コラム「その9」

トップページへ
メニューへ

180「アビくんの句読点」
179「アビくん、誕生日おめでとう」
178「ヘビとハムスター」
177「俳句「御田大」のこと
176「虚実皮膜について」
175「悲しい地平線」
174「悪魔祓い」
173「ショック療法」
172「風のうめき声」
171「地球は大丈夫?

170「感動の履歴」
169「わが不発弾」
168「Nさんから―」
167「トイレの呼称」
166「測りきれないもの」
165「日暮PC。(27)」
164「流鏑馬」
163「わが地引き網」
162「アビちゃん」
161「呪文と呪術

 『アビくんの句読点』180

アビくんが東京に帰ってしばらくのち、何気なしに筆者の手が絨毯に触れたとき、「痛っ!」ときた。血は出なかったが、「お父さん指」の付け根付近の皮が剥けていた。あたりを見廻すと、アビくんの小さな焦茶色の爪が落ちていた。爪を研いだとき、こぼれ落ちたものだろう。

話はガラッと変わるが、群馬県高崎市の元高校教諭、大類雅敏さんは句読法を研究して40年になる。『句読点活用辞典』など著作も多い。同学の士が集まると「モーニング娘。」の「。」は是か非かなどと議論に花が咲くそうだ。

大類さんによると、西洋ではプラトンの昔から句読法が盛んに研究されてきた。コマンド、ピリオド、セミコロンと種類も多い。日本では紫式部のころには文章に句読点がなかった。疑問符や感嘆符も江戸期の輸入品であるという。以上は朝日新聞「天声人語」からの抜粋である。

短歌には句読点を打つ試みはすでに見られるが、俳句はどうだろうか。浅学にして確かなことは言えないが、これまであまりなかったように思う。連句についても確認できていない。

句読点は、現在、句点には「。」、読点には「、」と辞書にある。「句読法」という文章おける句読点の用い方はあるが、句読点は日本語についてはいまだ明確に確立されていないらしい。

ところで、詩歌や韻文における句読点とは何か。句読点を用いて作歌する歌人の主張、それに反駁する歌人などの論争は遠い一時期に読んだ記憶がある。それはさておき、筆者の考えをここで述べなくてはならない。

定型である俳句や短歌には字数(語音)の制限があるが、たとえば句読点は、「音なき音声」、つまり音数に数えない言語と言えると思う。さらにいえば、人間の息遣いや感情の揺り戻し、反語を思い起こしイメージさせる効果など、さまざまな効用が考えられないだろうか。

筆者はこれまで連句の付句に付して、「」や、()や、「!」や、「?」などを試みてきた。(これらも広義には句読点である)。相当の効果を上げたと自負できるし、これからも続けようと思っている。俳句については、現在のところ考えがまとまらないというのが正直のところだ。

さて冒頭の、「アビくんの爪」。これはアビくんが生きていることの、野性児であることの「句読点」なのではないか。私たちも日日、「句読点」を打ちつつ生きている、生活している。朝刊を読み終えて「、」、コーヒータイムの「。」。そんな一区切りに思われてならない。(06/01/19)

 

 『アビくん、誕生日おめでとう』179

アビくんが遊びにきた。旧臘も31日の23時余分に顔をみせ、1月4日の16時余分まで一緒に過ごした。

アビくんは東京住まいの猫である。以前このコラムに書いたと思うが、アビシニアンというイエネコで、アフリカのアビシニアン高原(エチオピア高原)が産地で、古代エジプトの壁画に描かれている猫とされている。それから「アビ」と名付けたそうだ。因みにアビくんは「♂」(坊や)である。

四日ほどアビくんと過ごした。筆者は人間であるので、正直のところ猫の気持ちはわからない。猫語も話せない。アビくんは猫なので、筆者の気持ちも人語も多分わからないだろう。筆者が起床してリビングにいると、近寄ってきて体を擦り付けて通り過ぎる。意思をもった行為のように、擦り付けてゆく。筆者は彼が通りしなに、彼の頭から尻尾にかけての毛並みを撫でてやる。それが両者の挨拶だった。

ある日ある時、磨りガラス越しにアビくんと「影絵遊び」をした。筆者がガラス戸に映して指を動かす。その指の影絵を彼はガラス越しに見ていて怪訝な顔をして窺う。不思議がる。そして開けてあるガラス戸のこちら側を覗き込み、「からくり」を知ろうとする。からくりを確認した後に元の場所に戻って、ふたたび筆者演ずる影絵を眺めるのである。

「わたしとアビくんが過ごした朝のリビング」「磨りガラス越しの影絵」。そのほかにも「刺身に狙いを定めるアビくん」「鏡餅の上の蜜柑を落とそうとするアビくん」「座椅子の背もたれで思いきり爪を研ぐアビくん」・・・。

考えてみると猫は動物である。よくよく考えてみると、人間も動物である。猫語があって筆者がそれを理解したところで、また猫が人語を理解してところで、それがいったいなんだろう。人間は笑う。猫は笑わない。人間は泣くが(「鳴く」ではない)、猫も鳴く。人間側の感じ方で何かが違うようであっても、動物として本当はあまり違わないのではなかろうか。

しばしの時間を「わたしとアビくん」は共有した。「わたしとアビくん」の他にも、人間やガラス戸や座椅子が存在した。者や物たちが「同じ時間のなか」に在った。「その時間」は筆者の記憶にあり、筆者が消滅するまで在りつづけるだろう。生きているとは「そこに在る」ことかもしれない。

きょうはアビくんの誕生日。おめでとう。一歳になったからマタタビ酒を上げようか。飲めるだろう?「アビちゃん」から「アビくん」に、呼び方を変えよう。(06/01/12)

 

 『ヘビとハムスター』178

「ブッシュとビンラディン」が、並んで握手している写真がある。並んでというのは正確ではなく、カウチに凭れかかっているブッシュの背後からビンラディンが手を差し伸べ、おどけたような顔をして髭をゆらしながら握手。ブッシュも苦笑い、まんざらでもない様子だ。

「ブ氏」は「ビ氏」をならず者呼ばわりして敵対視したが、ビ氏のおかげで武器が売れ、めぐりめぐって武器商人からの献金に預かった。ビ氏はビ氏で、「9・11」によってブ氏の鼻をあかし、アラーの神に近い名声を得た。表向きはともかく、内心では両者とも憎からず思っているのは周知の事実である。

事実、そう。「事実は小説より奇なり」は、嘘でも夢でもない。夢、そう。「夢想は現実のはじめなり」は、どこのどなたが言ってことばであろうか。

話はがらりと変わる。次のようなニュースを目にした。

「友だちだから食べないよ」という大見出し。「ヘビとハムスター同居―ムツゴロウ王国―」という、サブタイトルの新聞記事がある。(長野日報)

東京都あきる野市の東京ムツゴロウ動物王国で、本来は捕食関係にあるヘビとネズミが仲良く同居し、来場者を驚かせている。(=写真)。約2カ月前、アオダイショウの生き餌にとハムスターを与えたところ、これが仲良くなり、今では自由に走り回り、とぐろの中で眠る光景も。ハムスターは「ごはん」と命名されたが、結局ヘビは冷凍マウスを食べて暮らしている。

スタッフの石川利昭さんは 『動物が仲間同士であることを確かめるために、鼻を付け合ってにおいをかぐ確認行動もみられ、完全に仲間だと思っているようだ 』と不思議な関係に首をかしげていた」。

「ヘビとハムスター」というタイトルに、「ブッシュとビンラディン」なるタイトルも並べてみたいものだ。(06/01/06)

 

 『俳句「御田大」のこと』177

☆ 芋教授竹輪博士や「御田大」

☆ 蒟蒻のせくはら許せ「御田大」

☆ IQは雁擬きなり「御田大」

☆ きゃんぱすのつみれ娘も「御田大」

☆ はんぺんの落ち零れてや「御田大」

上記の五句は俳誌「くさくき」1月号に掲載された拙作である。「御田大」とは、「御田」が冬の季語である「おでん」。「大」は大学の略。つまり関東焚きの煮込み田楽に、日本の大学の現在の姿を見立てようとする、あるいは大学の教授や学生の姿を、田楽の煮込み材料に見做そうとする、そんな俳句だ。

「蒟蒻」は「こんにゃく」。「せくはら」は「セクハラ」。「雁擬き」は「がんもどき」。「きゃんぱす」は「キャンパス」。「零れ」は「こぼれ」。念のため、ルビなどを付す。

俳句という短い詩形になにを言わせるか。たとえば、写生とか人間探求派とか大雑把なジャンル分けはできようが、俳句は「言語パフォーマンス」「言語リアクション」だと、筆者はつねづね思っている。「言語」を限定的に「季語」に置き換えてもよい。

「言語パフォーマンス」とは、言語の性能、動作、演技。偶然的手法による運動感覚、ハプニングを含む瞬間芸のおもしろさ。

「言語リアクション」とは、言語の両義性や多面体に対して異質なものを取り込むことによって起きる、反動、反応、反作用を表現すること。そこから発生する、比喩、揶揄、ウイット、ユーモアも含まれようか。

小難しいことを羅列してしまったが、冒頭の拙句にもどって自解することにしよう。「芋」は筆者の好物のひとつでもあるが、「ありゃ芋だ」とか、「芋姉ちゃん」だとか、「オナラの素」だとか軽蔑の意もある。「竹輪」もおいしいが、芯が空洞になっている。

「蒟蒻」は「今夜食う」のダジャレも。腸のお掃除屋さん。ぶるんぶるんと揺れる形状に物を言わせて、セクシャルハラスメントしちゃうかも。そんなときは笑って許して。

「雁擬き」は雁の肉に味を似せることから。「なになに擬き」はIQの分別法にも通じないか。

「つみれ」は魚のすりみに卵・小麦粉・塩など加えてすり合わせ、まるめたもの。「つみれ」は「すみれ」で、宝塚っぽくない?

「はんぺん」は魚のすり身に澱粉・山芋の粉末を加える。半片とか半平とか書くけど、半人前というか、脳タリンっぽくない?

以上は「言語パフォーマンス」「言語リアクション」の、ナゾ解きの一助にして下さればありがたい。(06/01/01)

 

 『虚実皮膜について』176

「虚実皮膜」ということばがある。芸は実と虚との皮膜の間にあるというもの。つまり、真実と虚構との中間に芸術があるとするもので、近松門左衛門の語として知られる。これは演劇について言ったことばであるが演劇のジャンルのみならず、詩歌や連句についても言えることだろう。筆者はこのことばが好きで、ところどころで書いてきた。

また話はかわるが、葛飾北斎や安藤広重の絵画手法におけるトリック、表現の誇張も瞠目すべきことだ。必ずしも事物に即していない正確でない描写は、浮世絵の根幹をなしているといえよう。

こうした効果を狙ったトリックや誇張は絵画のみにとどまらず、詩歌や連句のジャンルにも取り入れられていると思うのだが、どうだろう。いずれにしても、この上さらに深化させたいものと思っている。

たとえば連句は、事実を報告するレポートではない。また真実を伝える伝記でもない。それなら連句とはなんだろうか。答は性急に出せないことながら、あるいは答は出さなくてもよいことながら、虚実入り混じったトリック、凹凸レンズを通して眺めるような誇張の世界であってもよいだろう。連句の捌はエンターティナーでなくてはならないのだ。むろん絵空事を連ねろと言っているのではなく、あくまで「皮膜の付合」を求めてのことではあるが・・・。

今年の1月7日に書いた「鳥について」の当コラムが126回だった。ともあれ、176回のこれが今年の掉尾のコラム。よくもつまらないことをと思われる方もいよう。実際に手抜きもなかったとは申せない。しかしながら、多少は連句や現代詩への提言もあったと自負できる。

とにかく生きて書いてきた。クリックして読んでくださったファンの皆さんに感謝を申し上げたい。(05/12/27)

 

 『悲しい地平線』175

ラクダには、こんな伝説がある。

モンゴルのラクダは象やライオンみたいに強い。むかし神様はラクダに角をくださった。ある日、ずるい鹿が来て角を貸してくれと頼んだ。角を頭に飾って西のお祭に出たいと。心優しいラクダは、その言葉を信じて角を貸してやった。

それ以来いつも、ラクダは地平線を見つめるようになった。鹿を待っているのだ。

(以上は、モンゴル南部、ゴビ砂漠の映像。映画「らくだの涙」の台詞より)

わたしは地平線を見つめていた。

地平線をかげろうが行き過ぎる。けむりのような、ゆげのような、ときには幌馬車のような、列車のような。だが、わたしの視線からわたしの身中に飛び込んでくるものはない。

お祭に帽子を貸してあげたよね。ちびた鉛筆も貸してあげたよね。鉛筆はちびているから返さなくてよいが、親父から買ってもらった帽子は返して欲しかった。貸してやった鉛筆で文字を書いている君の幻。貸してやった帽子をかぶって行き過ぎる君の幻。君のことばを信じて地平線を見つめていた。

わたしは待ちつづける。ひたすら待ちつづける。戻って来ないものを待ちつづける。ラクダは待ちつづける、鹿を待ちつづける、地平線を見つめて。

ときは過ぎゆき、ラクダの瘤には脂がたまり、首のまわりは毛むくじゃらになり、わたしの視力は衰えて目脂がたまり、垂れさがるコウベを辛うじてささえる。

ラクダの地平線、わたしの地平線。けむりのような、ゆげのような、ときには幌馬車のような、列車のような、かげろうが行き過ぎる。

(以上は、「かっぱの涙」のト書きより抜粋)

悲しい地平線についての話でした。(05/12/22)

 

 『悪魔祓い』174

「悪魔祓いは、神の許しを得て悪魔つきの体から悪魔を追い払う神聖な祈りの儀式。悪魔はあらゆるトリックを使うが、だまされてはいけない」。

ローマ郊外にあるレジーナ使徒大学。教室の大きなスクリーンから、エクソシストのフランソワーズ・デルミン神父が語りかけた。北部ボローニャからの中継を120人の受講生が見つめる。

カトリック信者の総本山バチカン(ローマ法王庁)公認の大学で、悪魔祓いを行う、「エクソシスト」についての講座が一般の人たちにも人気だ。

イタリアでは魔術師や霊媒師を頼る人が増え、若者の間では悪魔崇拝が流行しているという。「悪魔」への関心の高まりは、世界中で相次ぐテロに象徴される時代に生きる人びとの不安を映しているようだ。

「生きる意味への答えが見いだせない人々が、不安や問題の根源を 『悪魔』に求める傾向があるのではないか」と、人類学専門の神学者ドロ・バラホン神父。

講師らによると、本物の「悪魔つき」は@突然知っているはずがない外国語を話す。A年齢などからみてありえない怪力を持ち、物理的に不可能な動作をする。B十字架など神聖なものを怖がる―などの特徴があるという。以上は朝日新聞12月16日「国際」より要約。

ところで、悪魔サタンという概念は日本人にはなじみ難い。魔物とか化け物の概念が近いかと思われる。魑魅魍魎や妖怪もカテゴリーに入るかもしれない。ただ悪魔は、仏道を妨げる悪神、魔羅という仏教的ことばとしても知られる。

ダンテによると、悪魔は三つの頭を持っているという。山羊の角、尾、割れたヒズメをもつその姿は、パン、サテュルスなど異教の神々に由来しているといわれる。

悪魔にはなじめない日本だが、最近の世相を眺めていると、さまざまなトリックを使った悪魔がいるように思われてならない。見るからにそれと知れる黒装束ではなく、立派な紳士の身なりをして、面構えをして。

三つの頭・・・いろいろと思い当たるふしがありはせぬか。ひとつひとつは善の相貌をして、二つでも善の相貌で、三つになっても一見善の相貌で・・・。だが、だまされてはいけない。優しい善良を装う悪魔を見抜かねばならない。すでに悪魔に憑かれてしまった人は、悪魔祓いをしなくてはならない。(05/12/16)

 

 『ショック療法』173

「官から民へ」という。口癖のようにいう人がいる。「官」とは国家の機関、役所や政府のこと。一方「民」とは、治められる者、一般の人、民間企業のこと。官の積もりつもった弊害を取り除いて、民の活力を呼びこむ寸法らしい。大向こうの喝采を博すること請け合いのスローガンである。とりあえず、いいじゃないか。

郵政民営化は決まったようだ。民営化の本丸、ここを先途と決めようじゃないか。それも、とまれこうまれ、いいじゃないか。

ことのついでに公営ギャンブルである、宝くじ、競馬、競輪、競艇も民営化したらどうだろうか。官が賭博をしているのは、ミットモよいことではない。胴元として甘い汁が吸えるのか、官はなかなか手放さないが・・・。

賭け事は民のものだった。バクチのサイコロ、花札、オイチョカブ、もともと任侠さん極道さんの仕事であった。が、いつのまにか国は「賭博罪」なるものを作ってバクチ打ちを取り締まり、公営ギャンブルを行って、みずからが賭け事の総胴締めになった。「官から民へ」というなら、「歳末ジャンボ宝くじ」も民営化したらどうか。

筆者は「官から民へ」には必ずしも賛成しない。逆に「民から官へ」の転換があってもよい。JRの事故や、マンションの構造設計偽造を見抜けない検査機関を見るにつけ、その念を深くする。

ことのついでにいうなら、歌舞伎町のボッタクリバーは警視庁直営、ファッションヘルスは内閣府直営というように官営化すべき。凛凛しい制服で勤務すべきと思うが、どうだろう。

子殺しや親殺し、不祥事の世を見るにつけ、ショック療法が必要な日本になってしまった。(05/12/03)

 

 『風のうめき声』172

「墓」ポベター・ダンク。

墓 死者が横たわり、医学生のやって来るのを待つ場所。

淋しい墓のかたわらにわたしは立った―

茨が墓にまといつき、

風は森の中でうなり声を上げていた

だがそこに眠る者には聞こえなかった

 

かたわらに立つ農夫に わたしは言った

「ここに眠った男には風のうめき声を聞くこともできないのだ!」

「そうだな 奴あ死んじまったのだ―

どんな物音がしていようと聞くことはできないな」と彼は言った

 

「全くそうだ ああ全くその通りだ―」とわたしは言った

「どんな物音も彼の感覚を刺激しないのだ!」

「だとすれば それがあんたにとってなんだというんだね?―

死人はぶつぶつなんぞ言やあしない」

わたしはひざまずき 祈った 「おお 父なる神よ

彼に恵みを垂れ給え またあわれみを示し給え!」

農夫はそうした間じっと眺めていて 言った

「あんたはこの男を知らんのだろうが」

 (A・ビアス『悪魔の辞典』より)

人が死ぬということは、どういうことだろうか。「死」と「生」が仕切られるときの時間的なもの空間的なもの、それを考えずにはおられない。人はある日ある時、忽然として失せてしまうものではなく、極端のことを言えば、ゆっくりした時空に揺られて死んでゆくのではなかろうか。筆者にはそう思われてならないのだ。

むろん心臓とか細胞とか、一部臓器の事切れるのは瞬時であろうが、精神的心理的あるいは脳細胞の壊死など含めて「緩やかな死」(脳死などもこの範疇)ということも否定しがたい。そうした死の概念もあるのである。

「ここに眠った男には風のうめき声を聞くこともできないのだ!」。もしかして、「風のうめき声を聞くことができたかも知れない」。ま、唯識の世界を、凹凸レンズで覗いてしまった筆者のたわごとだが。(05/12/03)

 

 『地球は大丈夫?』171

今年は紅葉が遅れ、落葉が遅れている。いつまでも美しい紅葉が眺められるかというと、そうではない。遅れて色づいた木の葉の色彩も例年と比較して見劣りする。色斑(いろむら)もある。木にもよるが、緑のままで色づかない木の葉が多い。

季節がめぐっても、いっかな落葉しない。薄汚く紅葉しながら小枝にしがみついている。しがみついて風に震えている。この地方では霜が降り、初雪も観測された。霜月の終わりの気候として、ちょっと変である。かつて眺めたことのないような、へんてこりんな樹木の佇まいだ。

季節がおかしい。自然がおかしい。地球がおかしい。少しだが確かにおかしいと思うのだが、どうだろう?

パソコンに向かって、こんな小文を打っていたら、洋間のガラス窓に何かがぶつかった。なんだろうと暫らく眺めていたら、軒下から四十雀が飛び立った。ガラスに衝突して脳震盪(のうしんとう)をおこし、やがて回復して飛び立ったのだろう。

よかった、よかった。それにつけても、地球は大丈夫だろうか。(05/11/28)

 

『感動の履歴』170

俳句教室や結社の集まりなどでは、作句にあたって風景や人間や事物をよく観察して詠むようにと指導しているらしい。嘱目吟という言葉もあり、吟行において現実に耳目にふれるものを作句することをよしとする。

たとえば、机に向かって作句した「机上作」は、間違った俳句作りといわんばかり。観念的で作り物で、鼻持ちならないといわんばかりである。

筆者は自然のなかで目にふれる事物を詠むこともよいだろうが、室内で机に向かって句を案ずるのも一つの方法だと思っている。それは我が俳句観からそう考えるのである。すなわち俳句は、言葉による精神の浄化作用であるとか、季語による意識や真実の掘り起こし、再発見するものであるとか、簡単に言ってしまえばそんな使命、そんな特質を持っているのではないか。

ところで最近、次のような記事にであった。

『坪内稔典は近著「柿食ふ子規の俳句作法」(岩波書店)のなかで、俳句の作り方を「@感動を表現する」「A表現することで感動に気づく」と大きく二つに分け、「@がより近代的であるのだが、俳句ではAの作り方が多い」と述べている』。

 『Aに作り方は題詠のことで、「俳人たちはしばしば季語を手掛かりにして俳句を作る」が、「季語はもっとも重要な題であり、季語が発想の核として作用している」と坪内はいう。つまり季語が感動に気づかせてくれるわけだ (朝日新聞「時評歌句詩」仁平勝氏)

「表現することで感動に気づく」・・・ことは「机上作」に通じるのではないだろうか。つまり季語という言語によって、意識乃至は無意識にかかわらず私たちの内面が探られて、過去に体験した「感動の履歴」に気がつく。これまで見逃してしまっていた感動に気がつくのである。

言葉にはそういう力があるし、俳句という短詩にはそういう作用があると思うが、どうだろう。朝日新聞の記事を読んで意を強くした。(05/11/21)

 

『わが不発弾』169

不発弾が15個、見つかった。筆者の住んでいるところから、500メートルくらいの湖畔よりである。長さ約35センチ、直径約12センチの小型砲弾。信管は付いていなかったものの、信管を取り付ける穴はあったという。陸上自衛隊不発弾処理隊が慎重に回収したが、爆発が起きなくてホッとしている住民も多かろう。

後日の調査によると4個には火薬が入っていなかったそうだが、その他の11個については未だ確認されていない。

工場跡地の掘削工事をしていて掘り起こした土を積み上げ、土壌選別のベルトコンベア作業から発見されたもの。旧日本軍の砲弾ということだ。この工場は(と言っても、不発弾が発見されたところは売却された一部分)戦時中に軍関係の仕事もしていたが、爆弾は製造していなかったそうだ。謎がなぞを呼んで、当地の初冬のミステリーとなっている。

現在もこの工場は操業しているが、戦時中も戦後もなかなか優秀な工場で、この地方のみならず世界的にも名が知られた企業であった。この工場が羽振りをきかせていたころには筆者は少年であったのだが、未だに多くの記憶が残っている。

不発弾が見つかった場所は繁華街で、日赤病院もあるところ。幸いにも爆発は起きずにすんだ。

「不発弾」。筆者の少年期の、こころの不発弾は処理されたか。そのままになってしまっていないか。信管をつけて錆びたまま、土壌深くに埋まっていないか。「あれ」が、きれいさっぱり処理されているとはとても思えないのだが・・・。

とどのつまり、最期のところで、火気に煽られて爆発ということになったら、どうすべ?(05/11/13)

 

 『Nさんから―』168

Nさんから、高橋睦郎詩集 『起きあがる人』(書肆山田)をいただいた。銀座のサロンコンサート「言の葉ふる夕べ」、詩人高橋睦郎の朗読と語りという会に出かけられて求め、筆者宛名の高橋氏のサインももらって送ってくれた。ありがたく大切にさせていただく。

その詩集の帯に、「歩いている人がいる。/しゃがんで縁の下を覗き込む。/生きることと消滅することとの境い目に手をのばす。/ときに昏倒する。―そして起きあがるだろう。/遁れがちな言葉を誰かに届けようとして。/くりかえし起きあがり、歩きつづけるだろう。」とある。

「しゃがんで縁の下を覗き込む」のは筆者だろう。確かに「歩いている人がいる」のが見える。老いの境涯はそんなものかもしれない。「遁れがちな言葉を誰かに届けようとして」。これも老いの足掻きかもしれない。

これまで詩をわが身に即して理解しようと考えたことは一度もなかったが、そんな理解も邪道ではないだろう。

あれは何ですか 縁の下の

凍てつく闇の奥に わだかまる

あの ごわごわと膨らんだものは?

あれは瀕死の床で 息が止まったら

いま被ている毛布で ぐるぐる巻き

細い麻紐で縦横縛って 投げ込んでくれ

春まで眠らせてくれ と言った人の死体

いいえ 眠りつづけている身体です

生きている夢です あれは

(ルビ省略)

以上は巻頭の詩「起きあがる人」の初聯である。詩について説明し解釈することは詩にとって意味のないことと思うが、人間とか家族とか死生観が根底にあって、言葉が生きる矛盾の深いところを耕している。そんな感想をもった。優れた詩集である。(05/11/04)

 

 『トイレの呼称』167

トイレの呼称、異称、隠語は数多くある。数え切れないほどたくさんある。筆者は普段「便所」ということばを発して用事をたしているが、なんとなく高雅な気分のときは「雪隠」、心持が俗っぽいときは「ぽったんこ」(現在は当庵も水洗だが)、洋画を観ている合間の場合などは「トイレット」という。火急でない、半分瞑想したい気持ちで参るときは「別荘」ということもある。ま、そんなところだ。

そのかみ、高貴な階級では便所を婉曲に言い換えた。「東司」(伽藍の東にあるもの)、「西浄」(西にあるもの)、「雪隠」(北にあるもの)と称した。平安時代の貴族の女房たちは、「清筥」(しのはこ)と呼んでいたという。典雅で美しいことば、きっとしつらえも素晴らしかったのに相違あるまい。

「ご不浄」「お手水」はわれわれ庶民の間でもご婦人を中心に使っていたが、庶民であっても鄙ではことばが乱暴なので、「うんこったま」(長野県佐久地方)、「肥屋」(宮崎県西杵郡地方)、「屁の字」なども使われた。

「屁の字」は便所の屋根が「へ」の字形が多いことからといわれる。 『川柳末摘鼻 』にこんな川柳がある。「雪隠の屋根は大方への字形」「雪隠にはへの字はうってつけ」。

トイレの異称や言い換えは、人前でいうことが憚られることからご婦人の愛用をもって広がった。そういえば便所にゆくことを「憚り」という。日本橋三越のトイレの隠語「はの字」は、憚りの「は」からきている。因みに池袋西武デパートでは「まる」、同じく池袋のブティック鈴屋では「すみれ」。訳知りの客は、「すみれお願いします」と言ってトイレを拝借するそうな。( 『おもしろトイレ雑学事典』)

尾張藩二代の徳川光友は、「旅行いづかたにても他の雪隠へ御入の事なし」( 『昔咄』)といって、よその便所には絶対に入らなかった。専用の折りたたみ式トイレを挟み箱にいれ、家来にかつがせて持ち歩いた。便意を催すと「あそこにたてろ」と自分で指示して「野中ハしげみのなか、又ハ、小山のあなたか、堤かげか、兎角、人遠き所に」立てさせたという。( 磯田道史氏『昔も今も』「殿様の折りたたみトイレ」朝日新聞より)

以上はトイレの呼び方について、情報をなぞってみた。ウンチクを垂れてみた。いや、薀蓄を傾けてみた。呼び方もさることながら、トイレ本体も変わってきている。いずれにしても、呼称、異称、隠語が数多くあるものは文化であり文学である。

―さて、小さいながら用事がありますので・・・。(05/10/28)

 

『測りきれないもの』166

「J・エバンス・プリヒャード博士の“詩の理解”とは、韻律、リズム、修辞をまず把握する事だ。ポイントは2つ。第1は主題の表現は巧みか。第2は主題に重要性はあるか。

第1は詩の完成度。第2は詩の重要性。この2点を見れば詩の評価はごく簡単な問題となる。詩の完成度をグラフの横位置()に示し、重要度を縦()に示す。表の面積の大きさがその詩の評価である。

バイロンの14行詩、ソネットは縦の点数は高いが横の点数は並である。シェークスピアのソネットは横にも縦にも高い点数を示す。その面積は広大で詩の偉大さが一目で分かる。この本ではこの方法で詩を論ずる。それにより詩を評価する力が付き、理解する事につながるのだ」―。

89年のアメリカ映画『いまを生きる』のなかのセリフである。ニューイングランドの全寮制の名門校を舞台とするロビン・ウィリアムズの演じるキィーティング先生が生徒に読ませる教科書の内容である。

「詩はパイプ工事でも、ヒットチャートでもない」「敵は学者ども、詩を数値で測るとは!」と叫んで教科書を生徒たちに破らせる、キィーティング先生。

心や魂の危機、自分の力で考えることで学ばせる、名門校では敬遠されるユニークなキィーティング先生。人間的な魅力を持つ教師と生徒の絆の素晴らしさを描いた感動ヒューマン・ドラマだった。

さて、詩の評価を数値で面積で測るという乱暴さについては容易にわかるのだが、「詩でないものの評価」となると乱暴さが許されてしまう。例えばテレビに露出する時間を計測してその人物の人気度や収入とか、国際支援や神社祭礼などの寄付金をはずむ篤志家の人間的な評価とか、国会における与野党の数の倫理から決められる決議案などなど。その矛盾・・・。

あまりよい例えではなかったが、そもそも測れないものを測っているのではないだろうか。世の中測りきれない、割りきれないはずのものなのに。(05/10/21)

 

『日暮PC。(27)』165

10月10日。「ウルティマオンライン」の「宝珠の守人」をかじっている。こちらはパソコンを使ったゲームのオンラインシステムだ。これもT君から伝授された。

ゲームのなかには闘争もあるのだが、バーチャルリアリティーの世界で、設定人物が人間らしい生活を築くことができる。つまり仕事をしたり、占いをしたり、狩をしたりしてお金を蓄え、馬や家を持つこともできるのである。全くの手探り状態であるが、なかなかおもしろいものだ。

T君のおかげでいささか若返った。また会おうね、T君。

10月9日。曇天。アビちゃんに留守番をさせて、買い物にでかける。まずお目当てのゲーム機「ニンテンドーDS」を購入、この店に生憎ソフトがなかったので、某家電ストアで「脳を鍛えるDSトレーニング」と「やわらかあたま塾」という二本のソフトを買い求める。

このゲーム機、じつはT君がすでに持っていて、借用して遊んでみるとおもしろいのである。遊んでみると書いたが、正しくは勉強してみるといった方が正確かもしれない。

「脳を鍛える」は、簡単な計算、三角暗算、色彩識別、単語記憶、高速数えなど毎日トレーニングしてデーターが蓄積され、テスト結果がわかる仕組み。データーの年齢による位置やグラフや、個人の成績の変化なども明確にわかるようになっている。

「やわらか」の案内には、「有名私立幼稚園児が解く問題にみんなでチャレンジ!子供と大人、どっちがかしこい?」とあり、小さな子供から大人まで、楽しみながらあたまのストレッチ。カンタンそうで奥が深い問題が、とある。

ゲームといえば単なる子供の遊びと決めつけてしまいがちだが、これは中高年の頭のトレーニングにもなるスグレモノ、つい夢中になってしまう。(05/10/14)

 

『流鏑馬』164

流鏑馬(やぶさめ)は馬を走らせながら、雁股をつけた鏑矢(かぶらや)で三つの的をつぎつぎと射る射技である。「矢馳(やば)せ馬()」の転訛からの語といわれる。平安末から鎌倉時代にかけて武士の間で盛んに行われたが廃れてしまい、現在では神社などで儀式として奉納されている。

1096年4月には白河上皇臨席のもとに鳥羽殿の馬場で、同年5月には高陽院で催されており、当時京洛の武士たちの間に普及していたことがうかがえる。(宮崎隆旨氏)

鶴岡八幡宮の流鏑馬が広く知られている。また八代将軍徳川吉宗が古い記録をもとに再興して小笠原家に伝えた新儀流鏑馬は、新宿区無形文化財に指定されているという。

このたび流鏑馬が諏訪の地において再興された。「諏訪大社奉納流鏑馬」として下諏訪町赤砂崎を会場に、諏訪湖を望む広場に馬場が設けられた。200メートルを馬が駆ける間に、狩り装束に身を包んだ五人の射手が、65メートル間隔に置かれた三つの的をめがけて馬上からつぎつぎと弓を射る。

来場者たちは馬場の脇に沿って人垣を作った。地面を伝うヒズメの音が次第に大きくなると、身を乗り出すように射手の動きを見つめ、乾いた音が響いて矢が的を射抜くたびに「お―」と歓声を上げていた。と地元紙は報じている。

ここに眺められるものは、人と馬との見事なコンビネーションだ。まさに人馬一体という技にふさわしい。

ところで「人と馬」といえば、軍馬、農耕馬、競馬。外国ではカウボーイなどがイメージできる。馬と同一のサイズでいえば、「人と牛」というコンビも農耕やホルスタインなど馴染みがある。

「人と犬」のコンビはどうだろう。このコンビは警察犬や盲導犬など「人馬」の関係をはるかに凌駕するように思う。次に「人と猫」はどうだろう。猫は愛玩の要素が強いように思う。猫の手も借りたいというが、猫は一向に働いてくれない。

つまり筆者は何をいいたいか。「人と動物」のコンビにおいて一番絵になって、一番美しいものは何だろう。流鏑馬の人馬を見ていて、ふとそんなことを思ってわけである。(05/09/30)

 

『わが地引き網』163

ひょんなことから、四年半ぶりにパソコンを買い換えた。「熱帯魚観賞ソフト」の「3Dフィッシュ・アクアリアルDELUXE(株式会社インターチャンネル)もプレゼントされた。音楽を聴きながら、ゆっくりと水槽の熱帯魚を眺める。水槽の海底には岩場があり珊瑚礁があり、熱帯魚がおおらかに泳ぐさま、餌さをあさるさまが観賞できる。

売りは「本物以上の美しさ、圧倒的な表現力、デスクトップが熱帯魚の楽園に」とあるが、バーチャルリアリティーもここまで到達したかと思うほど魚族の動きを精緻に鮮明にとらえる。そして美しくたおやかである。

筆者は「さかな」には特段の思い入れがある。といっても少年期にコイやフナを釣って、釣った魚を水槽や池で眺めただけのことだが、水中での魚の泳ぎ、動作にえも言われぬ快さを感じてしまう。バーチャル熱帯魚たちの身を翻すさま、口をぱくつかせながらサッと岩の窪みをすり抜けるさまに遠い記憶がよみがえるのだ。

魚は40種類あって入れ替えができ、水槽の設定も変更でき、ライトの色もバブルも工夫ができる。なかなかのスグレモノだ。――

【地引き網】生活環境を知らぬ間に変える効果のある網の一種。魚のためには、丈夫に粗くつくられているが、女性をとるには、小さなカットされた石のおもりのついた非常に繊細な紐で十分である。

悪魔はレースの網を投げやって

(貴重な石でおもりをつけて)

それを陸地に引き揚げて

釣った中身を数えてみた

女の心が網にはどっさり

不思議で 貴重な収穫だった!

ところがそれを背負う前に

網目からみんな逃げて行った

A・ビアス著『悪魔の辞典』「バルーク・ド・ロピス」のページを繰っていて、以上のような詩に出会えた。「悪魔がレースの網を投げるのだ。網にはどっさり。網目からみんな逃げて行くのだ」。

水槽の美しい珊瑚礁、色鮮やかな熱帯魚を眺められる筆者はしあわせだ。しあわせだが、網目から逃げてゆく「遠い記憶の片々」が悲しい。悲しいが悲しんでばかりはいられない。生きて行かねばならない。「地引き網」を引かねばならない。(05/09/22)

 

『アビちゃん』162

猫にかかわる言葉、慣用句は多い。おそらく動物のなかで一番多いのではなかろうか。このたび花のお江戸から、アビちゃんという猫が当庵を訪れた。三泊してアビちゃんは帰京したが、広辞苑を引いて猫にかかわる言葉を眺めていると、改めてアビちゃんが見えてくる。言葉によって逆にものが見えることもあるのだ。

猫の古称は「ねこま」というが、アビちゃんはこの呼称のイメージには程遠い、アフリカはアビシニア高原がふるさと。古代エジプトの壁画に描かれているといわれた猫だ。短めでこげ茶の被毛、その一本一本が二・三色に分かれている。ま、それはともかく、敏捷で野性味たっぷりなやんちゃ()である。

ピンクのポリ製のバスケットから出てきた当初は、初対面の人や室内の様子に戸惑いながらおずおず。それでも興味津々であたりをうかがう。花台や机の隅、廊下の端などお気に入りの場所もあるのだが、とりあえず大人しくしていよう。「借りてきた猫」でいようと・・・。

猫は体がしなやかで、鞘に引き込むことができる爪、ざらざらした舌、鋭い感覚のひげ、足うらの肉球などが特徴。これを使って「ウナギの寝床」のような長い廊下やソファー、雪隠の周辺やパソコンの脇をさっさ、さっさと跳躍する。ときには「ダルマさんが転んだ」式に、人間ちゃんが動作を停止するとボクちゃんも停止。廊下の角から人間ちゃんをネズミに擬して狙い定めている。さすがはヒョウ、チータの眷属。とても「御ふところに入れさせ給ひて」(「枕草子」)というわけにはまいらぬ。

しばらくすると当方に体をすりよせて甘えるしぐさ、当方の体臭を確認するしぐさ。当方としてもまんざらでなく、首周りをなでて「カワイイ、カワイイ」をする。「猫かわいがり」をする。猫は気位が高くて、当人は人間を同等と思っているらしい。「忠犬」はあるが「忠猫」はなく、甘えるしぐさも彼らにとっては忠誠心ではない。

だがしかし、アビちゃんも飼い主のパパちゃんには特別の甘え方をする。パパちゃんのバスタイムのときは引き戸越しでじっと待っていて、「ミャ〜ミャ〜」とかわいい声で鳴く。「猫撫で声」とは本来は人間の声をいうのだが。

少人数の家族ではあるがそれなりに忙しいときも。そんなときは、電子辞書や季寄せなどは隣の部屋に運んでほしい。「猫の手も借りたい」。ところがアビちゃんは全くお手伝いをしない。犬にくらべるとわがままだ。

つらつら思うに、猫の身のこなしのしなやかさ。丸まった状態から二倍は伸びる。老躯の筆者の身長が、たとえば3メートル50センチ近くも伸びれば、魔法使いになれる。妖怪にもなれる。どんなにすばらしいことか。

アビちゃんは電車でお江戸に発った。駅頭まで筆者が車で送った。バスケットのアビちゃんに、「またおいで」と声をかけると「ミャ〜ミャ〜」と鳴いた。パパちゃんに甘え鳴きした声と同じ声だと思った。(05/09/16)

 

『呪文と呪術』161

呪文と言えばまず「ちちんぷいぷい」を思い出す。次に「アブラカダブラ」、つづいて「アビラウンケンソワカ」が思いうかぶ。この三つは「三大呪文」といえるのではないか。

ちなみにインターネットで調べると「ちちんぷいぷい」は349000。(カタカナの「チチンプイプイ」は別立てで49700)。「アブラウンケンソワカ」は614。以上の一致する検索結果が得られた。(yahoo!8月31日現在)

そんな検索結果の数がなぜ問題か思われるかもしれないが、文芸など創作に携わっている者にとって、言葉の認知度というか言葉の有効性というか、それは意外に重要なことだと思うのだ。

閑話休題(それはさておき)、次の一文を見てみよう。

「呪文とは神秘的、呪術的な効果をもつと信じられていることば。たいてい定型化されており、これを唱えることによって幸運、幸福を招いたり、災禍を防ぐことができると考えられている。ときには敵に病気や死などの不幸をあたえるためにも使われる。(板橋作美氏)

呪文は以上のように要約できるが、さて「呪術」とはいかなるものか。呪術は超自然的な対象に訴えることによって、病気治療、降雨、豊漁などの願いを実現させようとするもの。そうした社会や人間のための願望を求める呪術を「白い呪術」というが、逆に人間を苦しめ、のろい殺すための呪術を「黒い呪術」という。

また「呪詛」ということばもある。これは「のろい」に重点が置かれたことばである。たとえばニャキュサ族では道徳規範に外れたことを行った者がいると。人々はそのことをささやき始め、そのことばが冷たい風のように相手を襲い、病気にするという。これを彼らは「人々の気息」とも「呪詛」ともいう、と板橋氏は述べている。

さらに「のろい」は恨みのある人に災いがあるように願うもの。古くは「日本書紀」にも見られる。

呪文と呪術、呪術にも白黒やレベルがある。

ところで、仇討ちや「恨み晴らします」の必殺仕事人は物語の世界だけのことだろうか。いやいや殺人専科の「裏稼業」は現実にあった。「あった」の過去形は間違いで「ある」のである。スタイルを変えて存在するのである。うがった見方をすれば、それだけ裁判制度や裁判官が公正でないのかもしれぬ。「うらみつらみ」は現代人にふつふつと煮えたぎっている。ストレスもたまっている。それは個々人のみならず、国家単位でも、たとえばイラク問題に対するアメリカやフランスやイギリスなどの絡みにおいても。

黒い方の呪文や呪術は「前段」ということができよう。(05/09/08)