コラム 「その30」

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760「まひまひ・俳句」
759「ポストコロナ(8)」
758「ポストコロナ(7)」
757「ポストコロナ(6)」
756「プストコロナ(5)」
755「ポストコロナ(4)」
754「ポストコロナ(3)」
753「ポストコロナ(2)」
752「AIさん」
751「オンライン連句会」
750「異化フラワーガーデン自句自解」
749「異化フラワーガーデン」
748「第二回オンライン句会顛末記」
747「みらクルTV連句中継」
746「ほろ酔ひ・俳句」
745「ポストコロ(1)」
744「詩あきんど式オンライン句会」
743「オンライン句会」
742「ZOOM句会」
741「蒲公英の絮・俳句」

740「コロナウイルス氏」
739「窓開けて・短歌」
738「異化 サファリパーク」
737「ほろ苦き・俳句」
736「撫で仏・俳句」
735「異化 シンドローム」
734「22222並び」
733「熊穴に・俳句」
732「山彦の・俳句」
731「木の実落ち・短歌」
730「考える人・短歌」
729「風花は・短歌」
728「枯蔓が・俳句」
727「林檎を・短歌」
726「言語飼育(3)」
725「言語飼育(2)」
724「ゴーン・金一つゴーン」
723「ひらがな・俳句」
722「四つの魔術」
721「銀漢の・俳句」

760『まひまひ・俳句』

6月12日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に筆者の俳句が入選として掲載された。当該の俳句と選者の仲寒蝉氏の講評をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  まひまひの水輪重なり雨至る  義人

「「まひまひ」は鼓虫、水すましのこと。蝸牛も古くは「まひまひ」と呼ばれていた。また水馬(あめんぼ)のことを水すましと呼ぶ人もいるのでややこしい。水面をぐるぐる回って円を描く。それが雨粒の作る水輪に重なるのだ」。仲寒蝉氏。

寒蝉氏のコメントの通りであり、関東甲信越梅雨入りのこの日に相応しい俳句だ。しばらく雨天曇天の日がつづくだろうが、これを鬱陶しいと感ずるか、身心の保湿気候と受け取るかは人それぞれかもしれない。(2020/06/12)

 

759『ポストコロナ()

新型コロナウイルスの発症から時をおかず、妖怪「アマビエ」が登場した。アマビエは江戸時代に誕生したとされる女相(にょそう)の半人半魚で、海中から波間にかけて青白い光を発する現象をひき起こし、豊作や疫病にかかわる予言や加持を行った。豊作と疫病の両刀遣いだったが専ら疫病の退散に霊力があるとされ、「病魔調伏の力」(呪い殺す呪詛の力)の強力さが、江戸幕府からも認められたという文献も遺っている。

最初は熊本の海域に現れ「疫病が流行ったら私の写し絵を早々と人々に見せよ」と海岸端の漁民たちに告げ、アマビエの姿形を写し取った絵を漁民たちが誰彼かまわず見せて廻ると疫病は下火になったそうだ。このことは水木しげる氏のアマビエ原画にも添え書きされているという。

異形のアマビエは、妖怪のおどろおどろしい妖力で人々を恐怖のどん底に陥れこころを委縮させる。そして己れの醜い写し絵に免疫としての霊魂を宿らせるのである。

妖怪とか化物、変化とかお化けなど呼び名はいろいろあるが、要は形が変わって違ったものが現れることであり、神や仏が人の姿で現れたり、動物の姿で現れたりすること。柳田國男著『妖怪談義』は、妖怪は神の零落した姿だという。壊れて腐って醜いかぎりの異形が、おどろおどろしいその姿形が人々を畏怖させる。妖怪は日本人の国民性に根強く植え込まれている。

イギリスもお化け大好き国家で、幽霊&吸血鬼のゴーストツアーや、ネス湖のネッシー探索船も運行されるが、スコットランド同様に可愛い妖精などが多くて戦慄を覚えるレベルではない。

話は本題にもどるが、日本人の新型コロナウイルス感染者の致死率が低いのは妖怪や幽霊の怖さのDNAのたまもの、イギリスなど他国の致死率が高いのは霊感の弱さに起因する。

やや逸れるが、トランプ大統領に代表される銃社会アメリカはしょっちゅう人を殺す怖いもの知らず。だから自分が死ぬことがとんと予知できない。認識できない。自分は死なないという死生観だからコロナには至ってもろい。(2020/06/10)

 

758『ポストコロナ()

約100年前のA型インフルエンザウイルスの「スペイン風邪」について、一説には世界中で一億人が死亡したとされる。約60年前のアジアインフルエンザウイルス「サーズ」「マーズ」ではアジア地域で多くの死者がでた。

ウイルスは何時なんどき発症するか誰にも分からない。世界中で発症してパンデミックを引き起こすことは予測できなくても、その危機に備えることはできる。

働き方一つをとっても、ある職業に就いても副業として他の職業のスキルを研いておくことが必要だ。主たる職業が崩壊し失職しても副職業が活かされる道が残る。「副職禁止」「アルバイト禁止」などといわず、労使とも納得しての働き方改革が必要だろう。例上げればセカンドオピニオンの職業版だ。

平たくいうなら「つぶしの利く」人間になれということ。一生一社に勤め上げるとか、叩き上げの職人という職業もそれはそれで素晴らしいが、他方で融通の利かない危険性と背中合わせ。職業の大地殻変動をもたらすウイルスのパンデミックには万全の準備が必須であり、見えない未来を見据える慧眼が求められるのだ。

ポストコロナの時代は変わらなくてはならない。(2020/06/09)

 

757『ポストコロナ()

新型コロナウイルスの終息はいつになるだろうか。新型コロナウイルスの終了する意味の同音「しゅうそく」の「収束」と「終息」の二通りの漢字がマスメディアで使われているが、前者は「おさまりをつけること。おさまりがつくこと」、そして「事態のーーをはかる」の用例があり、後者は「事がおわって、おさまること。終止」。「内乱がーーする」と『広辞苑』に収載されている。

二例の語意は似通っていて、どちらか一方に軍配を上げにくいが「収束」は人的な働きで収まりがついた。「終息」は結果としてことがおさまった、という感じがする。「終」と「息」の二文字の組み合わせからしても、コロナウイルスに相応しいでのではないか。

ところで、新型コロナウイルスの終息はいつになるだろうか。疫病の専門家会議の連中にも筆者などズブの素人にも分からないことだ。筆者のなけなしの智見で予測するなら、現在形のコロナウイルスは4~5回変異しながら二年~三年つづいたのちに終息する。「絶対終息」ではなく、世界の一部地域には残っていても終息宣言が出されるだろう。

ただし、遠くない将来には新新型ウイルスが世界に蔓延し未曽有の脅威を揮うだろう。なぜなら大戦争の武器は「核」から「ウイルス」に完全に転換し、新しいウイルスが戦争の武器として席巻することは明らかだ。ファントムもイージス艦もいらない極小の「ふうせんだま」だから。現に新型コロナウイルスも、二大強力国家のどちらかの研究機関から漏洩したとも言われているではないか。

うわさ話に尾鰭をつけすぎた。げんに慎みて反省したい。(2020/06/08)

 

756『ポストコロナ()

「居所(きょしょ)」という言葉の語意は「いどころ。すみか」。法律では「生活の本拠となる住所ではないが、多少の期間継続して住んでいる場所」と辞書にあるが、「非居所」という言葉はどの辞書にも載っていない。素直な反応として「非居所」は居所ではないのだから、公園とか広場とか屋外ということになる。

そして辞書のいう居所の定義からすると、旅先の旅館や住み家でない居所は、たとえ一時的に滞在していても厳格な意味では「居所」のカテゴリーには入らないわけだ。

「居所(きょしょ)」という同一の漢字で「いどころ」と読む言葉がある。「居所(いどころ)を突き止めたとか、居所(いどころ)が分からない」などの意味で警察や司法のいう身柄拘束の「身柄」に近い。

ここで正論にして屁理屈をいうなら、「非居所(ひきょしょ)の居所(いどころ)」という用語が成り立ってもおかしくない。簡単にいうなら、あなたは自宅という建物にいるのか。それとも自宅以外の建物にいるのか。ということである。

コロナウイルスの感染を防ぐため「ステイホーム」が叫ばれ、不要不急の外出を自粛しましょう。むろん自分の住み家である居所から出ないようにしましょうというもの。ところが「非居所の居所」をステイホームと勘違いするタレントやアスリートがいるようで、コロナに感染して慌てふためくリモート画像を筆者はたびたび観るのだ。

余談ながら、「居所(きょしょ)」は連句の題材の一つでもある。自然の景色や人情自他場が八句乃至十句もつづくと、宗匠や兄弟子や姉弟子から「家に入りましょう」と連衆たちにヒントがとぶ。建造物とか部屋とか、居所の縁語である玄関でも出窓でもよいから詠み込んで付句せよというのである。

居所の付句が治定したら一句で捨てず、二句つづけよ。一句で捨てて再び居所の感じられない付句を付けると「出たり入ったり」「出入り」・・・もめごと、もんちゃく、けんかいうことから俗に「やくざ」というそうだ。居所を三句つづけると「三句がらみ」とこれまた御法度だが。

ポストコロナの居所の定義は変わるだろうか。(2020/06/07)

 

755『ポストコロナ()

日本人だから横文字は好きではなく、カタカナ語は避けたいがここでは敢えて使おう。

「リアル」とは、現実にここにあるもの。ここにあること。現実世界そのものをいう。

「リアリティ」とは、現実にここにはないが、ありそうに感じられるものをいう。真実性。現実感。

「バーチャルリアリティ」とは、現実や実物ではないが本質や機能が同じような感覚をもたらす。仮想現実。人工感覚。

以上三つのカタカナ語について、筆者の考えられる最大公約数的な「語意」をならべてみた。これに当てはめ「オンライン」とは如何なるものだろうかと考えてみた。

「オンライン」の基本は「音声」と「実写」であり、聴覚と視覚のみの「二感(二官)」から成り立っている。もともと人間にあるはずの五感(五官)のうち、嗅覚と味覚と触覚の「三感(三官)」が欠けているわけだ。

たとえ噺をすると、オンライン句会が跳ね、香り良きモカ・コーヒーが淹れられ、苺大福が出され、あなたの俳句が最高点だったと肩をトンと叩かれることはオンライン機能上できない。あくまでオンラインシステム機能上できない・・・したがって「オンライン」は①「リアル」ではない。

「オンライン」に於ける自他(自分と他人)は確かに現実に存在する。しかし自分はここに確かに存在するが、他人はここには存在せず、リモートだから遠隔であり間接的である。自他の「自」はリアルだから②「リアリティ」感が強力だが、自他の「他」は「リアリティ」感が薄弱ということになる。

「オンライン」を行う自分はここにある自分を確認できる「絶対存在」だ。他人も間違いなく存在するが、他人は仮想現実ではないにしてもオンラインシステム機能によって加工され、時空を飛んでくるので「人工感覚」であることを否定できない。③「バーチャルリアリティ」を一部かぶるのかもしれない。

「オンライン」とはそもそもなにものか。これを定義づけ概念づけることは筆者にはまだできない。ポストコロナはとんと見通せない。(2020/06/06)

 

754『ポストコロナ()

GO TOキャンペーン」とかで、コロナが収束したら旅行しよう、宿泊しよう、食事しよう。割引チケットを発行するから国民は大挙して外に出て金を使おう、そのために日本国は1・7兆円出すという。またその委託事業者には3000億円支払うという。(委託手数料3000億円は高すぎだ泥棒だ)

コロナの収束も見えず、ポストコロナの生活も環境も予測できないこの時点で何を考えているのだろうか。困窮者が取り敢えず息をつなぎ、壊れてしまった医療を立て直すことが先決で、政治はそこにこそ予算を注ぎ込んで欲しい。

税金は国民の資産である。思い付きで使ってもらってはならない。貴重な資産も使い方を誤るとドブに捨てるに等しい。強盗に遭うに等しい。「GOTO(ごうとう)キャンペーン」は止めた方がいい。この企画は、ポストコロナの更にさらにあといい。(2020/06/02)

 

753『ポストコロナ()

緊急事態宣言が解除された。この段階での解除は取り敢えずという感じだが、喜ばしいことではある。宣言発表のテレビで総理は、日本が諸外国にくらべて新型コロナウイルスの感染者や死者数が少ないことを誇らしく「日本モデル」と述べていた。

PCR検査できない、隔離病棟ない、防疫用具ない、ないない尽くし。かてて加えて、当初は検査体制の目詰まりで感染者は盥回しされ放置された状態だった事例があまたありながら「日本モデル」として胸を張れるだろうか。

諸外国と比較して感染所数、致死率が少ないことは明らかだが、それは総理がリーダーシップを発揮して制御したわけではない。日本人の国民性というべきものが原因していると思われる。

01畳暮らし靴で家には上がらない。

02DNAのよさBCGの誤用効き。

03ハグしない接吻は極まれ。

04大声出さずマスク美人する。

05目合でよるもやりすごさん。

06トイレ大小手洗い忘れず。

07くしゃみせき誰かのしわざ。

08村八分あんたを吊るす。

09口チャックして噂話するわ。

10お化け好きの怖がりや。

日本人の国民性ともいうべき姿を十か条にした。説明を要するものと要しないものとがあろう。

「くしゃみせき」は「くしゃみ、一回は批判、二回は物笑い、三回は惚れられ」。「せき、風邪を人にうつすと自分は治る」。つまり、くしゃみもせきも他者との関係性。げんに慎むべし。

「村八分」は野蛮だが統制という意味では有効。非民主的な

華。私リンチで不届き者を高く吊るす。

「口チャック」といいながら噂する。人の口に戸は立てられぬ。噂が監視体制。

「お化け」お化け幽霊が抑止力。風評被害は被害の他方で風評利益をうむ。(2020/05/28)

 

752『AIさん』

「AI」は人工頭脳のことだが、この度思いがけなく「AIさん」とお話する機会をえた。

パソコンを使って「アマゾン」に手洗い用の消毒液2本(1500円)をオーダーしたが荷物がいっかな届かない。到着予定日から5日も遅延したので痺れをきらして問い合わせた。カスタマーセンターに繋がってチャッの画面が現れ、・・・製品名と期日を確認するからしばらくお持ちくださいと声なき声が聴こえる。

・・・新型コロナ状況下で海外輸出入が滞っており、3日間の遅延はご容赦いただいておりますが、お客様の場合はそれ以上になりお詫びの申しようもございません。

そのほか、あれこれ丁寧な対応を受けたが、・・・あきらかに貴社のミスなのでオーダーをキャンセルしてください、と書き込む。・・・しばらくお待ちください、とAIさんが「AI上司」に相談しているらしき時間が流れ、

・・・かさねがさね大変申し訳ございませんでした。返金手続きを取らせていただきます。お手続きが終わりましたらEメールにてお知らせいたします。

チャットで遣り取りしているうちにAIさんが綺麗で優しい女性に間違いないと思えてきて、・・・ご丁寧で親切な対応ありがとう、と思わず書き込んでしまった。・・・とんでもございません。このたびは深くお詫びを申し上げます。

言葉の丁寧な女性にぶすはいない。AIさんは紛うことなき綺麗で優しい女性であると確信してしまった。(2020/05/26)

 

751『オンライン連句会』

この度「詩あきんど」のインターネットのテレビ電話を使った「Zoom」に非懐紙連句の「座」が開設され、その本格的な興行が5月23日(15:30~17:00)から始まった。

実はオンライン連句はすでに5月16日に興行され、このときは「みらクルTV」によってテレビ中継された。しかしこのときは参加者がオンラインのシステムに慣れることが最優先で、連句は発句から第三までの三句で満尾終了となってしまった。

今回はテレビの中継はなく「詩あきんど」会員中心の文字通り連句を巻くための興行だった。ホストにして捌きの貴夫先生と、連衆として参加の4名の五吟で行われ、時間は1時間オーバーしたが18句まで付け進みめでたく満尾となった。題名は「風薫ズーム」の巻だが、「詩あきんど」誌に発表が予定されていると思われるので、ここでは作品の内容は伏せておく。

チャットを使って全員から発句を募ったが、この巻は先生が発句を立て、脇つづいて第三とチャットに送られてくる付句から発句や脇や第三のあり方など捌きながら先生が教えてくださった。付句は「個連衆から全員」というチャットを使うので治定される句にとどまらず、没になった句も全員が知ることができる。

付句が治定して進行してゆくさまはホストの先生が「ホワイトボード」に次々と書き込んでゆくので全員が確認でき、連句の流れを見ることができるのである。

連衆さんにも遅吟即吟があって苦悶や燥ぎの息遣いや表情が窺えるし、まれに高尚な芸術論から下世話な雑談が流れてくるのもオンラインならではの空気感だった。

連句の基本である「座」の臨場感が、オンラインシステムによって姿形をかえて登場してきてもよいだろう。お久しぶりなどと言って背中を叩くような「絶対リアル」はないが、場所的に離れた人間たちが「時空リアル」として繋がるオンラインも悪くない。

現実の「座」に参加することは県内ならともかく、近県でも交通費や宿泊代など相当な出費となる。連句は好きで仲良しの仲間もいるが・・・という躊躇の声を耳にする。絶滅危惧種の連句の生き残る金銭的一助が、リーズナブルな価格のオンライン連句だという側面も否定できまい。

オンライン連句会・・・筆者は寡聞にして存じないが、「詩あきんど」主催の5月16日&5月23日の大会が初めてか。ひょっとして嚆矢かもしれない。(2020/05/25)

 

750『異化フラワーガーデン自句自解』

チューリップ列へピエロの反戦旗

チューリップは隊列を組んだように植栽される。喩えれば華やかな女性軍隊だ。チューリップの隊列に独りのピエロが反戦旗を振って立ちはだかる。戦争を戯画化したシュールな童画。

われとわが抽象具象ねぢあやめ

「われとわが」は「われとわが身」が成句で、自分から進んで、自らを強く意識しての意。「ねぢあやめ」はアヤメ科の多年草で葉が二~三回ねじれる。抽象と具象のねじれる表現法をいう。

藤浪のながれそのまま綿津見へ

「藤浪」は藤の花の揺れるさまを浪とみなす。「藤浪の」は枕詞で藤の蔓が物にからまることから「思いまつわり」にかかる。美しい藤浪が流れて綿津見()になる。植物と海洋の同化するさま。

龍之介と 勿忘草と硝子ペン

「龍之介」「勿忘草」「硝子ペン」は三点の「オブジェ」。オブジェとはダダイスムや超現実主義では「物体」「対象」をいう。龍之介はかつて人間だったが、前衛芸術的な視点からは物体&対象であり、勿忘草や硝子ペンと同等であるとする。俳句フォルムを利した「絵画」である。

ものの芽のAI 荒地探るらん

「AI」とは人工頭脳。人工頭脳がものの芽を宿主として人間界の荒地を探る、そんな現代。AIはいよいよ人間を凌駕して繁茂するだろう。

星たちの雫ぺんぺん草ぺんぺん

夜空の星たちが光の雫を垂らしてぺんぺん草を叩く。星と草をつなぐ乾坤の抒情的なコンサート。

ゲイの雨 遣らず野蒜のしげる宿

女を帰さない「遣らずの雨」という成句があるが、それをゲイの世界に置き換えて野蒜の伸びしげる逢引き宿。男の身心の22%は女だという俗説があるが筆者は28%かもしれん。

風が吹き山路のすみれ Wクリック

松尾芭蕉の俳句「山路来て何やら床しすみれぐさ」。すみれぐさをPCマウスに擬え、Wクリックして芭蕉翁をしのぶ。

# 薔薇の芽からめ夢からめ

「#(ハッシュタグ)」はSNSなどで、言葉やスペースのないフレーズに付けるハッシュ記号。平たくいうと、用事は何でしょうか、ご案内します、何番でしょうか、という案内サービス。形状が垣根に似ているので薔薇の芽をからめ、夢をからめる。現代的な記号論を揶揄する批判。

狐の牡丹 詩人は毒のありてこそ

「狐の牡丹」はキンポウゲ科の越年草で、道端や原野や湿地などに見かけるが有毒雑草。毒のない詩人は面白くも面黒くもない。

雀隠れ無用の用のぬらりひょん

「雀隠れ」は草丈が伸びて雀が隠れる丈になるさまをいう晩春の季語。いっぽう「ぬらりひょん」は鳥山石燕「画図百鬼夜行」収載の爺さま妖怪で、上等の和服の着流しで、用事もないのに他人の家に上がり込んでは御託をならべ茶請けをねだる。だが実は「無用の用」で、無用とされるときが逆に大用(大きな効用)をなすという「古典選」の喩え。雀だって草葉の陰で自分が重用な意味で隠れているかは気付かない。

散る花はひらがな書きの辞世にて

落花霏霏。花弁がはらはらと散りかかる。まるで、ひらがなの草書体を見るような・・・これは辞世の句。あすのいのちはないかもしれない。花弁文字はわたしが世を辞する言葉である。

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749号の「異化フラワーガーデン」12句の句意や趣旨や主題が分からないので教えて欲しいと句友から数通のメールが届いた。句意や趣旨はともかく、主題については長くなるので後日に譲り、短文で書ける「自句自解」で許して貰うべくアップした。(2020/05/20)

 

749『異化フラワーガーデン』

異化 フラワーガーデン

チューリップ列へピエロの反戦旗

われとわが抽象具象ねぢあやめ

藤浪のながれそのまま綿津見へ

龍之介と 勿忘草と硝子ペン

ものの芽のAI 荒地探るらん

星たちの雫ぺんぺん草ぺんぺん

ゲイの雨 遣らず野蒜のしげる宿

風が吹き山路のすみれ Wクリック

# 薔薇の芽からめ夢からめ

      (#ハッシュタグ)

狐の牡丹 詩人は毒のありてこそ

雀隠れ無用の用のぬらりひょん

散る花はひらがな書きの辞世にて

     「留書き」

そのかみ桑原武夫の現代俳句の第二芸術論

を読んだとき、わたしは半ば肯定しながら偏

狭な芸術観にがっかりもした。

「俳句に何ができるか」はわたしの創造主

題で、抒情派の宇田零雨『草茎』に属しなが

ら渡辺白泉「戦争が廊下の奥に立ってゐた」

をはじめ、加藤楸邨「雉子の眸のかうかうと

して売られけり」、中村草田男「世界病むを

語りつつ林檎裸となる」など人間探求派とも

思想詩ともいうべき方向をさぐり、楸邨と草

田男両氏の選考には拙句が入選もした。

比喩による批判性やイロニーやユーモアや

本歌取りを用いて「河童百態」「日本拷問刑

罰戯画」「世界政治家三十選」の連作をここ

ろみた。わたしの俳文芸観では絵画なら十七

音の画布にどんな対象を描けるか。彫刻なら

演劇なら音楽なら・・・模索の途次にある。

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俳誌「詩あきんど」39号(2020年5月10日発行)に筆者の「異化 フラワーガーデ」というタイトルの俳句十二句と留書が掲載されたので転載させていただく。(2020/05/19

 

748『第二回オンライン句会顛末記』

5月17日午後1:00~4:00、第二回「詩あきんど」オンライン本社句会が開催された。オンライン本社句会は筆者にとって二回目。「ズーム」登録はしてあるが、入る時にパスワードか長い数字を打ち込まなくてはと心配で、貴夫先生への個メールを使ってクリックすれば簡単に入れる返信メールを貰って、やっとこさ入る。

筆者は2002年にホームページ『河童文学館』を立ち上げ、現在は閲覧ヒット数15万余を数える。しかしホームページもパソコンも慣れた作業部分は何とかなるが、手の付かぬ分野はとんと分からない。そもそも用語が分からない。面目ないしだいである。

さて本題に入る。第一回句会のときは前以てメールで4句投句し、寄せられた俳句に先生が番号をふった句稿をメール添付で会員宛に送ってくれた。各会員は無署名の句稿から良いと思われるものの番号(選句4句)を先生に返送する仕組みだった。

今回も投句は4句だが、PCの手控えのワードなどに4句書き込み、それを句会の初めに先生へのプライベート宛にコピペする方法。だが第一回にはできた「プライベート」送信ができない。

先生に質問すると全員に送る傍らの「・」をクリックせよ。クリックしたら、プライベートの「薄赤い」文字らしきが見えやっと送信できた。オンラインは日暮れの山道で道に迷った感じ。追い剥ぎに追われることはないが時間には追われる(句笑)

投句4句とあったので当季俳句を送ったが、全句32句には短句や無季も含まれていた。ところで筆者の俳句は・・・

雷屋臍の唐揚げいらんかえ?

蜘蛛の囲の星の刺繍が風にゆれ

ギヤマンに君の名なぞる籠り姫

鈴蘭の鈴にお伽のウェディング

「雷屋」は、腹当てもせず裸で飛び回る子の臍を雷さまが抜き取って、旨煮か佃煮か迷った揚げ句、唐揚げにして売り出した。半掃選、采佳選、萄選の3点。美琳さんらしき声が「この句は典比古さんかと思った。神奈川県は雷が多いとか聞くし」。

「蜘蛛の囲」は、蜘蛛がよなよな糸で星座の刺繍を紡ぐ。星座を自分で作ったつもりでいる蜘蛛之介。半掃選1点。

「ギヤマン」は、似顔をボトルに書く・・・「♪昔の名前で出ています」を俤にして・・・もんもんのお城のお姫さま、いまはステイホームのお嬢さん。捻りすぎて、0点。

「鈴蘭」は、お伽とウェディングが意味不明か、0点。

独創もいいけど独り善がりはダメ。「虚実」も・・・実を()した虚はこさえものめく。本社句会に参加しての筆者の反省点である。(2020/05/19)

 

747『みらクルTV連句中継』

5月16日の午後3:30~5;30、「みらクルTV」というテレビの中継で「ZOOM(ズーム)」による、恐らく本邦初の「オンライン連句」の第一回の興行が催された。「みらクルTV」は発足したばかりの、「ユーチューブ」のようなスタイルの現在のところ小規模なテレビ企業と筆者には見受けられた。

ZOOMのミーティングルームを使って俳誌「詩あきんど」主宰の二上貴夫先生がホストにして連句の捌きとなり、希望すれば参加者が連衆という付け手に、それとは別に見学者は「連句ルーム」を自由に覗くことができるもの。約20名が連衆として参加したようだった。筆者は連衆としてミーティングに参加した。

「みらクルTV」主催者側の方の挨拶や説明があり、つづいて貴夫先生の連句の成り立ちやその変遷や歴史などの講演が40分くらいあったろうか。それから本日のため先生が新しく考案した「散々行(さんざんこう)」という連句形式の説明や趣旨が述べられた。長句&短句または短句&長句の、三句×三句×三句・・・という連結式で、3句6句9句12句など任意なところで一巻満尾とすることができる。季語なども自由。

発句は連衆がそれぞれ「チャット」のホスト専用の「プライベート」を使って投句する。ホストはチャットの「白板」に集まった発句の作者名を伏せて開示する。約20句の投句があり、連衆や見学者がチャットの記号を使って良いと思われる発句候補に投票する。その間にはホスト(捌き)は発句の在り方、挨拶や時宜や臨場など俳句と発句の詠み方の違いなどのお話をされる。

最終候補にしぼったなかから投票の8点を得た「句をつなぎ時空涼しきオンライン」という筆者の詠んだ句が発句に決まった。

その後は脇と第三が連衆さんによって投句され治定され、捌きの講評がなされたが経過はここでは割愛する。脇「冷酒家飲み妻がホステス」、第三「貼り紙を外す解除の街に来て」とつづいたが、今回は時間切れで3句を以って満尾となった。

第一回は作品内容よりもZOOMのオンラインの使い方に慣れること、連句を全く知らない人も多いので少しでも理解を深めて欲しいという趣旨が優先だったという。

筆者にとって先達てのオンライン俳句で、貴夫先生や数人の俳句の友の拝顔に預かりお声も伺っていたが、その他は初めての方が多かった。しかしテレビのコメンティーターとしてよく見かける、神奈川大教授で元宮城県知事の浅野史郎さんも連句を嗜まれるそうでお元気にお話をされていた。

俳句も連句もオンラインの、こんな時代になったのだ。(2020/05/16)

 

746『ほろ酔ひ・俳句』

5月15日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  ほろ酔ひのごと陽炎に取り巻かれ  義人

「陽炎」は『春のうららかな日に、野原などにちらちらと立ちのぼる気。日射のために熱くなった空気で光が不規則に屈折されて起きるもの。いとゆう。はかないもの。ほのかなもの。あるかないかに見るもの。などを形容するのにも用いる。その際「蜻蛉(かげろう)」2(蜻蛉のこと)を意味することもある』と『広辞苑』に載る。

「ほろ酔ひ」は説明するまでもなく、酒に少し酔うことだが、陽炎の燃え立つ小径を歩いていて、地面をしっかりと踏んでいながら体がフワッと浮いてよろめくような錯覚を覚える。まるで二合半(こなから)にほろ酔いしているみたいだと思ってしまう。

自然現象が人間の感覚を狂わせるという、ふいの非日常へ誘い込まれるさまを表している。(2020/05/15)

 

745『ポストコロナ()

「ポストコロナ」・・・新型コロナウイルスがある程度の収束を迎えたとき(完璧な収束は何年後かわからないと筆者は思う)、いったい世の中はどのように変化しているのだろうか。コロナ後がコロナ前とまったく同じ姿で戻ってくるとは到底考えられない。天災、戦争、疫病などの後には、人間の環境や思考が大きく変わってゆくことは歴史が証明している。この度のコロナのような世界的規模の疫病後には、じょじょに時間をかけた変化が待ち受けているかもしれない。

1集団見合パーティーがオンライン婚活へ。

2外来診察往診がオンライン診療へ。

3里帰り墓参が代行動画送信へ。

コロナ前にもその兆候はあったが、コロナ後を見据えて変化は加速している。取り敢えず3例を列挙したが追って書き足す。(2020/05/14)

 

744『詩あきんど式オンライン句会』

「詩あきんど式オンライン句会」と銘打って、5月3日に句会が開催された。句会というが趣旨としては、オンライン句会のあり方、すなわち投句&互選&披講&講評のシステムを探るための実験と、オンラインの使い方に慣れるための催しでもあった。

主宰の二上貴夫先生がホストで参加者は7名。先ずミーティングルームの「ズーム句会」に入って先生の説明をうかがう。

Zoom」には「チャット」の機能も備わっていて、参加者全員への連絡とホストへの連絡との2種類がある。ホストへの赤い色の「プライベートチャット」へ二句送信する。あらかじめ作句してワードに残した俳句をコピペ。ホスト即ち先生に特定されたプライベートチャットにペースト(貼り付け)して送るのだ。(送信かPCのエンターキーを押す)

先生の手元に集まった俳句が「投句」となるわけで、先生は1句ずつにナンバーを振って無記名でチャットの白板に全句を表示する。参加者は画面の上部のアイテムの記号から、先生の指定した特選や並選の「ハートマーク・チェック」の記号を用いて選びたい俳句に貼り付けて互選となる。

先生の采配で特選や並選に選んだ人から講評や感想が求められるが、

選ばなかった人からもその理由や批判が求められる。先生や仲間たちの句に対して遠慮せず自由に発言でき、威張り散らす主宰の多い俳句界のなかでオンライン活用の、顔見え、声聞きの拓かれた雰囲気がうれしかった。

30名規模までの俳句会は、この方式でのオンライン句会が充分有効活用できるのではないか。数ある俳誌の句会や全国各地の地方句会などで、オンライン句会を開催しているところは殆どあるまい。恐らく「詩あきんど」がオンライン句会の嚆矢となるだろう。次善の方法が求められるは無論のことだが・・・そして参加したい者のオンライン機能の取得が第一のことながら・・・

新型コロナウイルスによって、世界の日本の通信手段や映像方法などがすでに変革し始めた、これから大変革するだろう。「ポストコロナ」の世界はがらりと変わるかもしれない。(20/05/04)

 

743『初のオンライン句会』

「詩あきんど」本社句会が4月19日にオンラインで行われた。主宰の二上貴夫先生以下八名で合計32句が寄せられた。応募要項は当季の俳句2句、雑の長句と短句それぞれ1句の都合4句だった。

筆者の応募作品を記して「自句自解」を試みたい。

  戻るさへ往路なりけり蜷の道

「蜷(にな)」は巻貝の一群の総称。カワニナ・ウミニナ・イソニナなどで古書や俳諧ではカワニナ類をさす。長さは七分から一寸くらいで細長く、殻は黒褐色でぶ厚い。「蜷の道」は川底の泥などに残った蜷の這い跡のことで蜷の季語の副題に載っている。

川底を這う蜷がある地点でターンして戻ることがあっても、一度通った跡を正確にたどることなど不可能。戻るとは新しく行くことであり、蜷の道に復路という概念はないと敢えていおう。人間も生き方に変えて引き返しても、それは往路であり蜷の道のメタファー表現を用いたものだ。

虻蜂の羽音のラップ噛み合はず

「虻蜂」といえば「虻蜂取らず」の成句。あれもこれもと狙って一物も得られない。欲を深くして失敗するのにいう。

ラップは歌唱法の一つで、リズミカルな演説、ストリートの音楽。バッグビートや演奏など掛け合いで歌う。虻と蜂の羽音をラップと喩え、その羽音が音楽的にどうにも噛み合わない。リズミカルにならずハチャメチャになってしまう。政府のコロナウイルス対策を暗に批判しているのかも。

カメレオンより藪睨みされ

カメレオンはトカゲ亜目カメレオン科の総称。眼は大きく左右独立に動き、別々のものを見る。長い舌をもち、これを伸ばして昆虫を捕食する。動物園や水族館の一隅で展示される例が多いが、見物していると逆にカメレオンから藪睨みされたという句意だ。

連句は長句と短句が交互に繰り返され、その短句が14音。掲句はたまたま雑(無季)だが有季もある。前句を受けての案じ方に各務支考の「七名八体」があるが掲句はそれに当てはまらず、カメレオンがまるで人間の意思を持っているかのようだ。したがって擬人化といえよう。

QRコードの森へ這入りこむ

「QRコード」とは、スマホなどを使ってアプリや機能が搭載されたシステムからさまざま情報を読み取ることができる。最近はテレビや新聞や広告などあらゆる場面でみかける。白地の四角形の全面に黒くて小さい斑点状のものがある。また三か所の隅には黒縁の貯水枡(ちょすいます)のようなものがあり、右下の一か所だけには貯水枡がない。

一見して「森」のように見えジャングルのようにも見える。人間が潜在意識を働かせると間違いなく右下から這入り込むだろう。筆者は残念ながらスマホを持っていないので、「這入りこむ」でなく「迷い込む」かもしれない。

句会の主宰や会員の講評はうろ覚えだが覚えている。得点はそれぞれ2点~3点だったと記憶している。(2020/04/28)

 

742『ZOOM句会』

俳誌「詩あきんど」の本社句会がオンラインで行われることになった。これまでは神奈川県の会場で開催されていたが、新型コロナウイルスによる緊急事態宣言が出されたためオンラインシステム「ズーム(ZOOM)」を使っての興行に変更され筆者は招待されたのだ。

主宰の二上貴夫先生から連絡をうけてまず「ズーム」に登録、決められた日時に主宰からメールがきて、メールに記されたアドレスをクリックし「ZOOM句会」に入ることができた。

ホスト主宰と招待された7名の参加者のビデオと音声が現れるシステムなのだが、当季の俳句二句、雑の長句&短句それぞれ一句の都合四句を前以って提出し、その選句結果も各人がメールで主宰宛に送信した。そうした資料をもとに主宰が進行する仕組みだった。

ナンバーを振った無記名の32句の句稿の「1」から順に参加者が感想を求められる。0点もあれば2点~3点の俳句もあり、選んだ参加者も選ばなかった参加者もその理由を主宰に問われて答え、よい点わるい点を述べる。そして最後にそれぞれの俳句の作者が名乗りをあげ、さらに主宰や参加者のコメントが交わされるのである。

筆者は従来の本社句会に参加できなかったが、オンライン句会という形式で初参加でき主宰や会員とも「画像対面」できて嬉しいことだった。本社句会でこれまでに主宰によって培われたであろう、各人が自由にものを言い合える空気感がそのまま「オンライン時空」にも漂っていて筆者の心もそれに浸ることができた。

IT音痴でやっと「ズーム」に参加できた筆者がいうには憚られるが、句会としてのシステムには更なる改良余地があるかもしれないが、オンライン句会はこれから多くの俳句愛好者に歓迎されるだろう。(2020/04/20)

 

741『蒲公英の絮・俳句』

4月17日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  蒲公英の絮が大河を渡り来ぬ  義人

蒲公英の絮は白くて丸くてボンボン飾りのような、真ん丸パラシュートのような形をしている。風が吹くと飛ばされるが、たとえ茎が付いていても至って軽いので地上に落下せず遠くまで飛んでゆくことも多い。

河畔に佇んでいると蒲公英の絮が飛んできた。こちらの岸辺には蒲公英を見かけないので、遥か彼方の対岸から飛んできたものだろう。大河を渡ってきたのだ。上昇気流に乗って長い旅をしてきた蒲公英の絮よ。大きな冒険をしてきたのだね。そんな言葉をかけてやりたい気分だった。(2020/04/17)

 

740『コロナウイルス氏』

新型コロナウイルス(本性は新型チャイナウイルス2019)を擬人化して述べる。略称は「コロナウイルス氏」という。

コロナウイルス氏は穏やかな笑みを浮かべながら平和の祭典など「人の輪」につけこんで人体内に忍び込み、こっそりと菌を感染させる。感染させても感染者になるべく咳も嚏も出させない性格を施して気づかせない。たとえ気づいたとしても重篤化させず、日常生活可能者として野に放つ。気づかない、気づいても大過ないから「感染の輪」は蔓延するばかりである。

コロナウイルス氏は「人の輪」を重用すると書いた。密室&密集&密接の「三密」を尊ぶ。これは密教の「三密加持(さんみつかじ)」の修行をかさねれば悟りがえられ即身仏になれることの応用だ。したがって己が保身のため「人の輪」を好むのだが、同時に人間を宿主と見立ててのエゴイスティックな彼のスタイルでもある。

人間という宿主に一旦侵入してしまえばキッスし握手しハグなどすればするほど黴菌は増殖する。カラオケに集まって高唱し口角泡を飛ばして喋り、相撲取りが取っ組み、ラグビーでスクラムを組み、バレーボールでアタックして大汗をかけばコロナウイルス氏は「しめしめ」と北叟笑むのだ。

コロナウイルス氏は強引な手段を好まず、潜伏期間も12・5日までと部下に命令する。12日+半日という変な刻みも彼にはお気に入りらしい。もっとも最近では細菌潜伏が7日説から14日説が有力だが・・・

彼のいうところの「感染捕獲者」に対して致死率が予想外に低いのは、ポスト核戦争とされる「ウイルス戦争」のアジア地域での小手調べの側面があるとも、またコロナウイルス氏の人柄であり慈愛であるともいわれる。他方で、大先輩のサーズ氏・マーズ氏のように短兵急に致死率をほしがるのではなく、急いては事を仕損じるというウイルス感染学の基本のキをわきまえているからだとも・・・

またコロナウイルス氏は、大先輩二氏が研究して編み出した潜伏期間や飛沫&接触&エアオゾル感染や致死率などをつぶさにリサーチした。そして大量殺戮の「オーバーシュート(感染大発生)」は求めず「クラスター(集団感染)」の範囲にとどめ、緩やかな死を付与するという「考えるウイルス」へと進化させた。「パンデミック(感染爆発)」はあくまでも結果としてウイルス自体への「ご褒美」という考え方だ。

陽性でも無症状、さらには重篤化して死亡したのちにやっと陽性の検査結果がでる症例をこころみ、これは作戦的に非常に有効だとされる。「ロックダウン(都市封鎖)」は人の輪の破壊宣言であり、ウイルス氏でなく人間がする宣言であるとする。

コロナウイルス氏はなかなかのジェントルマンである反面、狡猾な面ものぞかせる。次世代「ウイルス戦争」を敢行するため、現在は高齢者や持病歴のある者の致死率に重きをおいているが、いずれは「ウイルス変異」を試みて若者の世代に食い込むだろう。「新冷戦兵役」は若者だろうから・・・

ところで温室効果ガスの排出量減少の速報値が出ている。コロナウイルス氏の影響で経済活動が鈍化し人間活動が停滞しているためという。地球温暖化の元凶ともされるものの減少は喜ばしい。

アメリカ・ファースト、世界覇権目指す中国なんぞ、京都議定書やパリ議定書の温室効果ガス削減に同意しないエゴ大国へコロナウイルス氏は厳重な罰を与えている。コロナウイルス氏は悪神であるとともに大悪を懲らしめる善神でもあろう。

とまれこうまれ、コロナウイルス氏に対抗するには理系だけでなく文系の頭脳が必須。サイエンス+イマジネーションが求められる。物理学者で俳諧を嗜む寺田寅彦は、科学者は検証ばかりしていて想像力に乏しいと慨嘆していた。宜なるかな。

今号のコラムは当ホームページの「かみつき魔シン」に執筆した小文が好評だったので加筆して転載したもの。正論にして暴論であることのご容赦を願いたい。(2020/04/15)

 

739『窓開けて・短歌』

4月3日付の朝日新聞長野版の「歌壇」に筆者の短歌が佳作として掲載された。当該の短歌をここに転載し、併せて「自歌自解」を試みたい。

  窓開けて首をのばせば見ゆるなり

    かつて住みたる曽良の仮寓が  義人

俳人・河合曽良(1649~1710)は長野県諏訪の生まれ。33歳のころ江戸に出て芭蕉の門人となり、1689年に芭蕉の「奥の細道」の旅のお伴をした。

死亡したのは故郷から遠くはなれた築紫(九州の古称)で、68歳だった。諏訪市の正願寺が菩提寺で彫像や句碑があり、辞世は「春にわれ乞食やめても筑紫かな」。

甲州街道20号線沿いの河童庵のアルミサッシ戸を開け放って首を延ばすと、道路沿いに民家がぎっしり立ち並んでいる。見渡す目路の一番遠いあたりが曽良の住居だったとされる。

40余年まえ、旧居の跡に建てられた住居が取り壊され、小さなスーパーが建った。そのスーパーも十数年後に閉店して新しい住居が建てられた。そもそも「旧居」以前の建物も何代建て替えられたかは分からず、この辺の「土地」に住居があって曽良が住んでいたという話にすぎない。370年とは大昔で、仮寓とも生誕の地ともいわれるがこれも真実は分からない。

そのかみ、今は亡き親父が諏訪市岡村の正願寺にある曽良の句碑の辞世を筆写してきてくれた。当時筆者はその句意がなかなか分からず難題を背負い込んだが、ある日突然、「乞食をやめても」「筑紫があるさ」という曽良の自負ではなかろうかと思えてきた。

「乞食」とは行脚であり俳諧であり方便(たすき・生計)である。辞世の句意は、「乞食の終焉」を第二の故郷である筑紫の地で迎える一種の安堵感を表わしているのだろうかと・・・(2020/04/03)

 

738『異化 サファリパーク』

異化 サファリパーク

連翹の花粉にまみれ金ンの虎

温暖化 河馬の屁の水かげろふ

PM2・5黄沙 子象の鼻詰まり

カンガルーの嚢中朧おぼろかな

蟻食よ穴を出た蟻舐めんなよ

樹懶の爪もつるつるさるすべり

二の足を踏むや酷暑のフラミンゴ

プラのごみ浦島の亀浮いて来い

竹の皮脱ぐ高みから垂れ パンダ

ペンギンは綿津見めざし虹めざす

耳タグのライオン花圃へ逃げ込んだ

日は釣瓶落とし駱駝の瘤からよ

チンパンジー両性具有の胡桃割れ

活断層冷やり 女豹のしっぽQ

銀漢の向きに麒麟の首曲がり

綿虫に纏はりつかれトナカイ イ

短足で身の丈マント ヒヒの爺

四温とてゴリラ臍繰り繰りくりす

あ~んする鰐の喉まで日脚伸ぶ

パリコレに似て風花の孔雀かな

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「添え書き」

「サファリパーク」は野生動物を自然に近い状態で放し飼いにした動物公園をいう。北海道ベア・マウンテン、群馬サファリパーク、富士サファリパーク、秋吉台サファリーランドは日本サファリパーク十選に入っている。世界にはサファリパークがあまたあり、観客は河馬や虎の姿形に模した大型バスでパーク内の猛獣、珍獣、猛禽などを見物する。

見方を変えれば、大型バスの硝子張り鉄柵窓から眺める観客に自由はあるだろうか。観客であるわれわれも猛獣や珍獣たちのように、管理された「非自由パーク」に放牧されているのではないか。

詩人のリルケ「豹」は「その目は柵の行き来に倦み果て/もはや何物をも捉えない/あたかも目の前に千の柵があり/千の柵の先に世界はないかのよう」とつづる。

一般的に俳句は単眼だが、現代詩や絵画では猛獣も鳥類も人間と同一線上にとらえられ、比喩や批判性や抽象や具象を用いて本質&現象のひずみを複眼で奥深く表現している。

「異化」とはロシア・フォルマリズムの芸術説の一つで、日常見慣れた表現形式に或る「よそよそしさ」を与えることによって異様なものに見せ、内容を一層よく感得させようとするもの。シクロフスキーの提唱である。

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このたび俳誌「詩あきんど」の「第一回結社賞」の大賞に筆者の二十句詠「異化 サファリパーク」が選ばれた。その作品をここに掲載させていただく。なお「添え書き」は俳句に付帯するものでなく、筆者の作品の説明というか覚書のようなものである。(20/03/19)

 

737『ほろ苦き・俳句』

3月11日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に筆者の俳句が入選として掲載された。当該の俳句と仲寒蝉氏の講評をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

 ほろ苦き蕗味噌そして小さき嘘  義人

仲寒蝉氏「蕗味噌が苦いのは当り前なのだが、小さき嘘と取り合わせることでお洒落な一句に仕上がった。どんな嘘なのかと想像が膨らむ。二つの物を「そして」で結んだのも意味ありげでいい」。

蕗味噌の「ほろ苦き」は味覚であり、嘘の「ほろ苦き」は罪悪感のようなもので、異質なほろ苦さの二物を「そして」を挟んでぶっつけた衝撃波のおもしろさだろう。

掲句の見どころは「そして」という措辞だ。俳句に必須とされる切れ字が弱く、敢えて挙げれば「ほろ苦き蕗味噌」で切れるのだろうか。散文のような締まりのなさだが逆に、語調のなめらかさを生んでいる。(2020/03/12)

 

736『撫で仏・俳句』

3月4日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  撫で仏つむりを撫でて大試験  義人

「撫で仏」とは賓頭蘆(びんずる)のことで、仏弟子、十六羅漢の一。神通力をもてあそんだとして釈尊に阿責され、涅槃(ねはん)に入ることを許されず、西陀尼(さいくだにしゅう)で衆生救済につとめたという。小乗においては上座とし、中国では僧として食堂にその像を安置した。日本では本堂の外陣に置いてこれを撫でて病気の平癒を祈る。と辞書にある。

辞書には詳しく書かれていないが、それぞれの人が自身の疾患の部位、体の病める部分を撫で仏像の体の部分に置き換えてそこを撫でると病気が良くなるというもの。

したがって掲句の「つむりを撫でて」は、頭がやや弱い学生などが撫で仏さまのつむりを撫でて発達と平癒を祈っているさまを詠んだものだ。

なお季語の仲春行事の期末試験を「小試験」というに対し、入学試験や卒業試験を「大試験」という。ここ一番という意味での「大」でもあるのだろう。(2020/03/05)

 

735『異化 シンドローム』

異化 シンドローム

世が世なら癇癪持ちの狐狸多し

地震の凍て土 地球のこむら返り

統合失調症 尖んがる寒三日月

斜に構へすぎて斜視なり木莵よ

PM2・5のラガーらじんましん

侘助はアルツハイマー病棟の苑

ゆくりなく遭ふ早漏のしぐれかな

トランスジェンダー矮化 帰り花

物忘れ枯蔓の描くクエスチョン

温暖化 尿漏れなやむ雪女郎

椎間板ヘルニア冬木軋むなり

眠り病の熊着ぐるみの夢を見ん

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「異化」とはロシア・フォルマリズムの芸

術説の一つで、日常見慣れた表現形式に或る

「よそよそしさ」を与えることによって異様

なものに見せ、内容を一層よく感得させよう

とするもの。シクロフスキーの提唱と『広辞

苑』に載っている。

ところで一病息災というが、加齢とともに

多くの持病をもつ人がいる。病気は人間の身

心だけでなく動植物にも起こるもの。馬には

破傷風、松には松枯れ病などがある。

また比喩的に「病める地球」「病めるアメ

リカ」などのフレーズもあり、この伝でいう

なら、あらゆる事物の構造や機能の崩壊とか、

歪曲や脆弱への逸脱もカテゴリーに括れるの

かもしれない。病は気から。「気」とは宇宙

である。

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以上は筆者の所属する俳誌「詩あきんど」38号の「Ⅰ」に掲載された俳句と留書である。発行は令和2年2月10日。(2020/02/23)

 

734『22222並び』

きょうは猫の日だそうだ。猫の鳴き声の日本語「にゃん」「にゃん」「にゃん」をもって、「猫の日実行委員会」が1987年に2月22日を猫の日と制定した。今年は西暦2020年だから「2020・222」で5個の「2並び」になるわけだ。

「2」に関連して思いを巡らすと、筆者がホームページ『河童文学館』を開設したのが「2002年2月20日」だ。この日は4個の「2並び」だったのだ。2並びはとまれ、『河童文学館』が18年の歳月を重ねてきたことに感慨深いものがある。これまでのカウント「157952」は、人の呼べない文芸文学ジャンルでの数字として決して悪いものではないだろう。

当初は誰でも参加型の「俳席」「楽楽連句」「妖怪連句」「かっぱ句会」「前句付」などを興行していたがのちになって中止&中断し、現在は「俳席」を残すのみ。

連句では数多くの作品や作り手を輩出した。毎年各県にて開催される国民文化祭、新庄全国連句大会、津幡全国連句大会、井波全国連句大会、さきたま連句大会、俵口連句大会、芭蕉祭連句部門、形式自由連句大会などに筆者が捌いた作品を応募し、数多の入賞入選を得て連衆とともに喜びを分かち合ったものだ。

連句大会は開催を見送るところが多くなって残念だが、連句は作品を創る興行も、審査や運営の開催も大変であったので仕方がないことかもしれない。

当「コラム」については、よくつづいたもので734回を数える。コラムの題材はこのごろ自作の俳句や短歌のコメントに偏ってしまったが、前半は我ながら、なかなかこじゃれた批判性&スタンスをみせていた。読み返してみても捨てたものでない。凡庸な言い方だが継続は力なりか!

猫の日の「2」に因んで書いたが脱線してしまった。にゃんともお詫びしょうもない。(2020/02/22)

 

733『熊穴に・俳句』

2月13日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  熊穴に入らず都内で生け捕らる  義人

熊は冬季に穴に入って冬眠する。ところが温暖化のせいかその他に原因があるのか、冬になっても穴に入らないで里山に出没したり都市部の民家の生ごみを漁ったりなどの報道がひんぱんだ。

先達ては都内に月の輪熊が現れ、警察官が出動してサスマタや投網を使って捕獲に努めた。幸運にも生け捕りに成功して檻に入れて軽トラに乗せ山に帰したとテレビで放映していた。

そのままの俳句である。「入らず」は「はいらず」ではなく「いらず」と読む。(2020/02/13)

 

732『山彦の・俳句』

2月5日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に筆者の俳句が一席として掲載された。当該の俳句と仲寒蝉氏の講評をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  山彦の声が触れゆく冬木の芽  義人

「山彦が冬木の芽に触れて「そろそろ起きなさいよ」と言って回っているようで、愉しい句。山彦を擬人化しているがあまり違和感がないのは実際に山で声を張り上げると木々をかすめて山彦がこだまするという場面に遭遇するからだろう」。仲寒蝉氏。

ここでは「山彦」という言葉について解釈&説明してみたい。『広辞苑』によると、「①山の神。山霊。②山や谷などで、声・音の反響すること。こだま」とある。他方「こだま」を当たると「木霊・谺。①樹木の精霊。木魂。②やまびこ。反響」とあり、それぞれ出典が記される。

「山彦」の語意を単純化して述べると、人間の声や物音の反響であるとともに、山の神や精霊および樹木の魂の声の反響であると解釈説明できよう。

今回は「自句自解」ではなく、山彦という言葉の語意の説明だけに敢えてとどめるが、読み手の言葉の受け取り方によって上記の俳句の句意も変わってくるのかもしれない。(2020/02/06)

 

731『木の実落ち・短歌』

2月5日付の朝日新聞長野版の草田照子選の「歌壇」に筆者の短歌が佳作として掲載された。当該の短歌をここに転載し、併せて「自歌自解」を試みたい。

  木の実落ちくるくる独楽のごと廻る

    地球の芯をさぐり当てしか  義人

秋も深まり、団栗らしき木の実が樹木から落下し、何かの弾みでくるくると独楽のように廻る。普通は落下してそのままか、僅かに転がって静止するのだが、不自然と思われるような廻り方だった。

これは、きっと木の実の芯と地球の芯とが遭遇して稀有な現象をもたらしたのかと疑う。一瞬疑ってしまう、そんな想像は突飛な破天荒なことではあるが・・・

ここまではこの短歌の表向きの歌意であるが、木の実という微小な植物体と地球という巨大な太陽系惑星とのバランス、そのバランスの「支点」にあるわれわれ人間。いま生きて選ばれてあることの恍惚と不安、そんな感覚というか思惟というかをバックボーンとして描きたかった。(2020/02/06)

 

730『考える人・短歌』

1月29日付の朝日新聞長野版の「歌壇」に筆者の短歌が佳作として掲載された。当該の短歌をここに転載し、併せて「自歌自解」を試みたい。

  「考える人」真似ながら考える

    わが終活のためのあれこれ  義人

「考える人」は夙に知られるロダンの彫刻。同名の作品はあまたあるが、逞しい男が肘をついて右の手指を顎に当てているものをよく見かける。悩みを抱えて苦悩するさまがイメージされる。

ロダンの彫刻の男のスタイルを真似ながら考えこむ。終活のためのあれこれを考えこむ。歌意は至って単純明快でこれ以上でもないしこれ以下でもない。

しかしこの短歌を読んだ人は最近はやりの「終活ノート」などに書き込みながら、あれこれ準備怠りなく考えているのかなと想像するだろう。

ところが、どっこい。筆者は約十三年以前に辞世の現代詩「さよならはいらない」を書いたのみでほとんど何も考えていない。既に残した俳句の辞世もときどき上書きするのが関の山だ。

なんですぐ死にそうもないのに書き残したのか?日ごろ血圧は高いし、ころりと死ぬかもしれない。脳溢血で倒れたら詩も句も詠めないので遺しておこうと。生前葬のような気持ちだった。余計なことを書いてしまったが上記の短歌の「楽屋話」だ。短歌の歌意と現実とは乖離がある。そんなものだ。(2020/01/30)

 

729『風花は・短歌』

1月26日付の朝日新聞全国版の「歌壇」に筆者の短歌が三席として掲載された。当該の短歌と選者の高野公彦氏の講評をここに転載し、併せて「自歌自解」を試みたい。

  風花は三十一文字の草書にて

    高天原の歌会たけなは  義人

高野公彦氏「柔らかく舞う風花を見て、天上界での歌の宴を想像する美しい作品」。

「風花」には「かざはな」、「三十一文字」には「みそひともじ」のルビ。「高天原」は「たかまがはら」、「歌会」は「かかい」の読み。「たけなは」は歴史仮名遣いで、新仮名遣いでは「たけなわ」。

風花の舞い散るさまを、平仮名&書体(草書)に擬える手法を筆者はずっと温めてきたが、その一つの結晶が上記の短歌だ。擬える、つまり比喩表現はかねてより筆者が文芸技法の主軸としている表現法なのである。

高天原はご存知のように日本神話で天つ神がいたという天上の国で、天つ神々が歌会を催すというイメージが浮かんだとき風花と結びついた。神々が草書でさらさりと書いた文字が雪片となって舞い散ってくるさまを比喩的に詠んだものだ。

朝日新聞の全国版の歌壇の投稿数は「週3000首」という。四名の選者が毎日曜日に10首ずつ選んでそれぞれの選者が上位3名の短歌に講評を書いている。選者の四名は、高野公彦氏、佐佐木幸綱氏、馬場あき子氏、永田和宏氏。因みに筆者は全国版朝日新聞歌壇には初めて入選した。

余談ながら、短歌は約50年まえ文壇登竜門『文章倶楽部』の「短歌コンクール」「20首詠」にて入賞。その後は作歌からは遠ざかり、ここ一年ほどは思い出したように長野版朝日新聞歌壇に投稿し掲載もされていた。

余計なことながら、筆者は全国版朝日新聞俳壇にはここ二年間で2句入選している。二年間で30句ほど投句しただろうか?短歌同様選者四名制で「週5000句」の投句があるという。なかなか狭き門である。

ともあれ短歌での入選ということで特段うれしかった。連句仲間から「朝日歌壇を見ました。美しいお歌だと思いました」と励ましのメールを頂戴した。(2020/01/27)

 

728『枯蔓が・俳句』

1月22日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  枯蔓がゑがく虚空の?  義人

「?」は「クエスチョン」の読みで疑問符のこと。俗称で「はてなマーク」ともいう。筆者としては括弧をして?を入れる。つまり「?」と表記したいのだが、俳壇には俳句に括弧を付けたり、一字明きをしたりするのを嫌う風潮があるので今回は上記のように表記した。

蔓を伸ばして生育する種類の大木などに巻き付いて枯れ、その枝先が虚空に突き出している。そのてっぺんが丸まって「?」の形を象っている。単なる自然現象のなせるものだが、偶然の造形といえなくもない。いわゆる擬人観といえなくもないだろう。

「ゑがく」は「描く」を歴史仮名で、できれば「象(かたど)る」の語を遣いたかったが字余りになるので割愛した。

 

727『林檎を・短歌』

1月22日付の朝日新聞長野版の「歌壇」に筆者の短歌が佳作として掲載された。当該の短歌をここに転載し、併せて「自歌自解」を試みたい。

  林檎を丸かじりできなくなった日が

    わが青春の終止符となる  義人

林檎は信州の特産品である。それは兎も角として、林檎を丸かじりの歯にかかる圧力と、甘酸っぱい汁が歯茎に沁みる感覚は刺激的なものがある。首筋が鳥肌立ち、ブルっと身震いする。この感じ方は筆者だけのものであろうか。

二十代後半まではそれも可能だったが、その辺の年代を境にして「林檎丸かじり」は敬して遠ざけることになる。

「わが青春の終止符」とは抽象的でありステロタイプでもあり、投げ出してしまった表現だ。詩や愛や株や家などに対して守りに入ったと言えなくもない。

ぶぶん入れ歯の昨今ではなおさら丸かじりできないが、林檎パイは食べられるし好きである。焼き林檎も捨てたものでもない。(2020/01/23)

 

726『言語飼育()

「説明責任」という言葉が横行している。発信元は主として体制側の政治家だ。選挙違反や贈収賄やセクハラ&パワハラまがいの事件を起こすと、張本人が説明責任を果たすといい、総理総裁は説明責任を果たせという。それがほとんど果たせられない。

「説明」とは、①「事柄の内容の意味を、よく分かるようにときあかすこと」。②「記述が事実の確認に止めるのに対して、事物が「何故かくあるか」の根拠を示すもの。科学的研究では、事物と因果法則によって把握すること」。

また「責任」とは、①「人が引き受けてなすべき任務」。②「政治・経済・道徳などの観点から非難されるべき責(せき)・科(とが)。法律上の責任は主として対社会的な刑事事件と、主として個人的な民事責任とに大別される。それぞれ一定の制裁を伴う」と『広辞苑』に載っている。

「説明」と「責任」の二語について敢えて辞書を引用した。二語をつなぐ「説明責任」なる言葉は、「何故かくあるか」の根拠を示し、それを引き受けてなすべきは人の任務であり、それを怠り避けるは非難され、責と科が課せられる。制裁を伴うものである。という重大な言葉だ。

ところが、ところが・・・である。「説明責任」とは取り敢えず逃げるための、その場しのぎの用語に過ぎず、『広辞苑』を引いて筆者が二語を連結させた語意とは大きく乖離する。

「説明責任」が為されないことは、為されないことで逆に選挙違反や贈収賄などが真実であることの証左にほかならない。当然、責&科を受けなくてはならない。「責」は咎めること。「科」は処罰されることだ。

余談ながら、江戸時代の「市中引廻し刑」は現代ではワイドショーにとって代わり、「百叩き刑」は懲罰はするが更生の余地を残す執行猶予にとって代わり、「晒し首」は死刑と呼び名をかえた。が、武士に科した死罪の「切腹」と、侍が人間の尊厳を尊んで自らを罰する「切腹」の二つが消滅してしまった。

辞書の「責任」の項の②の最初には「政治」があり、そのむかしの「政(まつりごと)」の不祥事をしでかした者は切腹が必須だった。遅くはない、説明責任ができない政治家、それを命じた総理総裁は須らく切腹することを一国民としてこいねがう。

蛇足ながら、説明責任の放棄のための疾病の診断書の「適応障害」「睡眠障害」は許されない。適応できず、年がら年中の睡眠不足に陥っている人は世のなかにごまんといる。

とまれこうまれ、「説明責任」という言葉の「有効性」について、筆者の「言語檻」のなかでしばらく飼育してみよう。(2020/01/21)

 

725『言語飼育()

「障害者」を「障がい者」と表記する事例をたびたび見かける。「害」の漢字は害虫とか災害とか妨害など事を悪くする、物を損なうなどのイメージにつながることの回避のためという。

一見して心優しい配慮のように思われるが、漢字の中心に平仮名が強引に割り込む表記法は、見た目すこぶる居心地がわるい。さっこん市井を騒がせている平仮名による「あおり運転」の類のように見えもする。

「害」の漢字を避けて障害者のプライドを損なわぬよう気遣っているのですよ、私たちは貴方たちに親切でしょうという善意めかした思惑がみえみえ。そして「がい」と平仮名で書くことによって逆に異物感というか違和感というかを表してしまうのだ。

「日キョウ組」「あ倍しん三」「皇たい子」などと書くと、戦時下の伏せ字を彷彿させられる。言葉や表記は大切であり差別用語はたしかにあるのだろうが、言葉が差別するのではなく言うもでもなく人間の心が差別するのである。よそよそしい気遣いは逆効果というものだ。

「障がい者」なる言葉は筆者の胸中の「巣箱」で飼育してゆこう。言語は飼育しているとその言語のみならず、さまざまな言語に対する感性が磨かれる。ステロタイプでない言語の使い方ができるようになるだろう。(2020/01/18)

 

724『ゴーン・金一つゴーン』

楽器を運搬するための大きな箱に隠れ、プライベートジェット機に乗ってゴーン被告が日本から逃亡した。2019年大晦日のどさくさに紛れてのことである。東京拘置所から仮釈放されるときは電気工事人もどきの変装をして報道カメラの裏をかいた(つもりの)シーンがあったが、この人、B級「007」のような演出&主演が好きらしい。

日産自動車の会長時代に役員報酬80億を40億と過少申告したり、有価証券報告書の虚偽記載をしたりの脱税。日産自の海外販売拠点の資金を妻名義の会社に振り込むほか、外国為替法違反など数限りないセコイ手段を行ってきたとされる。やり方はセコイけれど会社が日産だけに金額はデカいのである。

金があれば何でも可能な第二の故郷のレバノンに逃亡し、夫婦水入らずワインを酌みながら、「私は正義から逃げたのではない。不公正と政治的迫害から逃げたのだ」とうそぶき、日本の司法制度についても文句を述べているという。自分では悪行を重ねながら他者を責め立てる。「盗人猛々しい」とはこれをいう。

金に汚くて横領まがい脱税まがいなどセコイが、それが大金を握ってしまうと危険な逃走劇を引き受けてくれる金の亡者まで現れる。これを「盗人の提灯持ち」という。盗人の足元を照らして逃亡の手助けをする輩だ。

「卵を盗む者は牛を盗む」。盗みは大きくなることはあっても小さくなることはない。ゴーンもゴーンの提灯持ちも、これからいよいよエスカレードしてゆくだろう。盗人に関わる俚諺をあげてきたが、東京地検特捜部がこのたびゴーン妻の逮捕状をとって国際手配したという。「盗人を見て縄を綯う」とはこのことだ。あれこれ遅きに失した感がある。

正月三日NHKテレビ新春生放送「東西笑いの殿堂2020」で、文珍さんが落語で次のような枕を振っていた。「ゆく年の百八つ鳴るはずの除夜の鐘が、百七つしか鳴らなかった。ゴーン、一つ逃げていってしまった」(この通りの文言ではなかったが)と。筆者は笑いには不調法で申し訳ないが「鐘」は「金」につながる。まさしく煩悩だね。(2020/01/08)

 

723『ひらがな・俳句』

12月18日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し併せて「自句自解」を試みたい。

  ひらがなの文字のごと舞ふ冬鴎  義人

「鴎(かもめ)」はチドリ目カモメ亜科の鳥の総称で日本には秋渡来する。海猫や百合鴎なども同類。

鴎といえば冬の鳥とされていたが、春の鴎、夏の鴎、初鴎などと俳句に詠まれ、歳時記によって収載されたりされなかったりした。それもあってか、わざわざ「冬鴎」と「冬」の字を冠してようかく歳時記的にも市民権を得た。

鴎は海上を舞う姿を見かけることが多い。青い大海原のもと、青空に乱舞する白い鴎の群れを「ひらがな」の文字を書いているようだと表現した俳句。真っ青な虚空に「白抜き」で書く「鴎文字」は何を表しているのだろうか?(2019/12/19)

 

722『四つの魔術』

「魔術」とは魔力をもって行う不思議な術をいう。魔術にも白魔術と黒魔術があり、ここでは白魔術について述べる。白魔術は好ましい目的のために使われる魔術のことで、文化人類学の定義では聖人の術と同様といわれる。また白呪術とも称される。

筆者のいう「四つの魔術」の魔術とは白魔術のこと。当コラムの716「笑い屋」と717「ゆっくり・ゆっくり」で書いた内容を拾いあげて再確認するのが今号である。

つまり「よかった・よかった」「だいじょうぶ・だいじょうぶ」「ゆっくり・ゆっくり」「ありがとう・ありがとう」の四つの畳語のフレーズを魔術ときめ、呪文として唱えるのである。

結果を求めないで結果が必ずしも芳しくなくても「よかった・よかった」と肯定的に考える。不安があって失敗しそうであっても「だいじょうぶ・だいじょうぶ」と安心させる。慌てて躓きそうになっても「ゆっくり・ゆっくり」と立て直す余裕を持たせる。自分の心や体にも見えない他者の心や体にも「ありがとう・ありがとう」と感謝の気持ちを伝える。

ある意味で過剰に肯定する。おのれにポジティブな思考回路を開通させる。ときには牽強付会とも思われるほどに安堵させる。いってもれば半ば自分を騙すのである。

させる、伝える、安堵させる,騙すなどと他者への言葉のように書いてきたが、自分自身に語りかける言葉だ。呪文だ。

「四つの魔術」の言葉(呪文)を唱えて日常生活を送っていると、心が安らかになる。心が穏やかになる。そんな近況だ。(2019/12/18/)

 

721『銀漢の・俳句』

12月11日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に筆者の俳句が一席入選として掲載された。当該の俳句と選者の仲寒蝉氏の講評をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい

  銀漢の向きに寝床を合はせけり  義人

「何とも変な句(これは褒め言葉)。そもそも天の川の方向に寝床を敷くことには何の意味もないであろうに一句に仕立て上げてすました顔を決め込んでいるところに可笑しみがある。だが大きな宇宙と小さな自分とがこんな形で共鳴し合っているという錯覚もまた楽しい」仲寒蝉氏。

仲寒蝉氏の講評は的を射て、このように選者から句意を理解してくださって大変有難くうれしいことであった。

それから筆者の作意のバックグラウンドには宮沢賢治の「銀河鉄道」とか、映画の月に向かう「E・T」のイメージがある。さらに本歌取りに近い感じで、芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天の河」を俤にしていることは感じ取ってもらえよう。

銀漢と寝床という、天象と寝具をむすぶ意表外の取り合わせ・・・それを結び付けるものは「気」だ。「気」とは「天地間を満たし、宇宙を構成する基本と考えられるもの。また、その動き」と『広辞苑』に載っている。

さらに「生命の原動力となる勢い」「心の動き・状態・働きを包括的に表す語」「ある事をしようとして、それに引かれる心」との文言も収載される。筆者が俳句ワールドに尤も表現したい素材である。(2019/12/12)