実家の庭の様子。
句碑があって、柿の木があって、後ろの畑には鯉のぼりが泳いで(?)いる。
句碑に関しては、何年か前に以下の文章を地元紙に掲載してもらった。
祖父の七回忌法要が先日行われた。この日に合わせて、祖父が生前
作った俳句の中なら一句を選んで句碑を建てることがだれからとなく
持ち上がり、その除幕式も行われた。
祖父が入院したのは、脱穀も終わりようやく一年の取り入れが終わ
ったころだった。内臓の変調を訴え、本人もほんの検査入院のつもり
でいたし家族もそう思っていたが、しばらくしてがんであることを知
らされた。あと半年と医者に言われ、それでも正月には家に帰れるだ
ろうということだったが、結局それもかなわず十二月に他界した。
祖父が日々つづっていた日記は七十二年の歳月を数え、その直前ま
で続いた。最後は達筆なはずの祖父の文字が子供の字のようになって
いたが、それでも一生懸命に書かれていた。晴耕雨読をならわいとし、
日々の暮らしを冷静に見つめて書く中で、俳句や短歌を詠み続けてい
た。自らの喜寿を記念して句集を自費出版し、八十八歳の祝いには孫
たちで第二集をと思っていたが、結局は間に合わず遺稿集という形で
の出版になってしまった。
句碑の除幕式には、四十名近くがわざわざ駆けつけてくれた。親類
はもちろんのこと、祖父が生前俳句の指導をしていた人たちや、村の
役員たちなどだった。他界してからもう丸六年が経過したというのに、
祖父の思い出話は尽きることもなく続いた。
「いつまでも頭を使っていることが、ボケない秘けつだ」といつも
言っていた。実際に八十歳を過ぎても、老若男女の相談相手であり続
けた。願わくば僕が結婚してひ孫の顔を見せてやりたいと思っていた
が、ちょっとそれも間に合わなかった。
句碑は祖父の生まれ育った家の庭に建てられた。
富める家貧しき家も雪の中
生涯を農業に従事してきた祖父が、もっとも気に入っていた俳句で
ある。句碑がいつまでもそこに残るように、僕の心の中に刻み込まれ
た祖父の思いもまた、生涯消えることはないだろう。
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