21「植物季節」
22「ルーズ&怠惰」
23「お化けルネサンス」
24「ちょうねんてんやねん」
25「ビアス伏魔殿」
26「差別表記について」
27「親の光は七光り」
28「一つお化けの話を・・・」
29「ナニナニ隠し」
30「仙人として仙女として」

31「タマちゃん騒動」
32「トップ記事とベタ記事と」
33「歳時記からアニミズムへ」
34「曼珠沙華」
35「B級スパイ映画」
36「獣語・鳥語について」
37「コンビニ考(1)」
38「コンビニ考(2)」
39「コンビニ考(3)」
40「ちちんぷいぷい」

『スナック菓子と透析と』01

ブ大統領が、プレッツェルというスナック菓子をのどに詰まらせて失神したニュースは、笑えそうで笑えない話だった。

たとえ大統領であろうと、カウチにもたれてアメフトを観戦しようが、お八つを食おうがかまわないが、ろくすっぽ咀嚼しないのがしくじりの元。日本でも餅を詰まらせて死ぬから、菓子と餅は日米協定にとって慎重を期したい問題だ。大統領が転倒してホッペに擦過傷ができたことは労(いたわ)しいが、傍らに核のアタッシュケースがあって、間違ってスイッチON、とマンガチックな空想をしてしまう。

けがと言えば、テロの首領と目されるビ氏は腎臓を病んでいるらしく、透析装置をたずさえてアフガンの洞窟を転戦し、未確認ながら病死したとの報道も。二メートル近い偉丈夫がと、こちらも公平に同情を申し上げるが、場合によっては、遺族にお悔やみを申し上げなくてはならない。

みずからも武器を持ちながら世界の武器抵抗派を「ならず者」呼ばわりする、頭がカルクて西部劇好きな「ブ」。イスラム教ながら同時に鉄砲好きなインテリ「ビ」。わたしは「両B」の「キャラ」とも嫌いじゃなく、スナック菓子をぱくついたり、家族に囲まれて談笑したり、とても6千も何万もの人殺しをする人には見えない。

衛星中継やインターネットで瞬時に伝えられる21世紀。メディアの情報が洪水のようにあふれるが、逆に姿かたちが見えなくなって、現場感覚がなくなっている。二人のBの日常的な感情と、それに吊り合わないテロ・戦争という行動の乖離と大きさ。グローバリゼーションのなかで、感覚のずれから窒息状況に入った気がしてならない。(02/01/15)

 

『鳥事情』02

スズメやカラス、ツバメは目に触れぬ日がないほどなじみ深いが、その分、目にふれたからといって特段の感興も持てない。それなら、カモメやセキレイやカモはどうか。ついでにキジやヒバリやウグイスは、たまに見かけるだけだから、感興が大きいといえるか。

シジュウカラやミソサザイが街中の軒先や廃車のフェンダーミラーに巣をつくり、カワセミが運河の近くで巣にこもるというニュースを耳にする。鳥はシーズンによって山里を棲み分けるものが多いが、デベロッパーが山を乱開発したせいか、それとも鳥のほうに、人間に接近しなくてはならぬ理由があるのか。

ヒヨドリが三年つづけて、拙宅のカエデの株立ちに巣をかけ、ヒナが四羽巣立った。リビングの透かし窓から1・5メートルと離れていず、しかも騒がしい町中の住まい。なんでこんな場所にと思うが、かれらはシティー・バードの道を選んだ。

ヒヨドリは燕雀目ヒヨドリ科の中型の鳥で、灰色の体色で頬のあたりがくすんだ臙脂(えんじ)、尾が長くてピーヨ、ピーヨと鳴きなが波状を描いてとぶ。一ヵ月にわたって新居ビルダーや抱卵、ヒナの動静を観察させてもらったが、かれらもこちらの動き、家人の人となりや部屋の様子など窺って学習をしているように見えた。

花鳥風月といって、鳥は日本の美しいものの代表の一つであるし、コンドルは人間の魂を天に運ぶ役目をするといわれる。餌付けは野性のペット化だと慨嘆する人もいるが、鳥はとぶだけで、鳴くだけでこころを和ませてくれる。パソコンと違って、プロバイダーなしに無料で自然と接続してくれる。現代のセラピストでもある。ま、厄介者の鳥もいることはいるが。(02/01/30)

 

『差別語』03

眼の見えない男が夢をみた。どうしたわけか眼がみえて、つい好い気になって芸者と浮気をしてしまう。女房に現場に踏みこまれ、とっちめられて眼がさめる。ふと我に返って、「メクラってふしぎだ。寝ているときだけよく見える」とつぶやく。

古典落語の「心眼」である。

筒井康隆氏が、「差別表現への糾弾がますます強まる社会の風潮」に抗議して断筆宣言(1993年)したころから、差別を理由の言葉狩りの気運が高まった。普通に使われ長年使いなれてきた言葉が、強圧的に刈り取られようとする。(誰が企んだか)一夜明けたら差別語になっていたなんて、恐ろしい話だ。

また、ことの性格上、それを論じたり反対意見を言ったりすることは社会性に反し、良識がないもののように見なされる側面がある。まるで正義の御旗のように言葉が魔女狩りに遭い、表現の生気がうしなわれ、意味がかすんでいく。腫れ物にさわるように言葉を用いなくてはならない。確かに言葉は人を傷つけもするが、それに封印をしたところで語意が消失するものでもなく、要は差別の心が問題なはずなのに。

差別語は体の部位や病名に係わるものが多いが、「不適切は表現があり、お詫び申し上げます」とテロップが流れても、その言葉自体がわからないことがある。アメリカの調査で、対話のキャッチボールで訴えかける感情の「主成分」は、語の内容よりも表情や音声が85%以上を占めるといわれる。物は言いようというではないか。いわゆる差別語が氾濫したそのむかし、差別やいじめが今よりも何十倍もあったろうか。

連句には「狂体」を出す約束事があるのだが、「気狂い」が使えなくなり、「馬鹿」も避けてほうがよいという意見も。気狂いには物事に熱中して心が奪われる面、つまり風雅に徹するという意味合いもふくまれる。言葉は多義性、使い方でさまざまに変わる生き物。

「イヤ〜ン、ばか」と、美女に嬌態を示されて馬鹿にされたと思う男はおらず、鼻の下を長くするのが相場だろう。馬鹿もなかなか意味深い言葉である。(02/02/22)

 

『顔文字のことなど』04

インターネットやメールなどで、顔文字(フェイスマーク)が流行っている。「にこり」「プンプン」「めそめそ」の喜怒哀楽や、「あせあせ」「フーン」「バイバイ」という表情、果ては「メモ」「チヤリンコ」などの代替言語まである。同じ「バイバイ」でも、素っ気ないものからお名残惜しいものなど数種類あるから、総数ではかなりの数にのぼるだろう。

また文中に(笑)を挿入することも多々見られ、このルーツは会議の状況を伝える速記術から起こったもので、(これは顔文字ではないが)情報記号としてネットが継承したということか。小中学生ならいざ知らず、大の大人ならばちゃんと言葉を用いて表現したらどうか。いい年をしてそんなことに現を抜かすなんて、おれは絶対やらんぞと思ったものだが・・。

手紙では「拝啓、敬具」、「前略ご免ください、かしこ」などの頭語と結語の様式が定まっているし、電話であれば「もしもし」といって用件を切り出せばこと足りる。ところがメールは歴史が浅いせいか、通信手段としての礼儀作法(?)が定まっていないのである。手紙ほど堅苦しくなく書けるけれど、飽くまでも文字は使う。電話のように肉声にふれる親密さは得られないが、ダイレクトという点で郵便とは趣を異にする。形式や方法に対してはおのずからなる付き合い方があって、こんご自然と身についていくのではないか。その付き合い方は相手とのスタンスの面でも、新局面が拓けるのではないか―。

メール使用の年齢分布は知らないが、若者たちは文字による意思の伝達が意外とヘタのようだ。多くの言葉が使いこなせなければ、感情も思想も伝えられず、相手が受け取ってくれたという確証もおぼつかない。言葉の合間に顔文字を入れてフォローしたり、反語的な意味に用立てたり、自分をちゃかしたり、おどけて見せたり。

顔文字によって、「真実や感情の、虚と実の皮膜を楽しむ」。―それほどでなくとも、「モダン石器時代の象形文字」だと考えれば、めくじらたてることもない。ま、私自身はまだ使う気になれないでいるが。(^_^)/~。(02/03/01)

 

『想像力』05

政治が身近になって茶の間に入ってきたのは、比較的に新しいことだろう。県会や国会に、インパクトのある人物が新登場したせいかもしれないし、テロは別格としても、素材的におひれのつく話題が少なかったせいかもしれないと、うがった見方もできる。この場合の政治の語は、カッコつきで「政治」としなくてはならぬ。なぜなら、メディアという曖昧模糊たる俎上にある以上、しょせんは「一メディアの捉えた政治」、「映り方のいびつな画面の政治」に過ぎないのだから。

それにしても政治家の、一部と思われない政治家の、利権や金権への強欲さ、かてて加えて言葉や性情の驕り、高ぶりはどうだ。こうした人たちもかつては可愛い赤ちゃんだったろうし、小学生の頃は純真だったのに相違ない。どうしてこうなったのか。だれがそうさせたのか。

朝鮮の俚諺(りげん)に、「川に溺れた人たちがいたら、先ず政治家から引き揚げよ」というのがあり、その理由が大切な人だからでなく、川が汚れるからという。逆にみれば、政治家はダーティーでないと務まらないということか。

隣近所を見廻しても、親戚や友人を思い浮かべても、多少化けの皮が剥げかかっているご仁はいても、概して憎めない人が多い。それなにの国を代表する人たちが、選りによってこの体たらく、こうも厚顔無恥とは!

『悪魔の辞典』のA・ビアスは、「網領競技(コンテスト)といった按配で、仮装して行う利害得失の争い。私欲のために国家を運営すること」と決めつける。肝心なことは、「恫喝まがい」、「声がやたらと大きい」という一人だけを取り上げて、「お茶の間法廷」で裁いてもことは終わらないということ。シッポを切って生き延びた巨悪トカゲは、過去にさんざん見てきたはず。メディアが伝える政治の裏側に見え隠れするもの、否むしろ、見えないものこそを見詰め、想像力を働かせなくてはと自戒しきり。(02/03/07)

 

『嘘っぱち』06

「嘘から出たまこと」という言葉がある。初めはうそのつもりで言ったことが、偶然にも事実となることをいう。そんな物事のめぐり合わせも万に一つはあるのかも知れない。また西洋のことわざに、「百回繰り返して同じうそをつくと、真実となる」というのもある。嘘つきにとっては勇気を鼓舞される、何ともありがたいことわざだ。

嘘とは相手を欺くために、ありもしないことを並べ立て、動作や表情や声などの迫真の演技で信じ込ませようとすること。その先にはなんらかの目的、すなわち利得なり欲望なりがぶら下がっているのが一般的。しかし必ずしもそれがすべてでなく、たとえば、悪巧みでなくても結果的についてしまううそもある。フロイト(『日常生活の精神病理』など)は、うそに係わる言い損じや記憶錯誤、無意識の希求などを検証し論及したが、人にうそをつかせる心理の領域はフロイト氏でもなかなか難問のようである。

幼児もよくうそをつくが、それは言葉が十分に使えないくせに会話に参入するための「単純うそ」が多いそうで、当然ながら悪気はないらしい。願望と現実の確たる区分けがつかず、絵本のキリンを友だちと認識し、空想のなかで遊びふざける。そこから発生する言葉が大人には奇妙に見えるのだそうだ。また長ずると、親の叱責から逃れるためや自己防衛のために、高レベルのうそをつくようになる。

たわい無い子どものうそ、美しい女のうそは未だしも、声高に言い募る為政者のうそはいただけない。色をつければ真赤であり、泥棒のはじまりというものだ。

なお、一年間つきつづけたうそが、豆腐を食べることで消えるという話をご存じだろうか。「嘘つき祝」といって、中国地方では12月8日に豆腐を食して祝うそうだ。誰かさんに食べさせたいような、いっそ食べさせたくないような。・・(02/03/14)

 

『生の隣と死の隣』07

「じゃ、行って来るよ」と、当人は近所にでも行くつもりかも知れないが、たとえ長患いの往生でも、反対に、ぽっくり死ならなおさらのこと周辺をあわてさせる。本当は戻って来はしないのに使い慣れた慣用で、つい「行って来るよ」と「来るよ」を付けてしまう。今わの際はそんなものかも知れぬが、生還した人がいないので聞くすべもない。

介護などで、「人に迷惑をかけたくない」というのが口癖だったMという媼さんが亡くなった。病むこともなく、朝風呂でさっぱりしてからの94歳の死は、あっけないけれど大往生というべきだろう。西行に、「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」という歌があり、花の季節の旅立ちは多くが望むところだ。

死は不安や恐怖や悲哀でこそあれ、その対極にあるものではないというのが通常の考え方である。しかし死は、本当にただ、悲哀や恐怖や不安だけにすぎないものだろうか。わたしは少年のころ性格がゆがむほど、老いの恐怖、死の恐怖にさいなまれたものだ。が、いざ年を加えてみると、反応のまろやかさ(神経をひりひりさせて生きなくてよい)、痛痒のにぶさ(すりむいて血がにじんでいても、半日くらい知らずに過ぎることも)、そういう老い。また鬼籍に恩人や友人がいて、こちらが死ねば会えるかも知れない死。極楽はちと退屈でも、地獄はホラーめいた劇画でおもしろいかも。なんたって三千世界。それは必ずしも、「大不幸」ではないぞと思われもする。

死が訪れないことは、死があらゆる瞬間に可能だということであり、正直恐ろしさと同時に、生を考えさせる「優れたテキスト」ともなっているような気がするが、どんなものだろう。

「ブッシュマン」の神話で、月がウサギに、「人間は死んでも再び生き返るだろう」と伝えるよう命じたのに、ウサギはなにを勘違いしたか、「人間は死んだら再び生き返らない」と伝えてしまった。それで人は生き返らないことになったそうだ。ま、ともあれ、そういうことである。(02/03/21)

 

『愚者の石』08

世界的なヒットのファンタジー小説、「ハリー・ポッターと賢者の石」の舞台はスコットランドと言われる。英国のなかでも先住民族のケルト人の文化が色濃く残っている地方で、ケルト神話には魔法、精霊、妖怪があまた登場する。ケルト人は自然に「神」や「聖なるもの」を見い出し、畏敬の念をいだく。この小説は映画化され、これまたロングランである。

映画といえば、日本でも旧くは「もののけ姫」、新しいところで「千と千尋の神隠し」の宮崎駿アニメが大興行となっている。こちらも物の怪や神隠しや、超常現象をもってストーリーが運ばれる。そして日本人もまたバックボーンに、自然に対して神や仏、魔物や霊魂をかさねて眺め、崇める民族なのである。否むしろ、八百万の神の言葉があるように日本人のほうが・・・と言うべきか。

テレビで、ネス湖のネッシーやミステリーサークル、心霊写真やスプーン曲げ、果ては「ツチノコ探し隊」など、興味をひきそうな番組を流す。テストが終わった子どもが、息抜きに観るていどの低次元のもの、しょせんは子ども騙しだと決め付ける人が多い。そう決め付けることはたやすい。たやすいけれど、そうじゃないと思えてならない。じつは筆者も好きでよく観るのであるが、あれは「隠れた教育番組」「児童心理カウンセリング番組」ではないかと―。

90年のニューヨーク州のサイコップ(超常的主張に対する科学的調査委員会)の調査で、12年前と比べ、・悪魔はいる 39%→55% ・幽霊はいる 11%→25% ・魔女はいる 10%→14%と変化している。つまり謎が解明され、教育レベルも上がりながら、逆にこうした調査結果がでる。さらには迷信を信じる子どものほうが、情緒が安定しているとの報告も。時代は科学の凱旋に見えるのだが、ほんとうは科学一辺倒のひずみが出て、子どもも大人も、神をも畏れぬ事件をひき起こしている。「ワクチン」として、心理の通過儀礼として「幼児期に怖れを」と、かねてより筆者は考えるのだが―。畏れとは、かしこまる、敬意の意でもある。愚かな行動を起こさないためにも。(02/03/29)

 

『○(マル)のことで―』09

この国の赤いジュウタンの舞台はけんけんがくがく、誠にかまびすしい。エスプリに富んだ議論を高く唱えるアリーナなら見物もしょうが、三人を一緒くたに俎上に、攻撃は最大の防御とばかりに相手の非を攻めたてる。自分や自分の属する政党は巧みに法の目をくぐりぬけ、不正が暴かれなければそれでよしとするバトルはルール違反、公正さに欠ける。世界じゅうから観られていて恥ずかしくないのか、元はと言えば○(マル)のことで―。

お金はむかし、金子とか銀子、御足なんぞと言い、隠語では指で丸をつくって、○(マル)ともいう。これらの言葉からもうかがえるように、お金は貴重なもので、しかも足が生えていて、ひょいひょいと天下を回る代物である。確かに唸るほどあるからといって邪魔になるものでなく、どちらかというと重宝するが、これへの欲望があまりに過ぎると身を滅ぼす。「金が敵」というではないか。財、色、食、名(誉)、睡(眠)と五欲あるうち、きりのないのが財、つまりお金だろう。(その他はすぐに飽きてしまう!?)お金は使い方で浄財になり、逆に汚いものにもなる。美醜はお金そのものでなく、当然ながら、心の係わり方からそうなるのであるが・・。

大きなお金を動かしたほうは、総理大臣か、派閥の領袖でも狙っていたのか。小さめのお金のほうは、秘書や事務費のやりくりのように見える。不思議なことは、なるべくお金がかからないように、もしかかるなら、そもそもなぜに透明なシステムに出来ていないか、作ろうとしないかである。選挙資金を「浄財」としたくない深いわけがあるのではと、勘繰りたくなる。

政治家はお金の入手のほうが問題(犯罪)だが、「入り」が決まってしまっている庶民は、やむを得ず「出」に神経をすりへらす。慎重に考えたつもりが衝動買いをして、悔やむことたびたび。お金はただの紙切れ、しかし、心を惑わす魔物。ビアスは、「手放すとき以外何の役にも立たぬ恩恵物」とのたまう。(02/04/05)

 

『他人(ひと)の痛み』10

身近の人が足をねんざして、接骨医で治療をうけた。全治には二ヵ月かかるそうである。階段でタタラを踏んだ拍子に足元が狂ってしまい、足の甲で着地。目に火花が走ったといい、その後も痛みは引かず、血の跡の暗紫色が足首まで広がっている。

ひと口に痛みといっても、激痛、鈍痛、その他痛刺激はいろいろあるが、痛みとは、加えられた傷害から身体を守る防御の機能の一つ。専門的には傷害受容感覚という組織の「受容器」だといわれている。医学的な痛みのメカニズムはさておき、痛みといっても、その痛みがどのくらいの苦痛なのか、第三者にはなかなか伝わりにくい。冷たいようだが、痛いという言葉はひと先ず棚上げし、表情や動作などから「痛みのレベル」を推し量るしかすべはない。

うろ覚えだが、こんな記事を読んだ。コラムニストの山本夏彦翁が、ガンに冒された奥さんが苦痛を訴えるが、程度が分からないので「松竹梅」に分類して伝えよと提案した、と。松が一番痛く、次に竹、梅は比較的軽いという分け方。奥さんが「松ッ!」と訴えれば、夏彦翁は自身の感じる高レベルの痛みと「痛刺激互換」させて、介護の手筈を考えるというのだ。

「他人(ひと)の痛みがわかる人」とか、「出来ることなら病気を代わって上げたい」などとよくいう。安直な同情で、なんとなく胡乱臭い。なぜなら、他人の痛みなんぞ、しょせん理解できないのだから。夏彦翁のように、たとえ三段階の比喩で、主観を記号化できたにしても。―「痛みは分かってやれない」という認識からすべては始まり、飾らない生き方として「相方」になれるのではないか。

だいぶ以前の話だが、筆者の父が重篤の病床にあるとき、見舞った後のことではあったが、ひとり酒を呑み食らい、エロ・グロ映画を観ながら夜を明かした。画面に現を抜かしつつも鼻チューブが目にちらつき、泣いて親父がよろこぶか?おれは親父の子であって親父じゃないと、しきりに嘯いた。まあ、その頃は、「不条理病」が再発して、年甲斐もなくカミュの世界にのめり込んでいたのだが。(02/04/12)

 

『かこち顔』11

世の中には「自分似」の人が三人はいると、よくいう。三人いると仮定して、一生のうちにその三人と出会えるのか。いてもご対面のシーンもなく人生劇場の幕は引き下ろされるのか、そこまでは喧伝されていない。またこのこととは別に、顔なんぞはありさえすればよいという、ヤケクソの説を唱えるご仁もいる。確かに男が男の面相と向き合うだけならそれもよいが、男が女の、女が男の、女が女のと、パターンを換えてみると事はそう簡単でなくなる。

脊椎動物における顔とは、額から下顎までと、左右の耳にはさまれた部分をいう。脳の貧弱なネコやウマは、ほとんどが顎によって占められる。一方ヒトの顔は、二つの眉を通って頬骨弓から外耳孔をすぎ、下顎をめぐる線でかこまれていて、目、鼻、口などの各パーツを配し、まつげやひげなど、装飾がらみのお道具からなる。さらに筋肉には表情をつくる表情筋群、そしゃく筋群、顔面神経をグルッとめぐらす。サルからヒトへの進化のプロセスで、表情運動が複雑になり、顔面の毛が少なくなり、相手がよく観察でき、こちらからも観察しやすくなった。顔は頭の正面にあるという脊椎動物学上のことのほか、「大都会の顔」と比喩的に使ったり、「顔が広い」などと慣用句的に用いたりもする。

≪なげけとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな≫という、西行法師の和歌がある。

この「かこち顔」は、つれない人が物思いをさせるのを、月のせいにするという、月にかこつける女人のあわれな風情。これとはガラッと変わって、現政権のふくだ何某という官房長官は、人類の進化に抗って表情筋群の使用をケチっているのか、いつも「観察させまい」とする顔つき。徒党の「両面テープ」というお役目はご苦労さんだが、うらめしそうに、つねになにかに、かこつけてなげいている。これも「かこち顔」であるが、進んで見たい風情ではない。あるいは単に、「そらとぼけ」の新種かもしれぬが。(02/04/19)

 

『散文と韻文』12

散文と韻文を、歩行と舞踏にたとえたのはヴァレリーで、けだし名言というべきである。散文の「散」は制限のない意で普通の文章をいい、韻文は文字の排列や音数に一定の規律をもたせるもので、詩や俳句などをいう。なるほど、散文は歩き、韻文は踊っている感じだ。

人は一生のうち一回くらいは、小説を書きたい衝動にかられるという。たぶん青少年期だろうが・・。また一生のうちに、俳句(短歌)の10句(首)くらいは作っているが、作ったことさえ忘却してしまっているという。学校の授業で強制されて作ったか、あるいは戯れに口をついて出たものか。大概はいやいやだろうが、ニホン人は民族的に必ずしも韻文が嫌いでなく、むしろ好きだと思われるフシもある。

和歌・短歌をひもとくまでもなく、流行り歌の歌詞や物売りの口上の、七五調の(流暢さ)、五七調の(重厚さ)の音律は、自然に体でおぼえている。また、野球の投球カウントは「ワンストライク」「ワンボール」と、「ストライク」を先にいう。これは「七五調」で流暢であり、逆に「ボール」を最初にいうと五七調で重厚、というか、へんに重苦しい感じになる。(因みにアメリカは、はじめにボールをカウントする)

音数律というのは心拍や循環器や細胞などと関係があり、たとえば二ホン人は、二ホン人としての音律をもつと、どこかで読んだ記憶がある。そして人はそれぞれ、散文的思考回路、韻文的思考回路があるとも・・。

散文・韻文といえば物を書くのだが、話し言葉、おしゃべりにもそれは通じるらしい。回りくどくディテールを述べる人と、はしょって要点を伝える人と。だからと言って、ニンゲンテキにどちらがどうだと、筆者は言うつもりはないけれど。(02/04/26)

 

『ゴールデンウイーク私感』13

真ん中に三つの「稼働日」の島があるが、ゴールデンウイークの海路はよき日和である。民族の大移動、イベントチャンスだとメディアは騒ぐが、楽しく過ごす人がいて、係わる人のフトコロにお金が落ちるなら、文字通り黄金週間でよろこばしいかぎりだ。もっとも、貴重なはずの「ゴールド」に無関心で、「遊びたいやつは遊べば、カネ使いたいやつは使えば」と、斜に構える人もかなり多い。テレビで高速道の渋滞情報を観ながら、家でビール呑むのがサイコーと、高名な噺家(はなしか)がマクラでしゃべっていた。

365日のうち、「土日祭」が三分の一を超えるから、休日が特段の日であるわけはない。けれどもしかし、休日はちょっとうれしいものだ。筆者は水曜休みの仕事を過去にしていたが、火曜の午後くらいから待ち遠しかったもの。したがって曜日は違うが、土日を待ち望むことや、花金ということばはよくわかる。

その休日が四日、五日とつづくのがゴールデンウイーク。日頃は仕事に明け暮れ、家事に追われ、勉強に打ちこむ日常から逃れられるチャンス。たとえ遠出やイベントに参加でなくても、変化のない暮らしから、「非日常」に身を置くことができようというもの。それが英気を養う。

とはいうものの、特別のことがあまり好きでなく、「日常」に在ることが静謐でよろしいという人もいる。かくいう筆者もそうだ。旅行や催事、お祭は嫌いじゃないけれど、漫ろに心浮きたち、落ち着かない感じになる。日常に得られないことを歓迎しながら、愉しみながら、どこかの部分でつねの自分に戻らなくては、という気がするのである。(矛盾することながら・・)外出による疲れ、体感による疲れ、単にそういうことなのか。それとも性格的なものか。

現在の筆者は、水曜だけでなく、年じゅう休日の身。年じゅうゴールデンウイークだ。羨ましいか?どんなものだ!

けれど、どうしたわけか、今もって水曜日が心待たれるし、その他の曜日はすでにパターン化した迎え方をしている。染みついた「習い性」なのだろうか。小市民的で、われながらアワレっぽい。(02/05/03)

 

『イヌ派ネコ派』14

現代は「ペットな時代」だそうで、ペット的事象が多いのだが、本来のペットショップも賑わい、犬猫ロボットも流行っている。ある連句の席で、「イヌは忠誠でかわいい。なんでネコ飼うのかね」とイヌ派がいえば、「ネコは気高くて媚びないぞ。イヌはワンワン吠えて五月蝿い」とネコ派が反駁する。世のなか二派に大別かと思ったら、「おれはハムスター。食べたいくらいカワユ〜イ」の声。少数派ながら、ヘンテコリンなペットも飛び出した。

イヌは、荷車を引く労役や狩りのお伴、警察犬、盲導犬など役に立つ家畜として人に係わってきた。臭覚や聴覚がとびぬけて鋭く、人になつくのが主たる原因。しかし怪しい奴やイヌ嫌いに吠えるので、「戌亥子丑寅=いぬいねうしとら」とマジナイ三唱すれば、シッポを振って逃げるという。

一方、ネコは古代エジプトのころから神聖化された。妖術信仰のよりどころとなり、とくに黒ネコは魔性の力があるとされ、伝説や怪談になった。一貫目を超えると化けるといわれ、『徒然草』には、「奥山に猫又といふものありて・・」とある。年をとって尾が割れると、化けネコになるのである。

因みにネコは十二支に入っていない。何でも正月にやって来た順に神様が決めるとき、ネズミがネコに日を遅らせて告げたために除外されたもので、以来怒ったネコはネズミを懲らしめるという。連絡はキチンとすべき!

「♪ イ〜ヌはよろこび 庭かけまわり ネ〜コはこたつで 丸くなる」。どちらも多くは癒し系だが、片や室外、片や室内とフィールドを分けるし、性格も陽気・陰気と両極である。この性格が、そのまま飼い主とイコールか否かは詮索しない。なぜなら筆者は「マウス派」(PC)で、障らぬ神に祟りなしを決め込んでいる。(02/05/10)

 

『大食い』15

テレビで大食い競争の番組を流している。すし、ラーメン、ピザなど時限を定めてどのくらい食べられるかを競うもの。食べ放題食べて賞金五千也をゲットしてニンマリするものから、選り抜きの大食漢が集まって、日時をかけて勝ち抜くチャンピオン大会もある。稀代の過食家になると文字通りそれで食っていくというから、この道も「味な道」かもしれぬ。

人が一回に食べられる量は決まっていて、それを「一人前」という。食の進む人、細い人があって実はバラツキがあるのだが、しかしそう極端なものでなく、大盛り、普通でほぼ対応でき、満腹感が得られるしくみである。ところが五人前とか、十人前とかをペロッと平らげると、食の概念が突き崩されておどろきを禁じえない。

世の中には過食症、拒食症という疾患で苦しんでいる人もいることだし、大食い企画はどうか、という反発も聞く。「食は文化だ。餓死寸前の子どもがいるというのに・・」。確かにその通りで、品性のない食べ方は不愉快きわまりないが、物を威勢よく食べる行為に、ある種の爽快感が感じられるのはなぜか。

むかし、ヨーロッパの貴族たちは贅を尽くした宮廷料理を食し、宮廷劇場で肉画などを愉しんだが、腹が一向にすかないので、口に用具を差し入れて強制ゲロ。しかるのち、再び饗応に預かったと物の本にある。食欲はゆりかごから墓場まで凄まじいばかり。そして欲の一言では言い尽くせない、プラスα−がありはしないか。

ジョン・ブープはこんな詩篇を残している。「何の苦もなく過食に慣れた/美食家 暴食の使徒 万歳!/汝の偉大な考案品、生命にかかわることのない 饗宴こそ/人が畜生より秀れた証拠」。

話は変わるが、「食(蝕)する」の語源には覆い尽くす、占有するの意味もあり、月食は月を食べ、日食は太陽を食べること。誰が食っているかと問われれば、月食は地球が月をパクッと食っているのだ。皆既月食は、さしずめ「今宵 地球の大食い」ということか―(02/05/17)

 

『詩集「母が言った」』16

「崖にあまり近寄らないで、母が言った、/と言うもの、そこから落ちることもあるんだよ、落ちたら/この世の終わりなんだよ/お前も知っているようにね、だけど同時にこの世の始まりでもあるんだよ/神様だけが知っているようにね、神様は/お前と一緒にいてもあまり楽しくないだろうね、/と言うのも神様はお前をここに使わしたのも/きっと意図があったんだよ、そうでもなかったら神様は/私にお前を授けてくれるなんてことなかったよ、/だからお前が早まって生命を絶とうとしていることを神様が知れば、/神様はお前を送り返そうとするかもしれないよ、」。以下略(「一度きりでいいよ」)

ハル・シロウイッツ詩集『母が言った』を、共訳者である野上明氏からいただいた。氏は二松学舎大で国際政治経済学部の教授だが、すでにミゲール・アルガリン詩集の邦訳もあり、俳句にも興味を示されて、わたしと戯れに連句(「表六句」)を巻いた。

著者ハルは1949年ニューヨーク生まれだが、一族はユダヤ人で迫害や差別を受けたという。また父親と同じように一時期に吃語症だったそうで、現在特殊学級の教師であることも、いじめに遭った幼少時の経験がそうさせた一因ともされる。(「あとがき」)

この詩集には124編の詩が収載されているが、「母が言った」「父が言った」など身近の人が、相手である「僕」に語りかける対話のスタイルをとっている。しゃべり言葉を多用して飾らず(ときに卑近なくらいで)家族愛や恋人のこと、神や性、ユダヤ人の問題など書いて「告白詩」に類別されるが、ユーモアとアイロニーたっぷり、そして辛らつだ。裸にした「僕」を通じて笑いや、笑いの裏側にひそむ悲しさを表現し、日本ではあまり見かけない傾向の人間味あふれる詩集である。

いくつかの外国語にも翻訳され、ノルウェーでは翻訳詩集としてベストセラーになり、アニメ化されているという。(02/05/24)

 

『17字ワールド』17

うろ覚えでいささか無責任だが、長野県は塩尻近辺の○○峠に、日本一短いお祭りがある。峠の両側の氏子が(年寄りが)10人余集まって、一言二言祝詞のようなものを献じ、キビスを返してそれぞれ村落に散っていく。ローカルテレビで観たのだが、ものの10秒もかからないシンプルな祭礼だった。(仔細をご存じの方は知らせてほしい。ギネスブック収録の有無も)

話は変わるが、詩にも長編と短編があり、イタリアの大詩人ダンテ『神曲』は14223行の叙事詩であり、短い方では「咳をしても/ひとり」(山頭火)が極小であるが、曲がりなりにも独立した短詩形となれば、「14字」(短句・前句付)だろう。

一般的に、俳句は最短詩というカテゴリーに入り、一行詩ともいわれる。なんせ17字ポッチで邪魔になるものでないので、五大紙、ミニコミ、業界紙までもが俳壇をこしらえる。「重い記事」を読んだあとの骨休め、目の法楽をさせようという寸法だ。編集局諸氏、一般の人びとの俳句観はそんなところで、サシミのツマのようなものだと。ま、逆に、そう思わせて置くほうが好都合の面もあるのだが・・。

実作者である筆者にとって、俳句とはいったい何だろうか。それは、「曲面ガラスを任意の形にくりぬいた破片」、ということになる。ガラスは時と場合で鏡になり、屈折していれば別世界を取りこむ。言葉からなる「破片」であるが、宇宙の一端にはめ込むことができ、宇宙からはがすこともできる、と思われるがどうか。

話はまた変わるが、むかし、俳諧(連句)の好きな侍(さむらい)が助詞の使い方の間違いで、凡下(ぼんげ)の首をはねた。「俳諧は助詞一つで首がとぶ」と、まことしやかに伝承する。

たとえ短いお祭りでも、ある人にとっては「ねぶた」より思い入れがあろうし、苦吟の果ての名句が、その人にとってダンテの詩に匹敵する。(と思いこむ)

小さいから仮託できる「17字ワールド」、しかし、サシミのツマと思う人がいて、世の中バランスがとれるかも―。(02/05/31)

 

『キナクサイ風が』18

ある日突然にでなく、気にもとめないうちにズルズルと、あるいは粛々と「正体」が変わっていく。ヒツジの毛刈りは、ヒツジが気付かないように刈りとるのが熟練の牧羊家だそうで、わたしたち、か弱きヒツジはノホホンとしていられない。

非核三原則をめぐって、「憲法の改正も出てくるような時代になったから、・・『(核)を持つべきだ』ということになるかもしれない」と、官房長官の発言。さらに、その発言に「どうってことない」という首相の対応も、おどろくほど悠々としている(内心はどうであれ)。様子見(国民の反応)のアドバルンだという、うがった見方もあるのだが。

ここ数年、歴代内閣が二の足をふんでいた周辺事態法、国旗・国歌法がいともすんなりと制定。そしていま、有事三法案、人権擁護法、個人情報保護法が、「備えあれば憂いなし」という心情的レトリックと、国民を守るという大義名分でハードルを超えようとしている。法律の「表の顔」はいちいちご尤もであるが、ここ3〜4年の一連の流れから、右傾化や言論統制など、キナクサイさを感じないわけにゆかぬ。そういう時代を過ごしてきた者として。

「戦争論」によると戦争とはシステムであり、機能が完備していれば(完備までに莫大な資金、時間を要する)、「ホンノ出来心」で勃発するという。プロイセンの戦略家クラウゼウイッツが、「戦争は、政治関係の継続たるにとどまらず、他の手段による政治の実現である」と規定した。戦争とは、政治的な現象なのである。

世界で唯一の原爆被爆国であり、写真や語り部が悲惨さを伝えてきたのだが、50年もたつとそれらの人も死に、すべてが風化して、戦争の実感のない世代にとってかわる。若手政治家には、有事法制に積極的な人もいるときく。あれほど不戦を誓ってきた国民のはずなのに・・。

喉元すぎればなんとやら、人類は戦争をくりかえして懲りることがない。否、懲りるどころか、筆者には世界の指導者のほとんどが好戦的に思われる。日米トップの、ここ一年くらいの言動の端々に、あるいは言動の裏側に「ドンパチ好きだな〜」という感じが垣間みえて仕方ない。筆者の認識不足、杞憂であればよいのだが。(02/06/07)

 

『ペンネーム』19

女性は心境や環境の変化、失恋などが原因で髪形を変えるという。男もひげを蓄えたり、年端もゆかぬは額にソリを入れたり(?)するかも知れないが、大方は酒や遊興にうつつを抜かし、変化をのりきろうとするのが相場だろう。

ペンネームをもつ現代の文筆家は、ほとんどが同一の名前で押し通すときくが、むかしの文人、画人は一生のうちに度々改名している。改名理由は諸々あるようだが、心境や環境の変化、芸術上の転機、決意というものがあったろうと想像できる。

本名以外のペンネーム、そして代筆、ゴーストライター。果ては覆面で少女小説やエロ話を書いたとされる、売れないころの文豪ナニガシなど、いわゆる名前を伏せるわけ、その呼称のニュアンスも微妙に違う。また俳号は俳人、画号は絵描き、ジャンルがゆるやかな雅号は、風雅をたしなむ人である。

和歌の撰集や柳樽(川柳)などに多い「詠人知らず」は、作者不明の意味のほか、明らかに示しにくい事情の(偉いお方、さるお方とか、内容がみだらで危ないとか)ある場合にも用いられた。

葛飾北斎の幼名は時太郎で、後年は鉄蔵を名乗ったとされる。画界デビューのときは勝川春朗、のちに俵屋宗理(たわらやそうり)を襲名、時太郎可候(ときたろうかこう)とも号した。宗理を家元に戻して、はじめて北斎を使いはじめたという。画狂人、戴斗(たいと)、為一(いいつ)、画狂老人、卍などなど、20数度の改名をした。因みに転居も93回の多きにわたる。

雅号やペンネームはある意味では「仮面」だが、名前が継続することによって、「実面」(実面とは一見おかしいが、仮面があるのだから、対語として実面という語があるべきだと、筆者はかねてより思っている)をも持つことになる。改名は当人にとっては重要であったはずで、古人たちの改名のイキサツや、エピソードを知りたいものである。芸術上のなぞが解けるかもしれないから。(02/06/14)

 

『51円治療院』20

古代エジプトでは、病気とは悪霊に浸入されるとか、神々の争いのとき悪神がもたらす悪い力が原因だと考えられた。また、メソポタミアでは悪行に対する一種懲罰であり、僧侶によって祈祷と治療があわせて行われた。一方中国では、ヒトの体は血と気と水からなり、その三つの流通状態によって病気になるとされた。自然諸原理の作用、陰陽の影響という捉え方なのである。

日本には「病鬼」ということばがあって、人体に病気を起こさせる鬼をいう。また「病魔」は、悪い神や病気の神のことをいい、とりわけ風邪は流行性なので、「風邪の神」という固有ブランドを冠してよばれる。

さて、平成の時代に、病気は悪霊のしわざ、鬼や神の引き起こすものだなどと言っていると、白い目で見られかねない。けれどしかし、無病息災、本復快癒を、神社仏閣に祈祷することに多くの人に抵抗感がないのはなぜか?

「病は気から」という。「気」とは万物の生ずる根元であるが、そこにはむろん「霊」も含まれている。「チチンプイプイ」「イタイノ、イタイノとんでいけ」と呪文をとなえると、痛いのはとんでいくのである。

さてさて、前置きが長くなってしまった。筆者は持病に、慢性の肩こり、肘痛があり、パソコンがそれに一層の拍車をかける。ところが先日、家人から、脊椎の最上部の骨に1円玉、すぐ下に50円玉をならべて貼り付ける医療行為をうけた。さらに、肘関節のまげた個所と、尺骨と橈骨(とうこつ)のあいだに単3電池をプラス・マイナス逆に2本たてて押さえつける。(それぞれの硬貨の含有物質、電流が流れて効果を出すそうな)

痛くも痒くもない、子供だましのオマジナイと小莫迦にしながら受診したが、なんとこれが効くのである。気のせいばかりでなく、たしかに効く。トクホン、バンデリンの世話にならずに10日目。治療はつづいている。

わが家は治療院に変じ、世間では高医療費を嘆いているのに、たった51円で、それも何回でも繰り返し使えるので早い話がロハ。家人の無資格治療からはじまったが、治ればなんのモンクがあろう。なお、騙されるつもりでeメール下されば、詳しい治療伝授に応じる用意がある。(02/06/21)

植物季節』21

今年は例年になく早く「ウメの実」が出回ったそうで、梅雨前にしては入荷が多いと先だって市場関係者が話していた。話変わるが、花好きの友が、「もう、キキョウが咲いた」と驚いてファクスをくれた。5月末のことである。キキョウは秋の七草の一つなのに。

サクラも今年は早々と咲いてしまい、前もって予定した花見は葉桜で、初夏の感じだった。ヒトもそうだが、早咲き、遅咲き、ときには狂い咲きもあるのが草木の花期。季節はずれの花はちょいと珍しく、新聞やテレビの息抜きのニュースネタになるが、こちらは「ほう?」というくらいの関心しか持ち合わせない。

昨秋のことだが、紅葉前線が高地から低地へ、寒い地方から暖かい地方ではなく、工場煤煙や排ガスなどが原因で、町から山へ上っていくケースが多いという記事を読んだ。ちゃんとした資料でなく、気象士や植物学者の半ば実感がいわせたものだったが・・。

大気汚染、ヒートアイランド、オゾンホール、エルニーニョ、さらには「京都議定書」という単語が脳裏にちらつくが、とまれ、実感と実態をつき合わせる作業はなかなか難題だろう。

「植物季節」ということばがある。気候や気象の移り変わりに応じて、植物が示す生活現象の変化をいう。ウメ、サクラ、イロハカエデ、ススキなど観測法の基準に基づいての開花、紅葉が調査され、気象データがあつめられる。農業面のほか、花粉症の予防医学面でも利用価値があるという。

植物は細胞壁をもっていて、光合成を行うことができる生物である。われら動物は細胞壁をもたず、栄養源を主として植物に依存する。動物は移動ができるけれど、植物は根を下ろしたが最後、その地が終(つい)の棲家となる。そして植物は、気象や地球環境の「チェックマン」であることも、おろそかにできぬことだ。じっと動かず、物言わぬモノは恐ろしい。鉢植えにし、水やりを忘れて枯死でもすれば、きっと「根にもって」恨むに相違あるまい。

ジョウダンはさておき、花が咲き、紅葉することは、私たち生体へのシグナルの一つでもあるのだ。(02/06/28)

 

『ルーズ&怠惰』22

女高生などのルーズソックスは、「ルーズ」という言葉を世に喧伝してくれた。ご存じのようにルーズとは、ゆるくてしまりがなく、だらしのないこと、不身持ちをいう。「ソックスはヒザ上まで上げるべき」に反旗をひるがえし、だらしなくはくのが「最高のおしゃれ」といいたいのだろう。

怠惰という言葉があるが、こちらは精を出さず、働かない、おこたること。元気がなく、にぶくなり、なまけることをいう。ルーズと一脈通じる語だが、むろん相違がある。怠けることでルーズになってしまうといえるし、「形が心を養う」という概念からすると、ルーズだから、怠け根性が巣食ってしまうということになる。

『悪魔の辞典』のA・ビアスは怠惰について、「悪魔が新しい罪の種子の実験をこころみ、主だった悪事の成立をはかる模範的な農場」だと書いている。怠惰とは、きれいに耕された畑で、悪のタネの萌芽を待つばかりといいたいようだ。確かに言い得ているが、果たしてすべてそうであろうか、ビアスさんよ!

当HPの「かっぱ句会」に、フランスの青年俳諧師、マブソン青眼氏が飛び入りで投句。よい句なので採り上げさせてもらった。

なんだって怠けるが良い夏の月

技法的なおもしろさはここでは触れないが、筆者は「なんだって怠ける」の語に注目した。ただ単に怠惰ではなく、「遊び心」に通じながら、それとも少し違ういわば積極的な「怠け心」の、人生における素晴らしさを陰で言いたいのでは、と思ったのである。それは例えば、自分が自分自身にご褒美を与え、安息をあたえるというような。

話はかわるが、樹懶=ナマケモノ名の、アリクイという哺乳類がいる。緩慢な動きで木の枝にぶら下がって生きている。動作が鈍いからといって、こんなネーミングでよかったのか―。

しまりなく、だらしないルーズ。精を出さない、動きのにぶい怠惰。どちらもマイナスイの性情だが、ひるがえって、こせこせとコマネズミのように働き、合理的にきちんとしなくてはならない現代社会のしくみ。そこにストレスがしのびよる。

アンチテーゼとして、アリクイの愚頓さ、ときに何もせず能動的に怠けることが現代人の心の解放となり、ララバイとなる気がするがどうだろう。(02/07/05)

 

『お化けルネサンス』23

夏はお化けや妖怪の季節で、本屋にはそうした類の書物がならび、テレビの特番、映画、演芸などが興行される。怖さに肝を冷やすことは消夏法のひとつで、むかしは『百物語』が行われた。ほんとうは目をこらせば、冬でも春でもお化けは確認できるのだが。

科学にすべて解明され、暗闇をフィールドにする化け物たちは、現代生活の光の洪水に消滅するかと思いきや、執念ぶかく跋扈(ばっこ)し、夜行(やぎょう)している。一部に流れに乗れずに衰退した眷属もあるが、ウイルス、クローン、オゾンホールなど、おどろおどろしい妖魔の新種も報告されているのである。

お化けや幽霊、妖怪や物の怪は、この世や人に対する怨念であり、執着であり、死生観を通して恐怖心に訴えかけてくるものだ。そしてそれが、人間の意識の暗い闇に存在し、息づくものであるとするならば簡単に途絶えるものではない。これからも有形無形、さまざまな「妖しい正体」を生みつづけていくだろう。

多くの絵師たちが、なぜに怪異で醜悪なものの姿をこれほど描いてきたか。どうしてこれほどまでに、『源氏物語』はじめ、戯作や狂歌、能狂言、歌舞伎の素材になったか。凄惨な姿の裏側にひそむ悲壮感、哀切感、怖さが裏返してみせる可笑しさ、諧謔。それらを通して日本人の感性や美意識、想像力が掘り起こされていたものと思われるのであるが・・。

お化けや妖怪はおしゃべりでなく、言葉が至ってすくない。幽霊は額に白い三角巾をつけ、両手首から先をだらりと垂らして、「恨めしや〜」とささやくだけ。「カクカクしかじかで、恨めしいぞえ〜」などと言っていたら、相手に正体を観察されてしまう。物の怪やタヌキは化けるときに音を発するものもあるが、暗闇からヌッと現われるのが多数派。やつらはノンバーバル・コミュニケーションで(言語によらず、表情や視線、ジェスチャーなどの身体動作で、時間や空間、色彩効果を利用して)、コンタクトをとってくる。怖がらせて何かを必死に訴えようとしている。視覚的で映像的であり、より現代にふさわしい姿かたちの「文化遺産」であるのだ。

ところで当ホームページ「かっぱ句会」では、納涼「お化け俳句」を募集している。短詩形はもっともお化けを捉えにくい形式だが、イマジネーションの新脈が掘り当てられればと期待している。

江戸時代には、お化けの芸術が豊かに花咲いたのであったが―。(02/07/12)

 

『ちょうねんてんやねん』24

ある兄弟がいた。出来は甲乙つけがたかったが、両親は兄が大学卒業近くなると、地元県議にたのみこんで一流企業に就職させた。弟のときも両親は同様の手立てをしようとしたが、イッパシの正義漢ぶった弟はそれを拒み、小さな出版関係の職に就いた。

ほとんどの県議や国会議員は、公共事業と業者との「陳情システム」を利してメシの種にし、就職の口利き、交通違反のもみ消し、冠婚葬祭で顔を売りながら地盤・看板を築いていった。現在では一部、許されなくなりつつあるが・・。

利益誘導、口利きがなぜ悪いといきまく政治屋がいまもいるが、その恩恵にちゃっかり預かっているヤカラも看過できない。

地方自治制度では、知事も都道府県議員も選挙で選ばれる。したがってどちらも「民意」である。ただ制度上知事がダイレクトに選出されるのに比べ、議員は多くが中選挙区制で選ばれるので、旧勢力が残りやすい。民意が更新されていくプロセスに遅速があって、矛盾が生まれるのである。

県議選ともなると義理堅い「ある兄弟」の兄は、世話になった議員の応援をするし、知事選にもかかわり、「あわよくば再び・・」という考えもある。一方弟は、選挙に興味がないわけではなく、草の根型の選挙ができて、明るい未来が拓ければよいと思っている。

いま、「長野の変」とメディアに騒がれている。長野県がゆれている。病名でいえば「腸捻転」、わざと浪花言葉で「ちょうねんてんやねん」とタイトルをつける必要もないが、二つの民意が捩じれにねじれている。これはひとり長野県に限らず、他県でも県政の運営において似た状況のところもある。

ことは重篤であるのだが、県会がスムーズに運営されるよう双方とも折れ合ってなどといわず、これは「デモクラシーの腸捻転」だから、嘔吐なり、吐糞なり、瀕死までノタウチマワルがよい。県民はへこたれない。兄弟の生き方についても、雌雄を決するべきだろう。(02/07/19)

 

『ビアス伏魔殿』25

外務省は伏魔殿だとうそぶいた外務大臣がいたが、その前大臣が、公設秘書の給与ピンハネ疑惑を報道され、所属党機関の調査により、党員資格停止2年という措置をくらった。

発覚から4ヵ月近く、弁護士や公認会計士など使って関係のファミリー企業の経理資料等を調べあげ、みずから申し出て政治倫理審査会で弁明という段取りになったが、疑いをはらすどころか、逆に疑惑を深める結果に。

例外はあるが、真実は明々白々なものであることが多く、無理して帳尻あわせをすると、思わぬところから綻びがでる。事実をねじ曲げて取り繕うことは、建具やさんが修繕して帰ると、他のガラス戸が動かなくなる、ボロヤの建て付けに喩えられるようなもの。雨漏りして、隙間風が吹きこむ弁明の場になってしまったようだ。

A、ビアスは、『悪魔の辞典』で次のように述べている。「伏魔殿」とは、

「文字通りあらゆる悪魔のいる場所。ところが、彼らのほとんどが、政界、財界へと逃げてしまったので、この場所は現在では声の大きな改革者(オーディブル・リフォーマー)によって講堂(レクチャー・ホール)として使用されている。彼の声でかき乱されると、古代の雷同者たちが彼の世にも名高き誇りにきわめてふさわしき、それ相応のがらんがらんという音をたてる」。

外務省に悪魔がいるかもしれないが、政界にも悪魔が逃げ込んでいて、これに敢えて個体名をつけるなら、「一反木綿」。巧妙に企んだ政治の金の流れなんぞは、大きな白い木綿でクルリンパと包み隠し、見えなくしてしまう。真実を隠してしまう。そういう魂胆だったと勘ぐられても仕方あるまい。

「声の大きな改革者」とは、「自民党をぶっ潰す」とノタマウ小泉総理で、講堂とはさしずめ国会議事堂だろう。

それにしても、すべてを見抜く慧眼の士、ビアスに改めておどろかされる。(02/07/26)

 

『差別表記について』26

日本では動植物に、蔑んだ、あるいは珍奇な名前がつけられる例が多いという。たとえば「チビクモヒトデ」「メクラチビゴミムシ」など、現在の感覚では問題の起きそうな名称で、じじつ、博物館などには抗議が寄せられるときく。そうした差別的和名への抗議はほっても置けず、名前の言い換えなどで対応しているという記事を読んだ。

「バカガイ」は新鮮なら生食でも食べられる貝で、貝柱とむき身とに分けて売られているが、なかなか美味いもの。別名アオヤギという。「バカナエビョウ」は馬鹿苗病の字をあて、葉が細く淡黄色になって徒長する稲の病気だ。「ヘクソカズラ」はヤイトバナのことで、むかし子どもがお灸のまねごとをして遊んだ。変な臭いがする。「ヘコキムシ」は危険にあうと悪臭を発し、これが皮膚につくと黄色のしみとなる。

これらが博物館に展示されているか否かは筆者は知らないが、こうした呼称が差別表記で問題だというのは、どんなものだろう。軽蔑・揶揄する呼称だからと言い換え、気が収まるだろうか。時代が変わると再びの言い換えという事態になるだろう。それに学術的にも認められているものだし、文学的にもすでに古典にかたちを遺しているのだ。

突然言い出して「差別表記」ということばで封印してよいものか。国際障害者年の制定などから、一部障害者とそれに善意めかして同唱するものが言葉狩りをしているらしい。むしろ言葉が刈られることで、差別の根源がすり換わってしまうことのほうが恐ろしい。

ガラパゴス諸島の「アホウドリ」は、陸上動作がトロイからと阿呆呼ばわりされようが、特別天然記念物。「メクラアブ」は盲目的に突進するけれど目はみえるし、「オケラ」は一文無しといわれてもゲンキで、ゲンキンなど欲しがらない。

言葉のもつ毒と薬、両義性を捨てていくと、たんに文章力とかボキャ貧というレベルでなく、日本人の資質に係わってくる。

逆説的にいうなら「ダイトウリョウ」など立派な差別語だが、しかしこれも「ヨオ〜ッ大統領!」という掛け声は、大らかなオチョクリだ。言葉は多面体なミラーボールでなくちゃならんと、しきりに思うのである。(02/08/02)

 

『親の光は七光り』27

  にぎにぎを覚えて地盤継ぐつもり   詠み人しらず

これは、当ホームページ「ばればれカッパ」に掲載の某氏の川柳である。ご存じのように「にぎにぎ」とは幼児語で、手を握ったり広げたりすることをいう。金権体質の政治家に子がうまれ、乳呑み児の時期から(金権を)握ることだけは抜きん出ていた。立派に地盤が継げると皮肉ったものである。

政治家は地盤・看板が何よりだいじで、二世議員、三世議員と代々継ぐことが多い。それが延延とつづくと血統がよいだの、サラブレッドだのとメディアが誉めそやす。同族を含めると40に近いパーセンテージを占めるといわれる。すべてが苦労知らずのろくでなしとは言わぬまでも、「撒き餌」をして取り込んだ有権者に推されて当選、こんな人がと思われる政治家がごろごろいる。例えば、親から「英才教育」ならぬ「収賄教育」を授かったような・・。

歌舞伎役者、能狂言の一門の継承や相伝。家業や社長などの引き継ぎ。はては作家や画家、歌手や落語家などのエンターテイメント、実力世界のはずのスポーツ選手までもが、そうした「七光り恩恵」にあずかっている。そしてこれは今に始まったことでなく、日本だけの特殊事情でもない。本当に力があるなら問題ないのだが・・。

DNAをしっかり受け継ぐ秀才もあろう。またがらり変わって、親の代に有形無形の資本投下したから、ムダにできないという事情のご仁もいよう。ひと括りには出来ない話ではあるし、そんなのは自然淘汰されると決めこむのもいいが。

しかし、つらつら思うに、社長に役者に、ときには作家に歌手に、親の才能を希釈しただけの人も少なくからずいる。世間は先入観でものを見て本質がつかめない傾向がある。それは廻りまわって、世の中を「非活性」させ、あらゆるジャンルにヘドロが増える。

「野にある才能」を発掘しない限り、間違いなく硬直していく。小説や絵画、流行り歌や落語がつまらなくてなってしまうのは文化的損失だけですむが、政治家の資質劣化は日本の計り知れない損失。すでに累積損失が大きいというのに。(02/08/09)

 

『一つお化けの話でも・・・』28

というわけで、時節柄このコラムに採り上げてみた。「お化け」という言葉は、ばけもの、へんげ、幽霊、妖怪など奇怪なものすべてをひっくるめた、いわば「汎異界」に棲息するものどもを現わす語である。その次の区分けとして、幽霊と妖怪に大別され、柳田国男が『妖怪談義』で定義したように「相手をこれぞと決めて現われるのが幽霊」、「出現する場所の決まっていなのが妖怪」ということになる。(異界のことだけに異論はあるが)

お化けとお付合いはご免こうむるという人でも、幽霊は人間の霊魂がなせるしわざで、妖怪は動物や器物の霊だということくらいは認識しているのではなかろうか。平成お化け事情として、おどろおどろしい幽霊族が敬遠され、怖いけれどどこかひょうきんな妖怪族に人気があるといわれる。

ご存じのように、霊には死霊(しりょう)と生霊(いきりょう)がある。死霊は人に祟りをする死者の怨霊、生霊はげんに生存していながら人に祟りをもたらす怨霊をいう。特定な相手を狙い撃ちにする政敵や学校のいじめなど、現代社会のひずみやストレスで生霊の霊力がパワーアップ。したがって相対的に死霊の怖さや力量が低下したという、社会科学的な立場で唱えるY氏の説がある。

一方で妖怪の人気の高さは、アイドル系としての癒しと、場所を選ばずいきなり現われる通り魔的なドッキリ性が、刺激に飢えた現代人に受け、また精神解放にもつながるという説も。

わたしたち人間の弱さや醜さの陰の部分である幽霊、動物や道具類から発して人に憑依する妖怪などの姿かたちは、当然ながら時代とともに進化していくものだ。陰であるかれらが「虚のシグナル」を見落とすことは、陽である「実のシグナル」の意味をも見落とすことであり、わたしたちの精神構造の大きな欠落につながると筆者は思うのであるが―。

折しも旧盆。幽霊は仏教と特段に関係はないのだが、霊のラッシュアワーではある。迎え火、送り火、霊は言葉にならないことばを発するもので、心して耳を傾けるべきである。

宣伝めくがが、「納涼お化け句会」を当ホームページで公開中。ご来訪を待っている。(02/08/16)

 

『ナニナニ隠し』29

「隠し」とは、つつみ隠すこと、囲い守ること、また、その人のことをいう。守護することをいうのであるが、ポケットのことも隠しと称する。

「隠し絵」は、絵のなかに他の絵をそれとなく描きこんで、ある意図を狙ったもくろみ。また「隠し金」とは、隠しもった金銭、公にしないことにより有効性が発揮できる資金をいう。さらに「隠し女」という言葉に対して、この国は古来より男女同権だったらしく、平等に「隠し男」なる言葉もちゃんと存在する。

それはさておき、「ナニナニ隠し」の策略がしきりと行われている。現今話題の「長野の変」において。

すなわちダム隠し、政党隠しである。ダム問題が一部の候補者において公約等で避けられ、ぼやけているが、知事不信任のきっかけとなった「知事VS県議・首長」の対立軸のポイントを曖昧なままで選挙に臨むのはもってのほか。曖昧のまま打って出て、当選してから勝手にされてはたまったものでない。

そしても一つ、投票日の接近につれて様相を変えてきたとは言い条、どの候補も市民派だの勝手連だのと標榜し、この県には政党がないかと錯覚させる。支持する政党なしが60%くらいだから、「支持する政党なしという政党」を立ち上げたらどうかと、皮肉の一つも言いたくなる。隠すということばには、公表できない、よこしまな、恥ずべきことというダーティーの意がふくまれる。自民はおろか、民主も社民も人にいえない恥ずかしい党というわけ。強固な看板の共産党までもが勝手連的と言いつつ・・。

汁粉は砂糖で甘みをつけるが、これに塩を少し加えると甘みが強くなる。反対にワサビをすって砂糖を加え、包丁の刃でたたいて混ぜると辛みが増す。浸透圧で、ワサビのアリルイソチオシアネートが出るためだ。これら塩、砂糖が隠し味の役目をする。

日本料理の隠し味は食文化の極意だが、選挙の手前で毎度行われる

「塩・砂糖のさじ加減」「弁舌の包丁捌き」、つまり「ナニナニ隠し」は選挙民をあざむく「めくらまし」であり、われわれ有権者は愚か者かもしれないが、それにしてもひどいものだ。

因みに、インターネットも選挙違反で取り締まるという通牒が流れてきた。せいぜいこの程度のことしか書けなくなった。やはりゆっくりたしかにあともどりしている、戦時へと。―これは余談だが。(02/08/23)

 

『仙人として仙女として』30

例外はあるにしても、年齢をかさねると食が細くなり、脂っこいものが摂れなくなる。体調はさして悪くないのに酒量がめっきり減り、「もうお飲みになりませんこと?」と怪訝な顔をされる。

八十八歳で亡くなった筆者のおやじの晩年も、箸につまむほどのご飯や、一口に満たない魚の切り身を残した。「やあー、食べられねえなア」と言いつつ。

おやじについてもう少し筆を加えれば、手に持った徳利や汁碗を粗相してぶっつけても容器は壊れず、中身がちょっとこぼれるだけで大事にいたらない。それは、動作のにぶい分だけ衝撃が少ないということらしい。食事だけでなく、細胞や組織の代謝もスローモーなのか多少の擦過傷では出血せず、痛感覚の反応もにぶくて「そう言やア、怪我したような気もする」と心許ないかぎり。

神経や感覚がトロクなり、ごく軽微なボケもあって、ボケとトボケの境界線もあやふやになってくる。

「自然」である肉体が加齢によって鈍重になってくると、放し飼い状態だったワガママな心根、いわば「放牧」のなれの果てののんびりしたところ、のろのろした行動。しかしながら、それは責められることでなく、筆者には人間的な愛すべき性情のように思われるのである。

心身をピリピリさせて生きてきて、まるで神様が「逆スキルアップ」させたような最晩年。これはいうなれば「仙人化」であり、介護はちと大変だが、一つの安らぎの姿に相違あるまい。

仙人(因みに女性の場合は仙女)だから、こってりした食物は避けて「カスミ」を食べていればよいのだし、『久米の仙人』ではないが、川で洗濯する「女の脛=はぎ」を眺めるくらいの刺激で御の字。ヘアヌード写真集なんぞ、とんでもない話である。枯れてふわふわと軽くなったほうが、最期はなにかと好都合。そうなるのが理想のような気がするし、じじつ多いのではないか。(その逆もいるが)

今年もまもなく敬老の日。ちょっと前には山に捨てたのに(姥捨)、時代が変わってとつぜん、その日だけチヤホヤされ、老いを敬するといわれても面食らうだろう。どこかの仙人が言っている。「尊敬するならカスミくれ。尊敬するなら金をくれ」。(02/08/30)

 

『タマちゃん騒動』31

アゴヒゲアザラシのタマちゃんが、メディアに騒がれている。多摩川で発見されたことからの命名で、本家本元の猫のタマちゃんは、これは我が輩の名前の詐称で、ニャンとしても許せないと息巻いているそうな。

アザラシは主として寒帯の海にすみ、陸上や氷上にもあがり、出産もする。陸上ではひれ状の四肢によらないで、身をくねらせて移動する。縄文時代以降に日本沿岸にはあまた棲息し、根室市の温根元(おんねもと)遺跡では骨や歯など発掘された。

タマちゃんも少なからず汚染している淡水の遊泳ばかりでなく、岸辺や陸地へ身を置きたい本能もうずくに違いないが、ギャラリーやコンクリートの壁に拒まれ、橋桁にまどろむ生活を余儀なくされている。

汀(みぎわ)、渚(なぎさ)などの水際を現わす言葉があるが、水と陸とがつながる波打ち際は、生き物にとって非常に大事な場所である。また河川のコンクリート化や、堰などの水位の段差がサケ、ウナギなど「生育過程」で水域を換えるものにとって、大きな障壁を作ってしまっている。さらに水陸両性の小さな昆虫たちにおいてもしかり!である。

さて、ところ変わって、山岳の高速道がタヌキの穴蔵を寸断してしまい、とまどったタヌキが車に衝突死したことがあった。獣道とは獣の通る道のことだが、獣が生きていくための道と認識しなくてはならない。ウナギや昆虫、タヌキの命を軽んじてはならない。タヌキはタヌキだが、同時に人間であるのだ。生体として、環境に生かされている生き物として―。

「コンクリート」、コンクリートに水際や野山がガチガチに固められると、これを越えられない生き物は生きる道を閉ざされる。「コンクリートの壁」の人間にとってのプラス面はあろうが、自然環境への大きな負荷は看過できないことだ。

タマちゃんも、死んだタヌキも環境へのメッセージであり、警告である。(02/09/06)

 

『トップ記事とベタ記事と』32

大きな出来事が起きれば、当然ながら新聞に採り上げられ、大見出しになる。何号活字か知らないが(最大初号から、最少8号までの9種類あるという)大きな文字が派手におどり、耳目をひきつける。だがたとえば、大きな事件が複数、あるいは同レベルのニュースが二三勃発した場合、新聞社によってトップ記事のヘッデイングにばらつきがでる。各社編集会議をもって、デスクがどれをトップに打つかを決定するのであろうが。

ご存じのように、新聞には一面とか二面とか、政治や経済、社会や家庭、文化欄などのページがあって、それぞれ紙面にも二段抜き、三段抜き、囲み記事などがある。どれをトップで、どれをベタ記事にするかも、編集に携わるものが決め、むろんそれなりの考えあってのこと。けれど、公正を期しても主観の入りこむことは避けられない。しょせん人間のやることだから。

新聞とは主として、時事的なニュースを取材し、論評して読者に伝達する。特殊な新聞や(宗教、政党の機関紙etc.)、特殊な時代(戦時下など)をのぞいて、公共性の高いことが求められる。しかし結果的に、果たしてそうだろうか。「公正」「真理」「正義」などというものは、一筋縄ではゆかない。世のなかには一見公正、一見真理がなんと多いことだろう。

トップ記事の扱い、ベタ記事の扱い、つまり「報道の軽重」を、当該新聞社はどう考えて編集しているかを、心の隅で検証して読まないと大切なものを見落としてしまう。

A・ビアスも『悪魔の辞典』で、(真理)とは「願望と現象を巧みに混合したもの」と述べている。真理というものは、じつは、胡乱なかたちをときに見せるものなのだ。

筆者は紙面の下半分に目がいく。いわゆるベタ記事だ。どうかすると新米記者が、没になるのではと不安で書いたものだろう。足は使ったけれどインパクトがという・・。

それを自分なりに他のニュースにつなげると、見えてくるものがある。確かにそういうものがある。(02/09/13)

 

『歳時記からアニミズムへ』33

秋は心さわやかで、もの想いにふける季節であり、「ホ句の秋」などという。俳句の一つもひねる環境らしい。俳句を嗜むことのない人でも、歳時記の存在は知っている。

歳時記はご存じのように、三・四千の季題(季語)をかかげ、時候、天文、生活、動植物などひろく網羅している。写真入りの豪華本から、最近では「電子季寄せ」もあってスピーディに検索できる。

「蛇穴に入る」という季題がある。ちょうどこの時季、ヘビは穴に入って冬眠する。また別立てで「穴まどい」の季題もあり、これはヘビが穴に入るのに躊躇、徘徊するさまをいう。

嫌われものの筈が、なぜに季題となったか。それは不吉だとか執念深いという負のイメージと同時に、神やその使いだと称する伝承、説話などの古典をバックにしているためだろう。

「吾亦紅」と書いて、ワレモコウという季題もある。漢方では地下部を乾かして血止め、解熱剤になるそうな。「吾(われ)も、亦(また)、紅し」と解釈するこの名前。じつはジャコウソウ、オケラ、カルカヤも同名。「秋はみんな紅葉するから、お前だけ紅いといばるな。おれだって紅いぞ!」という語源か。

さて、話はとぶが、アニミズムという信仰がある。自然界のすべてのものに霊魂や精霊が宿り、諸現象はその意思や働きによるとするもの。信仰のレベルでなくても、昆虫をやみくもに殺し、花を乱暴に踏みしだくことがためらわれるのは、そこに命や霊を見出すからとも。(殺し、踏みしだく輩も多いけれど)

古来よりヘビに善悪両義を見、さまざまな想いを託し、植物の呼称にさえ感情、情緒を込める。(吾亦紅は必ずしも当たらないが、擬人的な名の草木は枚挙にいとまがない)

歳時記はアニミズムにつながる通用門である。それは季題を通して自然という霊魂にふれこと、どうじに、「よろずの神」にふれることかもしれない。(02/09/20)

 

『曼珠沙華』34

「♪紅い〜花なら曼珠沙華 オランダ屋敷に雨が降る 濡れて泣いてる ジャガタラお春〜」(西川如見の潤飾した『長崎夜話草』を下敷きにした歌謡)。

筆者は幼いころ、当時の流行り歌であるこの歌をよく聴いた。異国情緒をただよわせ、少年のセクシュアリティーをちょいと刺激するものだった、と今にしておもう。

曼珠沙華は東北地方南部から沖縄までひろく分布し、地下茎にアルカロイドのリコリンという猛毒の成分があり、湿布剤、利尿の薬効があるといわれる。この植物が田んぼの畦や墓地に多く植えられているのは、ノネズミ、モグラが土手に穴をあけ、また土葬の遺体を食い荒らすのをリコリンの毒素が防ぐためである。

曼珠沙華は彼岸花ともいい、仏教では天上に咲く花で、梵語の四華の一つにかぞえられ、見る者の心をやわらかく、優しくさせるといわれる。が一方で、死人花、幽霊花、捨子花、狐花など不吉な呼び名をもつ。茎を30センチほどすくっと伸ばし、真紅の針金のような花をつけ、すぐに消え失せて棒状になってしまう。咲きかたも他の植物と趣を異にする。

「信濃には曼珠沙華の花が少ないですね」と、この地を旅された句友のHさんに訊ねられた。確かに見かけはするが、他県よりもきょくたんに少ない感じがする。強烈な花色、やや特殊な生育形態、そして何よりも人をおどろかす「異称」から、筆者はあまり好きになれないのだが、しかしふしぎな、妖艶な世界にいざなう魅力もある。一植物に対して、これほどまでに相反する感興をいだかせるのは珍しいこと。人びとが、この花を、どんな風に眺めているか知りたいものだ。長野県に少ないということも併せて・・。

  まんじゅさげ蘭に類ひて狐啼く  蕪村

江戸以前の古典や文献には曼珠沙華はなく、発句では与謝蕪村が日本で最初だとされる。さすが蕪村である。

  めぎつねの爪先跳びや死人花  硯水

(02/09/27)

 

『B級スパイ映画』35

いわゆる拉致事件がテレビ、新聞をにぎわしている。8件13人の拉致認定者のうち8人死亡、5人生存というかたちで北朝鮮がリスト提示した。長い期間におよぶ拉致疑惑がこうして明るみに(一向明らかでないが)出たのだから、ビックニュースは当然のことだ。

死亡の中身は病気、ガス中毒、交通事故であるが、13人中の8人はいかにも多い。また遺骨は洪水で墓が流れたとか、ご丁寧にも二度火葬したため何も残っていないという。生存者からの聞き取りも、家族への手がかりなのに、必ずしも感情がストレートに伝わって来ないのは何故か。

それにしても、と思う。テポドン所有の菜っ葉服のおじさん、キムジョンイルは演出も監督もなんて拙劣だろう。映画大好き家系で知られるけれど、台本が疎放でストーリーに破綻をきたし(強引に合わせようとするが辻褄合わず)、まるで子ども騙し、B級スパイ映画の範疇にも入らない。

ミサイルをもつ独裁者でも、いな独裁者だからこそ、観客が、そして人間が理解できず、結果がさっぱり読めないらしい。

連日にわたってマス・メディアが事件を検証し、真相に迫ろうとしている。ときに検察、ときには推理の視点で追い、11人の経緯の詳報など、どうかするとオムニバス映画を観る錯覚に陥る。そう思われるだけ、いまが平和である証しかもしれないが・・。

拉致した者たちを「招待所」において、現実体験させたと報じられている。「現実体験」とは、いわゆる洗脳のことらしい。20年から30年もの年月をかけて、ある者は婚姻などの実生活を伴って現実体験を積んだとすれば、日本に残された遺族とは考えや思いが、必ずしも合致するとはかぎらなくなる。聴取の場で本心が吐露できない状況も考えられるが、すでにかなりの部分で、「北朝鮮の人」になっているのだろう。そう思われてならない。

「一人の一生」という舞台で30年もすれば、かなしいかな、拉致事件は大半が終わっている。幕は下りかけている。

ときは流れて、人は変わる―(02/010/04)

 

『獣語・鳥語について』36

「イヌ語の翻訳機」と称するものが、タカラから売り出された。報道によると、イヌの鳴き声の約200種から意味、感情などを読みこんで、小さな液晶画面に日本語表示するもの。たしか14800円だそうな。やっぱりというか、やっとというか、そんな感興をおぼえる。

字書にはないが、「獣語」「鳥語」という言葉が文学作品には少なからずあらわれる。イヌは紀元前9500年ころから、動物のなかでいちはやく家畜化したのだし、ネコはそれより遅れるが、二種類とも人間と密接な関係にある。獣の言語の「獣語」があるとのべたり、獣が感情を現わすなどというと白眼視され、一部の人の造語、一部の研究者の戯言と見なされてきた。が、むしろ、こうした部面での学際的研究の非協力、怠慢さこそが指摘されてしかるべきだろう。

シャルル・カレは『言葉の秘密』(1929)で述べている。

「はるか時代を遡り、猿人がその知能を開花させ言葉が生まれる神秘的で叙事詩的瞬間に降り立つとしょう」。「その猿は<ムー>と低く唸った。あるいは<ルッ、グル、クル>かもしれないし、歯をかみ合わせてぎしぎしいわせながら、荒々しい憎悪に唇を引き攣らせ」「これらさまざま音は、疑いや怒りの現われだが・・「歯」や「咬みつき」や「争い」を示す名詞になっていく」と主張する。

サルやゴリラなどの、言語学に係わる部門での研究をした彼は、音素には本来表現力があるという考え方の支持者だ。

イルカ、クジラなども知能指数が高く、多くのパターンの鳴き声や動作や表情をみせるといわれる。人間がそれを、人間のモノサシに当てはめて言語だというのはやや性急だが、少なくてもリサーチする必要はあろう。

千葉大の岡ノ谷一夫助教授によると(朝日新聞「言語の起原」)、ジュウシマツは「チユチュチュ、ピチユー」と耳慣れない鳴き方をして求愛するという。「歌うたびに並べ替えており、特有の文法的パターンが認められた」。そして、「複雑な文法構造を操る人間の言語能力も、音声による求愛行動から派生したのではないか」という仮説を立てる。

―「鳥語」については、いずれ改めてここで採り上げたいと思う。(02/10/11)

 

『コンビニ考(1)』37

「コンビニ」とはコンビニエンスストアのことで、食料品を中心に品揃えしたセルフサービスの小型店であり、住宅地に近い立地、年中無休、長時間営業の利便さを特色とする。(これくらいのことは誰でも熟知しているが、一応「コンビニ定義」として業界からいただいた情報であるので掲示する)

こうした形態の小売業の歴史はアメリカからの上陸で歴史は浅いのだが、アッという間に日本全土を席巻し、店舗も名称もいまでは知らぬ人がないと言ってよい。

コンビニという業種の「先代」は何屋さんかと問われると、俄かには返答に窮する。が、敢えていうなら飲食店、駄菓子や、酒や、小間物や、雑貨商であろうか。ここ20年くらいの間に、町や村の小さな店が一挙に淘汰され、コンビニに収斂されたといっても過言ではない。(郊外型スーパー、デパートに吸収された部分もあるが)

零細な商店は、セブンイレブン・ジャパン、ローソン、シーアンドエス、ファミリーマート、ミニストップなど主要コンビニに取って代わり、いたるところ洋風な佇まいを見せている。弱小が力のあるものに押しまくられて淘汰されるのは、自由経済のもとでは詮方ないことと商業者は諦め、一方で、消費者は歓迎しているのではなかろうか。

小売業におけるコンビニの位置付けとか、将来性などを検討する気は毛頭なく、筆者がここで述べたいのは、「コンビニがもたらした社会現象、社会心理学」である。(これはちと、大上段にかまえ過ぎた。ま、「ちょっとした現象」という程度のことであるが)

コンビは深夜営業が売りであり、24時間営業の店舗もある。従来の小店は夜の7時から8時には閉店したので、これは画期的な出来事であった。昼夜いかなる時間帯であろうと、明かりがついて営業している。夜は町も村も、不夜城になった。

ライフスタイルの変化が店を生んだか、店がライフスタイルを変えたか。これは「ニワトリ・タマゴ論争」になってしまうが、それはともかくとして、「夜に眠らない人」の数は有史以来だといわれる。その功罪は?功も罪もあろうが、昼夜逆さまに生きる生体のについて、専門家のなかで有害の部面があるとされる。これもコンビニ影響なし、としない。(02/10/19)

 

『コンビニ考(2)』38

「買い食い」という言葉があり、子どもなどが菓子等を自分で買って食べることで「学校帰りの―」とフレーズが付いたりする。不良とまでは言えなくても、躾の悪い家庭の子がするというのが通例だった。が、いまでは普通の子もしているし、大の大人も堂々と買い食いして憚らない。

コンビニの商品構成でおもきを置くのは、お弁当、飲み物などの食料品。たとえばポリ容器の魚、肉をメインにしたご飯、おにぎり、サンドイッチ、おでん。飲み物では牛乳、ジュース、発泡酒etc。おまけに、おつまみ、ケーキまである。それがどうした訳か、どれもなかなか旨いのである。(どうした訳か、なんぞと書けば業界から叱責されそうだが)むかしは大衆向きの食堂や菓子類は、不味いというのが通り相場だったが・・・。

「お袋の味」という言葉もある。味もさることながら、調理するお袋の姿や心が、おのずから味蕾を刺激して温かさが言外にある。「母は食を作ってくれる人」であるが、そういう意味でのお袋が少なくなった。それに取って代わったのが、「コンビニの母」。ポッケに小銭があれば空腹を満たせるし、食を通してのサロゲートマザー(代理母)に抱かれるというものだ。

コンビニの車留めの地べたに、ペタンと座り込んで物を食らう子弟を、見苦しい、情けないというのはたやすい。しかしあの場所は言ってみれば「母のふところ」、安心していられるのだろう。そんなふうに思われて、筆者などいささかの共感と哀憐を覚えてしまう。

手をかけないで済ませる便利な惣菜、チンするだけの多品種の食品。ファーストフード、手っ取り早い居酒屋なども、「ご飯ですよ!」と声をかけるおっ母さんだ。なかんずく「コンビニの母」は、子どもたち、大人たちの食の嗜好を大きく変えた。母性観さえも―。(02/10/26)

 

『コンビニ考(3)』39

「買い回り品」とは、呉服や耐久消費財のような品質、価格に念を入れて比較検討する商品をいうが、「最寄り品」は逆に、消費者がそれらのことを気にせず買い求める商品をいう。コンビニは後者を買う代表格である。

コンビニには、文房具とかフイルムとか、電池、ハサミなど少量で多品目の品があるのだが、お客さんは自動車か自転車できて、さっと買って帰っていく。歩きの人は比較的に少ない。「ドアからドア」(自転車の場合にはドアはないが)という移動形態であり、肉体はほとんど使われない感じなのだ。

筆者などの昔者は、消費、消耗して減っていく商品は買い置きし、蓄えておくのが習いだった。ところが今様の風潮として、何でも何時でもあるから貯蔵しない。それも合理的ではあるが、行き当たりばったり。それじゃ「アリとキリギリス」のキリギリスではないかと、爺ではあるが、老婆心ながら申し上げたくなる。

旧来の零細小売店時代とは、購買スタイルが変遷し、店員の様態や接客も移り変わり(例えば、お節介ではあるけど、親代わりに説教をしてくれた食堂のおばちゃんが、コンビニ制服の見てくれは悪くないが、味気ないお姉さんに取って代わった)、これは単に世相につれて変わっただけのように見えて、見えないところでは「地殻変動」が起きている。人びとの心理構造に何かが・・・。

「銀行強盗」という言葉は人口に膾炙するが、「コンビニ強盗」の語もかなり知れわたってきた。銀行が飛び道具を必要とするなら、コンビニは果物ナイフで、そこそこの金品が奪える。利便的でいかにもコンビ二の申し子という塩梅だ。

「AがBからCの商品を略奪し、その埋め合わせにBがDの懐中からEの所有せる金銭をかすめとるという取り引きの一種」(A・ビアス『悪魔の辞典』「商業」抜粋)

早い話が「商業」が変われば人間もかわり、社会心理もかわり、強盗もまた、変わらざるを得ないのである。(02/11/02)

 

『ちちんぷいぷい』40

人は誰しも幸運や幸福を招きたいと思い、反対に災禍を防ぎたいと考えるはずなのに、呪文を唱えてそれを実現しょうとする人が少なくなった。少ないというより限りなくゼロに近い。呪文など迷信であり非科学的であり、見向きもしない。

「呪文」とは、呪術的な効果をもたらすと信じられる神秘的なことばである。メラネシアでは、「メグワ」ということばが呪文であると同時に呪術一般を意味し、戦争のとき、槍の先にこの呪文を唱えるとよく切れ、楯に唱えると敵の槍が避けられる。作物のヤムイモは呪文によって太り、カヌーの航海の安全が保たれる。

呪文は目的別にあまたの種類があり、ちょっとした語の間違いで効力を失ったり、逆効果が生じたりする。また、呪文には多く呪具が併用され、より効果を高められる。

日本の民間信仰の「ちちんぷいぷい」は、幼児がかすり傷を負ったとき、なでさすって「痛いの痛いの、とんでいけ」と唱えると簡単に治る。正しくは、「ちちんぷいぷい御代のお宝」の後につける。一方、「アビラウンケンソワカ」(阿毘羅吽欠蘇婆訶)は大日如来の真言で、一切が成就するというありがたいもの。

呪文といえば現代人は小莫迦にするが、病気治療の神仏への祈りや、豊作、雨乞い、豊漁の祈願、慰霊祭などには疑問さえもたない。この辺、矛盾を感じてしまう。

j・フレーザーは、呪術が超自然的霊格を統御することによって目的を達成しょうとするのに対し、宗教は霊格に対する懇願であると述べるが、あらゆる国の宗教体系において、両者の区分けが明らかでないものが多くある。つまり宗教のなかには呪術(呪文・おまじない)の部分が少なからず含まれているということだ。

「丑の時参り」は、呪うべき相手の人形を木に縛りつけて五寸釘を打ち込む。さしずめ黒呪術であるが、白呪術というのもあって、これは相手の幸せを願う。呪術も呪文を実はさまざまで、いまは深く潜行している時代かもしれない。(02/11/08)

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12「散文と韻文」
13「ゴールデンウイーク私感」
14「イヌ派ネコ派」
15「大食い」
16「詩集「母が言った」のこと」
17「十七字ワールド」
18「キナクサイ風が」
19「ペンネーム」
20「51円治療院」

コラムその「1・2」

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