ようこそ縄文の世界へ
   このページは皆さんご存知の縄文時代の概略基礎説明です。
   久しく 縄文から遠ざかっていた方は、ちょっと目を通してみて下さい


はじめに
     introduction     

         縄文時代は下記のように旧石器時代と弥生時代の中間に位置し6時代
        に区分され、それぞれの細かな時代説明をする時は初頭・前・中・後・末
        葉等に細分化されます。時代区分は土器の特徴や様式が時代と共に変化
        しているためこれを利用し、時代の大きな節を考慮し編年しています。
         そのため当然のことながら各時代の区切りは、急に変わったのでなくゆ
        っくりゆっくり時は流れ、重なりながら時代移行していったのです。
         例えば縄文晩期の終焉は北九州ではいち早く弥生時代に移行したのに
        対し東北方面では弥生時代中頃まで晩期が続いていましたし、北海道は
        「続縄文」という時代がしばらく(奈良・平安時代頃まで)続くことに
        なります。
        早期や前期等の始まりについては未だに資料により年代がちがいます。
         これは非常に困った問題ですが、もっと困る問題は基本となる縄文時
        代の始めと終りの年代設定が暫定的設定であり、何を基準に決定するか
        という大きな問題まで抱えているのです。
         縄文時代の始まりについては「石器の確立を以って縄文と成す」のか
        「土器の出現を以って縄文と成す」のか意見が分かれますし、縄文時代
        の終りも「弥生式土器の出現を以って縄文の終わりと成す」のか「水稲
        農耕を基礎とする生活をもって縄文の終わりと成す」のか不明瞭である。
         既に藤森栄一氏の縄文農耕論は今では常識的にほぼ認知されているし
        米の存在については縄文土器への籾の圧痕や、後期に焼かれた土器胎
        土や土壌からプラントオパール(稲等の葉の中のガラス質の結晶体が分解
        せずに残ったもの)が発見されるなど年代定義の設定が難しい現状にある。
         基本的に縄文の時代設定が土器型式区分であることに少し無理がある
        からですが、本来時代区分は、歴史学的な根拠を持った文化内容や特色
        による区分を基本とすべきなのですが、不明が多い縄文時代延々と作り
        続けられた土器の特徴等による編年が年代の基準柱となるのは妥当なの
        かもしれません。いずれにせよ土器の変遷と生活文化の変遷のズレは、
        修正不可ですから縄文時代編年の歪として今後も永く尾を引くでしょう。

         土器編年
       Δ 草創期    早期    前期    中期    後期   晩期
         文化編年
       Δ 胎動期  →I形成期  →I成熟期               →I
       Δ 形成期        →I成熟期                 →I
       Δ 成立期        →I発展期   →I成熟期    →I終末期
          ( 上から佐々木高明・岡本勇・小山修三氏等による区分案 )

         日本考古学の歴史は1877年にモースが始めて大森貝塚を本格調査した
        ことに始まったと言っていいだろう。それ以降約100年余りになりますが、
         当初の宝捜し的な発掘に始まり、次第に日本のルーツが明らかになる
        につれ、その時代考証には激論が戦わされました。戦前は一時縄文時代
        は神国思想の邪魔者となる時代を経て今日に至っています。
         まだまだ本格的な発掘方法・資料作りの確立や近代科学分析による考
        証、多額の公的資金を投入しての大規模な遺跡全面発掘調査による総合
        的な考証などは歴史が浅く、乱掘調査からやっと確立の時代を迎えた感
        がある。それでも緊急発掘による乱掘状態が続くのは残念である。

         歴史が浅いと言えば少々過言かもしれないが、旧石器時代について言
        えばその存在は指摘されていましたが、1949年の岩宿遺跡の発掘で
        実証確認されるまではその存在が懐疑的であったし、縄文時代に至って
        は1950年代後半の近代的年代測定方法が確立するまで5000年前
        頃から始まったのではないかと考えられていました。

         近代科学の発達によりC14放射性炭素年代測定法が開発され12000
        年前頃まで縄文時代がさかのぼっていることが今では常識化していますが
        草創期の始まり等についてもまだまだ議論されるところです。
         草創期のもっと古い土器が発見されればその分だけ時代がさかのぼる
        ことになりますし、当時の海はまだ海退していて海岸線にあった遺跡は現
        在海面下にあり、絶対資料の不足によりまだまだ今後の研究調査の余地
        は山積しています。
         C14放射性炭素年代測定方法には実年代との誤差があり骨 木 貝が同
        じ場所から発見されても、それぞれ年代が異なり約500年前後の開きが
        出てしまいます特に貝類は実際より古い値がでますから補正が必要です。
         しかしC14炭素測定方法も高精度化しており誤差を数十年に押さえるこ
        とも可能になってきており、特に補正値の研究がその鍵を握っています。
        特に、出土する木からの年輪年代法の併用により精度は著しく向上した。
        この方法の受け入れについては当時の考古学者等の考えを覆すような大
        きな年代差が出たため戸惑いと反発があったのもうなずけます。
         しかし、今日の時代編年、区分に辿り着くまでには多くの考古学者が一
        万年の膨大な出土資料を一つ一つ紐解き類型化し激論を戦わせ悪戦苦
        闘の末編年されたものであり並々ならぬ困難の歴史があったのです。
         尚、今の時代区分は縄文土器研究の第一人者といわれる山内清男氏
        が全国の縄文土器の形態や文様の詳細な比較研究によって提唱された
        ものが支持され元になっています。

        【注】年代については、まだ少数の人に誤解があり、例えば縄文中期は
        紀元<前3000年>からとされていますが、<5000年前>と同義語で
        すので色々な資料を見るとき誤解しないようご注意ください。
        
        
        

縄文時代の変遷


                    下記の変遷年表は全てが順番通り並んでいるわけではありません。       
       各時代の大枠の中で内容を捉えてください.縄文時代は不明、見落とし、       
       未発見、見解の違い等沢山ありますので今後変わることもあります。       
       尚、左側の年代は全てBC表示で、各時代の年代区分けは従来のまま表       
       示してあります。 最近では早期BC7000〜 前期BC5000〜 弥生BC400〜       
       に年代補正されつつあるようです。先に東京国立博物館で開催された       
       (2001.1〜3)「土器の造形展」資料では補正年代が採用されていました。
 
旧石器時代
氷河期が終わり14000年前頃から海面が上昇しはじめ(海進)日本列島の
原型が残される。
 現在海中深部に旧石器遺跡と思われる構造物がある等と騒がれますが
氷河期最寒期は100mくらい海面が今より低かったと考えられます。そこ
 には当然人々の生活があったと考えてもけして不思議ではないのです。
ローム層の形成(縄文以前列島は噴火活動により幾度となく火山灰に覆われる)
BC ≒10,000年
草創期
土器が作られ 縄文時代が始まる
洞穴に住む例が多く細石器を使い隆線文土器等を使用した。
その後爪形文,押圧縄文、円孔文を施す土器郡が各地に展開する
石槍が姿を消しはじめ、弓矢による狩猟が始まる
単純な最古女神土偶石偶が作られた。(胴体、乳房表現が主で手足顔の表現はない)

 8000年 ―
早期
doki 撚糸文系土器様式が現れる。
押型文系土器様式の出現。
この時期の大きな特徴として土器の底が尖っている通称尖底土器が作られる
北海道方面では漁撈活動が活発化する。
(西日本では前期以降から外洋性漁業が活発化)

この頃犬が家畜として飼われていた

約4500年頃温暖化が始まる
この頃から九州方面から定住集落が出現するようになった。
(全国的に一般化するのは前期に入ってから)
 4000年 ―
前期
温暖化により平野部では海水が内陸奥地まで入り込む。(縄文海進)
(現在内陸部奥地の遺跡に貝塚が沢山あるのはこのためです)
土器が尖底から平底土器へと変遷し、縄文文様が発達する。
容器への装飾が豊かになり、次に迎える中期への基礎が出来る。
関東、中部地方において住居が墓を囲むように環状あるいは弧状に
集落が形成されるようになる。
(この後東日本では大集落が形成されたのに対し、西日本では少ない)
クリの木が食料、用材として人工的に管理されるようになる。
徐々に気候が冷涼化して海退が少しづつ進む(現在の陸形は晩期頃形成)
漆技術の発達により器面への塗装、土器の補修や矢じり、櫛等接着剤とし
て使われ始めた。
磨製石斧が発達し、丸木舟を作る
けつ状耳飾り等装身具が発達
男性器の形をした小さな石棒が作られ始めた
 3000年 ―
中期
土偶が爆発的に作られるようになる。(早、前期の土偶は全体の約2%)
自立できる大型の土偶(有脚立像)が作られ国宝縄文のビーナスはこの典型。
土器は力強く、豪華な装飾を付けた物が作られるようになる。
石棒が大型化し1m近いものまで現れる
kaen 千葉から長野県中部高地に人口が集中し多彩な文化が花開く。
中期中頃新潟県信濃川一帯に火焔型土器が出現
長野県姫川のヒスイや千葉の琥珀などの貴石を使い大型垂飾りが作られる
列島の推定人口は26万人といわれている
関東・中部にかけて土器の側面や取手部に
人面や蛇などの具象的装飾が流行る。
有孔鍔付土器が作られる

中期後葉より気温が下がりはじめ、人口も激減が始まる
 2000年 ―
後期
土器文様は沈線文等地味になり一時的にもろく粗雑な土器が出現する
集落が小規模化し、住居の立地が低地に移動し始める。敷石住居が広まる。
土器の器種が多様化し注口土器、浅鉢等が盛んに作られるようになる。
文様も磨消縄文が東西の広範囲に分布し、地域色の強い土器が少なくなる。
石棒が屋外に置かれるようになり配石、環状列石等にまつられる。
茅野市で発掘された大型仮面土偶が作られる。
この頃の土偶は立像に加え坐像も現れ、ミミズク形土偶等多様な
神の偶像化が進む。
九州地方に大陸から異なった文化の波及が見られるようになってきた。

抜歯の風習が一般化する。
 1000年 ―
晩期

東北方面で亀ケ岡文化圏ができ、装飾など制作技術が高い
中空の遮光器土偶や雲形装飾土器は、この時期を代表するもの。
この亀ケ岡文化圏は広く関東・東海・近畿地方まで及んだ。

syakou 漆器制作が盛んになる
石棒が小型化し石刀が現れる

叉状研歯の風習があらわれる。

米作りを中心とする農耕が始まる
 BC300年 ―
弥生時代
(縄文農耕論が活発化される現在、米論争は晩期に組み入れるか、弥生時代
開始時期が早まったとするのか議論は活発に展開している)
北九州一帯では渡来系との混血が徐々に進み骨格に変化が現れる。
(弥生人は面長と言われていますがこれは一握りの地域のみで、
殆どの弥生人は縄文人の顔をしていました。今でも混血は進んでいるのです)



            Cord marked potteryと索文と縄紋と縄文について


            今年(2001年)の1月30日〜3月11日まで東京国立博物館で開催された
           土器の造形展では次ぎのような紹介がありました。
           「 1879年、モース(米国)が大森介墟古物編(英文)という報告書で
           Cord marked pottery(索文土器)と表現したのが最初です。
           1886年白井光太郎がこの言葉を「縄紋土器」と訳し、ついで1888年、
           神田孝平が「縄文土器」と改めました」公的機関で開催されたとはいえ、
           そのまま鵜呑みにできませんがその様な見解でした。
           尚、ネット上でHN早傘さんが下記URLにniftyでの関連発言をアップ
           しましたので「紋・文」についてこちらをご参考ください。

             ここ


                縄 文 時 代 推 定 人 口


            
            縄文草創期 1万2千年〜1万年前  人口不明    ・縄文時代の基礎構築時代
            縄文早期  1万年〜6千年前    約2万人     ・南九州で縄文文化が開花
            縄文前期  6千年〜5千年前    約10万5千人 ・文化の中心が東日本に移る
            縄文中期  5千年〜4千年前    約26万1千人 ・人口が最高となる・縄文文化の最盛期
            縄文後期  4千年〜3千年前    約16万人    ・気候の寒冷化・人口激減
            縄文晩期  3千年〜2千5百年前  約7万6千人  ・出生率の低下・渡来人の帰化始まる

                 現在考えられている推定人口ですので参考資料として付記します



土偶について


             土偶類には石偶、岩偶、板状土偶等があり、縄文時代全般に渡って断続的に作られました
           使用目的に付いては呪術目的であったであろうとするのみで結論は得ていない。ただその目的
           用途は各時代、地域により違っていたであろうと考えられている。そうしないと説明に無理が生
           じてくるからである。どんな事にも必ず例外があるので少数に付いては切り捨てる勇気も必要か
           もしれない。いずれにせよ大方の考古学者が推測するように母なる女性は生殖、豊饒、繁栄の
           象徴として使った表現であり、これに地母神信仰が結びつき、「壊す」という行為は殺すというこ
           とであり、再生を意味し新しい命の誕生・豊饒をも意味することを過去の生贄伝説や神話が語
           っています。どんな解釈が一般的か混沌としていますが貴方はどのようにお考えですか?

            土偶を研究する上では地域的特徴、分布と変遷、形態分類、形式ルーツ(家元)、等々多義に
           亘り学ばなければいけませんが、そうした一部難しいことは学者さんにお任せして土偶の不思議
           にちょっと迫ってみましょう。
            私の住んでいるここ茅野は、縄文中期最も繁栄した八ヶ岳を中心とした中部高地の一角です。
           土偶出土量は長野県と山梨県を合わせれば全国の約30%近くを出土し、当時の人口26万人
           中7万人がこの中部高地に住んでいたといわれています。国宝土偶を有し、それに次いで準国
           宝級といわれる大形仮面土偶が出土している当地から敢えて土偶について全国に発信します。

          土偶解明のキーワード?

         ●  殆どが女性を表現している ・・・・・・・・乳房・生殖器の強調
         ●  殆どが壊され埋められている・・・・・・・壊す事を前提に壊しやすく作ったものが多い、
                               少数ではあるが壊さないものもあったようである。
         ●  土偶腹部が膨らんだものとそうでないものがある・・・・・・・腹部がくびれたものもある
         ●  ヒト形だけでなく猪、猿、貝他動物土偶がある(偶とはヒトに関する意味合いがあるので、ヒト
              形以外は土製品と言った方が適当かも?しかし制作意図が同じ可能性もあるので挙げて
              みた) 
         ●  三本指が多い
         ●  お腹に丸石を埋めこんだものや、お腹が中空になっていて中に玉があり鳴る土偶がある
         ●  ポーズする土偶のいみは?(手を胸・腰・腹・背中・頬等に当てたり、乳児を抱く、壷を抱く、
              といったものや、出産中途のものまである)
           
         ●  土偶を置くのに寝かす(板状)タイプ・立てる(立像)タイプ・吊るすことができるタイプ
              (意外に大形でも首後ろに紐が通せる穴がある、何に使ったのか?)
         ●  華やかに着飾ったであろうと思われる土偶がある(土偶の権威ある方々には叱られそうですが
              西の前タイプは顔や手を別につけて頭には鳥の羽等で飾ったとみられる穴がある。
              単なる顔や腕の省略でないかもしれない)
         ●  お腹に縦に描かれた正中線は何を意味するの
         ●  目の表現に威嚇目と笑い目などありその意味するものは?
         ●  漆やベンガラなどで彩色されたものがある。
         ●  手の方向が中期前半は水平方向が多いのに対し、後半はやや上に上げるもの(万歳形)が多く
              なり、晩期になると下げているのは何故?
         ●  土偶が壷に描かれたものや付けられたものがある。
         ●  etc


          縄文時代延々と作られた土偶は謎多いものの一つであるが、縄文文化の精神や深層構造に深く関
         わっているとみられ、私が軽々しく説明できるものではない事は敢えて承知でここに載せてみました。
         土偶の意味に未だ絶対的な答えが用意されていない現在、ここでは皆さんがキーワードを通じて想
         像していただくことが大切ではないかと思い、並べてみました。
          ただし、勝手な想像、思いこみも意外な答えがあり大切にしなければいけませんが、たくさんの
         土偶や資料を見て総合的に判断することも大切かと思います。この場合、時代変遷により意味合い
         が違う土偶も考えられますから焦点がボケてしまうことになるかもしれません。現代感覚での捕ら
         え方も問題です。でもそこには太古の夢とロマンがあります。一緒に想像し、考えてみましょう。
         きっと建設的なご批判もあると思いますので時々更新したいと思います。