コラム 「其の14」

トップページへ
メニューへ

270「アニミズム」
269「この草
〜」
268「食のほそ道(2)」
267「食のほそ道(1)」
266「温泉卵」
265「魚っちんぐ(2)」
264「魚っちんぐ(1)」
263「ナツハゼと地球と」
262「ボクちゃん日誌」
261「痛・痒・擽」

『いのししよ』280

いのししよ、さようなら。ねずみよ、こんにちは。

いのししは猪突猛進、むこう見ずに猛然と突き進むことをいうが、そんな年であったかどうか。因みに筆者は年男、「イ」の一番ならぬ干支の最後に位する「亥()」のしんがりである。コラムの文章の筆遣い、言葉の色艶などから推定して60歳になられたのですね、とメールをくれるサポーターがいるかもしれない。正解である。

年のはじめころ、親子のいのししが寄り添っている貯金箱をJAからもらった。背丈8センチ、親のししは茶色、子のししは茶系の黄色、どちらも円らな瞳をしていて、可愛いの、なんの。二個もらって、一個には百円硬貨がぎっしり。いくら入っているだろうか。貯金箱のおかげもあって、何はともあれ上上吉(じょうじょうきつ)の一年だった。

今年度の筆者の「連句通信簿」は・・・

「俵口」;甲(一応大賞)一巻、乙(入選)三巻。「新庄」:丙(佳作)一巻。「さきたま」;乙(入選)一巻。「国文祭とくしま」:甲(大賞)一巻。乙(入選)一巻。乙(連衆として)一巻「芭蕉祭」:丁()。「平成連句競詠」:甲(大賞)一巻。乙(入選)三巻。乙(連衆として)二巻。<総合評価A>。

三巻総崩れは「芭蕉祭」だけだったが、その他の大会でも「丁」、つまり四段階評価でかいつまんでいうなら「0」点という作品も多くあった。我ながら情けないというか、教師の未熟な採点に問題があるというか。ま、学問にも捨石はあり、捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。

偏差値の高い大会であっても、「あの教授がいるようでは」という学生たちの嘆き、偏差値の低い大会では学生と教授のレベルが点点(ちょぼちょぼ)だったりして、これはこれで嘆かわしい。文部科学省はしっかり取り組んでほしいもの。

さらに付け加えるならば「ゆとり教育」が連句の作法・式目の箍をゆるめ、字余り、季戻り、神経の行き届かない言葉の氾濫を生んでいる。人の心を養うべき連句の「ゆとり」のはずが、作品本体が悪しき「ゆとり」のルツボに陥っていまいか。「老爺心」ながら、ここに書き置く。

堅い話になった。気に入った作品でないと大賞の価値も目減りして感じてしまうが、ともあれ筆者は満足している。賞狙いではないが、受賞が気に入った作品と一致することはうれしい。

いのししの貯金箱のおかげで、いいことがあった。いろいろいいことがあった。酒を呑み、酒に呑まれず。入れ歯の噛み合せもよく、大病人にもならず。ゲンナマは減る一方だが、残高0銭までにはいささかの余裕もあり、高利貸しに追われることもない。

それじゃ、いのししよ、さようなら。(07/12/29)

 

『諏訪湖一周』279

忙中の閑というか、忙中だからこそというか、車をころがして諏訪湖一周をこころみた。師走のまれにみる好天に誘い出された冬眠中の熊、いや猪というわけだ。

リッター150円のレギュラーガソリンをいれ、諏訪市側のD51前から下諏訪方面にむかう。諏訪湖が広く見渡せる湖畔道をゆくと、山裾の合間の遥かかなたに富士山が現れる。うすむらさきに煙る空気のなか、しろじろとして、模糊として。

散策するおじいさん、おばあさん。五十代とおぼしきおやじさんがダックスフントの紐を引いて散歩させている。ダックスフントは英国風のチェック柄のベストを着用して小股にちょこまかと。ダックス君を見ると、以前のことだが、津幡の連句の友が交通事故で死なせてしまったと嘆いていたことを思い出す。もらい泣きした。動物の死に、みょうに弱い筆者。

横河川の流れ込むほとり。白鳥が餌を啄ばんでいる。白鳥の亜鳥もいる。鴨が芋の子を洗うように、泳いだり羽ばたいたり、凄まじい。餌を与える人、カメラで狙う人。スワンよ、飛翔してくれないか。飛翔の姿がいいのだが。

しばらく車を走らせると岡谷に。岡谷側の湖畔もポケットパークや遊具などが出来上がり、見違えるように整備された。それはさておき、諏訪市側と違って運転しながら湖面が眺められるのがドライブ族にとって何よりありがたい。

うなぎ屋がある、三軒。岡谷はうなぎの町として売り出し中。とくに「寒のうなぎ」を夏の土用のうなぎ並みの商売にしようと張り切っている。長いもの好きな筆者、以前はよくうなぎを食べに立ち寄って、団扇を使って炭火焼きしているおやじさんとも顔見知りになった。何かの事情で市街地のビルに入ってしまい、湖畔の旧店舗は一杯飲み屋に代わってしまった。

「関東さばき、焦がし気味で、旨かったな」。「おっ、八ヶ岳。冠雪くっきり」。うなぎもいいが、山もいいな。快晴の空の青い色が映るのだろうか、湖水が青・藍・緑を混ぜたようなビミョウな色合いを見せている。湖水の近景と八ヶ岳の遠景と、いい眺めだな。

「おっ、パソコンのお絵描き、さぼってしまった。せっかく息子たちがソフトをプレゼントしてくれたのに」。目で見た湖水の色合いが、お絵描きを使って出せたら、どんなに素晴らしいか。「ぶーぶー」。後続車がクラクションを鳴らす。「おとといきやがれ。もたもた運転なんぞしてないぞ」。

ガラスの里を過ぎるあたりから、よそよそしい諏訪湖。何十年も見慣れた風光でなくて、初めて呼ばれた家の玄関みたというか、かしこまった諏訪湖なのだ。ま、それもよしとしよう。おっ、18キロ。一周した。(07/12/26)

 

『クリスマス・イヴ』278

きょうはクリスマス・イヴ。

甲州街道、ルート20号線の商店街のショーウインドーは、申し訳ほどに金・銀のモールを飾っている。拙庵はメインストリートの端っこ、以前はこの界隈でも買い物客の姿がそれなりにあったのだが、現在はご他聞にもれずシャッター通りと相成った。

街道の200キロほど先の東京では、あまり景気がよろしくないとはいえ、クリスマス・イヴはかなりの賑わいだろう。ジングルベルも鳴り響いているだろう。

テレビでもコマーシャルでも、クリスマス関係の映像が多く流れている。クリスマス商戦、キリストさんは商売上手ですな。いやいや、商売人はキリストさんを最大限に利用していますな。

それに反して、仏教はまことにもって商売が下手。そもそも仏教には、サンタクロースのようなキャラクターがいない。サンタの起源は詳しくはしらないが、仏教で対抗できるのは盆踊りだろうか。

盆踊りの「踊り」は、先祖の霊を呼んで霊をサポートする役目であるといわれる。風の盆などが有名だが(観光的にはともかく)商売に結びついていなくて、サンタのように、子どもたちに人気がない。

聖書は読んで分かるのだが、仏教の経典や般若心経は内容がさっぱり分からない。解説書と首っ引きで、おぼろげながら理解できる程度である。

なぜだろうか。もしも仏教の教えがもっと平易であったなら・・・。世の中は現在とは違っていたものになっていたろうな。

そんなことをつらつら考える、クリスマス・イヴだ。(07/12/24)

 

『エンタの付け人』277

「イン・ハー・シューズ」は05年・米の映画。容姿に自信が持てない弁護士の姉ローズと、抜群の美貌を持ちながら難読症の妹マギーが、それぞれ人生の転機を迎えやがて互いに理解しあっていく感動ヒューマンドラマ(STARCHANNEL)

妹役のキャメロン・ディアスが美貌もさることながら、表情豊かで演技力も抜きん出ている。ときに危ないほど肌をあらわにし、ビキニ姿を評して「切手みたいな水着だね」とプールサイドの老人たちに言わしめる。キャメロン・ディアスはケータイのコマーシャルに出ているので多くのファンがいるだろう。

「トラブル・マリッジ カレと私とデュプリーの場合」は06年・米の映画。社長令嬢モリーと結婚したカールの新居に親友デュプリーが転がり込み、義父の社長やモリーと親しくなり・・・。居候男が騒動を起こして新婚夫婦の愛を再確認させるコメディ(上記)

若妻モリーの役はケイト・ハドソンが演じる。彼女はキャメロンに優るとも劣らぬ美貌であり容姿すこぶる端麗。年齢も79年生まれというからキャメロン・ディアスよりは若いだろう。ハリウッドで売っているからには演技力もなかなかのものとみる。

ビデオ撮りの上記の二作品を楽しく鑑賞した。「両手に花」で師走の夜をやりすごす筆者だったが、言いたいことは洋画の内容ではなく連句の付合についてである。

ケイト・ハドソンは「演技力もなかなかのもの」と書いた。確かにその通りだが、キャメロン・ディアスとならべると違いが表れてしまう。(映画の狙いや演出の狙いはあろうが)ケイトもストーリに添って台詞や表情が豊かであるのだが、キャメロンには台詞や表情の豊かさのほかに「+α」がある。ストーリや絡み相手の立場をそらさない範囲での「遊び」のようなものといったらいいだろうか。

付句も前句から、あるいは全体の流れのなかの言葉遣いを受け言葉の佇まいを受け、さらに「+α」があったなら、どんなにか素晴らしいだろう。映画を観ながら連句に気がちってしまった。

ハリウッドから脇道にそれるが、「ぴろき」というピン芸人をご存じか。ギタレレ漫談で「明るく陽気にいきましょう」と唄い、頭のてっぺんにチョン髷を結い、丸めがね、蝶ネクタイ、幅広ズボンの井出達。わたしの姿が夢にあらわれ、うなされますよ、とおっしゃる。「お笑い界のツチノコ」「きもかわ芸人」のキャッチコピーを持つ。因みに彼のHPの一日のアクセス数が「河童文学館」のアクセス数に近いのもうれしいじゃないか。

何を隠そう、筆者もNHK「笑いがいちばん」を観てから、うなされている昨今だ。ぴろきさんは世にも稀有な素晴らしい芸人である。ぴろきさんを付句に喩えたら、どんな付句か。エアポケットに落ち込んだような、そんな付句が一巻に一句はほしいのだ。

キャメロン・ディアスさんも、ケイト・ハドソンさんも、ぴろきさんも、ネット検索すれば、のっと現れるご時世。付句の参考のためにもご検索遊ばせ。(07/12/21)

 

『新語・死語・活語』276

年末恒例の「流行語大賞」が発表される。今年も有名人や有名になってしまった「語主」が登場し、マスメディアが賑賑しく報道している。数年もすれば記憶に残らない言葉もあろうし、後年でもグサリ胸をさす言葉もあろう。

言葉には「新語」「死語」、やや耳慣れないが「活語」がある。簡単にいうと新語は文字通り新しい語、死語はいまでは使われなくなった語、活語は現在用いられている語、というところ。

筆者は賑賑しく採り上げてられる流行語よりも、何気ない「B級新語」の方が好きだ。以下はそのカテゴリーに入るであろう近年の新語について・・・

「ねこ鍋」=土鍋に猫を入れる。煮炊きはしない。ことの起こりは土鍋に入った猫を撮影したビデオが動画サイト・ニコニコ動画に投稿され、アクセス数が「河童文学館」をはるかに凌ぐ勢いで評判に。一匹から三匹が土鍋でまどろむさまが可愛い。

「山場CM」=ドラマやクイズ番組、バラエティーなどでもっとも盛り上がったときに、コマーシャルが入る。視聴者は立腹してもう観てやるものか、スポンサーの製品など買ってやるものかと怒る。しかしトイレタイムにもってこいだと歓迎派も。

「フリーハグ」=ハグは西欧の挨拶の一種で、男女の別なく両手を相手の背中にまわして抱きあう。普通は相手をよく知っている場合に行われるが、見知らぬ人と行うのがフリーハグ。苦しみや悲しみを少しでも和らげてほしい、和らげてあげたいときに行う。

さて、言葉とは・・・誰でも知っているが、言葉とは意味を表すために口で言ったり書いたりするもの。物の言いかた、口ぶり、語気などと広辞苑に出ている。言葉ひとつひとつには履歴があり、新語として生まれ、活語として使われ、死語となって顧みられなくなる。死語もお墓から掘り起こされて読まれ、一部の好事家によって再使用されることも。

いずれにしても言葉には、意味や語調やイメージなど、人びとの脳裡に残滓のようなバックボーンがある。人びとの脳裡にあるが、慣用される言葉の履歴としても残る。

そんなことを思いつつ、「楽楽連句」の投句を眺めた。

「タイムトラベル」はウェルズの小説が出版されてすぐに流行ったのだろうか。外国材。虚構。旅体。辞書にあり。

「愛の告白」は現代の恋愛事情からすれば、死語に近いのかもしれない。観念的でステロタイプの語となってしまって、逆説的にしか使えないかも。

「パジャマパーティー」は、洋画などから広がった言葉だろうか。根を張り出して30年くらいか。広辞苑にはないが他の辞書にはあり、市民権は得ているだろう。外国材。婦女子。

とりとめがなくなったが、連句は言葉の新しさ、言葉の古さ、慣用されすぎて手垢のついたものなども吟味したいと思っている。(07/12/14)

 

『喩えれば』275

「守備」という言葉があって、守備を固める、守備範囲などと用いる。味方を守り、敵を防ぐ備えをすることで、スポーツによく使われる。あの遊撃手は守備範囲がひろく、二塁手、三塁手に近い飛球までキャッチするなどと使う。

言葉にも「守備範囲」があるように思う。たとえば「月」という単語は、地球の衛星としての月、月光の明るさとしての月、一箇月という単位である月、詩歌に詠まれてきた月、さまざまな容貌の月があるだろう。

歳時記の「月」の季語にも、名月とか、玉兎とか、観月とか、月見酒とか、いろいろある。

たんに「名月」といえば、皓々と照らす仲秋の月のさまをいう。「玉兎」は月の異称であるが、やはり月の皓々と照らすさま。ただ月中に兎がすむという伝説からきているので、兎にかかわる童話風のイメージが浮かぶ。

「観月」は仲秋の名月を観ることをいう言葉で、必ずしも実景としての月を見ているわけではない。

「月見酒」は月を見ながら飲む酒。酒を言いながら、むろん月も形容する。実景の月を眺めつつ飲んでいる、もしくは月の見えない部屋で飲んでいる、その辺の断定はできないにしても。

一般の人は、「月という言葉」についてそれほど深く認識しているわけではない。それはそれでよろしいのだが、言葉を使うことを生業にしている作家や詩人、生業にしていなくても言葉に対する厳しさが求められる連句人には認識してほしいことだ。自戒をこめて書き置く。

先般の当ホームページ「楽楽連句」で、「レアの月」「ミディアムの月」「ウェルダンの月」という喩え方をした。「実景の月」「実景といえない月」「月そのものでない月」というほどの意味だ。この喩えはあまり適切ではないが、敢えてへんてこりんな比喩で認識を喚起したいのが本意だった。

言葉の守備範囲、付句の守備範囲の認識はとても大切なことである。また言葉の「攻撃範囲」ということも意識してよい。攻撃にも全体への攻撃とピンポイント攻撃とがあるだろう。攻撃範囲についてもいずれ書きたいと思っている。(07/12/07)

 

『独り相撲』274

「独り相撲」という言葉がある。以下「広辞苑」から。

一、愛媛県大三島の大山祇(おおやまつみ)神社で、一人で相撲のさまをする神事。

二、ひとりで相撲のまねをして、銭を乞い歩く乞食。

三、相手にかまわず、自分だけが気張って事をすること、また、力量が相手と比較にならないほどすぐれていて、争っても勝負にならないこと。「―を取る」

それとは別に「一人相撲」という妖怪がいる。以下「日本妖怪大全」(水木しげる著)から要約。

「水虎伝」という本によると、筑前(福岡県)姪浜の久三という男が日雇いで暮らしていたが、あるとき隣村まで用足しにいって、夜中に帰ってくるとき河童に出会った。久三は河童に相撲をとろうと持ちかけられ、五匹の河童と相撲をとることに。

久三は若い頃には相撲をとっていたので、河童など赤子の手をねじるようなものだったが、ただ河童相手だと、体がヌメヌメして生臭いのがたまらない。一方、河童は勝ち目がないとみて退散したのだったが、村の人たちが夜遅く行ってみると、久三は仮想の相手と相撲をとりつづけていた。

話はコロッと変わるが、近頃の連句の風潮として、しゃかりきに頑張っている付句が多い。「一句独立」ということがいわれ、その一句だけで意味が通じなくてはならないが、そんなことでなく、前句も打越も大打越もおかまいなしにパフォーマンスする句が散見される。たとえ、一句にどんな素晴らしい詩情があろうとも、それだけでは連句といえない。

前後につながりのない俳句は個の一瞬芸でよいが、連句はつながってゆく、動いてゆく筋書きのないドラマ。舞台装置や見せ場や役者の個性を見せながら、これでどうだ、と問う文芸である。

歌仙なり半歌仙なりスワンスワンなり、あるいは三つ物なり、形式そっくりでご覧くだされというもので、一句や二句で燦然と輝いていても疑問符がつく。

読解力が足りないのかもしれないが、(国民文化祭作品集、その他の大会の作品集の受賞作のページを繰っていても)筆者には独り相撲をしている付句が多いように思われてならない。「相手にかまわず、自分だけが気張って事をする」。「一人で相撲をとりつづけた」。そんな言葉があてはまるのだ。(07/12/04)

 

『キーポイント』273

諏訪湖半周のプチドライブを楽しもうと、ふらっと玄関をでた。家人は草花の鉢植えの凍結予防のため、鉢を土中に埋める作業があるので、筆者独りで・・・。「行ってくるよ」。「いってらっしゃい、気をつけて」。

「もう帰ってきた?免許証忘れたの?」。「鍵を忘れちまった」。「鍵は持っているじゃない」。「これ家の鍵みたい」。

家の鍵で車の運転ができないことは分っていたが、車のドアの鍵穴に差し込もうとして、こりゃ可笑しいぞと気がついた。ガレージから玄関に引き返し、家人から車の鍵を受けとり、家の鍵は返した。

当庵の玄関から這入ってすぐの右手に小さな木札があり、家の鍵、シャチハタの印鑑、車の鍵が、キーホルダーや皮ケース付きでぶらさがっている。こんなことを書き込むと泥棒に教えているようなものだが、(印鑑は宅配便の受領のため)この三つがあれば火急のことはすべてOK。われながら良きアイデアの「キー&シャチハタ」スポットなのだ。

つい先日のこと、浄化槽(糞尿)を点検するお兄さんがきたので(ガレージの真下が浄化槽なので毎月一回、係のお兄さんに車の小移動をお願いしている)、家人が鍵を手渡した。お兄さんはしばらく、車のところでごちゃごちゃと音をさせ、むにゃもにゃ、逡巡しているらしい。そして申し訳なさそうに「奥さん、車が動きませんが・・・」。「あら、それ家の鍵でした。ごめんさない。どうしましょう」。

ポカは筆者だけではなかったことを、ここに謹んで書き記すしだいである。お兄さんに「シャチハタ」を渡さなかったのが、せめてもの救い。筆者も「シャチハタ」でドライブしようとした訳でないので、ま、いいか。

とは申せ、これは「呆け茄子」の世界である。物忘れ、勘違い、食べ物こぼし、言い忘れ、シラフでも呂律がまわらない。呆けは確かに困るのであるが、脳の回路の「無矛盾性」に死ぬほど悩んだ若い頃がまるで嘘のように、間違いなんぞ平気の平左で冒す。それに気付いていたり、気付かなかったり。最晩年もけっこういけるぞ。

「そんなことで大丈夫?連句と料理のアカデミーなどして」。「もんじゃない。簡単はダメでも難しいことは任せてくれ」。

キーポイントは、どうやらその辺かもしれない。(07/11/14)

 

『ねじれ』272

ねじり飴は甘いな。舌にころがしていると、喉の奥まで甘い汁がしみこんでくるな。ホッペの裏側がざらざらしても、平ちゃらさ。君舐めてみなよ。いいの?いいさ。あっ、甘い。やった〜、間接キッス・・・。

社寺の露天などで商っている縁起物でもあり、めでたく新年を迎えるためでもある紅白の「ねじり飴」。なんでも延命を意味するともいわれる。

甘い話は日本だけと思いきや、西洋にも紅白で、ねじれたキャンデーがあるそうな。白は純潔、赤はイエスの血をイメージ。ねじれ方はゆるやかで、魔法遣いの杖のように、握るところが曲がっているのが特徴らしい。

話はかわるけれど、ねじり鉢巻は勇ましいな。手拭をねじって額で結んで、これなら勉強もはかどるってえ、もんだな。西洋にも言葉はちがっても、ねじり鉢巻ってあるのだろうか。

メビウスの帯は一回だけだが、ねじれているな。手の怪我をしていたとき、帯でなくホウタイでやってみたけど、有名な割に感動はなかったな。どうってことあ、なっかた。

A:まっすぐな棒・針金などの弾性体の上端を固定し、下端に偶力を加えて或る角度だけ回転させたとき、この弾性体に現れる変形。

B:ねじれること。また、ねじれたもの。ねじれた状態。「衆参のー現象」。(A・Bとも広辞苑より)

「ねじれ」とは、そういうことか。ねじるから、ねじれ、とどのつまり、ねじりになる。誰がねじって、どうしてねじれ、ねじれ具合はどうなんだ?

「衆参がねじれ現象を起こしている」。テレビ、新聞など、そんな話題がかまびすしい。ねじれ解消のための大連立、それはご破算になったが。

へそ曲がりとか、曲者(くせもの)とか、曲がったもの、ねじれたものは悪いことの代名詞になっているらしい。メビウスの帯のように、本当はねじれによって、これまで見えなかった裏側も見えてくるはずなのに。誰がねじったか?民意がねじった。そこにはそれだけの理由があって。

ねじり飴を舐めよう。そして考えよう。国民を舐めたらあかんで!(07/11/10)

 

『メタボちゃん』271

塩尻の義兄さんからもらった「首ふり草」は、とどのつまり秋明菊だった。蕾を突き上げて明るい方へ首をかたむける鉢植えの草花を、スケッチしたり、ケータイで撮ったりしてホームページにアップした。名前がわからず仲間どちに問いかけもした。

兵庫の連句の友は植物図鑑を借りてきて、スケッチと照合し、秋明菊に間違いないでしょうと。そののち、茨城の連句の友は写真から、即座に秋明菊とメールをくださった。歳時記に詳しい連句人のはずの筆者が、植物の名前もろくすっぽ知らなくて恥じ入るばかり。

過日くだんの兄さんがきて、八重の秋明菊だと教えてくれた。その折に再び鉢植えをプレゼントされたが、別件であたふたしていて植物名は聞き忘れてしまった。薄緑色のプラスチックの5号鉢(直径15センチ)に、背丈10センチと6センチの親子の寄せ植え。こんどは多肉植物だ。

濃い緑色の葉が抱き合うように重なり、葉のふちには白っぽい刺がぎっしり。多肉植物なので葉の厚みは相当なもの、がっちりとスクラムでも組むように固まっている。これって、植物のメタボリック症候群じゃないのか。名称を知らないので、とりあえず「メタボちゃん」としておこう。

メタボちゃんは日当たりのよい窓際にいる、いや、ある。秋明菊の秋ちゃんと違って、分厚い葉っぱは首を振ることはない。第一、刺をつけたまま首を振ったら血だらけになってしまう。もとい、傷だらけになってしまう。水だか脂肪だか知らないが、葉っぱにしこたま溜め込んで、微動だにしないメタボちゃん。

サボテンはしゃべるそうな。メキシコの砂漠地帯できてれつな形のサボテンに出会ったら、そんな気もしてくるだろう。サボテンが与太を飛ばしたり、ねっとりと絡んできたり・・・。肉厚な葉っぱは植物でありながら肉感的、グリーン・モンローというべきか。

ま、メタボちゃんの正しい名称を、おいおい調べることにしよう。(07/10/29)

 

『アニミズム』270

我が家の裏庭に、ウメモドキの木がある。木の高さは約3メートル、樹冠は2メートルのほどのものだが、この秋は実が、たわわに稔った。ウメモドキは我が家に越してきて10年余、これほど実を付けたのははじめてだなあ。

真っ赤な実を求めて、ヒヨドリがくる。例年だと二羽で10日もすれば平らげてしまうのだが、今年は一羽だけ、しかも実が鈴生りなので未だ沢山残っている。朝まだき、ピーピーと鳴き、筆者の目覚ましになるのさ。サッシの窓を開けると飛び立つが、少し離れたカエデの木に止まって様子をうかがう。

ヒヨドリは、旨かったとか満腹だとか言わない。言わないと人は思っている。聴こえないし、鳥語はわからないし。

ウメモドキはヒヨドリに実を採られても、木だから何にも言わないと、人は思っている。言わないか、言うか、本当のところは分らないのにね。実のなかの種は鳥たちの糞になって、どこかの土の上に落とされ、やがてウメモドキは芽を出すこともあろう。

ところでクモは、歩きの早いのと、遅いのがいるな。冬のクモは脚の早いやつもスローモーに歩くのかな。国道20号線に面した、窓の内側にクモがいる。小さくて白くて、生後まもないクモ。動いているのか、いないのか、そんなゆっくりした歩き方。こんなの殺せないよな。素早いやつは、こっちも物の弾みで、新聞紙をまるめて叩けるが。

・やれ打つな蝿(はえ)が手をする足をする  一茶

蝿が手足をすりながら、命乞いをしている、ように見える。これを殺しては、人間がすたると小林一茶は思ったのだろう。殺生はやだなあ、と。

アニミズム。電子「広辞苑」を検索すると、「自然界のあらゆる事物は、具体的な形象をもつと同時に、それぞれ固有の霊魂や精霊などの霊的存在を有するとみなし、諸現象はその意思や働きによるものと見なす信仰。宗教の原初的な超自然観の一」とある。

歳時記は、動植物や岩場や水辺や、天象や地理を網羅しているが、これは正しくアニミズムではないのか。思えば筆者、アニミズムを基調にして詩歌を作ってきたのであった。

「言問ひし磐根(いはね) 樹立(こだち) 草の片葉(かきは)をも言止めて」は祝詞である。「草木ことごとく、みなものいう」、話しかけると、天地のあらゆる自然物がそれを聞き取って、ものを言い返してくる。筆者はどちらかというと無神論者だが、草木や昆虫は信ずる。(07/10/23)

 

『この草あ〜』269

「♪この木〜なんの木〜気になる木〜」というコマーシャルが流行ったっけ。あれは大分以前の話で、たしか企業名はヒタチだったとおもう。おどろくほどの巨木の樹幹が、テレビに映し出されたのであった。

「♪この草〜なんの草〜気になる草〜」。そうなんだ。草丈20センチ、2本の茎がまっすぐに伸びていて先端に花芽がついている。花芽は8ミリ大で薄緑の萼に覆われているが、天辺はピンク色に色づいている。

何が気になるかというと、花芽をつけた7センチほどの茎の部分が、向日葵のように首をふるのである。鉢植えなので窓辺に置いているが、日中は日の射しこむ国道を向いていて(雨が降っていても)、薄暮になってカーテンを閉めると、蛍光灯のともった部屋の方に首をふる。

オジギソウとか、食虫植物とか、そんな素早い動作ではないが、2時間もすると文机でパソコンを操る筆者のほうを向く。「こんにちは」といわんばかりの佇まいだ。キリンのような、あるいは恐竜の首のような、不恰好でみょうちきりんな茎の長さ、草の姿。これは何という名称の草だろうか。

茎も間延びし、葉のかたちも野暮ったい。少なくても園芸品種ではないだろう。野辺に繁茂している名もない路傍の雑草か。雑草という植物はないというが、それにしても・・・。

実はこの草、塩尻の義兄からもらったものだ。他の草花と混植されていたものを、生育が悪いので、家人が改めて別の鉢に移植した。その後は、しょんぼりと日光浴をしていたのだが、ここにきて花芽を上げてきたのである。

義兄さんに電話をかければ草の名は判明するかもしれないが、とりあえず当コラムに書き記す。在来種と思われるが、日差しを追って首をふる、丸い小さな蕾でくるくると明かりを追いかける、誰か、この草の名前を知らないか?

言葉では分り難いだろうから、スケッチをアップする。当HPの「かっぱ美術館」→「かっぱ美術館()」をご覧遊ばせ。拙いスケッチなので早晩削除するが。(07/10/10)

 

『食のほそ道()』268

「おじや」は嫌いだった。米のとぎ汁のような液体のなかに米粒が浮かぶ程度で、大根や南瓜が幅を利かす、どんぶり。猫舌で熱いものが苦手のためもあって・・・。もっとも筆者のいう「おじや」は、戦時中の貧しい食卓での話だ。

「おじや」は婦人語だそうで、雑炊のことをいう。いまの時代、雑炊といえば京都などではヘルシーで乙な日本食、冬の季語にもなっているが。

白米に大根を刻んで炊き込むのも嫌い。白米に南瓜を入れるのは、もっと嫌い。食糧難の時代には、ご飯の量を増やすために根菜などをこまかく刻んで、炊き込んだものである。

筆者まだ少年のころ、伯父さんの家の風呂をもらって、お昼を頂戴したことがあった。大金持ちの伯父さんだから、さぞかしご馳走に預かれるだろうと期待したが、大根入りのご飯に、野沢菜漬け、具沢山の味噌汁だけだった。伯父さん夫婦も番頭さんも女中さんも同じ膳だったので、お金はあっても贅沢はしないのだな、と思ったものだ。

当時は多少の資産があっても、資産などなくても、食うにこと欠く時代。当家もご他聞にもれず、日日の食糧の確保に難渋し、庭木を伐って野菜を植え、それも食い尽くすと野山の草を食べたものである。蓬を摘んで乾燥させ、粉に挽いた。これに葦の葉まで同様に粉状にしてまぜた。葦はざらざらして大変不味いので、わずかしか混入できなかった。それらの粉を団子にして、スイトンにしたのである。

芋や野菜がメイン。わずかな米しかないので、ご飯にあれこれ刻み込む。大根や南瓜のほか、人参、胡瓜、冬瓜などは上等な部類であった。当家でもたまには仕方なしに「おじや」にもしたが、母が「おじや」を好まず、お米のご飯がちょっと、根菜などの煮物というように、別別に分けて焚いた。

いちばんの贅沢は卵掛けご飯。生卵にショウユを入れてかきまぜ、ご飯に掛ける。なかなかありつけないが、これが美味かった。こんな経験をしてきたので、自慢じゃないが粗食には耐えられる。「空腹は最大のグルメ」、腹がすけばどんなものでも美味しい。

とは言っても、美味いものは食べたい。ショウユを使うものが好き。ショウユの味を最大に堪能できるのは刺身。刺身が引き立てるショウユが応えられない。(07/10/06)

 

『食のほそ道()』267

寿司は旨いなあ。外でつまむなら、廻るのでなく、ノレンがいいな。「思い出横丁」には、「ジョンノレン」っていう寿司屋があったっけ。ビートルズの、ジョンレノンが贔屓の寿司屋てえのも、乙だなあ。「えー、いらはい!」。

何はさておき、マグロ。ぱくっと頬張ると、トロの脂身とシャリがばらけ、奥歯に圧しつぶされる。だが、江戸っ子はペースト状になるまでもぐもぐせんで、舌触りを楽しみてえもの。

ここいらで、日本酒といこう。大吟醸「澄真」は喉越しがよろし。ジョン兄ちゃんが愛想よく、酌までしてくれる。五臓六腑に染み渡るなあ。「ひゅー、ひゅー」と、のんどを鳴らす。取り巻きが年寄りじみた呑み方しないでねと注文。だが、これが酒好きの鬨の声さとしゃれてみせる。

ウニの軍艦巻きは悩ましいですな。見かけはゴッドファーザーの出立ち、そんな黒い軍服の中身といえば、きらびやかな金色。黒い海苔と金色のウニを、いかに攻略すべきか。軍服に食い込む歯が、やがて蕩けるばかりの優しさにふれ、ベロがおもわず感嘆の声をあげる。

軍艦巻きに、ショウユをつけるのは田舎もん。そんなこたあ、ねえ。「むらさき、さみだれ」といって、ウニの持ち味にショウユが染みるのは「通」の領域だぜ。ただ、一垂れのショウユでいいのだ。

タコは生がよろし。歯応えもよく引っ張って、なかなか噛み切れないが、それでも噛んでいると、シャリだけが通過していく。シャリ嚥下、肉片は残って歯にからみつく。タコから滲み出るデリケートな味わいがたまらん。

タコ坊主の後では盃を傾けない、って、不文律知っているかい?タコの味を抹殺しちゃいけねえ。ここは酒じゃなくて、「魚偏」の魚の字がならぶ大湯飲みで、とりあえず緑茶を啜ろうじゃないか。

かくかくしかじか、サーモン、エビ、コハダ、省略。ガリを一片かじりつつ、光物をもう一貫食うべきかと、腹と相談する。

酒を呑むときの寿司は8貫でよろし。満腹になると、先に食べた分の味蕾の余韻まで台無しにする。

それじゃ、ジョン兄ちゃんありがと。寿司屋を出るときは、肩でノレンを分けて出るべし。(07/09/30)

 

『温泉卵』266

温泉卵はおいしいね。黄身の中心がとろとろと蕩け出す、温かいやつを舌頭でまさぐりながら、のんどの奥へと押しこむ。赤穂の天然塩を少し振って。硫黄の匂いが幽かにすれば言うことなし。ニワトリに感謝、オンセンに感謝。

垂乳根の父母に親孝行しょうと、草津の湯までドライブしたことがあったっけ。あるいは、鬼押し出し、白根山だったかもしれない。そこで食した温泉卵がおいしかった。忘れられない。それは四十年も以前の話で、その後も温泉卵には何回か、ありつくことはありついたのだが・・・。

小庵には温泉が引き込んである。名にし負う上諏訪温泉、諏訪湖からふつふつと湧き出る元湯を引く。いつでも温泉に入れるのはありがたいが、卵を茹でることはできず、それが残念だよ。

諏訪湖から距離があるためでもなかろうが、湯が熱くない。各戸の備え付けのタンクに入るとき、60度くらいではなかろうか。栓をひねって浴槽に給湯するときの温度では、とても卵は茹でられない。それでも年年に、何故かしらないが、温度が上がっているように思える。希望がもてる。

話は変わるが、地球が熱くなっている。四十年くらい以前の諏訪の冬は寒かった。諏訪湖は全面に厚い氷が張り、雪も三十センチ以上が数回降った。ところが近頃はほとんど結氷せず、昨年は雪も十センチが一回だった。地球の温暖化と関連があるのだろうか。

このまま地熱が高くなって、元湯の温度が高くなって、小庵の風呂で温泉卵が茹でられたら、どんなにかよかろうに。

そうは言っても、地球自体が熱くなって、茹で卵のようになって自転していたらどうしよう。鯛も茹だって赤くなり、鯨も茹だって薄塩の煮魚になり、白熊は絶滅してしまった、というニュースが流れたら・・・

この夏は暑かったな。九月半ばでも真夏日があり、彼岸になっても汗たらたら。山国で例年は涼しい時季のはずなのに。

ま、とまれこうまれ、温泉卵!(07/09/25)

 

『魚っちんぐ()』265

仕掛けを代えてみよう、とわたしは思った。まずゴカイを針から外し、小さなエビを付ける。

「オトちゃん、手伝ってあげようか。ボクちゃん、エビちゃんが好きやねん」。

「おいおい、アビ。江戸っ子のくせに、なんで大阪弁を使うんや」。

「猫の手も借りたいとちゃう?」。

「ま、忙しくなったら手を借りるよ」。

野島灯台の方向をめざして、竿を、そして糸を投げる。夜明けとともに灯台の明かりが薄らぎ、代わりに旭が金色に波間にきらめく。潮の香りがむんむんと鼻孔をくすぐる。夜明けは釣果のチャンスかもしれない。そのときだった。ググッと強い引き、思わず上半身が海に引き込まれそうになる。

糸をたぐりよせ、たぐりよせ、カーボン磯竿を左右に振りふり、引き寄せる。「釣れた」。大きなスズキだった。目方を計ると、3・3キロ、身の丈は41・7センチ、かなりの大物だ。

「やった〜」とボクちゃん。ニイちゃんもネエちゃんも「やった〜」と異口同音の発声で、わたしの肩口からスズキを覗きこむ。わたしはスズキをクーラーボックスに入れた。ボックスが揺れるほどスズキは威勢良く跳ねた。

「魚拓を採ろうよ」、とニイちゃんが提案する。「キャノンのプリンターを持ってきたから」。

「へえ、パソコンのプリンターで魚拓が採れるのだね」とわたし。

ニイちゃんは車のライターの電源に、プリンターのコードを差し込む。便利になったものだ。これでプリンターが稼動し、プリントアウトできるとは。ボクちゃんの手を借りながら、スズキの魚拓は仕上がった。

わたしの次のターゲット、大物狙いは「河童釣り」。葛飾北斎も河童を釣ったではないか。わたしは長めのゴカイを針に差し込み、カーボン竿をふり、沖合へ糸を投げた。その海域は、海水と淡水の混じりあう地点だ。

ウキは波間にゆらめき、しばらくは引くこともなく、ただよいつづけた。そのときだった。わたしはウキを見失ってしまったが、竿にビンビンと手応えがあった。

「ニャーモ!ニャーモ!」と、ボクちゃんがドラ猫のような声を発した。わたしも我知らず「ニャーモ」と発し、夢から覚めた。(07/09/12)

 

『魚っちんぐ()』264

横浜市金沢八景沖の野島堤防に、魚を釣りにでかけた。川釣りはプロ級の腕前と自負しているが、海釣りははじめてだった。新聞の釣り情報や天気予報を念入りにチェックし、枕元にはクーラーボックス、竿、リールな仕掛けの入ったバッグをそろえて就寝。

翌朝早く、日産プリメーラを駆って漁場をめざす。道すがら釣具店に立ち寄ると、「いらっしゃい」と顔見知りのおやじさん。所持金100000円からゴカイとエビの餌を購入する。「大漁祈っていますぜ」。「ありがとう」。

金沢八景の八景園だった。当時愛用の日野コンテッサという車から降りて散策していると、外国の青年から道をたずねられる。丁寧に教えてやり、別れ際「グッドラック」というと彼は手をかざして応えた。あれは40年も以前の出来事だ。そんな想い出に浸りつつ、車のハンドルを軽快にあやつる。

堤防の座りやすい場所に陣取って、汎用を仕掛け、投げ釣りで攻めようと決める。ゴカイを釣り針につける。ゴカイはご存じかもしれないが泥のなかに生息する環形動物、ミミズによく似ていて気持ちのよいものではない。左手の指先で恐る恐るつまみ、右手に持った針で引っ掛ける。これを見ていた自称「ボクちゃん」が、「気味悪いニャーモ、ニャーモ」という。「そうなんだよ、これをニャーモと言わずして、何がニャーモだ」。

三角形の桃色のウキが波間にただよい、当たりがあって桃色が黄色に変わる瞬間、竿を素早くひきあげる。カサゴだ。38・6センチ、1・5キロで強烈な手応えだった。まなしに次は、シロギスがかかる。19・1センチ168g。「腕がいいニャン」と、すぐ脇で海面を眺めているボクちゃんが褒めてくれる。

ばらし、ばらし、逃げた魚は大きい。なかなか掛からなくなってしまった。かかっても、18センチ級の小さなゴンズイ。「大物狙いがゴンズイではね」とニイちゃんの声。「おっ、ニイちゃんもきていたの」とボクちゃんが驚く。「そうさ、スポンサーはおれさまだ」と、ニイちゃんは鼻高高。

「釣ったゴンズイはリリースするよね」と、今度はネエちゃんの声が背後から聞こえる。「おっ、ネエちゃんもきていたのか」と再びボクちゃんが驚く。野島堤防は賑やかだが、大物や釣りたい魚はいっかな釣れない。つれない(薄情)ねえ。(この項つづく)(07/09/11)

 

『ナツハゼと地球と』263

スーパーに出店の園芸店で、ナツハゼの小さな株立ちを買い求めた。これまでに家人がよく草花の苗を購入したが、今回はやや趣を異にする小品盆栽だった。直径13センチ、深さ4センチくらいの鉢植え、こんな小さな鉢ではあるが18本のナツハゼが植えられ、さながら深い森を彷彿させる。

ナツハゼは和名で夏櫨の字をあて、ツツジ科、スノキ属とか。夏ごろからハゼのように紅葉するので、この名前がある。もっとも春の新芽から赤みを帯びているそうだ。

秋には黒い果樹が熟し、食べられる。ブルーベリーの一種で、甘酸っぱい味だという。樹高20センチくらいの木で果実が成るとも思えないが、ひょっとして、と楽しみにしている。

筆者、本当は草花よりも樹木が好き。草本にも宿根草はあるが、年輪を重ねて生育するもの、もっといえば柔らかいものより硬いものが好きなのだ。

つらつら思えば、垂乳根の父と母もそうだった。母は草花派、父は樹木派で、母は丹精こめて育てた草花を引き抜かれ、代わりに植えられた樹木に憤慨していたことがあった。庭の領地を通してのバトル()だった。筆者の兄弟夫婦も、男は樹木派、女は草花派に分かれているようだが、これはどうしたことだろう?世間一般はどうだろうかと考えてしまう。

固有名詞について考えると悩ましい。たとえば「地球」は一つしかない固有の存在だから固有名詞、それでよいのか。固有の存在ではあるが、誰もが知っている一般的な存在だから普通名詞になるだろうか。

「日本」はどうだろう?アメリカ、フランスが固有名詞なら日本も固有名詞になろう。

固有名詞とは、同類のなかの一つを他と区別するために付けた名称を現す品詞で、地名や人名、グループ名や商品名などをいうとある。この辺の分け方ならわかりやすいが、地球や日本となると突然に悩んでします。文法をしっかり学ばなかったツケか、それとも元来が曖昧模糊としているのか。それさえも不分明だ。(07/09/07)

 

『ボクちゃん日誌』262

新宿のタクシーは臭い。っていうか、東京のタクシーがすべて臭いのだろう。初乗り料金のうちながら、我慢にがまんをかさねて電車へ。乗り物は苦手であるが、とりあえずほっとする。ピンクバスケットのボクちゃんの残り香とタクシー臭のミックスは、それほど悪いものでもないと思うことにしよう。ちと眠くなった。むにや、むにゃ。

2時間余、ボクちゃん時間で6時間余のすえ、ぶじ旅程をこなした。オトさんが駅頭までお出迎え、まるでVIP待遇だ。出迎えの車は臭くない。臭いけれど臭くない。それはボクちゃんにとって馴染みの臭いのせいかもしれない。

ネエちゃんがタブレットを使って、ボクちゃんの絵を描きはじめる。三角耳が二つ、顔の輪郭もととのいはじめ・・・。と、それが削除され、かっぱさんの絵を描くことに。それでいいのだ。しょせん、ボクちゃんを超えるボクちゃんの絵はあり得ないのだから。

かっぱさんのお皿は絵の具を塗らないで・・・つまり、一部分を塗ることで塗らない箇所を塗ったように見せる。そんな技が利いている。オトちゃんはしきりに感服している。俳句も省略や余情によって描きたいものを表す。まともに描いてしまっては、底の浅い俳句になる。そうだった、そうだったと、オトちゃん。

ニイちゃんがマウスを走らせ、かっぱのアップに取り組む。巧くできるかな・・・ボクちゃんはネズミ(マウス)を目で追っ掛ける。ニイちゃんはパソコンのスキルだから、絶対成功するぞ。できた!かっぱさんがページに載った!

夜も遅く、オカちゃんが見つからない。どこに行ってしまったのか。爪でこじ開け、頭をキリのようにねじこんで、リビングの引戸を開ける。だが人気なし。雪隠の引戸もおなじように開けるが、無人なり。どこかに気配はするが・・・。

いた、いた。風呂場だ。オカちゃんは、お風呂が最後になってしまったの?

あらアビちゃん、脱衣場で待っていたの。ごめんね。

オカちゃんを探していたんだ。

引戸を開けて探してくれたんだね。アビちゃんはお悧巧だね。グルメのお八つをあげましょう。夜食だから少しだけど。

ぱくぱく、かりかり。旨いなあ。毛ブラシで歯をみがいて寝るからね。おやすみ、ニャーゴ。(07/09/01)

 

『痛・痒・擽』261

「痛痒」は、いたみとかゆみ。痛痒を感じないとは、文字通りいたくもかくもない、何らの利害や影響を受けないことをいう。いたみとかゆみは、そもそも対語だろうか。いや対語ではない。いたみの反対はいたくない、かゆみの反対はかゆくない。そんなこと分りきっている・・・。

筆者の「いたみ」は、肩肘の使いすぎによる疼痛。ことは10年以上も遡るが、最初のころは受診して薬や注射をしてもらったが、快復することはなかった。我慢できる範囲のいたみであるが、季節によって限界を超えてしまって通院することもあった。

「かゆみ」は夏場を中心に、頚部や腹部がかゆくてたまらない。汗をかくことと老人性のなんとやらの疾患だろう。これは5年くらいの病歴になる。医者が処方する塗り薬を用いたり、市販の「ムヒソフト」を塗ったりしてその場をしのぐ。

名エッセイストの故山本夏彦さんは、奥さんが訴えられるいたみを「松竹梅」で申せ、といったそうだ。いたみの程度は夫婦でも分らないので、いたみのレベルを三段階で訴えさせたという話だ。以前に新聞のコラムで読んだ記憶がある。

筆者のいたみ、かゆみを三段階でいうなら「梅」かもしれない。肩がいたくても、下着の脱ぎ着くらいは自分でできるのだから。首がかゆくてかき崩して、血がにじむ程度なのだから。

いたみ、かゆみは疾患が齎す生体反応とおもうが、選ぶとしたら、どちらを選択するか。両手に花の筆者が選ぶなら、「かゆみ」に軍配をあげたい。かき崩して血がにじんで、その跡がひりひりと「いたがゆい」にしても、かゆいところへの最初の「一かき」は快楽だ。これに優る肉体の喜悦はないだろう。

PCのキーボードで駄文を書いていて、没頭するとわれしらず指先が患部をかいてしまっている。「書くことは、掻くこと」で、ともに喜悦なのだろう。以前、「痒いところに手が届くふふ」という短句(恋句)を作ったことがあったっけ。

「痛痒」と同列にはできないが、「くすぐる」がある。わきの下などを刺激し、むずむずする、笑い出したいような感じを起こさせる。ただしこれは、他者によって引き起こされるもので、自分の行為では決して起きない反応である。

くすぐるは「擽」の漢字をあてる。手偏に楽、手をもって楽しませる。連句の自他場でいうなら「痛痒」は人情自、「擽」は人情自他半ということになろうか。話はそれるが、病気や生活のもろもろを、連句の自他場や式目に当てはめてみるのもおもしろ。(07/08/25)

280「いのししよ」
279「諏訪湖一周」
278「クリスマス・イヴ」
277「エンタの付け人」
276「新語・死語・活語」
275「喩えれば」
274「独り相撲」
273「キーポイント」
272「ねじれ」
271「メタボちゃん」