コラム「その18」

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360「近況あれこれ」
359「太陽を食べる」
358「記号連句」
357「尻取り連句」
356「青銅色の河童と茶褐色・・」
355「住み心地よい国のため」
354「曽良の俳句」
353「特殊連句二巻」
352「M・ジャクソン 身が喪章」
351「五右衛門など」

350「かえる」
349「ギン坊(10)」
348「ギン坊(9)」
347「ギン坊(8)」
346「わが連句観(5)」
345「わが連句観(4)」
344「わが連句観(3)」
343「わが連句観(2)」
342「わが連句観(1)」
341「連句観ということ」

360『近況あれこれ』

きょう「街道・秋の呑みあるき」(春秋二回ある)というイベントがある。甲州街道「上諏訪宿」。国道20号線。上諏訪駅から東に向かって歩いて約10分の区域において。河童寓から上手のあたりに5軒の造り酒屋があり、そこをメイン会場にして日本酒を呑み歩こうという催しだ。

2000円支払うとカードとぐい呑みをくれ、カードを首にぶら下げ、ぐい呑みを手に持って酒屋を歩きまわる。呑みまわる。造り酒屋は宣伝になるので、大吟醸や純米酒や山廃仕込みなど丹精の銘酒を振舞うのである。ちなみに寺院では落語会、ある酒倉では酒のつまみの料理教室も開かれる。(それぞれ別料金だが)

県内はむろん、東京や名古屋、石川や兵庫などの酒どころからも、観光バスを仕立てたり電車を増発したりして押し寄せる。外国人もちらほらみかける。日本酒であること多くが中高年の男女であることなど、いわゆる酒呑みの通がファンなので、莫迦騒ぎを起こしたことはこれまでにない。宵闇から暗闇にかけて河童寓の周辺で、ときどき大言壮語、呵呵大笑がきこえてくる程度である。(09/10/10)

・・・このことが、10月21日の朝日新聞の全国版、(日本一)「甲州街道」一位「上諏訪宿」で採り上げられた・・・

政権が交代して一箇月余、テレビや新聞の政治の話題や政治家の話を観たり読んだりしていて気持ちがよい。この国がどうなってしまうのだろうかと思っても民意の届かない政策が打ち出され、受け答えする政治家の言葉も的が外れていたり、故意にはぐらかしたり。挙句の果てには国民を小莫迦にする物言いや態度の老政治屋がいた。そんな旧政権の状況にうんざりしていたもの。

政権が代わって政策や予算の指し止めが行われている。その効果や方向性はこれからだが、現政権の大臣や副大臣や政務官たちはマスコミに対して謙虚な対応だ。少なくともテレビや新聞を通して伝わるものにそれが感じられる。(誰とはいわないが一人だけ謙虚でない大臣もいるが)。筆者はリベラル、あえていえば「支持する政党なし」という「政党」に属する。その筆者にとって、これは精神衛生上よろしいことだ。(10/06)

平成連句競詠の選考をすませて「選考記」を事務局に送付した。153巻を五点評価で点数をつけながら読み返しつつ15巻選び出し、簡単ながら講評も書いた。作者名が伏せてあるので余計な気遣いをしないですんだ。

「平成」は形式自由なので「詩のカーニバル」であると筆者は位置づけた。「詩祭」に参加する作品たちの漢字の障りや季題に対する考えの違いを本気で論うのはヤボというもの。それぞれの部族の楽器や踊りのパフォーマンスを、別の部族の酋長である筆者ら四人の撰者が見学し評価しているようなもの。要らぬいちゃもんをつければ、槍が飛んできたり、頭皮を剥がれたりされかねない・・・。撰者の立ち位置もおのずから求められるものがあるだろう。

「形式自由」の諸作を読んで感じたものは詩の広がり大らかさで、漢字の障りや季題のあれこれの障りは二の次にすぎないということ。何よりも詩が大切であると思ったのが大まかな感想だ。(09/10/02)

 

359『太陽を食べる』

太陽は美味しいだろうか。太陽を食べたらどんな味がするだろうか。太陽は人間の五感にどのように感じられるものか、触れてくるものか。筆者には、そんなリサーチを見聞した記憶がない。

「仙人掌の花の匂いは日の匂い」という有名な俳句がある。日光が無類に好きな仙人掌は、植物体として自らの花の性状(匂い)を太陽光(匂い)と同化させてしまうという、植物のある種の運命論をテーマとする句意だろうか。ともあれ、太陽の「日向臭さ」が仙人掌の花を通して具現化したともいえよう。

仙人掌の花は「匂い」だけだが、たとえば玉蜀黍(インデアン・コーン)は粒の黄色さが象徴するように日の恵み、太陽のもたらす滋養そのものだといわれる。つまり太陽は食べるものなのだ。もぎたての玉蜀黍の皮をむいて、醤油をつけて炭火で焼いたり、蒸篭で茹でたりして「小粒の太陽」に歯をあててむしゃむしゃと食べるのである。

太陽の恩恵というか、太陽の摂取というか、食糧としての太陽を眺めると「お天道さまと米の飯はついて廻る」という俗諺があるように、圧倒的に「植物系」が中心となる。しかしながら海洋の魚類にしても、種類にもよるが、餌である植物やプランクトンの光合成などの点において太陽の存在が不可欠。また牛乳もホルスタインなどが日光を浴びた牧草を食うという、間接的ながら脂肪や蛋白質やビタミンなどの産出を担っている。

仙人掌、玉蜀黍、魚、ホルスタインとならべてきたが、食べ物としての太陽のエネルギーやカロリーや葉緑素など、その「効果・パフォーマンス」がいちばん顕著なのは「葉物野菜」ではないだろうか。

葉物野菜について、ある調査による代表的なベストスリー、「1」は3667ポイントのキャベツ、「2」は2988ポイントのホウレンソウ、「3」は1055ポイントのレタス。もっとも人気があって、食べられているのは「キャベツ」だという。

キャベツは肉料理には欠かせない。細かく包丁を入れるよりも大きな葉っぱを三等分くらいにむしって、ステーキに添えて出すのがアバウトでよろしいらしい。

さてさて、09/05のテレビ東京の対談番組「美女放談」で次のように放映がされていた。(朝日新聞「もっと知りたい!」9月15日付より)

「太陽が出てたらね、こうやってちぎって食べてるの。ぱくぱくぱくぱく。あれ、すごく力になるわよ」。

件の「美女」は、連句界でもっとも欲しいユニークな人材だろう。(09/09/22)

 

358『記号連句』

ホームページ「河童文学館」の掲示板「Webの連句」で、下記のような連句を巻いた。全句にわたって食べ物を詠み込むこと、できれば記号や句読点や絵文字を出すという決まりだ。まずは作品を読んでもらいたい。眺めてもらいたい。

《う・ま・う・ま 尽くし》

半歌仙「湯呑み」の巻             河童捌

  魚偏の寿司屋の湯呑みF楽しけれJ      河童

   カウンターには鷺草の鉢           そら

  ☆☆☆の味の発見メモ取って        ディジー

   値段!(びっくり)胃腸!(びっくり)      さくら

  望月をめでつつ団子aつまむらん       うみ

   手篭に摘んで香る〜まるめろ〜       めだか

ウ 地芝居の差し入れ豪華角樽も        うぐいす

   おちょぼ口にて箸はこぶ姫          そら

  ぶりっこはハマチにあらず恋焦がれ?      うみ

   ポンと飛びだす焦げたトースト■      めだか

  `神棚のお供えかじる大鼠O          河童

   福を頼みてかこむ河豚鍋          うぐいす

  【牡蠣筏】浮かべる湾に月上る        めだか

   天日塩など旅苞にして          ディジー

  美食家と名高き京の魯山人            同

   地産地消と一期一会と           さくら

  ほろ酔いて夢見るごとく仰ぐ花         そら

   暮れかねている飴や横町。。。        めだか

2009年8月2日起首 2009年9月3日満尾

付句の内容や流れは特段劣るものでなく、むしろところどころ見所もあるが、記号や句読点などは効果的とはいえない。幼稚な試行だといわれるかもしれない。しかし「焦げたトースト」の「■」には微苦笑を禁じえない。また「牡蠣筏」をかこむ「【 】」などは、牡蠣の筏の材質のイメージも髣髴としてアイディアが光る。この評価は単なる捌きの欲目であろうか。

こと連句に限らないが、俳句も短歌も現代詩も、さらにいうなら落語も芝居もテーマは事実・真実そのものでなく、「事実・真実の基軸をずらす」ところに文学や芸術の価値を見出すという考え方がある。

「虚実皮膜」は演劇用語だが、芸は実と虚との皮膜の間にあるということ。事実と虚構との中間に芸術の真実があるとする論。

まま「異化効果」も演劇の用語であるが、見慣れた事物をも初めて見たように異様に感じさせる効果。そのような手法をいう。

付句の言葉もまた、ステロタイプという常套句となってしまっては読み手に感動を与えることは不可能であり、「概念をずらす」「意味のよそよそしさ」を発揮させる。言葉のイメージを更新させてゆく。それが即ち記号や句読点や絵文字だといいたいのである。小さくて大きな試みである。(09/09/05)

 

357『尻取り連句』

尻取りは「はじめの人が言った物の名の語尾の一音を、次の者が頭字として別の物の名を言い、これを順につづけてゆく遊戯」「いす・すずめ・めじろ・・・など」と『広辞苑』にある。

ホームページ「河童文学館」の俳席において、Wスワンスワン形式で「二字尻取」を巻いた。前句の語尾の二字(二音)を受け、それを頭語に用いて次の句を付ける。その次の句もおなじように語尾の二字を語頭に付け、これを繰り返すのである。

ただ闇雲に言葉の尻取りをするのではなく、連句の約束事、すなわち季語の配分や式目などをきちんと出してゆく。むろん連句である以上は前句に連ならなくては意味がない。そんな試みのWスワンスワン「下り鮎の巻」であった。

一般的に句を付けるとき、連想しイメージを膨らめて前句に軸足をおいて、あるいは軸足を移しつつ新しい状況へと転じてゆくのだが、「尻取り」は前句の語尾の二音を強制的に用いなくてはならないので発想が狭められてしまう。

連想の自由がイメージの萌芽が摘み取られてしまうことは・・・これは連句にとって、少なからぬデメリットな制限であるはずである。だが、果たしてそうだろうか。

言葉の選択肢が少なくなると連句作者は焦って、あるいは飢餓感をいだいて血眼になって探す。持てるボキャブラリーを総動員したり、電子辞書に当たったりする。そうして、やっと見つけた言葉を用いて句を仕立てるのである。

発想が妨害され、ある意味では不本意と思われる付句がつくわけであるが、このようなストイックな発想が逆に、開放されているときの発想よりもおもしろい世界を見せることがある。

言葉がときに作者の気持ちを無視したり裏切ったりし、牽強付会でつながる世界。強引さにねじまげられる世界。思索の「びっくり箱」を開けるような、言葉の奴隷になったような、そんな詩的なおもしろさが首をもたげる。

西洋の詩には韻を踏むものがある。頭韻とか脚韻とか、語句の上に同一音や類似音が一定間隔をもって配置され、韻律的な効果をあげるもの。

西洋詩のそれは主として韻律、音楽的リズムのためのものであるが、詩とは意味だけでなく、意味以外のものによって成り立つものであるという点では、尻取り連句の「窮屈な効果」と一脈通じるものがあるかもしれない。(09/08/29)

 

356『青銅色の河童と茶褐色の河童と』

S市郊外に「底なし沼」という地籍がある。底なし沼という名称はさして珍しいものでなく、全国至るところに見られるが、その沼に白狐橋という土橋がかかっていて「白狐」が祀られている。底なし沼と白狐と道具立てが揃ったが、ここにさらに河童が現われるのである。それもムカシバナシでなく、平成のこんにちの話だからアッとおどろくではないか。

沼をめぐる小径にニセアカシヤが繁茂し、昼間でも薄暗く、あまつさえ雨のそぼ降る夕暮れは、顔を触られても分からないほど。人の通行もほとんどなく、たまに樹上のヨタカがけたたましい鳴き声をたてる。足元もおぼつかなく歩いてゆくと、沼の澱みから河童がヌッと出てきて、白狐の祠(ほこら)の前をよこぎる。瀬戸物で出来ている白い狐と河童の青銅色が重なるとき、わたしは突然烈しい眩暈(めまい)をおぼえて、立ちすくんでしまった。

一度だけの目撃だが憚り多く、わたしはこれまで誰にも口外してない。これを書いたことで、祟りがなければよいが・・・。

長野県の駒ヶ根市に「天竜駒ヶ根かっぱ館」があるが、天竜川は上流のO市川岸に親父は生まれた。親父は子どものころ来る日も、来る日も天竜川に遊び、コイ、フナ、ウナギを手掴みし、どこそこの洞(うろ)にはキッと「〜゚・_・゚〜」(ナマズ)いるぞ、ということまで分かったという。その親父が晩年、自慢話とともにわたしに話してくれた。

「天竜川には河童が棲んでおってさ。河童は尻の子抜くが、年じゅう悪さするわけじゃねえ。春や夏は甲羅が青黒く、秋には紅葉みたいに褐色に変わってのう。色で河童のキゲンをうかがうのさ。おらは、川の淵や岸辺でよくそいつに遇ってよ、身のちぢむ恐さだったが、秋はうごきも鈍くなって、相撲を仕掛けてくることもなかったな。憂鬱そうな顔はいまでも忘れんよ」。

親父は生きていれば103歳、子どもの頃は、親父自身が「カッパ」という綽名(あだな)だったそうだ。(09/08/20)

 

355『住み心地よい国のため』

衆議院選挙が近づいてきた。新聞もテレビもかまびすしい。各党がマニフェストを出して、「いらっしゃい。いらっしゃい」と客寄せ。有権者の得票の獲得にやっきになっている。

政府の行う施策により利益の配分にあずかりたい業界。癒着に見せないように癒着して多大な甘い汁を吸いたい企業。はては個個人までが自分の利益だけを考慮して投票しようとする。それは業界や個個人にとって至極まともな考え方ではないかというかもしれないが、果たしてそうだろうか。

大きな選挙でなく、市会議員や村会議員の選挙でも、おらが地域の道路を作れとか橋をかけろとか陳情し、それを半ば約束させて投票しようとする。それがあたかも当然かのように。

お金の「分量」は決まっているので、ある企業ある個個人に過分に分配されれば、分配されない或いは分配が減ってしまう企業や個個人が出てくるのは自明なことだ。

それは業界エゴ、企業エゴ、個人エゴではないか。選挙民の一票というニンジンを馬の鼻先にぶら下げて要求を通そうとする、ある種のさもしさ。そんな品格のない選挙がいつまでつづくのだろうか。政府や政治家がちゃんとしてくれないから、選挙を損得でしか考えない国民になりさがるのだろうか。

筆者は、自慢できるか浅薄な考え方か分らないが、みずからの損得から判断して投票をしたことは一度もない。青臭いが「みんなが住み心地よい国になれば」という思いしかない。心地よい国というものを想像することは筆者にとって一番精神衛生上よろしいのだ。

お金持ちは飢え死にしないから貧乏人や病人を見捨てないで、お金はみんなで分け合って「ならそう」よ。「ならす」は「均す」または「平す」の字を当てる。お金を平均になるように、ならそうではないか。筆者支持政党なし、であるが。(09/08/09)

 

354『曽良の俳句』

河合曽良に「ゑりわ里て古き住家の月見かな」という俳句があり、「ゑりわ里て」の意味が分らないので教えてほしいという電話を受けた。電話をくれたのは俳誌「草茎」の仲間であった今は亡きE・U氏の夫人で、上記の俳句の句碑が諏訪市の正願寺というお寺に建立してあり、夫人のお宅がこの寺に近いことから友人に訊ねられたということだった。

ちなみに曽良は信濃の上諏訪生まれで6歳まで過ごし、正願寺にはほかに「春に我乞食やめても筑紫かな」の辞世の句もある。正願寺は躑躅や紫陽花、藤など四季折折の花が咲くことから「花のお寺」として知られる。毎年曽良忌も執り行われ、また当地出身の作家・新田次郎や著名人の墓もあってにぎわう。

さて「ゑりわ里て」の意味だが、筆者にもとんと分らない。折よく電話の最中にパソコンの灯をともしてあったので、ヤフーで検索してみたが、手掛かりは得られなかった。「お役に立てず」と夫人に詫びて電話をきった。

しかし、この上五は何をいっているのだろうか。中七、下五は至って平明だが・・・。分らなくてお手上げというのも癪のタネ。無智の上塗りかもしれないが、謎解きをしてみよう。解釈でなく飽くまでも推理、屁理屈をならべて挑戦してみようという料簡。

()「ゑりわ理て」の「ゑり」は「彫」のこと。彫(えり)は『広辞苑』に当たると「えること。ほること。きざむこと。また、彫ったように見える凸凹」「矢筈(やはず)の、弦につがえるため彫りくぼめたところ」とある。

「わ理て」は「割る」こと。古家の長押かその辺の柱に文字か印などを刻みこんで、つまり木材の表面をノミなどで割るように刻み込んで、そんな住家から月見をしたという筋立て。「理」は「り」の単なる変体仮名。「彫(えり)」の「え」は旧仮名遣いでは「ゑ」であり、句碑の文字と合っている。

()「ゑりわ理て」の「ゑりわ」は「襟輪(えりわ)」のこと。襟輪は「木材を継ぎ合わせる時に、一方の材の縁に突き出す部分。入輪(いりわ)(『広辞苑』)とある。

「襟輪小根ほぞ差し」とか「貝の口継ぎ」とか、古くから建築用語として使われる。つまりは、釘を使わずに木材を刻んで接合の相手方の木材と噛み合わせる技法。「理て」は(襟輪)「りて」。古家が痛んできたので危うくなった柱を取替えて補強したという筋立て。これは「古き住家」にぴったりだろう。古家を手直ししての、月見の安堵感がただよう。

「A」それとも「B」か。順当なところ「B」に軍配をあげたいが、果たしてどうだろう。本当の解釈はいかがだろうか?ご存じの方は教えてほしいものだ。(09/07/26)

 

353『特殊連句二巻』

このたび、「Webの河童」という掲示板で「猫尽くし」の作品を巻いた。スワンスワンの形式で22句すべてを、猫の縁語、猫にかかわる諺、猫を暗示する、猫をイメージする言葉を用いて付句をつける試み。「猫」そのままの言葉は使わないという不文律。

これはなかなかの難行苦行で、連衆のみなさんも大変だったろうと想像される。この作品では、句読点、括弧、絵文字も使ってよいことにした。言葉の不備や助詞を補うための手段として、さらには連句の付句のより効果的な方策とし、それらを言語補完装置として利用したいという試行でもあった。

(ちなみに短歌の世界では、句読点や括弧、改行や一字あけなどが試行錯誤されている)

スワンスワン・猫尽くし「小判などの巻」は、「Webの河童」のアーカイブス?でご覧になれると思う。ご用とお急ぎでない方は覗いてみてください。

それとは別に、ホームページ俳席において「病病歌仙・知恵熱の巻」という特殊な作品を巻いた。病気、病院、介護、医者、薬品などあらゆる医療関係の言葉や内容やイメージを描き出して一巻に収めようという試みである。

病気というネガティブな素材を、なぜ連句に取り入れたか。それはネガティブな素材からいかに俳味、すなわちユーモアを引き出せるかということ。それは言葉の効用性、言葉の力を使って表現する技を研きたいがためであった。病気は単なるテキストというわけだ。

「小判などの巻」「知恵熱の巻」ともに、筆者の試みとはかかわりなく進行してよい。筆者も「試み」について前以て連衆さんに説明することはなかった。連句はおのずから学ぶもの、おのずから考えてゆくものだと思っている。(09/07/04)

 

352『M・ジャクソン 身が喪章』

マスメディア的にいうなら、「ポップの帝王」であるマイケル・ジャクソンが死んだ。音楽に疎い筆者でも名前は知っていたし、足をすって機械のように歩くダンスステップ「ムーンウオーク」や、圧倒的なリズム感でうたう「スリラー」の一部は聴いたことがある。

歌と踊りが凄ければ、ゴシップや伝説もこれまた凄いものがあった。私生活をあまり明らかにしないから、隠されたものが膨張するという側面もある。それでもそれが売りのマスメディアは、パパラッチしてジャクソンのスキャンダルを電波や雑誌にのせる。

整形された顔についても、本人にいわせると僅かな手術を施しただけというが、黒人なのに年齢も人種も、見方によっては性別さえもわかりにくい。

ある情報によると、ジャクソンは色素が原因で黒人でありながら顔が白けてきたといわれる。また長年烈しい動きのダンスをしてきたので肉体が疲弊し、一般には処方できない鎮痛剤を用いたといわれる。真偽のほどは不明ながら・・・

「歌と踊り」のジャクソンは声帯と手足の動きだけで表現してきたように思われるが、肉体ぜんぶ、肉体そのものがポップスだったのではないか。マイナスイメージで語られる整形もスキャンダルさえも、あのぶっ飛ぶような圧倒的なリズム感の元素だったのではない。差し引くものがいかにあろうとも、ありあまるものが残った。ありあまるものを世界に遺した。天才と冠するにふさわしい。

身と心の多くのマイナスを賭し、マイナスの犠牲のもとに彼の歌と踊りは生み出され彼自身も気付かず、ひょっとすると造化の神さえも意想外になってしまった「マイケル・ジャクソン」だったのかもしれぬ。

「僕はステージの上が一番安心できる。出来ることならステージで眠りたいぐらいさ。本当にまじめにだよ」と語った、マイケル・ジャクソンは逝った。享年50歳。

   ・ おのが身を喪章となして白蛾の死

(09/06/27)

 

351『五右衛門など』

「12・12」と書いた札を逆さにして貼ると泥棒除けになる・・・なんという番組かはわからないが、三年ほどまえの朝のNHKから放送されたという。

アラビア数字でもローマ数字でも、漢数字でもかまわない、半紙などに書きこんで逆さにして雨戸の内側に貼る。忍び込もうとした泥棒がそれを見て二の足を踏み、退散するという。数字「12・12」とは12月12日のことで石川五右衛門が処刑された日という。

「おまじない」といえば言えるこの風習、「ご当地」の大阪の南部や京都の一部に言い伝えられているが、五右衛門には縁がないはずの盛岡にも残っているそうな。

五右衛門の処刑(五右衛門と五右衛門の手下や幼い子を含めて17名が釜茹でや磔になった)が、この日だったという確証も資料もない。ないものが、おまじないとして風習にまで残るとは。余計なことながら、処刑は10月12日という説もある。

因みに12月12日は、なんの因果か筆者の誕生日。筆者好き好んで、空き巣、詐欺師、賽銭泥などの素材を連句に詠みこむが、それとこれ、因縁や関係があるのであろうか。

話かわるが、「マスコミ用語」というものがあるらしい。血統や家系のすぐれたものを「サラブレッド」というが、政界や芸能界でこれを冠したものにろくなものがない。才能がないから親の地盤をついでの世襲とか、親の人気にのっかった七光りとか、害毒がなければどうでもよいというものの、政界も芸能界も「ニューウエーブ」というべき新しい血、野の力を見つける努力を怠り、衰退疲弊しきっているではないか。

ここでいう「マスコミ用語」とは、ことさらに強調し、見出しまがいに冠をつけること。まがまがしい「マスコミ文脈」に騙される人も多いので老婆心ながら・・・

国民と政治が乖離してしまっている。国民の声が政治に届かない。届いても政治家は聞くふりするだけで、国民の声とは似て非なることを行っている。

以前から「乖離」はあったが、こんなにも離ればなれになることはなかったように思う。世論調査で政党支持のパーセントが出るが、二大政党でも20数パーセントがせいぜい。他方で支持する政党なしが60パーセントにもなる。「支持する政党なし」という政党をつくったらどうか。そこから間違いなく総理大臣が誕生するはずである。(09/06/17)

 

350『かえる』

当ホームページのトップページに、大小二匹の蛙がぴょんぴょん跳び上がっているイラストがある。「可愛いね、で、なんで蛙なの?」と、さる人から訊かれた。「うん、やっぱり蛙だね」と返答にならぬ返答をした。

「井の中の蛙大海を知らず」・・・へそ曲がりなので「井の中だからこそ大海を想像して知る」。草野心平に「蛙」の詩があり、愛読した記憶がある。

おたまじゃくしからの変身のおもしろさ。音符が蛙の合唱になり蛙の合戦になる。大山忠作の俳句、「蛙の眼賢愚二相をそなへたる」。芥川龍之介の俳句、「青蛙おのれもペンキぬりたてか」。

いやいや、蛙は「換える」。変換。自分を換える、生き方を換える、文章を換える。これまでの詩を換える、連句を換える、連句協会を換える。ぴょんぴょん跳び上がって「蛙」は換える。

「柳に蛙」を眺めて悩む姿の小野東風。花札の「雨」は20点だったな。東風の悩みは生き方の悩み、蛙にかさねた自分の悩みであったろう。次はガラッと蛙。東風から「お絵描き唄」に蛙。折しも走り梅雨、「換える」のをよろこぶ筆者だった。

@ぼうが一本あったとさ

A葉っぱかな

B葉っぱじゃないよ かえるだよ

Cかえるじゃないよ あひるだよ

D6月6日雨ざあざあ

E三角定規にひびいって

Fあんパンふたつ

Gまめみっつ

Hこっぺパンふたつくださいな

Iあっというまに かわいいコックさん

(09/06/06)

 

349『ギン坊(10)

吾輩の鳴き声、すなわち言語に「u」と「unn」がある。カタカナ表記すれば「ウ」と「ウン」だが、吾輩が河童先生とかわす朝の挨拶は、小さくて低い声の「ウ」。

吾輩が「寄宿舎」の二段ベッドを「とん」という足音とともに降りるのは、ジャスト5:00時。先生も起床したとみえて引戸を開け、蛍光灯を点灯して「ギンちゃん、お・は・よ」という。吾輩は寝惚け眼をしょぼつかせながら「ウ」と小さな声をもらす。

このとき忘れてならぬことは、小首をかしげるポーズ。可愛さが売りの、生きるがために身につけた「ペットポーズ」だ。洋画『キャッツ&ドッグス』の一場面、もともとは犬についての挿話だが、小首をかしげて人の顔をじっと見つめる。犬好きはチャーミングなその表情にマイってしまうという台詞がある。吾輩もそれにならう。先生は「可愛いな」と言ってくれる。

先生はオメザの「ヒルズ・サイエンスダイエット・ライト」10余粒をお皿に入れてくれる。その芳しい香りに吾輩は不覚にも涎をたらしてしまい、ぱくぱく、がつがつと食べる。

しばらくして起床したお河童先生があらわれ、吾輩の所有物たる、砂まみれの雲子や疾呼をすくって片付けてくれる。飲み水も新しく取り替え、ご飯としての「・・・ライト」約70グラムをいただく。

日に二回で、約12時間ごとの食事間隔は食べ盛りの吾輩にはきつい。飢餓もいいところ、腹はぺこぺこ。がつがつ食べ「ク、ク、ク」と唸ってしまうのはハシタナイかもしれないが、「ニャンコライフ」も分かってほしいもの。「ゆっくり食べてね。お座りして食べるのよ」と、お河童先生は寄宿舎をさがる。

吾輩の「言語」はさておき、吾輩がおぼえた「人語」について書いてみよう。吾輩は「ギンちゃん」「ギン坊」「ギン」と呼ばれる。どうやら「ginn」という音声が吾輩の名前らしいことは確実に理解できる。

しかしながら、サル目(霊長類)ヒト科とネコ目(食肉類)ネコ科という異種生物であり、やすやすと音声の意味が分かったり、言語として通用したりするわけもない。人も猫もお互いの頭脳や本能に「翻訳機」を備えておく。そうすることで伝わるものがあるはずだ。

「ギン坊」と呼ばれると、吾輩は「ウ」と返事する、いつもではないが返事をする。返事がないときは左右に尻尾をふる。尻尾をふることは「意思表示」だと、人類が猫を飼育したルーツから学んだ生態に関する蓄積があり「猫が返事した」と翻訳されて人に伝わる。

話はそれるが、パソコン(「LaVie」)から、カウント・ベーシー楽団の古き良きジャズが流れてきた。さすがビッグ・バンド・ジャズ、部屋に音がとけ込む位の音量で鳴らしておくと気分がいい。

これは先達てプレゼントされたものであり、軽快で浮き浮きしてきて、吾輩は窓越しに20号線を通行するモーターカーを眺めながら、尻尾を烈しくふった。ジャズに合わせて尻尾をふった。あっ、これは返事でも怒っているのでもない、つい浮かれて、だぞ。感動だぞ。(09/05/29)

 

348『ギン坊()

「猫語」について、書かニャーならない。俗に犬語、猫語というが、犬語はさておき、われわれ猫族にも当然ながら「言語」がある。伝えたいこと、嬉しいこと哀しいことを知らしめるため発声する。鳴き声で、テリトリーの内外に猫がいれば猫に人間がいれば人間に「喜怒哀楽」らしきものを発信する。

尻尾の振り方や、頭部から頚部を人間に「すりすり」する行動などはノンバーバル言語というべきもので、言語でない言語、つまり「非言語」。じつは動物たちのみならず、動物よりはるかにボキャブラリーが豊富と思われる人間でさえも、ノンバーバル言語で意思や感情の伝達をする。「目は口ほどにものを言い」はノンバーバル言語の表現。そんな意味で猫の「しぐさ」も広義の言語にほかならない。

吾輩など猫族の発声のパターンは多種多様。基本形は「nyaa、nyaa」で、猫撫でモードのかるい乗り「ニャー、ニャー」から、懇願と要求のミックスした「ニャーォ、ニャーォ」、もう限界だ、怒っているぞという「ニャーゴ、ニャーゴ」。

たとえば「ニャー」につづく語尾の「ォ」に耳を澄ませてほしい。「ゴ」に耳を澄ませてほしい。さらにイントネーションを読み取ってくれれば、われわれの「言語表現」が理解できるはず。人間はそこまで読み取ってくれないが。

基本形に準ずるものとして「Wa、Wa」がある。アビシニアンにこの発声はほとんど聴かないから、アメリカンショートヘアなる猫族のもつ特性であろうか。それとも吾輩だけの個性であろうか。この音声をカタカナや漢字で表記すると「ワ、ワ」とか、「和、和」「羽、羽」となる。

「ワ、ワ」は吾輩にとって「甘え鳴き」「おねだり」「感嘆符」であるが、その意味が人間界に正しく伝達していないようだ。

先達ても河童先生が、吾輩の喉元を「なでなで」してくれたとき、河童先生の手をがぶりと噛んでしまった。

「可愛がってやっているのに、がぶりはないだろう。猫はよく噛むなあ、犬はそんなに噛まないぞ」と先生。

「ワ、ワ」と、吾輩は罪滅ぼしの甘え鳴きをする。(ほんとうは罪などなく、噛むのも甘えの一種だけれど)

「『和、和』そうだよ。和が大切だよな。猫も人も仲よく和やかに暮らさなくては。ギン坊もそれが分かればいいさ」。

――ある日の黄昏どき、吾輩は窓辺の横板に座り込んで、暮れかかる西空を眺めていた。吾輩の一張羅の毛皮コートに打ち添うように河童先生の顔がヌッとあらわれ、「東京の空が懐かしいかい?」と訊かれた。

吾輩は「東京には空がない」と答えようとしたが、『智恵子抄』の高村光太郎みたいでキザなのでニャンとも返事せなんだ。

「ギン坊、前庭の台杉に黄色い鶸(ひわ)がとまっているけれど見えるかい。鶸は可愛いね。いくつ見えるかな?」と河童先生にふたたび訊かれる。

「羽、羽」と二回、吾輩は例によって甘え鳴きした。河童先生は「そうだよ、二羽来ているね」。・・・・・

やっぱし、翻訳機は必要かもしれない。(09/05/23)

 

347『ギン坊()

このコラムのタイトル「ギン坊」は、2月中旬のbVから中断していた。久し振りに筆ならぬPCのキーボードをたたく。間をおいてしまったので吾輩の肉球がぎこちない動きだが、それは仕方ニャーことである。

5月3日の午後3時頃だったろうか。吾輩の「寄宿舎」の窓が開いて、美味しそうな「レトルト食品(魚肉)」の差し入れがあった。うつらうつらと睡魔に襲われていたとき、また腹空きでもなかったが、刺身のようなその匂いにつられ、われしらず貪りついてしまった。

江戸の兄ちゃんと姉ちゃんが、しばしのお別れにご馳走してくれた。日頃は食べられないグルメの振る舞い、いささか早いが吾輩の「晩餐」の姿はデジカメに納められる。ああ、そうだった、きょうはさよならの日だった。

アビ兄イとニアくんとは、4月28日のノッケに対面したのだったが、何となく他人行儀、「他猫行儀」で打ち解けず、挙句の果てにはお互いに居丈高になってしまい、旧知の間柄にもかかわらず「シエー、シエー」と威嚇の音声を発し合った。こうなるとメンツもあって(猫の額ほどのメンツではあるが)「幼猫時代」にはすんなり戻れない、残念だが・・・。

さて、食べ慣れない豪華食を食べたせいでもあるまいに、糞詰まりになってしまった吾輩。「ポンポ張るニャー、ポンポ張るニャー」。このとき吾輩は、麦酒を飲んで池で溺死した漱石『吾輩は猫である』の猫のことをつらつらと思い出していた。糞詰まりで死んでは男が廃る、猫が廃るというもの。

「猫は二・三日便秘しても大丈夫だといっていたよ」とお河童先生。なんでも江戸の兄ちゃんがあるときに言っていたらしい。それを訊いて河童先生は胸を撫で下ろしていた。胸を撫で下ろされても吾輩の腹は張ったままだが。

とまれこうまれ、翌日にはめでたく山盛り雲子をおとす。少し時間をおいて二回目の雲子を盛り上げ、砂をかけて消臭した。食いすぎは猫ちゃんにも、人間ちゃんにもよろしくないようだ。

河童先生の「進化論」の講義は立ち消えになっていた。吾輩も少しく怠惰になっていた。「ニヤー、ニヤー」と擬声語で、駄洒落をとばすコラムを以ってお茶を濁していてならない。そんなことでは情けない。もっとレベルの高いことを書かニャーならん。(09/05/15)

 

346『わが連句観()

「簡約された筆の味わい、余白や絵の具の濃淡、かすれ、ぼかしから生まれた線や品性、個性を見出してゆく」・・・。

以上は絵について書かれた文章の一節である。何のことはない、いずれの絵画批評からも抜粋できそうな、ある意味で凡庸な技術論だ。絵を描くことについては、カンバスや絵筆や絵の具の使い方などマニュアル書もあまたあり、初歩的ことを知ったうえで描き出す人が多いようだ。

ところで連句はどうだろうか。長句と短句を交互につけるとか季語と雑の句を混合させるとか、その程度のことを書いたマニュアル書はあるが、言葉に対する独特な効用に言及するものはほとんどないに等しい。ここが尤も肝心であるにもかかわらずだ。

付句の言葉は散文で用いられる「言葉の守備範囲」を超えていること、超えなくてはならないことと思う。

言葉は多くが多義性をもち、たとえば、真っ向受けるときもあれば反語として受けるときもあり、皮肉や揶揄として受け取るときもある。語意の解釈を広げる、ときに曖昧にする。

散文の言葉としてその辺も当然「守備範囲」だが、連句は次に付ける句によって、前の句の言葉の軸足をずらしたり、変化させたりできる。連句用語で「見立て換え」というのは、前句の内容を別のものに置き換えたり、擬(なぞら)えたりすることをいうが、言葉自身も語意を踏み外して表現される場合があるのだ。それを「言葉の守備範囲を超える」といいたいのである。

冒頭に引用した「余白や絵の具の濃淡、かすれ、ぼかしから・・・」という絵についての文章を、「言葉」について当てはめてみると、連句に対して筆者の言いたいことが多少なりとも言えているような気がするのだ。

すなわち語意や語勢の濃淡、かすれ、ぼかしなど、日本語の非論理的な(ファジーなところを)利してイメージを拡散させたり凝縮させたりする。ここが要であり、それなくして連句とはいえないだろう。ただし現実には「意味」と「状況」のみでつなげることに腐心している連衆がなんと多いことか。(筆者自身も自戒せにゃならんが)

連句作家は言葉のプロフェッショナルでなければならない、と筆者は思っているのだが、自他ともに道のりは遠いようである。(09/05/10)

 

345『わが連句観()

連句とはなにか。連句はいかにあるべきか。その解答はたぶん見つからないだろう。

筆者はさきに「連句は言葉のパフォーマンス」と書いたが、その延長線上に「言葉の南京玉すだれ」があると言いたい。

前口上もなめらかに、演者が巧みに、玉すだれを操る「南京玉すだれ」。歌いながら踊りながら、宝船、鳥居、日本橋、しだれ柳、釣竿、鯛などの姿かたちを象る古典芸能。南京玉すだれのさまざまな「形象の具現」は、言葉によって人間の姿や声や感情、景色や故事や歴史など「対象の表現」される連句と類似する部面があるのではないか。

連句作品を巻き進めることを興行という。この点でも連句には興し行う、奉納するとか他者に対して供する意味、言葉を開示してゆくという性格をもっているのではないか。

筆者は芸能だからマイナーだとか文学だからメジャーだとかいう気は毛頭なく、連句の有する特質を検証したいだけである。このような特質の文芸・文学というものは稀有なものだろう。

言葉が呪術の働きをしたり、神を呼ぶ儀式の働きをしたりした原始社会や原始時代から詩は発生したといわれるが、その根幹につながるものが連句にはあるように思う。俳句や短歌や詩が個個人の手のうちにあり、個人主義が幅を利かせる現代になって、置いてけ堀を食らっていた連句の姿が、「稀有」なものに見えてきた。共同制作、制作者の連帯感が見直されているのでもある。

筆者は「連句は言葉の南京玉すだれ」と比喩する。これは連句という文学の特質を言い表したいこと、褒め言葉としたいこと、この二つである。だが、しかし、筆者にとってもこれが唯一の連句観ではなく、解答とはなっていないという思いが強い。(09/04/22)

 

344『わが連句観()

「尾頭付」という言葉がある。『広辞苑』には、尾も頭もついたままのさかな。神事・祝事などに用いる。「鯛(たい)のー」とある。また「尾頭」を引くと、「@尾と頭。A尾から頭までの長さ。」と載っている。

つぎは筆者の比喩だが、「連句は尾頭付きでなくてはならない」と考える。少しく具体的に書いてみよう。

「尾頭」(おかしら)という言葉の語序がなぜに「頭尾」(かしらお)でなくて、尾を先に措き頭を後にしたかは知らないが、頭はむろん発句のこと。神事・祝事に際して魚を供えたり盛り付けたりするとき、如何なる高級魚であろうと頭部が欠落していては不敬であり失敬である。

食べるところの殆どない頭だが、煮魚であれ焼き魚であれ、目玉や口付きなど、おのずからなる見目形(みめかたち)があるもの。たとえニシンやエボダイでも、尾頭があるとないとでは雲泥の差。ゴッドは見栄えにうるさいし、ニンゲンは見栄を張りたがる。そして料理ははじめ「目」が食べ、あとから「舌」が食べて味わうもの、見てくれは「神・人」問わず食のキーポイントだ。

腰折れの発句というのは、切り身の魚のようなもので存在感がうすい。マグロの角煮やスズキの刺身は美味であってもインパクトに欠け、「頭」のもつ生命感を凌駕できない。料理されすでに絶命の魚であっても、完全無欠の魚体には「いのち」のイメージが横溢する。

「尾」は挙句のようなもの。「掉尾を飾る」「掉尾の勇を奮う」などという。魚の尾に限定されないが、尾の姿のよさや尾を振ったときの勢いをいうのだろう。尾の形が悪かったり痛んでいたりすれば、直接には関係ない頭(かしら)にも影響を及ぼす。尾は頭を連想させ意識にのぼらせ、逆に頭は尾を連想させ意識にのぼらせる。挙句を前以て作句しておいて付けるなんぞは、もってのほか。挙句を粗末にする作品のなんと多いことか。

連句は読者のいない文芸としてのルーツがある。「読者のいない」は言い過ぎかもしれないが、座を楽しめばよい、読み手は自分たちのグループだけでよい、鑑賞は二の次、文学性は問わない。という風潮や伝統がなかったか?読者がいなければ「尾」も「頭」もどうでもよく、作品は完結した時点で「反故」でよかった。茶道や香道や花道などのように「座」を重視すればよかった。

筆者が「尾頭付きでなくてはならない」と考えるのは、連句は言語の効用や面白さを閲覧させるもの、読者に読んでもらうもの、延いてはより高みをめざす文学として興隆してほしがための提言に他ならない。連句はせめて発句と挙句をしっかり詠むべし。尾頭付きにすべし。

国文祭や連句大会が開催され、選考委員は否応なく「読者」にならざるを得ない。作品集も発行され「読者層」も多少は広がる。そうすれば、良くも悪くも批判精神が増殖する。「尾頭」がおのずから目に触れることは、連句大会の功罪の功の部分だろう。(09/04/15)

 

343『わが連句観()

()連句は言葉のパフォーマンス・・・

連句は、漢字、平仮名、カタカナ、英数字など文字の表す表現行為のディスプレーである。表記法の工夫のあれこれ、語頭や語尾を体言にするか用言にするかの措辞など、表現上のより優れた効用の陳列である。

漢字のもつ硬質感と意味の含有の深さ重さ、カタカナのもつ無機質にして幼児的素朴さ、平仮名のもつ嫋やかさや和の音感、英数字のもつおしゃれ感覚と理数的な刺激感など、これらが長句と短句に振り分けられて用いられる。意味的なつながり以外に、連句には文字が配列される視覚的アピールも重要な要素だ。文字面(もじずら)が物をいう、短詩形はそこまで考える文学である。

()詩面人を驚かす、連句の付合・・・

鬼面人を驚かす、という語がある。あるいは鬼面人を威(おど)すとも。鬼面のように、みせかけで人をおどしつける。こけ威しをかけることをいう。「鬼」を「詩」に代えて「詩面人を驚かす」と筆者はもじる。

「詩面」は筆者の造語だが、連句の付け運びは、一般散文の文脈のような緩やかな流れ、動きの烈しい詩歌の跳躍のようなものでない固有のものがある。あると言うよりもあるべきと考える。「句間」、つまり句と句の間に言葉をつなげて詩にすること、詩をもって意味をもって驚かすこと、読み手を感動させることが連句だ。

「散文は歩行」「韻文は舞踏」はボール・ヴァレリーの有名な言葉だが、連句には舞踏でもなく、むろん歩行でもなく、第三の「足の運び」があるのではないか。「固有のものがあるべき」と書いたが、次のような比喩はどうだろう。

第三の「足の運び」は「けんけん」。けんけんとは、子どもの遊びである片足跳びのこと。片足を浮かせて接地せず、一本足で目的地点をめざす。接地しないことは前句に意味や意識を預け、軸足となる片足にバネをきかせて大きく跳ぶ。この「運動体」は、連句の付合の姿を表しているのではないか。連句は韻文ではあっても、ヴァレリーのいう「舞踏」とは明らかにスタイルを異にする。

()表ぶり、裏ぶり、序破急・・・

「序破急」は音楽や舞踏などの形式上の三区分をいうが、連句についてもいう。連句の生命線でもある。したがって「表」は表らしく、「裏」は裏らしく、歌仙のエンディングである「名残の裏」は名残の裏らしく句を詠むことが肝心。連句の流れの持ち場、パートを弁(わきま)えるべきである。

(裏表なく、初めから終わりまで、表現も素材も似たような句の羅列の作品が多くて嘆かわしい)

()以上のような「い」「ろ」「は」は疎かにできないもの。いずれを軽視しても、またいずれを重視してもバランスを欠き、薫り高い作品を誕生させることは不可能と思いたい。(09/04/11)

 

342『わが連句観()

前号「341」のつづきを言うなら、ここで筆者の連句観を述べなくてはならない。以下は今年の平成連句競詠「文芸賞」の選考委員を引き受けたときに書いたもの。(募集要項に掲載されている)

 

付句のそれぞれが詩情溢れるように作れるものではない。付けて転じるときに詩が発生する。散文は行間を読むというが、連句は「句間」を読む文芸・文学である。即かず離れずでよいけれど、ときには親句ときには疎句でもよく、「意識の綱渡り」であるとともに「無意識の走り幅跳び」が韻文としての躍動感を生む。

「句間」に詩的装置を働かせることができれば形式の新旧はあまり関係なく、歌仙という古い革嚢にも新しい酒は盛れるが、新形式という新しい革嚢の方がこれまでに存在しない酒を盛れる可能性は大きい。詩と同様にさまざまな形式があってよい。ときに浅い伝統の落とし穴に落ちたとしても。

「句間」に想いを巡らし「形式」に想いを委ね、結社や個人も現代の詩人の考えとして、従来の作法・式目に新しい項目を加えてゆくべきだろう。「妖魔」(妖怪や幽霊)、「犯罪」(こそ泥から殺人鬼)、「金銀」(現金や財宝)、「IT」(パソコンやケータイ)などのアイテムは必須と思うが、いかがだろう。

 

原稿の枚数に制限があるのでほんの一端しか書けなかったが、目指すものの概略、ビジョンのらしいきものは記した。そして新しい、現代の「式目」も書き加えた。(09/04/07)

 

341『連句観ということ』

そもそも連句とは何だろうか。

連句の実作にたずさわる人は、そのことについて考えてほしいものだ。初心者は疑問を解きつつ連句をはじめるだろうが、ある程度に連句がわかってきたとき「私の連句観はこのようなものだ」と主張できることが必要だと思う。漫然と考えていたのでは、連句のおもしろさの真髄にふれることができないだろう。

捌であれ連衆であれ、一家言が持てないと連句作家として腰砕けになってしまう。ただ連衆という立場は、捌の考え方に協力・同調するものでなくてはならない。それは捌が偉いからではなく、そうでなくては連句という文芸は成り立たない。

たとえ捌と連句観が違っていても、少なくても参加した一巻だけは捌の考え方を推し進めなくてはならない。協力しないことは、監督のやり方が気にいらないといって、役者が制作中の映画に対してあれこれと注文をつけるようなもの。それでは映画はできない。連句も同様である。おおざっぱに、以下のようなことが言えるのではないか。

連句の効用について・・・

()運座につながって多くの人と親交を深める。友達をつくって心を通わす。そこに重きを置くのが連句だと位置づける。

()共同制作に興味をいだき、連衆たちと連帯感をもつ。連句は孤独な詠者である俳句や短歌にない文芸だと位置づける。

連句の内容について・・・

()四季の配分を厳守し、季語の分類や季戻りにきびしく、式目の出し方にもこだわる

()文学性は二の次で、実態的な写生的な付句を中心にする。事実をえがき、それを羅列する。

()季語や式目は重要視せず、前句や打越や大打越、全体の流れも見ないで個性的な句をつける。

()実態的な付句と創造的な付句を織り交ぜながら、その言葉の綱渡りに連句の詩を見つける。

以上のように「A」「B」と、「あ」「い」「う」「え」に区分けしてみた。これ以外の考えもあるだろうし、これに収まらない考えもあろう。また、これらすべてが重複するという考え方もあろう。だが、自分のなかに連句観がないと、確固たる連句観がないと、より連句の高みを目指すことは出来ないように思うのだ。(09/04/02)