コラム「その29」

720「口ゆがめ・短歌」
719「言語飼育(1)」
718「隠せ壊せ」
717「ゆっくり・ありがとう」
716「笑い屋」
715「自己診断」
714「桜を見る会のサクラたち」
713「マルメロ・俳句」
712「詩あきんど37号」
711「愛の羽根・俳句」
710「流星・俳句」
709「認知症・短歌」
708「猫の性格」
707「猫の学習」
706「五輪は興行」
705「文春砲」
704「小判とメロン」
703「ユトリロ・短歌」
702「山彦に・俳句」
701「長き夜・短歌」

720『口ゆがめ・短歌』

12月11日付の朝日新聞長野版の「歌壇」に筆者の短歌が佳作として掲載された。当該の短歌をここに転載し、併せて「自歌自解」を試みたい。

  口ゆがめ目鼻ばらばらピカソの絵

    おのが苦悩の顔にあらんや  義人

ピカソが描く人間の顔は、口がゆがんで、目鼻は勝手にあらぬ方を睨んで、しかもばらばら。そんな突飛な抽象的な絵が多く、一見何を訴えたいのか分からない。

しかし沈思黙考、しばらく己の内面を見つめていると、あの顔は自分の苦悩のときの顔であろうか、と思えてくるのだった。

なお原作は「口ゆがめ」「目鼻ばらばら」でそれぞれ一字空き。結句は「ときの顔かや」だったが、草田照子氏の添削をうけて掲載されたことを付記する。(2019/12/12)

 

719『言語飼育()

筆者「言語飼育」なるフォルダーを持っている。自分専用で「言語()」を飼育しているのだ。飼育というからには、養い育てる、糞尿の始末、病害や消毒や屠殺までの面倒をみることになる。

間口3メートル☓奥行5メートル☓高さ2メートルの長方形で合金製の「檻(おり)」をしつらえ、このなかで「G」を飼っている。

「G」の捕獲はテレビジョンや朝日新聞や週刊文春などの報道のほか、ときにはアマゾンやカッパドキアまで遠征してハンティングする。狩猟の方法は主として投げ縄を用いる。縄にかかると「G」は最初は暴れるが首根っこをつかまえて篭に閉じ込め、その篭を四駆ジープの後部に縛り付ける。

凱旋帰国するとフォルダーに駆けつけ、南京錠をはずして捕獲した「G」を「檻」のなかに解き放つ。「G」はキョトンとした貌をしているが先住の「Gたち」と争うこともなく穏やかに棲みつく。そして筆者の飼育を待っている。

あまたの「Gの群れ」から一頭の「G(起情)」を捕らえ養い育てることになる。「起情()」とは、情景句や叙事句のなかで人情味のない前句の表現上のあやを頼りとして、人情のある抒情句を付ける付け心をいう。これは俳諧の用語で連句の手法作法で使われるのだが、これを俳諧にかぎらず、文学全般とか一般的な表現とかのなかに取り入れられないかと考えている。文章の流れのなかで前文からの「あやを頼りとして」ステロタイプでない記述が構文できるのではないかと。

そのために「起情(G)」を檻からひきだして筆者の書く一般的な文章のなかに取り込み、飼い慣らしているのだ。ときには的外れになったり意味不明になったりするが、句読点(糞尿)の置き方を通じて何とか乗り切っている。数回に一度はこれによって個性的な文章が生まれることもある。

今回は「Gの群れ」から「起情()」を引き出して書いたが、まだまだ沢山の「G」がいるので追って登場させようと準備している。ご愛読を感謝する。(2019/12/10)

 

718『隠せ壊せ』

来年2月17日から3月16日までの例えば「青色申告」の決算書に、貸借対照表や経費の明細書や領収書などの添付が必要ないことになった。いったんパソコンに打ち込んで保存しても廃棄すればよい。税務調査をうけても復元できないと申し述べればそれ以上は追及されない。

二年に一度の国勢調査も都合のわるい要件は書かず、虚偽の経歴や年収を書き込んでも良いことになった。良いことになったと言うよりもそれで通るのだ。国も通さざるを得ない事態になった。国自体がそうしているのだから。また個人は個人情報保護法で守られているから。そしてありがたいことに真実はしっかりと隠し通せるのだから。

プライバシーが侵害されるので、国民栄誉賞を受賞しても個人情報保護法で名前は出せないことになるという。ノーベル賞の受賞者も極悪な死刑囚も「X氏」と表記される。政治家は辛うじて名前(大方は偽名)はだすが、学歴や経歴はひた隠しに隠すか、高学歴&善行などを盛りに盛りこめる。公表する資産状況はみんながみんな、土地家屋なし、預貯金0円。

こんなことになったのは、モリカケ問題での政府や官邸や役人の公文書や議事録の隠蔽や廃棄と、それについての国会での答弁において国のあり方を教示したためだ。全国の県や市の行政の方針をこのようにせよと身をもって示したのだ。

さらにダメ押しとして「桜を見る会」の名簿や明細書や領収書のシュレッダーでの粉砕、保存されていたハードデスクの資料の消去や破棄、復元不可能などなど。プライバシー保護を隠れ蓑にして、わからない、わからない。しらない、しらない。「桜を見る会」に招待されるのは功績があって、名誉なことの筈なのに名前を出せないとは?

――国民へのテキストとして、これに優るものはない。俚諺に「嘘は泥棒のはじまり」がある。お釈迦さまは「嘘も方便」といった。中条きよしは「♪折れた煙草の吸殻であなたの嘘がわかるのよ」と唄った。わかったって構うものか、「嘘は八百」もあるから。みんながみんな嘘つきになろう。(2019/12/07)

 

717『ゆっくり・ありがとう』

「ゆっくり、ゆっくり」「ありがとう、ありがとう」。

超高齢で体の自由が利かないと見えるからか、病院などで治療室での移動やベッドへの乗り降りに際して医師や看護師が「ゆっくりね、ゆっくりね」と声をかけてくれる。

受診する態勢になるのを待たせていると思うと気が重く、心臓がどきどきし逆に焦ってスムーズに行動がとれない。だから、ゆっくり態勢をととのえてくれればいいのだよ、というアドバイスは助かるし嬉しいものだ。

そして診療のために衣服の脱ぎ着ができた場合には、医師や看護師が「ありがとう、ありがとう」と礼をいってくれる。衣服の脱ぎ着など普通は自らすべきが当然のことだが・・・

医師も看護師も本心は、さっさと診療態勢になってくれよ、衣服の脱ぎ着は自分でやってほしいね、かも知れないと推察するが。いやいや、患者がリラックスする言葉をかけた方が診療は時間的にも捗る(はかどる)というデーターでもあるのかと。それと患者に優しくという時代の要請かもと。いずれにしろ、医療機関マニュアルとして定着しているようだ。

ところで医療機関のみならず、家庭内でも日常の生活でも「ゆっくり、ゆっくり」「ありがとう、ありがとう」を家族にも自分自身にもいうべきだ、声に出していうべきだと考える。筆者すでに実行してもいる。

急いで何かしてもどうせ捗るわけはない。それなら、ゆっくりやれば心穏やかに行動できる。頭を遣ったなら頭よ、ありがとう。ボールペンで右手を遣ったなら右手さん、ありがとう。家族にもいうが自分自身にも独り言をつぶやくのだ。とにもかくにも、「心穏やかに」を最優先に考えたい。自分自身の精神衛生のためにも。

当コラム「自己診断」「笑い屋」につづく「身のため三大話」を書いた次第である。(2019/12/06)

 

716『笑い屋』

「笑う」は「口を大きく開けて喜びの声をたてる。おかしがって声をたてる」と『広辞苑』にある。また「嗤う」とも書いて「ばかにしてわらう。嘲笑する」もある。

さらに比喩的に「つぼみが開くこと。果実が熟して皮が裂けること。縫目がほころびることなどをいう」。「力が入らず、機能しなくなる。膝が笑う。手が笑う」。などもある。

よく知られる俚諺の「笑う門には福来たる」は、「いつもにこにこしていて笑いが満ちている人の家には自然に幸運がめぐってくる」の意だ。

前号の「自己診断」のつづきとして書くのだが、「笑い屋」という職業というか、エキストラというか、サクラというか、そんな人間が存在する。お笑い演芸やテレビショッピングで笑いが欲しいときなどに笑い声を発して盛り上げる。芸人の鼓舞や販売促進にかなり効果があるといわれる。

面白くなくても笑う。無理しても笑う。その波及効果は他者だけにとどまらず、笑う張本人にも良い効果を及ぼすとされる。

「よかった、よかった」「だいじょうぶ、だいじょうぶ」の一環として筆者も「笑う」努力をしようと思う。口がひん曲がってしまうような精神状態のときであっても「笑」おう。(2019/12/05)

 

715『自己診断』

倦怠感、疲労感、無力感、脱力感、厭世、眠気、不眠・・・「広辞苑」に載っているだろう言葉を列挙してみたが、最近の筆者はこんな症状に苛まれている。自己診断ながら原因は判明していて、それは血圧降下剤の副作用だ。処方される薬剤の説明(お薬手帳)にもそれらしきことが書かれてある。

血圧を管理することが筆者にとって最重要課題なので副作用は我慢せざるを得ない部面だが、むろん降圧剤を副作用の少ないもの変更することは必要・・・

冒頭に掲げた症状の回避というか治療というか、筆者なりの「処方箋」として「よかった、よかった」「だいじょうぶ、だいじょうぶ」という言葉を声に出して発する。自分自身にくどくど言い聞かせることだ。

ここ数日間のささやかな嬉しかったこと、困難をなんとか乗り越えられたことを大袈裟に欣喜雀躍してみせる。もっというなら自分を騙す。いい意味で自己欺瞞することだ。人間はナルシズムに陥りやすいので、比較的コロっと騙されるものである。

「よかった、よかった」「だいじょうぶ、だいじょうぶ」を呪文のように唱えると、倦怠感や無力感や厭世的な考えが軽減されるように思われるのである。「自分病院」の単なる自己診断ではあるが・・・筆者そもそも竹庵や名医か自分では決めかねているのではあるが・・・(2019/12/03)

 

714『桜を見る会のサクラたち』

この区は30余戸の小さな地域であるが、総会に欠席の場合は委任状の提出が義務付けられる。総会の発言はコクヨのB5ノートにびっしり記録され5年保存が決められている。祭典費や慰労会などのため買い入れた酒やオードブルや茶菓子の領収書はクリアファイルに挿入され戸棚に納められる。

30余戸は5~6軒くらいに区分されそれぞれに組長がいる。そのほか神社総代、防火防犯、会計係、衛生係、交通安全係などが役職として協議委員になる。それらを束ねるのはむろん区長で、副区長も存在する。

区所有のパソコンはないが、協議委員か区民のパソコン所持者でスキルある者が、会議録や提案や名簿などを打ち込んで保存管理している。これら区運営の指揮系統の作業を怠ったり誤ったりしょうものなら区長は厳しく糾弾され、かつては「村八分」になって追放された事例もある。

閑話休題。さてさて、最近マスメディアを賑わす「桜を見る会」であるが、18000人も招待して莫大の公費(税金)を使いながら招待者の名簿も使われた費用の明細書も領収書も開示されない。追及される以前にはパソコン上にもペーパーにも存在したものをパソコン上は廃棄、ペーパーはシュレッダーで粉砕したという。追及されると「真実」を隠蔽するため捨てたり砕いたりして無かったことにする。そして捨てたり砕いたりしたことを、忘れた、覚えていないと、すっ惚ける。政治家も官僚も堕ちるところまで堕ちてしまったのか。

これが30余戸の区にも劣る日本という国の現状だ。区長(総理)は即刻「村八分」、いい面さげて区長(総理)にひざまずく副区長(菅官房長官)、会計係(麻生財務相)、衛生係(小泉環境相)などもろもろの協議委員(大臣ら)も共同正犯として退場を願いたいものだ。

招待された人たちは、こんな見苦しい政権下の「桜を見る会」に出席し、それを周辺に言いふらし自慢しているのであろうか?そして現体制をほめちぎり、与党の自民党や公明党の応援をする「サクラ」に成り下がっているのだろうか?

区費も公費も文字通り「公の金」だ。厳格な管理と使用する場合は明細書&領収書が必須。その保管も必須。「公文書(国民の財産)」を捨てることは犯罪に等しい。「桜を見る会」は大きな問題でなく国会にはもっと重要案件があるという人がいるが、公文書を破棄したり隠匿したりすることは犯罪と自覚すべきだ。(2019/12/02)

 

713『マルメロ・俳句』

11月27日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  マルメロの香り著けき諏訪の湖  義人

「マルメロ」は『バラ科の落葉高木。中央アジアの原産。高さ約5米。葉は楕円形。葉裏に綿毛密生。春、白または紅色のボケに似た五弁花をつける。果実は黄色で球形または洋梨形。外面に綿毛を被り、甘酸っぱくて香気があり、普通、砂糖漬にして食用。セイヨウカリン(単にカリンとも)。漢名 榠樝』と『広辞苑』にある。

晩秋の植物の季語である。メルメロと漢名である榠樝(かりん)とは品種として相違があるともいわれているが、詳細は筆者の知らないところである。

諏訪湖畔の主として、諏訪市から下諏訪町にかけて通称「かりん並木」があり、十一月末が収穫の時季。風が吹くと芳香が漂うこともある。地元では「かりん」と呼称しているが「マルメロ」と呼ぶとお洒落に聞こえる。そして諏訪湖の佇まいも洒落て見えたりもする。そんな効果も狙った俳句だ。なお「著けき」は「しるけき」と読む。著しいという意味だ。(2019/11/29)

 

712『詩あきんど37号』

枕詞 秋

ひさかたの月指させば 指は月

青丹よし奈良の鹿じかかくかくよ

小波の寄る辺サーモン・カムバック

玉かぎる夕べの鵙が「ムンクの叫び」

千早振る神代も廻る木の実独楽

勇魚取り浜の烏賊干し夜は夜干し

垂乳根の母 へうたんは垂れ乳房

うちひさす都 秋刀魚をpayで買ふ

さねさしの相模トラフを雁わたる

射干玉のやみのジャメヴへ 稲光

五月蝿なすさわぐ新語も秋の声

隠り沼の下ゆ水澄んで 河太郎

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俳句十七音のうち枕詞と枕詞のかかる詞で

約八音、それに季語とプラスアルファが約七

音になる。七音余りで世にも短小な俳句キャ

パシティに何を表そうとするのか。

羽化をめざす蛹が変態して殻に閉じこもり、

やがて表皮が割れて飛翔への期待が高まるよ

うに、「七音余り」から発想する意味や心象

が意識しないが広がって変化する。詞はおの

ずから繋がる性質をもち、リズムよく舌頭に

ころがり、逆に心地悪い語調にもなる。善し

悪しをふくめ俳句にあって言霊のひびきの作

用はあなどれない。

短詩形のなかでも米粒に毛筆で文字を書く

ような、そもそも不条理な俳句フォームへの

取り組みはストイックにならざるを得ない面

がある。わたしにとってそれは苦しくも楽し

い作業ではある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このたび(11月10日)俳誌「詩あきんど」37号が刊行された。筆者は「詩あきんど集Ⅰ」に参加しているが、上記の12句と留書の作品が掲載されたので転載させていただく。(2019/11/23)

 

711『愛の羽根・俳句』

11月20日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  愛の羽根いづれの鶏の羽根ならん  義人

「愛の羽根」は「赤い羽根」とともに行事に分類される晩秋の季語である。日本赤十字の赤い羽根共同募金という事業で、この季節になるとテレビのアナウンサーや国会議員などが胸元につけているのを見かける。赤い羽根は欧米では「勇気」とか「善い行い」とかいう意味があって、世界的に知られている古くからの行事だ。

赤い羽根の「羽根」は鶏の羽根で、毎シーズンに5千万本が必要とされる。鶏から羽根を毟りとって赤い染料で染め上げる作業だが、手作業のため一本あたりのコストが2・6円かかるという。当初の寄付金額の一円では、赤い羽根が文字通り赤字になったそうだ。が、日本赤十字に入る寄付金額合計も、最初のころの6億円から現在は1200億円というから黒字だろうが。

「愛の羽根」というものの、鶏を吊るし上げて羽根を毟りとる作業を想像すると、たとえすでに死んだ鶏であっても、筆者の胸は痛むのである。いずこのいずれの鶏であったのだろうかと作業現場のイメージが浮かんで・・・(2019/11/20)

 

710『流星・俳句』

11月14日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に筆者の俳句が入選一位として掲載された。当該の俳句と選者の講評をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  流星の果てに街あり友住めり  義人

「流れ星の流れ行く先を見て、おお、あの先に友の住む町があるんだなと思い出したのだ。「街あり」と中七でいったん切れ、畳み掛けるように「友住めり」と続いているのは作者の心の動きの順を示している」仲寒蝉氏。

寒蝉氏の講評の通りでこの俳句について「自解」する必要性もない。空を見上げていると自ずから東西南北を意識せずにはおられない。流星は方向を指して流れるのだがその方向の先にある日本の都市や山岳や、さらには海外の国の所在なども意識せずにはおられない。そんな意識せずにはおられない「友」であった。(2019/11/17)

 

709『認知症・短歌』

11月14日付の朝日新聞長野版の「歌壇」に筆者の短歌が佳作として掲載された。当該の短歌をここに転載し、併せて「自歌自解」を試みたい

  認知症テストの答出せなくて

   われも思はず「考える人」 義人

「考える人」はロダンの制作したブロンズ像で、思索する人物を描写した像として夙に知られる。

「認知症テスト」とは、75歳以上の者が運転免許証の更新のとき受講するテストのこと。自分の住所&氏名&生年月日、時計の文字盤を書き現在の時刻に短針や長針をセットするなど。

その他、鶏、かぼちゃ、ヘリコプター、子豚、タンポポ、ポパイ、アコーデオンなどのイラストをスライド画面に映しだし、それとは無関係の交通法規などを受講したのち、20余りのそのイラストの名称を思い出させ記述させるというものである。

センター試験とか英検とか飛び級試験とかの難しさではないが、のんでかかると足許を掬われかねない、へんな緊張感に苛まれるテストではある。とても認知症になんぞになっている暇はないのだ。

御託が長くなってしまった。筆者すでにこれまでに何回かテストを受け、こたびは人生最後の挑戦かもしれんと受講した次第だ。テスト結果をここに報告することは差し控えるが、思わぬ高得点をたたき出した。

従って「答出せなくて『考える人』」という措辞は必ずしも真実ではない。しかし「答が簡単に出せた」では短歌にならない、文芸にならない。文芸は「喜怒哀楽」のうち「怒哀」を描写するもので「喜楽」は捨てるものだ。嬉しい楽しいは文芸にふさわしくないのだ。(2019/11/16)

 

708『猫の性格』

猫にはそれぞれの性格がある。アメリカンショートヘアという種目でも当然ながら一匹一匹に性格の違いがあるだろう。ギンちゃんは気が小さくて穏やかなの子だ。

以前は宅配便のクロネコがくると奥の間から飛び出してきたが、最近は玄関にいたものが廊下の奥に逃げ込んでしまう。クロネコ車のエンジン音がわかって、配達人がベルを鳴らすよりも先に遥か遠くに離れてしまうのだ。

近所の小母さんが回覧板を持ってくると親しく貌ですりすりをしたものだが、この頃は遠くから窺っていて近寄ろうとしない。猫にはそれぞれ性格の違いがあると書いたが、その性格も時間の経過と環境によって変化してくるもののようだ。

アビは重たい引戸を寝転んでふんばって上肢で開けたが、ギンちゃんは開けようともしない。冒険しない研究しないというか、無理をしない家族との波風をたてないという性格だ。

1メートルくらいの組立式の棚の上に乗りたがるが、剪定鋏や呉55やボンドが入っていて危険なので「ギンちゃん危ない恐いよ」というと、飛び上がろうと準備していても中止する。「危ない恐い」の声色で危険と感じ取るらしい。

もともとの性格もあろうが、猫は飼い主に似てくるのかもしれない。それとは逆に、家族が猫の性格に似てくる部面も否定できない。猫は家族だ。猫は人間だ。人間は猫だ。とはいっても猫は猫だ。人間は人間だ。(2019/11/11)

 

707『猫の学習』

猫は学習する。わが家の猫のギンちゃんは、我が家のライフスタイルに合わせようとしている。起床はご主人の起床時の着替えの衣擦れの音を、部屋一つ隔てたケージで耳敏く聴きつけ、やおら起き上がる。起き上がっても暫くはケージ内を動き廻らず、ご主人の洗顔や雪隠の佇まいを耳で窺い、それに合わせて自分も糞尿をすませ猫砂をかけて消臭につとめる。

ギンちゃんの快適な温度は22度らしい。現在の室温は17度くらいなので電気ストーブをつけてやる。ケージの網越しにじっと暖房に当たっているが、「おしまい」といって消すと、ケージの二階にひょいと上がって寝ころぶ。「おしまい」という人語を覚えた。毛梳きで毛を梳いてやって「おしまい」というと、さっさとケーズに這入ると奥方がいっていた。

「ギンちゃん」「ご飯」「お八つ」「またたび」「ねんね」「なでなで」「うんこ」「しっこ」「待て」「だめ」「ストーブ」「ぬっく」「お耳くりくり」・・・現在ただいま、思いつく言葉をあげてみたが、これらを理解できるようだ。逆にギンちゃんから発する猫語は「ググっ・ググっ」「ニャー」「うんっ」と数は少ない。が、尻尾の振り方を見ていると何かをしゃべっているようだ。人語に翻訳できないがご主人には理解できるものも。大きく振るのは怒っているか喜んでいるか。小さく振るのは淋しいときか訴えを聴いてほしいときか・・・

ギンちゃんは「段取り」が好きで、段取り通りに行動したいようだ。段取り・・・つまり行動の順序がいつも通りでないと気に食わないらしい。「それ違う?」という怪訝な貌をしてご主人や奥方を見上げる。いつも通りの順序に戻せるときは戻すと、納得して元気に行動に移るという面がある。(2019/11/04)

 

706『五輪は興行』

「2020東京オリンピック&パラリンピック」マラソン&競歩大会の開催地が東京から札幌に変わった。IOCの鶴の一声によって変更がすでに決定したにもかかわらず、三日間もすったもんだの挙句、「決定が改めて決定」した。つぶしたメンツとつぶされたメンツの帳尻合わせの三日間だった。

それはさておき、商業主義に陥った五輪は商業主義が卑しいとIOCらは思っているらしく、それだけではないと主張したいようだ。それらの主張がことをややこしくし、分かり難くしている。どう考えても五輪はすでに「興行」である。

箆棒なテレビ放映権や観覧チケットの収入など、ギリシア・アテネの五輪「嚆矢の精神」からは程遠いものになってしまっている。ならばいっそのこと、五輪を興行とはっきり定義すべきだ。興行ならアスリートファーストではなく観覧者ファースト、すなわちお客様が神様である。選手や役員が四の五のいうべきではない。

興行の素晴らしさは「サーカス」だ。猛獣使いも空中ブランコもピエロ(ピエロは敢えて失敗するが)も失敗しない。体操の鞍馬でこけたり、フィギュアで尻餅ついたり、ウルトラCや四回転は要らないから美麗に見せてほしい。せめて失敗しないでほしい。

「スポーツの審美」・・・スポーツ選手の行動の美と醜を識別しなくてならない。つまり「美」でなくてはならない。それがスポーツを見る者のアイデンティティにつながる。(2019/11/02)

 

705『文春砲』

前号「小判とメロン」に引きつづき息つく暇もなく「じゃがいも」を加えなくてはならぬ。

河井法相の妻が七月の参議院選において有権者に「じゃがいもとマンゴー」を贈りつけた。かてて加えてウグイス嬢たち13人に15000円を過分に支払った買収容疑がみつかった。河井法相は当初「私も妻もあずかり知らぬこと」とうそぶいていたが、証拠があがって辞任に追い込まれた。安倍晋三内閣において10人目の辞任&更迭だ。

「辞任更迭」の多さには驚くが、ここで言いたいのは前号でもちょっと触れたが「週刊文春」の取材力と正義感だ。芸能人や有名人の不倫や脱税などでも力量を発揮しているが、政治家の犯罪など権力にかみつく姿勢は見上げたものだ。菅原経産相や若井法相を追い込んだのは、いわゆる「文春砲」と称される映像による証拠主義の砲弾だ。過去に何人かの大臣を追い込んでいる。

日本における正義は「週刊文春」ただ一誌。本来は権力を批判すべきマスメディアの五大紙は腰抜け、地上波テレビは官邸にチェックされるのを恐れ、忖度を働かせていれば安泰と弱腰になっている。これでは権力はいよいよ蔓延って腐敗する。

「週刊文春」がんばれ!(2019/10/31)

 

704『小判とメロン』

関西電力の会長や社長や幹部ら20人が福井県高浜町の元助役(故人)から3億円超の金品を授受していたとの報道があった。金品の内容は現金のほか、オーダースーツ券、金の延べ棒、金の小判で、それらは菓子折りの下に隠されていたという。

元助役は「原発フィクサー」と恐れられ「菓子折り」を押し返そうものなら眼光鋭く睨みつけられ、後で何をされるか分からないので仕方なしに受け取ったと会長や社長らは証言している。

「原発マネー」・・・つまり関西電力の原発関連の仕事は元助役の関係する建設会社が優先的に受注し利益をむさぼっていたことは言うまでもない。原発マネーの原資は電気料金であるが、このような明らかに収賄罪と思われる案件にも司法は動こうとしない。

話は変わるが、菅原一秀経産相が地元の有権者に秘書を通じて供花や香典を配り、また「贈与品リスト」のもと数年にわたり、メロン、カニ、たらこ、いくらなどを贈り付けていた。これが事実なら有権者買収であり公職選挙法に違反する。一般人のほとんどが知っているような選挙違反を繰り返す神経はいかがなものであろうか。

安倍首相は任命責任は総理である私にあり、深く責任を感じると述べているが、安倍内閣でこれまでに9人の大臣が不祥事(犯罪)で辞任乃至は更迭されている。「任命責任は私にある」と言いながら、これまでに責任をまったく取っていない。国民を舐められているではないか。舐められながら内閣支持率が48%「そこそこある」のはどうしたことだろう。日本は不思議な国になってしまった。

それにしても、それにしても・・・「菓子折りの下の小判」は時代劇の「越後屋」もどき。また「メロン&カニ」はグルメ志向に乗っかるもの。それにしても、現代という時代の認識としてこれを許されると思っているのだろうか。時代錯誤(アナクロニズム)なる言葉は時代に適合していないことをいうが、まさにそれ。腹が立つより微苦笑を禁じ得ない。

それはさておき「菅原香典暴露」は「文春砲」の取材の力量だったが、正義のマスメディアは「文春」ただ一社だけだ。(2019/10/28)

 

703『ユトリロ・短歌』

10月22日付の朝日新聞長野版の「歌壇」に筆者の短歌が佳作として掲載された。当該の短歌をここに転載し、併せて「自歌自解」を試みたい

  ユトリロの描く街並み懐かしや

   われが前世に住みし処か  義人

「前世」とは仏教用語で三世の一。現世に生まれ出る前の世。過去世。前の世。先の世をいう。ちなみに「来世」は未来世の略で、死後の世界。未来の世。後世(ごぜ)。更にいうまでもないが現世は現在の世。この世。娑婆(しやば)世界のことである。

前世・現世・来世を仏教では三世というのだが、余談ながら、キリスト教では前世についてはほとんど言わない。輪廻転生という概念を持たないようだ。そして来世についても天国と地獄という二者択一的な考え方が多い。それも洗礼の有無が大きく作用すると、これはネットの受け売りだが・・・

話変わって、フランス語「デジャブ(既視感)」は、実際に一度も体験したことがないのに、すでにどこかで体験したことのように感じる現象をいう言葉であるが、精神医学や心理学の一部にはそれは「前世」や「脳誤」であるとする説も唱えられているという。

上記の短歌の「われが前世」の「前世」について話を広げて書いてみた。(2019/10/25)

 

702『山彦に・俳句』

10月22日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  山彦に案内されてきのこ狩  義人

「山彦」は山の神、山霊をいう。山や谷などで声や音の反響することをいう。木霊・谺。つまり樹木の精霊をいう言葉でもある。

「彦」は日子の意で、男子の美称であり、「山彦」は山の神や山霊を擬人化した呼び方である。

上記の俳句の「山彦」は、人間の声が山や谷に反響しているとも取れるし、樹木の霊の発する声とも取れるだろう。そのどちらでもよいが、その声に案内され導かれるように歩いて行くと、きのこが収穫できるという句意だ。山彦はきのこのスポークスマンだ。(2019/10/23)

 

701『長き夜・短歌』

10月9日付の朝日新聞長野版の「歌壇」に筆者の短歌が佳作として掲載された。当該の短歌をここに転載し、併せて「自歌自解」を試みたい

  長き夜の壁にかけたる能面が

    見透かすやうに吾を見下ろす  義人

「能面」は能の仮面。女・老人の役および神・霊・鬼などの役に用いる。各流派で使用される面は約百種でそれぞれ名称がある。演出効果を考えて掘り方・彩色が工夫され、一つの面で喜怒哀楽の変化に応じると『広辞苑』に載っている。

また無表情なさま、顔の端麗なさまを「能面のよう」というイディオムがある。

筆者は人と顔を合わせること視線を合わせることが苦手だった。人が何を考えているか、自分に対して好意を持っているか、それとも敵意を持っているか。あるいは、どうとも思っていない曖昧的無神経な感情をふくめ、そのいずれであるかを窺い知るすべが身についていなかったようだ。(筆者も長じて知るすべをじょじょに身につけていったのだが)

むかしは「対人恐怖症(対面恐怖症)」といったが、現在は「社会不安障害(SAD)」というらしい。「能面に見透かされる」という表現はそこから起想したものであるが、それに加えて広義の意味で人間はそもそも「原罪」を負うという意識が筆者にはある。

魚介を活き締め牛馬を撲殺して食らい蜘蛛や蝿を叩きつぶす。それを先祖代々つづけてきたという原罪だ。能面()に見透かされているという意識があるのだ。そこまでの深読みはむりだろうが、そんな意味を込めた短歌だ。(2019/10/09/)

 

700『八十路・短歌』

10月2日付の朝日新聞長野版の「歌壇」に筆者の短歌が佳作として掲載された。当該の短歌をここに転載し、併せて「自歌自解」を試みたい。

 八十路なる目覚め嬉しや五、六粒

つづけ頬張るウイスキーボンボン  義人

八十路、八十は八十歳のこと。数の多いこともいうと『広辞苑』にあるが、この短歌に込めた「八十路」の語意は「八十歳台」というほどのものだ。朝の目覚めが嬉しいのは五六粒のウイスキーボンボンを頬張れることである、というのが歌意である。

「ウイスキーボンボン」はグラニュー糖と水飴とウイスキーから作る大人のお菓子だが言葉のひびき、語音が軽やかでいかにも楽しそうな呼称である。このウイスキーボンボンを沢山食べると車の運転に支障をきたすか、酔っ払い運転になるのかとネットを覗くと喧しいが、上記の短歌は「八十路」と「ウイスキーボンボン」という二者の取り合わせの妙を狙ったもの。二者のつながりの意表さ、移りの悪さ、馴染めなさを狙ったもの。

因みに原作は「八十路でもおめざ嬉しや」で、「おめざ」の語を使いたくて起想した短歌だったが添削されてしまった。「おめざ」は女房言葉であるが、東京は山の手などの奥方に使われたのではなく、京都の宮中に仕える女性から発生した言葉とされる。いまの若い世代は知らない人が多いだろう。

添削は滅多矢鱈に行われないが・・・「おめざ」はちょいと巫山戯け過ぎたのかもしれない。(2019/10/02)

 

699『がちゃがちゃ・俳句』

9月25日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  がちゃがちゃに鳴かれ禅問答解けず  義人

「がちゃがちゃ」は轡虫(くつわむし)のこと。鳴く声が轡の音に似ていることからいう。バッタ目キリギリス科の昆虫。くだまきの別称もある。

文部省唱歌の童謡「虫の声」の歌詞には「ガチャガチャガチャガチャくつわむし」のフレーズもあり、ただただ喧しいだけの風趣のない鳴き声の虫だ。

山間の禅寺で禅問答が行われている。「作麼生」、「説破」と声が聴こえ、問答をしている老師や檀家衆は真剣な面持ち。だがしかし、寺領の庭で鳴くがちゃがちゃの鳴き声に邪魔されて禅問答に身が入らない。問答の「問」が解けす「答」が得られない。

がちゃがちゃという昆虫の風雅なき鳴き声と、禅問答の独特の滑稽さとの取り合わせの妙を表現したかったものだ。「妙」まで表現できたかどうか、それは読み手に委ねられることだ。(2019/09/27日)

 

698『斜に構へ・短歌』

9月18日付の朝日新聞長野版の「歌壇」に筆者の短歌が佳作として掲載された。当該の短歌をここに転載し、併せて「自歌自解」を試みたい。

  斜に構へ乙にかまへる吾なれど

   ごきぶり過ぎりムンクの叫び  義人

「斜に構える」は、もともとは剣術で相手に対して刀を下げて斜めに身構えることから、物事に正面から対処しない、皮肉な態度で臨むことなどをいう。

「乙にかまへる」は、正しくは「乙にからむ」変にいやみをいう。「乙に澄ます」風変りなこと、異なこと。奇なこと。味なこと。しゃれて気が利いていることなどをいう。

当該の短歌の「乙にかまへる」は「乙に澄ます」とすべきだったが、音数が足りなくなってしまうので「かまへる」の畳語で詠み込んでしまった。

さて、何事にも正面から対処せず皮肉やで、風変りで異であり味である、しゃれっ気を自負する私。そんな私であるのだが、いきなりゴキブリの出現に遭遇して「ムンクの叫び」のような叫び声を張り上げたとう歌意である。

「斜で乙な」性格であれば、「ゴキブリほいほい、どこ行くの?」とか、「往きはよいよい帰りは撲殺!」とか、気の利いた科白が飛び出していいのだが、それが「ムンクの叫び」とは?

因みに「吾」とあるが、筆者は斜に構えることも、乙に澄ますこととも無縁な性格であると思っている。ただゴキブリは嫌いで、いきなり目の前に出現したら叫ぶかもしれない。(2019/09/20)

 

697『大掃除・短歌』

9月11日付の朝日新聞長野版の「歌壇」に筆者の短歌が入選として掲載された。選者は草田照子氏、当該の短歌と選者の講評をここに転載し、併せて「自歌自解」を試みたい。

  大掃除したが失せ物みつからず

   失せ物といふ遠き想ひ出  義人

草田照子。「探し物は、目の前にあってもなかなか見つからない。見つからないと余計に気になる。見つからなくても思い出として残るという下の句がよかった」。

「失せ物」とは紛失や盗難で、なくなったもの、と辞書には載っている。辞書的には物品を指すのだが、筆者は青少年期の希望や夢など心の失せ物を表したいと作歌した。

掲げた希望や夢は叶わず、すべて失ってしまったが、しかしその想い出だけでも貴重に思える。「失せ物」という言葉をあえて二か所で使って意味を重層化させる。

「大掃除」はリアリティーを持たせるための、短歌の具象装置として措いた言葉である。(2019/09/12)

 

696『竜宮に・俳句』

9月11日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  竜宮につづく水脈あり箱眼鏡  義人

「竜宮」は竜宮城のこと。「鯛や鮃の舞い踊り」と歌にもうたわれ、深海の底にあって竜神の住むという宮殿。わが国では浦島太郎の説話によって名高い。

他方で「箱眼鏡」とは水面上から水中を透視しながら漁をする箱型の眼鏡。底部はガラスまたは凸面レンズ。覗眼鏡ともいう。三夏生活の季語。

竜宮城のほど近く箱眼鏡を覗き込んでいると、水面下に不可思議な海水の流れ、水脈(みお)がみえるのだ。この水脈はきっと竜宮城へとつながってゆくのであろう、という句意である。ロマン溢れる抒情的な世界を狙ったものだ。(2019/09/12)

 

695『虫虫する』

5ミリ大の飛ぶ虫を叩き潰した。黒っぽくて三角形のかたちをした名前も知らない虫だ。一寸の虫にも五分の魂、「御免ごめん」と独りつぶやきながら叩きのめした。

筆者、俳句を嗜むので、それなりの虫好きを装っているが内心では虫は好きではない。外皮や上翅の堅い鞘翅類(しょうしるい)、すなわち兜虫や黄金虫などは指で掴みやすいのでそれほど嫌いではないが、百足虫や青虫など柔らか系は虫酸がはしる。

そのかみ「虫愛づる姫君」がおられ、見目麗しいにもかかわらず身なり構わず、お歯黒せず眉引かず、ゲジゲジ眉毛で体臭芬芬、毛虫や蝶の羽化などの世話をしていたそうな。そんな噂に興味をいだいた物好きな公達が屋敷に忍びこんだり、都の貴公子が会いたさ見たさに訪れたりした噺が伝えられる。

虫といえば、フランツ・カフカ著『変身』の主人公のグレゴール・ザムザ氏が、ある朝目覚めたら巨大毒虫に変身していた。すなわち不条理「ザムザ虫」である。

「虫愛づる姫君」の虫を愛でる暮らしの子細を知りたいものだし、「ザムザ虫」の状態のディテールを知りたい気持ちはあるが、そのどちらも体験&経験したいとは思わない筆者だ。

昆虫は「虫けら」などと軽蔑されるが、兜虫の姿形は戦車や装甲車、百足虫の歩き方はカタビラ車、鬼蜻蜓の飛び方はエアバスの安定性、熊蜂のボバーリングはヘリコプターの動性、源五郎の水潜りは潜水艇と、それぞれの虫がそれぞれの車両や飛機や船舶の開発の原型であったといわれている。(昆虫にかぎらず、鳥類や獣類の形や動きなども車両や三輪車や工作機械や文房四宝などの原型、発想の源であったとされる)

なおオスプレイには、原型とされるこれといった昆虫や鳥類がおらず、それが原因でたびたび墜落するというリサーチがある。敢えてこじつければ雪蛍や蜉蝣の垂直に舞い上がって、なよなよと横に揺れ飛ぶさまが原型かと皮肉な書き込みのサイトもある。

話があちこち飛び散ってしまった。冒頭の「三角の虫」はインターネットで調べたら、典雅な名前の「むらさき綴り」が一番類似しているようだ。風呂場やトイレに現れる害虫とあるが大した悪行はなく、ちょい悪の虫らしい。

10センチほど廊下を飛んで叩き潰そうと狙いをさだめたら、今度は15センチほど横っ飛び。逃すものかとティッシュの手で圧殺した。死骸はほとんど跡形もなく、わずかに黒い染みをティッシュに残すだけだった。わが殺生。原罪プラスα。

このところ秋雨前線が停滞して蒸し暑くむしむしする。虫虫するのは老躯には堪える。(2019/08/24)

 

694『詩あきんど36号』

オノマトペ 夏      矢崎硯水

時の日や時は金でも眠むZZZ

昂れる汽笛しゅしゅぽぽ朱夏の旅

隕石のふはり墜ちこむ 大雪渓

相模トラフに繋がる泉こんこんと

空蝉の空耳 みんみん蝉のこゑ

風鈴りん射手座をかぶる八ケ岳

蚊火連れて幽体離脱うふふふふ

鼠花火しゅしゅ引きこもり少年期

脈拍に似てとくとくと皐月波

こころ病むモノクロ色の薔薇はらり

ピカソの鼻へ 蝿取蜘蛛ひょいと

しずしずとわたし彷徨ふ夜の秋

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擬声語(擬音語)は人や動物の声を写した

語で「きゃあきゃあ」「わんわん」の類。他

方で擬態語は視覚や触覚など聴覚以外の感

覚印象を言語音に写し表す語で「ふらふら」

「ゆっくり」の類と辞書にある。フランス語

「オノマトペ」は擬声語だけでなく擬態語を

も包括していう概念で、日本語では典型とし

て副詞だが形容動詞としても用いられる。

かたいところで業界用語や政界・極道の遣

う隠語、やわらかいところでは吉原や歌舞伎

町の遊郭・キャバクラなどの符丁の擬声化や

擬態化は数えたらきりがない。

語音の少ない俳句だが敢えてオノマトペを

持ち込み、語調の快さや逆に語調の心地悪さ

を逆手にとる表現方法もあってよい。プレヒ

トに倣っていうなら「オノマトペによる異化

効果」である。

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令和元年八月10日「詩あきんど」36号が刊行され、次のような筆者の俳句と俳文が作品Ⅰのページに掲載されたので、ここに転載する。(2019/08/16)

 

693『さねさし7号「孑孑」』

四吟非懐紙「孑孑」の巻       矢崎硯水捌

  孑孑のタクトや沼の演奏会        矢崎 硯水

   岸辺に茂りそよぐ青葦         中尾 美琳

独り旅目当ての駅を乗り越して      竹村 半掃

まどろむ夢に君の名を呼ぶ       佐野典比古

  ポケットの指輪にそっと触れてみん       美琳

   慈愛に満ちる聖母観音            硯水

  産声の双子デュエット今日の月        典比古

   インスタ映えはサフランの束         半掃

  酔うほどに幽体離脱はじまりて         硯水

   キリマンジャロの頂に立ち          美琳

  竪琴のひびき渡れる草の原           半掃

   土砂降りの雨嘶ける馬           典比古

  マクベスの魔女の企み身も凍り         美琳

   生殺与奪冴える忖度             硯水

  あやまちは繰り返しますきのこ雲       典比古

   地球の螺子はぐらぐらと揺れ         半掃

  こころ病み危なっかしい指南力         硯水

   ペットの鸚鵡うらら「そだねえ!」      美琳

  散る花を手に受けながら笑いこけ        半掃

   時の流れに春惜しむ宵           典比古

2019年6月1日起首

2019年6月17日満尾

留書             矢崎硯水

孑孑(ぼうふり)がタクト(指揮棒)を振るような身動きで水中を浮沈し演奏会が始まった。岸辺には青葦がそよぎ、演奏に唱和するかのようだ。目当ての駅を乗り越してしまった独り旅の男は、まどろむ夢のなかで女性の名を呼び、サプライズのための指輪に触れて状況確認する。

あれこれあって、酔うほどに身と心はばらばらになって幽体離脱。霊魂はキリマンジャロの頂までふっとぶ。竪琴のひびきや馬の嘶きに情景も心象もめまぐるしく変化し、魔女の企みに凍りつく。嗚呼、生かすも殺すも何もかも忖度の世になってしまった。人間は愚かなもので、あやまちは繰り返します。きのこ雲。

それからあれこれあって、ペットの鸚鵡が「そだねえ」。箸がころんでも散る花にも笑いこける若さ。時の流れに身をまかせ、春惜しむ宵だった。

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このたび「詩あきんど」36号の合併連句研究誌「さねさし」7号が発行され、上記の非懐紙「孑孑」の巻と留書が掲載されたので併せてここに転載する。(2019/08/16)

 

692『さねさし7号「瀬を迅み」』

非懐紙「瀬を迅み」の巻       付廻し

瀬を迅み虹鱒の斑の見え隠れ       矢崎 硯水

はね石ねらう日焼した腕        佐藤ふさ子

目標は少し高目がほどよくて       八尾暁吉女

磨き掛けましょ美貌教養        夷藤ゆう子

菊合いずれ甲乙つけ難く         杉本さとし

すでに夜寒の声はかぼそき       佐野典比古

後ろよりそっと肩抱く望くだり      山本 秀夫

勇気をくれた友の励まし        嵯峨澤衣谷

出家する心決まりて安らけく       城  依子

   折も折とてキーン昇天            硯水

  不死鳥の幻よぎる富士の嶺          ふさ子

   すべてのものに降り積もる雪        暁吉女

  闘病の母に笑顔の春隣            ゆう子

   豪華クルーズ揃う横浜           さとし

  今日もまた大活躍の麻薬犬          典比古

   令和の御世は如何になるらん         秀夫

  受け月に銘酒をそそぐ花の宿          衣谷

   聞いた気がする亀の看経           依子

2019年4月11日起首

2019年5月9日満尾

留書            矢崎硯水

非懐紙「瀬を迅み」の巻は「付廻し」という方法で巻き上げた一巻である。付廻しは付ける順番がきたら一句付けて次に廻すやり方が多いが、この巻は私の運営するホームページに連衆さんは句案を三句提示し、次の方が一句選んで治定する方法をとった。

私はページ上に句案を書き込んだり削除したりする執筆の役目だった。したがって連衆さんという言葉は当てはまらず、全員が付け手にして捌き手という立場であり、この辺で月花や恋の句を詠むとか、神祇・釈教・地名・人名・水辺などの題材を出すべきとか、後半に廻すべきとかそれぞれが考えたのであろう。

「出家」をうけて「キーン昇天」から「不死鳥の富士の嶺」の三句の渡りと、「豪華クルーズ」より始まる「亀の看経」までつづく五句は「令和」や「銘酒」も出て味わい深く、牽強でなく隙間もなく捨てがたい付け運びと思うがいかがであろうか。

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このたび「詩あきんど」36号の合併連句研究誌「さねさし」7号が発行され、上記の非懐紙「瀬を迅み」の巻と留書が掲載されたので併せてここに転載する。(2019/08/16)

 

691『翡翠・俳句』

8月7日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  翡翠の翔ちて小さき虹生まる  義人

「翡翠」は『広辞苑に』「ブッポウソウ目カワセミ科の鳥。スズメより大形で、尾は短く、嘴は鋭くて長大。体の上面は暗緑青色、背・腰は美しい空色で、「空飛ぶ宝石」とも称される。清流の指標種とされ、水中の小魚をとる。巣は崖に横穴を掘ってつくる。ヨーロッパ・アジアに分布。なおカワセミ科は世界に約九十種。ヒスイ、ショウビン、ソニドリ。季・夏」とある。

句意あきらかで説明を要しない。翡翠同様「虹」も夏の季語であるが、筆者のなかで翡翠と虹とは切っても切れないイメージだ。単なる情景の描写ではなく、筆者にとって生きるよろこびの心象風景だからである。(2019/08/08)

 

690『糸とんぼ・短歌』

8月7日付の朝日新聞長野版の「歌壇」に筆者の短歌が佳作として掲載された。当該の短歌をここに転載し「自歌自解」を試みたい。

  糸とんぼ川辺の草を縫ひながら

    岬めざして飛べる夕暮れ  義人

「糸とんぼ」は「イトトンボ科のトンボの総称。普通のトンボより小形で、体長四センチ以下、体は細く、静止時は翅を背上に合せる。池沼の草むらに多い。トウスミトンボ、トウスミ、灯心蜻蛉。季・夏」と『広辞苑』にある。

歌意はすぐ解るもので説明を要しないが、も一つ用語に説明を加えると、「岬」は多くは海中に突き出した陸地のはしをいうが、湖中に突き出したそれもいうと、これも『広辞苑』に載っている。

糸とんぼの棲息環境からして、「海中」では不自然であり「湖中」でなくてはならない。

この頃ほとんど見かけない糸とんぼだが、筆者大好きなとんぼで少年時には翅を優しくつかまえ、そっと逃がして遊んだものだ。

「糸とんぼ運針のごと草を縫ふ」という俳句も詠んだ。(2019/08/08)

 

689『れいわ新選組』

この度の参議院選挙において、れいわ新選組の比例区から立候補した舩後靖彦氏と木村英子氏の二人が当選した。両氏とも重度障碍者で国会議事堂に登院するための特殊車いすの通路や、議事採決の賛否のための手動法などをめぐるニュースがテレビに流れていた。健常者中心の「国会という密室」に登院するは生易しいことではあるまい。

二人の重度障碍者が参議院議員になって国会に登院することは、日本の国政において嘗てないこと歴史的なことである。壇上で演説したり拍手したりは出来ないだろうが意見は発信可能と思われる。むろんそれは大切だが、たたそこにいるだけ、その場に存在するだけで意義がある、主張があるだろう。

れいわ新選組代表の山本太郎は凄いことをやってのけた。国会における多数の健常者(711人)に対し、その対極たる重度障碍者(2人)を送り込んだ。この圧倒的いびつなバランスが住み難い不幸な社会を象徴している。富者と貧者のバランスという点においても。

山本太郎はそれを国民に気付かるため二人を送り込んだのだ。二人は「人間マニフェスト」だ。穏やかな政治革命、穏やかな社会革命だ。

与党は腐りきっているが、野党もまたばらばらで国民の負託に応えられない。閉塞感がただようが、閉塞状態にあることさえ気付いていない国民が多い。山本太郎という現象、N国という現象。大変な困難な先行きではあるが一つの風穴として応援したい筆者は思う。(2019/08/02)

 

688『ヨットの帆・俳句』

7月31日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が入選として掲載された。当該の俳句と選者の仲寒蝉氏の講評をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  ヨットの帆傾き山湖かたむきぬ  義人

「山湖が傾く筈はないのだが傾いたヨットに合わせて身体を傾けて見ていると、まるで山湖が傾いているような錯覚に陥るのであろう。物の見方がユニークで面白い」仲寒蝉氏。

寒蝉氏の講評で言い尽くされ「自解」するところもないが、こうした錯視、錯覚は、大きさ長さ方向などが客観的なそれらとは違った見え方を生ずる現象をいうのだが、ときによってはそれが正当と解釈され評価される危険性もある。

心理学用語である錯視や錯覚は、実社会において俗に「思い違い」と認識され、大した間違いでないという軽率さが重大な事故につながりかねないこともある。そうした事案は枚挙にいとまがない。山湖が傾いて見えたのは詩的錯覚で済ませされるだろうが・・・(2019/07/31)

 

687『ひきこもり・短歌』

7月31日付の朝日新聞長野版の「歌壇」に、筆者の短歌が入選として掲載された。当該の短歌と選者の草田照子氏の講評をここに転載し、併せて「自歌自解」を試みたい。

  ひきこもり老人などと噂され

    孤独好きには住みにくき世ぞ  義人

「孤独好きの作者は「ひきこもり老人」という言葉にこだわり、同時にそこに社会への批判がある」草田照子氏。

内閣府の調査によりと15歳から39歳までのひきこもりは54万人、50代から80代の中高年ひきこもりは61万人とされ、併せて日本はざっくり100万人の「ひきこもり大国」といわれる。

『広辞苑』には「引き籠る」があり、退いて内にこもる。閉じこもる。ひっこもる。家にーーる、と載っている。社会現象的にいう現在のいわゆる「ひきこもり」の言葉は収載されていない。(新刊の広辞苑については不明)

たまには外出しても、多くの時間を家中にあって読書したり、趣味に没頭したりする人間を含め、十把一絡げにくくる風潮が筆者は嫌いなのである。内閣府がどんな区分けをしたか知らないが、この伝でいうとヘミングウェイは例外だが、日本の多くの文豪はひきこもりだろう。

筆者もきっと、ひきこもり老人のカテゴリーに入れられているに相違あるまい。61万人のなかの一人だ。(2019/07/31)

 

686『けふよりは・俳句』

6月12日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句がトップ入選として掲載された。当該の俳句と選者の仲寒蝉氏の講評をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  けふよりは令和の雉となりて鳴く  義人

仲寒蝉氏「令和の俳句は山ほど作られているしこれからも量産されるだろう。この句の面白さは、令和になった瞬間に人間社会のみならず、自然界の雉ですら令和の雉なのだと言ってのけた点だ。雉が国鳥であるだけにめでたい」。

「ある鳥」を「雉(きじ)」と命名し呼称する。そう決めてしまえば、それは確かに「雉という鳥」であるだろう。

そして人は、平成の世の山間に現れた雉とか、令和の世の山間で見た雉というであろう。その時代に現れそれを見たという意味だが、雉にとっては平成も令和も関係ないのである。元号という「レッテル」によってまるで雉の姿形が変わるかと思われるような、そんな感じ方があるのだ。

ついでながら、こんな俳句も作句した。

「厩(まや)出しの馬は令和の野を駆くる」「平成の土筆令和となりて摘む」「メーデーやみんな令和の顔をして」。(2019/06/13)

 

685『撫で仏・俳句』

5月29日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  撫で仏そっと撫でれば風光る  義人

「撫で仏」とは「賓頭蘆(びんずる)の別称。その像の患部に相当する部分を撫でた手で患部を撫でれば、病気が平癒するという俗信がある」と『広辞苑』に載っている。

長野市の善光寺や別所の北向観音の「賓頭蘆尊者像」がとりわけ知られるが、筆者残念ながら未だ拝したことはない。したがって掲句は想像乃至は願望の俳句ということになる。

馬齢をかさねると体中痛いところだらけ。痛くないところを探すのが至難の業と思えるほどだ。手足で重篤なのが両肩の痛み。ホームドクターに往診を頼み、痛み止め一日2回。首筋の凝り痛みには湿布。背中と耳裏の痒みにはユースキンI。etc.etc.

おっとっと。書き忘れるところだった。もっとも病めるところ重篤のところは「頭」だ。物忘れがひどく、元気に生きている俳句の友や町内の旦那さんを「あの人、死んだっけ?」と家人に訊いたりする。だから先ずは撫で仏の「頭」を撫でなくてはならん。

「風光る」は、春の陽光は明るいので、吹く風も光って眩しく感じられることをいう三春・天文の季語。風が光るわけはなく、飽くまでもそのように感じたという視覚的錯誤を表現している。むろん春の心弾む気分を言い表しているのだ。

撫で仏のある患部をそっと撫でた。その折も折、吹く風が光ったように感じられた。きっと自分の患部もまもなく平癒するであろう。そんな希望が持てたという句意である。(2019/05/30)

 

684『第四回晋翁忌2019俳句俳文大賞』

第四回宝井其角顕彰「晋翁忌」2019俳句俳文大賞において、筆者の二十句詠『虚と実と・カメレオンパロール』が準賞に選ばれ「詩あきんど」35号に発表された。その作品をここに転載させていただく。因みに選考委員は二上貴夫氏、宮崎斗士氏、星野高士氏による、大賞1編、準賞2編、入選7編。なお応募作品は「俳句」42編、「俳文」18編、合計60編だった。

『虚と実と・カメレオンパロール』

初旅の泊り 白亜紀アパホテル

パイレーツトランプ避ける宝船

星座やや傾くだけよ去年今年

賽投げられて 双六道行かん

俳諧のおどけわびさびねぢあやめ

龍天に登るトリックアートです

新冷戦 ホバーリングの熊ン蜂

てふてふの口吻 世界くるりんぱ

形状記憶白服を着て乾杯す

躁過ぎて鬱のわたくし青みどろ

氷菓舐めロボットカフェの窓の星

ドローン飛んで風知草揺れる

花圃といふ言葉のなかの花たちよ

自分似の人すれ違ふゐのこづち

蜉蝣に透ける女のミオ・アモーレ

黒い霧流れ 囮は鳴くほかなし

小春日がつづけば鸚鵡返しせず

石仏の鼻ひん曲がり枯野暮れ

吊るし切り鮟鱇暗愚押し通す

日脚伸びアンモナイトの紋歪み

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上記の『虚と実と・カメレオンパロール』の二十句の「自句自解」は控えるが、表題「カメレオンパロール」(筆者の造語)について少しく触れておく。

近松門左衛門『難波土産』に見える「虚実皮膜」の語は、芸は実と虚との皮膜の間にあるということ。事実と虚構との中間に芸術の真実があるとする論である。

バーチャルリアリティーという言葉があるように、人間の心理や意識においては事実が事実ゆえに真実で、虚構が虚構ゆえに真実ではないといえるだろうか。筆者の創作&詩作の立脚点は、事実(体験や見聞)と同一線上に虚構(空想や絵空事)があること、それがすなわち真実。詳しくいうなら「詩的真実」だと考えてきた。

爬虫類「カメレオン」は体色を自在に変えられ、大きな眼は左右独立して動き、別々のものを見ることができる。長い舌を持ち、これを伸ばして昆虫などを捕食する。長い尻尾を樹枝などに巻きつけて吊りさがる。

「パロール」はフランス語で言語活動。言語をいう。言葉(事物)はさらに加わる言葉(事物)によって体色を変え、つづいて措辞される言葉(事物)によって左右の別々のものが見え、長い舌で心象を捕食し、樹枝に余情を巻きつける。

「カメレオンパロール」とは、言葉の捉え方によって虚実の様相が異なって見えることの比喩である。俳句が風景描写や生活諷詠だけに終始せず、俳句という文体に新しい文芸装置を施す。この時代には、そうした表現手法の変幻さが求められていると思えてならない。(2019/05/22)

 

683『詩あきんど35号』

『枕詞 春』

足引きの山並み何を笑ふらん

かむかぜの素粒子踏んで伊勢参

百足らず八十爺 朧となりぬるを

片糸の縒れる蚕のシュール図絵

柞葉の亡母へのエイプリルフール

乳の実の亡父に会ふなり喜見城

赤ら引く皮膚よ白酒召して萌え

旨酒の三輪暴れん坊 晋翁忌

水篶刈る信濃佐保姫コスプレなう

梓弓射るカーニバル 射止め

行く舟の過ぎる白魚の踊り喰ひ

魂極る世のざれ歌や三味線草

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枕詞はそのかみ歌文に見られる修辞法で、

特定の語の上にかかって修飾または語調を整

えるために用いることば。転じて「前置きこ

とば」であり、落語家などが初めにつける短い

話を「枕をふる」という。

枕詞の歌文はそれなりに典雅だが、わたし

が枕詞を用いての俳句はおどけ諧謔、イロニ

ーや批判性を狙ったもの。しかも枕詞にかか

る用語が離れていたり英語だったりするが、

その辺はご寛容あれ。

とまれこうまれ、苦吟のわたしの頼みは「

枕詞頼み」。取り掛かりがあると何とかなる

もので、一説に千例といわれる枕詞の代表的

な二百数十例から選んで詠んでみた。夙に知

られる用例に加え、知名度のそれほどでもな

い枕詞への応援歌でもある。

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俳誌「詩あきんど」35号に筆者の俳句13句と留書が発表された。このコラムに転載させていただく。

また「前号34号よりの抄出」として、筆者の次の4句が3選者により再録されている。

和田波流選「寒灸を据ゑなん俳のたん瘤へ」「むくつけが笛を鳴らすか破れ虎落」。竹中しづり選「うつし世の仮面土偶の煤払ふ」。竹村半掃選「立冬や真白きチョーク一直線」。

「詩あきんど」巻末の連句交流誌『さねさし』には、筆者捌の非懐紙「陽炎」の巻、非懐紙「鳥帰る」の巻の2巻が留書とともに掲載されている。以上報告まで。(2019/05/13)

 

682『令和を改めましょう』

せっかくだが、令和はなじめない。なじめないだけでなく嫌いな元号だ。令は戒厳令の「令」であり、和はアントニム「戦」であり、国民の血塗られた歴史や認識から離れられない措辞である。和のつく「昭和」の太平洋戦争を経験してきた世代にとっては、ぞっとする「和」の語のカムバックに思えてならぬ。

新元号を誰が考案し誰が決めたのか藪の中だったが、さすがに逃げ切れなかったのか、中西進氏が考案者であることを事実上認めたと朝日新聞に載っていた。

『令は「麗しい」、和は「平和」「大和」を指すとし、令和は「麗しき平和を持つ日本」という意味だ。麗しく品格を持ち価値をおのずから万国に認められる日本になってほしい、との願いが込められている』。また元号案の提出については、『何年か前から(政府側に)いろいろと条件を伝えられていた。役人に使役(しえき)されていた』とも述べている。

令には「令月」めでたいとか、「令徳」よい評判とか「令嬢」お嬢様とかプラスイメージもあるが、命令、辞令、坊令、掟など国家や権力からの強制的な縛りというイメージがきわめて強い。「麗しき平和を持つ日本」などと呑気に言っていられまい。

それはともあれ、令和にしようと最終決定したのはどこの誰であろうか。閣議決定と言い条、それまでの多少の情報漏れというか、敢えてのリークというかは、歴史の折り目の「役得」にしようとする政治家個人の企みが働いてのことか。

令和の出典は国書の『万葉集』だと発表しながら何のことはない、実は中国の代表的な古典『文選(もんぜん)』からの孫引きだったという。国字の漢字は中国からのものなのでそれは仕方がないかもしれないが、そのときの政府や官邸、その意向を汲み取ったり忖度したりした国学者考案の元号を、強要させられる国民はたまったものではない。払拭しがたいマイナスイメージがつきまとう元号であれば猶更のこと。元号の決め方についても物申したい。

明治天皇の父である孝明天皇は6回も元号を変更したという。この度の元号も改元してほしいものだ。さしずめ筆者は「万保」でいいよ。(2019/05/10)

 

681『平成から令和へ』

平成が去って令和がきた。元号が変わったのである。新聞一面には初号活字がおどり、テレビはNHKも民放も連日にわたって天皇退位(上皇)と新天皇(皇太子)の即位の話題で盛り上がっている。平成天皇は御隠れではなくご隠居退位なので、おめでたい典範に属するから祝福すべきだろうが、それにしてもこのはしゃぎようはいったい何だろう。

一部の巷の現象として、平成最後のラーメンだと叫んでラーメンを啜る若者や、令和元年5月1日に合わせて婚姻届をだすカップルなど、これらに類する情報を流しつづけるマスメディア・・・

単純に調子にのって大騒ぎしているように見えて、本当にそれだけのことだろうか。何かが少しおかしい。何かがばれないように、何かを隠さんとして不自然にはしゃぎまくっている。そんな空気が感じられてならない。

必ずしもその筋の企みでなくても、一般人のなかに潜む禍禍しいものを覆い隠そうとする心理というか、触れるのが怖い前意識に突き動かされるところがありはしないだろうか・・・

「平成の30年間」はどんな時代だったか。バブルがはじけ、アメリカの尻馬に乗って恥をさらした湾岸戦争&イラク戦争。先進国30ヶ国中の貧困率が4番目に高くなった日本。貧富の格差が大幅に広がった。官公庁の公文書隠し&改ざんが行われ、モリカケなど忖度という煙幕を張った贈収賄事件が多発したが、それらはすべて有耶無耶のままだ。

日本国1100兆の大借金や捨て場所のない核のごみ問題。安保法案や国会議員の憲法違反などがつぎつぎと思い出されるなか、臭いものに蓋をして平成のファンファーレを高らかに鳴らしてよいものだろうか。

令和は間違いなく前途多難の時代だろう。「平成の負の遺産」をひきずりながら、アメリカ&ロシア&中国の「新冷戦」に対応しなければならない。人口減少、AI、ドローン、浮かれている場合ではない。

雅子妃時代、皇室外交よりお世継ぎを生むことが先決だと人権を傷つけような「お世継ぎファースト」のプレッシャーをかけた。女性天皇をなかなか認めず、男尊女卑につながりかねない皇室典範を動かすことをためらう宮内庁乃至は一部の政治家の思惑でもあるのだろうか。

一部一般人の愚かな脱線はともあれ、マスメディアの眼が批判性をうしなって、一方向しか見ていないような部面に危うさを感ずるのは筆者だけだろうか。(2019/05/03)

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692「さねさし7号「瀬を迅み」」
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