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コラム 「その12」

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『甘い石』240

隣り合って二つの集落があり、集落のはずれの崖っぷちに獣道のような細い道がつづき、その道の先に糖分をふくんだ石がある。人型をした、大きさも大人に近いほどの石で誰でも見ることはでき、糖分に興味のない庶民にはただの巨石に過ぎない。ところが二つの集落の12人の男衆にかぎって、特殊な刃物をつかって石を削り取ることができる。糖分にあやかることができるのだ。

石は誰のものでもない。だがしかし、自然の産物で、みんなのも。12人のうちの何人かが夜陰に乗じて、藪をかきわけて小径をすすみ、石を砕いて削りとる。いついつ誰が、ということは分からないが、石には削り取った痕跡が残っている。集落の長(おさ)は集会において、「石を削り取ってはまかりならぬ」と伝布する。それでも石削り、つまり「糖分泥棒」は後をたたない。

ことの根絶は難しいことでなく、一本だけしかない小径を封鎖する。フェンスなり板壁で道をさえぎって、通行できなくすればよい。じつは数年前にそれを実行、廃材で壁をつくり、板壁には通用門もつくった。門扉には南京錠もつけ、南京錠は村長が管理した。

だが、「糖分泥棒」はつづくのである。12人の誰かであることは推察できるが、特定はなかなか難しい。12人を除く集落の人たちは石の削り方も糖分の精製の方法も知らないし、どうでもよろしいことである。ところが集会や瓦版の話題は、12人の盗賊のひそひそ話と、村長の弁解話になってしまう。どうでもよろしいことが集落の集会のメインテーマになってしまうのだ。

なんでも村長が、南京錠の保管場所を12人の誰彼に教えている。また12人のなかのある1人に、精度のよい石工用の刃物を手渡した。そんな噂がまことしやかに流れる。そんなことで集会がもめにもめるのなら、門扉も南京錠もやめ、小径を完全遮断すればことは難なく終息するはず。明々白々な解決方法がありながら、あえてそれをとらないのはなぜか。

ああ、そんなこと、そんなことあるな、そんなことだろうな。

プロ野球のドラフトに「希望枠」があって、高校や大学の選手時代から「栄養費」という甘い汁を吸わせる球団がある。有望選手を手なずけて自分のところに入団させること。最近では西武の不正が露見して話題になった。オーナー会議で、「希望枠」は裏取引の温床になるから中止しようという意見が12球団意見の大半を占めた。ところが1球団(他に2球団は消極は反対)だけが反対し、コミッショナーは1球団(巨人)の意見に押し切られ、次の年度まで残すことになってしまった。こんな民主主義ってあるのか?

ことはプロ野球だけでなく、そんなこと、そんなことあるな、そんなことだろうな。政界でも、連句界でも、町内でも。

とまれこうまれ、その後「希望枠」は、庶民の反対などがあって撤廃した。きょうはセントラル・リーグが開幕する。(07/03/30)

 

『さよならはいらない』239

 【さよならはいらない

さよならはいらない 旅立ちにさよならはいらない

阿弗利加象はくずおれて密林のブッシュをさ迷い 蜂鳥は岩場のケルンに疵ついた羽をやすめ 熊之実はちぎれた尾鰭をサンゴ礁に震わせる それぞれが死に場所をきめて身を横たえる 自然の営みのなか仄暗い密やかな臥所で 肉はにく 骨はほね 羽ははね 鱗はうろこ 魂はたましい かたちあるものは土に還し海に還し たましいは天に還して・・・

わたしは風に吹かれて風になり 星に照らされて星になり 涛に流されて海になる 今日わたしはたましいの象 明日わたしはたましいの鳥 明後日わたしはたましいの魚 わたしのことは気遣わないで哀しまないで わたしのたましいは莞爾として旅立つのだから 幽明はすべて地つづき コスモスはすべて天つづき 旅立ちにさよならはいらない

旅立ちにありがとう 皆さんにありがとう 身近なあなたにありがとう しがらみをかなぐり捨てて旅立つ日 風にありがとう 星にありがとう 海にありがとう こころを運んでくれた、いとおしい吾が四肢へ わたしのたましいからの言葉でありがとう さよならはいらない

 (Y・Y 著す)
 (07/03/22/大安) 
(16/08/13/一部削除&加筆)

 

『連句制作現場から』238

はやり歌の歌詞のはじめに、自分好みの歌詞を付け加えて歌ったことが問題になっている。噺でいえば枕のようなものであるが、歌詞の改変ということが非難されている。ワイドショーを賑わしている「おふくろさん」という流行歌のことだ。

歌詞であろうと、落語であろうと、原作が存在するものを自分勝手に直したり、付け加えたりしてはならないのは当然だ。著作物には権利があり保護されている。無断での改変は許されない。

ところで「改変」に関してだが、連句の付句の改変は許されることである。連句は宗匠という捌手がいて、連衆という立場の制作者が付句を提出する。その句が作品の流れのなかで巧く治まればいいのだが、ときには全体をぶち壊してしまうことも。そんな場合には、提出された付句を捌手の一存で直す。連句では改変とはいわず、一直(いっちょく)という。

また作品が満尾(まんび)してから、つまり出来上がってからも冷静に眺めて、ある付句が作品全体の足をひっぱってしまう瑕瑾がみつかる。そんなときは、その付句を作り換えたり差し替えたりする。それは校合(きょうごう)という。ときには連衆の提出した「原案」ではなんとも致し方ないので、捌手みずからが「応援」の句を作って連衆の名で治める場合もなくはない。

連衆も付句が変えられても文句はいわず、むしろ一直してもらい、応援してもらったことに感謝する。それによって作品レベルが向上するのなら自分を出さない。

共同制作である連句は「出来上がった作品」がすべてである。そんな「制作構造」は映画やオーケストラに類似している。役者や技師や楽士や指揮という「個体」でなく、ひたすら出現する「全体」なのである。それは連衆としての固体を主張しない、我を通しては成り立たない文学ということでもある。

筆者は連衆の方に対して、付句は直します、完成してからも直しますよ、と最初に伝える。それでも機嫌をそこねて去ってゆく人もあった。去る者は追わないが、とりあえず捌を信じて・・・。自己を出したいならみずからの手で捌いて・・・。といいたい。

(式目や禁忌を顧みず、連衆の付句をそのまま付けた作品をインターネットなどでみかける。当人たちは満足かもしれないが、文藝として価値があるだろうかと思わざるを得ない)

連衆である門弟が、「助詞一字が使われていたから、余は満足じゃ」といったそうだ。むかしも当然ながら、宗匠は「原案」を大幅に変えていたのであろう。連句制作現場は、そういうところである。そういう世界を筆者はマイナスには捉えていない。自己主張や権利をふりかざす現代人にはなじめない部分もあろうが、共同制作という仲間による連帯感、アンチデモクラシー、そこではすぐれて「無私」であることが、いま逆に注目されているのではないか。

歌詞の改変や付け加えと、付句の見直しとは立脚点を異にしている。そもそも作品の成り立ちが違っているだろう。

ただ連句も作品集として発刊されてものは、その全体はむろん付句の一句一句にも著作権が発生する。無断転載や使用は著作権の侵害になる。付句をそっくり使うことは盗作になる。念のため。(07/03/10)

 

『暖冬・鳥類』237

この冬は暖かだった。暖冬という言葉はこれまでにも使われたが、これほどまでに的確さをもって伝わったことはない。筆者の体感でもこんな温暖な冬はかつてなかった。

一応雪国である当地だが、二回ほど数センチの積雪を見たものの、それも春の淡雪のようなものですぐに解けてしまった。何でも当地気象台によると、わが地元ではこの冬「真冬日」が観測されなかった。平均気温も1・9度高かったという。

この暖冬はむろん当地のみならず、全国的な現象だったことは、報道などによって知られるところ。北九州や秋田や兵庫、富山などの連句の友のコメントもそんな文面だった。どうなったのだろう、どうなっていくだろう、地球は。次の冬が思いやられる。

富山の女流俳人の庭には、ヒタキ、シジュウカラ、ヒヨドリ、スズメ、カラスが訪れるという。ヒタキは草取りに合わせて拍子をとるような鳴き方をする。おかげで草取りがはかどったとか。

兵庫の連句の女流の庭には、メジロ、ウグイス、ヒヨドリ、キジ、スズメが遊びにくるという。相当広い庭なのだろう、数羽できて鳥同士がスクランブルをかけるそうだ。

ところで筆者の狭庭には、ヒヨドリ、シジュウカラ。ときどきヤマバト、カワラヒワ、スズメ。シーズンに入ればツバメ。そんなところだ。以前にはキジ、ウグイス、モズ、オナガなども庭木に止まって鳴いていたものだが・・・。

地球温暖化と、鳥の種類とか多寡とか棲息とか、「鳥事情」は間違いなく関係していると思うのだが、調べているわけではないので分からない。むろん温暖化だけの原因ではないだろうが、鳥にとって生き難い環境、それとは逆に、生き易い環境というものがきっとあるだろう。

最近ヒヨドリが盛んに鳴きたてる。ペアが波状に飛翔し、追いかけっこをしている。巣作り、子育ての時季によく見られる光景だ。いくら暖冬といっても昆虫や花蜜は未だないだろうから、それは考えられないが。(07/03/02)

 

『爺ちゃんポスト』236

目が覚めると、私はポストに投函されていた。投げ落とされたのに痛みはなく、ポストの底には柔らかな布団が敷き詰められ、寝心地はわるいものではなかった。とりあえず深呼吸をひとつ、これで万事よかったのかもしれない。

しばらくするとドサッと音がして、再び投函される。こんどは私でない誰かであった。呆けたとは言い条、これでも私か、私でない他人かは判別・認識できるつもりである。私は男である爺ちゃん、後から投函されたのは女、婆ちゃんであることも判別・認識できるつもりである。

爺ちゃんも人間なら婆ちゃんも人間、それなのに「郵便物」のようにドサッと投げ込まれる。そんな仕打ちに不満があるかというと全く逆で、さっぱりした気分、あっけらかんとした気分。人間が物体になることはこんなにも気楽なことか、愉悦であったかと改めて思わずにはいられない。

広いとは言いがたいポストのなかには爺ちゃんと婆ちゃんが折り重なっているのだが、体温がないのか温もりが感じられず、お互いに感情らしきものが失われている。いずれ分別され食餌にもありつけるのだろうが、性差や空腹を感じなくてすむことは有難いことである。お互いに「物体ぶって」いればいいのであり、言葉がいらないというのは何と清清しいことだろうか。・・・・・

・・・・・以上のような夢をみた。うそっぽい夢の顛末だ。爺ちゃんを捨てる噺はきかないが、婆ちゃんを捨てる噺はある。田毎の月の長野県北部の姨捨山は、婆ちゃんを捨てる噺で知られる。大和物語や今昔物語にも載っている。「楢山節考」もある。

しかし本当は爺ちゃんが不用品で、婆ちゃんは使い道がある。使い勝手がよろしい。爺ちゃんを捨てる噺がないのは男尊女卑が大きく影響しているらしいのだ。とまれこうまれ、私はポストに投函されることに異議を唱えたりはしない。「敬老」などという言葉はバブルのような一時代の戯言だと思っている。

こんな夢をみたのも「赤ちゃんポスト」が頭のどこかにあったためだろう。外国の例で赤ちゃんポストの投函は少ないらしいが、「爺ちゃんポスト」が出来たとして投函は大変な数量になるだろう。(07/02/17)

 

『投稿誌・同人誌・など』235

・ 更衣へ出づれば湖の風寒し

これは1951年6月、約56年前の筆者の俳句である。「南信日日新聞」という、地方紙の俳壇に掲載されたもので選者は小平雪人氏。雪人は慶応義塾に通って福澤諭吉にも学んだといわれ、筆者宅から徒歩で3分くらいの町に庵をかまえていた。当時年齢は85歳くらい、元句の跡形のなくなるほど添削する先生だった。つづいて次の句が入選した。

・ 湯殿から見ゆる田面や飛ぶ蛍

・ 香木のいぶるいろりや五月雨

それから1年後に、「さんけい新聞」の全国版の俳壇に、

・ 転べば向日葵の下八ヶ嶽 (語頭「寝」が脱字)

・ 夕の園かまきり親子怒りをり

・ 桐一葉門に吹かれて善光寺

が掲載され、選者は皆吉爽雨氏だった。さらに一年後には同じく爽雨選で一箇月に千数百句の応募(と発表)から、下記の句が第一回の月間受賞作品となった。

・ 万緑の崖下に住み蜂を飼ふ

賞品は高級万年筆(ペン先の太い、護謨のスポイトでインクを入れる形式)で、いうまでもなく大変うれしく、これは10年以上も愛用した。新聞社に筆者の住所を問い合わせたか、千葉の人からファンレターがきた。

筆者は8歳ころから句を作っていたらしいが、14歳には別の地方紙に年齢とともに掲載された。その資料は紛失してしまった。他でもない最近大片付けをし、すでに自分で整理してあった俳句や短歌、現代詩や掌編小説のスクラップブック、切抜きを貼ったアルバムや原稿がみつかった。今後読まないであろう書物や文芸雑誌は業者に依頼し、資源ごみとして小型トラックいっぱい搬出してもらったが、想い出の「詩歌のスクラップ」は捨てられなかった。

15歳から3年間くらいは死に物狂いに俳句、短歌、川柳、詩、小文を書きなぐり、「南信日日新聞」、「さんけい新聞」のほか、「文章倶楽部」、「オール新文芸」、「全逓しんぶん」、「全電通」、「小西六タイムズ」など手当たりしだいに投稿する投稿マニアだった。

「文章倶楽部」はスポンサーもかわり、誌名も「世代」、その後さらに「現代詩手帖」となって現在も刊行されているが、前身は大正末期から昭和初頭にかけて文学登竜門として夙に知られる雑誌だった。筆者はここで詩歌や小文や小説などせっせと投稿して常時入選し、常連といわれるようになった。俳句部門では宇田零雨氏、小説部門では野間宏氏に推挙してもらったことが、その後の大きな自信につながった。

その当時、あるいはそれから数年にわたって係わった同人誌は「文藝山形」「文芸首都」「詩人会議」「域」「交差」「エウメニデス」など。記録として、ここに書き置きたい。(07/02/09)

 

『流行かぶれ』234

「フードファディズム」(食の流行かぶれ)という言葉がある。食べ物が健康や病気に与える影響を、過大に評価することをいうそうだ。単品の食材でやせるとか、健康になるとか、おおげさに吹聴して流行らせようとすること。専門家をまきこみ、テレビの朝・昼・夜の番組で繰り返されてきた。最近では「あるある」がマスコミを賑わしている。

医学をテーマにした番組でも、タレントを検査・診察して余命いくばくもないとか、このままでは重篤な病気になるとか、にわか診断している。根拠となるものが信頼できるのか、医者がかかわっているので嘘っぱちではないだろうが、素人ながら疑問符をつけたくなるものもある。こちらは「病の流行かぶれ」というべきか。

健康も病気も気をつけなくてはならないが、健康であることが最終目的ではない。病気にならないことが究極の目的ではない。長生きだけに意味あり、と考える人もいようが、少なくても筆者は遣りたいことがあって、それを目的・目標にしている。健康を望んだり、病気にかからぬよう願ったりするのも、あくまでも目指す目的・目標あってこそ。・・・

「食の番組」「医の番組」を観るにつけ、おや?と違和感をおぼえずにはいられない。「流行かぶれ」、つまりかぶれているように思うのだ。

こうした「かぶれ」はひとり健康や病気のみならず、あらゆる分野で行われているようだ。連句界へも蔓延しているのだが、それは差しさわりがあるので筆を擱く。(07/02/02)

 

『連句と自己矛盾』233

連句は他者と妥協することから始まるのだが、丁々発止とやりあって主張を通す場だという人もいる。全くそういう部面がないとは言えないが、他者を取り込んで一体化させる、血肉を分け合って同化させるという考えに軍配があがるだろうと筆者はおもう。

自我に対する語として「他我」という言葉がある。他人も自己同様我であるという意味で、他人の我を指す。この言葉は哲学書などによく出てくるが、連句の人間関係についての小文で筆者はたびたび使用してきた。

簡単にいってしまえば、自分の表現と同じように他人の表現を受け入れること。他人もまた自分を受け入れてほしいということ。いや、ほしいというのではなく、そうでなければ成立しないのだ、連句という文芸は。共同制作、言葉や詩の共有ということもできる。

そんな制作作業のなかでは、自分を抑えることが強いられる。自分が使いたい言葉や表現が制限される。本来の自分の求めているものとは違った言葉や表現を自分から使わざるをえないことも、ままある。自己矛盾に陥るのである。

「心身乖離」というのは心と身がばらばらに離れてしまって、心に行動がついてゆけなかったり、行動に心がついてくけなかったりするのだが、自己矛盾はより心理的に矛盾を引き起こすのだ。これは精神状態としてむろんよろしいことではないが、他人と係わることの連帯感、メリットによりかなりの部分が解消されるのではと思うのだ。

連句とはふしぎな文芸、ふしぎな文学である。こうした共同制作という文芸、文学は世界広しといえども日本だけだろう。ほんの一握りだが、フランスやアメリカにおいて日本の俳諧が「ハイカイ」「レンク」などと持てはやされている。「連詩」も試みられているという。

話が脱線してしまった。この辺で。(07/01/29)

 

『連句は妥協の産物』232

連句の習作をつづけている。連句には形式があり、式目がある。作品として体をなすには守らなくてはならないが、守ったからといって優れた作品になる保証はない。それに形式や式目は六法全書のような厳しい強制力はなく、むしろ規制が緩慢に「緩くゆるく」するほうが表現の自由が得られる。

また連句は日本語の曖昧さ、ファジーさを有効利用している部面が他の文芸よりもあるので、そのためにも形式・式目の運用は融通無碍でありたい。流派によって半歌仙は半端なもので歌仙がよいとか、式目はこの通りにせよとか指導しているが、剣道や華道の流儀のような教え方はあってはならない。個人はどう思おうが、何をいおうがかまわないが、流派として束縛するのはどうかと思う。

筆者は連句の進行のなかで、室内や室外や室内外不明、カタカナ語の打越や大打越、人情の自他場などが気になるのである。筆者はそうだが、色彩や数詞が気になるという人もいる。人さまざま、それはそれで結構である。

またカタカナ語「二句つづき」歓迎にしても、総体的な数量、つまり総量規制もある。総体的に眺めて多すぎる場合も気になってしまう。そんなときは一句で捨てる。拘りは拘りとして、しかしそれを徹底させずに、敢えて自分の主張を引っ込める。それは信念がないということとは違うと思うのだ。

何がいいたかというと、連句はすべてにおいて妥協の産物、妥協によって誕生する文芸であるということ。これを文学に対する優柔不断だといえば、いえないこともないが。

小説や現代詩であれば、おのれ個人において心血をそそいで探求するところが、連句の場合はある段階でおのずから手綱をゆるめ、他者との共同の制作、共有の認識を持とうとするのである。そうしなくては成り立たない文芸なのだ。

映画の制作にあたる監督、オーケストラの指揮者、これらの人も連句の捌の立場と同様に、どこかで妥協しているだろうなと思うのだ。個人でなす文芸や文学と違うところであろう。(07/01/21)

 

『これでいいのだ!』231

5日の夜半から細かい雪が舞っていた。5日から7日にかけて断続的に雪が降って、30センチほどの積雪になった。いわゆる「上雪」で、この辺では「ドカ雪」ともいう。例年大寒のころから3月初旬にかけて見舞われる降雪現象だが、1月の大雪は寒さのためなかなか解けないで往生する。

当地は比較的に雪が少なく、そのかわり冷え込みは厳しい。雪国というイメージでなく、滅多矢鱈と寒いばかり。以前の話だがマイナス24度という日があった。寒い朝は心臓の鼓動がきんきんと音をたてる。

がらり戸の屋根や前庭の植栽、ルート20号線は真っ白。窓辺のいただきものの鉢植えのシクラメンも真っ白で、心まで真っ白になってしまう。

雪のため閉じ込められた。雪が降らずとも外出はしなかったかもしれないが、雪が原因ときめこむ。家電さん、書肆さん、白鳥さんなど車をころがして訪問したかったのだが。

彼が本棚の整理をしてくれた。捨てるべき本が小山をつくった。本当に廃棄してよいのか、立派な体裁の本ではないにしても、書物を捨てるのは忍びない。が、置き場所がなくなってくるので、仕方がないこと。

こうした作業では必ずといってよいほど、読みたい本がみつかるもの。東海林さだお氏の文春文庫、これを読みはじめたらおもしろい。文章がいい、センテンスが短くて、脳の回線がショートしかかった筆者にはすとんと理解できる。とりあえず三冊あるので、1日5ページずつ楽しみながら読もうと思っている。

「小六法」という六法全書のミニもあった。お世話になることもないので廃棄。が、一旦資源ごみに束ねたものを取り出してページだけぴらぴらさせる。

今日のテレビで、高僧がならんで「折りたたみ式の経典」(紙を山折り谷折りに製本したもの)を右から左へ、左から右へ、手に持ってぴらぴらとなびかせる。それで何万巻もの経典を読んだことになるという儀式をやっていた。これはありがたい教えではないか。

折りたたみ式でない「小六法」なので、指でページを左右に送っただけだったが・・・。さすがは霊験あらたか、法律のことならなんでも聞いてくれ。こんどは「連句作法」に挑戦してみよう。

年が明けて俳席や文音をはじめた。本音はのんびり洋画を観ていたいのだが、老醜や痴呆などを忘れるため・・・現在のところ死の来襲はふしぎとなんでもないが、それでも何かを忘れるためでもあるかのように俳席や文音と取り組んでいる。「天才バカボン」のパパではないが、「これでいいのだ!」と。(07/01/13)

 

『めでたさも中位・・・』230

★ めでたさも中位なりおらが春

郷土が生んだ大先輩である、小林一茶さんの句である。「中位」(ちゅうくらい)とは中間の程度、また大したことのない意であり、広辞苑に一茶句とともに収載されている。広辞苑なる「ブランド辞書」に載っているとは、一茶さんも偉くなったものだ。

大晦日から元旦にかけて、何かがかわったわけではないが、草木の葉の色や鳥のさえずりにも新鮮なものを覚える。呼吸する空気にさえも淑気を感じる。しかしそれを感じたのは遠い過去のこと。残念ながら筆者は、感性の退化を余儀なくされる年齢になってしまった。

「中位」は難のないことばである。「中位」(ちゅうい)ということばも「高位」(こうい)「低位」(ていい)ということばもあるが、階級についての語である。字はおなじでも、読みを変えた「ちゅうくらい」は都合のよい含蓄のあることば。語意を巧く表現したものだ、一茶さんは。

シジュウカラがペアで訪れ、台杉の幹にとまって窓越しに筆者を見ている。前庭には餌になるようなものはなく、きっと挨拶のために飛来したのだろう。ツッピー、ツッピー。またくるから、そのときはクルミを砕いておいてね。

ヒヨドリもペアで訪れた。ヒヨドリはカエデの株立ちにとまって、リビングをのぞきこむ。リビングの外には熟柿や林檎がダンボール箱に入っていて、先だっては味見されてしまったが、今回はそれには見向きもしないで筆者の様子をうかがっている。これも挨拶にきたかもしれないと勝手に解釈した。

年賀状は年年減っている。二日、三日も配達はされたが、両日ともそれぞれ10枚前後。PCのメールの賀状は10通くらいあった。印刷されていて添え書きのないものは、さっと輪ゴムをかけてしまう。おもしろくもおかしくもない。

それではあなたが投函してものは、どうかと問われると、言葉に窮する。例年の通り「鳥獣三つ物」は作ったのだが、添え書きはほとんどできなかった。

めでたさばかりでなく、いろいろなべて、中位だ。中位でよしとしよう。(07/01/05)

 

『海馬と天狗と』229

海馬(アシカ)が墨汁をたっぷり含んだ太筆を口にくわえ、大きな紙にやおら文ン字を書きなぐる。来年の干支である「亥」を一足はやく試筆しようという寸法だ。海馬ならずも亥の字はバランスを崩しやすい。ところが海馬は、一画一画慎重に筆をはこぶ。飼育係から一画ごとに筆に墨を含ませてもらい、肩肘張らずにさっと書く。

筆の乱れも多少はあろうが、乱れというのは人間のならべる御託であって、海馬は乱れなんぞ頓着しない。さあ、書くぞ。それ、書くぞ。いや、書くという行為さえ認識していないだろう。

しかるのち、めでたく書初めはできあがる。タテ、ヨコ、ナナメの墨の按配はなかなかのもの。だが文字として眺めると拙劣極まる。いやいや、高名な書家の書といえば、それも通りそうで・・・。

飼育係が海馬の鼻先に朱肉をつけ、海馬が亥の文ン字の右下に押印する。雅号はなんだろう。

話はコロッと変わる。

HPの俳席にて、このたび「天狗俳諧」を催した。(天狗俳諧については、この「コラム」227に書いたので参照されたし)。15句の俳諧(俳句)を詠むことになって、上5、中7、下5の言葉を募集したのであった。それがめでたく出来上がって現在閲覧中なので、御用のない方はご覧くだされ。

次に筆者が選ぶベストスリーを挙げる。

★ ろくでなし 墨画展へと ふふふのふ

★ おっぺけぺ 遺書も書かずに 帰りけり

★ ノック二度 当家の聟が ダイビング

俳句の途中に余白をあけたが、それぞれ別人が上5、中7、下5の言葉をよせ、その言葉は伏せておいて、最後に筆者が指定通りにならべたものである。言葉のニアミスによって、意想外の俳句が誕生した。

意図のない創意の試みのないところに、文芸性などあるわけないという主張もあるだろう。だが、くだらない言葉遊びと片付けるにはちょっと待てよ、と思う。17音という俳句形式、フォームを流れる俳句人たちの下意識のゆれうごきが垣間見られるのだ。

天狗俳諧は、海馬の亥の字の試筆とおなじだろうか。それと二者には相違点があるあろうか。師走の忙しいときだからこそ、皆さん考えてほしい。忙中閑ある方も、閑なき方も。(06/12/29)

 

Tちゃ床屋さん』228

二箇月に一回くらいのペースで、「きょうあたり、どうかな?」とTちゃにお伺いをたてる。なんの「YES NO」かと申せば、家庭床屋さん、いながら床屋さんしてもらう依頼である。

タイミングがよかったらしく、「YES」なる返事をいただく。筆者早速下着姿になって脱衣所にすわりこみ、Tちゃは椅子を持ち出してそれに腰かけ、「蟹さん」に変身する。バーバー蟹さん、婆さん蟹さんに相成るのである。

この蟹さん、以前は、先代が道具好きで入手した西洋式の優れものの鋏を駆使していたのだが、最近ではもっぱら「蝦蛄(しゃこ)」の親分のような電動バリカンでばさばさと刈り込む。

一部の読者にはイメージが、いっかな湧かないことだろう。何を隠そう、筆者には刈り込むほどの多量の毛はなく、ものの2分もすればことはすむ。それが意外に難渋するのだ。いつも。いつも。

蟹さんは「蝦蛄親分」をたなごころに握って、あるいは「西洋鋏」を親指と人差指にはさんで、筆者のつむりをチョッキン、チョッキンとやる。

断っておくが、この蟹さんは腰痛や肩肘などに宿痾をかかえている。したがって蟹さんが移動して作業するというより、筆者、つまり「お客さん」である筆者が尾てい骨を据えて回転することによって作業がなされるのである。なんのことはない、ベルトコンベアに乗っかった商品なのだ、このつむりは。

「痛ててて!耳がもげて、ゴッホになっちゃう」。

「連句やめて、絵描きになれば」。

「寒くて、寒くて。阪神タイガースでもいいから、さっさと刈ってくれ」。

「ボランティアだから、文句いわないこと」。

筆者としては、ここ数年スキンヘッドを渇望している。おぐしの手入れやフケ退治もらくちんだろうし、せめて気分だけでも得度したいというのがその理由だ。ところが蟹さんは、罷りならぬという。スキンヘッドにしたなら、一緒に「ぷりめーら」に乗らぬとのたまう。隠れ恐妻家として言辞を引き下げざるをえない。

しばらくのち「口撃バトル」は終了し、筆者は温泉に浸かるのである。限りなく無に近いスキンヘッドに肉迫しているし、気分もさっぱりしているし、歌は出ないが湯煙のなかで心は浮遊するのである。きょうは師走の18日。(06/12/23)

 

『天狗俳諧』227

「天狗俳諧」をご存じだろうか。最近では耳慣れない言葉かもしれないが、そのかみ、人気があったらしく多くの辞書に収載されている。しかしあまり資料は残っていなく、あるいは筆者の勉強不足かもしれぬが、目にふれることが少ない。

天狗俳諧とは俳諧で、上5字、中7字、下5字を三人がそれぞれ無関係に作り、それを組み合わせて1句とし、偶然に句意が通ったり、おかしな句ができたりするのを楽しむ遊びである。

「俳諧」の語は一般に馴染まないかと思うが、俳諧はそもそも、おどけ、たわむれなど滑稽なこと。また連句のことをいうが、本来は俳句(発句)のことも言った。ここでいう天狗俳諧の「俳諧」は、俳句と思って差し支えないだろう。

お正月の遊びに「福笑い」があり、目隠しをして、おかめなどの顔の輪郭だけ書いた紙の上に、眉、目、鼻、口をかたどった紙を置き、できあがりのおかしさを楽しむもの。この遊びの「俳句版」という感じがする。

エアバスの「ニアミス」は恐怖だが、言葉のニアミスは笑いを誘ったり、思わぬ清涼剤になったりする。「言葉による思考回路のぶっ壊し」、そんなところも確かにありそうだ。

シュルレアリスム(超現実主義)の詩人、ロートレモアンに「ミシンとこうもり傘が手術台の上で出逢う」という有名な詩がある。二つの異質なものが、それぞれ無縁な場所において出逢う。それが測りしれない不可思議な効果をもたらす。二者の衝突の衝撃波と言ってよいかもしれない。これによって、人はしばらく思考不能状態に陥るのである。

ロートレモアンは詩という独りの作業で行ったが、天狗俳諧は三人によって行う、シュルレアリスムの「フィールド」ということができるだろう。

これとは少し違うが、ブレヒトに「異化効果」という言葉がある。演劇で、見慣れた事物をはじめて見たように異様に感じさせる効果、よそよそしくさせる効果がある。これも筆者の好きな用語、好きな考え方だが、すべての芸術や文学は「衝突」(ビッグバン)によって生まれると思うのである。

冒頭で単に「楽しむ」「言葉の遊び」のような伝え方をした。だが、形式では遊びの要素を持ちながら、根っこのところにはシュルレアリスムの芽がひそんでいる、文学の芽がひそんでいると思われてならない。

普通の俳句においても、「二者の衝突」から詩の世界が拓けてゆくことを知ってほしい。なお、当HPの「俳席」「奥の間」で、ただいま天狗俳諧が催されている。期間限定だが、興味のある向きはご覧ください。(06/12/16)

 

『形式「スワンスワン」について』226

連句の形式である「スワンスワン」について、五通の問い合わせがあった。実はこのたび、筆者捌「Wスワンスワン」という形式で「平成連句競詠会」06文芸賞の大賞をいただいた。連句の形式は「歌仙」が主流で、そのほかにも「百韻」(100句)、「世吉」(44句)、「短歌行」(24句)、「二十韻」(20句)、「半歌仙」(18句)など数えきれないほどある。

「スワンスワン」は筆者(矢崎硯水)が考案したもので、アラビア数字22(句数)を2羽の白鳥に見立てる。春秋は二句から三句。夏冬は一句から二句。「二月」「一花」「一鳥」(鳥は定座ではない)。恋二句から三句(弐面か参面)。三つの面による序破急。「Wスワンスワン」は「スワンスワン」をダブルにしたもの。そして、ダブルのはじめを「初折」、次を「名残折」とする。

「壱面」が6句、「弐面」が10句、「参面」が6句。都合22句からなる。「二月」とは月を二箇所に出すこと、壱面の五句目と弐面の七句目が定座。「一花」とは花を一箇所で出すこと、参面の五句目。「一鳥」とは鳥を一箇所に出すこと、これは定座ではなく場所は問わない。月の定座は引き上げたり、こぼしたり(引き下げたり)できる。花の定座は引き上げることはできても、こぼすことはできない。

この形式を考案した理由はいくつかあるが、「半歌仙」は「表6句」と「裏12句」で、後半に比重がかかってバランスがわるい。「短歌行」は「4句」「8句」と「8句」「4句」の24句だが、「折」と「面」が鉈(なた)でぶった切ったように切れてしまう。つながり方がスムーズでない。そのほかの形式は巻いた経験がないのでなんともいえないが、書面上でみるかぎり疑問符がつく。ひるがえって「スワンスワン」は、流暢な流れ、快い諧調の妙が得られる形式ではなかろうか。そんな希望がもてるのだ。

次に「スワンスワン」は鳥を心こめて詠む。花鳥風月という言葉があり、月と花とは賞玩されているのだが鳥はあまりにも粗末に扱われている。スズメからコンドルまで、鳥の姿はなんと美しいだろう。ちょこまか、ちょっとしか飛べないスズメ、悠悠と天空を翔けるコンドル、それぞれの羽は神からいただいた恩寵だ。

人類は飛ぶことに憧れ、鳥に思いを仮託してきた。そのかみのチベットやボンベイの鳥葬にみられるように、死者の魂は鳥に食べられて天に運ばれるとする観念がある。鳥は生ける魂、死せる魂の「運び屋さん」なのだ。鳥を詠むことに心する。

次に歌仙の季語の配分は、春秋は三句から五句、夏冬二句から三句だ。現実の運用は春秋が三句、夏冬二句であるが、「スワンスワン」では季語を少なめに設定している。季語的拘束によって「詩の羽ばたき」が弱まることが否定できない。季語が手かせ足かせとなって、詩語がパターン化する類例が多いのだ。(それとは逆に季語の文化的な背景、文学的な遺産もむろん認めるが)

連句の「折」と「面」。たとえば初折とか、名残の折とか、折端とか、折立とかいうが、いわば「つなぎめ」のそれを、筆者は芝居でいう「一幕目」「二幕目」「三幕目」・・・のイメージで捉えたいと思っている。幕が上がって、幕が下りて、舞台装置や登場人物は変わって、あるいは変わらなくて・・・。

そんな構成、システムが連句にも必要に思われるのだ。もともと芝居でいう「序破急」のことばが、幕の上げ、下げのイメージを持つことで連句の世界にもより確実に活かされるのでは。そして「スワンスワン」さらに「Wスワンスワン」は、半歌仙や歌仙、世吉や短句行よりも「しなやかな、うねり」(鉈ではなく、柳刃庖丁で切るような切れ方)を獲得できる形式ではなかろうか。自画自賛かもしれないが。以上「スワンスワン」について簡単に紹介。ご参考になれば幸いである。(06/12/08)

 

『言葉のフィールド』225

連句の仲間である兵庫県のAさんは、連句の付句を付けるに当たって、これまでに自分で作ったような内容の付句や、その巻での既出の漢字などを封印して臨んだという。

連句などの短詩の場合は類似・類想が避けられず、自分の創造かそれともすでに誰かが作品として発表したものか、作句の当人さえも曖昧になってしまうことがある。盗作はむろん厳禁だが、自分の作った句で没になったもの、あるいは旧作を練り直して付けることはままあることだろう。

Aさんがどこまで封印したかは不明だが、これはある程度の「連句歴」のある人にとっては大変な決断だと思う。連句も文芸である以上は近似した表現や類似した内容は避けたく、したがってこの決断は見上げるべきことである。Aさんの試みが一巻だけか、今後もつづけるのか、これもまた不明だが頑張ってほしいもの。

そうは思いつつ一方で、文芸人は誰もが「言語圏」をもっていると考えるので、そのエリアを崩すなとも助言したい。筆者はいまここで言語圏と書いたが、現代詩を盛んに書いていたころは「言語飼育」という言い方をしていた。これは恐らく筆者の造語である。いろいろの言い方をしてきたが、文芸人は自分の好きな(あるいは嫌いな)言葉を使って、それも独創的な使い方をしておのれの世界を構築する。言葉を自分なりに育成するのであり、育てた「言葉のフィールド」を持っていたいという考えである。

文芸人の言葉のフィードルは広くなったり、ときには狭くなったりするだろう。そのなかでは新陳代謝も盛んに起きて日日更新されるだろう。

そうしたものが土壌にあって、それを磁場として表現行為がなされるのであれば個性が培われる。だが、言葉に対して人と違った思い込みや愛着や苦痛などが感じられなかったら、表現は凡庸になるのではないか、と考えるのである。

従来のAさんらしい表現を失って欲しくない、言語圏を更新しつつの「封印」であって欲しいと、ふと思ったしだいである。(06/12/01)

 

『時の過ぎゆくままに』224

流行り歌のようなタイトルだが、時の流れに身を委ねている。身を委ねて過ごすほかはない。いくら足掻いても、流れゆく時を超越することなど誰にもできないのだから。生きているかぎり時の速度に合わせて、急がず遅れず歩きゆくほかはない。

『ゾウの時間とネズミの時間』(本川達雄著)という書物があったが、動物は体の大小によってエネルギーの摂取や消費は大きく異なり、その影響もあって寿命も異なる。動物本来の寿命の長短がもっとも影響するだろうけど・・・。

ゾウの一時間、ネズミの一時間は、同じ一時間でも当然のことながら、ゾウとネズミのそれぞれの体における時間的「キャパシティー」は違うだろう。それぞれ個別の受け止め方があるだろうし。「一時間」という尺度ですら、人間がかってに決めた「一つの基準」に過ぎないものだ。

一時間があっという間にすぎ、一日がまたたく間にすぎてしまう。一箇月が、一年が、油断しているとあれよ、あれよという間に過ぎ去ってゆく。もういくつ寝るとお正月だとか、お盆が待ち遠しいとか思っていた子どもの頃と、明らかに時間の経過の感覚が変わってきている。

時計と同じレベルで流れていた子どもの頃の「受け止め方」と違って、時においてけぼりを食らった感じなのだ。これが老いの感覚かもしれぬ。

「時は今 我が足下を滑りゆく」

これはペルシアの大昔の詩人、オーマ・カイヤムの詩(矢野峯人氏訳)だ。砂時計、水時計がイメージできる。また、次のような詩も残している。

「いず地より また何ゆえと知らで この世に生まれきて 荒野を過ぐる風のごと 行方も知らに 去る我か」(06/11/24)

 

『この一週間』223

・シジュウカラが一羽飛んできた。先週の「この一週間」で「次はシジュウカラが訪れる」と書いたらその通りに飛んできたのだ。雛鳥と思われるほど小柄で、ツッピン、ツッピンと鳴く。あまりにも可愛いので家人が胡桃を砕いて与えた。その後は姿を見せないが、きっと再び訪れるだろう。

小鳥は可愛い。鳥類はおしなべて好きだ。例えカラスといえども、スズメといえども。筆者のルーツは人類でなく鳥類だったのかもしれぬ。連句の仲間である兵庫のAさん、秋田のNさんも小鳥がお好き。庭を訪れる「鳥情報」をメールで知らせてくれる。

・三重県の「芭蕉祭」実行委員会から色紙が送られてきた。連句の半歌仙が入選した記念品である。小川破笠筆の「芭蕉翁画像」で、平成元年「芭蕉・おくのほそ道」300年記念切手シリーズと同じもの。細筆でなかなかよく描けている。

連句が入賞すると、表彰状をもらう。実行委員会としては、何はさておき表彰状を出さなくてならないのだろう。それはよく分かるのだが筆者、表彰状を100枚余もいただいてしまって置き場所に往生する。表彰状を入れる固い紙の丸筒、これが難物なのだ。束ねてもばらけるし、棚に置くと場所を取るし、仕方ないので処分することに。ところが紙だけでなく、一部に金属が使われている。これを取り外して分別するのに骨が折れる。

ともかく拝して、処分させていただいた。2年ほどまえのことである。表彰状の処分・・・。多分、いや、間違いなく「嫌味」に聞こえるだろう。受賞がうれしいことには人後に落ちない。興行のときの想い出も大切にしているつもりだが。

・ボスティングシステム(入札制度)があって、有名プロ野球の選手に入札の札を入れる。最高額で応札した球団がその選手を獲得できる権利があるという制度。ただいま世間を賑わしている。

ある選手は40億円とか58億円とかで、「ボストンの赤い靴下」、いや「ニューヨーク不良少年」に落札されるとか。落札してすぐトレードに出すとか、かまびすしい。スポーツビジネスに名を借りた「人身売買」、日米がドルと円で売った、買ったとやりあう。金の世の中といってしまえばそれまでだが、拝金主義のスポーツはいずれすたるだろう。

因みにノーベル賞の賞金は1億3千万円とか。芸者さんの玉代は2時間で23140円。連句の宗匠さんの捌料は、7年前のことで2時間15000円。(最近は不景気で、記念切手500円分だったと東京のUWさんの言)。話が脱線してしまった。今週はこの辺で。(06/11/17)

 

『この一週間』222

・「ゴミ捨て」は一つの仕事である。一口にゴミといっても燃えるゴミ、資源ゴミと大別でき、さらに燃えるゴミの内容もさまざまなら、資源ゴミの内容もさまざまで「細別」できる。細別し分別しなくてはならない。

燃えるゴミとは、調理のときにでる屑、食べられない食品の皮や魚の骨など。細かい紙切れやポリ袋など雑多なもの。一方資源ゴミとは、古紙やぼろきれ、空き缶や瓶、古封筒や古葉書など些細なものまで、これも雑多なもの。

「分ければ資源、混ぜればゴミ」とはゴミ回収業者のキャッチコピーだが、現在ではゴミは侮れない問題になってきた。ま、筆者、そういうことが言いたいのではない。物を買い込むと、その物体とほとんど同体積の物をゴミとして出さなくてならない。例えば、そんな思い込みというか精神疾患というか・・・早い話が気になることがあるのである。

物が増えることは筆者も何となくうれしいこと。だが他方で、物を捨てて減っていくことで心がシャキッとする。精神衛生上よろしいのだ。物が家のなかに入ってきて、それと同等の物が家から出ていく。口から入ってきた物は、やがて下半身から出ていく。家も人も、ここに在って、物だけが粛粛と通り抜けていく。そんな感覚を持ち合わせることは病気だろうか。

そして、ここに存在する筆者も、実は粛粛と動いていく物であり、家もまた通り抜けていく物である。地球の一画を借用し、我とわが身、物という物は粛粛と通り抜けていく。お借りした地球を返すときが、すなわち死である。だから、物をすてて身軽になっておこう。そんな思いが常にある。

ゴミを捨てるという行為、燃えるゴミ、資源ゴミ。それは人間の感情なり思考なりの物体化ではないか。心や考えという概念も入ってきて、捨てていく。プロセスが近似しているように思われてならないのだ。

・狭庭にウメモドキの木があって、10月中旬には赤い実がたくさんついた。この実がヒヨドリの大の好物で、朝な夕なにペアで訪れて一粒残らず啄ばんでしまった。家人は、家主のために一枝くらい実を残してくれたらいいのにと、ヒヨドリに恨み言をいう。筆者は、気遣ってくれないとところが野鳥らしくていい、と応じた。

そのとき、リビングの窓にヒヨドリの姿が映った。楓にしばらく止まったが、まなしに飛んでいった。ウメモドキの実のない庭に用はないわい、といわんばかりに。例年、ヒヨドリの次にはシジュウカラが訪れる。(06/11/10)

 

『この一週間』221

・シベリアから諏訪湖に白鳥が飛来した。横河川の河口に12羽が確認され、6羽は成鳥で残りの6羽は成鳥に近い中雛である。諏訪湖には例年200羽以上の白鳥の越冬が見られるのだが、この冬はどうだろうか。

北海道の稚内の大沼も白鳥飛来地だそうで、この冬は未だ200羽と数が少ないという報道。なんでも気象の関係で、シベリアの棲息地の雛が孵らなかったといわれる。地球規模の気象の異変、温暖化の影響があるのかもしれない。クルマをころがして、白鳥の様子を見に行かなくては。

・毎朝PCのメールボックスを開くと、30通から45通のメールが到着している。このうち筆者が必要とするメールは5通ほどで他はすべて迷惑メールだ。

これらの三分の二は自動的に「spamkiller」「削除済みアイテム」に振り分けられるので問題ないが、残り三分の一の送信者と件名を確かめながら、一つ一つ削除していく。(一挙に削除もできるが、次回の送信を削除済みにするために)。平均して15通は捨てている。たいした作業ではないが、ちょっと煩わしい。

サーバーの迷惑メール対策と、マカフィーの迷惑メール対策「厳重レベル」に設定してあってもこんな状況。迷惑メールが送られてくる背景には、HPのアドレス開示が原因だとサポーターから聞いたが、筆者のような「投句コーナー」がある場合は載せざるを得ない。その他の原因として俳句・川柳の応募のとき、アドレスが漏洩したかも。尤も最近の4年間はほとんど投句していなが。

ときには筆者のアドレスでない宛名で、迷惑メールが来ることも。これは一体、どうしたことだろう。当HPの投稿者で、もしも予期しないエラーで「スパム」や「削除済みアイテム」に捨てられてしまったら、と懸念する。また筆者の場合は「件名」を最重点に検査するので、件名には「久しぶりですね」「例のことですが」というような曖昧なものにしないでほしい。

・昨夜来、雷が鳴って烈しい雨。しかるのち、真っ青な空、そして再びの小糠雨。こんな季節に、天空でなにごとが勃発したのか。

話変わるが、この秋の紅葉はさっぱりで、薄汚い色をしている。暖地の紅葉は美しくないといわれるが、当庵の楓も例年に比べてだいぶん劣る。

それでも玄関の脇の山帽子はきれいに紅葉し、ドア越しに日に照らされるとき、室内から眺める感じはわるくない。「紅葉明り」という言葉があるが、紅葉の反射する光はベールに包まれたようで趣がある。秋も残り少ない。(06/11/07)

240「甘い石」
239「さよならはいらない」
238「連句制作現場から」
237「暖冬・鳥類」
236「爺ちゃんポスト」
235「投稿誌・同人誌・など」
234「流行かぶれ」
233「連句と自己矛盾」
232「連句は妥協の産物」
231「これでいいのだ!」

230「めでたさも中位・・・」
229「海馬と天狗と」
228「Tちゃ床屋さん」
227「天狗俳諧」
226「形式「スワンスワン」について」
225「言葉のフィールド」
224「時の過ぎゆくままに」
223「この一週間」
222「この一週間」
221「この一週間」