されていない。いずれは全国のドラッグストアで買えるようになるという。

筆者も愛用しているが、黒い乳剤のような液体を口に含んで「ぶくぶく」すると、歯も磨けるし歯周病の殺菌にも相当な効果があるらしい。ただし、蜜のような甘ったるい味が舌に残るのが難点といえば難点。そういえば「蟻」は甘いものが好きだから・・・と妙なところで納得したのだが。

何でもエチオピアの、アビロンダとかいう黒蟻から抽出したものが成分で、ドラスティックな効能を発揮すると宣伝している。黒蟻は名前の通り真っ黒で20ミリくらい、より薬効を高めるため乾燥した蟻を荒削りに砕いてから金属の篩を使って抽出する。したがって蟻が卵を抱えている場合は、0・25ミリの卵はそのまま粗い粉末状のものに混じってしまう。

気になる人は、効能書などいちいち読まないがよろしい。歯周病の治療になるのであれば、多少の気味の悪さは我慢すべき。

筆者は歯科大に通院しているが、歯周病科の先生に治療と併用でも問題ないかと尋ねると、むしろお勧めしたいと仰っていた。「蟻さん歯磨き」発売以来、患者数が減った。とくに歯周病科は暇になったと、冗談めかしてこぼしておられた。

これは余談だが、毛沢東は歯磨きが大嫌いだったという。ただ嫌いというものでなく、子どものころから極端に嫌がるので口臭がひどくなり、母親や乳母が歯ブラシをもって朝な夕な追い回したそうだ。長ずると、若くて美しい歯磨き専門の乳母を雇い入れたといわれるが、結果はどうだったか。

毛沢東の歯は晩年にはぼろぼろに。金属などの入れ歯も嫌うので、日本人の歯科技工士に「柘植の入れ歯」を製作させたという。日本には木製の入れ歯の技術がある。これは雑学博士の東京の愚息から聞いた話だ。

さて「蟻さん歯磨き」であるが、三箇月ほどの「ぶくぶく」によって筆者の歯茎の腫れもだいぶ治まってきた。変な甘さと黒くねばる液体はいただけないが、歯周病完治のためならば・・・。

ところが先日のことである。朝餉のあと「ぶくぶく」をして、朝刊(朝日新聞)を読んでいると歯茎が妙にむず痒い。歯茎が蠢く感じがするのだ。思わず「ぺっ」と唾液を新聞紙に吐いた。吐いた唾液から泳ぐように微小な「黒蟻」が這い出してきた。「あっ」。

―そして夢から覚めた。きょうは歯科大の受診日だったっけ?(08/03/14)

 

290『「好きなもの」』

「好きなものイチゴ珈琲花美人懐手して宇宙見物」。この文章は一体何だろう、何を言おうとしているのだろう。和歌のようでもあるし、戯れ歌のようでもあるし、また呪文のようでもある。

言葉を区切ってみよう。「好きなもの イチゴ珈琲 花美人 懐手して 宇宙見物」(「珈琲」は「コーヒーのルビ)。なるほど、三十一文字、和歌の音数律になる。助詞などは省かれるが、五・七・五・七・七が確かに守られている。だが、和歌にしては和歌としての統一感というか、歌心が欠けているようにも思える。

このフレーズ?の作者は、何を隠そう、物理学者の寺田寅彦。筆者にいわせれば、俳諧師・寺田寅彦だ。なんでも寅彦が自分の好物をただランダムに羅列したものらしいが、随筆に書いたものか、いつの時代に書いてものかさえ筆者は知らない。ご存じの方は教えてほしいものだ。

寅彦は俳諧、つまり連句の音楽性について、謡を喩えに出している。要約すると、連句には謡曲のような音楽性、滑らかなリズムが必要だというのである。

それを踏まえて筆者には、上記「フレーズ」は、「好きなものイチゴ珈琲花美人」(長句)と「懐手して宇宙見物」(短句)の付句のスタイルを取っているのではないかと思われてならない。五七調の音律をしかと守り、七音の「イチゴ珈琲」「宇宙見物」は流暢なリズムの「3・4」で乗り切り、「懐手して」は「5・2」という軽快さを失っていない。句跨りもない。

もっとも要である結句の「宇宙見物」はあっ晴れで、もしも「4・3」であったなら、このフレーズは見るに堪えないものになっていたろう。(むろん寅彦がそんな措辞をするわけはないが)

詩はそもそも祝詞であったなどと持ち出すまでもなく、短詩は音楽性がいのちである。砂を噛むようなぎこちない言葉は楽しくない。筆者が、付句の字余り、字足らず、下七の「4・3」「2・5」を嫌う所以だ。

ただ高等なテクニックとして付合の流れを一旦遮断したり、けばたつような心象を表現したり、そんな場合は、あえて音律をぶち壊すこともなしとしない。禁忌や否定は連句想像力の損失なので、そこまで全否定はしたくないのだが・・・。ま、高等テクニックを使うレベルの人は日本にせいぜい二三人だろう。

「舌頭に千転せよ」は古臭いことばではあるが、先ずはその辺から・・・。筆者自身の自戒でもある。(08/03/07)

 

289『春のきざし』

北帰行が近くなるにしたがって、白鳥の餌の好き嫌いがかわる。好き嫌いというより本能がそうさせる。粟や米屑などの雑穀、パンの耳などは食べなくなり、菜屑や大根の葉、水草などを食べるようになる。準備怠りなくダイエットし、北への旅に備えるのだ。

飛んだはいいが、みずからの重みで疲労困憊し、止まり木もない空中でふらふらと飛翔していては見苦しい。いや見栄でなく、猛禽やコンコルドにやられてしまう。痩身マニュアルがあるわけではないが、白鳥のDNAがそうさせるのだろう。

諏訪湖の白鳥の北帰行は例年より遅れている。暖冬の予報がはずれて余寒きびしく、全面結氷のまま。白鳥は減食の態勢をとっているがチャンスは巡ってこない。南風の吹きはじめるのを待っている。南風に乗って北をめざせば羽ばたく回数がぐっと減り、「省エネ飛翔」で乗り切れる。これもDNAが知っている。

2月も末、だが寒い。朝まだき、ギャーゴー、ギャーゴーと野良猫が妙に声を引き伸ばして鳴く。筆者の寝室のサッシ戸を隔てた通路らしい。起床して姿を見たわけではないが、恋に老獪な「♂猫」に相違あるまい。

それからのち、NTTへの通路に寝そべって日向ぼっこしている猫をみつけた。あの妙な鳴き方の猫かもしれない。猫の威厳もなく、ひっくり返って腹を太陽に向けている。傍らを子鼠がちょろちょろと、通り過ぎたかもしれない。

春は・・・猫は鼠を獲ることを忘れ、人間は借金のあることを忘れる。その春には間があるが、多分間違いなく春は訪れるだろう。

春は・・・筆者は、気だるさの、うつうつと滅入ってしまうような利休鼠色の時空をさ迷いつづける。しゃきっとしたい半面、このままの状態にあることの、ある種の快さ。「草萌える」時季には、一般の人でも「ぼんやりした愁い」(春愁)を感じるが、微妙な人はより感じ易くなるものらしい。後者である筆者は、まもなくその季節を迎えるのである。

「石ばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」(志貴皇子「万葉集」)の「萌え」は、草が芽を出すことで古くから用いられた言葉である。

一方で、東京アキバの白いエプロン姿のメイド喫茶「旦那さま、お帰りなさい」の「萌え」はスラングであり、オタク用語だ。そもそも「萌え」には「きざす」の意味がある。「きざす」とは、物事が起ころうとする気配。また、事を起こそうとする気持ちの生ずるさまもいう。

何もしたくないのに何かが「きざす」のだろうか。「きざす」からそれに逆らって、何もせず滅入ってしまうのだろうか。

国民文化祭などの連句大会に出席して捌を依頼され、白いエプロン姿のメイドに「宗匠さま、お帰りなさい」と迎えられたら、創作意欲もりもり、筆者も「きざす」のだろうか。(08/02/29)

 

288『猫の日の余話』

2月22日は「猫の日」である。「2」の数字が三つならぶので、「ニャン、ニャン、ニャン」ということだろうか。我が家のアビちゃん(アビシニアン・♂・2才ちょい)は東京暮らしなので、好物のカツオブシもマタタビも食べさせることができない。デジカメ撮影をキャノンでプリントアウトしたブロマイドが手元にあり、それを眺めている。可愛いニャーゴ。猛烈可愛いニャーモ。

「猫鍋」が流行っているそうな。流行っているといっても、もう旧聞に属することかもしれない。狭い場所を好む猫の習性から、土鍋などを用意するとその中に入り込んで丸くなる。一匹ならず二匹・三匹と、団子状になって仲良く居眠りをする。

そんな佇まいの写真をブログにアップしたら、評判になりアクセスがウナギ上りになったという。筆者も眺めてみたが、よそ猫ながらけっこう可愛いと思った。

「2」といえば、当ホームページは西暦「02・02・20」に開設した。2の数字が三つならぶ日。考えてみると、これも「ニャン、ニャン、ニャン」だ。トップページに蛙が「二匹」跳んでいて可愛いな。

も一つ、ついでに「2」といえば、連句形式「スワンスワン」は2羽の白鳥が諏訪湖の湖面を泳ぐさまをイメージして、句数が「22句」から成り立っている。(新潟県の瓢湖など白鳥の飛来地はあちらこちらにあるが、白鳥の数が多すぎても印象はよくない。総体数で100羽くらいの諏訪湖がよいのだ)

「2」について欲張って、も一つ付け加えたい。2という数は二重とか無二とか二の矢とか、「ふたつめ」「つぎ」を意味する。同一でないこと、異なることでもある。また再びということでもある。

「玉の緒よ絶えなば絶えね・・・」――いのちは後にも先にも唯一であり、代替がない。「おいのち頂きます」と誰かにいわれて、あるいは神にいわれて、それを差し出すと、それである「わたし」はきれいさっぱり消滅してしまう。消滅したことさえ「わたし」には確認できない。「唯一」とは、そういう代物である。唯一であるいのちを抱きかかえ、生きてゆくプレッシャーは大きなものである。

「差し出す」ことが嫌でたまらないというのではないが、「ふたつ」「つぎ」という数詞、スペアあるゆったりとした生き方に憧れる筆者であった。(08/02/22)

 

287『白の世界』

久し振りに車をころがし、諏訪湖畔まででかけた。節分にドカ雪が降って、積雪約30センチ。放射冷却で諏訪盆地は厳しく冷え込み、零下16・3度の日もあった。道路の雪は路肩に片付けられたが、公園や屋根の雪はそのまま。

諏訪湖は結氷して「御神渡り」現象がみられ、2日には拝観式、正式に「御神渡り」として神主による確認もされた。今年の世情や作物も氷の割れ方や方向などから卜する神事もあり、平成20年の世の中は「まあまあ、後半は多少の明るさも」とのこと、うろ覚えのまま書き込んで申し訳ないが。

諏訪湖は全面が真っ白。氷の上に雪が積って、綿を敷き詰めたような風景である。曇天ながら、ときどき日射しが戻ってまぶしく光るほか、ただに白い世界だ。車の窓越しにしばらく湖面を眺めていると、とっさには見えなかったものが次第に見えてくる。

ボート乗り場の桟橋の、木製の橋の横面はチョコレート色をしている。初島という小さな人工島の植木は茶褐色、さらに濃い緑色も混じる。遥か彼方の雪上を舞う鴉が礫(つぶて)のように落下する、これは黒色。岸辺に小舟が裏返しにされる。舟底のペンキの色は灰色というか、水色というか。

白一色と見ていたものが、目が馴れるにしたがって氷上の雪は真っ白でなく、ビミョウな白であることに気付く。白以外のさまざまな色が白に反射したり、翳を作ったりしているのだろうか。白はそもそも無彩色であるが、他の色に染まりやすい色。他の色との染まり方もデリケートであったり、極端であったりする。

白はしばしば「善」に用いられ、純潔、清廉の意味をもつ。黒魔術に対する白魔術なども。「白黒つける」があり、「白状せい」も白の語が入る。しかし必ずしも善ではなく「白(しら)を切る」などは「悪」であろうか。

諏訪湖の雪景色をビミョウな白と書いた。白の近似色は、灰色、鼠色、銀色、グレーといわれるが、そのいずれの色でもない「白の世界」を筆者は見たように思える。心象のわが絵の具は、白のカンバスに塗りやすいのかもしれない。

同郷のよしみで小林さんの句を挙げておく。

雪ちるやおどけも言へぬ信濃空    一茶

むまさうな雪がふうはりふはりかな  一茶

(08/02/07)

 

286『エロ季語』

先般、男鹿市の「えろ・ナマハゲ」がマスコミを賑わしたが、俳句の季語にも「エロ季語」があることをご存じだろうか。昨今の風潮ではセクハラと人権侵害の言い掛かりをつけられ、追放されそうな季語があるのだ。

「湯婆」(ゆたんぽ・冬)。中国は唐の時代に伝来したが、『和漢三才図会』に「湯婆は銅を以て之を作る。大さ枕の如くにして小き口有り。湯を盛りて褥傍に置き、以て腰脚を暖(火偏)む。因りて湯婆の名を得たり」とある。「婆」は「妻」の意味で、妻の代わりに抱いて寝ることから付けられた名。さながら、「もどき体温」をそなえたダッチワイフだろう。

○ 起さるる声も嬉しき湯婆かな     支考

○ 先づよしと足でおし出すたんぽかな  一茶

感想は読者諸兄姉に委ねるとして、材質は銅、陶、ゴムなどから最近はプラスチックも。ユーザーも低年齢化し、クマさん、パンダさん、キティちゃんも。湯を入れずに、レンジでチンもありだ。

一方、夏の季語では「竹夫人」。抱籠、添寝籠、竹奴も副題に入っている。竹や籐を筒型に編んだもので、1メートルから1・5メートル。くびれを取り入れた別バージョンも。これも最近は布袋に綿やスポンジなど弾力のある素材を詰め込んだものが多い。ジュニアものは「抱きぐるみ」という。寝苦しい夏の夜に、寝ながら抱きかかえたり、手足をもたせかけたりしていると涼しいので使われる。

当然ながら「竹夫人」の愛玩者は亭主だが、「竹奴」の愛玩者は奥方ということになる。「奴」とは召使い、奴隷、農奴であり、帝の留守を預かるお后とか、西洋ではチャタレー夫人を彷彿させる。いずれも彷彿の範囲内だが、言うなれば、ちょいとその気のポルノグラフィーの季語であろうか。庶民の消夏のための「実具」に、言葉の上で、ある種くすぐりの仕掛けを施したということか。

○ 抱籠や妾かかへてきのふけふ    其角

○ 抱籠や一年ぶりの中直り      来山

其角さん、いいご身分ですな。来山さん、ドラマがありますな。季語には「行水」「裸」「肌脱ぎ」があり、「星の恋」「獣遊牡む」。とどのつまりは「姫始め」なんぞも。われこそはと挑戦する俳人は、おどけ、ユーモアを旨とされたし、老婆心ながら。あっ、もとい、「老爺心」ながら。

○ ♂なら土筆の坊や天までも

○ 尾を振って♀跳びせり子持鯊

○ 磯開き貝合はせにも♂の手

○ ♀ほのかつんつん椿芯見せて

○ 熊蜂の♂のちくりの只ならぬ

「♂」「♀」には読者が読みたいように、ルビを振って読む。因みに句の作者は筆者で、所属する俳誌に寄稿した。季語そのものはエロではないが・・・。(08/01/30)

 

285『近況』

くしゃみがでる、目が涙っぽくなる、ときどき咳がでる。肩がきゅっと凝り固まる。風邪かな?と思うが熱が上がるわけではない。寝込むほどではないので「改源」か「葛根湯」を服用。一回の服用でなんだか効いた気がする。その晩はとりあえず胃袋をアルコール消毒し、病状を吹き飛ばそうとこころみる。

翌朝もくしゃみ、涙、咳。たいしたことではないが、頭が重い。帽子は被っていないのに額のあたりは帽子を被ったような圧迫感がある。これはなんだろう。自己診断では「老衰」だが、「自分医」は往往にしてヤブが多い。こんな日がつづく。良くなったり、悪くなったり。

これはひょっとして花粉症か。花粉症はある日突然かかるといわれる。シクラメンの鉢植えを室内で眺めて楽しんでいたが、あるとき花粉がテーブルの上に散っていた。ひょっとして。だが自己診断はやめよう。

雪が降った。積雪15センチ。諏訪湖はほぼ全面に薄氷が張っている。舟の動きもほとんどない。白鳥や鴨は岸辺の氷の張らない場所を選んで、ひねもす遊んでいる。がつがつしなくても餌はあるのだろう。氷の上を歩くときは誠におぼつかない。ヨチヨチ歩き、風が吹こうがものなら、風に押されて滑ってしまうありさま。

雪が降ると庭に見馴れない小鳥が訪れる。小さな茶色がかった鳥を見たが、すぐに飛んでいってしまった。ウグイスかメジロか、一瞬だったので確認できない。ピーナッツを撒いてあげよう、山は冠雪で食べるものがなくなったのだよ。と家人と会話したが、そのままになっている。

「連句評釈」をはじめた。漱石、虚子、四方太の三吟歌仙である。以前にどこかで作品を見つけ、書こう書こうと思っていた。芭蕉より食指が動くのだ。漱石全集にちゃんとした形で収載されているかどうか知らないが、確かめもせずに書いている。

連句の評釈って、なんて楽しいだろう。資料がなくて大変だが楽しいことこの上もない。連句ってこんなものであったかという再発見ができる。

パソコンに向かっていると、冒頭の症状を忘れている。くしゃみも涙目も、無意識に処置している。根を詰めないように30分で一旦パソコンをやめ、スタンバイ状態にする。すると症状が出てくる。こりゃ病気だぞ。だがこれしきは病気じゃないと、もう一人の筆者がのたまう。(08/01/24)

 

284『闖入者あれこれ』

「泣ぐ子はいねが!」。出刃包丁をかざし、鬼の姿をした形相も凄まじいナマハゲが子どものいる民家に上がり込む。大したことでもないのに駄駄をこねたり、泣いたりする子をいさめる。これが歴史も古き男鹿市のナマハゲの定番スタイルだが、平成19年も末「えろ・ナマハゲ」(略して「えろ・ハゲ」)の登場と相成った。

歴史ある行事の継承のためと冬の観光の客寄せのため、数名のナマハゲが温泉施設を訪れてパフォーマンスをしていたが、ある一人(一匹)が女湯に闖入し、「いい娘はいねが!」と女のからだに触ったというのだ。湯浴みの婦女子は何人かいたらしいが、ちょっとだけ体のどこかに触られただけで甚大な被害にはならなかった。

不届き者の「ナマハゲ・グループ」は共同責任を負うべきと、今後三年間は行事に参加できないというお灸をすえられた。男鹿市観光協会の方だったと思うが、「ナマハゲのモラルの向上を考えなくては」とテレビでコメントしていた。「鬼(ナマハゲ)のモラル」に微苦笑を禁じえない筆者であった。

話はコロッと変わるが、いや間接的ながら、民家に上がり込む点ではナマハゲと変わらないが、電話による「有線の上がり込み」には迷惑する。商品相場、絵画販売、保険勧誘、PC接続の乗り換えなど多岐にわたる。

「鳩派」である筆者が遠慮がちに応答していると、きりもなく続くセールストーク。トークに切れ目がないので喋らせて最後に断る羽目になり、不機嫌にガチャンと切られてしまう。へんな善意はすて、一気に撃退するのが本道かもしれない。

そこで考えついたのが「重病作戦」。コンコンと咳をし、か細い声で体調が悪くて入退院を繰り返しているといい、再びコンコン。のんどに物がつまったように、ゲッツ、ゲッツ。「いい押し売り」はマニュアルがあるらしく、お大事にといって電話は切れる。「わるい押し売り」は受話器をガチャン。しかしこれがすべてに有効とかぎらず、○○宗教の勧誘のときは失敗。苦しみをお救いします、訪問もしますと粘られてしまった。

取って置きは「葬式作戦」。きょうはお葬式でして、といって鼻水をすすりあげる、泣き真似。これは効果てきめん、音もなく電話は切れる。ただ効果とはうらはらに、自らの騙しのテクニックの迫真さに、みょうな罪悪感に苛まれる。

次も「上がり込み」の一種だが、当庵の郵便受はスチール製で、蜜柑箱二つを合わせたくらい大きい。書籍や雑誌を受けるために特注でこさえてもらったもの。最初は表札代わりに家族名と河童庵と書いて郵便受に張っていたが、大家族に見せかける方が、押し込み強盗や空き巣に入られる確率が低いときき、居候として「河 太郎」「熊五郎」を追加した。

玄関の外にドタ靴を干しておく、なるべく土付きのやつを。泥棒除けのアイテムだそうな。かつて一回空き巣にやられたが(女空き巣だった)、この家では被害に遭っていない。個人情報悪用が気になるので、現在は連名表札は出してないが・・・。

住み難い渡世でござんす。(08/01/17)

 

283『日本の未来なんか尻ません』

岩手県・奥州市「蘇民祭」の、裸参りのポスターがマスコミで話題になっている。男たちのふんどし姿や、けむくじゃらの胸毛が見苦しい、セクハラではないかとJRがポスター掲示を拒んだというのである。くだんのポスターをテレビで観たが、なんら問題はなさそうだ。歴史ある祭らしく勇壮で荒っぽい感じはするが、公序良俗(そんな規範は筆者は認めないが)に反するとは到底思えない。女性が見ても同じような感想を持つのでは。

これがダメというなら、大相撲の相撲取もお尻丸出しで、男同士が抱き合ったり蹴飛ばしたりして見苦しいことおびただしい。しかも彼らはメタボリック体型ときている。医療費削減をめざす厚生労働省の方針からして悪しきサンプル、亡国の興行としか思えず、NHKも中継などとんでもないことである。

女の裸は一段落したので、つぎは男の裸を槍玉にあげよう。意図してではないだろうが、妙にしゃっちょこばった時代がいわせる「的外れな発言」と思えてならぬ。耐震偽装や賞味期限や政務調査費や、偽装や違反、ごまかしをしてきて、ばれるのが恐くておどおどしている一部の種族たち。その余波というか伝染というか。

そもそも忌まわしい差別意識、差別語を駆逐すれば差別がなくなると考えて「言葉狩り」をはじめた20年くらいまえからだろうか、へんにおどおど遠慮し、そのくせ親身から遠ざかるような偽善的な世と化してしまったのは。弱者を蔑む言葉は表面的には減ったが、弱者に優しくなったかというと、むしろ逆に冷たくなったように思えてならない、昨今の世相を見るにつけて。

JRも問題が起きれば面倒とおののき、先手を打って「ポスター」から逃げたのかもしれない。一企業であるJRがポスターを張ろうが張るまいがかまわないものの、男を尻を胸毛を「猥褻物」にしてしまった罪は重い。祭の男の尻は美学である。歴史が積んできた日本人の美の認識である。花魁も遊女も日本の美意識からうまれた。ストリップショーは西洋の美意識からうまれた。

もともと人間のからだは猥褻物なんかでない。部位や部位の状態を切り離して猥褻だと見るのはおかしな先入観だ。かりに猥褻という概念を認めるとしても、それはそういう目で見る者の心にこそ存在するだろう。

ある詩人にこんな詩があった。要約する。

山に分け入って誰かが大声で「泥棒」と叫んだ。すると伐採していた樵(きこり)や、山菜取りの老人が驚いて逃げ出してしまった。泥棒をしているつもりは露ほどもなく、ただ声に驚いただけなのに。樵も山菜取りも、逃げることによって泥棒になってしまった、のであった。(08/01/12)

 

282『正月五日』

正月の三日に、当ホームページのアクセス累計が50000を超えた。5年ちょっとで、たったのそれだけかと思われる人もいようが、俳句や連句、現代詩やコラムなど、インターネットの世界ではマイナーな分野のHPなのでそれなりの満足感はもっている。

ホームページの開設当時は、掲示板で友達になった人に訪問してくれよと依頼もした。そんなギリ・アクセスは長続きせず、友達も雲散霧消してしまった。

最近では兵庫の連句の友・Aさんが、連句大会でたまたま顔見知りになった連句人がパソコンをもっていると聞き込むと、河童文学館が面白いですよと推奨してくれている。そのお陰もあってヒット数が伸びていることは疑いのない事実。広報部長である。

アクセス数は、どこまでという天井なしだ。10万、100万、そこが天井というわけではない。もう5万を超えたからいいやと一旦は思うのだが、Webからトップページを開いてカウンターボックスを覗き、多いとうれしいが少ないと張り合いがない。これはひょっとして止められない麻薬のようなものかも。

窓辺のシクラメンが実にきれいだ。白の花弁に濃い目のピンクが芯へとにじみ、花弁の縁をトリミングする。旧臘にお隣の新聞屋さんからプレゼントされた。筆者、これほど美しいシクラメンを見たことはない。このシクラメンの鉢植えには、三日に一回たっぷり水を与えている。水を与えないと枯れてしまうだろう。

文机の傍らに屑篭がある。何もしていないようでも屑は溜まってゆき、気がつくと一杯になる。ポリ袋ごと屑篭から外し、大きな排出用の指定袋に入れる。これをさぼっているとゴミ屋敷になってしまうだろう。

HPを更新したりアクセス数を確かめたり、鉢植えに水遣りをしたり、屑篭を片付けたり・・・これが生きているということかと思ったりする。これら雑用は召使や下部にやらせ、腕組みでもしていようか。でも性分として自分から手を出してしまう。尤も召使も下部もいないが。

一見つまらないこと、極極つまらないこと。にんげん、それが大事なことかもしれないと思う。とりあえず今日が平穏に生きられれば、明日も平穏かもしれない。明後日はちょっと分からないが、心配しないでよろしい。成るようになる、今日のような日がきっと来るだろうよ。ケセラセラ、成るようになる。

それじゃ、正月五日を送るよ。(08/01/05)

 

281『鼠よ、こんにちは』

今年の干支は「子」、鼠である。鼠は十二支の第一番目に位するもので、小さいくせにすばしこい。テレビや新聞や年賀状に、姿態もさまざまな「チュー公」が十二年ぶりに再デビューし、打ち眺めているとそれなりに楽しいのであるが・・・。

十二支の動物についてのエピソードをご存じだろうか。神様のもとに、新しい年の挨拶にきた順番に動物を割り当てたというものであるが、鼠に関する部分を次に書いてみる。

「牛は足が遅いので早めに行ったものの、一番乗りしたのは牛の背中に乗っていた鼠だった」。

「挨拶に行く日について、鼠は猫に嘘を教えていたため、猫は十二支に入れなかった。そのため猫は鼠を追いかけるようになった」。

ネコ科の「虎」が十二支の仲間に入ってはいるが、嘘をつかれた猫の気持ちは憤懣やる方ない。鼠とみれば脱兎のごとく、いや「脱猫」のごとく敏捷にハンティング。ひっ捕らえ、むしゃ、むしゃと食ってしまう。

わが河童城の「江戸詰めの猫侍」アビシニアン「アビ之介」は、ルーツがチュー公からうけた屈辱的な仕打ちががまんならず、今もって根に持っているらしい。それが何より証拠には、江戸詰めから信濃に下った折には、棒先の紐に括られた「毛糸鼠」をくわえ、憎らしげに振り回すのである。

話は変わるが、「利休鼠」という色がある。茶人の千利休(せんのりきゅう)と鼠のエピソードかと思いきや、それはなくて、利休色といわれる灰色がかった黄緑色に、鼠色が加わったもの。もうちょっと詳しくいうと、抹茶の緑色と詫び茶の雰囲気を連想していわれた利休色に、鼠色を強めて「さびた味わい」を出した色合い。

北原白秋の詞になる「雨は降る降る城ヶ島の磯に 利休ねずみの雨が降る」(「城ヶ島の雨」)は広く知られる。この詞を歌曲で最初に耳にしたとき、利休鼠という言葉の面白さ特異さ、言葉のもつイメージの深遠さにショックをうけたことを思い出す。

「利休鼠」なる言葉のもつ力、色合いの微妙さ、色目の移ろいなどが連句世界に活かせたら・・・。近頃、しゃかりきに意味だけを伝える連句がはびこってきたが、筆者が残すべきい連句はそれではない。残すべきは「言葉のもつ風合いを賞翫する」、そんな連句。吉と出る初夢であってほしい。

またまた話はコロッと変わるが、「嫁が君」というのは鼠の忌み言葉、新年の季語でもある。大黒様の使いといわれるが、害獣で不潔なのが嫌われたか。台所に出没してごそごそと音を立てるから、嫁と呼ぶのであろう。

鼠はリスやヤマアラシの仲間で、上下の顎にある一対の門歯が大きく、これが一生伸びつづける。伸びつづける門歯の磨耗障害を避けるために、腹の空いていないときでも何かを噛みつづける習性がある。嫁さんは日に三回の食事のほかに、台所で「つまみ食い」をするらしいが、それは磨耗障害を避けるためであった、のか!?

「嫁」とは息子の妻のことをいうし、人妻のこともいう。筆者の連れ合いも「旧」ながら、このカテゴリーに入るとみたほうがよい。旧臘、年賀状の三つ物に「嫁が君」を付けようとしたが、危ない危ないと手を引っ込めた。季語と知らない人に、痛くもない腹を探られてはたまらないから。鼠であると見なされた「新旧妻女」に、牙ならぬ門歯を剥()かれてはたまらないから。

なんせ「窮鼠猫を噛む」というではないか。(08/01/01)