190「四十雀」
189「かりそめの影」
188「痛みの松竹梅」
187「メールの遅配」
186「小泉さんと「だいだらぼっち」」
185「ウェブ連句」
184「新しき酒・・・」
183「持てば懐炉の日和あり」
182「お勉強」
181「芳紀18億歳の宇宙さん

200「サボちゃん」
199「盗作騒ぎ」
198「貯金箱」
197「小鳥の鳴き声」
196「異化効果?」
195「わがチッチキチー」
194「詩の真実」
193「映画って素晴らしい」
192「差別語事情」
191「羊が一匹・・・

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コラム 「その10」

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『サボちゃん』200

直径が約100_のドーム型の、鉢植えのサボテンを買い求めた。全体がくすんだ緑青色で、てっぺんから四つの蕾がニヨキッと突き出て、脇には小さな蕾が一つ覗いている。花色はピンク、少しくほころびかけている。刺の生えているところは真綿のように白く毛羽立ち、一見して愛玩すべき容姿でも色合いでもないのだが、これが可愛いのである。

窓辺においてガラス越しの日を当ててやると花が開き、夕べには閉じる。サボテンはシャボテンともいうが、植物分類学者の牧野富太郎氏によると、サボテンの切り口からでる液体に洗剤の効果があるとされ、「シャボン」からシャボテンと呼称されるようになったそうだ。

サボテンは柱のようなかたち、UFOのようなかたち、奇天烈なかたちなどさまざま。酔っ払った「植物の神様」の、たわむれの創作に相違あるまい。花もすこぶる官能的だ。

筆者はサボテンが好きで以前に50鉢ほど育て、実生で増やしてピンセットでつまんで移植した記憶もある。サボテンといえば、メキシコ、テキーラ、ウエスタン。酒場女と二挺拳銃と、「生き死に」を弄んでいるような西部劇が忘れられない。―そんな価値観が筆者の青少年期のベースになっているのかもしれない。

サボテンステーキがあったり、電磁波吸収サボテンがあったり、しゃべるサボテンが研究されたり、他の植物よりもサボテンは人間と特別にかかわる。

文机に程近い窓辺で、じっと日光浴を楽しんでいる「サボちゃん」。筆者が「今日は暖かいね」と声をかけると、「ふむむ、ふむむ、うっふん」と生返事を返してくる。しばらくのち、ピンクの大輪の花がほころんでくる。植物にはとても思えない、他人事にはとても思えない。「お身内」なのだ。

植物を人間に見立てることは多いが、筆者の場合は「見立てる」というよりもアニミズムと言ったほうが正解かもしれぬ。

せんだって兵庫の連句の友が、庭木に語りかけるという話を聞いた。寄る年波で庭木に口舌するお婆さんならわかるが、まだまだ連句界では若いお年で・・・。この友もその気()、アニミズムの気があるのかと拝察したしだいである。(06/06/11)

 

 『盗作騒ぎ』199

05年度芸術選奨を受賞した画家の作品が、盗作の疑いがあるとして問題になっている。疑惑のあるのはW画家、盗作されたというのはイタリアのS画家。メディアが流す両画家の絵は確かによく似ている。芸術に創造と模倣はつきもので、これは古くて新しい問題だ。創造と模倣にきちっと明確な線を引きたい気持ちになるが、それが出来ないところがまた芸術の芸術たるところか。

絵画には模写という手法もあり、パロディーという分野もある。ある作品をそのまま写し取り、あるいは下敷きにプラスアルファーして描くという方法だ。ただしそうであるなら、原画の存在の明示はむろんのこと、模写やパロディー化による作者の意図なり創造性なりが表現されていることが必須だろう。

これは模写とか盗作とはいわないが、ピカソは多くの画家の絵の構図や色彩を借用していたとされる。高階秀爾氏『ピカソ 剽窃の論理』(ちくま学芸文庫)には、「彼の場合は、他人のものを借用してもそれをすっかり自分のものに消化してしまっている」とある。

目を俳句に転じてみよう。俳句の世界でも盗作事件がたびたび起きる。受賞作品が取り消されることもある。俳句のような短詩では必ずしも盗用の意思がなくても、過去にどこかで読んで意識の底にあり、また言葉を選択しているうちに偶然一致したことによる類似もあろう。善意の盗作といえようか。

本歌取りという手法もあり、面影付けという付け方もある。これは広義のパロディーだが、芭蕉もパロディーをあまた残している。しかしむろん、そっくりは存在せず、そっくりそのままは本歌取りとも面影付けともいわない。

さらに目を転じて、現代連句に盗作はあるのか。「盗作」という言い方はあまり聞かないが、「類想」ならしきりに見聞することだ。たとえば折端や折立、月花の前後、挙句など穏やかに治めるためありきたりになってしまう。ついつい類想になり、ときに同想もみかける。「同想」となれば善意・悪意はともかく盗作、連句以外の世界からいえば盗作だ。だが、連句は歌仙なら36句で「一作品」という考え方がるので、一句だけ同想があっても許されるのだろうか。そういう考え方には大いに問題はある。

いずれにしても、オリジナリティーを出しつつ「穏やかに納める」こと、難所の「句所」を乗り切ろうとしているのではあるが・・・。(06/06/03)

 

 『貯金箱』198

手近な貯金箱で、貯金をはじめた。きっかけはテレビのトーク番組で、大きな瓶に五百円硬貨を貯め、その金額が100万円になったと言っているのを聞いた。その人は両替までして積極的に貯金したらしい。生活に困窮しても、せっせと五百円玉を瓶に放り込んだ。高額のものを購入するという目的からでなく、貯めること自体が目的だったという。

思い立った筆者は、フロッピーデスクの空箱を貯金箱にして五百円硬貨を貯めることにした。10×10×4a大のスケルトン、こんな小さな箱でも一杯にすれば10万円にはなるだろう。釣り銭などの手元の五百円玉は必ず入れることにした。今年の2月頃のことだったろうか。

蒐集家、コレクターという人種がいる。「蒐集癖」ということばもある。以前にも当コラムでちょっとふれたが、筆者は10a前後の小箱(木製、プラスチック製、紙製を問わず)を、ついついため込んでしまう癖がある。一方で家人は、紙袋や包装紐が好きで捨てられない。再使用の目的はあるにしても、必要以上に集めるのである。「ごみ屋敷」にならないように気をつけてはいるが・・・。

この「蒐集癖」とは、一体なんだろう。近頃の言い方では「蒐集オタク」といえるだろうが、病的な性癖という部面もたぶんにありそうだ。欲求とか抑制とか、強迫観念とか仮想観念とか。「教えて、フロイト先生!」と、質問の手を上げたいところである。

話は変わるが、こんなニュースが新聞に載っていた。(5月25日朝日新聞・一部要約。容疑者名は筆者が善意で伏せた)

「空き巣、狙うは貯金箱」の見出しで、「貯金箱ばかりを狙って盗みをしていたとして、窃盗容疑で埼玉県警に逮捕された同県・無職・何某呉某(なにがしくれがし・50歳)が24日までに同容疑でさいたま地検に追送検された。

調べでは、容疑者は04年11月から今年1月まで埼玉を中心に東京、千葉の留守宅の窓ガラスを割って侵入し、計630件、総額で860万円の盗みを繰り返していた疑い。今年一月に逮捕され、自宅から約50点の貯金箱が見つかった。中には貯金箱の代わりになっていた20年前の「限定品」ウイスキー瓶(4g)もあった。被害は貯金箱がほとんどだった。調べに対し、「タンスを倒すような荒っぽい行為は相手に迷惑で、罪が重くなると思った、と話している」。

筆者、このような泥棒は好きで、やつであれば我がスケルトンの貯金箱を盗られても笑って許してやろう。(06/05/27)

 

 『小鳥の鳴き声』197

隣家の軒先にツバメが巣をかけ、さえずる声が聞こえてくる。鳴き声に耳を澄ませるが、その声を文字で表すことは難しい。ところが最近、ツバメの鳴き声は「土食って虫食って渋―い」と聞こえると新聞に載っていた。そういわれて見ると、そのようにも聞きとれる。

ホトトギスは「テッペンカケタカ」「本尊カケタカ」、ホウジロは「一筆啓上仕り候」と聞きとれる。小鳥の鳴き声には「地鳴き」と「さえずり」の二通りがあり、さえずりを「聞きなし」て言葉に置き換えることが昔から行われてきた。

ヒバリは「ピーチク、パーチク、ヒバリの子」なぞと歌われるが、実際は「ピチルリ、ピチリリ、ピチルリ」とか。愚庵をよく訪れるシジュウカラは「ツッピン、ツッピン、ピッチュー」。聞き方によっては、「ピカチュー、スッピン」「カーチャン、スッピン」と聞こえないこともない。

ハトは「ポッポッポ、ポッポッポ」と必ずしも聞こえず、また「クッククック、クッククック」と鳴くからといって青い鳥でもない。スズメも「チュン、チュン」というよりも、「チッチキチー、チッチキチー」と聞こえないか?

ところでニンゲンの鳴き声は、どんなふうに表記できるか。ニンゲンの場合は「泣き声」と書くのであろうが、「オーイ、オイオイ」「クシュン、クシュン」「アーン、アーン」・・・。もっとも小鳥のさえずりは恋する声なのだから、哀しくて泣くニンゲンと同列にはできない。考えようによっては「小鳥の鳴き声」と、「ニンゲンの笑い声」のコントラストの方が理にかなっていよう。

さらにいうなら、小鳥の「地鳴き」はニンゲンの「地声」に相当するのでは。「地声が大きい人だねえ」は「地鳴きがやかましいねえ」ということだ。それでは「さえずり」とは、ニンゲンのどんなときの声に相当するのだろうか。ま、いってみれば、「カラオケ」が妥当かもしれないね。

愛鳥週間は終わったが、小鳥のさえずりの季節。目が覚めるとガラス戸越しに小鳥の鳴き声が聞こえてくる。あまり歓迎できないスズメ、ヒヨドリ、ツバメ、カラス。歓迎できるのはシジュウカラ、カワラヒワ。

筆者、もごもごと「地鳴き」を繰り返しつつ巣を離れ、今朝も今朝とて、クチバシを磨いたり、羽繕いしたりするのであった。(06/05/19)

 

 『異化効果?』196

・誕生日・・・11月1日。

・好きな言葉・・・友情。

・血液型・・・A型。

・得意な科目・・・英語&音楽&美術。

・生まれた場所・・・イギリスのロンドン郊外。

・得意なコト・・・クッキー作り。

・好きな食べもの・・・ママの作ったアップルパイ。

・コレクション・・・ちっちゃくて、かわいいもの。キャンデー。お星さま。金魚など。

・身長・・・リンゴ5個分。

・体重・・・リンゴ3個分。

わたしは誰でしょう?

筆者うれしことに、「茶〜ミングなハンドタオル」をプレゼントされた。白地に若緑色のふちとり、お姿はグレーの輪郭で、おつむに赤いリボンのかわいいニャーゴのお嬢ちゃん。織部流の大きめの茶碗で、これからお薄をいただかんとする所作がすてき。茶碗のなかには、むろん若緑色の新茶が注がれている。

・誕生日・・・11月0日。

・身長・・・ウサギの糞5個分。

・体重・・・ウサギの糞3個分。

・形と色は・・・でこぼこで丸型。焦げ茶色。

・蓄えているもの・・・香油。

・好きな場所・・・伊豆大島など。

・生まれた場所・・・かっぱさんち。

・好きな食べもの・・・加理。

わたしは何でしょう?

――筆者のノートパソコンの傍らに、前者と後者が無造作に置かれている。前者はオリジナル「ハローキティ」、後者はわが家の「ツバキの実」だ。無機質のPCに添えられたキティちゃんとツバキちゃんは、ビミョウな違和感がある。よそよそしさがある。

「異化効果」について説明してほしいといわれたが、即答できないので手短なことを書いてみた。ブレヒトのこの用語とは多少のずれはあるものの、連句の付合の極意だと思っている。

このこととは別に、「虚実皮膜」(近松門左衛門)「陰影礼賛」(谷崎潤一郎)も筆者の好きな言葉である。(06/05/12)

 

 『わがチッチキチー』195

大型といわれたGWが、きょうで終わる。大型であろうと小型であろうと筆者には係わり合いはない。なぜなら筆者は年中休業、365日にわたる「ゴールデン」なのだから。

三遊亭楽太郎師匠が「笑点」で話したことだが、「GWの大渋滞をテレビで観ながら、風呂上りにビールを飲むのが最高!」。そんなところだ。

もっとも筆者は胃腸がよわい上に尿酸値も高いので、プリン体の多いビールは飲まないのだが。

このごろ時間の流れとうか、時間をしっかりと認識できないことがある。時間だけでなく「日にち」の流れというか、日にちの経過が認識できないこともある。いや、認識できないというより、これまでの認識とずれがあると言ったほうが正しいのかもしれない。

5月2日の夜半から5月4日の宵までの時間の流れ、日にちの経過が、それまでの筆者の認識と違ってずれがあるような気がしてならない。そして5月4日には、当ホームページ「河童文学館」のカウントが29999回になった。感慨深くカウントボックスを眺めていたが、その日はついに30000回には及ばなかった。・・・

これは筆者が酔っ払っていたのか。そうではなく、酔っ払っていないからこその錯覚なのではないか。休肝日、楽楽連句の〆切り、かっぱ句会の〆切り。その経過の流れとうか日時の速度に自分のなかで得心できない感じがある。違和感があるのだ。

大木こだま・ひびき師匠がおもしろい。ボケのこだま師匠が親指の先にカタカナで「チ」の文字を示し、「チッチキチー」観客にいう。これがどっとうける。「チッチキチー」にはなんら意味はなく、言うことによってなんらかの意味を持つもののようだ。このところ、「チ」のチッチキチーが大ブレークしているそうな。

さて、筆者の「時間の流れ、認識のずれ」「日にちの流れ、認識のずれ」について、筆者自身が結論できないでいる。長命にありがちな良質のボケか、遠からず訪れる死の前兆かが結論できないとい意味だ。もっとも筆者、長生きはいっかな望まない。望むのは「ぽっくり」だけである。

いずれにしても、筆者の現在の心境は、親指の「チ」を示し、「チッチキチー」というほかない。これですべてを言い尽くせているだろう。(06/05/07)

 

 『詩の真実』194

詩人にとって言葉は恋人である。詩人にとって言葉は刺客である。(刺客という言葉は取り返しが効かないくらい変質・汚染してしまったが)。詩人は言葉のマジシャンである。

言葉の網をもって「詩の真実」を掬いとれ。

詩の真実は現実の真実ではない。詩における真実なのだ。現実の真実のみを追い求める詩がなんと多いことか。網を漏れる詩の真実をとどめなくてはならない。

【地引き網】(バルーク・ド・ロビス)

生活環境を知らぬ間に変える効果のある網の一種。魚のためには、丈夫で粗くつくられているが、女性をとるには、小さなカットされた石のおもりのついた非常に繊細な紐で十分である。

悪魔はレースの網を投げやって

(貴重な石でおもりをつけて)

それを陸地に引き揚げて

釣った中身を数えてみた

 

女の心が網にはどっさり

不思議で 貴重な収穫だった!

ところでそれを背負う前に

網目からみんな逃げて行った

 以上はA・ビアス『悪魔の辞典』からの引用である。(06/04/29)

 

 『映画って素晴らしい』193

「大砂塵」という映画が忘れられない。監督はニコラス・レイで、音楽がヴィクター・ヤングの「ジャニー・ギター」という西部劇である。主演の俳優はむろんストーリーさえも記憶にないのだが、なぜか忘れられない。

命が狙われているのを承知で、逃げも隠れもせず、男が酒場で相手を待っている。腹が据わっているというのか、人生諦めているというのか、じたばたしないであるがままの現状を受け止めている。そして、ギターをぽろぽろと爪弾く。

こんな一シーンが、筆者の脳裏に焼き付いている。これが映画の実際のシーンであったのかどうか不明だが、イメージとしてすでに筆者の脳に定着してしまっているのだ。

哀しいこと、不幸なことが襲ったとき、それを受け止めて諦めてしまう。「ああ、大砂塵、ジャニー・ギター」と、いくたび想い出したことだろう。

ところで古い西部劇「大砂塵」など調べようもないと諦めていたのだが、インターネットは便利だ。情報が得られた。ストーリーを知ることができたし、ジャニー・ギターなる音楽も聴くことができた。読んだ限りではストーリーの内容は意外なものだったが、音楽は耳に懐かしくひびいた。上映されたらぜひ観たいも。DVDはあるらしいが・・・。

少年のころ、青年のころ、映画をよく観た。ほとんどというか、100パーセント洋画で、地元のうらぶれた映画館に足をはこんだもの。上記の「大砂塵」ではないけれど、内容は全く覚えていないが「とある一シーン」を鮮明に記憶していて、日常の暮らしの隙間に現われる。唐突に脈絡もなく、現われるのだ。

たとえば、イタリアの有名な映画「苦い米」の野生的な女優シルバーナ・マンガーノの肢体や、「俺たちは天使じゃない」のロバート・デ・ニーロの表情などが出現するのである。50年も以前に観たもの、10年も以前に観たものが、である。

映画って素晴らしい。視覚って凄い。つくづくそう思う。(06/04/22)

 

 『差別語事情』192

差別語、差別表現という言葉がある。ネガティブな事物を障害や病気にたとえる言い方で、それは障害をもつ人や病気にかかっている人を傷つける。従ってそのような喩えは使わないようにしようというもので、現実に使われなくなりつつある。

ここにサンプルを書くつもりはないが、確かに人を傷つける言葉はあるだろう。それは疑いようのない事実にみえるのだが、敢えて屁理屈をいえば、言葉それ自体が人を傷つけるというより、人間の意思や感情や悪意が人を傷つける、当然のことながら。言葉と意思や感情や悪意とは必ずしもイコールでなく、すれ違っていたり違和感があったりする。また別の言い方をすれば、言葉は曖昧で多義なものなのである。

差別語や差別表現が駆逐されれば、心穏やかな世の中になってゆくのだろうか。また「人に優しい」とか、「地球に優しい」という表現をよく見かけるが、それで世の中が平和になってきたのであろうか。

何が言いたいのかといえば、繰り返しになるが、言葉が人を差別するのでなく人間の意志や感情や悪意が差別するのである。「言葉狩り」をしたところで差別はなくならないだろう。否むしろ、差別を闇に押しやって隠微にはびこらせる結果になりかねない。一見正義の「差別語追放」がまかり通っているが、そうしたまやかしの言葉の裏側に何かが隠されてゆく危惧をいだかざるをえない。

ところで動物を差別したり、ののしったりする表現がある。「犬畜生」「豚児」「鳥目」「猿股」「狐憑き」。またバカの当て字は「馬鹿」であり、人間様はどうだろうかと皮肉りたくなる、「獣欲」もある。昆虫では「弱虫」「虫けら」「極楽とんぼ」「虫がいい」。「虫酸が走る」などなど・・・。

動物や昆虫が何も言えないのをいいことに、言いたい放題をいってきた。尊大ではないかというのだ。だが、果たしてそうか。

そのむかしは、随分ひどい差別語や差別表現が使われていたし人を傷つけたかもしれないが、冷酷非道ではなかったように思う。おとなも子どもも含めて、現代の人間の方がはるかに怖いように思えるがどうだろうか。一概に比較はできないかもしれないが・・・。(06/04/16)

 

 『羊が一匹・・・』191

「眠れないとき、羊の数を数えると眠れる」といいますよね。「羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹・・・」と。この眠るための方法だが、羊でなくて犬では効果がないのか。猿では駄目なのか。

 『ねむりのはなし』(ロフテー快眠スタジオ編著)によると、12世紀のスペインの教訓話を収めた「知恵の教え」という本に、すでに「王様が羊を数えるお話を聞く」という描写がある。王様を早く眠りにつかせるため、物語を語るおとぎ衆が繰り返し羊を数えてあげる「果てなし話」は各地にあり、フランスのルイ14世やロシアのイワン大帝も好きだったそうだ。

上智大外国学部教授で神父のジャン・クロード・オロリッシュ氏は「羊はキリスト教とつながりが深い」と指摘する。キリスト自身も「神の子羊」「良い羊飼い」とも呼ばれている。「羊には白くて純潔、優しいイメージがあり、リラックスできるのでは」と教授は推測する。(以上は朝日新聞4月7日付参考)

犬や猿のイメージを浮かべて、数をカウントして寝つく方法は駄目ではないらしいが羊にはかなわない。なんといっても羊は神がかりだからね。ところで安眠のためにラベンダーの香りを嗅ぐ、ハーブティを飲み、ホットチョコレートを飲むなどの方法があるという。また安眠グッズとして、クッションや抱き枕、さらには専用品ではないが雑誌や漫画、音響機器などもあげられる。

因みに筆者の安眠法は、使い古した柔らかいイエロータオルケットを丸めて胸に抱きかかえる。胸に風や空気が這入らないように。これがなかなかよろしい。いっぽう家人は音響派であり、NHKの夜間放送を聴いている。ラジオの声がすれば筆者が寝つけないので、もっぱらイヤホンを用いる。大音響らしいが、それで安眠できるとはまことにもって不思議である。

春は猫が鼠を獲ることを忘れるという。眠たい季節であるのだが、眠たい季節であっても高齢の身には夜間眠れないことも多い。そんなときは昼間眠たくなる。

季語に「目借時」があって、蛙の鳴くころは眠気を催すことが多く、これは蛙に目を借りられるためという。筆者もうとうとと眠たくなることがある。

★ 眼鏡ごと貸してしまいぬ目借時

こんな即吟を試みた。筆者さすがに「眼鏡ごと」そっくり貸したことはない。だが、親父の最晩年にはこんな光景を見たことがある。目は見るためのもの、眼鏡はさらに良く見るためのもの。この二つを気前よく蛙に貸してしまうとは。親父よ、情けなかったぞ。嗚呼。(06/04/10)

 

 『四十雀』190

昨年の秋から冬にかけて、愚庵の中庭の小鳥の餌場にエサを置くことをしなかった。体調も芳しくなく、また雑事にかまけていた。あるいは、勝手気侭に過ごしたと言えばいえるだろう。

今年に入って3月の半ば、思い立って餌場にピーナッツを置いてみた。数ヵ月にわたって小鳥が訪れることはなかった。ちらと見かけることさえなかった。従って、エサを啄ばみにくるとは思ってもみなかったのだが、四十雀(シジュウカラ)が訪れたのである。

最初にペアらしい二羽がきて、次にこれもペアらしい二羽が交互に訪れた。餌台から砕いたピーナッツ片を銜えて小枝にとまり、両脚で抱え込むように押さえつけて、嘴で突いて食べるのである。小枝につかまりながら尚且つピーナッツ片を固定し、こつこつとほじるように啄ばむ。

下手をするとピーナッツ片を落とすか、脚をすべらせて鳥自身がこけてしまうのではないか。鳥はお前さんほどトロクないよ、という陰の声も聞こえてくるが、これはなかなかの高等技術であると筆者には思われるのだ。まことに巧みなのである。動作がまことに可愛いのである。

ところで、半年以上ほとんど訪れることがなかった餌場。狭い庭の小さな餌台の砕いたピーナッツを、かれら四十雀は最初いかにして発見するのだろうか。かれらは日頃テリトリーを巡回し、上空からエサを見つけているのだろうか。小さくても鳥だから、文字通り天空から「鳥瞰」するのだろうか。ピーナッツの匂いが、味覚をそそるように風に乗って漂っているのだろうか。

四十雀は小枝にとまって、小豆大(大豆大もあり)の破片のピーナッツを、7〜8回せわしげに突いて食べる。そして最後に残った小さな破片を銜えて、放るように飛ばす。あきらかに脚からこぼれてしまったものでなく、意思をもって「放る」動作に見えるのだ。毎度必ずというわけではないが、この行動はいったいなんだろう。再び訪れたときの自分のためか、ペア乃至は同類のためのお福分けか、はたまた一種のマジナイだろうか。

3月29日にはピーナッツからクルミに変えた。どちらも食べるが、クルミの方がお気に入りらしい。

小鳥は可愛い。大鳥は悠悠としてゆるぎない。「鳥は〜人間の〜タマシイ〜運んでくれる〜」。開発途上国の一部の人たちはそういうが、筆者もそう思っている。(06/04/01)

 

 『かりそめの影』189

() 大きな蜂を殺した。赤黒いオスの足長蜂を、千枚通しのような道具を使って串刺しにする。蜂は板の上でもだえつつ、尻から長い針を突き出す。千枚通しを一旦抜き、ふたたび蜂のくびれた胴体にむかって突き刺す。胴体が千切れそうになるのだが、蜂はそれでも死なない。それどころか隙あらば、筆者の指先に襲いかからんばかりである。

だがしかし、千枚通しの執拗な攻撃に、足長蜂はあえなく息絶えた。筆者は全身にじっとりと脂汗をかいた。

() 義理の兄さんが訪ねてきた。取り壊す以前の、築九十年の古家の二階に通した。兄さんの連れ合いはK病院に入院していたのだが、経過よろしく近々めでたく退院の予定とか。このことは兄さん夫婦も筆者も周知の事実であるはず。なぜなら、すでに電話で連絡があったのだから・・・。

ところが兄さんは、「家内は入院などしていない」という。とぼけているとしか筆者には思えない。二階の間取りなど見ながら、「天井は張り直した方がよい。唐紙を障子に取り替えよ」などと余計な口をはさむ。筆者は「姉さんのお加減はいかがですか」と問いかける。話がいっかな噛み合わない。何だか、とんちんかん。

「大きな蜂を殺した」のは、筆者のきのうの朝の夢。「義理の兄さんが訪ねてきた」のは今朝の夢(3月25日)である。この頃ほとんど毎朝夢をみる。悪い夢をみることが多い。降圧剤のミロベクト50を朝食に一錠服用していたがホームドクターの処方により、加えてブロブレス2を夕食時に飲んだ。()()の夢の相違は、それと関係があるだろうか。

とまれこうまれ、筆者は虫が苦手なのであるが、分けても蜂は少年の頃から大嫌い。また姉さんの退院予定は現実であるが、古家は15年も以前に取り壊してしまった。是ってなんだろう。夢ってなんだろう。フロイト先生、教えてくださいな。

以下はA・ビアス 著『悪魔の辞典』「生存」より。

 

束の間のとりとめもなき悪夢なり

そこではものみな空しく ただかりそめの影ならむ

添い寝の友の死神にやさしく肘でこづかれて

夢から醒めれば われらは叫ばむ「おーナンセンス」

(06/03/26)

 

 『痛みの松竹梅』188

「万病」という言葉がある。「風邪は万病のもと」とか、「万病の薬」とかいう言い方がある。むろん万という、とてつもない数ではないが、誰もが加齢とともに病気の数が増す。つまり持病を抱え込むことになる。宿痾の身になってしまう。

筆者、数年前から右肩が痛くて、その当時は外科を受診して注射や痛み止めの薬の服用、栄養剤などの処方を受けていたが、快方に向かうことはなかった。未だもって治ることはない。一進一退、気圧や寒暖によって違いはあるものの、大勢として悪化の一途をたどっているといってよい。一年ほど通院しただろうか、以後は諦めて病院の門をくぐらない。

症状としては五十肩の感じで、肩甲骨のあたりが痛む。手を上げること、手を水平に伸ばすこと、手を伸ばして指を動かすこと。これらの動作のときに疼痛を引き起こす。僧帽筋という筋肉が傷んでいるのか、靭帯と筋肉をスムースに働かせる潤滑油が不足しているのか、その両方かもしれぬ。自己診断では、長年の酷使による金属疲労だろう。

ギクッと激痛が走って、物を落としそうになったり、声を発したりする。そのままじっとしていると、痛みはじょじょに引く。車の運転など手数を多く使ったときには、夜中に目が覚めるくらいに「だる痛い」。この場合は激痛ではなく、名状しがたい痛みなのである。あえていうなら「えぐ痛い」と表現したくなるような、いやな、へんな痛みなのだ。

現在も負担をかけないように、無理をしないように、この症状と付き合っている。じつは家人も筆者同様、肩の疼痛を訴えている。

「人間痛いうちは死なない」というものの、痛いものは痛い。痛いといっても、どの程度の痛みか。夫婦でも親子でも、相手の痛みを的確に理解することはできない。冷たいようだが理解できない。山本夏彦氏は奥様が病気になられて「痛い、痛い」と訴えるが、いかほどの痛みか知ることができない。それで、「痛みの段階(レベル)を松・竹・梅で申せ」。すると奥様は、「痛い、痛い、竹!」と告げたという。ずっと以前、新聞の文芸欄の「かこみ」で読んだ記憶がある。(うろ覚えで、内容はこの通りではない)

夏彦氏に習って我らもときどき、「おっ痛、梅!」と叫ぶ。もっとも冗談めかして叫ぶのだから、大して痛くない証拠だ。

前振りにからめていえば、筆者も万病ならぬ数病かかえている。肩が痛むのはそのうちの一病というわけだ。(06/03/19)

 

 『メールの遅配』187

パソコンを使ったメールの送受信は、瞬時にして即刻、あっというまに伝達するものと思っていた。ところが、どっこい、そうでもないらしい。

3月9日のこと、起床して「アウトルックエクスプレス」を開けたが、新着メッセージなし。そんなことはありえないと、クリックで2・3回開け閉めしたが、なしのつぶて。仕方がないので二十分ほど時間を置いて開けたら、ドカッと40余通投げ込まれた。「郵便受け」に入りきれないほどに。

旧臘の20日のものや、1月から2月のもの。種別では、コウリガシやエンジョコウサイらしき迷惑メールから、カラシメンタイコやムセンマイなどのグルメ情報。ところがなかには、連句関係のものも。Y・Yさんからのご連絡や、連句を勉強したいとおっしゃる初めての方のメールもあった。原因は不明であるが、お詫びの返事をしたためたのであった。

つい最近も、送信時間から二時間もかかってわがPCの「郵便受け」に入り、それが即刻見ることができず、3回ほど開け閉めするうちにやっと読むことが出来た。ということがあった。

それで思い出すのが、昨秋のこと。兄上からメールがきて、「ようやく春らしくなり、ぼんやりと霞む山並みを眺める日日だ」という文面だった。

秋も10月頃にきたメールだったので、「兄上もとうとうきたか」と思ったものだ。ところが、知るともなしに知ったことは、これが3月に送信したものだということ。早速に返事を書かなくてよかった。このときはこの一通のみだったが、びっくりするではないか。

一応、二応も知って置くほうがよいと、サーバに電話して聞いてみた。

1:それほどの遅配は普通はありえない。1:同文が複数回くる場合は何かのトラブル。1:時間のずれは、相手方PCの時間の設定によることも。メールソフトの違い、互換性によって時間差が出ることも。1:メールサーバの入替工事を行ったので、それが原因かも。(メール保存領域5Mバイトから50Mバイトになる)

「ドカッと40余通」は、やはり「排水溝」が詰まっていたのではないか。結果的にサーバの「溝浚い」工事をしたせいではないのか。工事はかまわないが、大切なメールが何処かに引っ掛かっていては困るのである。(06/03/10)

 

 『小泉さんと「だいだらぼっち」』186

当市のお隣の茅野市に、大泉山と小泉山という二つの山がある。この二つの山は、大男の「だいだらぼっち」が、諏訪湖を平らに埋め立てようと運んできた土塊(つちくれ)だという昔噺がある。

「だいだらぼっち」は、「大太法師(だいだぼうし)」とか「でいらぼっち」とか、あまたの名前をもつ絶大な怪力の持ち主のこと。富士山を一夜でつくり、榛名山に腰をかけて利根川ですねを洗ったという伝承もある。この大男にかかったら、諏訪湖の埋め立てなんぞ朝飯前の仕事に違いあるまい。

それはそれとして、八ヶ岳は峰からなだらかな傾斜で麓に下ってくるのであるが、そこに唐突に突き出たキテレツとも思われるかたちの大小二つの山の姿。その山容から想像して、そのかみ巨人伝説が生まれたというのも、うべなうべな。

なんでもこの土塊は、マグマが深い地中でかたまった深成岩でできていて、周りを八ヶ岳の噴出物が埋めているのだそうだ。

ところで「小泉山史跡名勝見所ハンドブック」を、地元の小学生たちが作った。活動は二年にわたっていて、山に登った回数も10回におよぶ。生徒たちの次のような感想が記されている。

「小泉山は、ぼくをワクワクさせてくれました」「小泉山は、永遠に私の故郷です」「とても楽しかったです。また登りたいです。ありがとう小泉山」。(3月2日。長野日報・八面観。抜粋・要約)

話はコロッと変わる。ガラッと変わる。今年の9月に任期がきて、自民党総裁が変わる。現在の小泉さんは身を引くと宣言しているので、おそらく他の誰かがなるだろう。早手回しにいうなら、「小泉さん長きにわたってご苦労さんでした」となる。

「小泉さんは、ぼくをワクワクさせてくれました」・・・(ブッシュ大統領)

「小泉さんは、永遠に私の故郷です」・・・(小泉チルドレン)

「とても楽しかったです。ありがとう小泉さん」・・・(小泉劇場の観客)

さてさて、小泉山(こいずみさん)のこの土塊であるが、これを諏訪湖の埋め立ての用土として使ってよいものか、どうか。「だいだらぼっち」は思案投げ首の体である。

なんでも土塊には、郵政民営化、耐震偽装、輸入牛肉、社会格差などの産業廃棄物が混ざっているというウワサなのだ。不法投棄をして、下手なことをして、100年後そして1000年後に禍根を残してはならない。「だいだらぼっち」にも誇りがあるのである。申し遅れたが、「小泉山」は「こいずみやま」の読みが正しい。念のため。(06/03/03)

 

 『ウェブ連句』185

当ホームページの俳席で、「付勝」の連句をはじめた。付勝は一般的には何名かの連衆が付句を提出し、そのなかから良いと思われる句を捌きが治定するのであるが、ここでは早い順を優先した。治定された方は二句〜三句遠慮してもらい、その間は、まだ付けてない方を最優先にして付けるというスタイルをとった。

六名で歌仙一巻が、二週間で巻きあがった。現在は世吉(よよし)が進行中である。多い日は五句ほど付けるが、インターネットを駆使して、そんな遅遅とした歩みかと、せせら笑う向きもあろう。チャットや掲示板やブログなら半日、一日で軽いものさ、といわれてしまいそうだ。

だがしかし、チャットや掲示板など「公開の場」は気恐ろしくて利用できないでいる。中傷や誹謗や、いかがわしい宣伝の書き込みなども多いので。(ブログや一部の掲示板に非公開の制度はあるが、ホームページ上の掲示板の非公開はないようだ)

旧聞に属するが、ネットで自分の句が採用されない不満から、これほど優れた句が治定されず下手くそな句ばかりを選んでいる、これでは自分の技術が活かされないと嘯いた人がいたときく。嗚呼、親和を旨とする連句の世界でも・・・。

愚息(当時はHP関係の本を共著で出版)は、筆者がホームページを開設するにあたって、掲示板は作らないほうがよいと進言してくれた。メリットはあるが、デメリットも。わずらわしいことが起きると、HP運営自体がいやになってしまうと。

それに、掲示板に2年も3年も訪問者が一人もいない例をよく見かけるが、あれは流行らない店のようで情けなくなる―。

話がそれてしまった。早い順の付勝というスタイルには即興の覇気が感じられる反面、連衆の方がタイミングを逸したり、折角付けてメールしたのに先着があったりして「空砲」になってしまうケースもたびたび。皆さんベテランの方ばかりで、「空砲」は捌きとして大変心苦しく思っている。

またパソコンをスタンバイして待機しているので、捌きの立場としても目や肩に相当な疲労がたまる。見学者やサポーターの五・六人から「スピード感があって、活き活きしていて、おもしろい」という応援をいただくが、今後つづけるかどうかは思案中。

かくして、ウェブにおける連句興行の試行錯誤はつづく。(06/02/24)

 

 『新しき酒・・・』184

「新しき酒を古き革袋に盛る」ということばがある。これは新約聖書のことわざから出ていて、新しい思考や行動を興すときなど、古い形式や手法を踏襲しながら興すという意味でもあろう。ところがこれが、本来の解釈とは全く正反対の意味に解釈されているのである。

「新しき酒は古き革袋に盛るな」が正しいことわざ。古い革袋に新しい酒を入れたりすると、袋が破れて酒がこぼれてしまう。聖書のいうところの酒とは葡萄酒のことだが、古い革袋は革が硬くなっているので、そこへ新しい葡萄酒を入れるとする。そうすると、葡萄酒はまだ発酵しつづけているので体積が増す。ガスも発生する。従って袋は破れてだめになり、葡萄酒は飛び散ってむだになってしまうというのだ。

「新しき酒は新しき革袋に盛れ」とキリストは説き教える。葡萄酒は真理、古い革袋は法令・審判の比喩とも。

この新約聖書のことわざを巡る解釈は、キリスト教関係者や宗教家の間では「盛るな」で通っているのだが、一般に知られる解釈では「盛る」が多いといわれる。

現実を眺めたとき、新しい内容が古い形式に入っている事実や、入らなければならない事実が多いように思う。新しいものと古いものとの融合によって、真に新しいものが生まれる可能性がある。新しい感覚は古い下地によって、より新しくもなるだろう。

正当でない解釈が幅を利かせるには、それなりの理由があったのかもしれない。

当HPの「俳席」において、世吉という形式の俳諧をはじめた。そこに「古き革袋に新しき酒(葡萄酒)を盛り」というコメントを書いた。この場合は「誤解釈」ともいえる一般に知れ渡っている慣用を用いた。念のため書きおく。

「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」は、近代オリンピックの復活者であるクーベルタン男爵が引用したことばだが、これも原典はローマの詩人ユウェナリスの詩の一節で、そもそもの意味は「健全な身体に健全な精神が宿らんことを!」だ。「宿れよかし」である。身体が健全でありながら、精神が往往にして健全でないことに慨嘆したのが詩人の本意だったのだろう。

古い革袋と合わせて、ことばの伝わり方は不思議というか、面白いというか。伝わり方で社会が見えてくるような気がする。(06/02/17)

 

 『持てば懐炉の日和あり』183

誰もがご存じと思うが、懐炉というものがある。わざわざ説明するまでもないが、説明する。

懐中にいれて暖をとる器具。寒いときに使うほか、医療上では温罨法(おんあんぽう)として、神経痛や神経性腹痛など局所を温める必要がある場合に用いる。

元禄はじめの発明で、熱した石を布に包んだもの、さらには熱く煮たこんにゃくなども用いられた。金属で造った小さな容器に、懐炉灰に火をつけていれて密封するものや、揮発油を用いるものもある。近頃では活性炭・鉄を使った「使い捨てカイロ」が、その使用方法の簡単さから普及している。ちなみに冬の季語である。

筆者は青年のみぎり、神経性腹痛や胃腸カタルなどを患ったため懐炉が手放せなくなった。当時は懐炉灰や揮発油のものを用いたが、昨今ではもっぱら「使い捨てカイロ」を愛用している。それも冬期だけでなく、年中欠かせない。一日一個、朝に封を切って夜中まで懐中にいれ、腹部や丹田を暖める。ときには移動させて肘を暖めることもある。これがないと、体調をくずす。夏は汗をかきかき、それでも愛用これ努めている。

ところで、次のような記事をみつけた。(京都新聞2月8日)

「厳冬が続く京の町、使い切りカイロが手放せない人も多そうだ。京都市下京区の発掘調査では、中世のカイロ「温石(おんじゃく)」が多数見つかったことが8日までに分かった。壊れた石釜を再利用したもので、庶民の生活の一端をうかがわせる。
 2007年開校予定の下京中建設に伴う京都市埋蔵文化財研究所の調査でみつかった。中世を中心に平安後期−江戸後期のごみ捨て穴などから19点出土した。手のひらサイズで、整形途中の未完成品や穴を空けて銅線を通したものもあった。
 関西を中心に多数出土しているが、これほどまとまって見つかるケースは珍しい。市埋文研の調査では、熱湯に入れた後、タオルでくるむと2時間後でも38度が保たれたという。
 「製品として市販されるのは江戸期になってから。それまではどこの家でも手作りしていたようだ」と市埋文研。底冷えの厳しい京の冬を生き抜いた庶民の知恵か。
 京都地方気象台によると、京都の8日の最低気温は1・9度と平年(0・7度)よりやや暖かかったが、同日夜は再び冬型の気圧配置が強まる」。

★ 京の夜は鐘が冴ゆると思召せ   零雨

思えば信濃にあって、懐炉とともにある筆者であった。(06/02/11)

 

 『お勉強』182

テレビのゴールデンタイムで、お笑い芸人や歌手やアイドルたちが、頭脳パズルや語学、算数や地理などの勉強をする番組が多い。クイズ形式でおもしろおかしく解答し、それぞれの成績のランクの発表もある。

問題を出すとき、最初は「解答」を伏せてあるので視聴者もテレビを観ながら参加できるシステム。ワイワイガヤガヤから、ハイレベルの勉強まで、こんな番組が流行っているようだ。安い制作費で出来るメリットがあるかも知れないが、「お勉強」が昨今のテレビ視聴率稼ぎのキーワードだろうか。

またネットサーフィンしていると、「右脳を鍛える・脳鍛錬ゲーム」「あなたの脳年齢をチェック」などのページがある。至極単純なものが多いが、暇つぶし(本当は自分では、多忙だと思っている)に挑戦して、40歳という結果に北叟笑む。(本当は自分では、30歳の成績だと思っている)

実をいうと愚庵には、任天堂の「ニンテンドウDS」というハードがあって、「やわらかあたま塾」「脳を鍛える大人のDSトレーニング」「もっと脳を鍛える大人のDSトレーニング」なる三本のソフトも持っている。

ハードは、てのひらに乗るくらいの簡単な器械。これにソフトを差し込んだり、取り替えたりして多種類のお勉強ができる。というか、ゲームができるのだ。筆者と家人が、日夜トレーニングに励んでいる。

漢字や言葉の記憶、漢字パーツの組み立て、足し引き×÷の算数即答。二つの容器の銀貨の多寡の見分け、影絵の物体見つけ、ラッパや汽笛など音を発する順番や数覚え、家屋への人の出入り人数カウント、動物アミダくじ。じゃんけんゲームなど、など。

図形や動物、鳴き声など気軽できれいで楽しいが、結果がなかなか付いて来ない。そのときどきで成績は変化するが、筆者は38歳から65歳くらい。家人は28歳から56歳くらい。ひどいときは実年齢とぴったり。やんぬるかな、だ。

何でもこのソフトで鍛えていれば、認知症にならないと識者はのたまう。うろ覚えだが、「じゃんけんゲーム」の松島奈々子さんが52歳と出て、「まじかよ」と言うテレビのコマーシャルか、宣伝コピーがあった。あの方が憤慨されるのだから、筆者も憤慨することにしよう。(06/02/03)

 

 『芳紀18億歳の宇宙さん』181

宇宙は137億歳といわれる。「時間は伸縮する。空間はゆがんでいる。そもそも時間は独立して進行しない。空間と切り離せない時空としてある」。

「こうした宇宙論の扉を開けたのがアルバート・アインシュタイン(1879〜1955)であり、その理論から<E=mc2>という20世紀で最も有名な方程式が導かれた。cは光速で質量()が莫大なエネルギー()に転化しうる。単純で美しいともいえる式は、一方で核爆弾の根拠でもあった」。

このようなアインシュタインの宇宙論から推測すれば、137億歳は、80億歳とも50億歳とも18億歳とも推定することが可能だろう。宇宙は芳紀18億歳といったところで、誰も否定はできまい。そういうこと、時の概念とは、そういうことかもしれない。

「自分が生けるもののすべての一部だと感じるので、この永遠なる流れのなかにあるひとりの人間の具体的な存在の始まりや終わりなど少しも気にかけません」、とアインシュタイン。( 『アインシュタインは語る』大月書店)

また、アインシュタインの宇宙論を発展させた車いすの天才といわれるホーキング博士は、地球の温暖化について、「宇宙から見れば人類の滅亡は、小さな惑星にできた科学物質の泡が消えるだけのこと。でも、孫たちに未来があるかどうか、私は憂う」と、英紙のインタビューで語ったという。(朝日新聞「時の墓碑銘(エピタフ)」小池民男。引用)

犬や猫などの年齢について、人間の年に換算すると何歳になるという言い方がある。蝉は地中で数年かかって成長し、地上では数時間で死んでしまう。さまざまな生きとし生ける物の寿命は異なるし、個体によっても異なる。

以前に『ゾウの時間ネズミの時間=サイズの生物学』(本川達雄著・中公新書)という書物を読んだが、動物のサイズが違うと機敏さが違い、寿命が違い、時間の流れる速さが違ってくる。ところが、心臓の打つ総数や体重あたりの総エネルギー使用量はサイズに関係なく同じだというのだ。

何年生きている、のではなく、私という存在に対して時が流れてゆく。貴方という存在に対して時が流れてゆく。私が何歳という数え方はなく、貴方が年より若いという考え方も成り立たない。

地球の一年、蝉の幼虫の一年、フンコロガシの一年、私の一年。一年という数え方自体も曖昧模糊としている。とまれこうまれ、宇宙を汚染させることは避けたいものだ。

引用ついでに、ペルシアの大昔の詩人であるオーマ・カイヤムの詩をかかげる。

「時は今 我が足下を滑りゆく」。

「いず地より また何ゆえと知らで この世に生まれきて 荒野を過ぐる風のごと 行方も知らに 去る我か」。(06/01/27)