コラムその「28」

660「尺蠖に・俳句」
659「花火揚げ・俳句」
658「詩あきんど」32号」
657「水打って・俳句」
656「腐敗ふはいフハイ」
655「短夜やダリ・俳句」
654「噴水の虹・俳句」
653「図書館に・俳句」
652「天空に・俳句」
651「能面に・俳句」
650「山寺の・俳句」
649「ショパン止め・俳句」
648「枯蔦・俳句」
647「寒鴉・俳句」
646「詩あきんど30号「詩あきんど集T」
645「詩あきんど30号「シャガールの馬」
644「詩あきんど30号「50句詠」
643「雪起し・俳句」
642「熊つひに・俳句」
641「翻訳魔シン」

TOPへ戻る
メニューへ

680「千の蝶・俳句」
679「蛍雪・俳句」
678「巣立鳥・俳句」
677「俳句私感」
676「懐炉冷え・俳句」
675「詩あきんど34号」
674「雪女・俳句」
673「裸木・俳句」
672「役者絵・俳句」
671「雪虫・俳句」
670「自然薯・俳句」
669「一寸見は・俳句」
668「詩あきんど33号」
667「糞・尿・屁」
666「押し込み強盗」
665「木の実降る・俳句」
664「私のムンクの叫び」
663「お借りした地球・俳句」
662「マドンナ・俳句」
661「鮒鮓や・俳句」

680『千の蝶・俳句』

4月10日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  千の蝶飛ぶかと見ゆる花辛夷  義人

辛夷の花には白色や濃桃色などがあるが、仲春の季節に一斉に咲き出す。日当たりのよい枝からぽつりぽつりと花が綻びるのではなく、一斉に満開になる特徴がみられる。諏訪市と下諏訪町の中間地点の国道沿いに白花の辛夷の大樹があり、紋白蝶が群れをなしておどっているような情景だ。

「千の蝶」の「千」とは実際に数えて千頭の蝶という意味ではなく、「桜千本」というように、数の多いことをいう表現なのだ。(2019/04/10)

 

679『蛍雪・俳句』

4月3日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が入選として掲載された。当該の俳句と選者の講評をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  蛍雪といふ言葉古り受験生  義人

「歌としての「蛍の光」は今でも卒業式で歌われているのだろうが、その元になった故事についてはどのくらいの人が知っているだろうか。そんな古人の苦労は知らずとも受験というシステムは受け継がれ、時代が変わっても受験生の勉強は続いてゆく」。仲寒蝉氏。

「蛍雪」は、蒙求「孫康映雪、車胤摂蛍」(晋の車胤は貧乏で灯油が買えず、袋に蛍を集めてその光で書を読み、孫康もやはり貧しかったため雪明りで書を読んだという故事による)。辛苦して学問すること。苦学。蛍窓。と『広辞苑』にある。

「受験生」は「入学」や「卒業」とともに仲春生活の季語。受験生の環境も時代とともに大きく変わった。

筆者の少年期は、「蛍の光」は二三匹ではとても無理だったが、「窓の雪」明かりから電気も蝋燭も使わないで貧苦に耐えた。真っ新なノートは貴重で手に入らず、当時数少ない広告の裏面を用いた。3センチくらいにチビタ鉛筆は、アルミニウム製の鉛筆サックを嵌め込んで重用したものだ。現在の受験生の環境はどうだろうか。

「蛍雪時代」という受験生向きの雑誌があった。毎号ではないがこれを座右に勉強した覚えがあるが、現在でも発刊されているようだ。「蛍雪」は辛苦して学問することの比喩だが、それにしても隔世の感がある。(2019/04/05)

 

678『巣立鳥・俳句』

3月27日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  巣立鳥紛ふことなき青い鳥  義人

「青い鳥」はモーリス・メーテルリンクの童話劇。二人の兄妹のチルチルとミチルが夢のなかで過去や未来の国に幸福の象徴である青い鳥を探しに行くが、結局のところそれは自分たちにもっとも身近なところにある鳥籠のなかにあったというストーリーだ。

「巣立鳥」は諸鳥の雛が生育して巣から離れてやっと飛び初めるのは晩春から初夏のころが多い。晩春動物のカテゴリーの季語。

森の奥深くの鳥の巣か、庭園の巣箱からか雛鳥が育って巣立ってゆく。その鳥は「紛(まが)ふことなき」、つまり間違えることのない青い鳥だった。

実際は品種的に青い色をした鳥類だったかもしれないが、ここには幸福の象徴である青い鳥であってほしいという、メーテルリンクの童話劇のイメージが裏打ちされているだろう。西洋の古典を俤にした俳句という立ち位置をとっている点を見どころとしたい。(2019/03/29)

 

677『俳句私感』

俳句私感

俳歴の長い私だが俳句がときどき解らなく

なる。読んで胸に落ちる句もあれば落ちない

句もある。落ちていてもある日突然に解らな

くなったり、落ちなくても不意に解ったりす

る。俳句は私にとって一種の判じ物だ。

寝積むや夢の続きはうつつなり

果実といふビットコインへ成木責

「や」「かな」「けり」など俳句には切れ

字がある。五十音すべて切れ字と言えなくも

ない。散文や詩歌はディテール描写や頭韻法

でストレスを措くことが可能だが、俳句にそ

れは難しい。しかし俳句には切れ字による省

略と構成の飛躍という文体がある。

青い鳥の無精卵あり 巣箱あり

虫出しのかみなり鳴れば似非詩人

現代詩や絵画にはシュールレアリスムの歴

史があった。ロートレアモンに「解剖台上の

ミシンと傘の偶然の出会いのように美しい」

があり、決して出会うことのない二物が解剖

台の上で出会って詩的衝撃波をとばす。それ

が非日常的イデアや批判性を喚起させる。

リバーシブル憂き世渡りの更衣

蝿虎 ピカソの鼻へ跳ぶかまへ

夢には正夢も逆夢もあり、怖い夢や楽しい

夢がなんら脈絡もなく繋がってしまう。夏目

漱石の「夢十夜」を俟つまでもなく、シュー

ルレアリスムであり不条理である。

木の実独楽傾がりやっぱ地動説

石叩き尾が山峡のフォルティシモ

短詩形の多くはホップ・ステップ・ジャン

プだが、俳句は季語乃至は無季からの一発の

ジャンプ。それゆえ想像の働く余地があり、

物語や滑稽や比喩など意表が突ける。

短観は右肩下がりちゃんちゃんこ

無重力の下手な考え 風花よ

文学文芸のなかで俳句は不条理を言わせた

ら右に出る者のない代表選手だ。「判じ物」

という謎は謎のままであってよい。それが俳

句なのかもしれない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「俳句私感」という小文を書いた。俳句の自作を新年から春夏秋冬と二句ずつ挟んで俳句観ともいうべきものを数行並べたもので、筆者にとっては試作品だ。俳文として応募したが没になった。統一感に欠けるのではが自己分析だが、一応当コラムにはアップしておく。(2019/03/16)

 

676『懐炉冷え・俳句』

3月6日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  懐炉冷え世情は嘆くことばかり  義人

「懐炉」という三冬生活の季語がある。懐炉といえば懐中して胸や腹などを暖める具。元禄初めの発明で、中古の焼石、中世以降の温石に代わって行われた。金属などで造った小さな容器に懐炉灰に火をつけて入れ密閉するものや、揮発油を用いるものなどがあると言われる。

現在の懐炉はほとんどが使い捨てで、使い方も衣類に貼り付けて腹や背中にあて、靴などのなかに入れるものがあり、最高温度は63C、持続時間も12時間という。原材料も鉄粉、水、バーミキュライト、活性炭、木粉など昔のものから変遷している。

筆者は胃腸にストレスを抱えるため、懐炉は一年中手放せず、真夏でも汗をかきながらも愛用している。

「懐炉冷え」・・・冷えてしまった懐炉は無用の長物であり、なんとなく虚しくて哀れっぽい物体である。世情は嘆かわしいことばかり。マスメディアの俎上にのる事件事故は嘆くほかはない。この心情は懐炉の冷えに繋がらないか。(2019/03/07)

 

675『詩あきんど34号』

俳誌「詩あきんど」34号が到着した。筆者の俳句12句と留書をここに転載するので読んでいただけたらありがたい。

夢のあとさき

寒灸を据ゑなん俳のたん瘤へ

八十三歳寄り道ふぐり落しけり

立冬や真白きチョーク一直線

うつし世の仮面土偶の煤払ふ

不夜城の梟カフェへいらっしゃい

原罪のジャケットの裾解れほぐれ

北窓を塞ぎそううつ飼ひ慣らす

夢占ひ うらもおもても雪蛍

銀竹のリバーサイドホテルかな

今朝からよゴヤの女の冬蜘蛛は

むくつけが笛を鳴らすか破れ虎落

枯野飛ぶ詩あきんどの風切羽

      「留書」

夢についての慣用句や俚諺はいろいろある。

夢は将来実現したい願望や理想のほか、睡眠

中に現れる非現実的な錯覚や幻覚などに二分

できる。後者の夢には吉凶あって、正月二日

に紙に書いた宝船や獏の絵を枕の下に敷いて

凶夢をさけ、吉夢をみる手立てを講ずる。夢

は儚く無意味なものとされていたが、フロイ

トの『夢判断』によって無意識や超自我の世

界にいたる王道と考えるようになった。

わたしはよく夢をみるが、降圧剤の副作用

のためか悪夢が多い。険阻な山道で車を脱輪

させて谷底に転落したが、思いっきりハンド

ルを切ったら元の道に戻った。どう考えても

不条理なことであるが、夢から覚めたわたし

の「精神回路」ではなぜか肯けるのだ。言葉

を省略させ繋ぐ作業である俳句もどこか不条

理でおもしろい。

以上。(2019/02/18)

 

674『雪女・俳句』

2月3日付の朝日新聞全国版の「俳壇」に筆者の俳句が入選した。朝日新聞の全国版では四名の選者(大串章・長谷川櫂・高山れおな・稲畑汀子)が十句ずつ選出しているが、筆者の俳句を選んだのは大串章氏である。この俳壇は毎週日曜日に掲載され、投句数は一週間で五千句を数えるという。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  雪女おもざし何処か妻に似て  義人

「雪女」について『広辞苑』には、「雪国地方の伝説で、大雪の夜などに出るという雪の精。白い衣を着た女の姿で現れるという。雪女郎。雪娘。(季・冬)」。「仁勢物語『蟻腰のーーといふありけり』」とある。

雪女の伝説は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の『怪談』が夙に知られる。また『まんが日本昔ばなし』などテレビでも放映され、雪国にとどまらず全国区の怪談話だ。

雪女は吹雪の夜に人里離れた草屋に現れて老人と若者を殺そうと企んだり、純白の衣装をまとって甲斐甲斐しく寝食の世話をしてくれたり、人間と異種婚姻して子を生んだりもする。怖いけれどロマン溢れる女系の妖怪である。

日本人の精神性がモデリングされた部面が大きく、主として雪の多い地方に多く見られ、「雪婆ンば」「雪アネサン」「雪オボコ」「青女」、バイセクシャル系では「雪之丞」もある。

この俳句の眼目は、雪女という頭のなかで作り上げたイマジネーションの産物に対し、実存する「妻」が加味される点だ。リアルな「わが妻」の「おもざし」が「何処か」、雪女という妖怪にプラスされる。つまり、自分好みのプラスアルファの「雪女」が誕生するということであり、イマジネーションの限りなき増殖が可能だ。雪女恐るべし。妻女恐るべし。俳句恐るべし。(2019/02/03)

 

673『裸木・俳句』

1月30日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  裸木を抜けて山彦尖るなり  義人

「枯木」という季題がある。枯木といっても(俳句における季題では)枯れてしまった木をいうのではなく、葉が落ち尽くして素裸となりあたかも枯れ果てたように見える冬期間の樹木をいう。傍題に「裸木」「枯枝」がある。

因みに『広辞苑』には、「枯木」は枯れた樹木。また、落葉した樹木もいうとある。そして「裸木」は収載されていない。

辞書的には「枯れてしまった木」と言葉通りの事実を先にあげ、季題の「枯れたように見える木」を二の次にしている。

「枯木に花」とか「枯木も花の賑わい」などの慣用句があるので、事実としての枯れた木が優先されているのではないだろうか。季題の傍題の「裸()」は、生物的感覚的むき出しの言葉なので、辞書として取り入れられないのかもしれない。

前段が長くなってしまった。句意としては、山彦が裸木の森を吹き抜けてゆくうちに鋭く尖ったというのだ。山彦(音響)が裸木を吹き抜けようが、常緑樹を吹き抜けようが特段変化するとは考え難い。したがって、冬季であること、ごつごつ荒れた幹や枝や樹皮を通過したことによる、山彦を感覚的にとらえた表現となっている。換言すれば俳句は事実や真実ではなく、感受性を通しての真実、つまり詩的真実なのである。(2019/02/01)

 

672『役者絵・俳句』

1月16日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が入選として掲載された。選者の仲寒蝉氏の講評と当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  役者絵のほくろと化しぬ冬の蝿  義人

仲寒蝉氏「冬になると変温動物である昆虫の動きは鈍くなる。冬の蝿が壁の役者絵の上に止まってじっとしているのを黒子に見立てたのである」。

「役者絵」は浮世絵版画の一つ。一人あるいは二、三人の歌舞伎役者を描いたもので、舞台姿と平生の姿とがある。

役者絵といえば筆者は、東洲斎写楽の役者絵がまず思い浮かぶ。

歌舞伎役者とおぼしきが両目両眉をつりあげ、口を真一文ン字に結び、華奢な十指をおっぴろげ、じゃんけんぽんの「パー」を二つ出す。何か睨むにしては白目勝ちで迫力がなく、脅かしてはみたがから振りに終始したという感じなのだ。

役者絵の顔に冬の蝿が止まる。役者は人形と同様に顔が命であるからイケメンに相違ないが、その顔に黒いほくろをつけてしまった。益荒男の歌舞伎役者も「ハイ」それまでよ、ということだ。

俳句の「俳」とは、おどけ、たわむれ、滑稽、ユーモア。そして皮肉、揶揄、批判なども含まれている語。含まれていると筆者は解釈している。(2019/01/18)

 

671『雪虫・俳句』

1月9日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  雪虫の風に吹かれて川を越ゆ  義人

「雪虫」はカメムシ目(半翅類)ワタアブラムシ科昆虫の一群の俗称。体に白い蝋質物を分泌して飛ぶのを雪片に見立て、あるいは降雪の季節が近いという意味で名づけられた。リンゴワタムシ、トドノネオワタムシなど。地方によってはシロバンバという。

動物とも植物ともいわれる「ケセランパサラン」と呼称する妖精がいるが、雪虫はこれに近似した実在する昆虫である。

前置きが長くなってしまったが、なよなよと空中を飛ぶ雪虫が微かな風に吹かれて小川を越え、消えていったのである。それだけの句意だ。

「句意」はむろん、ここまでだろう。だがしかし、俳句には「判じ物」という隠された謎の根本理念があることが指摘されている。句意に隠された裏側には、「なよなよと白くて綿のようないのち」がなお生き延びている。それが俳句の「理念」である。

深読みといわれるかもしれないが、それが俳句であろう。(2019/01/10)

 

670『自然薯・俳句』

12月5日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が入選として掲載された。当該の俳句と仲寒蝉氏の講評をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  自然薯の尻尾を任じ八十路なり  義人

「面白い比喩だ。自然薯自体くねくねと曲がっていて掘り出すのが大変なので有名。つまりへそ曲がりの象徴。その尻尾(根の先)と謙遜してはいるがなかなかの反骨精神と見た」仲寒蝉。

「自然薯(じねんじょ)」は「自然生(じねんしょう)」の転。ヤマノイモ科の蔓性多年草。山野に自生化しているが、田畑に栽培もする。特段に意味や作為はないが、蔓は左巻きである。

「八十路(やそじ)」は言うまでもなく八十歳の年齢をいう。「や」は八の頭語で、「十路」は「そじ」という読み。二十歳は「ふたそじ」三十歳は「みそじ」四十歳は「よそじ」・・・という。

「十路(そじ)」なる言葉は現在では年齢についてだけで使われていて、その他の用語で用いられることはない。

「自然薯」と「八十路」の二語について解説したのみだが、当該の俳句は寒蝉氏の講評が言いきっていて、付け加えることはない。(2018/12/08)

 

669『一寸見は・俳句』

11月21日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  一寸見は無頼漢なり愛の羽根  義人

『広辞苑』にあたると、「一見」は「ちょっと見ること」のほかに「一とおり見ること」があり、「――に値する」「百聞は一一に如かず」の用例が載っている。

他方で「一寸見」には、「ちょっと見ること」「ちょっと見たところ」の二つの語意があるだけだ。

何が言いたいかというと、「一見」は見るに値することもいい、百聞よりもより確かな意義があることも言っている。語意に幅があるのだ。それに対して「一寸見」は単にちょっと見ただけという意味で、「一見」とはあきらかに語意を峻別するものが含まれていよう。

上記の俳句について、たとえば「一見して」ではだめであり、「一寸見」でなくてはならないのだ。

一寸見は無頼漢に見えるいかつい男の胸に、愛の羽根がさしてあった。「愛の羽根」は毎年十月一日から一か月間、街頭などで貧しい人たちに贈るための共同募金をし、赤い羽根をその印として胸にさす運動をいう。晩秋の行事の季語。

人は見かけによらない。先入観をもって人を見てはいけない。そんな一寸した違和感を詠んだものだ。(2018/11/25)

 

668『詩あきんど33号』

俳誌「詩あきんど」33号の「詩あきんど集T」から筆者の俳句12句と留書を下記に転載する。

擬態の「gi」      矢崎硯水

青丹よし奈良の牡鹿の長き「Y」

瀬を迅み木の葉山女は葉と化しぬ

屁をこかぬときも芬芬へこき虫

きちきちばったM字象りいざ飛ばん

葉隠れにおのれを染める紅葉鮒

拝み太郎なんだ神田の大明神

啄木鳥のモールス符号傍受せよ

蜻蛉の眼「∞」の地平つづくらん

鵙の贅 ムンクの叫びヘイトかな

詩あきんど招きて点てむ茶立虫

はまぐりになれずすずめの我等哉

われからと掛けて割殻お前から

  【留書】

「擬態」について『広辞苑』には@あるも

ののさまに似せること。A動物の形・色・斑

紋が他の動植物または無生物に似ていること。

隠蔽的擬態(模倣)すなわち環境に似せ目立た

なくするものと、標識的擬態すなわち目立た

せるものの二種類に分けられるとある。

対象を他のものになぞらえて表現する「見

立て」は、和歌や俳諧や歌舞伎などに用いら

れる。人間が狐の真似をして鳴き、忠犬に感

情移入して喋らせたりする。動植物や無機物

の呼び方も、形状や心象から人間が都合よく

なぞらえて称呼するものが多い。

ベトコンの迷彩服や秋葉原のコスプレや俳

優の扮装、果てはTPOの化粧の濃淡や言葉

遣いに至るまで、隠蔽乃至は標識するがため

の「広義の擬態」と言ってよいだろう。人間

は身も心も平気の平左で擬態するのだ。

(2018/11/16)

 

667『糞・尿・屁』

テレビの三大人気番組に、料理、グルメ、大食い大会がある。筆者はそのいずれにも食指は動かないが、それはそれでよしとしよう。ところが、食餌と排便の因果関係の「食う・出す」の「結果」である糞尿についての番組や報道が、きわめて少ないのはどうしたわけか。

「糞」は大便・うんこ・穢土(えど)などという。穢土とは糞の異称であり、仏教では穢れた国土をいい、この世をいう。また値打ちのある肥料という語意の金肥(きんぴ)もある。江戸時代には糞についてのランクやブランドがあり、「士農工商」で食材に差があるため排泄物も差ができ、糞の優劣がランキングで黄表紙に載っていた。

「尿」は小便・おにょうさま(フェチ語)・ゆまり(湯放)など。温い湯にたとえて放出する「ゆまり」は、コピーライターさえ唸らせるネーミングだ。尿にもとうぜん優劣があり、本丸や大奥の雪隠から汲み上げたものは高額で取引されたという。

話はとぶが、便秘薬&下痢止めの市場規模は年間600億円。頻尿失禁は子どもの夜尿症を加えて年間402億円。前者の患者が450万人。後者が380万人とされ、合計で1000億円余のマーケット。850万人の患者となる。内緒にしている「隠れ便秘」「隠れ夜尿」を加算すると、市場規模と患者数は相当なものになろう。

筆者は生まれつき胃腸が弱く便秘と下痢をくりかえす。ソフトクリームのように捻じれて太い形状の、由緒正しい黄色い大便をかつて一度も排出したことがない。よくて泥鰌(どじょう)数匹、わるくて液状化となる。彼らと付き合うのは難儀であるが、大腸小腸のなかの相手に話しかけながら、相手の現在位置を確認しつつ対応すれば何とかなろうというもの。奥義の一つは大きく息を吸いこみ腹中へ押し込む。すると肛門から糞と屁がでる。「人間は管」だとあらためて痛感させられる。硬軟にかかわらず、排泄後は厠神にうやうやしく手を合わせる。

話はあれこれ飛ぶが、「スカトロジー」から引用する。「日本社会には、糞尿との親近性、糞尿への寛容とでも呼ぶべき文化的伝統があり、その背景として、江戸の川柳をはじめ、落語や小話がいわば無自覚的に糞尿と屁()を扱ってきた。もっとも、18世紀には平賀源内(風来山人)(憤激と自棄)を動機として(放屁論)(1774)を著している。日本における(挫折型)スカトロジーの先駆的作品といえるだろう」。

(スカトロジーは、古代ギリシャ語の糞便を意味する「スコール」と談話集を意味する「ロギア」の合成語で、糞尿に対する研究や考察をいい、日本語では糞便学という)

「なに糞!」「糞っ垂れ」「くそ野郎」「連れション」「地図坊や」「屁の河童」「握りっ屁」などの言葉を手掛かりに、糞便学を通じて平賀源内ばりの日本人の精神性&文化論を試みようと勇み立ったが、ここで紙数が尽きた。(2018/11/13)

 

666『押し込み強盗』

「怖いもの」の古い俚諺に「地震・雷・火事・親父」がある。地震や雷など天変地異は避けようがなく、ケセラセラなるようになると度胸を据えてしまう。火事は逃げようと慌てふためく。近所の火事のとき腰が抜けて動けなくなったことがある。親父は優しく怒鳴られたこと殴られたことは一度もなかった。

プリメーラでドライブしていて、家人はトンネルや橋梁の危うさを異常に怖がるが、筆者はトンネルが崩壊しようが橋が二つに割れようが頓着しない。自力ではどうにもならないので、ダメなときは駄目と諦めが先に立つ。

筆者がイの一番に怖いものは「押し込み強盗」だ。宅配業者になりすまし、あるいはアルミサッシを抉じ開けて押し込み、鋭利な刃物を突き付けて金銀財宝の在処(ありか)へと誘導させられ強奪される。誘導を逡巡しようものなら、刃先を喉元に刺して急がせる。強奪したのち警察への通報阻止のため殺すか、脅しあげて逃走をはかるか?それは犯人の人間性にかかる。

防犯ジャーナリストによると、仏壇の下には小型金庫、高級な戸棚には間違いなく金品が蔵われる。臍繰りは洋間のムンクの額の裏側、書架の大辞林をくりぬいた隙間に嵌め込まれているという・・・

これら情報を「反面教師」として、つまり泥棒心理を逆手にとって、筆者は絶対に見つからない「場所」と「梱包」をすでに考案していた。隠し場所については〇秘だが梱包は公開しよう。新聞の折り込みチラシをクチャクチャに丸め、帯封の札束をカモフラージュして24×9×4センチ大に見せかけ包み込む。その寸法からは札束がイメージできず、泥棒はスルー。前以て碌なものしか入れてない仏壇下や戸棚へと奴らを誘導するという方法である。

ただ泥棒にも五分の魂、泥棒を手ぶらでは帰せないので、3万余円入りの財布を手土産としてくれてやる。そして渋茶を淹れお茶請けに最中をだし、ゆっくりと穏やかに時候の挨拶や世間話をする。莫迦にされたと取るので、金銭はさりげなく渡し、飲み食いを含めて決して無理強いしないことがお互いの身のため。

筆者が押し込み強盗を怖がる下意識には、ある体験がある。四十余年前、空き巣に這入られたのだ。当時は別宅に住んでいて自営の営業所に通っていたのだが、昼間の留守中にガラスを割って入られ、幼い息子の小遣い財布などから数万円盗まれた。警官に家族全員の指紋を採集され地方紙の三面記事にもなった。

(犯人はのちに逮捕された。むくつけ男だろうと推測して怯えていたが、実際は峰不二子似の美人で、母親に付き添われて弁償と謝罪にきた)

このときは仕入れの札束が一束あったのだが、クチャクチャチラシの梱包と隠し場所で無事だった。けれど押し込み強盗にも大悪小悪あろうし、現実に這入られて見ないとわからないので、怖いことは怖いことだ。(2018/11/08)

 

665『木の実降る・俳句』

10月31日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  木の実降る羅漢夜もなく昼もなし  義人

晩秋になると森林や野辺の木の実が熟し、風に吹かれてほろほろと落下する。木の実には栗・榧・樫・銀杏など種類が多く、また大小さまざまだ。小さな木の実などは、昼夜ときを選ばず雨のように降りしきる。落ちた木の実がころがって廻るのを、木の実独楽といって秋の植物の季語の副題になっている。

「羅漢」とは阿羅漢のこと。「仏教の修行の最高段階。また、その段階に達した人。もとは仏の尊称に用いたが、後世は王として小乗の聖者のみを指す」と辞書に載っている。

羅漢は修行をつんだ聖者であり、王となっても日日さらなる修行に励むのだから夜も昼もない。人間の多くは昼に行動し夜は睡眠をとるのだが(このごろ夜に行動し昼に睡眠をとる「夜型」の人間もいるが)、そんな贅沢は言っていられない。

羅漢さまは終日二十四時休息する時間さえなく、木の実降りしきる時空のなかに厳と在わすのだ。市民を守る「警察密着二十四時」に近似していて、大変な存在なのである。(2018/11/02)

 

664『私のムンクの叫び』

降圧剤の副作用か、両肩に貼る湿布の副作用かわからないが、後頭部の左右が痒くて掻きむしると腫れて瘤みたいになった。その瘤をさらに掻きむしる。

「痒いところへ手が届く」とは、「こまかな点まで行き届く」の意だが、痒いところを掻くことは何という快楽(けらく)だろうか。血がにじむほど掻きむしる「快楽行為」は官能的ですらある。

amazonで痒み止めの軟膏やクリームを三種類購入して三日ずつ試用してみた。たしかに多少の効果はあるが、痒みが後頭部から首や腕に転移してしまった。ことここに至って、ホームドクターに往診を依頼して診てもらい塗り薬が処方された。副作用(毒素)大といわれるステロイド入りのものだった。これは三種類のどれよりも治癒効果があるように実感させられた。

痒みを訴える舌の根の乾かぬうちに、こんどは胸や背のほぼ全面、首筋にかけて激痛が突っ走るようになった。

自己診断(なりすまし医師)では風邪が筋肉や神経にきたと診断できる。手足の動作でも首や肩が痛くて動きがとれない。寝返りも激痛で、思わず知らず叫んでしまう。八十面さげ大声で、痛っと「叫び」声を上げてしまうのだ。一日二回と処方された痛み止めの薬を三回服用しても、以上のような症状だった。(これが筆者の約二週間にわたる病状の経過。現時点では小康状態を保っている)

「痛痒」という言葉がある。「いたみとかゆみ」のほか、「痛痒を感じない」は、「いたくもかゆくもない。何らの利害や影響をも受けない」の意もある。

また「痛し痒し」という成句もあり、「掻けば痛いし、掻かねばかゆいしの意。片方をたてれば、他方に差し障りが生じるという状態で、どうしたらよいか迷うときにいう。どのようにしても結局自分に都合の悪い結果になる」と『広辞苑』に載っている。

「痛痒を感じない」があるなら「痛痒を感じる」の言い方があってもよいだろう。すれば「何らかの利害や影響を受ける」の意味になる。筆者の二週間は、痛痒の多大な「利害や影響」を被ったものだった。

「痛し痒し」の成句でいうなら、「どのようにしても結局自分に都合の悪い結果になる」ものだった。これは、私の心の「ムンクの叫び」、「私のムンクの叫び」である。

折から(10月27日から)東京都美術館にて「共鳴する魂の叫び」「ムンク展」が開催される。(2018/10/27)

 

663『お借りした地球・俳句』

お借りした地球返して春逝かん 矢崎硯水

上記の俳句の「自句自解」を試みたいと思う。

「地球」は人類の住んでいる天体。太陽系の一惑星。形はほぼ回転楕円体で、赤道半径は6378キロメートル、極半径は6357キロメートル・・・などと天文学的に地球(アース)について語るつもりはない。

「地球」は「水の惑星」ともいわれる。宇宙からみて地球表面の十分の七は水であることをいう。また地球は空気と称する無色透明な気体に包まれていて、どこの国の誰もがどこの国の動植物もが、無償で呼吸し気体交換ができる。さらに御負けに、人間らが浮遊しないように慢心しないように、万有引力が完備していることも付記しておかねばならない。

そして有り体にいえば、地球とは「自然」であり、人間を含め、山川・草木・動物など天地間の万物をさす。

上記の俳句の表す「地球」とは科学におけるそれではなく、文学におけるそれである。ざっくり、ゆるゆるの、多くの事象をすべて包括した「惑星」なのである。

筆者そんな「地球」を、出生届一通で八十年余にわたって借用してきたのだが、さすがこの年齢になると、おっつけ返却の日が訪れるだろう。空気を吸い、物を食い、湯水に浸り、森を見、湖に遊び、車転がし、小銭数え、猫とじゃれ、草に寝転び、人と語り、句をひねり・・・これらの行為は「地球」あっての物種だった。ここでは過去形で言っておこう。ありがたいことだった━━。

俳句の表現上では深謝の意は読みとれないが「お借りした・・・返して」に「借りたものは必ず返す」という常識範囲の誠意が暗に込められていまいか。

西行法師に「ねがはくは花のもとにて春死なむその如月の望月のころ」という和歌の辞世がある。当該俳句は、それを俤にした筆者の「辞世」である。

「お借りした地球」と口語調から下五を「春逝かん」と文語調に叙し、文体の不協和音から起きる破調のおもしろさ、ユーモアを狙ってもいる。

この俳句は、毎日新聞「俳句はるふぁ」「いのちのテーマ」。平成31年「俳句あるふぁ」増刊号に掲載予定である。(2018/10/21)

 

662『マドンナ・俳句』

10月10日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句ここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  マドンナの背中にそっと草虱  義人

「マドンナ」は聖母マリアの称号。絵画・彫刻に表現した聖母マリアの像。聖母像。と辞書にある。そもそもイタリア語では「我が淑女」の語意だが、多くの男性の憧れの対象である女性という意味に置き換えられ、さらに意味が多岐化していった。「学園のマドンナ」とか「クラスのマドンナ」とか使われ、一部のミセスにも強引に使われる。

アメリカの歌うたいで奇抜なパフォーマンスで知られる女性もマドンナ・ルイーズ・ヴェロニカ・チッコーネ(本名)と称するが、日本における「マドンナ」という称呼の嚆矢は聖母マリアをイメージしたもので、夏目漱石の作品内にすでにこの名は登場している。

さて当該俳句であるが、男女共学の中学生であろうか、一人の美少女がいて男子生徒の憧れの的。熱をあげる生徒が5〜6人いて、2〜3人は自他ともに「本命」の自覚があるが、その他の2〜3人は代役であり「保険」としての立ち位置に甘んじていた。

しかし自分のルックスやIQからして「代役」「保険」に甘んじているのだが、それでも意地はあるので、やっかみ含みのいたずら心から、マドンナの衣装の背中に草虱(くさじらみ)をそってつける。草虱は刺毛のある痩果で衣類などに付着しやすい。マドンナは草虱を付けられたとも知らず、すまし顔で歩いてゆく。

草虱は「藪蝨(やぶじらみ)」ともいい、三秋の植物の季語。衣類の付着する秋の植物はほかに「牛膝(ゐのこづち)」もある。どちらも通経薬、堕胎薬として用いられた、念のため。(2018/10/10)

 

661『鮒鮓や・俳句』

9月19日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句ここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  鮒鮓や諏訪湖の風をふところに  義人

「鮒鮓(ふなずし)とは馴鮨(なれずし)の一種。ニゴロブナの腸(はらわた)を取り去り塩漬けにしたものを、飯と麹(こうじ)で混ぜたものに漬け込んだ鮨。酸味と臭味が強い。近江の名産。夏の季語」。と『広辞苑』にある。

「鮒鮓」は琵琶湖産の鮒を使って発祥した近江の名産品と聞きおよぶが、さいきん諏訪湖でも漁業関係者と地元の料理人がタイアップして試作品が作られた。試作を重ねた結果、イベントで限定品として売り出されたというローカルニュースが流れた。

諏訪湖のほとりに住まいする筆者は、鮒や鯉や蝦などの川魚はよく釣ったし、よく食しもした。しかし鮒鮓は食べたことがない。イベントでの限定販売も買い忘れてしまった。

当該俳句は「鮒鮓」を食したとは表現してない。鮒鮓の話題を小耳にはさんで諏訪湖の風をふとこりに入れたのであった。

ちなみに「すし」の漢字は「鮓」でも「鮨」でもよい。筆者としては「鮓」の字は家庭の手作りのもの、ときどきしか購入できないもの。他方で「鮨」の字は日本のどこでも食べられるもの、ベルトコンベアで流れてくるものをいいたい。そんな拘りが「すし」にも「もじ」にもある。(2018/09/23)

 

660『尺蠖に・俳句』

9月12日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が入選として掲載された。当該の俳句と選者の仲寒蝉氏の講評をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  尺蠖に測るすべなき空あり  義人

仲寒蝉氏「尺蠖は名前の通り尺を取って何かを測定しているように見える。現にそのような句は多く見かける。しかしこの句では大きな計り知れない空を対象に持ってきて、尺蠖もこればかりは測れまいと嘯いているところに滑稽味がある」。

寒蝉氏の講評でほぼ言い尽くされるが、さらに「自解」を重ねるとすれば、尺蠖が尺を取りながら樹木のてっぺんまで上り詰め、そのてっぺんから猶も尺を取ろうと空をまさぐっている情景がイメージできないか。

「測るすべなき」には、上り詰めたものの達成感と空虚感、そしてあまりにも広い空を測ろうとしたおのが愚かさと戯けも擬人化した表現として垣間見られるのではないか。

なお下五が「空あり」と四音だが、原句は「空ありき」で恐らく脱字と思われる。(2018/09/12)

 

659『花火揚げ・俳句』

8月15日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  花火揚げ傾くばかり諏訪の湖 義人

「花火揚げ」は正しくは「打上げ花火」のことで、筒で打ち上げる花火をいう。「仕掛け花火」の対をなすもの。

三尺玉ともなると重量200キロにもなり、大音響が轟きわたる。諏訪湖が傾いて湖水の水が溢れるのではと思わせる物凄さ。上空の華麗な色彩とともに人のこころを異空間に突入せしめる。

8月15日は今年70回を数える諏訪湖花火大会が行われた。この日奇しくも当該俳句が掲載された。投句したのは約一か月半まえだった。もっとも諏訪湖では恒例の大花火大会とは別に、毎晩小規模の打ち上げ花火を打ち上げているが・・・。(2018/08/16)

 

658『詩あきんど32号』

俳誌「詩あきんど」32号の「詩あきんど集T」に筆者の俳句作品と留書が掲載された。それを転載させていただく。

「夏にてござる」

ぼうふりを真似て躱さん棒縛り

瓦版受けの滝浴びやるまいぞ

   団扇以て附子を扇げばさてもさて

蚊相撲やわざは忖度はっけよい

そそくさと四万六千日 五分

竹婦人ござるによって嫁いらず

このあたりに住まひゐたす絽の女装

ござ候ふ 蜷局巻く世の青大将

形状記憶白服着込み呆けいたす

素っ破ども現の証拠でひっ捕らふ

次郎冠者馬には乗らで野馬追ひ

虎尾草を踏んでござる 下下よ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

狂言は科(しぐさ)と白(せりふ)によって表現

される喜劇で、身振り手振り運歩などの所作

や口語体の会話を通して演じられる。主題は

権力や世相を風刺するもの、人情の機微をう

がつもの、庶民風俗や物まねなど滑稽が中心

になる。

科白からなる喜劇は世界でも珍しいとされ

誇張・矛盾・批判をバックボーンとする滑稽

の交差は俳句に一脈通じる。俳句もおどけ・

たわむれ、庶民風俗の文芸にほかならない。

辞書によると「ござる」とは、居るの尊敬

語。在るの尊敬語。行く来る、腐る惚れる、

老いぼれる腹がへるを表す語とある。

さあさあ、木戸銭は不要でござる。詩あきん

どの軒先を拝借しての「俳の狂言」、はじま

り、はじまり!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

蛇足ながらルビと説明を書き足す。「附子(ぶす)」は狂言に用いられる、だまして砂糖を大毒だと言い立てる用語。一般的には「附子(ぶし)」といって、トリカブトの塊根で生薬。興奮、鎮痛。猛毒の成分もある)

「蜷局(とぐろ)」。「素っ破(すっぱ)」は強盗から召し出して軍隊の先導を勤めさせるもの。盗賊、すり、たかりをいう。「下下(しもじも)」身分の低いもの。一般の庶民をいう。(2018/08/13)

 

657『水打って・俳句』

8月8日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  水打って井戸端会議終りけり  義人

水を打ったのは井戸端会議に参加していた者が、会議が終わって打ち上げという意味合いでそうしたのか。あるいは井戸端会議には関係ない井戸界隈の人物の仕業とも読みとれる。後者だと意地悪婆さん的なストーリーだが、そうであれば下五を「終らしむ」と措辞してほうがよいだろう。

俳句は第一人称の文芸なので上記のような解釈になるが、散文にみられる第三者的な視点で掲句の状態をながめ、水を打った頃合いに、それまで続いていた井戸端会議が終わったという表現方法もあっていいのではなかろうか。

水を打ったのが、井戸端会議の参加者、または井戸の周辺者と狭義に特定すれば、ややもして表現手法が直截的で卑近に取られかなねない部面もあるのだ。(2018/08/09)

 

656『腐敗ふはいフハイ』

プロもアマもスポーツ界が恥ずべき不祥事を引き起こしている。

「可愛がり」といって、他部屋の力士の脳天をかち割ってホチキス縫合させるまでの傷を負わせる。それをめぐって相撲協会の役員たちが責任のあり方などで理解不能な言動をとる。

女子レスリングの栄監督の伊調選手へのパワハラをめぐっては、至学館大学の女学長が「伊調馨は選手ですか?」「パワーのない者がパワハラしますか?」などと筋の通らぬ言辞を弄する。対応もちんぷんかんぷんだ。

プロ野球のジャイアンツ選手たちが、全裸乱交ハーティー飲み会の映像を恥も外聞もなくインスタストーリーズに投稿する。大昔はあったかもしれない体育系の「羽目外し」を、この時代にやらかしてしまう神経とおろかさ。

日大アメフトの監督やコーチが、関西大学選手を試合に出られないようタックルによる潰しという傷害を命令する。証拠があってそれが露見しても否定しつづける。相撲取りだった田中理事長は「アメフトはしらん」とのたまい説明責任をほうき。

日本ボクシング連盟の山根会長の反社会的勢力との交流、その指示による助成金不正流用、「奈良判定」というレフリーの八百長まがい判定の関与などなど・・・

マスメディア、就中テレビジョン放送の「スポーツ乃至はアスリート」の視聴化しやすく映像、わかりやすい素材が持てはやされている。そして「体育遊興」であるはずのスポーツ本来の意義が、「名誉金銭」を得るための手段になってしまっている。

高校や大学のアマチュア、各種スポーツの協会や連盟などの組織も「名誉金銭」をより多く得るためだけの「オポチュニズム組織」になっている。厳正な組織のあり方やコンプライアンスを疎かにした旧態依然の人間たちが支配しているのであろう。

その頂点にあるのがオリンピックだ。クーベルタン男爵の「勝つことではなく参加することに意味がある」といった高潔なオリンピック精神はとうの昔に忘れ去られ、現在では商業主義にどっぷり漬かって欲と金まみれ。大腐敗する前にオリンピックは止めるべきである。

冒頭に「スポーツ界が恥ずべき不祥事を引き起こしている」と書いたが、政界も財界もご同様に腐敗している。

財務省の公文書改ざん、モリカケの情報隠蔽、「記録がない記憶がない」の言い逃れ役人や官邸や安倍から、トヨタや神戸製鋼の資料隠蔽まで。糅てて加えて、東京医大の入試女子の点数カットと金満入試男子への点数プレゼントシステムまで。

「知育」がここまでくれば「体育」もここまで来るのは、当然といえば当然の話だったが・・・。(2018/08/07)

 

655『短夜やダリ・俳句』

8月1日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  短夜やダリの柔らか時計鳴り  義人

「ダリの柔らか時計」とは、ダリの『記憶の固執』という画題で描かれた「柔らかい時計」をさす。ダリはスペインのカタルニア生まれの、シュールレアリスムの画風で知られる画家である。

「美術史家ドーン・エイズによれば『記憶の固執』は、時空のひずみを象徴しており、さまざまな停止した状態の時間(現在の時間、過去の時間)を同時に描いているという。

画面には時計が三つある。しかし、三つの時計の時間は異なっている。つまり、絵の中の世界は、現在の記憶と過去の記憶が入り乱れる『夢の時間の状態』、無時間を表現しているという」「Artpedia近現代美術の百科事典」より抜粋。

「記憶の固執」はダリがカマンベールチーズの溶ける状態をヒントに描いたといわれる。

筆者は一日24時間サイクルにどっぷり浸かっている日常なのだが、時折は時間という概念について思いをめぐらす。「時間」というものは測り得ないもので、人間のご都合主義から考え出したものにすぎず、そもそも時間も(空間も)ただ茫茫と脈絡もなく流れているのではないか。幼児期の記憶や昨日の記憶が、一瞬にし前意識に呼び起せることは、幼児期や昨日の「記憶」がまがうことなく「現在」に他ならないからだろう。

さて、当該の俳句にもどろう。「短夜」は「夜長」の対語の季語だが、これは夜の時間の長短の問題ではなく、ダリのいう「時空のみずみ」かもしれない。暑くて眠られぬ真夏の夜の不条理。ダリのとろける柔らか時計が鳴る。(2018/08/04)

 

654『噴水の虹・俳句』

7月25日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が入選として掲載された。当該の俳句と選者の仲寒蝉氏の講評をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  噴水の虹見て宝くじを買ふ  義人

「噴水に日が当たって虹ができている。だが、それと宝くじを買おうと思う心の動きとは直接関係はないはずである。ところがこのように俳句に書かれると、あたかも虹を見たことによって必然的に宝くじを買うことになったような気になるから面白い」仲寒蝉氏。

ギリシャ神話では、虹は女神が渡って天と地を行き来する橋とされ、畏れ多くも美しいものと伝えられる。そして西洋など多くの国では虹は幸運をもたらす前兆とされる。いっぽう古代中国では、虹は蛇や龍の示顕の姿とみされ忌み嫌われた。「虹」の漢字が虫偏なのもそんな流れを汲んで、日本でも恐ろしいもの禍禍しいものという一部の伝承が明治ころまで伝わった。

しかし「虹」は、大気中に浮遊している水滴が日光にあたり光の分散を生じたもの。畏れ多くもなく禍禍しいものでもなく、単なる自然現象であることがリサーチされてきた。それによって、七色の虹は幸運をもたらす美しいものというイメージがひろがり、「禍禍派」を駆逐したのだった。

さて掲句だが、噴水に虹が架かるのをみて、外出のその道すがら宝くじを買い込んだ。「虹」も「宝くじ」も人間行動で遭遇するスケジュールはなかった二者、結びつくような因果関係もなかったものが、五・七・五という定型詩のフォルムの技でつながってしまう。虹という「自然現象」と、宝くじという「俗世欲望」の思わぬ二物衝突だった。その意表外が詩になる。(2018/07/26)

 

653『図書館に・俳句』

6月20日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  図書館に足止めくらふ余花の雨  義人

「余花」は春に咲き遅れた桜の花が、すでに若葉になった時季に若葉のまにまに花を咲かせる初夏の季語。咲き遅れた原因はさておき、遅ればせに咲きはじめた花だから花数は多くなく、申し訳なさそうな風情なのだろう。(ちなみに「残花」は春の季語)

「余花の雨」とは葉桜に交じって咲く桜の花弁に、細かい雨がけむる佇まいの用語である。

図書館に通って調べものをしていたのだが、生憎の雨に足止めをくってしまう。足止めをくったとはいえ、雨に咲く桜花の自然(じねん)の儲けに風狂の思いがいやますのだった。

「そういえば私も若いころは仲間と放埓&怠惰に明け暮れ、俳諧師をめざしたのは遅咲きだった。俳諧の『余花連』だった」。足止めもまた楽しからずや。

「余花」の季語を措いた点がよかったと自賛したい。(2018/06/21)

 

652『天空に・俳句』

5月30日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  天空に宴あるらん揚雲雀  義人

「雲雀」は三春の動物の季語。傍題には揚雲雀、落雲雀、朝雲雀、夕雲雀、籠雲雀があり、告天子という異称まである。

揚雲雀、つまり雲雀が上空に向かって上がるとき、垂直とまではいわぬまでもあまり旋回飛翔しないで上昇してゆく。そんな性質から天に告げることがあって飛んでいるかと思わせ、告天子なんぞという異称があるのだ。

そのイメージをさらに膨らめ、当該俳句は雲雀が、「天空の宴」に呼ばれて参加するために上昇してゆくとする。天空とは高天原、すなわち日本神話で天つ神がいたとされる天上の国。雲雀は宴に呼ばれて晩餐にあずかるのだが、返礼として神々に美しい鳴き声をささげるのであろう。

余談ながあら、「落雲雀神の宴もお開きに」という俳句も筆者にはある。(2018/05/31)

 

651『能面に・俳句』

5月16日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  能面にじっと視らるる花の雨  義人

「花の雨」は桜の咲くころに降る雨をいう晩春の植物の季語。雨の降る日は陰鬱であるが、近辺に桜が咲くのを見たり、はるか遠方の桜の開花を聞いたりしても、そこはかとなく華やいだ気分に誘われるものである。

ところで「能面」には、男面、女面、般若、小面など多種類あり、その能面の人物の職業や性格や人となりなどの特徴が表される。しかし他方で「能面のような」という形容詞もあって、人間らしい感情がみられず冷たくて鯰のように掴みどころの表情をいう。

この俳句の「面」は「女面」かもしれない。「面」は表情を表すものだが(顔付きの表れるものだが)、表れるものが逆に感情や隠すもの(能面のような顔)になるという能面の特質がある。つまりその特質をかんがみ、「視らるる(凝視される)」という用語に男女の物語性を表現したかったものだ。「花の雨」を措辞したゆえんである。2018/05/16)

 

650『山寺の・俳句』

5月9日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

   山寺の鐘鳴り蕨ほぐれそむ  義人

「山寺の鐘が鳴る」ことと「蕨(わらび)がほぐれる」こととは直接的な関連はない。つまり因果関係はない。

この俳句は単なる二者の「偶然の遭遇」を突き合せたにすぎない。しかも「鐘の音」を感知する時間は五分とか十分とかだろう。他方で「蕨がほぐれる」さまの感知は一時間とか数時間という単位だろうから「遭遇のかぶり」はピタリではなく至極大雑把なものだ。

なぜ、それに拘るかというと、この「二者の突き合せ」、言い換えれば「二者の衝突」によって詩が成り立つということ。あたかも因果関係があるかのように表現されることで文芸となる。そこに文芸の基本形がある。

鐘の音に促されて蕨がほぐれる、と読み手を錯覚させるのだ。そういう文芸方法論がある。それによって山寺と蕨の位置関係も見えて来なくてはならない。見えてくるはずである。(2018/05/11)

 

649『ショパン止め・俳句』

3月28日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  ショパン止め雪解雫を聴きをりぬ  義人

ショパンの雨だれ前奏曲(プレリュード)は夙に知られる。前奏曲作品28の15「雨だれ」のCDを聴いていたのだがそれを止め、しばらく雪解雫の音を聴いたという句意だ。

「雪解雫」は「ゆきげしずく」という読みの仲春の地理の季語。雪雫もある。春先の雪解けの雫のこと。軒端とか樹木とかの積雪が日差しをうけて解け、それが滴るさまもだが、岸壁や摩崖仏などの状況でもいう。したがって広範囲な状況で詠まれる季語。

ショパンはいうまでもなく天才音楽家だが、その名曲の「雨だれ」を止めてでも、狭庭の雪解雫の音に惹かれたという句意にも解せる。

自然(しぜん)は十九世紀末に使われはじめた訳語であるが、日本にはもともと自然(じねん)なる言葉や概念があった。それは「おのずから然る」の意味で万物はあるがままに存在し、自らのはたらきで人為が加わらないという仏教の用語である。

「音楽」は作為だが「雪解雫の音」は無作為だと大声でがなり立てるつもりはないが、なんらの意図も造作もない無意味さにほっとすることはあるものだ。(2018/03/29)

 

648『枯蔦・俳句』

3月14日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  枯蔦のからまるマリア地蔵かな  義人

「蔦」はキツタ・ツタウルシなど蔓性木本の総称。種類はすこぶる多く、秋の紅葉が美しいので塀や壁などに這わせる。日本には古くからあるが西洋にも多くの種類がみられ、教会や学校などの壁に這わせる情景もまれなものではない。

「マリア地蔵」とは地蔵菩薩、いわゆる道端のお地蔵さんの裏側にマリアさまの姿や俤を彫り込む。彫り込むのが困難である場合は、暗示して示すものをいう。いうまでもなく「隠れキリシタン」である。「マリア観音」という表向きは観音菩薩でも、その裏側にマリアさまを忍び込ませた史実も残っている。余談ながら、現在も全国各地にあるが木曽地方の妙覚寺のマリア観音もよく知られている。

枯蔦がからまって、あたかもマリア地蔵を隠すがごとき佇まいを見せる情景を描きだしている。自然の造化とは言い条、そこに作為がありそうだと感じせしめる。そこまでは深読みだが、そこまで読み込むことも俳句の読み方の一つではあるだろう。(2018/03/15)

 

647『寒鴉・俳句』

2月28日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  寒鴉おのが谺と鳴き交はす  義人

「鴉()」だけでは季語にならないが、「寒鴉」「初鴉」「子鴉」なら季語のカテゴリーに入る。「雀」も、「初雀」「寒雀」「冱え(こごえ)雀」「稲雀」「子雀」「ふくら雀」なら季語。人の目にふれやすい鳥類には、そうした工夫がされて季語扱いになる。

さて「寒鴉」は文字通り寒中に餌を啄み、甲高い声でカアカアと鳴くお馴染みの鳥で、どちらかというと厄介者と見なされる。特に都会ではごみステーションの残飯を漁り、ときには人を襲って怪我をさせることも。

むろん農村でも果物などの食害があり嫌われ者だ。この俳句は山峡の情景がイメージされる。

一羽の寒鴉が声をふり絞って鳴きたてる。その鳴き声が谺となって帰ってくる。鴉は自分の発した声の谺ともしらず、その鳴き声に呼応して鳴きかわす。鴉はみずからの声を他の鴉の声と聴き違え、錯誤したという句意だ。(あるいは自分の声という自覚があって鳴きかわしたという解釈も成り立つ)

鴉のことは鴉に聞かなくはわからないし、鴉の勝手でしょうと言われればそれまでだが、人間界にもこれと類似した事例はままある。つまり「独り善がり」に近いのかもしれない。そこまで深読みするのは邪道か。

「自句自解」とさきに述べたが、他人の俳句を批評するようなスタンスである。ここでは自作を他人の作品として眺めたいので、少なくとも自句自解という言葉は正しくないが、このスタンスはしばらく続けることにする。(2018/02/28)

 

646『詩あきんど30号「詩あきんど集T」』

濁世徒然      矢崎硯水

お通しは風呂吹き法螺吹き罪と罰

寒昴へポケモンGOで昇りゃんせ

北窓を確と塞ぎぬぶっちゃけ寺

一線ですってんころりん雪女

のたくれる相模トラフの海鼠かな

ゼロ金利終ひ相場のおいちょかぶ

核核然然トランプ金の福笑ひ

袖無しの着るロボットに介護され

無重力ふぐり落してあけらかん

頬被り手配写真は空似ぢゃよ

その芸は違ふ〜だらう〜と猿廻し

竹馬がでんぐりかへり逆さ富士

芭蕉は「俳諧の益は俗語を正すなり」とい

う。卑俗なものとして顧みられなかった俗語

への偏見を正し、俗語を詩語にまで高めよう

とするもの。これに芥川龍之介は「正すとは

文法の教師のやうに語格や仮名遣ひを正すの

ではない。霊活に語感を捉へた上、俗語に魂

を与へることである」と述べている。

俗語とは和歌や連歌の雅語に対するもの。

あるいは標準となる口語に対してそれと異な

る方言や卑俗な言葉をいう。このごろの新語

流行語やネット用語、業界語や若者の略語、

八九三や女子中高生のイントネーションまで

含むものが俗語だ。

言葉とは事柄と事物その意味の表れであり、

民衆詩たる俳句の語感を霊活に捉えて魂を与

えるは容易なことではあるまい。俳句はおど

け・たわむれ。それに客観性や批判性が裏打

ちされるべきものだろう。(詩あきんど30号より抜粋)(2018/02/16)

 

645『詩あきんど30号「シャガールの馬」』

さざんが「シャガールの馬」の巻

          (UFO連句会硯水捌)

一面

風が鞭ふるシャガールの馬     矢崎硯水

バーチャルの時計廻りの旅をして      同

 またも仏陀の手の平の上     嵯峨澤衣谷

二面

籤引けばころころころり赤い玉       同

 愛憎を越え天城嶺を越え      矢崎妙子

山賊の衣装の似合うぬらりひょん     硯水

三面

 ワイドショーでは話題騒然       衣谷

百九十二の魚偏漢字書きあげて    軍司路子

 しかと抑える可杯の底         執筆

   平成二十九年十月二十七日首尾

☆形式「さざんが」(矢崎硯水考案)は掛算九九の「三三が九」から、三行×三つの面の合計九句を以て構成する。発句は長句でも短句でもよく、季語は要らない。三句の渡りを尊び、三つの面のジョイントによる虚実衝突の小宇宙を表す。「第三回近未来連句交流大会一席賞作品」(詩あきんど30号より抜粋)(2018/02/16)

 

644『詩あきんど30号「50句詠」』

物語りせん       矢崎硯水

重力のなきかに揺らぐ団子花

荒玉の年のびっくり箱開けん

初みくじ小枝に結び卍なり

詩あきんどの続く道あり恵方道

白龍をえいと蹴上げぬ梯子乗

疫神もささらほうさら鬼打木

歌姫のにきび乗り越え米こぼれ

すべて世は事もなしとて姫始

歯固めやごまめ歯軋りお奈良漬

薬石の効あらばこそ去年今年

    行く雁やダーツの旅へ身を賭して

   チョキだけの一生もあり潮招き

   はなふぶくとき乾坤は万華鏡

   亀啼けばダリの柔らか時計鳴り

   SNSと繋がりながらメーデーへ

   おぼろ夜やいよよ閻魔の庁可視化

   伏せ字あり海苔弁ありや目借時

   海市より透明人間あらはれよ

   たんぽぽの絮飛び まろき水の星

   カーニバル劇中劇にあるわたし

脚以て水面を叩くあめんばう

   ふるさとは他郷卯の花腐しかな

   男ながら男好きなり業平忌

   蚊蜻蛉の身震ひとあり鬱とあり

   ただばうばう現の証拠のあり処

   冤罪のマフィアが庭のパセリ群

   不発弾へ 列くろぐろ蟻の道

   オスプレイするりと抜ける捕虫網

   パリコレの脱衣のたうつ蛇の衣

   毒の世や越後毒消しゃいらんかね

   われからも物語せん謎かけん

   せせらぎは読経 南蛮煙管ゆれ

   カムバックサーモン哀れ崩れ簗

   アディオスと花野幌馬車駆って死ぬ

   宰相に成り済ましけり案山子殿

   新走り物くさ太郎訪ふて酌む

   寝袋を銀河の向きに沿はせけり

   仕置人のからくり潜む紅葉狩

   パブロフの犬 雀から蛤へ

   瞬きて星も恋するミ・アモーレ

   三寒の淋しさこもるぼんのくぼ

   風花やひらがな書きの反戦詩

   コテージの氷柱のしづく虹を生む

   スワンスワン2の字2の字の諏訪の湖

   夕されば銀嶺きしむ音がする

   鬼太郎が大縄跳びを潜りたり

   式部からあらあらかしこ帰り花

   日脚伸ぶ分福茶釜のしっぽまで

   はんなりと月は東に蕪村の忌

   着ぶくれて半跏思惟像真似てみん

留書き

与謝蕪村に「宿かせと刀投出す吹雪哉」がある。刀をさした浪人風の侍が旅籠屋の大戸口を開けていきなり長刀を投げだす。帳場に座る主人が貸すとも貸さぬともいうまえのことだ。雪降りすさぶ亥の刻のころだろうか。この侍は粗暴なのか粗忽なのか、はたまたうらで抜け荷をたくらむ越後屋とよんで強圧的に出たのかと読み手のイマジネーションを膨らませる。

蕪村には「雪月花つゐに三世の契りかな」「公達に狐化たり宵の春」もある。蕪村は物語性(虚構的な創作)&絵画性(視覚的な表現)の詩人といわれる。

芥川龍之介は「芭蕉雑記」で、「間口の広さの芭蕉の発句に現れないのは・・・「わたくし詩歌」を本道とした為と云はなければならぬ」とし、「蕪村はこの金鎖(きんさ)を破り、発句を自他無差別(むしゃべつ)の大千世界へ開放した。「お手打の夫婦なりしを衣更」「負けまじき相撲を寝物語かな」等はこの開放の生んだ作品である」と、反証的な意味合いながら述べている。

俳句は一人称とされる。極私的ただごと素材にも勿論詩はあろうが、物語というバーチャルの鏡に投象される世界も見てみたいものだ。「詩あきんどの作家たち」(「詩あきんど」30号より抜粋)(2018/02/15)

 

643『雪起し・俳句』

2月14日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  雪起しかっと目を剥く仁王尊  義人

「雪起し」は、雪の降ろうとするときに鳴る雷または地鳴りをいう。北陸などに多い現象で、晩冬の天象の季語。これに類似したものに「鰤起し」があり、これは三冬で十二月から一月に鳴る雷鳴。北陸地方で豊漁の前兆だとされる。

雪起しの雷鳴がいきなり轟きわたる。その瞬間、かっと目を剥いてあたりを睥睨する仁王尊。実際のところ仁王尊が目を剥くわけはなく、参詣者が雷鳴に驚いて仁王尊の表情を見誤ったもの。錯覚したのである。自身の驚きを別のものへと「転化」した。代替したのだ。

こうした錯誤は日常生活でもたびたび起きるが、仁王尊を擬人化して詠んだものだ。(2018/02/15)

 

642『熊つひに・俳句』

1月31日付の朝日新聞長野版の「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。当該の俳句をここに転載し、併せて「自句自解」を試みたい。

  熊つひに活断層の穴に入る  義人

熊は冬眠する。「熊穴に入る」という季語があるが、熊だけでも、また熊の子、穴熊、月輪熊、ひぐまも季語。夏秋は活動的だが冬は洞穴にこもる。穴居中に子を生む。

ところが地球温暖化のせいか、過疎化で里山に人が住まなくなったせいか熊が人家近くに出没する。人が物音をたてたり鈴を鳴らしたりして追っ払っても、慣れっこになってしまったのか逃げない。死んだ真似をしても「それ嘘だろう!」とばかり噛みつき熊パンチをくらわす。ごみステーションで残飯を食いあらす。

余談だが「穴があったら入りたい」は、決まりが悪い、恥ずかしくて身を隠したいという故事からの言葉であるが、穴がそこにあるのにもかかわらず、政治家も有識者も芸能人も入ろうとしない。なんやかんや強弁しながら穴惑いしている。

それはともかくとして、冬は寒いので習性として熊は穴ごもりするのが人情。ぐずぐずしていたが一大決心で穴に入る。ついに穴に入ることになった。

「活断層」は日本に約2000あるといわれ、ほとんどの県の地表がこれを被っている。地殻変動している。じわじわ動揺している。地震が発生すればどうなるかわからない。

熊はおそらく活断層を知らない可能性が高いが、地殻変動は感じないことはないだろう。

この俳句の眼目は「つひに」。「つひに」は歴史仮名遣いで漢字だと「遂に」の表記となる。「おわりに」「しまいに」「とうとう」「結局」。下に否定を伴って「いまもって」「いまだに」「ついぞ」の意である。

活断層地帯の穴に入るのは嫌だったが仕方なしに入ることにした。「つひに」それを決めた。擬人法として熊に感情移入しての「つひに」ではなくても、作者の単なる用語(用いた語)として捉えることも可能だろう。言葉とはふしぎなもの、びみょうなものだ。(2018/02/02)

 

641『翻訳魔シン』

ホームページ「河童文学館」に「翻訳魔シン」というページを新設した。翻訳の作業をするマシン(機械)という意味だが、本来はカタカナ語で書くべきマシンの「マ」の字を漢字の「魔」にしたところがミソだ。

ネーミングについては正直あれこれと迷った。「翻訳魔神我―Z」「誤訳迷訳マシン」「解釈魔ガジン」「世相誤記ゴキ」etc

これらタイトル考案の迷走中に浮かんでは消えた語句に、筆者の書きたい趣旨が隠れているのかもしれない。

すなわち、二十一世紀の乱世濁世や新語流行語に対してあえて突飛な見立てで解釈したり、間違った言葉で表記したり、悪意のこもった当て擦りをして悪態のかぎりをつく。鬼か蛇か魔か。あくまでもうっ憤晴らしでなく、おのれ自身の生き方に唯唯諾諾でなく、おのれのため批判性を養いたいがためである。

筆者愛読のアンブローズ・ビアス著【悪魔の辞典】を向こうにまわす気は毛頭ないが、意識の片隅にあることは否めない。

的外れやワサビ不足があるかもしれないが、適宜読み飛ばしていただきたい。(2018/02/02)