コラムその「31」

メニューへ

780「好きな芸人(2)」
779「好きな芸人(1)」
778「みづうみの・短歌」
777「八ケ岳・俳句」
776「忘れ得ぬ人たち(5)」
775「忘れ得ぬひとたち(4)」
774「忘れ得ぬ人たち(3)」
773「早贅の・俳句」
772「ユーチューブ私観」
771「テレビ私観」
770「忘れ得ぬ人たち(2)」
769「異化 人体解剖図」
768「諏訪湖へと・俳句」
767「生きてゐる・俳句」
766「詩集「器」後日譚」
765「忘れ得ぬ人たち(1)」
764「比喩の海」
763「異化について」
762「アラビアンナイト・俳句」
761「レジ袋有料化」

800「みらクルTV・前句付」
799「わが拡散抄」
798「わが余生・短歌」
797「ズーム句会」
796「夭折&大往生」
795「リバーサイドホテル俳句」
794「川柳詠み」
793「お喋りニャン」
792「段取りニャン」
791「どんぐり道」
790「戯れに・短歌」
789「回廊・俳句」
788「好きな歌手(6)」
787「好きな歌手(5)」
786「好きな歌手(4)」
785「好きな歌手(3)」
784「好きな歌手(2)」
783「好きな歌手(1)」
782「東京大衆歌謡楽団」
781「好きな芸人(3)」

800『みらクルTV・前句付』

1月23日午後3時30分~5時までの予定でズームオンライン句会が催された。「みらクルTV」という媒体が主催するもので執筆役は藤村望洋氏と思われ、参加者は18名と表示されていた。講師は二上貴夫先生で、今回は「前句付」の興行で前句「医者のくすりは飲ぬ分別」という短句(77)に、長句(575)を付けるもの。

筆者は以前に「みらクルTV」に参加したが、その後パスワードが分からず入室できなかったり体調が悪かったりで無沙汰になっていた。従って今回の「付句&選句」の募集を知る縁もなく応募先も不明だった。30数句の投句があり互選の高点の付句を中心に貴夫先生がコメントし、作者や選句したメンバーから付け筋や付け味を聞きとるスタイルで筆者は聴講生という立場だった。

「医者のくすり」という前句に対して、付け筋の分かりやすい付句と分かり難い付句があり、読み手の誰もが簡単に分かると詰まらなくなり、逆に難解すぎると想像の入り込む余地がなくなる。前句との距離感をいう親句・疎句という言葉があるが、難解も問題だが疎句のほうが内容の深みが得られる例が多いという。

江戸時代の川柳の句集である柳多留の検証、川柳は人間を詠むもので「穿ち」という表現手法で諷刺や批判や滑稽をさぐる。前句付の文芸性、川柳や俳句の自然諷詠は御上批判で囚われないためのカモフラージュの意図があった。金子兜太などの無季の俳句のこと、「や・かな・けり」の切れ字を使わない最近の一部の傾向など、古典の短詩形に造詣の深い貴夫先生のお話を聞くことができた。(ノートを取ったわけではないので当文は概要)

聴講だったのでぼんやりしていたら、「硯水さん、ご意見を」と貴夫先生に振られ慌ててミュートをONにする。「無季の俳句には興味があるが、現在のところ季語におんぶにだっこ。ただし季語を自分なりの使い方で使っている」という趣旨の返答をした。

ステロタイプな季語の斡旋ではなく、季語をふくめた「異化」が筆者の俳句の肝であることを言いたかった。「異化」とはロシア・フォルマリズムの芸術説の一つで「日常見慣れた表現形式に或るよそよそしさを与えことによって異様なもの見せ、内容を一層よく感得させようとするもの」。

他方で「穿ち」は「普通には知られていない裏の事情をあばくこと。人情の機微など微妙な点を巧みに言い表すこと」「新奇で凝ったことをすること」。

以上は『広辞苑』から引いたが、「異化」と「穿ち」は一脈も二脈も通ずるものがあるだろう。俳句は写生ではなく人間を表現するものと貴夫先生は述べられ、意を強くした次第である。(2021/01/25)

 

799『わが拡散抄』

筆者の表現した俳句や短歌のうち、ホームページやブログなどインターネト上に拡散している作品を拾ってみた。GoogleYahoo!の検索エンジンを使って掻き蒐め、それをランダムに配列した。初出の入賞した大会・新聞・俳誌名および年月日は省略した。

羽搏きて白鳥湖のほむらなす

万緑の崖下に住み蜂を飼ふ

スケボーでえいと地球を蹴っ飛ばす

句も飴も舌にまろばせ四月馬鹿

朝からよピカソの鼻の冬蝿は

氷菓舐めロボットカフェの窓の星

短日や猫の小鈴の鳴ることも

蟻出づる活断層を押し分けて

八十三歳寄り道ふぐり落しけり

我からも泣け言の葉の帆掛け船

時の日や鸚鵡は過去を饒舌に

いと高きに登るも谺聴かぬなり

独楽澄むや地球の芯を探り当て

風花は三十一文字の草書にて高天原の歌会たけなは

千の眼に視られ縮緬雑魚を干す

マーチにも似て熊蜂の羽音かな

雪女おもざし何処か妻に似て

(2021/01/23)

 

798『わが余生・短歌』

1月22日付の朝日新聞長野版の文芸欄「歌壇」に筆者の短歌が入選一席として掲載された。その作品と選者の草田照子氏の講評をここに転載し併せて「自歌自解」を試みたい。

  わが余生自分ながらに推し量り

   二年連用日記買ふなり  義人

「矢崎さんは五年、十年日記を買う年齢ではないのだろうか。とはいっても、こうして二年の日記を買い足してゆくはず。一方で希望を持って五年日記を買う人もいる。その分かれ目あたりか。」草田照子氏。

筆者、ここ五・六年は二年連用日記を買っている。五年は生きられないだろうという根拠のない自己判断からだ。遺族が日記をみて白紙が残っていて捨てるに忍びないと思うだろうかと。銀行の定期預金も多くが二年物で、間に合ってよかったという感じ。過不足なく事が収まる感じが好きなのだ。ともあれこの短歌の素材は筆者の現実そのものだ。

前以て準備をするのが好きで、十数年も以前から「辞世」を詠んでいる。突然死では辞世を詠む暇もなかろうと、辞世の詩を書いてインターネットに載せ、町内頒布用にプリントアウトもしてある。俳句の辞世は心境の変化で数回上書きしたので、原本もそのまた原本も忘れてしまった。

半世紀もお世話になった俳諧の宗匠・宇田零雨先生は生前葬を執り行ったが、筆者は生前葬など敬して避けたい。そもそも葬式自体もできればやってほしくない。お通夜に棺桶の窓を開けて隣組の連中や親類縁者に覗き込まれ、何かいわれても答えられない。死んでいるから愛想笑いもできない。恥ずかしくて真っ平ご免である。

話がいよいよ逸れてきた。掲歌だがこうしたリアリスティックな作風は筆者の本懐ではない。実生活を詠むのは矢張り恥ずかしく、本当に詠みたいのは身心の病理とか心理の葛藤とか、斜に構えて諧謔を引き出すとかの素材だ。しかし、そんな短歌は選者がなかなか採ってくれない。「行く春や撰者を恨む歌の主」蕪村。(2021/01/22)

 

797『ズーム句会』

このたび俳誌「詩あきんど」の本社句会が「ズーム句会」として1月16日午後1時から3時までの予定で開催された。句会は「三つ物」を巻くという企画で、主宰の二上貴夫先生がホストとして会員たちに呼びかけられ、メールにて前以て発句を求め興行するというものだった。

主宰と会員で8名が参加し、1グループ3名それぞれが発句を立て、合計3グループで9巻巻くという催し。(チャットの最終版保存ができず、筆者の記憶違いがあるかもしれない)。各グループには捌手がいて、全員がいずれの巻の付句に対しても提案したり、改案を促したりするなど自由な雰囲気の場だ。

ともすれば俳句愛好者の年賀状の挨拶代わりの三つ物だが、貴夫先生が三つ物の成り立ちを研究され文芸性にも注目され、今回の句会でも季語の措き方や同字や類想の回避、室内外の渡りなど教示してくださった。

連句の初心者もいて、去来抄の「響・匂・位」などの付け味は望めないが(斯くいう筆者も遅吟なのでそこまで気配りできなかったが)、学ぶところ大きかった。

ところで筆者、連句をはじめた約五十年前には往復葉書に付句を五句書いて送り、それを宗匠が治定して返すという手順だった。歌仙を一巻巻くのに約半年を要した。時代くだって句友とはファックス、パソコン通信、掲示板、メールと進化したが、連句は運座のほかは手間暇かかるもの。しかしコロナ禍でオンラインによるズーム句会が出来るようになる。コロナは禍禍しいが、思いがけない貴重な副産物をもたらした。それにしても文韻形式も隔世の感がある。

筆者の場合「詩あきんど」の句会会場まで200キロの距離があるので出席は困難だが、今回のようにズーム句会であればパソコンやスマートフォンさえあれば容易に参加できる。遠距離でお会いできなかった句友とも対面が可能で、生顔&生声ではないがモニター越しにご尊顔を拝した。

「あの声で蜥蝪食らうか時鳥」。誰とはいわぬが、独特な感性で近寄りがたく思っていた方が鈴を転がすような声の妖艶な女性だったり、ひょうきんな句をひねる方が無頼漢だったり。それやこれや、オンラインという「科学利」をありがたく与るのだった。

さはされど、ズーム機能に注文をつけると、例えばのかたちの「バーチャルルーム」に8名の動画を映し出し、全員がそれぞれ確認できれば臨場感が得られるのではないか。口元も読めるので発声&会話のバッティングも少なかろう。機能も使いこなせないくせに注文の多い筆者だが、そんな機能のオンラインが待たれる今日この頃だ。(2021/01/20)

 

796『夭折&大往生』

筆者青少年のみぎり、夭折に憧れた。夭折とは年若くして死ぬことだが、主として才能ある者の死に冠せられることが多い。「夭折の詩人」「夭折の画家」などという。個人名を出すなら、詩人では立原道造(24歳)や石川啄木(26歳)、画家では青木繁(28歳)や三橋節子(35歳)など独特の個性が輝く。

「夭折」の定義は40歳というのが不文律とされるが、歌舞伎役者や落語家などの伝統芸能演者は歳月を積みかさねて始めて芸が見えてくるものなので、還暦までは夭折のカテゴリーに入るという。俳人は二・三句名吟を遺したところで見向きもされないから、とにもかくにも死なないで還暦までは頑張ることだろう。

そうした種族とちがって、グラビアアイドルは見せられる(魅せられる)期間が限られるので17歳、ホストのイケメンは22歳と「夭折年齢」を細かくきざむ。その筋の穿ったリサーチがネットで確認できるから、好事家はお調べあれ。

話が逸れてしまったが・・・太宰治に「生まれて、すみません」という太宰文学のキャッチフレーズと喧伝される言葉がある。太宰28歳のときの作品『二十世紀の旗手』の副題として知られるが、必ずしも副題という言い方は正しくない。洋風にいうと「エピグラフ」のことで、作品の巻頭や章の初めに付する題辞。引用句。碑文の意味もあるから題名(タイトル)への応援句なのかもしれない。

「生まれて、すみません」は強烈なインパクトある文言だ。いたずらに馬齢をかさねて死んでゆくことを恥と思い、死に対して漫然と憧憬をいだくのが青春だと言われたりするが、糅てて加えて筆者にはコンプレックスもあった。そのころ太宰治や芥川龍之介を読みふけり、ジェームズ・ディーンの映画にこころ撃たれた。

「鬼畜米英」の米のB29が上空を飛ぶので子供ながら、漏れる光をさえぎるため電灯の笠を布で覆ったり、蔵の白壁を墨で塗りつぶして爆弾の標的から避けたり、池の水全部抜いて防空壕を作る手伝いをした記憶がある。

第二次世界大戦に敗れて暫くのち、筆者は両親の援助のもと自営業をはじめる。ゴム長靴やビニール製品、旅行鞄やハンドバッグの小売業で十代後半だった。富士自動車の「フジキャビン」という三輪自動車も運転した。夭折に憧れるどころではなく、死ぬとか生きるとかの死生観さえスルーの日常だった。(蛇足ながら自営業は43年間つづけた)

人生50年だったのが、最近は人生100年時代などと誰言うとなくのたまう。江戸時代の『化け物尽くし絵巻』に「真平(まっぴら)」があり、「まっぴらご免。勘弁してくれ」とひれ伏して上目遣いに懇願する妖怪だが、あちらこちら痛くて宿痾を抱える身であれば、人生100年は長すぎてまっぴらご免と言いたくもなる。

筆者当年取って85歳、終活のお年頃だ。青少年期とは別の意味で死を考えることが多い。夭逝の憧れは儚くきえて、ぽっくり死への憧れ。認知症も寝たきりも避けたい。「大往生」は年齢でなく、安らかに死ぬこと、少しの苦しみもない往生をいうと『広辞苑』にある。

朝起きてみたら死んでいた。自分ながら信じられないが、遺体を寝床から棺桶に移す作業に挑戦するができない。なんせ幽霊だから足がなくて踏ん張れないのだ。ガラケーを使って近所に住む義兄さんに介助を頼んだら、「止めとけ止めとけ。死んだら大人しくしているのが身の為だ」と説教された。

そうだった、そういえば昨夜、ユーチューブで落語「粗忽長屋」を観た・・・。(2021/01/13)

 

795『リバーサイドホテル・俳句』

12月18日付の朝日新聞長野版の文芸欄「俳壇」に筆者の俳句が入選一席として掲載された。その作品と選者の仲寒蝉氏の講評をここに転載し併せて「自句自解」を試みたい。

  リバーサイドホテルより見る白鳥よ  義人

仲寒蝉氏「リバーサイドホテルと言えば、かつて大ヒットしたドラマ「ニューヨーク恋物語」で井上陽水が歌っていた主題歌の題名。もちろん川沿いであれば同じ名前のホテルは山ほどあるだろう。なのでこれは固有名詞でありながら一般名詞でもあるのだ。そこから冬の到来を告げる白鳥を見ている」。

楽曲「リバーサイドホテル」の歌詞は、男女が川沿いのホテルに投宿するのだが、昼間のうちに何度もKISS、ベッドの中で魚になり、夜の長さを何度も味わうという趣旨だが、恋愛の快楽の絶頂は絶望の絶頂でもあるというイマジネーションを働かせられる。ダルな疲労感をただよわせる。

しかしながら、リバーサイドに建つホテルは立派であり瀟洒であってゆるぎなく憧れを抱かせる。そんなホテルの窓から眺める白鳥には特別の感慨があろう。ホテルと白鳥という二物の取り合わせが眼目で、ホテルによる白鳥の持つイメージの増幅を表わそうとする俳句だといってもよい。(2020/12/20)

 

794『川柳詠み』

筆者は10月から11月にかけて、川柳をたくさん詠んだ。数えきれないほど詠んだ。ネットの「公募川柳ⅠⅡ」から、それぞれの団体や企業などの募集先へ手当たり次第に三句から五句を投句した。川柳は十代のみぎりに短期間ながら作句し、新聞の文芸欄の柳壇に掲載されたこともあったが、それ以来ということになる。

いまさら川柳とは「なんでか?」。その理由は第一にボケ防止、そして今ひとつは俳誌「詩あきんど」において筆者の俳句が難解だという噂を小耳にはさんだので、それが「独り善がり」であれば溶解(妖怪)させるべきだと思ったのだ。

200句ほど下手な鉄砲を撃ちまくり、全滅かと思っていたらこれまでに一句だけ入賞した。兵庫県・伊丹コミュニティ放送のラジオ番組「ハッピーエフエムいたみ」の川柳の自由句。ユーモア川柳を美しい女性パーソナリティーである関谷尚子さんが電波にのせ、二か月に一回集計して優秀作品を選ぶという企画らしい。このたび10月11月放送分とおぼしき結果が発表された。

大賞1名、優秀賞2名、入賞8名。筆者のラジオネームである河太郎の「女房に 小言言ったら 倍返し」が入賞となった。ところが賞品の小西酒造「白雪大吟醸」は上位3名だけで入賞者への賞品はなしだった。「賞」はあっても「賞」なしって、「これってなんだ?」という謎かけ問答と相成った。でも川柳の通俗さが筆者の俳句には欠けていたものかと反省させられ、入賞は正直うれしかった。

とまれこうまれ、200句の鉄砲玉の「未発表分」はまだまだ沢山あり、果報は寝て待ちつつ、FMいたみ、その他の川柳募集の団体や企業にせっせせっせと投句する今日この頃の筆者である。(2020/12/17)

 

793『お喋りニャン』

ギンちゃんは鳴くことは少ない。諏訪っ子になった直後には河童庵の2Fでひもすがら鳴いて庵主を困らせたが、大きめのケージを購入して一階の脱衣所に据え付け、家人たちの身近で暮らすようになって安心したのか、ときどきしか鳴かない。寒い朝、空腹のときなど訴えるような小声で呼びかけるだけである。

ただ河童先生や女河童先生が頭や耳をなでてやったり、童謡を歌ったりしてやると、「クククク、クククク」とつぶやくような低い声で喉を鳴らす。何かお喋りしているらしいが、猫語なのでわれわれ人間族には伝わらない。ありがとう、と言っているのか。生みの親の思い出でも喋っているのかと想像してしまう。口数は少ないが「お喋りニャン」だなあ、ギンちゃんは。

近頃はペットブーム、なかんずく猫が「一馬身」だけ抜きんでているらしい。ペットといえば犬猫がメインだったが、高齢化社会で散歩が必須である犬は敬遠され、高齢者の負担の少ない猫派に傾いているという。

テレビ各社も「動物おもしろ動画」を番組の合間にはさみ込んで視聴率アップを狙う。NHKまで「ダーウィンが来た!」の「猫島ワールド」で「その手」を使うので、河童先生がおっ魂消げていた。高額受信料批判をかわすため「猫の手」も借りたいのだろう。

話が逸れてしまった。ギンちゃんのお喋りについて少し触れたが、人間の言葉をわかる、つまり人語を解するという点では、「ギンちゃん」「お利巧さん」「待って待って」「ご飯」「お八つ」「だめだめ」「すとーぶ」「温っくっく」「こら!」などは大丈夫だろう。

とくにギンちゃんと呼ぶと跳んできたり振り返ったりする。その他の人語は分かるときと「馬の耳に念仏」のときとがある。

「何人称」だかわらないような文体で「段取りニャン」と「お喋りニャン」をコラムにUPしたが、親馬鹿ちゃんりんと思ってご笑読あれ。(2020/12/17)

 

792『段取りニャン』

河童庵には「ギンちゃん」という、アメリカンショートヘアの12歳♂の子の猫がいる。諏訪っ子になって11年くらいだが、ほとんど毎朝「豆句会」を開いて河童先生から俳句の指導をうけ、今年の6月には、ありがたくも「銀水」という俳号をいただき精進これ努めている。

今回はそのことではなく、ギンちゃんの性格というか拘泥というか、決めているように行動しないと気が済まない部面がある。午後1時40分にケージから出て「ちゅーる」を半分舐め、2Fで女河童先生と1時間遊んだり休んだりしてから、残りの「ちゅーる」(大好きだけれど下痢をするので1本にセーブしている)を舐めてケージイン。

その他にも、糞尿タイムは朝の「人間雪隠タイム」にあわせ、昼間の時間帯にはほとんどしない。我慢しているのではなく、自分は猫ではなく人間だと思っているから人間のようにふるまうのだ、とでも言いたいように。

女河童先生がケアトレに出かける日は分かっていて、午後1時が近づくとそわそわ。玄関から送りだす定位置に陣取る。帰宅する4時45分には、10分前に出迎える定位置である長い廊下の奥に必ず座り込んで待っている。他の場所で待っていることはスタルとでも思っていかのようだ。

また河童先生と3時間余にわたって留守番をするのだが、ケージのある部屋&ソファー&絨毯&河童先生との共寝などのパッケージを、あたかも時間を計っているかのように選択する。そして河童先生にお八つをねだって体をスリスリするのも2回と、これまた決めているかのようである。

ライフスタイルを人間にあわせているのか、自然とそのようになっていったのか。「段取り」とは事の順序・方法を定めること。心がまえをすること。工夫することで、必ずしも当てはまらないが、ギンちゃんは「段取りニャン」だね。などと語りかけている今日この頃である。(2020/12/15)

 

791『俳句・どんぐり道』

どんぐり道

どんぐりは己が重力以てまろぶ

地球の穴へ真っ逆様の団栗よ

座右の書と団栗一つ置き処

団栗突き当たる 心の凸と凹

わが生ひ立ち 団栗の傾ぎぐせ

ブッダの手の平 どんぐりの背比べ

どんぐりの一寸先の栗鼠の頬

雌雄同株団栗ふうふうふふのふ

どんぐりの仲の師弟と申すべき

ゆるキャラの熊 団栗を拾ふらん

枝揺すり団栗を取るサルトルよ

虚と実の九十九折なりどんぐり道

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

     留書

茅野市の尖石縄文考古館には国宝の「縄文

のビーナス」が展示されている。そもそも棚

畑遺跡から発掘された土偶で、乳房小さく腰

くびれ下半身が異常に膨れ、ミスコンには出

られない肢体である。

女神湖はそのかみ赤沼湿地帯で河童伝説が

知られる。程近い湯川地区の「河童の湯」は

混浴だったが時代には逆らえず、男女別の暖

簾がかかった。

蓼科山は円錐形の美しい山容で、諏訪富士

とも呼ばれる日本百名山の一つ。深い森浅い

森あり渓谷や湖沼もあり、団栗のユートピア。

団栗多ければ熊いて猿いて栗鼠もいる。やつ

らの団栗眼きょろきょろと・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

俳誌「詩あきんど」41号(令和2年11月20日発行)に掲載された俳句と留書を転載します。(2020/12/01)

 

790『戯れに・短歌』

11月27日付の朝日新聞長野版の文芸欄「歌壇」に筆者の短歌が佳作として掲載された。その作品をここに転載し「自歌自解」を試みたい。

  戯れに「考える人」真似ながら

   わが老い先を考えてみる  義人

「考える人」はロダン制作の巨大なブロンズ像であり、世界的に有名な作品である。沈思黙考、思索にふける男の彫像で、これはロダンが群像彫刻として「地獄の門」連作の未完とされる。

俚諺や俗説や宗教によると、生前の行いで死後の行く先が天国か地獄かに峻別されるという。筆者は生前ほとんど肉体労働をしなかったので、天国乃至は蓮の葉の上にいるだけでは退屈でたまらない。それはご免被りたい。

過酷かもしれないが、地獄乃至は血の池でひねもす作業するのも捨てたものじゃない。原発汚染除去よりずっとまし、あわよくば三途の川の冥途ツアーガイド嬢の奪衣婆を手伝って、六文銭のおこぼれに預かるかもしれん。作業にしくじっても殺されぬ。なんたって、すでに死んでいるから絶対に死なんもん。・・・おお、脱線してしまった。

冒頭の短歌に戻ろう。「老い先」の先には「死」がある。天国か地獄かがある。この短歌の歌意について、選者も読者もそこまで考えてくれただろうか。(2020/12/01)

 

789『回廊・俳句』

11月27日付の朝日新聞長野版の文芸欄「俳壇」に筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品をここに転載し「自句自解」を試みたい。

  回廊を巡れば紅葉且つ散りぬ  義人

「紅葉且つ散る」晩秋の植物の季語。紅葉の見ごろが終わりかけて葉の傷みが目立ちはじめ、他方で別の枝の葉は散りはじめているさまをいう。

回廊は長くて折れ曲がった廊下、中庭や建物を囲み、または建物の間を連絡する屋根のある廊下のこと。

当該俳句の眼目は、回廊を歩いてゆく人間の動きと、残る葉と散る葉のある樹木の動き・・・ひいては人間と樹木のおのずから有する「生理」の現象をダブルイメージさせようという試みであった。(2020/12/01)

 

788『好きな歌手()

『高橋真梨子』。歌手。作詞家。現役。ペトロ&カプリシャスの二代目ボーカルとなる。「ジョニーへの伝言」などヒット。その後ソロでもヒットした「桃色吐息」の一番と二番抜粋。

「♪咲かせて 咲かせて 桃色吐息 あなたに抱かれて こぼれる華になる」「♪海の色に染まる ギリシャのワイン 抱かれるたび 素肌 夕焼けになる ふたりして夜に こぎ出すけれど だれも愛の国を 見たことがない・・・」。

澄み切った高音にハイテンポながら、ギリシャという異国情緒とダルな恋愛の気息が流れる。「だれも愛の国を見たことがない」は唸らせる。

『藤山一郎』。歌手。声楽家。作曲家。バリトンの音声を活かしたテナーの国民的歌手といわれた。平成6年82歳で死去。あまたの楽曲がヒット「青い山脈」「長崎の鐘」。「丘を越えて」一番・・・

「♪丘を越えて 行こうよ 真澄の空は 朗らかに 晴れて たのしいこころ 鳴るは胸の血潮よ 讃えよ わが青春(はる)を いざゆけ 遥か希望の 丘を越えて」。

東京音楽大学を首席で卒業しただけあって、格調の高い正統的な発声で多くの国民の称賛をえた。「丘を越えて」にしても歌詞は愛唱歌のステロタイプの範疇だが、大方の大きな拍手はバリトンと歌唱法のたまものだろう。

『二葉百合子』。浪曲師。演歌歌手。89歳。浪曲師の父親に師事して3歳で初舞台。「岸壁の母」一番と台詞の抜粋、

(^^♪母は来ました 今日も来た この岸壁に 今日も来た とどかぬ思いと 知りながら もしやもしやに もしやもしやに ひかされて」。(台詞)「また引揚船が帰ってきたのに 今度もあの子は帰らない この岸壁で待っている わしの姿が見えんのか 港の名前は舞鶴なのに・・・」。

単なるお涙頂戴的な母物ではなく、戦争という巨悪への怒りが込められている。アメリカのロックンロールが人間解放の叫びなら、「岸壁の母」は人間復権の祈り。日本のロックンロールだ。

『ビートルズ』。1960年から1970年にかけて活動した、イギリス・リヴァープル出身の四人のロックバンド。二十世紀を代表する音楽グループとして夙に知られる。「レットイットビー」も好きだが、ここではジョン・レノンの「イマジン」の抜粋・・・

(^^♪想像してごらん 天国なんか無いって その気になれば簡単さ 地面の下に地獄なんか無くて 頭の上にあるのは 空だけ 想像してごらんよ みんなが今日を生きている」。「(^^♪想像してごらん 国なんか無いって 難しい事じゃないさ 殺したり 殺されたりすることもなく 宗教だって無い 想像してごらんよ みんなが平和に暮らしている」。

大甘な平和主義といわれようが、これが音楽だ、これが歌詞だ。いまさらコメントする必要もなく耳を澄ませば、手指で穏やかなイメージを引き寄せればいい。

「好きな歌手」()から()、合計24組の歌手を登場させた。ランダムに出鱈目にみえるかもしれないが、東海林太郎からビートルズまでの順序&配列に苦心した。この順序&配列と歌手選択の偏向こそが筆者のクリエイト(創造)することであった。独断と偏見を許されよ。(2020/11/30)

 

787『好きな歌手()

『ぴんからトリオ』。はじめ宮五郎&宮史郎&並木ひろし。のちに宮兄弟の「ぴんから兄弟」となる。大ヒットの「女のみち」・・・

「私がささげた その人に あなただけよと すがって泣いた うぶな私がいけないの 二度としないわ 恋なんか これが 女のみちならば」。 

ボーカルは宮史郎で頭髪をチックとポマードでがちがちに硬め、ちょび髭をうごうごさせ、小節を利かせた浪曲調の独特の歌い方。歌詞は凡庸だが当時の男子小学生みんなが歌真似をした。見てくれが泥臭いちょび髭が女歌を唸るという、どうにもこうにもならないのが好きな日本人の国民性が、この時代にはあった。現代はそれさえも喪失したのかもしれん。

『ピンクレディー』。ミイ&ケイのダンス・ミュージック系のアイドルグループ。歌と踊りであまたのヒット曲を生む。新しい領域へ先進した歌詞だ。「ペッパー警部」もいいが「UFO」一番は・・・

「♪手を合わせて見つめるだけで 愛しあえる話も出来る くちづけするより甘く ささやき きくより強く 私の心ゆさぶるあなた」。六番には「・・・♪地球の男に あきたところよ」がある。

ピンクレディーは女二人組で当時の女子小学生みんなが踊る真似をした。ぴんからトリオの男二人組とともに、時代が生んだテレビの申し子。ただ男組は死亡し女組は現役である。

『殿様キングス』。四人のコミックバンドから歌謡コーラスに転向して大人気を博す。ボーカルは宮路オサム。「火遊び蝶々」もわるくないが、「なみだの操」一番、

「あなたのために 守り通した女の操 今さら人にささげられないわ あなたの決してお邪魔はしないから そばに置いてほしいのよ お別れするより死にたいわ 女だから」。

歌詞は男の喜びそうな我慢する女という、いわば古色蒼然たる女歌であるが、コミックで鍛えた宮路の表情と歌い方の泥臭さが日本人にはたまらない。余談ながら宮路くん、筆者の義弟に顔立ちがそっくり。親近感が湧いてファンになった。

『八月真澄』(はづきますみ)。歌手でミュージカル女優。ヨーデルの第一人者ウイリー沖山の直弟子。現役。「バナナ・ボート・ソング」はハリー・べラフォンテや浜村美智子が先行だが敢えて・・・

「朝日だ 日が昇る 夜が明けたら ウチに帰りたい ラム酒を飲んで 徹夜で作業 日が昇るまで バナナを積み込む 荷役係の兄ちゃんよ 運んだバナナを数えておくれ 一房に 6本 7本 8本のバナナ」。

カリブ海に浮かぶ中央アメリカの島であるジャマイカの、収穫したバナナを夜通し船に積み込む、きつい作業の労働歌にして民謡。圧倒的な声量でリズム感とパンチを利かせて歌い込む。

上記は和訳だが、歌詞は英語だろうかクレオート語だろうか。「デーオ、デーオ、イテテ、イテテ、ミセテーヨ、ミセテーヨ。デーオ、デーオ、アンミツ、タベテヨ、シックス、セブン、エイト、パンチ」と聴こえる。少年期の筆者、悪ガキたちと「で~お、で~お、痛てて、見せて~よ、見せて~よ、おちんちんの傷。で~お、で~お、あんみつ、食べてえ、6個、7個、8個、パンツ」と替え歌したものだ。

 

786『好きな歌手()

『八代亜紀』。熊本県八代市出身。女性演歌歌手にして絵描き。70歳。あまたのヒット曲をとばす。「舟歌」一番は、

「♪酒はぬるめの 燗がいい 肴はあぶった イカでいい 女は無口な ひとがいい 灯りはぼんやり 灯りゃいい しみじみ飲めば しみじみと 想い出だけが 行き過ぎる 涙がポロリと こぼれたら 歌いだすのさ 舟歌を・・・・♪沖の鴎に深酒させてヨ いとしのあの娘()とヨ 朝寝する ダンチョネ」。

トラック運転手から「トラック野郎の女神」とあがめられ、ハスキーボイスで「雨の慕情」とともに哀憐絶唱と称賛される。「♪沖の鴎」は「ダンチョネ節」の替え歌で、本歌は大正時代の神奈川県三浦市の民謡で飛行機乗り(軍歌)。おどけた曲調にのせた哀切にじむ歌詞が涙をさそう。それが舟歌をより活かす。

『五輪真弓』。女性シンガー・ソングライター。69歳。「少女」でデビュー。あまたの楽曲から「恋人よ」の一番、二番、

「♪枯葉散る夕暮れは 来る日の寒さをものがたり 雨に壊れたベンチには 愛をささやく 歌もない」。「♪恋人よ そばにいて こごえる私のそばにいてよ そしてひとこと この別れ話が 冗談だよと 笑ってほしい」。

スローテンポで歌詞の言葉をしっかりと、声のメリハリを込める、さすがはシンガー・ソングライター。「八代&五輪の同時代現役」ということが日本の歌謡音楽の奥深さを覗かせる。

『エルヴィス・プレスリー』。1935年ミシシッピ州テューペロ出身。42歳で死亡。世界で最も売れたミュージシャンとして「キング・オブ・ロックンロール」と称賛される。「監獄ロック」抜粋。原文のまま。

(^^しゃれた看守の はからいで かんごくでパーティがあったとさ かんごくバンドがジャンプすりゃ 石の壁さえスゥイングする」「^^殺し屋マーフィの サキソホン ちびのジョーが吹く トロボーン イリノイスのドラマーがドンブンバン リズム・セクションは ギャングども」〓レッツ・ロックみんなで レッツ・ロック さあ みんなで一緒に そら踊ろよ かんごくロック〓

ブルースとロックは卑猥な黒人の音楽、高尚なカントリーが白人の音楽とされる風潮のなか、白人のプレスリーがロックを歌った。人種差別の厳しい当時「白人がロックを歌うのは事件だ!」と驚いただろう。「殺し屋マーフィ」「ちびのジョー」「イリノイスのドラマー」たち、白色・黒色・黄色入り混じって、みんな一緒に踊りまくってレッツ・ロック。石の壁もスイングしたろう。ところが約60年後にはその真逆のような大統領があらわれ、「白黒分断」「高い鉄の塀」と居丈高にさけぶ。「へんくつ看守」トランプの糞ったれ。

『松山恵子』。演歌歌手。1937年出生。死亡69歳。庶民派として「お恵ちゃん」と愛称された。「だから言ったじゃないの」

「♪あんた 泣いてんのネ だから言ったじゃないの 酒場へ飲みにくる 男なんかの言うことを バカネ ほんきにするなんて まったくあんたは うぶなのね 罪なやつだよ 鴎鳥」。

ここで再びプレスリー・・・プレスリー死亡原因は諸説あって肥満体質で慢性便秘。喉にドーナツを詰まらせた。酒場で男に騙されてドラッグをやってトイレで悶死。など都市伝説がささやかれる。

お恵ちゃんはプレスリーより2歳年下の妹。兄を送る弔辞「あんた死んだのネ、だから言ったじゃないの。酒場に飲みにくる男のいうことを本気にするなんて。ド田舎テューペロのあんた、うぶなのね。アーメン」。(2020/11/20)

 

785『好きな歌手()

『島津亜矢』。女性演歌歌手。現役ばりばり。公式ホームページには、桃色のハート型の花弁をあしらう背景に、婀娜な和服姿で「眦(まなじり)」をリリースしているが、彼女の本領はド演歌でありセリフ付き男歌である。股旅から洋楽までカバーし、歌唱力は群を抜き大谷ノブ彦氏をして「歌怪獣」と言わしめる。「森の石松」一番・・・

「♪山が富士なら 男は次郎長 あまた子分の いる中で 人のいいのが 取り柄だが 喧嘩早いが 玉に疵(きず) 森の~森の石松 いい男」。セリフ(そこの若えのは 海道一の親分は清水の次郎長だってねえ~)

亜矢姫、鯔背だねえ、偉丈夫だねえ、体も男だろうねえ。これは筆者の最大の褒めことばであり、入魂の熱唱には鳥肌がたつ。

『シュガー(sugar)』。元三人組女性コーラスグループ。最初はそれぞれ楽器を演奏して歌った。「ウエディング・ベル」一番は、

「♪ウエディング・ベルからかわないでよ ウエディング・ベル本気だったのよ ウエディング・ベル ウエディング・ベル オルガンの音が静かに流れ お嫁さんが私の横を過ぎる この人ね あなたの愛した人は 私の方がちょっときれいみたい そうよあなたと腕を組んで祭壇に上がる夢を見ていた私を なぜなの教会のいちばん後ろの席にひとりぼっちで座らせておいて 二人の幸せ見せるなんて ひと言いってもいいかな くたばっちまえアーメン」。

アカペラから始まり、若くて美しい女声のボサノバ調にのって自分をふって別の女性との結婚式に招待する、元恋人へ悪態をつく歌詞。デリカシーのかけらもない男への「くたばっちまえ」の江戸弁が小気味よく、日本歌謡史に新しい一ページをひらいた歌詞だ。

『一節太郎』。流しのギター弾きだったが、浪曲をうなる声帯をこさえて歌手デビュー。現カラオケ店自営。「浪曲子守唄」の歌詞、

「♪逃げた女房にゃ 未練はないが お乳ほしがる この子が可愛い 子守唄など にがてなおれだが 馬鹿な男の 浪花節 一つ聞かそか ねんころり」。(科白)「そりゃ 無学なこのおれを親にもつ お前は ふびんな奴さ 泣くんじゃねえ 泣くんじゃねえ」。

埒もない自分や自分たちを歌うのが全盛だが、渡世人を歌う時代があったのだった。土方や飯焚き女や馬鹿という言葉が出てきて隔世の感あり。こんな凄い歌の時代があった日本。

余談ながらそのかみ、筆者の住居の近所に小さな青物市場があり、数台の引売りのリヤカーが仕入れにきていた。そのなかの一人の兄ちゃんが一節太郎そっくり。「忙しそうだね」と声をかけると、「テレビに出るからねえ」と巫山戯てくれた。

『ウイリー沖山』。ヨーデル歌手の第一人者。ジャズ、カントリー歌手。2020年6月87歳で死去。「山の人気者」・・・

「♪山の人気者 それはミルク屋 朝から夜まで 唄をふりまく 牧場はひろびろ 声は朗らか その節によさは アルプスの華 娘という娘はユーレイティ ふらふらとユーレイティ ミルク売りを慕うユーレイティ ユーレイユーレイティ」。

ヨーデルは裏声と地声を繰り返し、切り替えて歌うアルプス地方の歌唱法という。この発声と音質にはカルチャーショックを受けものだが、「あの荒屋はユーレイティ(幽霊)出るかい」「毎晩さ。ヨーデル!ヨーデル!」と兄弟してふざけた我が少年期がある。

東海林太郎からウイリー沖山までの12名(12組)。ランダムに適当に並べたように見えるかもしれないが、筆者にとっては意図あっての「序破急」。「浪曲調」~「ヨーデル」、いよいよ「破」か。つづく。(2020/11/21)

 

784『好きな歌手()

『西田佐知子』。元歌手。多くの楽曲をカバーしている。「コーヒールンバ」もいいが、「アカシアの雨がやむとき」歌詞は・・・

「♪アカシアの雨にうたれて このまま死んでしまいたい 夜が明ける 日がのぼる 朝の光りのその中で 冷たくなった私を見つけて あのひとは 涙を流して くれるでしょうか」。

死がタブーの歌謡曲のなか、退廃的な歌詞を渇いたボーカルでさらりと語りかけるように歌う。死を恐怖せず美化せず日常性に溶け込ませる歌唱力。当時(生まれ変われるなら)「おれ、死んでみるよ」という死生観を筆者に抱かせた。

この歌詞は芹沢光治良の「雨の朝巴里に死す」がモチーフとされるが、1960年ころは安保闘争に荒れ樺美智子が圧死。テレビが総天然色化。実質的占領下で国の方向性がみえず、希望と絶望がないまぜになった。「コーヒルンバ」も歌謡曲の潮目をかえた歌。

『ちあきなおみ』。昭和を代表する女性歌手。引退宣言なしに舞台に立つことなく28年。「喝采」の歌詞の一番は、

「いつものように幕が開き 恋の歌うたう私に 届いた報せは 黒いふちどりがありました あれは三年前 止めるあなたを駅に残し 動き始めた汽車に ひとり飛びのった ひなびた町の昼下がり 教会の前にたたずみ 喪服の私は 祈る言葉さえ失くしていた」。

歌の巧さもさることながら感情移入、物語りする力が素晴らしい。楽曲をドラマに仕立てあげる歌姫を時代が生んだ。

『田端義夫』。愛称バタやん。第二次世界大戦から21世紀までの長きにわたり活躍。生涯1200曲。「大利根月夜」「かえり船」。マドロス物も多い。「ふるさとの燈台」の一番は・・・

「♪真帆片帆 歌をのせて通う ふるさとの小島よ 燈台の岬よ 白砂に残る思い出の いまも仄かに さざなみは さざなみは 胸をゆするよ」。

ボロギターを爪弾き、開口して遅れて声が出てくるような歌い方。ビブラートというより「震え声」という感じで、決して正しい歌唱法ではないが、わが青少年期の心をつかんだ。歌詞は筆者の抒情詩の原点となった。

『春日八郎』。独特な楽曲に恵まれ演歌のエポックを築いた歌手。端正な風貌ながら飄飄乎の表情を見せる魅力も。「お富さん」・・・

「粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪 死んだはずだよ お富さん エッサオー 玄冶店(げんやだな)」。

手拍子とともにハイテンポでさらりと歌い流す。お富さんは芸者で肺病で死んだと勝手にイメージしたが、「玄冶店」には悩まされた。歌舞伎がモチーフと後年知った。「山の吊橋」も歌詞に筋立てがあって叙景的で素晴らしい。筆者の「物語りする俳句」のルーツはこの辺から辿れるかもしれない。(2020/11/16)

 

783『好きな歌手()

歌を歌うことを職業にする人を、歌うたい、声楽家、演歌歌手、シンガー、ミュージシャン、ロックンローラーなどというが、ここではそれら総てを一括りにして「歌手」とする。

昭和初期から中期にかけて、あるいは期間のカテゴリーにとらわれないで、古今・東西・男性・女性をあえてインパクトある配列で好きな歌手として取りあげる。筆者は歌謡界に無知で音楽用語を知らず音符も読めず、糅てて加えてまれにみる音痴であるが、歌を聴くことは楽しく憧れをいだく。記憶に残る歌手を50名ほどリストアップしたが、なるたけ多くご登場願う予定である。筆者は一応「文芸アーティスト」の端くれなので「歌詞」をあげつらい、由無し評釈を書いてみたい。

(歌手の敬称略。歌詞はUta―Netより引用)

『東海林太郎』。燕尾服を着てロイドメガネをかけて直立不動、澄んだバリトンを効かせて歌いあげる。「名月赤城山」の一番・・・

「♪男ごころに 男が惚れて 意地がとけ合う赤城山 澄んだ夜空の まんまる月に」。二番「♪意地の筋金 度胸のよさに いつか落目の 三度笠 言われまいぞえ やくざの果てと」。

この歌詞は、強きを挫き弱きを助ける侠客の国定忠治をえがき、博徒として上州から信州まで足を運んだとされる。昨今は弱きを挫き強きを助ける「政客」(政治家)が多いが、ともあれ凛とした出で立ちと澄清な発声で侠客を歌うという、微妙にして絶妙なバランスが心をうつ。筆者は少年のみぎり、東海林(しょうじ)の読みに違和感があって、東海林太郎(とうかいりんたろう)と自己流に呼称していた。「国境の町」も捨てがたい愛唱歌。

『大川栄策』。演歌歌手。元気で現役。累計180万枚のヒットを飛ばした「さざんかの宿」の歌詞一番を抜粋・・・

「♪くもりガラスを 手で拭いて あなた明日が みえますか 愛して愛しても ああ他人(ひと)の妻」「♪ぬいた指環の 罪のあと かんでください 思いきり」。

大きなお鼻がデンと居座り、歌うとき前歯を見せない独特の絞りだすような歌い方で、道ならぬ不倫を歌いあげる。「明日が見えますか」は暗い将来の暗示であり「かんでください思いきり」は罰の十戒の比喩だが、決して朗々ではない発声が逆に心をゆさぶる。「目ン無い千鳥」も一癖ある声質がいいね!

『菅原都々子』。エレジーの女王といわれ、哀愁をおびた独特なビブラートを発する歌手。高齢にして現役。「連絡船の唄」・・・

「♪思い切れない 未練のテープ 切れてせつない 女の恋ごころ 汽笛ひと声 汽笛ひと声 涙の波止場に わたし一人を捨てていく」。その他「月がとっても青いから」は軽快にして哀切。

『津村謙』。端正な顔立ちと声楽を思わせる美しい声で、「天鵞絨の歌声」のニックネームをもつ。「上海帰りのリル」の歌詞・・・

「♪船を見つめていた ハマのキャバレーにいた 風の噂はリル

 上海帰りのリル リル 甘いせつない 思い出だけを 胸にたぐって 探して歩く・・・」。

「夢の四馬路(スマロ)の霧降るなか」など東洋的異国情緒をかもし、従来になかったテンポの楽曲に酔い痴れる。「リル」とは「私の可愛い、いとしい人」の英訳という。津村謙は「ウイキペディア」によると、麻雀のため夜半に帰り、音を立てると家族に迷惑がかかると、エンジンをかけた愛車で眠り、一酸化炭素中毒で亡くなった。37歳の夭折で、飲酒形跡はなく家族への優しい気遣いが仇となってしまった。これを知って筆者、はかなくも落涙した。

余談だが、筆者の「俳友」(俳句の友)に「上海帰りのリル」を歌わせたら右に出る者がいない方がいる。ここではお名前を伏せておくが・・・。(2020/11/15)

 

782『東京大衆歌謡楽団』

誰言うとなく「懐かしくて新しい」というキャッチフレーズの「東京大衆歌謡楽団」が、ユーチューブなどで「新しくて楽しい」歌謡曲を発している。

昭和初期の古き良き時代の歌謡曲と人はいうだろうがそれだけではない。昭和の後半から平成や令和にかけて歌謡曲とか流行歌はないに等しく、若者たちが楽曲にもならないものを、楽器と音声を出して踊り狂っているだけに過ぎない。従って、いわゆる懐メロが現代では「新しくて楽しい」のである。

東京大衆歌謡楽団は「高島」の四兄弟が、長男は歌、次男がアコーデオン、三男がウッドベース、四男がバンジョーという編成を組んで街頭で演奏し歌謡曲を歌う。年齢は30代と20代と思われるが、主として人通りの多い公園や神社でライブ、帽子を逆さにしてコアなファンや集まってくる聞き手からお金をいただくのだ。

歌謡曲の内容は、「誰か故郷を思わざる」「旅の夜風」「赤城の子守唄」「上海帰りのリル」「青い山脈」「かえり船」「丘を越えて」「長崎の鐘」「山の吊り橋」「サーカスの唄」「月よりの使者」「上海の花売り娘」などなど。

演奏に合わせて歌うのは長男の孝太郎氏で、紺色の背広にネクタイをきちっと締め、頭髪を6:4にポマードでかため、丸メガネをかけた長身の端厳な姿であり、そのうえ笑顔を絶やさない。(ユーチューブ。令和2年10月25日。浅草神社奉納演奏会)

そして観客がお金を帽子に入れると、上半身を深々と90度折り曲げてお礼の意を表す。観客の多くは高齢の爺さん婆さんだが、その一人一人それぞれに丁重にお辞儀をする。筆者はユーチューブで観ていてもろくも落涙した。お金は生きる「糧」である。「糧」をいただく姿勢に打たれた。「喜捨の精神」がこのお辞儀には脈打っていると思った。

筆者は以前にも東京大衆歌謡楽団は観ていたが、三兄弟から四男も加わって四兄弟になり、最近は孝太郎氏の歌い方がぐっと良くなったように感じられる。アコーデオンも腕をあげたようだ。NHKにもBS朝日にも出演しており、東京大衆歌謡楽団はたしかに進化している。喜ばしいかぎりだ。(2020/11/09)

 

781『好きな芸人()

★「ミルクボーイ」。吉本興業所属。漫才。お笑い芸人。M―1グランプリ優勝。駒場と内海のコンビで「オカンが忘れた名前とその特徴」と駒場がさまざまなネタの名前を訊き、内海が偏見にみちた肯定と否定でネタの名前をさぐり当てようとする。ネタは「コーンフレーク」だったり「最中」だったり。

角刈りがっちり体躯の内海の肯定と不定が独断と勘違いで笑わせ、しかしそれもあながち間違っていないよなと、納得させられて苦笑。この筋立ての漫才はかつてなかったもの。「オカンが忘れた名前・・・」ならば、あらゆるネタが突っ込めるだろう。

つかみとして、駒場が客席からの差し入れの「二段ベッドの梯子」や「ベルマーク」をもらい、内海が「なんぼあってもいい」をふところに入れるしぐさが楽しめる。「いい、つかみ」だねえ。

★「川田晴久とダイナ・ブラザーズ」。川田はコメディアン、ボードビリアン、いわゆるボーイズものの創始者。子どものころに屋根から転落するという不慮の事故によって脊髄カリエスを患い、生涯にわたって病苦に悩むこととなる。1907年―1957年。

そのころ大人気だった広沢虎造の浪曲をアレンジしてギターに乗せ、澄んだ張りのある声で軽快に歌って日本のボーイズの嚆矢となった。

「♪地球の上に朝がくる。その裏側は夜だろう。西の国ならヨーロッパ、東の国は東洋の、富士と筑波の間(あい)に流るる隅田川、芝で生まれて神田で育ち・・・」

「地球の上に朝がくる。その裏側は夜だろう」は「こうして、こうすりゃ、こうなって」という浪曲や講談にみられる両極を結びつけるもの。丸い地球をはさんで、地球の上の朝と裏側の夜の対比には軽快なひびきを聴きながら感服したもの。筆者の俳句の基本スタイルである「二物衝突」はここからきているのかもしれない。

★「ねづっち」。1975年生まれのピン芸人。元Wコロンの一人。万才協会、落語芸術家協会の現役。なぞかけが得意で、お題を出されると約3秒で「整いました」という掛け声とともに披露する。3秒という一瞬芸で天才なぞかけ師といわれる。

なんでもお題が出されるとオチの部分から考え、オチを導きだす答えを考える方法を取っているという。「ととのいました」は2010年の流行語大賞に入っている。筆者は連句の運座などで付句の即吟が求められるが、「ねづっち」に学んで語調や音数は合わなくても、この付けどころで必要な素材をまずぶち込んで、やおら七音、五音に整える方法をとる。まさに「ととのいました」である。(2020/11/03)

 

780『好きな芸人()

★「マツモトクラブ」。一人で演ずるからピン芸人のカテゴリーに入るが、「マツモト」と、音声だけの「影の声」ともいうべき人物との掛け合いの漫才スタイルをとる。

「おさいせん」はサラリーマンの「マツモト」が神社に詣でて、生まれる子供のこと両親のこと会社のこと電車で座れること隣席が女性であることなど、いわゆるショッパイ祈願に対し、「影の声の神様」が呆れかえって説教したり諭したりする演出。また「コンビニ」は「マツモト」がコンビニに就職するやりとり、わが子とキャッチボールしながら担任の若い女先生のうわさをする「巨乳好き」もおもしろい。

画面に現れるのはマツモトだけで、影の声と掛け合って話をすすめるスタイルはほとんど例がないだろう。ボケとツッコミに小市民のペーソスやサタイアがにじんで捨て難い味わいがある。マツモトクラブといっても一人芸。1976年生まれ。R―1グランプリ常連の現役ばりばりだ。

★「ピロキ」。ウクレレ漫談家。蝶ネクタイにデカズボン、頭のてっぺんの髪の毛を丁髷(ちょんまげ)のように結いあげ、「♪明るく陽気にいきましょう~」がキャッチフレーズ。わが娘が可愛いといい、(不細工な)ぼくそっくりと言って笑わせる。最近ぼくも少しは売れてきて、若い奥さんが二階から手を振ってくれたので、ぼくも振り替えしたら、奥さんは窓ガラスを拭いているのだった。などなどウクレレを爪弾きながら自虐ネタ、不幸ネタを軽快にとばす。脱力系で何の足しにもならないと思えそうだが、ややこしくてストレスだらけの現代の肩の凝りを揉みほぐしてくれること請け合い。落語芸術協会・漫才教会所属のこれまた現役ばりばり。

★「早野凡平」。キャッチフレーズは「ほんじゃまあの帽子」で、黒い帽子の鍔(つば)の部分が離脱式になっており、鍔のかたちをさまざまに変え、ローマ法王、カウボーイ、キョンシー、ナポレオン、スチュワーデス、列車強盗、烏賊のお父さんなど、5分くらいの放映時間に約30種類の人物や動物を演出する。手早い動きで鍔を変化させ、次から次と出してみせる技と科白は鮮やか。

演技はいたって簡単だが、観客はあれよあれよという間に下意識を掘り起こされ、ローマ法王、カウボーイ、キョンシーと、イメージのメリーゴーラウンドを眺めるのだ。1940年―1990年。日本の大道芸。ボードビリアン。筆者より5歳年下だったがすでに

夭折。青年のみぎり筆者はそれらしき帽子を購入して真似てみたがものにならなかった。(2020/10/31)

 

779『好きな芸人()

ここでは「芸人」というが、落語家、漫才師、コント、ピン芸人、コメディアン、色物演芸などなど、すべてを一括りにしての呼び名とする。筆者の好きな芸人と、その演し物を古今関係なくランダムにあげてみたい。

★「コント・レオナルド」。ニッカポッカ姿の熊さんと、お巡り役の石倉三郎の二人がからむコントで、「風見鶏」「スピード違反」がおもしろい。一貫して権力や社会の不条理にするどく切り込むのが基本で、石倉の突っ込み、熊さんの惚け役で笑いをさそう。

蛇足ながら、熊さんこと井上千蔵は1935年北海道生まれ、この年生まれにはミシシッピ州エルヴィス・プレスリー、信濃の国のケンスイがいる。「暴れ35」といって、35年生まれは権力に歯向かう反骨精神が旺盛だといわれる。

★「桂枝雀」は上方落語の2代名跡で、破天荒な芸風からは考えられないような理論性があり、繊細な心の襞を表現する。持ちネタは60と決めていたそうだが、持ちネタにない「いたりきたり」がいいね!

イタチより小さく白くてふわふわした想像上の「いたり」と「きたり」という二匹の小動物の習性を描写し、人間社会の矛盾を比喩したり暗に批判したりする。本名は前田達。1939―1999。笑いを突き詰めた挙句にうつ病にかかり自死を選ぶ。

★「和牛」は漫才師、お笑いコンビともいう。ツッコミの川西賢志郎とボケの水田信二。吉本興業所属の現役。M―1グランプリで3回準優勝という稀有な記録をもつ。

「旅館の仲居」「洋服屋の店員」がたまらなくいい。旅館に投宿する男と、洋服を購入する男を演ずる水田の理屈っぽくへそ曲がりの役柄、それに対応する仲居と店員役の川西の演技がすばらしい。ただ笑いこけて聞き過ごしそうだが、ステロタイプのマニュアルを皮肉り、この時代の皮相な商業主義への批判性が底流にある。

二人のゲイ(おかま)がそれとなく男を媾曳きにいざなう「ローズとヒヤシンス」は、川西&水田がそれぞれ男女の役割を早業で入れ替わるところが抜群におもしろい。筆者に刺激閾があるのかその気があるのか、ゲイのネタは好ましく思われる。(2020/10/26)

 

778『みづうみの・短歌』

10月23日付の朝日新聞長野版の文芸欄「歌壇」に筆者の短歌が入選として掲載された。その作品と選者の草田照子氏の講評をここに転載し「自歌自解」を試みたい。

  みづうみの漣寄せる朝まだき

   小鮒の跳ねる音がをりをり  義人

草田照子「諏訪湖の明けきらない早朝。さざ波の音に混じって鮒の跳ねる音が聞こえる静けさは、いよいよ秋の深まりゆく証拠かもしれない」。

筆者は十代半ばから二十代にかけ、たびたび諏訪湖で魚釣りを楽しんだ。鯉や鯰や鰻など大物とか釣り場やポイントを選ぶものは無理なので、鮒やモロコや蝦などもっぱら小物専門だった。

諏訪湖畔にふるびた国鉄従業員保養所があって、その当時はほとんど使われておらず、親父が何らかのツテで一日借り切ってくれた。保養所には七ツ釜から温泉が引かれ、湯舟のすぐ脇を湖の水が緩やかに揺蕩っていた。

筆者は母親の握ってくれたお結びを食べ、ひねもす湯につかり、湯から出てはガラス戸を開けて独りのんびりと釣り糸を垂らすのだった。掲歌は、朝早く保養所について諏訪湖を眺めたときの風景だったのかもしれない。下意識にあったものが頭をもたげて作歌のモチーフになったのだろう。(2020/10/23)

 

777『八ケ岳・俳句』

10月23日付の朝日新聞長野版の文芸欄「俳壇」に筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品をここに転載し「自句自解」を試みたい。

豆引けばぐっと近付く八ケ岳  義人

「豆引く」は大豆や小豆など豆類の収穫をいう初秋生活の季語で、「豆打つ」、「豆獲る」なども季語として用いられる。

豆を取り入れるため豆の木ごと引きぬいたら、作業の立ち位置からの視界がぐっとひらけ、八ケ岳が近付いて見えたという句意だ。

筆者の青年のみぎり、小高い双葉ケ丘の、親戚から借用した小さな畑に小豆を作っていて「豆引く」経験をした記憶がある。八ケ岳ではなく遥か彼方の富士山だったが・・・

現在の高齢者の多くが、戦中戦後の貧しい時代を生きてきたので、農作業まがいの体験をしているのではないだろうか。「豆引く」などの季語は現代の若者にとっては死語に近いのかもしれないが、いま少し延命するのかもしれない。(2020/10/23)

 

776『忘れ得ぬ人たち()

国民文化祭が各県持ち回りで開催され、その連句部門において筆者は大賞を17回受賞した。その他に全国連句津幡、全国連句新庄、全国連句井波、えひめ俵口、形式自由連句、芭蕉翁顕彰連句、芭蕉祭、さきたま連句などで特選を受賞し、出席できるときは出席してテーブルをかこんで捌きをした。

大分県の日田は飛行機、栃木、三重、富山、石川にはマイカーを駆って参加。連句協会の理事が選考委員で捌きもしたので顔なじみになり、話がはずむことが多かった。連句人には貴賎もなく士農工商?もなく、気軽に与太話を飛ばせる間柄にもなった。

国文祭の日田では協会会長の上田渓水さんに宿舎で「硯水さんはいつも発句が素晴らしいね。俳句は何年やっているの?」と訊かれ、東明雅さんからは二十韻の形式カードをもらった。芭蕉翁大会では近松寿子さんや土屋実郎さんと会場の外の道端でジュークを交わして笑いこけた。また磯直道さんから依頼されて2001年の「連句年鑑」に原稿用紙30枚の「連句のコスモジー(言語と唯識と)」を執筆。連句協会会報にも「連句評釈・歌仙「野分」について」を執筆した。

津幡大会には数回出席したが、それまで同席の機に恵まれなかった連句協会理事で多摩美術大学の宮下太郎さんが、筆者の座るテーブルの脇を通り抜けながら、「よい作品でしたよ。頑張ってください」とほほ笑まれた。各大会の選考委員を務める宮下さんは筆者の連句をよく推奨してくださった。筆者の作品世界を共有されたのであろう。理解されることはうれしいことだ。(2020/09/27)

 

775『忘れ得ぬ人たち()

甲州街道は国道20号線沿いの筆者の「河童寓」から指呼の間に、そのかみ河合曽良が住んでいた。その旧居は取り壊されが、ここから道路一本隔てた正願寺には曽良の辞世の供養碑(春にわれ乞食やめても築紫かな)がある。曽良の旧居と供養碑にはさまれた辺りに牛山悦男さんのお宅がある。

牛山さんは「草茎」の俳句の友だが、長らく首都圏に暮らしておられ会社をリタイアされ郷里の実家に戻ってきた。聞けば「美智子さま」「どん兵衛」でおなじみの日清製粉の重役だった由。筆者はそのころ株式相場をやっていたので、手元の「会社便覧」を繙いてみるとお名前が載っていた。

話はそれるが、筆者は1952年十七歳から自営業を起業し43年間つづけた。むろん父親の物心の支援があったが「矢崎ゴム・ビニール店」はゴム長靴や雨合羽、農業用ハウスビニールやテーブルクロス、レジ袋や日傘カバーなどの販売。そのころはビニール製品の嚆矢の時代で名称さえ浸透せず、お客さんはビニールをナイロンだと称して譲らず、ポリエチレンをそれ洋菓子かと巫山戯けられたものだ。

店舗を三回リニューアルし、ハンドバッグ&ビニールを商う1995年頃から牛山さんはたびたび店舗を訪れ、来客用の安楽椅子に腰をおろし、ハイレベルな世間話を交わし合った。しかし俳句の話はふしぎとせず、製造物責任法の制定への賛意を熱っぽく力説されたことが忘れられない。

晩年はご自宅の庭木の丹精を尽くされていたそうだが体調を崩され、奥様より牛山悦男句集を上梓したい旨を懇願され、筆者が全句業から編集してフロッピー化、序文も書いて差しあげた。当時は磯直道「くさくき」所属だったが主宰にではなく、筆者に依頼されたことに驚きと同時に誇らしく思ったものだ。どん兵衛さんも悦男さんも好きだよ。(2020/09/25)

 

774『忘れ得ぬ人たち()

俳誌「草茎」の仲間に所沢市の冨田一青子さんがいた。恐らく筆者より十余歳年上で「貝寄風に一天暗き航となる」があり、後日に知ったのだが海外の漁船機関の仕事をされていたらしい。

朝日新聞の読者投稿ページである「声」欄に、当時社会問題になっていた「言葉狩」について賛否の声が寄せられ、作家の筒井康隆氏の投稿も掲載され、氏の断筆宣言も大きなインパクトだった。

筆者は肩書「詩人」として、いわゆる差別語が悪ではなく差別する心が問題だ。差別語の削除、差別語の言い換えは、新たに歪んだ差別意識を生むだろうと、筒井氏の「言葉狩は表現狩だ」という主張を擁護する文章を書き「声」に掲載された。たまたま拙文を目にした一青子さんから賛同の手紙をいただいたのだった。

その後、一青子さん、筆者、家内の三吟歌仙を数巻巻き、それらを編集した氏の自筆による毛筆書きの連句集が出版された。氏と会うことはなかったが、自身の写真と親子河童のこけしを送ってくれた。電話では一回だけお話でき、硯水さんは若い声だねと褒められた。

その頃は葉書で付句をやりとりしていたが、一青子さんの文字が乱れ体調を悪くされたらしい。年末「賀状交換を止めましょう」と葉書がきて、それが最後だった。象は死ぬときサバンナの洞に身を隠すという。「巨象逝く」・・・写真で見る限り偉丈夫でハンサム、葉書に書き添える優しい気遣いの言葉が思い出されるが、自身の体調や病気については一切触れず、ひっそりと逝かれた。「青蛙尿してあけらかん面ラす」「貝殻の肌に影あり秋の浜」の俳句を遺す。(2020/09/24)

 

773『早贅の・俳句』

9月18日付の朝日新聞長野版の文芸欄「俳壇」に筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品をここに転載し「自句自解」を試みたい。

早贅のかえるの目玉生乾き  義人

「早贅(はやにえ)」とは鵙の早贅の略で、「鵙の捧げる初物の供物の意から、鵙が秋に虫などを捕らえて、餌として木の枝に貫いておくもの。翌春、他の鳥の餌に供されてしまうのでいう」と辞書に載っている。

早贅の意味が初物の供物のことで他の鳥の餌に供されるというのだが、鵙は利発な鳥ということで知られるが、虫や蛙などを木の枝に射した場所を忘れそれを他の鳥が捕食したに過ぎないと鳥類博士が新聞に書いていた。

鵙は「百舌」とも書き、口達者で他種の鳥や動物の鳴き声をよくまねるという。また秋から冬にかけて雌雄別々になわばりを張り、その宣言として高い梢などで鋭い声で鳴き、それを「鵙の高鳴き」という。

鵙は比喩や揶揄の世界に呼びこめる鳥と思うので、筆者のお気に入りの鳥である。「ムンクの叫び」「ピカソ自画像」「写楽の役者絵の顔」「騙し絵」などを配して作句したが未だ名句にはいたらない・・・

余談ながら、俳句を嗜むならば一生に二つ三つの季語を作れと芭蕉がいったとか、いわなかったとか伝聞し、筆者は「百舌爺(もずじい)」という秋の季語を創出した。18年くらい以前のこと。そのころHP「河童文学館」で「お絵描き」のまねごとをしていたので、訪れる美術系専門校の女子が四五人いた。そのなかの二人が「百舌爺」のイラストを描いてくれた。

機敏で長い尾の美しさ、声高に鳴く肉食の凶暴さ、他の鳥や獣の鳴き声で騙しのテクニックを使う、あるいはお道化のテクニックを弄する。そんなイメージが筆者にはたまらないのだが、「イラストの百舌爺」はそのイメージの何処にも引っ掛からなかった。その後「百舌爺」とも「イラスト女子」とも疎遠になったのだった。

さて掲句であるが、「生乾き」はリアリスティック過ぎて筆者の表現したい「鵙」とはイメージを異にしている。投句という選ばれる身であれば文句はいえないのだが・・・(2020/09/20)

 

772『ユーチューブ私観』

ユーチューブは動画がいろいろと観られて楽しい。無料であるのもありがたい。報道や事件やリアル情報はなるべく観ないことにしている。なぜなら次回にユーチューブを閲覧すると、前回にアクセスした関連情報・類似報道が滅多矢鱈と「上」にきていて鬱陶しくなる。したがって筆者の場合ユーチューブでは音楽や演歌がメインとなっている。すなわち息抜きである。

よく視聴するものは、「コンドルは飛んで行く」「レットイットビー」「スタンド・バイ・ミー」「イマジン」「さすらいの口笛」「ガラスの部屋」「監獄ロック」「バナナボート・ソング」「山の人気者」「恋人よ」「ジョニーへの伝言」「ジンギスカン」「思案橋ブルース」「港町ブルース」「熱き心に」「自動車ショーの歌」「女のみち」「なみだの操」「グッドナイトベイビー」・・・

「浪曲子守唄」「大利根無情」「森の石松」「天竜三度笠」「名月赤城山」「ふるさとの燈台」「サーカスの唄」「緑の地平線」「愛染かつら」「目ン無い千鳥」「誰か故郷を思わざる」「国境の町」「連絡船の唄」・・・即座に思い出せる曲目をランダムに書き込んだ。

筆者はこれら動画付きの名曲やロックやド演歌を聴きながら他方で、フロイト・ユング・アドラーの心理学のダイジェストを読んだり、三氏の思想の手控えで検証したりしながら、作句の俤としての活かし方や方向性を探るのである。さらに実存主義のサルトルを捻りにひねって、自虐や諧謔に転換できないかと考えをめぐらす。

考えをめぐらしていると、「浪曲子守唄」や「森の石松」が耳に飛び込んできて素晴らしいアイデアや解決策が見つかったりする。「ユーチューブ」よ、ありがとう。(2020/09/12)

 

771『テレビ私観』

「テレビは五月蝿くて嫌いだ」、「テレビは時間潰しには面白い」。・・・公益法人テレビ視聴者アンケート調査へ、相矛盾するそんな返答をしたところで、筆者自身さえ胸にストンと落ちるものはない。「テレビは好きでも嫌いでもない」。これがいちばん本心に近いかもしれない。

テレビはコマーシャルのときだけ、音声が本体放送のときより一段と高音になって閉口する。眼には近視&遠視があるが、近耳&耳遠いという言葉はあまり使われず、筆者は耳が近いのか、音響や人間のがなり立てるコマーシャルには辟易し、消音スイッチをおす。そんな宣伝商品は金輪際買わない。

台風や地震やコロナなどの公益性のある情報は仕方ないが、各テレビ局が競って有名人のスキャンダルや犯罪を報じてうんざり。コメンテーターも在り来たりの突っ込み、親父ギャグで呆けをいれて鼻白むかばかり。

地上波のなかでテレ東だけは「わが道をゆく番組編成」で他局とは一線を画す。テレ東の娯楽系では「YOUは何しに日本へ?」「家 ついて行ってイイですか?」「昼めし旅」「路線バス乗り継ぎの旅」などはカメラの連写シーンが多く、編集の少ないリアル感がいい。アポなしで素人衆とからみ、トラブルや楽屋裏を敢えて隠さないのもいい。素人衆のカメラ意識や、カメラ無意識は見世場だ。

BS朝日の「必殺シリーズ」は四十数年まえの再放映。「世のなかの善と悪とをくらぶれば恥ずかしながら悪が勝つ」。その悪人を殺しの仕置人たちが、世にも珍奇な殺しのテクを駆使して殺すというもの。悪人を殺すとは言い条、殺しの英雄化は西部劇にはあるが日本では観られなかった。ストーリはいたって陳腐だが、景色や居所が現物なので役者(藤田まこと他)の演技や所作がいきいき映る。

これもBS朝日だが「迷宮グルメ異郷の駅前食堂」はイタリア・スペイン・トルコ・韓国などを列車や電車で旅し、駅前食堂でその国の食事をする。鄙びた駅の薄汚れた食堂で給仕人とかけあったり、異国の通行人とたわむれたり、骨董市でへんてこな買い物をしたり・・・「荒野の用心棒」の「さすらいの口笛」のサントラで幕開けする「迷宮」演者はヒロシただ一人。☆3や気取りとは無縁のヒロシの普段着がいいね。再放映だが何回も観られる。

も一つ、これもBS朝日の「お笑い演芸館」は落語漫才コント好きな筆者むき。ただ選り好み激しいので、嫌いな芸人のネタは早送りする(録画)。和牛の「洋服屋の店員」「旅館の仲居さん」「ローズとヒヤシンス」は演芸を越えて人間心理の奥底までのぞかせる。ピン芸人のマツモトクラブの、神社の神様と遣り取りする奇想素材の「おさいせん」。「3丁目のコンビニ」「親子ボール」など独特な世界観が素晴らしい。

以上は娯楽系にかぎって好きな番組をあげてみた。(2020/09/10)

 

770『忘れ得ぬ人たち()

中央本線の上諏訪駅より新宿駅ゆき、もくもくと黒煙を吐く国鉄の列車に乗り込んだのは1952年、筆者十七歳の秋だった。あまたのトンネルをくぐり、スイッチバックをかさね四歳上の次兄に背負われ、新宿駅から乗り継いで世田谷区代田の宇田零雨の門をたたいたのは宵の口に近かった。

諏訪湖名産の朝獲りの公魚を手土産に、筆者の母からの伝授で佃煮風の煮方をお教えしたが、零雨先生の奥さまは公魚の調理には不慣れで生炊けになってしまった。先生の三人のご子息はともに黒い学生服で丸眼鏡をかけ、年齢も筆者と前後していた。卓袱台を二卓ならべてピンポンに興じた記憶が忘れられない。

夕食後には先生が筆者を文机の脇に座らせ、投句の選考するさまを見学させてくれた。「飯樋可鳥さんは役所の「課長」だから「可鳥(かちょう)という俳号にしたのだ。僕の家内の俳句もあるよ。名前は「都子」と書いて「みやこ」と読むが、文字通りなら「みやここ」が正しいんだよね」と楽屋話をされた。先生は福島二本松生まれだが訛はなく、「そうかい。そうかい」と昭和天皇のような口調で優しく対応してくれた。

零雨先生は「文章倶楽部」の俳壇の選者で、筆者は投句してまもなく一席を得、先生の主宰する俳誌「草茎」に入門した。「草茎」は1935年創刊で「抒情詩としての俳句、現代連句の復興を旗印」とした。誌名の由来は「鵙の草茎」の季語からなる。鵙が蛙や蛇などを尖った枝や有刺鉄線に射して蓄える習性があるが、肉食の鋭い刃でホトトギス(俳誌)を刺し貫くという文学闘争の比喩が隠されている。先生は芭蕉研究家でただ一人の文学博士、1984年には「芭蕉語彙」(青土社定価四万円)を刊行。連句入門書や作品集多数。

「草茎」は一時期2000人の会員をえたが、先生は「俳人協会」や「現代俳句協会」とは距離をおき、また俳壇は写生一辺倒で抒情的な俳句は前途多難だった。連句でもこれまた「連句協会」と距離をおき、もっぱら草茎会員のほか、評論家の山本健吉、国文学の池田弥三郎、中国文学の奧野信太郎、被爆作家の原民喜、文芸評論家の佐々木基一。さらに平和祈念像の北村西望、日本画の川合玉堂、大山忠作らとの交流を通じて歌仙を巻いていた。草茎掲載のバックナンバーは5000巻をかぞえる。

筆者が「草茎」の会員になったころ投句者は約500人だった。募集は五句。巻頭三句、以下二句一句とつづく。また月一回と寒行と夏行を加えた年14回の句会が開催され、50句詠という大作募集もあった。さらに「誌上連句」には毎号多数の付句が寄せられ、先生が治定して解釈するページがあった。

筆者は巻頭二十数回、50句詠受賞。句会は何年も年間得点のベストテン入りして先生筆の酒興十二ヶ月の扁額、水原秋桜子の色紙、伊東深水や遠藤喜丸の小品画をご褒美としていただいた。

零雨先生は1906~1996。九十歳で亡くなられた。筆者は足かけ44年教えを受けたが、結婚式に列席してくださりお祝いの色紙と挨拶をされたこと、吟行の観光バスで諏訪に立ち寄って昼食を摂られたときの都合三回お会いしただけだった。

筆者は1958年第一句集「枯葉鳴る」(草茎社・頒価100円。A6判)。1981年第二句集「しなの路」(草茎社蔵版・頒価2000円。A5判箱入)

句集「しなの路」には、零雨先生の「・・・このような個人的な感傷とはかかわりもなく、この「しなの路」の内容は、草茎の作風の主流をなす浪漫的な抒情詩のすぐれた作品に満ち満ちている。そして、硯水氏のすさまじさを感じとることができた」の序がのる。

諏訪―代田は現在では電車で2時間半くらいだろうか。愛車プリメーラをフルスロットルで飛ばせば3時間か・・・零雨先生に三回したお会い出来なかったことが惜しまれてならない。(2020/09/04)

 

769『異化 人体解剖図』

異化 人体解剖図

世は揺れて脊柱 風のヂギタリス

クレバスの盲腸辺り ケルン建つ

静脈をながれ言の葉わくら葉よ

S字結腸詰まるや己が青みどろ

眼窩抜けて働き蟻が列をなす

われとわが心臓 茅花流しかな

夕焼けの肛門 ホモ・サピエンス

ヰタ・セクスアリス陰嚢紙魚の跡

すべからく右肺左肺の風通し

而して恥骨の丘に虹が架かり

風死んで人死んでからの尾

神鳴り 骨伝導のされかうべ

土用灸あなた任せの盆のくぼ

       留書き

「人体解剖図」は医学チャートとも呼ばれ、

系統別・部位別に447個がビジュアル化さ

れている。学校の理科室の人体模型は昼間は

さほどでもないが夜中は恐ろしい代物だ。

何かに真剣に取り組むとき身も心も一つに

なるが、ひとたび体調を崩すと心身がばらば

らになる。「部位別」という言葉もあるよう

に、人が識閾にあるとそれぞれの部位が別個

に認識されて収拾がつかない。そんなことが

わたしにはある。

「異化」とはロシア・フォルマリズムの芸

術説の一つで、日常見慣れた表現形式に或る

「よそよそしさ」を与えることによって異様

なものに見せ、内容を一層よく感得させよう

とするもの。シクロフスキーが提唱した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

俳誌「詩あきんど」40号の「詩あきんど集Ⅰ」に筆者の上記の俳句13句と小文が掲載されたので、ここに転載させてもらう。なお「留書き」は筆者が体裁上任意につけたもので俳誌には小文のタイトルはない。(2020/08/25)

 

768『諏訪湖へと・俳句』

8月14日付の朝日新聞長野版の文芸欄「俳壇」に筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品をここに転載し「自句自解」を試みたい。

  諏訪湖へと注ぐ小流れ濁り鮒  義人

「濁り鮒」は梅雨のころ、水嵩を増して濁っている川を産卵のために上る鮒をいい、仲夏動物の季語。

諏訪湖に流れこむ河川は大小数えきれないほどあるが河川にとどまらず、梅雨期の増水と濁りに乗じ、水田や用水路にまで遡上する鮒がかつては見られたものだ。現在は隔世の感があり、「小流れ」を遡る鮒がわずかに確認できる程度であるが・・・

そのかみ、筆者の郊外のセカンドハウス脇の川幅2メートルくらいの小川にも、濁り鮒が群れ立って鱗を光らせ、遡上するさまが見られたものだ。近隣のお爺さんが朝な夕な、小さな網で掬って獲っていたことを覚えている。諏訪湖からはだいぶん離れた地点ではあったが・・・

なお蛇足ながら、鮒が産卵期にそなえて餌をあさりに河川などに盛んに遡上する現象を「乗込鮒」といい、これは晩春動物の季語である。(2020/08/14)

 

767『生きてゐる・俳句』

8月7日付の朝日新聞長野版の文芸欄「俳壇」に筆者の俳句が第二席として入選した。その作品と選者の仲寒蝉氏の講評をここに転載し「自句自解」を試みたい。

  生きてゐるうちよ端居も句を詠むも  義人

仲寒蝉「これも或る意味コロナ禍の生活実感に基づく感慨。ただ端居とか作句とか、あまり悲壮感のないものを持って来て飄逸味を醸し出している。そこが俳人らしいと言える」。

「端居」は家屋の端近く出ていること。特に夏の夕方、涼を求めて縁側などにいること。すがすがしい外気に触れて寛ぐさまをいう。三夏生活の季語。副題には夕端居。

別個に「門涼み」という季語もあり、こちらは玄関に近い門のあたりの涼み方をいう。これに対して端居は家屋の裏側のそれをいうし、さらには「納涼」とはやや趣を異にする言葉である。人間が天恵として「涼味」を享ける場所によって興趣が微妙に違うようだ。

掲句について述べる。「生きてゐるうちよ」と上五中七を句跨りにし、口語で思いを述懐する文体に特徴があろう。「死んで花実が咲くものか」のアントニム(反意語)として、江戸っ子が「にんげん、生きてるうちだい!」なんぞと啖呵を切るが、それを俳句に転用したという感じのものだ。

昨今では涼を取るはもっぱらエアコンだが、時代遅れの「端居」が図らずも飄逸味につながったのだろう。(2020/08/09)

 

766『詩集「器」後日譚』

コラム765号を書くにあたり、思潮社の「現代詩手帖賞」についてインターネットで検索してみた。「ウイキペディア」に第1回より今年の58回までの受賞者全員が列挙されているが、第3回受賞者の矢崎義人(筆者)の名前が、間違えて山崎義人と記載されていた。「ウイキペディア」の間違いを当方のPCから訂正できるだろうかと調べてみたが分からず、スキル不足なので放置する。

話かわるが「現代詩手帖賞」の58年にわたる受賞者数は、2名と該当者なしの年があるので、これまでにざっと79名。このなかの数人は詩人として作家としていまも活躍している。日本では詩だけで食える人は谷川俊太郎ひとりといわれる世界だから、彼ら彼女らも詩や小説が副業かもしれないと勘繰る。

余談だが筆者の詩集「器」は初版500部、定価900円ときめられた。詩集一冊900円は、出版された1968年(昭和43年)の貨幣価値を現在のそれとかんがみて、どんなものだろうか。

思潮社では、「現代詩手帖賞」受賞者の詩集出版に関しては商業ベースにのせるからと費用は折半になった。自費分として引き取った250冊は、著名な詩人、詩誌の仲間たち、大手新聞社の文芸部、はては親戚縁者にまで送りつけた。なかには「おめでとう」といって熨斗袋入りの一万円札や真澄の大吟醸、北海道からは荒巻き鮭を送ってくる愛読者もいたが、逆に返事さえくれない人もいた。

出版から52年になるが、凡そ10年以前だったろうか、インターネットで名前と詩集名と古書店の三つのキーワードを入れて検索したところ数個ヒット。名古屋の某古本屋では、わが詩集が13500円で売っていた。オオオ、やったぜ。そのうちテレビ東京の「なんでも鑑定団」に出品されるかもと北叟笑んだものだ。

最近の調べでは数店の古書店で1600円と1500円で売っている。「村野四郎宛・献呈・署名入・汚れ、背少々痛み」の書き込みのあるものが出品されていた。・・・そうだった、村野四郎は「体操詩集」など有名な詩人で、座右の書として熟読したものだ。たしか名前の脇に「恵存」と書き添えて贈呈した記憶がある。

これまでに詩集一冊、句集二冊を上梓したが、ができあがると「こうすればよかった」「ああすればよかった」と作品への後悔で虚無感に苛まれた。死屍累累というべきありさまで、ページを繰って読み返すことさえしなかった。ただ詩集だけは青年期の思い入れが強いせいか出版してよかったと今では思っている。(2020/08/01)

 

765『忘れ得ぬ人たち()

「忘れ得ぬ人たち」の第一回に野間宏をとりあげる。野間宏は戦後派文学の中心的な担い手で社会問題にも広く発言し、「暗い絵」「真空地帯」「青年の環」などの著作を遺す小説家にして詩人。1915~1991。と「広辞苑」に載っている。

「文章倶楽部」という「文壇登竜門」を謳った文学文芸の投稿雑誌があって、筆者は17歳の1952年から詩歌句の投稿をはじめて入選もした。その後誌名が「世代」にかわり「次の文学をめざすもの」とかかげ、小説部門の選考委員は野間宏だった。

そして筆者23歳の1959年「偽装」という原稿用紙15枚の小説が入選し、「結核病棟の閉ざされた状況に反抗して状況そのものを変えようとする試みは偽装に過ぎないというテーマで、結核患者の特殊性に徹することによって現代社会を批判しようとする作品」と野間宏が長文の講評をよせた。

翌年には保高徳蔵の「文藝首都」に筆者の原稿用紙18枚の「若い男」という小説が入選した。煙火師である屈折した男が花火の火炎に擬えて不毛な女性関係をえがくもので、韻を踏むような文体で太宰治の「トカトントン」につながる秀作と好評だったが、「世代」は「現代詩手帖」と詩の専門誌にかわり小説から遠ざかる。

そもそも筆者はいわゆる文学かぶれで、そのころ開高健の「パニック」や大江健三郎の「飼育」を読んで現代文学の黎明と心打たれ、俺にも書けそうだと勇んだが結果的には小説の筆は折り、もっぱら詩作に没頭する道を選んだ。

1963年2月、筆者は思潮社の「現代詩手帖」の「第三回現代詩手帖」を受賞した。この賞は今年58回をかぞえる詩壇では有名な賞で、入選した何篇かの年間詩活動を、野間宏、清岡卓行、長谷川龍生、吉野弘の四氏の合議選によって決めるもので山本哲也との同時受賞だった。

2月号には「選考合評会」が8ページにわたって特集され、野間宏「さいしょから引きつづき推していたのは、僕は矢崎さんであったわけです。・・・今までの詩に出ていなかったようなイメージとか言葉ですね、そういうものがこの人の詩に出てきていると感じたわけなんです」。吉野弘「一遍の詩を作るときに、一遍の詩ぜんたいがアイロニーだという、そういう方法が、ちゃんとあります。本質的になにか批判や感覚の鋭い人だと思う」。清岡卓行「一種独自なものを、より多くもっている。比喩の世界で表現され、アンリ・ミショオが異様な世界に首をつっこんでいるようなところがあって、いいと思う」と掲載される。

1968年12月、詩書専門の出版社である思潮社より筆者の詩集「器」が刊行された。黒の布装本で表紙には古代壺の絵が描かれ、115ページで定価900円。初版500部。受賞者は商業ベースにのせるからと費用は出版社と自費との折半。販売用250部が完売か売れ残ったかは知るよしもない。

じつは序文を野間宏にと編集者を通じてお願いしたが、氏が執筆で多忙のためそれは叶わなかった。そのころローカル紙に野間宏が環境問題の取材で諏訪をおとずれ、湖畔の旅館に投宿しているという情報をえた。筆者はアポイントメントをとってお会いしたいと思ったが、やはりそれも憚られた。

翌年の元旦、野間宏より年賀状がとどく。活版印刷で「謹賀新年」だけの文面。詩集に序文を書いてやれなかったことを気遣う年賀状だろうと筆者はかってに思った。戦後派日本文学の旗手と一投稿者という、師と呼べる関係性もない間柄だが、筆者の小説や詩作の表現世界を読み解き温かく応援してくれた野間宏の心が忘れられない。(2020/07/30)

 

764『比喩の海』

「下着」は人体のもっとも内側に着る衣服で、肌着ともいう。最近は洋風にメンズインナー、レディースインナーなんぞと呼称して販売する店が多い。一口に下着といっても男と女では部位も形状も異なるが、筆者がここで取り上げるのは、男が上半身に着る下着のことである。

筆者、暑がりの寒がりでは人後に落ちないが、年齢を重ねるにしたがって、冬の寒がりはむろんのこと「夏の寒がり」(肩肘手指の金属疲労が原因だが)と成り下がってしまった。

時期にあわない無駄な行いを夏炉冬扇というが、信濃の国は「木曽のナー仲乗りさん木曽の御岳ナンジャラホイ夏でも寒い~」と唄われるように、山間地では夏ストーブを使う土地柄と言い条、里暮らしの筆者の夏の寒がりは理解してもらえんかもしれん。

話が逸れてしまった。筆者は初老期から夏でも「グンゼ」の長袖を愛用(愛着)していたが、あるとき「ユニクロ」のヒートテックを一時期だけ試し着してみた。ユニクロは極暖で伸縮よく肌理よく肌にしっとりが売りらしい。それは首肯できるが、しっとりがねっとりでむず痒く、女装もどきのたよりない着心地が嬉しくない。

グンゼは「ずっと上質・ずっと快適」が売りでパッケージからして重厚で格調高いが野暮ったくもある。真っ白な生地の網目も粗くて肌にざらつき「漢だねえ」「爺さんだねえ」という感じ。「グンゼは演歌」である。「ユニクロはロックンロール」である。

一段と「夏寒」のときはグンゼにユニクロを重ね着したり、ユニクロにグンゼを重ね着したり・・・けれども二者は水と油でお互いに溶け合った快さを発揮してくれず、詮無いことであった。「グンゼVSユニクロ」・・・軍配をあげるとしたら筆者は「演歌のグンゼ」と決めた。

先達てEテレビNHK+の「芸人先生」で、グンゼ下着の売り方に「おじいさんまで着られる」がよいと漫才師のアインシュタインが勧めていた。宜なるかな。ださいグンゼよ、がんばれ。

あれこれと喩えに喩える話になってしまった。筆者は俳句ばかりでなく、日常生活で何でも彼で喩えて考えることが好きでたまらん。「比喩の海」にどっぷりと漬かっているってわけだ。(2020/07/20)

 

763『異化について』

「異化」という言葉は三分類にわけられ、それぞれのジャンルには研究や学説がある。簡単に説明すると次のようになる。

「生物学」のジャンルでの異化は、「生物が外界から摂取した物質を体内で化学的に分解し、より単質な物質に変える反応をいう。こうすることでエネルギーを得ることができる」とされる。

「心理学」のジャンルでの異化は、「自己の心的構造に適合するように外界の状況を変化させる同化に対して、自己を外界に適合するように変化させる過程(ユング)また、子どもの自己と実在との分化を強める過程(ピアジェ)とされる。

「芸術文学」のジャンルでの異化は、『ウイキペディア』に次のように解説される。一部を省略してコピペする。

「日常的言語と詩的言語を区別し、事物を「再認」するのではなく、「直視」することで「生の感覚」をとりもどす芸術の一手法だと要約できる。つまり、しばしば例に引かれるように「石ころを石ころらしくする」ためである。いわば思考の節約を旨とする、理解のしやすさ、平易さが前提となった日常的言語とは異なり、芸術に求められる詩的言語は、その知覚を困難にし、認識の過程を長引かせることを第一義とする。「芸術にあっては知覚のプロセスそのものが目的 」であるからである。またそれによって「手法」(形式)を前景化させることが可能になる」。

このように、異化には三通りのジャンルの研究や学説がある。「生物学」や「心理学」とも微妙なニュアンスで通底する部面もあるが、筆者は「芸術文学」(芸術には美術や演劇が含まれる)のジャンルにおける「異化」について興味を抱いている。

「異化」はロシア・フォルマリズムの芸術説の一つでシクロフスキーの提唱とされ、「日常見慣れた表現形式に或る「よそよそしさ」を与えることによって異様なものに見せ、内容を一層よく感得させようとするもの」である。これは文学作品なかんずく短詩形、俳文体において有効な手法と思うのだ。

十七音の俳文体は世界で最小のフォームであり、その瞬間芸的訴求力という特質を以って、読み手のイマジネーションを喚起させて成り立つ文芸。たとえば、切れ字による省略と余韻、五・七・五の句跨りによる意味の拡張と収縮、字余り字足らずの音律違和効果、季語によるフィールドの支え柱、一人称の把握力の強み、措辞する漢字&カタカナ語の取り交ぜの平衡などが、俳句における異化革命を引き起こすのではなかろうか。

「生物学」や「心理学」の異化の対語である同化は「日常的言語」である。繰り返しになるが、それに対して「芸術に求められる詩的言語はその知覚を困難にし、認識の過程を長引かせることを第一義とする。「芸術にあっては知覚のプロセスそのものが目的 」であるからである」というのだ。

筆者が異化による俳句文芸をめざすは、事物や感情を凸面レンズ越しに眺める、非日常のマジックミラーに映し込む、自他ともに知覚を悩ませる罠を仕掛ける、不協和音の効果を狙っての措辞などなど。いうなれば「よそよそしい」テーマを前面に引っ張り出しての「前景化」である。新しい詩が、新しい俳句が待たれる。(2020/07/12)

 

762『アラビアンナイト・俳句』

7月3日付の朝日新聞長野版の文芸欄「俳壇」に筆者の俳句が佳作として掲載されたので、ここに転載し「自句自解」を試みたい。

  アラビアンナイト読み止し明け易き  義人

ご存知のように『アラビアンナイト』は原題「千夜一夜物語」の英語名。インド・イラン起原や近東地方の物語集。シェヘラザードという才女が面白い物語を千一夜にわたって続けるという形式をとる。初めはパフラビー語で書かれ、八世紀後半頃アラビア語に訳され、以後増補。著者不明。アラビア夜話ともいう。

「読み止し」とは、読みさすこと。読みかけて途中でやめること。よみかけ。また「明け易き」は夏の夜は短く明けやすいという三夏の時候の季語。

明け易い夏の夜に、超長編の「アラビアンナイト」を読み始めれば、当然の成り行きとして「読み止し」になるだろう。この二物(短夜と書物)の取り合わせが、俳句文芸として心打つのか心打たないのかは読み手に委ねられる。俳句の作者としては投句を敢えて「投げ句」といって、シーザーではないが「賽は投げられた」のである。(2020/07/03)

 

761『レジ袋有料化』

今日からレジ袋が有料になる。大はスーパーから小はコンビニまで一枚5円~2円くらいという。レジ袋は海洋汚染のやり玉にあげられ、魚が餌と間違えて飲み込んだり、その魚を食った海の生物や人間にも連鎖的に被害が及んだりするという。そのため有料化して消費量を減らす算段らしい。

しかしレジ袋は全プラスチック製品に占める割合は2%とされ、また水に溶けなくて汚染被害は長年にわたると喧伝されるが、プラスチックの原料の石油はそもそも海洋生物の堆積死骸であり、加工段階の添加物のため水溶性はやや鈍化するが、元来薄手のレジ袋は三か月で溶解するという科学者の言がある。

減量すべきはレジ袋ではなく、その他の厖大はプラ部品やプラ容器やトレーなどなど。京都議定書の地球環境をいうなら石炭火力発電を止め、物流のトラックを残してガソリン乗用車を止めるべき。曖気(おくび)して大気を汚染する放牧の牛は減らすべき。牛肉は食べず豚や鶏を食べる。

レジ袋は薄くて丈夫で商品を買い込んだ帳場(会計台)のレジから発生し、帰宅して買い物を取り出してからも、一時的な物入れ、物の区分けやゴミ出しなど限りない用途があって重宝なもの。

そもそも「袋」とは胞衣(えな)の俗称で子宮をいい子袋をいう。陰嚢(いんのう)もときと年代によっては大事なものであるし、手袋も足袋も耳袋も欠かせないしろものだ。それから人間だれでも身心を入れて貰った「お袋さん」を忘れてはならん。「レジ袋はお袋さん」が嚆矢であることに間違いあるまい。

石油という自然の天恵と人類の叡智が実を結び、われわれ人間生活にとってかつて存在しなかった貴重なレジ袋を手に入れた。iPS細胞はどうであれ、レジ袋こそノーベル賞に値する。

重宝の極みであるレジ袋は人類の辿りついた人智の設けとして「ただ」がよい。無料でこそ、これまでのたゆまぬ研鑽が報いられ智の未来が拓けるだろう。

ところで、この時期のレジ袋有料化の意味は何だろうか。スーパーやコンビニが5円&2円をケチるとは到底思えず、実は本当の狙いが見えにくい。全プラスチック製品に占める割合がたった2%を敢えて削減という非科学さや、文化人類学史の大発明を曲解までして売りつけて、減量へとゴリ押しする真意とはなにか?

ある科学者によると、「地球環境がんばっていますよ」という良い子をアピールする人がいるという。そんな似而非知識人をよいしょするマスメディアもある。

筆者はさらに「有料化」による脱プラという、ちょい見には国民的善意的な煙幕を張って、「人心支配システム」を構築しようとする企みをひた隠しに隠そうとする「一族」(自民党海洋プラスチック対策推進議員連盟)が関与しているように思われてならない。(2020/07/01)

トップページへ