さよ子のいた夏


Index

表紙
情報

作  :依田秀人
絵  :木村 修
発行者:
文研出版
発売日:2022/11/30
単行本:176ページ
定 価:¥1,540
amazon:さよ子のいた夏

内容紹介

両側をなだらかな山々と棚田に囲まれた沢野辺地区で、農家を営む家族と暮らす龍平。春には山野草の芽吹きをみつけ、夏は都会から来た従妹のさよ子との甘酸っぱい思い出。5年生になった龍平は、初めて自分の棚田をもらい、田植えを始めた。龍平の米作りは無事収穫ができるのだろうか? 四季とともに成長していく龍平とその家族を描いた物語。

著者紹介

1960年長野県佐久市生まれ。信州大学理学部数学科卒業。現在は諏訪郡下諏訪町在住。日本児童文学者協会会員。信州児童文学会会員(会誌「とうげの旗」編集長)。2009年、「ドアを開けたら」で第18回とうげの旗作品賞受賞。2019年、本作品の元になった「巡る春」で第8回とうげの旗児童文学賞を受賞。著書に『元気がでる童話3年生 お祭り原始人』(共著/日本児童文学者協会 編/ポプラ社)など。本書が初の単行本となる。

もくじ


あとがき(著者より)

 初日の出は午前九時。小高い山に囲まれた土地で生まれ育ちました。
 寒い冬があるからこそ、春が待ち遠しい。春が来たことがうれしくて、野に出たくてたまらない。
 そんな少年時代の自分を、主人公である龍平に投影しながら書き始めました。
 もっとも、龍平のように家の手伝いを率先して行った子どもではありませんでしたので、曖昧な記憶は米寿を迎えた父に取材して補いました。
 近年は季節感がなくなってきたと感じています。
 だからこそ、四季折々の風物詩と、そこに生きる人々の生活の営みを書きたいと思いました。記録ではなく、こうあり続けてほしいという願いを込めました。
 この物語は、春に始まって春で終わっています。
 季節は巡りまた春になるけれど、それは去年と同じ春ではない。ちょうどらせん階段をぐるぐると回りながら上るように、どこまでも成長してゆけたら──龍平に託した私の思いです。
 自然は時に優しく時に厳しくもあります。人と人との関わりも楽しいだけではありません。ぶつかりながら、求めながら、寄り添いながら、やはり巡ってゆくのです。
 この作品を仕上げたことで、頭の中でしかわかっていなかった児童文学の執筆について、肌感覚で私の中に取り込めたように思います。覚えただけのことは忘れても、染みついた感覚は消えることはないと確信しています。
 また、木村修様の挿絵により、作品が立体的になりました。文章力の不足を補って余るほどの挿絵に感激しました。
 信州児童文学会の仲間たちの存在も大きな力になりました。思うように改稿が進まない時には、北沢会長から「大丈夫。持っている作品だから」と背中を押していただきました。運を味方につける力がこの作品にはあったのだと、勝手に解釈しておきます。
 出版に関わった全ての方々に感謝しつつ、次の作品を書くことで答えたいと思います。
 本当にありがとうございました。

感想や問い合わせはこちらへお願いします。ぼく宛のメールです。タイムゾーンを日本標準時に合わせて送って下さい。スパムメール対策のため、海外からのメールは受信拒否しています。


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遠景0


収穫間近の棚田の様子

遠景1


収穫の頃の棚田の様子

遠景2


収穫を終えた棚田の様子と集落

遠景3


冬支度の頃の棚田と集落

溶岩1


龍平とさよ子がすわっていたと思われる岩(浅間山から飛来)

溶岩2


龍平とさよ子がすわっていたと思われる岩2(浅間山から飛来)

きのこ


ハナイグチ(方言では「リコボウ」)

田んぼ


2022年秋。最後の収穫を終えた我が家の田んぼ


エピソードもしくは裏話


寄せられた感想


【参考資料】プロ


「おとうさんの本のことが、ネットに出てるよ」
「えっ? もう出たのか」
「うん。ちょっと調べてみて」
「わかった。待ってろ」
 大学生の息子からの電話だった。
 私はスマートフォンを持ったままパソコンを起動した。
 検索ボックスに「さよ子のいた夏」と入力して、エンター!
「おっ! いっぱい出てきた」
「ねっ」
「どれ、さっそくリンクをたどってみるか」
 トップに表示された「amazon」をクリックする。
 すぐに、表紙絵とともに「予約受付中」の文字が出た。
 発売日まであと二週間、二〇二二年十一月上旬のことだった。
「いよいよだね」
「ああ、いよいよだ。やっと出るな」
「うん。本が届いたらオレにも送ってよ」
「おお、わかった。著者献本分が届いたら送るよ」
「楽しみに待ってる。それじゃまたね」

 いよいよここまで来たか。
 児童文学を書き始めて三十年、私にとって初めての出版となる。
 あらためてパソコンの画面を見る。
 少年と少女が岩の上に座り、遠くの山を見ている。手前から川が流れ、棚田が広がり、山村の風景が広がっている。正面には虹がかかっている。
 内容紹介には、こう書いてある。
 両側をなだらかな山々と棚田に囲まれた沢野辺地区で、農家を営む家族と暮らす龍平。春には山野草の芽吹きをみつけ、夏は都会から来た従妹のさよ子との甘酸っぱい思い出。五年生になった龍平は、初めて自分の棚田をもらい、田植えを始めた。龍平の米作りは無事収穫ができるのだろうか? 四季とともに成長していく龍平とその家族を描いた物語。

 amazonのサイトでは、辛辣な批評を見かけることがある。評価は五段階に分かれていて、最低が星一つ(★)で、最高が星五つ(★★★★★)。
 星が少ないと嫌だな。でも星が一つでもあればまだいい。それは最後まできちんと読んでくれた証しなのだから。何の評価も何の感想もないのは無視されているように思えてしまう。
 手を離れてしまった作品に対して、作者はひと言の言い訳もできない。まさにまな板の鯉だ。
 あとはこの作品が無事羽ばたき、私の思いが子どもたちの心の奥まで届いてくれることを願うだけだ。

 それにしても長かった。

 (一)初稿
二〇一九年十一月〜二〇二〇年五月

 初稿を書き終えたのは三年前のことだった。
 十月末発行の「とうげの旗」に、八十枚の高学年向け作品として掲載された。
 一九七〇年頃の農村の生活を、四季折々の変化とともに少年の目を通して書いた短編連作作品だ。
 信州児童文学会の北沢会長からは「感動してうれしくなりました。各話とも簡潔にまとめられているのに、豊かな情感があり、まさに文学と思います」との言葉をいただいた。
 文学とは? 文学性とは?
 ずっと考えているが、はっきりした答えはみつからない。
 表面的な描写ではなく、心の底からわき上がる思いを言葉にすることだろうか。

 会誌「とうげの旗」は年に三回発行され、そこに掲載された全作品の中から年間最優秀賞を選んで表彰している。
 表彰を始めてから九年間で四作品が出版されていることからも、要求されているレベルの高さがわかる。
 そして、その年の最優秀賞を決めるための最終作品二編の中に、私の作品が入っていた。
(一騎打ちか、嫌だなあ)
 いよいよ最終選考会が近づいてきた。そわそわして落ち着かない。
 そんなある日──。

 胸の痛みを覚え即入院即手術。
 心筋梗塞だった。
 処置が遅れていたら恐らく……。
 ICUに五日間。一般病棟に移って五日間。
 退院してからは自宅で安静にしていた。
 手術中に心停止したこともあり、職場では「代わり」を探す動きも出ていたらしい。後で知った。

 電話で受賞の知らせを受けたのはそんな時だった。
「おめでとう。受賞したよ。よかったね」
 会長の声が弾んでいた。
「ありがとうございます」
 生きていてよかった。大げさだけど心からそう思った。

 数日間は喜びに浸っていたが「本当に、それだけでいいのだろうか?」と思うようになった。
 一度は心臓が止まった体。残りの人生、やりたいことを悔いなくやろう。
 急に欲が出てきた。
 あの作品を本にしたい。
 でも、どうすればいいんだろう?
 自宅療養中の暇に任せて、出版社のホームページを幾つか調べてみた。
 ──作品の持ち込みは受け付けていません。
 ──送られても読みません。
 ──作品の受け付けを停止しています。
 ──弊社の公募から応募してください。
 いずれにしても、いきなり作品を送っても突き返されるか無視されるかだろう。

 思い切って会長にメールを書いた。
《これまで自作に関して「出版」を意識したことはないのですが、一冊の形にできればと思っています。とはいえ、どこにどのように話を持ってゆけばいいのか全くわかりません。
 そんな状態ですが、何か具体的なアドバイスをいただければ幸いです。
 また、現在は八〇枚程度に留まっていますので、出版するにしてもこのままでは短いのではないかと懸念しています。この先、要請に応じて改稿する気持ちは十分にあります。
 漠然とした相談ですが、どうぞよろしくお願いします。》
 会長はこれまでに何冊か出版している。仲介してくれないだろうか。まさに藁をもつかむ思いだった。
 会長からは「この作品をこのまま終わらせるのはもったいない。心当たりに打診してみる」との電話をもらった。
 さっそくある出版社に「こういう作品があるので読んでもらえないか」と連絡してくれたようだ。
 ところが二か月経っても全く返事がこない。
 どうすればいいかと会長に聞いた。
「どうしましょうか」
「忙しいのかなあ。コロナ禍で動きが鈍ってるのかもしれない」
「いつまで待てばいいでしょうか」
「そうだよね。わかった。他を当たってみる」
「すみません、お願いします」
 会長にすがるしかなかった。読んでもらう、いやそれ以前に送ってもいいと言われなければ先に進めない。

 二週間後。会長から連絡が来た。
「アポが取れた。すぐにこの人に作品を送って」
 紹介されたのは文研出版の編集長だった。
「いきなり編集長さんですか? 恐くないですか?」
「大丈夫よ。心配しないで」
 会長は数年前に、同じ出版社からノンフィクション作品を出している。その縁で繋いでもらった。
「ありがとうございます」
 印刷してすぐに郵送した。
 一週間後、待っていたメールが届いた。ドキドキしながら開いた。
 そこには、原稿送付に対するお礼と、現在は在宅勤務中なのでしばらく待たせるが二か月をメドに感想を送ると、書いてあった。
 とにかく読んでもらえる。
 すぐに返信した。
《お忙しいところ、また困難な状況の中、ありがとうございます。
 どうぞよろしくお願いいたします。》
 まずは入り口にたどりついた。
 あとは返事を待つしかない。
 いい返事を。

 (二)二稿〜三稿
二〇二〇年七月〜二〇二一年三月

 丁寧な感想のメールが届いたのは、初稿を送ってから二か月後だった。
 出版の可否については「現時点で保留といたします」とのことだった。
 保留──。
 正直ショックだった。
 これではダメということか。
 いきなりボツではかわいそうだから、結論を先延ばししたのだろうか。
 可能性はあるのか、それともないのか。
 どうしても、悪いようにしか解釈できない。

 保留の理由は以下のようだった。
 文章量の目安について。
 中学年物は原稿用紙換算で一〇〇〜一二〇枚程度。高学年物は一二〇〜一六〇枚程度。
 企画としてはこのままでは検討対象にならないだろう。八〇枚は少な過ぎる。
 内容に対する懸念事項として、時代が古いこと、長野県の一部でしか通用しないのではという指摘があった。

 舞台を一九七〇年から現代へ、そして地方区から全国区へとどこでも通用する内容に変える。
 枚数といい、時代や舞台といい、かなり大幅変更が求められている。
 しかし、いきなり「不採用」ではなかった。壁は高いが可能性はある。

 そのことを会長に伝えた。
「どう解釈すればいいでしょうか?」
「『保留』が今後の可能性をどのくらい持っているかということが知りたいですね」
 私が知りたいのもそのことだ。
「でも、一度繋がった編集者には途切れさせることなくついて行くのがいいですよ」
「作品の中身はもちろんですが、対象読者に売れないことには商売にならないのはよくわかりました。自分では完成と思っていましたが、意向に沿って改稿するつもりはあります」
「それでいいです。がんばって」
 編集長には、
《お忙しい中、細かな感想並びに批評をお送りいただき、ありがとうございます。
 中でも販促の視点からの分析は新しい発見でした。
 さらには全体通して、「伝えたいこと」と「書きたいこと」のバランスが重要だと感じました。どちらか一方に偏っても読者には受け入れられない。感覚的ではありますが、その点に気づきました。ありがとうございました。
 ご指摘をふまえ、よりよい作品にするため改稿を始めたいと思います。
 ご迷惑でなければ、今後もお付き合いいただければと思いますが、よろしいでしょうか。》
 と、メールで改稿の意志を伝えた。
 編集長からは、都会の子どもたちがおどろき、あこがれるような、田舎の子どもたちの様子を伝えたい。次回の再稿を楽しみにしている旨の返信があった。
 楽しみにしている──この言葉に勇気づけられた。
 限りなく採用に近い保留だと勝手に思い込んだ。そして、この人の期待に答えたい。この人のために書き直そうと思った。
 どう改稿するかは自分で考えるしかない。
 問題は読者の時代感覚との乖離だ。改めて構成を見直そう。
 慎重に、でも時間をかけすぎてもいけない。

 二か月掛けて改稿に取り組んだ。
 コロナ禍で計画休業が多かったから、時間は十分にあった。
 改稿の一番のポイントは、「今はもうない世界」ではなく「今でもある(かもしれない)世界」を意識したことだ。現在ではほとんど残っていない生活習慣は思い切って削除した。
 削除しつつも新たに場面を設けた。
 各場面を深く掘り下げた結果、枚数は八〇枚から一二〇枚になった。
 中学年物か高学年物か、どっちつかずの枚数だが、ひとまず形にはした。
 印刷して出版社に送った。
 あとは返事を待つしかない。今度こそいい返事を。
 編集長からは受領の連絡と、一か月くらいで所感を送るとの返事がすぐにきた。

 感想が届いたのは三か月後だった。
 今回も「保留」だった。
 それでも改稿の意図や努力は評価してもらえたようだ。
 里山における家族の風景と子どもの成長を重視している点に、共感してもらえた。方向性は間違っていない。
 しかし「次回の原稿で出版の可否について結論をお伝えいたします」と断言された。
 出版するなら「小学校高学年向け」とのことだった。
 そうなるとやはり一六〇枚は必要だろう。さらに四〇枚か。ため息しか出てこない。
 会長に電話で愚痴をこぼした。
「また保留だそうです。疲れました」
「そう。でも諦めたらおしまいだよ。全てはあなた次第。キャスティングボートを握ってるのは出版社じゃなくてあなただから」
 そうだ、私の意志と行動次第なんだ。
 編集長にはあらためて改稿の意志を伝えた。

 三か月掛けて改稿に取り組んだ。
 全文を印刷、紙上で赤ペンを持って推敲、パソコンで入力、そしてまた印刷。
 この繰り返しを何度やったかわからない。一〇〇〇枚以上は用紙を使った。
 作品の枚数は一六六枚になった。
 取りあえず高学年向けに必要な条件は満たした。もっとも、これで十分かどうかは判断してもらうしかない。
《拙い原稿に対して親身になってご指摘いただきありがとうございました。
 ご検討、ご判断をよろしくお願いします。》
 もしかすると最後かもしれない。
 お礼を添えて作品を送った。
 これで終わったという満足感と、終わってしまったという寂しさと脱力感と、それからわずかの期待と。
 ボツならボツで、採用なら採用で、いずれにしても早く返事がほしい。
 とにかく返事を待つしかない。

 (三)四稿〜六稿
二〇二一年四月〜二〇二二年一月

 二か月後、編集長からのメールが届いた。
 ドキドキしながら開く。
「小学校高学年向け作品として出版する方向で進めていくことにしました」
 その行を何度も読み返した。
 果たして子ども読者に受け入れられるかどうか、二十代の編集者と検討した結果、世代を超えて受け入れられる内容になりつつあるとのことだった。
 すぐに返事を書いた。
《このたびは拙作を出版する方向で進めていただけるとのこと、たいへんうれしく、またありがたく思います。
 一瞬舞い上がりましたが、これからが本番ですね。最後までよろしくお願いします。》
 まだ出版が確定したわけではない。
 その証拠に、編集長からは感想や要求など合わせて八〇箇所以上も指摘された。
 もうひと頑張り。ここが最後の正念場だ。
 編集長の言う通りに書く。簡単ではないか。そうすれば本になる。
 おぼろげながらゴールが見えてきた。

 同人誌に寄稿していると「誰がこれを読むのだろう」と考えて、空しくなることがある。仲間内で感想を言い合って終わり。児童文学なのに、対象となる子どもに読まれることはほとんどない……。
 はっきりと読者、届け先が見えた。
 敷かれたレールの上を真っ直ぐに進んでいこうと決意した。

 会長にはすぐに電話した。
「出版していただけるそうです」
「それはよかった。いよいよ出版に向けて動き出しましたね」
「もう後には戻れません。緊張してきました」
「一気にゴールまで書き抜いて。どのような理由であれ、いったん止まるとそこで立ち消えとなるから」
 会長からの忠告を素直に受け入れよう。
 私が中断してしまえば、次を狙っている作家は沢山いる。
 二十年前、同人誌の仲間に入れていただいた時、先輩会員から「嫉妬の世界へようこそ」との歓迎を受けた。
 今になればそのことがよくわかる。
 それに、人の成功に嫉妬しないようでは、自分の成功など、ない。

 出版する旨の回答をもらってから三週間、指摘された箇所を中心に、集中して改稿作業を進めた。
 これで完成! と自分の中では脱稿宣言をして、一九〇枚まで増えてしまった四稿を送った。

 送ってから二か月後、控えめなメールを送った。
《さっそくですが、原稿の進捗について、状況を教えていただければ幸いです。
 四度目の緊急事態宣言発令で、首都圏はかなりバタバタしているのではないかと思います。
 特に急ぐわけではありませんが、どうぞよろしくお願いします。》
 すると、速攻で返事が来た。
 現在、推敲中とのことだった。
 もしかして、まだこれで終わりではないのかと不安がよぎる。
 しかし続けて、作品に関する風景、建物の様子などの写真を提供してほしいとあった。
 出版に向けて着々と動いているんだなと安心した。

 それからは立て続けに連絡や要求が来るようになった。
 絵を描いてほしい画家がいるか?
  おりません、お任せします。
 小学校五、六年対象の作品として出版します。
  ありがとうございます。
 巻末に「あとがき」(二ページ)を設定する予定です。
  わかりました。
 そうやって形は固まりつつも、四稿に対する修正要求や検討箇所は一三〇以上もあった。
 助詞の使い方、表現の工夫、誤字脱字、漢字表記か平仮名表記かなど、小さな点が多かったので、一つ一つ確実につぶしていった。
 問題は一九〇枚をどうやって一六〇枚にするかだった。
 少なかったから増やして、増やしすぎたから減らして。
 思い切って一つの場面をごっそり削除したり、あるいは補足したりと、直す度に枚数を確認した。

 受注した仕事を、客先の要求通りに仕上げて期日までに納品する。
 私の仕事である、商品設計の流れと何ら変わりはない。
 趣味や道楽ではない。これは私に依頼された仕事なのだ。私の仕事いかんで、多くの人が影響を受けてしまう。
 必死になって「仕事」をした。
 四稿に対するコメントから二か月後、内容も枚数も要求を満たしていると確認した上で五稿を送った。
 何度かの改稿を経て、作品だけでなく、作家としての私の力量もかなり向上したのではないかと感じていた。

 これが最終稿のつもりで送った。
 返事はすぐに来ると思っていたが、なかなか来ない。
 しつこいとか、信用してないのかと思われてもいけないので、今回は待つことにした。
 そして「文の構成と展開は、ほぼ完成」との連絡が来たのは、五稿を送ってから四か月後だった。
 本の体裁で印刷してある用紙に、コメントや直しを入れてある。数えたら二〇〇箇所以上もあった。ほとんどは直しの確認だった。
 一週間後にオンラインで打ち合わせを行った。
 画家の候補のことや、今後の進め方(日程)のことが中心だった。
 タイトルは何度も変わった。
 最初が「巡る春」、それから「ぼくらは大地に生きている」、「ぼくら土の子棚田の子」、「めぐる春」。
 そして最終的に「さよ子のいた夏」と決まった。

 打ち合わせから二週間後、第六稿を送った。
 訂正箇所の確認と、推敲過程で気づいた箇所の確認だけで、大きな直しはなかった。
 これで最後だろう。
 初稿を送ったのが二〇二〇年五月。
 そしてこの六稿は二〇二二年一月。
 二〇二〇年中に出版されるのではないかと、勝手に期待して、家族にはそのことを公言してした。
 ところがなかなか出ない。
「いつ出るの?」
「もうすぐ出るはず」
「ふーん。これじゃ出る出る詐欺だね」
という会話も冗談では済まされなくなっていた。
 あと少し。

 (四)最終稿
二〇二二年五月

 出版が確定しているとはいえ、いつになっても返事がないのは不安になる。
 それほど直したわけではないのに、第六稿に対する返事が来るまでに四か月かかった。
 届いた印刷物は書籍の体裁になっていて、文字の色を変えたり、黄色マーカーでわかりやすくしたり、かなり念入りに手が入っていた。
 一文字単位でチェックしたのだろう。
 ていねいな校正に、心の中で感謝した。

 最終稿に向けては、編集長が直した箇所について、それでいいか、あるいは元のままがいいか、さらには別の表現がいいかを確認するだけだった。
 この作業は数日で終わった。
 第七稿をもって、「さよ子のいた夏」を脱稿した。
 二〇二二年五月のことだった。
《書きたいことを書きたいように書くことと、それを多くの対象読者に読んでもらうように直すこと。この二つがあって初めて商品として完成するんだなと実感しました。
 文章の中に私が込めた思いを、わかりやすく表現していただき感謝します。
 今後に向けての大きな財産になりました。》
 編集長からねぎらいのメールが届いた。
 読みやすくなり情景が伝わりやすくなった、話の内容や展開が小学生の読者にとって「自分事」として入りやすくなった、とのことだった。

 ようやく文章だけはゴールにたどりついた。
 ところで、本にするためには、何が残っているだろう。
 挿し絵、目次、あとがき、略歴、他には?
 いつ発売になるだろうかと、連絡を待つことにする。
 気持ちだけが急いている。

 (五)プロ
二〇二二年五月〜二〇二二年十一月

 最終稿を送るとすぐに、次の依頼が来た。
 それは、原稿ではなく本にするための依頼だ。
 五月二九日:あとがきと略歴の依頼がある。
 六月 一日:農機具、植物、風景など、絵の参考になる写真を送付。
 六月 三日:あとがき送付。
 六月 四日:あとがき修正依頼。
 六月 五日:あとがき修正版送付。
 六月 六日:あとがきOK。挿し絵は野生生物画家のK氏に打診中とのこと。
 K氏の本を図書館で探してみた。動物のリアルな表情、線描が印象的だった。この方にお願いしたい。
 六月十四日:初校受領。絵が入る部分は空白。
 六月十五日:オンライン打ち合わせ。
 発刊までの細かなスケジュールを確認した。その結果、二〇二二年十一月二十日発刊(予定)と決まった。
 六月二十二日:画家現地訪問に向けて、作品の舞台となった場所の地図と写真を送る。
 六月二十七日:画家と編集長で現地訪問。
 七月十二日:登場人物のラフ画確認。
 イメージと違う点を指摘して、直してもらうように要望した。
 八月 一日:画家現地再訪問。
 同行して、「このシーンはこの場所」などと確認した。
 一九七〇年頃とそれほど変わっていない。
 八月三十一日:画稿の確認
 挿し絵の完成見本が届いた。絵に合わせて文章の一部を変更した。
 挿し絵に出てくる猫の模様を、私の飼い猫と同じキジトラにしてもらった。
 九月三十日:画稿入校の連絡がある。絵は完成した。
 十月十四日:出版契約書が届いたので、確認後押印して返信。
 十月二十六日:本のカバーを電子データで確認。全体像が見えてきた。
 十一月 二日:最終確認。完成。あとは印刷製本待ち。

 原稿完成までに二年かかった。そして発刊までには、さらに半年かかった。
 長かったのか? いや、あっという間だった。
 この一冊を発行するために、色んな人が関わってくれた。
 会長は常に私を励まし、次に進むべき道を示してくれた。
 編集長は最初から最後まで私を信じ、内在する力を十二分発揮できるように接してくれた。
 画家のK氏は私の頭の中にある光景を、そのまま、いやそれ以上に視覚化してくれた。
 編集人のMさん、校正者、印刷製本担当、販促担当、まだまだいる。
 そして誰もが皆、その道のエキスパートでありプロだった。
 私は文章を書いただけに過ぎないが、プロと名乗りたい。

 あらためて、あとがきを読んでみる。
 ──この作品を仕上げたことで、頭の中でしかわかっていなかった児童文学の執筆について、肌感覚で私の中に取り込めたように思います。覚えただけのことは忘れても、染みついた感覚は消えることはないと確信しています──。
 これが偽らざる心境あり、たどりついた境地だ。

 (六)さよ子のいた夏
二〇二二年十一月〜

 十一月二十二日。発売に先立ち、著者献本分の五冊が送られてきた。
 一冊を手に取り、ゆっくりとめくる。パリパリと音がする。
 まさに「本」だ。
 思えば三年半前に大病を経験したことで、「生」に対して貪欲になるとともに、何のために生きて、何を残すか、そんなことを考えるようになった。
 そうした執念があったからこそ、ここまで粘れたのではないか。
 マイナスをプラスに転じる「力」がこの作品にあった。

 さっそく息子にも送った。
 数日して連絡が来た。
「読んだ。よかった」
「そうか、ありがとう」
 本に関する話はそれだけだった。
「夢が叶った?」
「ああ。まだこれで終わりとも思ってないがな」
「オレもがんばるよ」
「いよいよ四年か。大学生活もあと一年だな。どうするんだ?」
「これから決める」
「そうか、焦るな。でもモタモタするな」
「話変わるけど。この本の主人公はオレ?」
「どうしてそう思う?」
「名前が似てるから」
 確かに息子の名前から一文字借りたし、発音も似ている。
「さあ、どうだろ。モデルはお前かな。いや、時代が違うからおとうさんかな」
「ふーん。ところでさよ子って誰?」
「あーー。実はモデルがいないんだよ。架空の人物さ。あこがれみたいなもんかな」
「なーんだ。おかあさんのことかと思った」
「いや、それはないな」
 そう言ってから「少しはおかあさんの要素も入ってるかな」と補足した。
 事実と想像と虚構が混じり合い、真実が言葉となって生まれる。

 十二月のある日。
 あらためて表紙絵に描かれている場所を訪ねた。
 持参した本の表紙に、目の前の光景を重ねて見る。
 少年と少女が岩に腰掛けて村を、そして遠くの山を見ている。
 少女が遠くに向かって指を指している。
 二人で何かを話している。何を話しているか私にはわからない。
 その岩に私も腰掛けた。これは昔、浅間山から飛んできた岩だと言われている。
 少し白くなった浅間山が正面に見えた。浅間山の上を雲がゆっくり流れてゆく。

 どれだけの時間、そうしていたのだろう。
 ふと気づくと、隣に人の気配がした。横目でちらっと見たら、髪の長い女性が座っている。そして私の方を向いて、小さく微笑んだ。
(よかったね)
「あっ!」
(元気そうで安心した)
「もしかして、香代子」
 ああそうか、さよ子は香代子のことだったんだ。なぜかホッとした。
 私がこの本を世に出したかった一番の目的は、香代子読んでほしかったからか。
 大学時代、怠惰な生活をしていた私が、ここまで復活したことをいつか香代子に見てほしかった。本になれば香代子がそれをどこかで目にすることもあるだろう。香代子に私を見つけてほしかった。
 あえてペンネームは使わなかった。
(安心したよ)
 もう一度声が聞こえた。
「うん、やっと」
 隣を見たら誰もいなかった……。

 発行から半年が経った。
 あらためてのお礼と、ぜひ次の作品も読んでもらえないかと集長にメールを送った。
 すると、「他の児童書出版社に持ち込んだらどうでしょう。新たな作品の視点や構想が生まれます」と提案された。

 作家としての自立と可能性を願っての言葉だと受け止める。
 そう、「さよ子のいた夏」は、私にとって、もう過去の作品なのだ。
 いつまでも過去にこだわっていてはいけない。私も過去を忘れて未来を向こう。

 ここまでやったから本になった。
 ここまでしなければ本にならない。

 次はどんな物語を書こうか。
 大丈夫。
 私はプロ。