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コラム 「其の13」

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251「気まぐれ日誌」

『気まぐれ日誌』260

諏訪湖花火大会が行われた。河童寓はルート20号線に沿っているので、その日はひきもきらさず車が通行した。数珠つなぎにつながる、朝から夜遅くまで。山梨、静岡、東京、名古屋、大阪、ときには宮崎や北海道のナンバーの車も見かける。

観光客や自動車がどっと集まってくることを、この辺では「入り込み」という。多人数入りまじることや、劇場などで多人数がいっしょに入る席についていうが、男女が混浴することもいう。広辞苑にも載っている。当地では混浴の場合には使わないが、芭蕉は「奥の細道」で混浴に使っている。それも諏訪の地名を入れて。

花火は二時間余りにわたって打ち揚げられた。筆者は引き篭もって、こなから酒をいただき、付句をひねった。ローカルテレビの花火中継をときどき観ながら。筆者が河童になるまえの青年期には、湖畔に陣取って車のなかから花火を眺めたもの。いまでは湖畔も山の手もスペースがなく、そんな見物はできない。見物客公称50万人とか。

ずどん〜。猛烈な音響が尾?骨にひびく。二尺玉だ。これはただごとでない音だ。そうは思うが、いささか酔いが廻った筆者。どうともなれと、腹が据わりかかる。酔うがごとく、酔わざるがごとく。句をひねるがごとく、ひねらざるがごとく。テレビ花火を観るがごとく、観ざるがごとく。・・・これっていいなあ。

蝉が多いそうだ、この夏は。テレビで報道していたが、車で外出して公園や寺院など樹木の繁ったところを通行すると、五月蝿いほど鳴いている。蝉しぐれだ。河童寓では鳴き声は聴かないが、庭に蝉のムクロがころがっていた。

ムクロには小形のアリが群がって引きずってゆこうとして、引きずれないでいた。ちょっと無理かもしれない、小形アリにとって蝉は軍艦ほどもあるから。・・・

蟻が蝶の羽を引いて行く

ああ

ヨットのやうだ

これは三好達治の有名な詩である。たった三行だが、少年期にいたく感動したことを覚えている。おっ、詩とは、これかと。

蝉の軍艦を眺めながら、むかしを思い出していた。(07/08/17)

 

『気まぐれ日誌』259

言葉についての語源を探ると、言葉は「言」と「端」からなっているようだ。「言」には「事」、すなわち事実と同じような意味が持たれている。「言」がそのように重大な意味を内包するので、逆に軽い意味を与えようと「端」を結びつけた。端とは「はした」「はんぱ」のこと。「端」は「葉」に通じ、それをもって「言葉」となったらしい。

つまり人間の「言葉」には、重いものと軽いものが混在し、ときにその比重が一方に傾いてしまうことがある。それも極端な傾斜をもって、である。

「病葉」(わくらば)という言葉がある。病気におかされた葉。また、色づきすがれた葉のこと。夏の季語にもなっている。端、つまり葉っぱみたいな詰まらないものでも、病気になって枯れてしまうのである。

政治家たちの失言がすこぶる多い。「失言」とは、「言」はそもそも事実と同じような重い意味を持った「事」を、さっぱりと失ってしまうことである。大臣の首がとぶのも当然の話であろう。

あえて軽い意味を持たせた「端」、「事」があまりにも重いゆえに、バランスを取るために合成させた「葉」に、比重をあまりにも傾けすぎる。比重をあまりにも傾けすぎるというより、「葉」しかない人がなんと多いことか。

世の中の、とりわけ政治家にこそ病葉になってほしいものだ。(07/08/10)

 

『気まぐれ日誌』258

ある小学校で生徒会の次の会長を選ぶことになった。前回とおなじように投票で決めよう、選挙をしようということになった。

現会長ともう一人の生徒の二人が立候補し、講堂や渡り廊下で選挙運動がはじまった。応援演説を買ってでるものもいて、なかなか賑やかなこと、賑やかなこと。「おめえ、おれに投票しなよ」。「勝ったらマジンガーZくれるけ?」・・・かげで「おもちゃ」が飛び交っている風評に応え、選挙管理委員会までたちあげた。

壇上ではA君が青筋たてて怒鳴っていた。「今回の選挙はわたくしAか、Oちゃんかを選ぶ選挙だ」。そうなのだ、会長を選ぶことは即ち生徒という人間を選ぶことだから。

投票の結果はO君が圧勝した。「圧勝された」にもかかわらずA君は会長職をつづけると駄々をこねる。選挙というものがわかっていない。

子どもたちが数人集まって、三時のおやつになった。だが生憎、まんじゅうが一個しかない。じゃんけんで勝ったものが食べることにしようとみんなで決めた。

いつも後出しのA君がめずらしく同時に「じゃんけんぽん」したが、結果はA君が負け、O君が勝った。ところがどうだろう、A君はいきなりまんじゅうに食らい付いてしまったのだ、じゃんけんに負けたくせに。

A君とはアベ君のことである。

「K・Y」なる略語が流行っているそうな。「空気」()、「読めない」()の略語である。こうした人はどこの世界にもいるようだ。「読めない」のでご当人は気が付かない。嗚呼。(07/08/03)

 

『気まぐれ日誌』257

7月23日13:00、関東甲信越梅雨明け、と筆者が宣言した。これをHPのトップの「かわら版」で発表し、「かっぱ予報士」は気象庁より早くて正しいと打った。反響は皆無だったが、間違いあるまいと思っている。

この日、車で外出した筆者の目には、虚空に塵なく真っ青、視野のかぎりの空間がきらきらと煌き、光に満ちあふれていた。気温は高いのだが、からっとして汗もかかない。

筆者、梅雨明けは体感でわかってしまう。ほとんど毎夏言い当てる。どうかすると気象庁が早くて正しいことはあるが、発表が遅いときは筆者みずから宣言する。家庭内で、友人関係のなかで。

24日、25日は曇り勝ちだったが、気にならない。新聞などの天気図は見ないし、気象の専門用語にも不案内だが、一向にかまわない。梅雨前線のしっぽが、列島のどこかに引っ掛かっているに過ぎない。明けたことに変わりはない。

野良猫のことだけれど、書く?

リビングの外に放置した「ごみ」を猫が引きずって移動させ、ポリ袋を食いちぎって食餌にありつこうとした。魚や肉の破片はないのだが、空腹の野良猫の仕業だったろうか。被害はないのに家人は憤懣やる方ない風情である。

江戸在住の飼い猫は「アビちゃん、アビちゃん」と可愛がるのに、ノラにはきびしい態度で接する。うちの子、よその子、その落差の大きさが気になる。

つまらないネギの話だけれど、書く?

品種は知らないが、細いネギを買ってきて食した。根っこはワイングラスに挿して、水耕栽培としゃれこんだ。なんでも水耕栽培の出来る種類らしい。このパソコンのある窓辺に置いたら、すくすくと伸びる。

午後の3時間余は日光がさしこみ、筆者は暑いのでカーテンを二重に引いて、外側に「ネギさまワイン」を二つならべる。根は白く、葉は青く、見ている間も伸びるかと思えるほど、伸びる。

目はしょぼしょぼ、頭はぐにゃぐにゃ。ハイキも近い筆者の傍らでネギは元気よく育つ。水肥もやらないのによく伸びている。「おっちゃん、頑張れよ」とネギ。「15センチになったら、納豆に入れて食いなよ」。「可愛いお前を食う気になんぞ、ならんわい」と筆者。(07/07/27)

 

『ホウタイとバンソウコウ』256

子どものころに鉛筆を削っていて、ナイフ(肥後守)でけがをした。指の傷口から血は出たのだが、これしきのことでは親にいえない。隠したいのではなく、たとえ親にいったところで取り合ってくれないだろうから。

富山の「配置薬」の箱を持ちだして軟膏をぬりたくり、ホウタイで巻く。ホウタイは何回も使った洗いざらしで黄色いが、ふんだんに大げさに、手の全体をぐるぐる巻きに巻きつける。なんでか、ひどい傷に見せかけるため。だれにか、両親にとりわけ母親に、兄弟(6人)たちの同情の気をひくために。

「義ちゃ、どうしたの?」と早速に姉貴が引っ掛かる。「ナイフで指切っちゃって。血が洗面器半分くらい出たのさ」。「気をつけなくてはね」と姉貴。残念ながら大して心配している様子もない。けがは大けがのほうが威張れる。病人は大病人のほうが立派だという、へんてこりんな考え方をする。これ筆者だけだろうか。

あれは12歳くらいだったろうか。ガラスの試験管で「おいた」をしていて、右手親指の先を切ってしまった。深さ約6ミリで直径15ミリ、ほとんど肉を丸く切り取ったような傷。このときは出血も多く、ただごとでないと幼心に思わずにはいられなかった。ひらひらする小さな肉片を慌てて押し付け、自分でホウタイを巻いた。しかるのちホウタイは赤く染まった。

それでも両親や兄弟たちは、あまり驚かなかった。筆者は「けが」の「狼少年」だったのかもしれない。多分その気はあったろう。それが後年進化して「鬼面人を驚かす」→「詩面人を驚かす」という我が連句の信条につながったことは疑いようがない。

その夜の疼痛はひどいもので、なかなか眠りにつけなかった。ずきずきする疼きをおやじさんに訴え、翌日になって近所の医者に診てもらった。約60年後の現在も指の腹が異常に膨らんでいて、押すと真綿のようにふわふわ。医者でなく、自分で肉片を突き合わせたのだから仕方がないけれど。

傷も癒えてのち、親戚のおじさんに異常な傷跡をみせる。「ほう、妙に膨らんでいるね。なんで切ったの」。「試験管が割れたのです」。「ほう、試験管でね?」。「はあ、研究というか、調べたいことがあって」。「義くんは化学者向きかもしれんな」。化け学・・・筆者、晩年にお化けの学者の卵にはなった!

とまれこうまれ、筆者は「おいた」をしていた。研究などしていなかった。いまさら反省しても手遅れだ、おじさんは死んでしまったのだし・・・。

話はころっと変わるが、くだんの赤城農相の頬っぺのバンソウコウ。顔の皮膚が弱いとテレビカメラに話しておられた。なんでも吹出物だそうな。政治家の面の皮がデリケートなんて、ウッソ〜という感じである。(07/07/20)

 

『蔵の番』255

ラーメンやのおやじさんが喜んでいた。毎年3月に確定申告をしているが、5万円以下の支払いに領収書が不要になったという。光熱費や丼や割箸などの諸経費も、ちゃんと記帳してあればよろしいと税務署の弁。税務署の上には政府があるから、それは確かなことだろうと。

これで煩雑な青色申告の記帳から開放される。なんでも改正政治資金規正法が国会を通った余得らしいと、おやじさんは珍しく笑顔をみせた。

ラーメンやのおやじさんは、どうやら早とちりしていたらしい。そもそもの間違いは、改正政治資金規正法と確定申告のための経費細目をごっちゃにしたこと。政治の世界のお金と、庶民のお金をまぜこぜにしたこと。法律の運用もしょせん同じでないこと・・・おやじさんは苦笑い。

翌日におやじさんと偶然出会うと、一転仏頂面をしていた。そのわけは、例の国会を通過した法律は「資金団体」のみの適用で、その他の政治団体には非適用だという。おやじさんは少しく勉強したようで、筆者に対して多弁になった。

笊のようなものを編んで法律をつくる。抜け道を開けておいて法律をつくる。はじめから自分たちはこうして脱法しようと決めて法律をつくる、そうとしか思われない政治家たち。とりわけ自民党+公明党の政治家たち。こんな弁をまくしたてた。

「盗人に鍵を預く」(ぬすびとにかぎをあずく)という諺がある。「盗人に蔵の番」ともいう。悪人と知らずに却って悪事の便宜を与え、被害を大きくすること。災いの元になるものを助長することをいうのだ。

庶民は、政治家に莫迦にされていまいか。せっせと投票して当選させて、その結果が庶民に目をむけるのでなく、私利私欲に走ったり、権力闘争の資金にしたり・・・。

政治家を十把一絡げにしてはならない。自民党は5万円、民主党は1万円。それだけでも違いがあるではないか。目を凝らして見ていよう。おやじさんとそんな話をした。(07/07/13)

 

『三語鑑賞』254

「産む機械」「ナントカ還元水」「しょうがない」。最近夙に有名なこの三つの言葉について、つれづれなるままに触れてみたい。いずれこの「三語」は今年の流行語大賞にノミネートさるだろうが、それとは違った視点での味読、鑑賞である。

筆者の立場上から、俳諧の付合における「三語」の解釈をこころみよう。なお「付合」とは、前句に付ける付句を作ること。またその前句と付句の一組をいうと『広辞苑』にあるが、後年に付句の付け筋や意味や付け味を表すようにもなった。いつ頃からか、また市民権を得ているか否かは定かでないが、一応ここに附記しておく。

1、「産む機械」・・・「産む」とは、母体が子や卵を体外にだすこと。分娩することをいう。「機械」とは金属やプラスチック製などでできている仕掛けある機器。原動機。「産む」には前提として妊婦の存在があるので連句的解釈では「恋句」、そして結果としての嬰児は「親族」の式目に挙げられるだろう。「機械」は「器物」と式目分類しているグループがあるので、これに該当しよう。

「産む機械」というフレーズは、機械が人間に取って代わって出産することであるから擬人法。ところが、機械は人間の母体であるという前段の比喩があり、意味が重層して深まりをみせる。柔らかい母体と、堅い無機質が重なり合うダブルイメージ。このフレーズでは意味不明なので機械に「注」をつけなくてはならないが、一般的には「ロボット」、セクハラがらみでは「多産系」。近未来を思わせる、バーチャル・リアリティーの優れものではある。

1、「ナントカ還元水」・・・「ナントカ」は「何であったか」思い出せないこと、名称のナニガシのこと。還元水は浄化装置で浄化された飲み水だが、飲み水は式目「水辺」には入らず「酒食」。健康をおもんぱかって、あるいは美食の一助という今日的な観点からすると「時事」のカテゴリーかもしれない。「ナントカ」という言葉を発した人物の人となりに飄逸味が感じられる。品位は落ちるが。

1、「しょうがない」・・・は「仕様がない」の転で、施すべき手がない、始末に負えない意。辞書の上では全くの否定形だが、一般的な活用、ニュアンスとしては容認しながらの否定。または、否定しながらの一部肯定という両義性があるのではないか。俗語に近い「口語」で、「述懐」気味であり、「遣り句」的でもあろう。

俳諧的な見地から「三語」をリサーチすれば、「産む機械」が言葉のバックボーンの広がり、ユーモアに通じる含有力など、三語のなかでは一日の長があると思う。言葉は魔法のようなもの、生き物のようなものだ。(07/07/06)

 

『気まぐれ日誌』253

お腹の右側がしくしくと差し込む。大騒ぎするほどではないので、ときどき横になっていると、ほとんど普段の状態になる。これで治ったのだなと安堵する。

そんな状態が二日つづいて、こんどは腹部左側の下が痛みだす。大腸小腸が運動会をするように、ごろごろと蠕動。例によって痛みは我慢できないものでもないのだが・・・。

風邪気味で目が腫れぼったい、花がむずむず、体のふしぶしもかったるい。食欲はあり、晩酌も欠かさないが。ま、自慢にはならないが、「大風邪」をひいても食欲減退ということはかつてない。こう書くと頑強な人間にきこえるが、筆者「虚弱大人」のカテゴリーにはいるだろう。

老躯は騙しだまし使えばいいや、とかまえていたのだが、痛みが胸部に移動してきた。息をするとき、体をねじるとき、痛みがはしる。これは風邪なんかでなく、内臓がやられていて、症状として各所にあらあれるのだろうか。名医ならぬ「藪井竹庵」の自己診断だ。なお新しい部位への移動による「旧部位」は、ふしぎなくらい痛みをまったく感じない。

四六時中痛むわけではない症状のなかで、朝は鎮痛剤を呑み、昼には漢方薬の「改源」を呑み、夕べには「下町のナポレオン」を呑んだ。酒は百薬の長というではないか。

あくる日、胸の痛みは治っていたが、代わって首が痛くて廻らない。顔も上がらない。手の上げ下げさえも、首に振動が伝わる。○で借金があるかのように首が廻らないのだ。きょうは「働肝日」(肝臓が働くべき日)にもかかわらず、晩酌はやめることにした。7:30には寝床にはいった。

翌日も首の痛みは引かず、病院にゆくのは嫌いでないのだがついつい面倒くさくなって、文机に凭れてPCを覗き、テーブルの脇に横臥してまどろんだ。

首の痛みは二日間、売薬や以前に処方された頓服など呑んで、どうやら峠を越した。これは風邪の症状の一種か、その他の病気がこんな症状として現れるか。昨年のいまごろの時季にも、今回と同じような「病気」になったような気がする。

ほとんど快復したから、これを書いている。バカボンのパパではないが「これでいいのだ!」。(07/07/01)

 

『気まぐれ日誌』252

父の日のプレゼントに息子夫婦から「舞筆」と「タブレットドライバ」をもらった。「舞筆」は毛筆を中心としたお絵描きソフト、「タブレットドライバ」はペンを使ってタブレットに文字やイラストなどを書き込むもの。パソコンに関連するソフトや機器である。

マックを持っていた7年ほど以前、お絵描きソフトを使って妖怪の絵を描いたことがある。瓢箪をさげて魚釣りから帰る河童、石見の牛鬼、百舌爺などはプリントして現在でも秘蔵。筆者の「名画」のカテゴリーにはいる。

お絵描きとはペイントのことで、このネーミングが好き。幼児に還ったような気分になれる。「ぼくチャン、お絵描きするんだ。バブン〜」。

ともあれ、マックを使っていた当時、マウスで描く絵図はぎこちなくて巧く描けるものではなかった。従ってあまり真剣になることもなく、忘却の彼方に消えてしまった。

絵画の鑑賞は現代詩を読むような感じで好きだが、自分が描くという立場に立って、特段に絵心があるわけではない。家人は上手ではないけれど、おもしろいという。褒めているのか、けなしているのか、さっぱりわからない。

息子夫婦が筆者の名画をみて、これは将来ものになると画才を見込んだのか、老いらくの父上の慰みにと思ってくれたのか、どちらにしても嬉しいことであった。

善は急げ、画壇デビューは急げと、インストール。マニュアルをとばし読みに読んで絵筆を執った。まずは勝手知ったる妖怪、河童を描いてみた。

イメージの河童は鮮やかにあるのだが、絵筆がいうことをきかない。絵筆は「べた絵筆」「渇絵筆」「薄墨」「水彩」「油筆」など至れり尽くせりだが、たった一本の線さえ満足に引けない。まっすぐに引くつもりが曲がってしまう。細く引くつもりが太くなってしまう。緊張しているわけでもないのに、手がふるえてしまう。

筆を代え、絵の具の色を代え、悪戦苦闘。気に入らない箇所を「消しゴム」で消し、「スポイト」で絵の具を吸い上げ、欠点を補うために「ぼかし」を入れる。また、ぼかしでは誤魔化せないときは逆に「シャープ」にする。「グラデーション」も「バケツ」もあり、レベルに達していないのに、高等技術をめったやたらと試みる。おまけに「水」の落款まで押しちゃう。

こうして一日が暮れる。二十枚くらい捨てて、一枚の河童絵が残った。題して「かっぱさん」。汗まみれの「労作」だった。筆者、よっぽどへそ曲がりなのか、線がまっすぐ引けない。

それはともかく、惜しげもなく出てくる新しい「画用紙」、消しても消しても磨り減らない「消しゴム」、使っても使っても減らない「絵の具」・・・おお、お絵描きよ。60余年以前の筆者の幼児期に、こんなツールがあったら?これは魔法ではないか!

息子よ嫁御よ「魔法のプレゼント」をありがとう。きょうは自信をなくしたが、制作はおもしろいので頑張る。(07/06/23)

 

『気まぐれ日誌』251

ある通販で帽子を買った。シルク製で一点はMサイズの黒、もう一点はLサイズの薄茶色である。黒は家人が使うもので、薄茶色は筆者が使うつもりで注文した。

碌でもない七でもない帽子を、すぐ仕入れてしまう筆者。なぜに帽子が好きかとつらつら思うに、西部劇のガンマンが帽子を阿弥陀被りにかぶって二挺拳銃をぶっ放す。そんなシーンが「いかす」と、少年期の脳裏に焼きついてしまったのかも。

帽子からものを申せば、帽子というものは顔のながい馬面の男()、痩せこけた病み上がりのような顔の男()に似合う。筆者のような丸ぽちゃでは、帽子のほうで遠慮するだろう。せっかくのシルクが野暮ったく見えてしまう。ま、そんな「自虐ネタ」をかましたところで誰も笑ってはくれないが・・・。

二点の帽子が到着して、二人して一斉にかぶってみる。「L」なのにきつい。筆者は脳ミソが多いせいか巨頭系で、目深にかぶると額のあたりがひりひり痛む。家人はデザインが気に入らないらしく、かぶってはみたが早早「脱帽」。筆者は家人用「M」なんぞ無理だと思いつつかぶってみると、これがサイズ的にはぴったしカンカン。「M」が「L」より大きいとはどういうことか。帽子の世界のことは知らないが、北斎の世界では富士山より波のほうが大きいから、あながち奇異な取り決めではないかもね。

そんなわけで筆者は二点の帽子の持ち主になってしまった。自分の顔を鏡で眺めるのは快い気分だが、帽子をかぶっている場合にかぎり、バックミラーではほとんど見ない。丸ぽちゃがシルク帽をかぶって、プリメーラ2000を運転しているのを見かけたら、そやつはおれである。

右手の甲に瘤ができた。膨らんでいると感じてはいたが、手首を猫が引っ掻くような動作をして、あらためて真横から眺めてみると相当な膨らみ。こりゃ瘤だとはじめて認識した。直径15ミリ、高さ10ミリ。肉のかたまり状だが硬くなく、痛くも痒くもない。

この瘤が拳骨くらいになったら、どうしよう?こぶしで拳骨をつくると拳骨が二つになって、誰かさんに鉄槌を下すときショックが二倍になってしまわないか。それと、瘤ごと嵌められる手袋も売っていないだろうな。

日本民話「瘤取りじいさん」は、老人が鬼に質草として頬の瘤をとられる話。いろいろのパターンがあるが、瘤をとってもらったら踊りが上手になった翁(太宰治の小説)などもある。

このごろ筆者、連句が下手くそになったが、鬼にとってもらったら連句の腕があがるだろうか。

冗談はともかくとして、これってガングリオンか。ガングリオンなら、タン瘤の中身はゼリー状で無色透明らしい。駱駝ではないが、このタン瘤があれば頑張りがきくかもね。(07/06/18)

 

『日誌』250

連句の友から河童の置物をもらった。高さ14センチ、幅は12センチくらいの小さなものだが、これがすこぶる重い。鋳物でできているらしく、持ち上げるとずっしりとした手応え。

左手に酒の入ったひょうたん、脇には釣竿を抱えこみ、右手には釣り上げた鯛とおぼしき魚を握っている。すでに酒が廻っているらしく、天を仰いで雄叫びをあげているポーズ。甲羅や顔や手足のディテールがなかなか入念で、気に入っている。あたかも筆者に「新米さん、連句がんばれよ。おれが代わりに酔っ払ってやるから」といっているようだ。

インターネットで「せんべい」を取り寄せた。埼玉県は「小江戸川越」のとある老舗のせんべいや。値段はこなれていて2キロの箱詰めでも至って安価、野口英世さん3枚でお釣りがくる。米がよくて旨い。

このせんべいやの売りは、せんべいをわざとざっくりと割って、醤油が染み込みやすいようにする。胡麻味、甘辛、海苔巻き、油で揚げたおかき風味など七種類くらいを混ぜこぜに入れてくれる。

これを毎朝、茶など啜りながらバリバリかじる。部分入れ歯の歯でありながら、そんなことはお構いなしに食する。筆者恥ずかしい話、せんべいが大好きである。いや恥じ入ることはないのだが、家人は「いい年をした男や老人はせんべいなど食べないもの」という。そんな法律は聞いたことがない。このせんべいに出合うまでに、何万枚のせんべいをかじったことか。

せんべいの「バリバリ感」、これが応えられない。骨電動という言葉があるが、バリバリと歯でかんだ振動が頭蓋骨などを伝わって脳天をやっつける。脳味噌に刺激を与える。せんべい好きをあえてこじつければ、こんなところか。

隣家のK新聞販売所さんから芍薬をもらった。紫がかった赤、薄い桃色、ほとんど白にちかい桃色、純白など取り揃えて約10本の切花。朝方に二つの花瓶に挿したら、夕方には咲きはじめた。

大輪もさることながら、それぞれの色合いが素晴らしい。なんでも花市場に出荷されるものらしいが、筆者、花がこれほどまでに美しいと思ったことはなかった。きれいな花はただきれいというだけでなく、幸せにしてくれるもののようだ。

E・U氏の遺稿集の俳句の再選と序文を書き終えた。選句もさることながら、俳句は誤字・脱字が命取りになるので、ワープロに打ち込み校正する作業などは大変だった。筆者のやるべきこと、生前の氏とのかかわりを思うとき・・・。氏との「対話」もできてほっとしている。(07/06/15)

 

『日誌』249

息子がハーモニカを持ってきて、筆者にくれた。吹けというのだ。「HOHNERハーモニカ」二本、そして「ブルース・ハープ・プレイング・メソッド」などベスト曲集の教則本である。息子は何本も所有していて、使用の当てのないものを分けてくれたのだろうか。それとも連句に現を抜かす筆者に、音楽で脳をリフレッシュさせようとするありがたき「親心」ならぬ「子心」だろうか。

ハーモニカは少年期に吹いた記憶があるが、いたって下手くそだった。さて、どうしょう?筆者は多分音痴、音楽のほとんどを雑音としか感じ取れない人間なので・・・。いやいや、いい音楽はあり、耳を澄ませることはある。

「コンドルは飛んで行くよ」(「コンコルドは飛んで行くよ」)や「イマジン」や、西部劇などの映画音楽が吹けたらどんなにかよかろう。つっかえ、つっかえでも仕方ないから、吹けるようになりたいものだ。世の中、連句だけではないからね。

市内のE・U氏が亡くなって一年半。氏は東京の俳誌の仲間で、俳句はもちろん、連句もいっしょに学んだ。お住まいが近いので筆者が彼の御宅の郵便受けに句稿を入れたり、彼が付句を筆者宅に届けたりもした。第一回の「津幡連句大会」では大賞を受賞した思い出もある。

氏は89歳で亡くなったのであるが、きのう奥さんがお見えになり、遺稿集を出版したい申された。俳誌から30年間の933句すべてを書き出した原稿用紙を示し、筆者に選句して数をしぼってほしいという。本の制作についても知らないので教えてほしいという。

筆者も出版については全くの素人だが、知っている範囲では話してあげた。E・U氏は俳句や連句の友人であり、選句を引き受け、序文を書くことも引き受けた。二週間ほどかけて仕上げるつもりでいる。

前庭のシラカシ、カクレミノ、ヤマボウシの新芽が伸び、葉となって緑をふんだんに振りまく。銘木ではなく、雑木であっても初夏の樹木は美しい。洗眼、つまり眼球を緑色の色素で洗ってくれるのだ。

文机に凭れ、PCに向かっていて、くたびれると目を窓外に転ずる。樹木の緑に転ずる。ほっとする。

昨年の今月の日記のページを繰ると、ヒヨドリが庭木に巣をかけて子育ての真っ最中だった。かられ、今年は割愛したらしい。ときどきカワラヒワらしいき二羽が、窓辺を猛然とよぎってゆく。去年につづいて今年の5月も、筆者、どうやら生きている。(07/06/01)

 

『連句のレシピ(2−C)』248

句を付けるにあたって、前句の景色なり意味なり、人間が登場していれば感情なりを読み取る。そこから連想される景色や意味や感情を深めたり転じたり、ときには揶揄したり哄笑したりする。付合の世界を変化させ、ひろげてゆく。

前句の景色、意味、感情といったが、連句の場合にはそれだけでない「特殊作業」がある。特殊作業とは付句の分類を行って、カテゴリーに入れなくてはならない。たとえば現代詩を書くときは、すでに発語された言葉からイメージを重ね、思考を深めればよいのであり、書かれたものは多くが読み手と共有できる言葉、認識であるはずだ。

ところが前句を読み取るとは、一般的な読み手が表現された言葉から感受するもの以外に、受け取らなくてはならない連句特有の必須項目がある。それをつぎに記す。( )内はあくまで私案だが・・・。

1、式目のいずれかに該当する句か、しない句か。(最重要な分類)

1、固有名詞の句か、普通名詞の句か。(固有名詞の打越は禁。摺り付は許される場合も)

1、山川や海陸に根ざす地理的な句か、そうでない句か。(地理的な句は二句までつづけてよい。三句がらみは避ける)

1、室内か室外かが特定されている句か、室内外の不明の句か。(基本形は二句つづけ、打越は避ける)

1、外国を題材にした句か。より日本的な題材の句か。(木に竹は接がない)

1、美しい叙景の句か。そうでない叙景の句か。人物の職業レベルや生活レベルの高い句か、そうでない句か。(品位や格式や言葉などの位。位取りの手法)

1、ひらひら、くろぐろなど畳語の句か。(畳語には活気ある内容が付く。打越は避ける)

1、カタカナ語の句か。(なるべく二句つづけ、三句は避ける)

1、文語の句か、口語の句か。(文語主体のなかで、口語はなるべく二句つづける)

1、暴れている句か、おとなしい句か。(二句つづけるのが基本形)

1、体言止の句か、用言止の句か。(両者とも連続は五句まで。交互につづくのは逆に作為的になる)

連句の付句は内容や意味に付けることの反面、上記のような分類作業を行ったのち、「カテゴリー」の誘導にしたがって、おのずからなる方向を見出して付けるのである。

繰り返すが、内容や意味に付ける領域にとどまっていては狭くて窮屈な世界しか表現できない。式目を中心とした独特な約束事ともいうべき「カテゴリー」によって、発想の転換をしたり、飛躍をしたり、逆回転をしたりできる。散文でも韻文でもない、連句の文脈が生まれると思う。

連句という小さな形式、フォルムが、この世から地獄や極楽や、妖魔や泥棒などありとある「表現の現場」に到達できる所以である。(07/05/25)

 

『連句のレシピ(2−B)』247

句を付ける作業の大半は、これまで進行してきた経過を眺めることである。まず前句は誰でも眺める。つぎに打越はいかなる句かと検証する、大打越も気になって確認する。その辺で作句にとりかかる連衆が多いのではないか。発句からの流れを、ざっとでもよいから目を通す。心にとどめておく。それだけでよいのだが、それがなかなか出来ないらしい。

筆者も自分が連衆という立場で参加しているときは、やはりぞんざいになってしまう。連句は即興を旨とする文芸なので、作句は拙速でも仕方がないが、せめて自句の提出のときは進行経過と照合して類想や障る言葉がないかをチェックしてほしい。

歌仙36句、つまり36歩を歩くならすべてが前にすすむことであり、後戻りが許されない。と古人ものたまうた。極端なことをいうなら、まだ出ていない式目や景色や言葉の斡旋がされていれば、付句として先ずは予選通過だ。ところが前句だけの景色や人物や内容にばかりに目がいって、前句以前の経過を眺めることをおろそかにしている。式目の既出を確認しないでいる。

一方、「式目表」を一つひとつチェックして、つぎつぎに出してくる連衆もいる。捌きにとってうれしいのだが、付句がこじつけであったり、木に竹を接ぐような無理があったりして、これはこれで悩ましい。

読み手からみれば、式目を出さんがための付合が見え見え。興ざめもはなはだしい。式目は狙って付けるのではなく、ごく自然におのずから現れる、漫ろ神にさそわれるように現れるのが上等品。換言すれば、そのように見せかける手腕が求められるのだ。付句の内容もさることながら言葉や表現についても同様だろう。

作り手と読み手とは、ある種の格闘技をしている。作り手が言葉をつらねて、これどうか、見たことない景色だろう、ユニークな心理描写だろう。お前にわかるか?と挑戦すれば、読み手は、なんだこれ、陳腐凡庸だな、内容がないじゃないか、と応戦する。小説もだが、現代詩を書いているとき、作り手と読み手の格闘という思いがいちばん顕著だ。

ひるがえって連句の作り手も、読み手、すなわち読者をもっと意識しなくてはならない。連句が巻いてすぐ反古でなく、作品集として上梓されるのだから。連句を文芸として捉えるなら、付句者身辺からの狭い発想だけでなく、創造的空想的な、言語パフォーマンスも必須だろうと思う。(07/05/20)

 

『連句のレシピ(2―A)』246

句を付けるとは、どのように付けることだろうか。前句に対して句を付けるとき「即かず離れず」がよいという。至極ご尤もなことばだが、これが何ともむつかしい。

あるとき、景色(人情なしの句。場の句)の前句に対して景色の句を付けるにあたって、「情景が巧くつながらなくて難儀した」というコメントをもらった。筆者はつながらないように苦心しているので意外なコメントだった。(「つながる」「つながらない」は広義に解釈すべきで、揚げ足取りかもしれないが)

すでに叙景された景色から、その周辺の景色の題材を連想し、転じられた景色を付けなくてはならないと考えるのである。ところが画像のコマ送りのように、つながらなくてはならないと考えている連衆が少なからずいる。誤解している連衆がいる。よく付くということと、つながるということとは違うのである。付合の呼吸の飲み込めない、初心者は仕方ないが・・・。

またあるとき、人倫(人情句)の付けで、前句が分校の場合には「道草をしたとか懐かしいとか、故郷の友とか、詠まなくてはならないか」という質問をうけた。人間のもつ感情や情緒なので一概に否定はできないが、すでに多くの作品で類似例をみてきた。このような誰もが思いつく出来上がりの観念(表現)を持ち込むのは、レベルの高い方法ではない。

連句の付けは連句の独特なシステム上、ある程度は既成の概念や意識を下敷きにして連想を呼び起こすことは必要であるが、既成を打破する文学性もまた求められている。「分校」に即していえば、フィクションを含めて、分校から連想される表現を変えて行かなくてはならない。既出の表現にあぐらをかいていてはならないのだ。

筆者の俳諧の先生は「修練を積んでおのずから会得するもので、付合は言葉で教えられるものではない」と、かつて俳誌に書かれた。確かにそうかもしれないが、ことばをもって付合の一端でも伝えられたらと、筆者はつねづね考えている。

最近も兵庫の女流俳諧のAさんと話していて、句を付けることはむつかしいということになった。そのとき「付き過ぎは病、離れ過ぎは付句にあらず」という古人の言を筆者が出し、古人も悩んでいたのですねと彼女はおっしゃり、話はいとも簡単に落着した。

それはさておき、筆者は次のようにまとめてみた。

余情付け(蕉風俳諧)

必ずしも前句の意味内容(句意)に付けるのでなく、どこに着目したか(付け所)でもなく、雰囲気や勢い、情緒といった言外余情をもって付ける。句と句が感応しあい、映発しあって繋がってゆくように付ける。

「移り」句勢や意味内容などが変化し、発展する様相。余情が移るような対応。

「匂い」連想される付随的な条件や状況をいう。漂う気分や情緒など。

「響き」付合のなかで情感的に緊張する付け味。交感の共鳴音のようなもの。

「位」人物や時代、場所などの品位や格式。同時に句の内容としての格や位。

余情付けは文学的に質の高いもの。前句の根っこを切って余情をもって付けるのだが、「蓮の根の糸」のような繋がりでもある。蕉風理念の「移り」「匂い」「響き」「位」は重複する部分もあり、必ずしも定説というのではない。(07/05/11)

 

『日誌』245

GWがはじまった。筆者はゴールデンウイークなどと称するケチなものでなく、一年365日が休暇という誰からも嫉まれる環境にある。365日間のうち用事というか公務というか、それがあることが稀有なこと、というありがたき身分にある。考え方によっては公務も少なく、「雲上人」よりも恵まれているといっても差し障りはないだろう。

こんな身分にありながらGWに入ると、この期間が非日常の期間に思われてならない。どうしたことだろうか。これまで律儀に仕事をしてきた習性が、「休暇」というものに対する感じ方を形作ってしまったのかもしれない。早い話が、貧乏性ということが根底にあるのだろう。

4月28日から4月30日まで、忙しく楽しく過ごすことができた。ハーモニカを吹いた。ハーモニカを吹いたのは60年ぶりだろうか。全く下手くそであるが吹いてみた。頑張って上手に吹けるようにならなくては。(07/04/30)

 

『日誌』244

・平成連句競詠から「2007年連句文芸賞」の応募要項と、実行委員長の「連句行脚」と、さらに手紙には「連句の縁が生まれ、それが鎖となり、輪になり、おおきな和が円になって・・・人を大切にする心です」とある。素敵なレンクウーマンのお考えである。

昨年大賞受賞したからいうのではないが、この大会には連句文芸に対する敢為なこころざしが見られるし、形式自由という無碍なスタンスもよいと思うので、出来るだけ沢山の応募をしようと考えている。柳の下にそうそう泥鰌はいないだろうが。

・スターチャンネルの「赤い河」という西部劇を観た。1948年制作の古い映画で、ジョン・ウェイン/モンゴメリー・クリフト主演の西部劇の名作である。テキサスの大牧場主ダンソンは養子マシューと牧童3人を引き連れ、ミズリーへ1万頭の牛を大移動させる旅にでるが・・・。二人の男の苦難、対立、友情をえがく。

駆り集めた仲間の、そりのあわない牧童をいとも簡単に射殺し、砂漠に埋めて聖書をよむ。墓標をたてる。粗末に扱うでもないが命の重みなど、金輪際顧みないストーリーかと思ったら、別の人間には細かな心遣いをする。

こんな西部劇の全くもって不条理な話の組み立てが、じつは逆に好きなのである。そういえば、時代劇も人命軽視とお気軽さは西部劇に引けをとらない。共通するのである。時代劇は筆者あまり観ないのだが。

・H兄から「早稲の香」14号をいただく。富山県連句協会の冊子である。協会の活動、連句関係の基調講演資料、連句実作などをまとめたものであるが、富山の連句人には存じ上げている方が多い。掲載の写真を拝見すると懐かしいお顔がならんでいる。

ひるがえって長野県には連句協会はなく、中北信には二三のグループがあるらしいが、活動のさまは知る由もない。筆者がもっと以前から連句の種を蒔いて育てていればよかったのだろうが・・・。不得手という以上に、事情が許さなかった。と言えばいえる。(07/04/25)

 

『咲き分け』243

拙庵の狭い庭に一本のツバキがある。樹高はおよそ4メートル、樹冠2メートくらいだが、35年ほどまえに鉛筆大のものを坂田種苗から購入。数本のなかからこの一本だけが育ち、当地のきびしい寒さを耐え抜いた。買い求めたとき品種名のラベルがあったのだが、筆者の不注意から名無しの権兵衛になってしまった。

今年もきれいな花をつけた。ただいま八分咲きというところ。ヒヨドリが朝な夕な訪れて花蜜を吸っている。あるいは花の縁を啄ばんでいる。花が痛んでしまったり、落ちてしまったり・・・。ヒヨドリが好きならそれも仕方がない。

このツバキは咲き分けで、赤、白、絞り、赤白交互の花弁。の四色である。枝によって咲き分けるかと思いきや、一本の枝でも異なった色が混在する。逆に一本の枝で一色だけというものもある。絞りが多数派で、赤、白はやや少なめ、赤白交互は一輪だけ。花色の按分は日射量や肥料などの影響だろうか。それとも造化の神の気まぐれだろうか。

話はコロッと変わるが、統一地方選で当市でも市長選、市議選がたけなわ。市議選は15議席を狙って20余名が立候補し、選挙カーが連日かまびすしい。候補の車が行き違うときなど拡声器ががなりたて、五月蝿いことおびただしい。

向こう三軒両隣、それぞれが家に閉じこもって、選挙カーの通行を窺っている。こうした身近な選挙の候補への対応には、隣近所同士でけっこう神経をつかうのだ。誰に投票するかを探り合う、腹の探り合いをするのである。

町内のボスは自民系、組長は民主系、だれそれは共産系、あの人は公明系といったように、誰かがそれとなく色分けする。そうはいっても今回は「浮気投票」されるのでは、というような憶測もとびかう。少人数のわが区では、区としての候補は立てないが、それでもボスなどが目を利かせているようで気分がよろしくない。

ツバキの咲き分けはきれいであるが、市議選の候補の色分けは疑心暗鬼でいただけない。(07/04/20)

 

『連句のレシピ(1−B)』242

(1−A)では、「自他場」の基本についての概略を書いた。ここでは自他場の運用について眺めてみたい。

自・他・場のそれぞれの付句が指し合わないように、障らないようにするパターンは一体幾通りあるだろうか。厳格な基本形として、「場」以外から選んでつける場合、「人情自」「人情他」「人情自他半」がつけられる。また「人情自」以外から選んでつける場合、「人情他」「人情自他半」「場」がつけられる。

「人情他」以外から選んでつける場合、「人情自」「人情自他半」「場」がつけられる。「人情自他半」以外から選んでつける場合、「人情自」「人情他」「場」がつけられる。

すなわち、パターンは12通りということになる。この分類は厳しくしたもので、緩やかな分類というものもある。それは分類法というよりも、付句の内容の曖昧さ、主語のないファジーさによる分類の難しさから結果的に「緩やかな分類」となるものである。それらを含めてパターンは「12通り+α」ということになろうか。

筆者は、場の句をつけたなら、もう一句場の句をつけよ、と折にふれて言ってきた。人情の句がつづいて、もたれてきて、ようやく場の句をつけたのに、一句だけで再び人情の句にもどってしまう類例が多い。人情の自、他・自他半の振り分けはあるにしても、すっきりしないことおびただしい。「場の句は二句つづける」、そうすれば次句は大手をふって、想も新たに人情句がつけられるのである。

人情句の付け方にもいろいろあるが、とりあえず場の句の斡旋ができることが連句の極意かもしれないと思っている。

「人情の句は二句以上続けねばならず、人情なし()の句は二句以上までは続けてもよい」と、古書にある。それで、人情の句と人情なし()の句を互いに二句ずつ続ける例がみられるが、これを「縞=しま」といって嫌う。「人情」「人情」・「場」「場」・「人情」「人情」・「場」「場」。このような形の繰り返しは、自他場の規範は冒していなくても作品の迫力に欠ける。おもしろみがなくなるのである。

場の句は二句つづけ、人情の句は五六句つづけてもよい(人情が三句にわたるときは、自・他・自他半を用いて人情を頒つこと)

人情の句は二句から三句で捨てないで、素材・話題で盛り上げて、作品としての曲節をつける。それが望ましい運用である。システム運用が素晴らしくても、優れた作品が約束されるものではないことは(1−A)で述べた通りだ。(07/04/12)

 

『連句のレシピ(1−A)』241

連句に「自他場」というシステムがある。自他場は立花北枝が考案したもので、三句の転じ方についていうことば。自(人情自)の句、他(人情他)の句、場(人情なし)の句、自他一所(人情自他半)の句、以上のように句を分類するのである。基本的には、自・他・場の句がそれぞれ打越にならないようにするためだ。

さらに詳しく述べると、「人情自」は、自分が行動したり、考えたり、発言したりする内容の句。「人情他」は、他人が行動したり、考えたり、発言したりする内容の句。「自他半」は、自分と他人がともに行動し、議論などする内容の句。このように、登場する人間を分類したものである。

「人情」は辞書には、自然に備わった人間の愛情、いつくしみ、なさけ、人心の自然の動き、などと出ているが連句的には人間そのものをいう。また人間の体の部位や会話までも含む。「人倫」ということばもこれに近いだろう。

「場」は「人情なし」のことで、人間が登場しない句。場所とか景色とか、人情がからまない状況や状態をいう。

付句のすべてが自他場に分類できるわけではなく、断定のむずかしい類例が多い。また次の句が付けられることによって、一旦分類したものが変化する場合も。たとえば、人情自に思われた句が次に付けられた句の発想によって、人情他に変化する場合も。ことばはファジーであり、生きものである。わけても短い詩形におけることばは正確に掴み難いものである。

はじめに「システム」ということばを使ったが、システムとは、「複数の要素が有機的に関係しあい、全体としてまとまった機能を発揮している要素の集合体」と辞書にある。つまり自他場がうまく機能すれば、全体としてさまざまな要素をもった詩の集合体ができあがる、というわけだ。

だが、システム通りにことが運べば傑作が誕生するかというと、そういうことでもない。文芸は科学ではないので・・・。しかしながら、せめて「前句」「打越」「大打越」の自他場くらいはよく分析し、障ることがないようにしたい。

前句のことはさておき、最大の基本は「打越」に障らないこと、つづいて「大打越」に障らないこと。たとえば「打越」が人情自なら、付けるとき人情自は避ける。「大打越」が人情自なら、なるべく人情自を避ける。それは人情自だけでなく、人情他、人情自他半、場についても同様である。

自他場の分析をしていては、付句が楽しくないという向きもあろう。それはもっともだ。だから、心の片隅で意識すればよい。なれてくれば、おのずから障り(去嫌=さりきらい)を避けることができるであろう。

また、とびきり優れた付句はたとえ障りがあっても、障りのない下手な付句を凌駕する。それが連句という文芸の特質。このこと、蛇足かもしれないが付け加えておく。(07/04/06)