2. なまえ − 5

 続く世代としては敏達の「渟中倉太珠敷」、用明の「橘豊日」、崇峻の「泊瀬部」、そして推古の「豊御食炊屋姫」といったところになりますが、話の都合で用明の「橘豊日」から見てみたく思います。
 用明の「橘豊日」については『忌み名の研究』に宣長の『古事記伝』での見解が引かれていまして、「橘は地名、豊日は称名。孝徳天皇をも天万豊日尊といった」とあるようです。 歴代の「名」に関して考察されたページ でもこの見解を是とされているようですが、ただ「豊日」については「天万 + 豊日」、宣長の「称名」、称えた名という形ではなく「諱」、出生直後の命名という形で見ておられるようです。私もこちらのご見解に従わせていただき、名は「トヨヒ」であったと見たく存じます。雄略の「オホハツセノワカタケル」の「ワカタケル」、安閑の「ヒロクニオシタケカナヒ」の「カナヒ」同様、呼称の末尾の漢字の訓で表記すれば2文字程度の語といったあたりに結局落ち着いてしまいそうですが、「豊日」という名はその「金日」とも似ています。やはりその時代のパターンだったのではないでしょうか。
 ちなみに、大伴氏の祖先として垂仁252月甲子(8日)に「武日」(タケヒ)という名も見えます(「阿倍臣の遠祖武渟川別・和珥臣の遠祖彦国葺・中臣連の遠祖大鹿嶋・物部連の遠祖十千根・大伴連の遠祖武日」と列挙されているところです)。この「武日」は『日本書紀』では日本武尊の東国遠征に従ったらしいので、伝説的な人物というより伝説上の人物と思われますが、この「武日」について古典文学大系の注には「伴氏系図によれば豊日命の子」と見えます。無学なので「伴氏系図」とは何なのか存じません。
 そういうわけで、結局呼称の末尾の漢字の訓で表記すれば2文字程度の語というあたりに落ち着いてしまうことになりますが、私も用明の実名も孝徳の実名も「トヨヒ」(豊日)だった可能性が高いのではないかと思っております。以上です。

 「橘豊日」の「橘」についても、やはり地名と見るご見解に従わせていただきたく思います。孝徳の「天万豊日」の「天万」(あめよろづ)のほうについては、古典文学大系の注を見てみますと天も万も美称とされたうえで『家伝上』に孝徳を「軽万徳王」と表記していることが示されています。『家伝上』(『藤原鎌足とその時代』の巻末資料の「『家伝』鎌足伝(大織冠伝)」によりました)を見てみますと、ちょうど『日本書紀』孝徳即位前紀の皇極46月庚戌(14日)、皇極から譲位する旨を伝えられた中大兄(天智)が中臣鎌足に相談した際の鎌足の返答の「古人大兄、殿下之兄也。軽皇子、殿下之舅也」が、『家伝上』では「古人大兄、殿下之兄也。軽万徳王、殿下之舅也」とかわっています。淡海三船によるらしい「孝徳」などの漢風諡号の撰進と『家伝』の成立との時間的な前後関係は微妙かもしれませんが、これは「古人大兄」の4文字とそろえるために藤原仲麻呂あたりが「天万豊日」と「孝徳」あたりから作り出した称とも考えられるように思います。
 『日本書紀』顕宗即位前紀、播磨の縮見屯倉(しじみのみやけ)の首(おびと)の家に来ていた伊予来目部小楯(いよのくめべのをだて)がその家で下働きに身をやつしていた仁賢・顕宗兄弟に舞を舞わせ、その席で顕宗が名乗って自身の正体を明かす。この時代のものとしては疑わしい表現も多い記述ながら、ここは能とか狂言を思わせる一種劇的な場面で、「演劇的要素」といったものに言及された記述もどこかで拝見した記憶があります。その顕宗の名乗りの中に「市辺宮(いちのへのみや)に天下(あめのした)治(しら)しし、天万国万押磐尊(あめよろづくによろづおしはのみこと)の御裔(みあなすゑ)」という言葉が出てきます。雄略に殺害された父の市辺押磐皇子をこのような形で言っているわけです。事実とすれば和風諡号的な長い呼称の先駆けかとも見られるのですが、仁賢の実名をオホシ、顕宗の実名をイハスワケと見て、石・磐でつながる「押磐」(オシハ)を父の市辺押磐の実名ととらえることが許されるなら、「天万国万」(アメヨロヅクニヨロヅ)は実名の上に付けた美称ということになり、孝徳の「天万豊日」の「天万」も同系統の美称と見ることができるのではないか……そんなふうに思うのです。もっとも先の『家伝上』の「軽万徳王」の例から考えればこの「天万国万押磐尊」もずっと後、孝徳朝以降とか記紀の成立直前に作られた名称と見ることも可能かもしれませんが、ここでは市辺押磐の実在性とか系譜・伝承の信憑性(しんぴょうせい)などとは関係なく、記紀編纂に近いころの「実名」や呼称といったものに対する意識の問題として考えています。

 「橘豊日」の「橘」については、歴代の「名」に関して考察されたページ で拝見しますと、『古事記伝』では大和国高市郡の地名と見ているようです。古典文学大系の注には奈良県明日香村の橘の地名が挙がっています。どちらも現在橘寺のあるあたりを指しているのでしょう。称に「橘」の付く王子・王女としてはほかに仁賢の娘で宣化皇后の「橘仲皇女」(たちばなのなかつひめみこ、宣化元年3月壬寅朔=1日。仁賢元年2月壬子=2日に「橘皇女」、『古事記』宣化段に「橘之中比売」)や用明の同母・異母の兄弟に見える「橘本稚皇子」「橘麻呂皇子」などが目につきます。もっとも「橘本稚皇子」(たちばなのもとのわかみこ)などは「橘本」という地名なのかどうかもよくわかりません。
 ほかに「橘」のつく名といえば「橘三千代」(県犬養三千代)、「橘諸兄」(葛城王)といった例が思いつきます。この「橘」の由来……県犬養三千代が「橘宿禰」の姓をたまわった理由というのは、『続日本紀』天平811月丙戌(11日)、橘三千代と美努王(みののおほきみ)の間の子である葛城王(橘諸兄)・佐為王(橘佐為)ら兄弟が生母の橘三千代のたまわった橘宿禰姓の賜姓を願い出た上表に引用されて見えています。このエピソードは直木孝次郎さんの「天平十六年の難波遷都をめぐって」(『飛鳥奈良時代の研究』塙書房 1975 所収)の付論「元正太上天皇と橘諸兄」にも引かれているところで、藤原氏に対抗する元正と諸兄の親密さを『万葉集』の歌などを通じて説いておられるのですが、とりあえずいまは「橘」のもつ意味の方向に絞って見させていただきます。
 諸兄らの上表によれば、三千代は和銅元年1121日に元明即位の大嘗祭に供奉し、25日の「御宴」の際に元明から忠誠を称えられて「浮杯之橘」、さかずきに浮かべたタチバナをたまわった。その際の元明の勅が「橘者果子之長上、人之所好、柯凌霜雪而繁茂、葉経寒暑而不彫。与珠玉共競光、交金銀以逾美。是以汝姓者賜橘宿禰也」――タチバナは果物の長上、人の好むところ。枝は霜雪をしのいで茂り、葉は寒暑を経てしおれない。珠玉と光を競い、金銀を交えていよいよ美しい。こういう理由で汝に橘宿禰の姓を賜わる――とあったと見えています。ところが『続日本紀』和銅元年11月乙卯(21日。「乙卯。大甞。遠江但馬二国供奉其事」)・癸未(25日。「癸未。賜宴職事六位以下。訖賜絁各一疋」)の近辺には県犬養宿禰三千代の名はいっさい見えないのではないでしょうか。それ以前の同年5月辛酉(30日)には三千代の前の配偶者である「美弩王」が没しています。
 ともかく和銅元年1125日に県犬養三千代が「橘宿禰」姓を賜姓された理由は葛城王の上表に見えたようなもので、この例については地名ではなかったようです。孝徳の「天万豊日」の「天万」も地名ではないでしょうから、用明の「橘豊日」の「橘」もまた地名でない可能性が出てきそうですが、用明についてはやはり地名ととらえたく思っております。
 用明は「池辺(双槻宮○○)天皇」系統の称でなければ一貫して「橘豊日(命・天皇)」の印象があって、『日本書紀』敏達143月丙戌(30日)では「橘豊日皇子」ですし、『古事記』も欽明段(「橘之豊日命」)・用明段(「橘豊日王」)ともにそうです。他の例では『上宮聖徳法王帝説』冒頭に「伊波礼池邊双欟宮治天下橘豊日天皇」、少しあとにも「伊波礼池邊宮治天下橘豊日天皇」とあって、また末尾近くで「池邊天皇」、『上宮聖徳法王帝説』所引の天寿国繍帳銘が「多至波奈等已比乃弥己等」、『日本霊異記』上巻第4に「磐余池辺双欟宮御宇橘豊日天皇」、上巻第5に「用明天皇」。あまり参考になりませんが『元興寺縁起』に「池辺列槻宮治天下橘豊日命」、同丈六光銘に「多知波奈土与比天皇」などと見えています。
 欽明23月の堅塩媛所生の子の記載では用明は「其一曰大兄皇子。是為橘豊日尊」という形で見えていますが、「大兄皇子」とする記載はこれだけのように思われます。『古事記』からうかがいますと、おそらく原典となったであろう「帝紀」あたりの記載では、即位したとされる存在については「沼名倉太玉敷命」「橘之豊日命」「豊御気炊屋比売命」などのいわゆる和風諡号の形でのみ記されていて、「○○皇子」(「○○王」か)の形の称は伝わっていなかったのではないでしょうか。また用明以外で単に「大兄皇子」と表記する例としては、たとえば継体612月に見える安閑を指す「大兄皇子」や、舒明2年正月戊寅(12日)の法提郎媛の子の古人大兄を指す「大兄皇子」といったものもあります。ことに古人大兄については同記事の分注で「更名大兄皇子」と記述しているものです。
 加えて、敏達143月丙戌には「橘豊日皇子」と見えており、「大兄皇子」ではありません。もしも用明の「大兄皇子」が実際に広く認識され用いられていた称であるなら、ここも「橘豊日皇子」でなく「大兄皇子」でよかったはず。これらから考えれば用明の「大兄皇子」も本来続柄か地位の称あたりであって、『日本書紀』の著述者が用明に関する「更名大兄皇子」といった記録を見つけて欽明23月条に書き加えてしまったものではなかったかとも疑われるでしょう。
 敏達143月丙戌の「橘豊日皇子」という言い方はいわゆる和風諡に対し「ミコト」「天皇」でなく「皇子」を付けたもので、欽明即位前紀宣化412月甲申(5日)の「天国排開広庭皇子」と一見似た印象です。しかしながら「帝紀」が伝えなかった用明の「○○王」といった称を、別の資料がたまたま「タチバナトヨヒ王」などといった形で伝えていた可能性もあるのかもしれません。もっともそれでは『古事記』用明段冒頭の「橘豊日王」と同じことになってしまいそうですし、また欽明紀が「大兄皇子」としているのに敏達紀が「橘豊日皇子」としているというのも奇妙な印象ですが、推古の「額田部皇女」の称は推古即位前紀にのみ見えていて欽明23月の堅塩媛所生の子を列挙した箇所には見えませんし、天智の「葛城皇子」の称も舒明2年正月戊寅(12日)に見えたきりほかに登場する記述はないのではないでしょうか。『日本書紀』という書には著述者間できちんと連絡がとれていなかった、最終チェックができなかったという印象の部分がかなりうかがわれるのです。

 ところで『日本書紀』では用明紀・崇峻紀がともに巻21に収められているのですが、用明紀冒頭は「橘豊日天皇、天国排開広庭天皇第四子也。母曰堅塩媛」、崇峻紀冒頭は「泊瀬部天皇、天国排開広庭天皇第十二子也。母曰小姉君」といった書き出しで始まっています。
 この「第○子」という表記については青木和夫さんが「日本書紀考証三題」という論文で考証され、また直木孝次郎さんが「忍壁皇子」(初出『万葉集研究』第二冊 1973、『飛鳥奈良時代の研究』所収)の中でそれに対する異見を述べられたといった経過があったもののようです。これにつきましてもウェブのあるページで最近はじめてご教示を得た形です(なお、同ページは史料を博捜されていて私ごときにはとても及ばないものなのですが、ご見解のお立場を認めてしまいますと、以下に申しますことの前提が崩壊してしまいますので、まことに申し訳ないのですが立場を異にさせていただきたく存じます)。
 古典文学大系『日本書紀』の天武紀下の補注に「書紀の皇子・皇女の記載順序は、おのおのの母である后妃ごとに括られ、同腹の子女は性別に関係なく長幼の順に列記され、后妃の順は皇后・妃・夫人・宮人といった格によっている。これに対し、続紀で天武天皇の第○皇子と称する場合は、生母である后妃のうち、天皇の妻としての資格を有する内命婦以上の者と、それ以外の者との二つのグループに分け、おのおのの中で長幼の順によるという方法をとっている」とあって、これが青木さんのご見解の要約となっているようです(もとより青木さんも直木さんも、天武の皇子の誕生順について問題とされたもののようですが)。
 青木さんのそれを拝読していない立場で記述するのも気が引ける部分がありますが、その伝でいけばたしかに『続日本紀』に見える元明を天智の第4女とする記載(巻1冒頭の「天之真宗豊祖父天皇。(中略)母天命開別天皇之第四女。平城宮御宇 日本根子天津御代豊国成姫天皇是也」、巻4冒頭の「日本根子天津御代豊国成姫天皇。小名阿閇皇女。 天命開別天皇之第四皇女也」)などは考えやすくなります。『日本書紀』天智72月戊寅(23日)の天智の后妃・所生子の記載には、遠智娘(をちのいらつめ。蘇我倉山田石川麻呂の娘)の子として大田皇女(おほたのひめみこ)・鸕野皇女(うののひめみこ。持統)・建皇子(たけるのみこ)、姪娘(めひのいらつめ。蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘の妹)の子として御名部皇女(みなべのひめみこ)・阿陪皇女(あへのひめみこ。元明)……といった順で列挙されています。
 しかしながら持統称制前紀の朱鳥元年10月庚午(日)、大津皇子に死をたまわった記事には「皇子大津、天渟中原瀛真人天皇第三子也」とあります。この「第三子也」については古典文学大系の注にも高市―草壁―大津という順を意識しておられるらしい記述が見えますが、これは天武紀下の22月癸未(27日)の后妃・所生子の記載順とは異なっており(「皇后」持統の子の「草壁皇子尊」、大田皇女の子の大来皇女と大津皇子……という順で、胸形君徳善の娘の尼子娘の所生である「高市皇子命」は記載順では男子の8番目)、『日本書紀』では扱いが違うのかとも疑いますし、また直木さんのご見解もからんできそうですので、拝読していない現状では何とも申せません。
 ともかくも、こういう観点から用明紀の「橘豊日天皇、天国排開広庭天皇第四子也」、崇峻紀の「泊瀬部天皇、天国排開広庭天皇第十二子也」を見てみますと、先にお示ししました欽明紀の后妃・所生子の記載と比較して違和感があります。欽明紀の記載順では用明は男子の5番目ですし、崇峻は15番目です。ちなみに推古即位前紀では「豊御食炊屋姫天皇、天国排開広庭天皇中女也」とあって、この「中女」は宇治谷孟さんの『日本書紀(下)』の訳では「第二女」でした。「中」字に「2番目」という意味があったようですが、実際に「2番目」と見ると堅塩媛所生の女子の中での「2番目」としか解釈できません。手元にあります頼山陽の『増補 日本政記 一』という明治9年の版本(「頼氏蔵板」とあるだけで版元もわかりません)の「推古天皇」の項の分注には「欽明第九女」とありますが、これは欽明紀の子女を男女関係なく記載順に全部数え上げていった数字のようです。即位前紀というものは全般に疑わしい印象なのですが、用明紀の「第四子」、崇峻紀の「第十二子」はなぜかひっかかりました。
 『日本書紀』成立から600年近くを経た正和3年(≒1314年)の成立とされている法空の『上宮太子拾遺記』は、藤巻一保さんの『厩戸皇子読本』(原書房 2001)によれば『聖徳太子伝暦』の注釈書である同じ法空の『聖徳太子平氏伝雑勘文』の補遺として著されたもののようです。その中にやはり同じように用明の「第四子」、崇峻の「第十二子」について疑っている記述が見えます。もっともこれは『聖徳太子伝暦』に記載された数字を疑っているもののようです(以下『上宮太子拾遺記』『聖徳太子伝暦』についても天台宗典編纂所『天台電子佛典CD3』所収の「上宮太子拾遺記.TXK」「聖徳太子伝暦平氏.TXK」データによらせていただきました)。
 用明については問答形式で「問。欽明天皇第四皇子者。如日本記者。用明天皇第五子也」――問う。欽明天皇の第4皇子とあるのは、『日本書紀』のごとくならば用明天皇は第5子である――などと始めて『日本書紀』の欽明の后妃・所生子を用明まで列挙し、「若准此説者。可云第五也。而今此平伝。第四者」――もしこの説(『日本書紀』の記載)に従うなら第5というべきである。しかし『聖徳太子伝暦』が第4とするのはなぜか――などと問うているのに対し、「愚推云。彼珠勝皇子。欽明天皇十三年夏四月薨畢。仍以第二御子敏達為先。而定第四皇歟」――私が考えるに、珠勝皇子は欽明天皇13年夏4月に薨去している。よって第2の御子の敏達を先頭とし、(用明を)第4皇子と定めたのであろうか――などとしているもののようです(こういうことでいいのかどうかわかりません)。
 ともかく法空は用明の「第四子」については自分なりに解決していることになります。そして『聖徳太子伝暦』には「用明天皇」の分注に「諱橘豊日。欽明天皇第四子。敏達天皇第三弟也。磐余池邊双槻宮。治二年」と見えているようです。「欽明天皇第四子。敏達天皇第三弟也」などという書き方は、見ようによっては法空の言うように(1)敏達(2)石上皇子(3)倉皇子(4)用明と数えて「第四子」、敏達の弟を(1)石上皇子(2)倉皇子(3)用明と数えて「第三弟」とすることで『日本書紀』用明紀の「天国排開広庭天皇第四子也」に説明を加えたもののようにも見えますが、また考えようによっては「欽明天皇第四子」という数字から敏達の兄である箭田珠勝大兄皇子(やたのたまかつのおほえのみこ)を単純に差し引いて「敏達天皇第三弟」としたもののようにも思えます。
 崇峻については「平伝云。欽明天皇第十二子(云云。扶桑記亦同之)。一説云。此十二子字難思。方疑以二字可作五也。其所以者。自欽明第一皇后御子。乃至第五妃御子。除女子。男子計。次第数之。此天皇当第十五也」――『聖徳太子伝暦』(「平伝」)に欽明天皇の第12子とある(『扶桑略記』もまた同じ)。一説に言うには、この「十二子」は納得がいかぬ。「二」は「五」とすべきではないか。なぜなら、欽明の第1の皇后の御子から第5の妃の御子まで女子を除き男子ばかり順に数え上げれば、この天皇は15番目に当たるからだ――などと記したのち、わざわざ欽明の后妃ごとの所生子の系図を「第一(石妃)・第二(綾姫)・第三(日影)・第四(堅塩)・第五(小姉)・第六(日糠)」と書き上げ、所生の男子もその順で「一男珠勝大兄」「二男敏達」「三男」「四男」「五男用明」……「十五男崇峻」と数え上げています。そしてその系図のあとで「日本記云。泊瀬部天皇。広庭天皇第十二子也。母稲目宿禰女。小姉君也。(旧事本文同之。十五云)」などと記しているようです(こちらも、こういうことでいいのかどうかわかりません)。崇峻の「第十二子」については法空は解決案を示していないわけです。そのかわり用明の「第四子」、崇峻の「第十二子」が『聖徳太子伝暦』『扶桑略記』の言い始めたことでなく『日本書紀』以来のものであることに気づいたかのようにも思われます。

 『古事記』欽明段と『日本書紀』欽明紀の后妃・所生子の名を列挙した箇所の記載を比較すると、表記は大きくかわっているものも見られますが、全体としては非常に整然と対応しており、とくに子女の合計は25人で両者とも一致しています。ところが后妃の数は『古事記』が5人、『日本書紀』が6人を挙げていて合いません。
 実は『古事記』で后妃の3人目に記している「春日之日爪臣之女、糠子郎女」とその所生子とされる春日山田郎女・麻呂古王・宗賀之倉王のうち、生母の糠子郎女と春日山田郎女・麻呂古王の2人の子を『日本書紀』では23月の「五妃」の記載の末尾に回して「次春日日抓臣女曰糠子。生春日山田皇女与橘麻呂皇子」という形で扱っています。そしてどうやら『古事記』の宗賀之倉王だけ、皇后石姫の妹の日影皇女(ひかげのひめみこ)という女性の子の倉皇子という形にして残した。后妃の数の不一致は『日本書紀』でこの日影皇女が追加されていることによります。そして分注で「ここに皇后(=石姫)の妹と言っているのは、明らかに檜隈高田天皇(=宣化)の娘ということである。しかし后妃の名を列記した記載には、その生母である妃の姓とこの皇女の名は見えず、何の書が出典なのか知らない(「不知出何書」)。のちに考える人が解決してくれるだろう(「後勘者知之」)」みたいなことらしい、少し無責任かとも思われる弁解が見えます。
 実はこの宣化皇女に関する記述は既に『日本書紀』内部で、宣化紀と欽明紀との間で矛盾・破綻しているのです。
 宣化紀の元年3月己酉(8日)には「己酉、詔曰、立前正妃億計天皇女橘仲皇女為皇后。是生一男三女。長曰石姫皇女。次曰小石姫皇女。次曰倉稚綾姫皇女。次曰上殖葉皇子。亦名椀子。是丹比公・偉那公、凡二姓之先也。前庶妃大河内稚子媛生一男。是曰火焔皇子。是椎田君之先也」とあり、皇后とした仁賢皇女の「橘仲皇女」(たちばなのなかつひめみこ)所生の子に「石姫皇女」(いしひめのみこ)・「小石姫皇女」(こいしひめのみこ)・「倉稚綾姫皇女」(くらのわかやひめのみこ)・「上殖葉皇子」(かみつうゑはのみこ)の名が見えているのですが、これは欽明紀に見える「(正妃武小広国押盾天皇女)石姫」「(元妃、皇后弟曰)稚綾姫皇女」「(次有皇后弟。曰)日影皇女」というのとは違っています。欽明紀の「日影皇女」は宣化紀には見えないのです。
 また崇峻即位前紀の用明26月辛亥(8日)の「宅部皇子」(やかべのみこ)誅殺の記事にも分注に「宅部皇子、檜隈天皇之子、上女王之父也。未詳」などとあって、この「宅部皇子」もまた宣化段・宣化紀に見えません。
 欽明紀の日影皇女についてはその分注に「此曰皇后弟。明是檜隈高田天皇女。而列后妃之名、不見母妃姓与皇女名字、不知出何書。後勘者知之」などと見えており、「列后妃之名、不見母妃姓与皇女名字」というのはこの宣化紀の橘仲皇女所生の子の記載か、またはその原本となった記録(「帝紀」といったものでしょうか)あたりを指すのでしょう。それが『古事記』宣化段(真福寺本)のほうでは「(前略)天皇、娶意祁天皇之御子、橘之中比売命、生御子、石比売命。〈訓石如石。下效此。〉次小石比売命。次倉之若江王。又娶川内之若子比売、生御子、火穂王。次恵波王。此天皇之御子等、并五王。〈男二、女二。〉(後略)」となっており、上の3人「石比売命」「小石比売命」「倉之若江王」については『日本書紀』宣化紀と対応しているように思われますが、「倉之若江王」については男女の別がわかりません。日本思想大系『古事記』の補注では「記伝のように倉之若江王を男王とみなし、下文の男女合計の注も真福寺本の「男二」を「男三」と改めるのがふつうである」とする通説に言及されたのち、『日本書紀』宣化紀の記事にも触れ、『古事記』の「王」は令制の親王・内親王・(諸)王・女王のどれにも通じることを述べて、本文のほうでは「并五王。〈男二、女二。〉」のままにされています。なお『古事記』欽明段の后妃の記載では先にも引きましたように「石比売命」「(其弟)小石比売命」と見えており、これだけであれば宣化段と、そして『日本書紀』宣化紀と矛盾しないのです。『古事記』欽明段と『日本書紀』欽明紀とを比較した際にもっとも矛盾があらわれます。

 

『古事記』

宣化段

石 比 売 命

小石比売命

倉之若江王

欽明段

石 比 売 命

小石比売命

『日本書紀』

宣化紀

石 姫 皇 女

小石姫皇女

倉稚綾姫皇女

欽明紀

石  姫

稚綾姫皇女

日 影 皇 女

 


 また宣化紀が橘仲皇女の男子としている「上殖葉皇子」については、『古事記』では「恵波王」がそれに対応するもののように思われますが、こちらは「川内之若子比売」の子、しかも「火穂王」の弟として見えています。この所伝の違いについてもどう解釈してよいのかわかりません。常識的に考えれば『日本書紀』のほうが年代が新しいのだから、この場合は何かの根拠に基づいて原資料の記載を改めたものと見るあたりに落ち着くでしょうか。通常ならば何でもとにかく古いもののほうを信頼すべきところなのかもしれません。

 それはさておき、もしも仮に『日本書紀』欽明紀の后妃・所生子の記載が『古事記』を参照しているのだとしたら、あるいは『古事記』も『日本書紀』も同一の資料(「帝紀」でしょうか)を参照しているのだとしたら、なぜ『日本書紀』は春日日抓臣の娘の糠子と春日山田皇女・橘麻呂皇子を記載の末尾に回したのか。
 これは既に岸俊男さんの「ワニ氏に関する基礎的考察」(『日本古代政治史研究』塙書房 1966所収)などにも言及されていることで、「春日山田皇女」というのは『古事記』『日本書紀』ともに仁賢の皇女として名の挙がっている存在です(『古事記』仁賢段に「又、娶丸迩日爪臣之女、糠若子郎女、生御子、春日山田郎女」、『日本書紀』仁賢元年2月壬子=2日に「(前略)次和珥臣日爪女糠君娘、生一女。是為春日山田皇女。〈一本云、和珥臣日触女大糠娘、生一女。是為山田大娘皇女。更名赤見皇女。文雖稍異、其実一也。〉」)。「ワニ氏に関する基礎的考察」によれば春日氏は和珥(ワニ)氏から分かれたもの、というよりもワニ氏が春日の地に移って春日氏となったもののようですから、和珥臣日爪と春日日抓臣とは同一人物と見なせそうなのです。さらに欽明即位前紀には宣化没後に欽明が自身の「幼年」を理由に安閑皇后の「山田皇后」に即位を要請した話が見えますが、この安閑皇后の「山田皇后」は仁賢の娘の春日山田皇女です。欽明の生母はやはり仁賢の娘で武烈の同母の姉妹とされている手白香皇女ですから、この春日山田皇女というのは欽明の生母の手白香皇女の異母の姉妹、すなわち欽明の「おば」ということになります。「ワニ氏に関する基礎的考察」の注によれば『古事記伝』が欽明の娘のほうを誤伝とし、『日本書紀通釈』もそれに従っているもののようです。
 橘麻呂皇子(麻呂古王)は仁賢段・紀に見えませんので、なぜ春日山田皇女とともに記載末尾に移されたのかわかりません。日影皇女同様何か独自の所伝に基づくのでしょうか。「宗賀之倉王」が「倉皇子」という形で原位置(「蘇我稲目の娘堅塩媛」の直前)に残された理由もよくわかりません。これも日影皇女の所伝にあった名なのでしょうが、『古事記』の「宗賀之倉王」の表記を見て感じますのは、『日本書紀』ではなくなっている「宗賀之」の部分が、すぐあとに続く「又娶宗賀之稲目宿禰大臣之女岐多斯比売」の「宗賀之」と共通していることです。ここから妄想を広げれば、たとえば以下のように考えることはできないでしょうか。
 『古事記』や『日本書紀』が参照した資料――あるいは「帝紀」などと呼ばれているものかもしれない原資料の、さらにそのもととなった「原・原資料」とでもいうべきものは、元来木簡とか竹簡のようなものを単語帳とかスダレ、ないしは檜扇(ひおうぎ)のような形で綴った形態のもので、后妃や子女が増えるたびに追加していくような性質のものだった。だから逆に分解しやすく、「帝紀」といったものの編纂時には復元が難しいような残り方だったか、あるいは誤った形のまま写された写本しかなかった。この「宗賀之倉王」の「宗賀之」も、じつは「宗賀之稲目宿禰大臣之女……」などと続いていたものの「稲目……」以下が脱し、関係のない「倉王」、おそらく日影皇女の子であった倉王の部分にそのまま続くような形になってしまっていた。『古事記』の編者は原資料に忠実にそれを写したけれども、『日本書紀』の編者はそこに疑いを抱き、別の資料を探して日影皇女と倉王の母子を記したものを発見し、現在見る欽明紀のような形にした。春日臣日爪の娘の糠子とその所生子の春日山田郎女についても、いつの時点かに誤って原資料に紛れ込んだものだった。『古事記』の著述者はそれも原資料に忠実に写したが、『日本書紀』の著述者はこれも疑った。けれどもその後ろに麻呂古王の名があって仁賢の后妃・所生子の記録とは異なっていたため、疑いつつも無下に捨て去るわけにもいかず、末尾に回した……。独りよがりの妄想に過ぎませんが、こんなことを考えております。もちろんこんな想定が「正しい」などというつもりはありませんし、そんなことを証明する手段もありません。材料は『古事記』『日本書紀』の記述それ自体しかないわけです。

 『聖徳太子伝暦』の「欽明天皇第四子」について法空は欽明134月に没している箭田珠勝大兄が数から除かれているのだろうかと見ていたようですが、『日本書紀』の「春日山田皇女」「橘麻呂皇子」に想定されるこういった操作過程を、用明の「第四子」、崇峻の「第十二子」と結び付けて考えることはできないでしょうか。
 欽明紀に見える欽明の男子を記載順に数え上げれば(1)箭田珠勝大兄皇子(2)訳語田渟中倉太珠敷尊(3)石上皇子(4)倉皇子(5)大兄皇子……となりますが、ちょうど(3)石上皇子と(4)倉皇子の間に『古事記』では「春日山田郎女」「麻呂古王」が入っていました。あるいは『日本書紀』も草稿段階では「春日山田郎女」「麻呂古王」とともに「宗賀之倉王」、倉皇子もこの部分の記載から外して末尾にもっていったことがあるのではないか。そうしておいてから記載順で数え上げれば、用明は第4子ということになるでしょう。
 現在見る『日本書紀』欽明紀では『古事記』にない「日影皇女」の記載が入っているわけですから、「不知出何書」とはいっても何かの書に記録されているのが発見されたか伝聞があったかして、即位前紀の「第四子」の記述よりのちに書き加えられた……。そんな経過があったのではないかと想像しております。
 しかしそのように倉皇子を除いて数えたとしても、崇峻は第14子ということになります。12子ではない。
 もしも仮に、崇峻を「天国排開広庭天皇第十二子也」と数え上げた人が、欽明元年正月甲子条の石姫立后の記事を見落としたまま欽明23月の5妃の子の中だけで数えたとしたらどうなるでしょうか。もちろん倉皇子も除いてです。
 そうすれば第12男ということになるのではないでしょうか。

 

『古事記』欽明段

『日本書紀』欽明元年正月甲子・欽明23

弟、天国押波流岐広庭天皇、坐師木嶋大宮、治天下也。
天皇、

元年春正月庚戌朔甲子、有司請立皇后。詔曰、

娶檜坰天皇之御子、石比売命、生御子、

立正妃武小広国押盾天皇女石姫為皇后。是生二男一女。

八田王。

長曰

箭田珠勝大兄皇子。

1

1

次、

沼名倉太玉敷命。

仲曰

訳語田渟中倉太珠敷尊。

2

2

次、

笠縫王。

〈三柱。〉

少曰

笠縫皇女。

〈更名狭田毛皇女。〉

1

又、娶其弟小石比売命、生御子、

二年春三月、納五妃。元妃、皇后弟曰稚綾姫皇女。是生

上王。

〈一柱。〉

石上皇子。

3

3

1

又、娶春日之日爪臣之女、糠子郎女、生御子、

春日山田郎女。

次、

麻呂古王。

次有皇后弟。曰日影皇女。〈(略)〉是生

次、

宗賀之倉王。

〈三柱。〉

倉皇子。

4

又、娶宗賀之稲目宿禰大臣之女、岐多斯比売、生御子、

次蘇我大臣稲目宿禰女曰堅塩媛。〈(略)〉生七男六女。

橘之豊日命。

其一曰

大兄皇子。

是為橘豊日尊。

5

4

2

次、妹

石坰王。

其二曰

磐隈皇女。

〈更名夢皇女。〉(略)

2

次、

足取王。

其三曰

臘嘴鳥皇子。

6

3

次、

豊御気炊屋比売命。

其四曰

豊御食炊屋姫尊。

3

次、亦、

麻呂古王。

其五曰

椀子皇子。

7

4

次、

大宅王。

其六曰

大宅皇女。

4

次、

伊美賀古王。

其七曰

石上部皇子。

8

5

次、

山代王。

其八曰

山背皇子。

9

6

次、妹

大伴王。

其九曰

大伴皇女。

5

次、

桜井之玄王。

其十曰

桜井皇子。

10

7

次、

麻怒王。

其十一曰

肩野皇女。

6

次、

橘本之若子王。

其十二曰

橘本稚皇子。

11

8

次、

泥杼王。

〈十三柱。〉

其十三曰

舎人皇女。

7

又、娶岐多志毘売命之姨、小兄比売、生御子、

次堅塩媛同母弟曰小姉君。生四男一女。

馬木王。

其一曰

茨城皇子。

12

9

次、

葛城王。

其二曰

葛城皇子。

13

10

次、

間人穴太部王。

其三曰

泥部穴穂部皇女。

8

次、

三枝部穴太部王、

亦名須売伊呂杼。

其四曰

泥部穴穂部皇子。

〈更名天香子皇子。(略)〉

14

11

次、

長谷部若雀命。

〈五柱。〉

其五曰

泊瀬部皇子。

15

12

(略)

(略)

次春日日抓臣女曰糠子。生

春日山田皇女

9

橘麻呂皇子

16

 

 もっとも崇峻についても「第12子は、実際の誕生順にもとづく記載」と見ることも可能かとも思います。『続日本紀』の元明の「天命開別天皇之第四皇女」、あるいは『上宮太子拾遺記』に示された見方からすれば、生母の序列とは無関係に全部の子の中での誕生順などが記録されていた可能性はほとんど存在しないでしょうが、数字としては決して無理なものではありません。しかしそうなると欽明の男子15人ないし16人のうち崇峻が12番目となり、では崇峻より年下の4人ないし3人の王子は誰なのかということになってきそうです。
 崇峻には例外的な部分が多いように思われます。これもウェブなどを拝見すると随所で言及されておられるようですが、崇峻は即位した人として歴代に数えられてはいても、どこか天皇、大王の条件を満たしていないような印象があります。(1)殺害されたこと自体がそうですが、(2)没した当日に埋葬されたと伝えられることもそうですし、(3)配偶者に王族を迎えられなかったらしい(崇峻紀に「元年春三月、立大伴糠手連女小手子為妃。是生蜂子皇子与錦代皇女」とのみ見えており、また崇峻紀末尾に出てくる蘇我馬子の娘の河上娘を加えても2人だけで、王族はいない)――こともその印象を強めてくれます。
 (4)和風諡号もなかったのではないでしょうか。欽明23月条の記載を見ても、即位した敏達・用明・推古はみないわゆる和風諡号、「−尊」の形の称を載せているのに対し崇峻ひとり「泊瀬部皇子」のみです。『古事記』崇峻段には「長谷部若雀天皇」と見えていますが『日本書紀』では「泊瀬部天皇」だけであることは先にも申しました。日本思想大系の補注の「記伝のいうように、記の「長谷部若雀天皇」は「小長谷若雀命」(武烈)と混同した誤りで、紀の「泊瀬部天皇」が正しい」との記述を引用させていただいております。欽明23月条の「泊瀬部皇子」も、あるいは「帝紀」か何かの原典を写す際に「ハツセベノワカサザキノミコト」の「ワカサザキ」を除くついでに「ミコト」まで除いてしまい、後からあまり意識せずにただ「ミコ」のみを補った、といったことなのかもしれません。または「『ミコト』ではなかった」といった意識があったのかもしれません。ともかく「ハツセベ」が実名とはみられないとすれば、崇峻の実名は伝わらなかったということのように思われます。
 現行の『古事記』崇峻段冒頭での表記が「長谷部若雀天皇」と「−天皇」であることもやや例外的です。これも「歴代天皇の呼称をめぐって」で触れておられるところですが、『古事記』では他の多くの場合段冒頭での表記は通例「豊御食炊屋比売命」のように「−命」で、また真福寺本『古事記』によれば履中・允恭・仁賢・安閑・用明は「−王」の表記のようであるのに、景行(大帯日子淤斯呂和気天皇)・成務(若帯日子天皇)・仲哀(帯中日子天皇)・欽明(天国押波流岐広庭天皇)と崇峻の場合だけが「−天皇」表記となっています。また安康は「穴穂御子」と唯一例外的な「−御子」表記になっており、これに対応するものなのか『宋書』倭国伝では「興」は「世子興」とされています。もちろん各天皇の「−命」「−王」表記は段冒頭のみで、文中では多くの場合単に「天皇」と書かれているようです。
 注意されるのは景行(オホタラシヒコオシロワケ)・成務(ワカタラシヒコ)・仲哀(タラシナカツヒコ)の3人がいずれも「タラシヒコ」系の名を持つことで、これらの称については神功皇后(オキナガタラシヒメ)や舒明(オキナガタラシヒヒロヌカ)、皇極・斉明(アメトヨタカライカシヒタラシヒメ)の名称との関連で言及されることが多いように見受けられます。そういった意味では『古事記』が推古段で終わり舒明以降に関する言及のないこと、舒明のことは『古事記』敏達段に押坂彦人大兄(「忍坂日子人太子」)の子として「坐崗本宮治天下之天皇」表記で見えているだけというあたりは気になります。景行・成務・仲哀について『古事記』が各段冒頭で「−天皇」表記であることと、それらの称と要素の共通する、似た称をもつ舒明・皇極以降の記載が『古事記』にないことを関連付けて見ておられるようなご見解もおそらく既にどなたかお示しなのではないかと拝察するのですが、恐縮ながら存じておりません。

 おそらく崇峻は即位した時点の年齢も比較的若かったのではないでしょうか。用明皇后で廐戸の生母となった穴穂部間人は崇峻の同母姉になりますが、この人は『上宮聖徳法王帝説』や『聖徳太子平氏伝雑勘文』所引『上宮記』逸文によれば用明の没後に用明の子の多米王(『日本書紀』の田目皇子、生母は蘇我稲目の娘の石寸名)と配偶関係となり、間に佐富女王が生まれたと見えています。これを事実と見れば用明と穴穂部間人との年齢差は小さくなかったことになるように思えるのです。穴穂部間人はあるいは用明より10歳程度年少だったと見るのが自然ではないか。そうなりますと穴穂部間人の同母弟の崇峻は彼女よりさらに年少ということになりますから、即位時にも非常に若くて「担ぎ出された」といった印象が強かったのではないでしょうか。古典文学大系『日本書紀』崇峻紀の崇峻殺害の記事の注では、平安以降の諸書に崇峻の享年が72歳または73歳などとあることを記したうえで「それほどの高年ではなかろう」としておられます。ともかく、『日本書紀』の崇峻に対する扱いは他の「天皇」とは少し違った印象です。


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