12時までに帰らないと・・・

1997年10月 金曜日 朝 8:00  エジプト カイロ。
今日 夕方の飛行機で日本へ帰る。

インターコンチネンタル セミラミスホテルから眺める カイロタワーは埃で霞んでいる。
10 日間の エジプト紀行が終わろうとしていた。  カイロ到着早々訪れた エジプト考古学博物館へもう一度行ってみたかった。 ゆっくりとした朝食の後 ホテルを出た。 昨日までのカイロの街の喧騒はどこへ消え失せてしまったのだろう。  道路を走る車は少ない。  ホテルから考古学博物館は近い。 少し歩くとタハリール広場にでる。 この広場を横切れば博物館である。 広場は混雑していた。 

「観光に行かないか? 俺の車で。」

横から大柄で太めのおじさんが近づいて来て言った。

「どこへ行くんだい?」
「博物館に行くんだ。」
「博物館はだめだ。」
「どうして?」
「今日は金曜日だろう。 イスラムの休日だ。 混んでて とても入れないさ。」

彼は肩をすくめて言った。
とにかく ツタンカーメンの黄金のマスクを もう一度見たかった。 断る理由を探していた。

「俺の車で ギザへ行こう。 グレート ピラミッドへ案内する。 駱駝に乗れる。」
「ギザはもう行ったんだ。  とにかく 博物館へ行くよ。 バーイ。」

僕はそう言うと歩き始めた。

「博物館はだめだ・・・ぶつぶつ・・・。」

しばらく男は付いて来て ゴニョゴニョ 言っていたが やがて諦めたようだ。
博物館は人の渦だった。 砂糖に群がる蟻だった。 炎天下の中 入り口の外まで溢れ返り 幾重にも人の列が出来ていた。 頭にスカーフを巻いた地元の少女の団体や 外国人が入り混じり、列はまったく動かない。 柵の中を見ると 建物の入り口にも列が出来ていて動く気配はなかった。 中庭にも人がたむろしている。 タクシーの運転手の言う通りだった。 あても無くぶらぶら 来た道を戻ると さっきの男が ニコニコ やって来た。

「ほら 言った通りだろう。 金曜日の博物館はだめだ。 エジプトのあちこちから集まって来るんだから。」 
「あんたの言ったとおりだ。 あんたの言ったことは正しかったよ。」

彼は自尊心を満足させ 笑み たたみ掛ける様に言った。

「さあ ギザへ行こう。」
「ギザはもう行ったんだ。」
「じぁ サッカーラの ステップ ピラミッドに案内するよ。 さあ 車に乗って。」
「残念ながら ステップピラミッドも行った。 赤いピラミッドも ベントピラミッドも見たんだよ。」
「じゃ メンフィスへ行こう。 アラバスターのスフィンクスがあるんだ。」
「そこも行った。」

浅黒い顔に 口髭 太い眉に大きな瞳 彼の顔が真剣になって 何かブツブツ言いながら考え込んでいた。 だんだんこっちのペースになって来る。

「メイデューム}
「何それ。」
「変わったピラミッドがある。」
「どんな?」
「ガイドブックを持っているか?」

ガイドブックを開き ぺらぺらとめくり 私に見せた。
「メイデューム。」

行ってみたかった。 時計を見ると 九時半。

「どれぐらいかかるの?」
「片道一時間半  見学入れて 往復三時間半で行ける。」
「今日 飛行機で移動するから 12時までにカイロに戻らなくてはならない。」

本当は14時にホテルをチェックアウトする予定なので 荷造りを入れても13時までに戻れれば良かったのだが ゆっくり昼食もとりたかったので 一時間 さばを読んだ。

「今すぐ出れば何とかなる 早く乗ってくれ・・・」
「ところで いくらで行ってくれるの?」
「70ドルでどうだ」
「高い  20ドル。」
「じゃ 60ドル。」
「う〜ん 30ドル」
「ブツブツ 50ドル。」 
「12時までに戻れたら 40ドル払う。 どう?」
「う〜・・・ 前金として20ドル払ってくれ。」
「12時までに戻れたら 後20ドル払う。 12時過ぎたら 残り20ドルはなし。 どう?」
「OK 決まりだ。 早く乗ってくれ。」

前金20ドルを払い 車に乗り込んだ。 彼の車は ブラック アンド ホワイトのタクシー塗装。 左ハンドル 年代もののフランス車 小型のプジョーだった。 黒いシートのビニールレザーが破れ 中から黄色く変色したスポンジが出ている。 床には穴があいている。 

「マイネーム イズ アブドル  ヨル ネーム フォワット? 」

アラブ イングリッシュだ。 英語を母国語としない国の人が話す英語は判りやすい。 ソニーの創業者の一人  故 盛田昭夫さんは 国際ビジネスマンのイメージが強いけれど 彼も最初は通訳を使っていた話が 彼の著書 Made in Japan に書いてあった事を思い出した。 彼が英語を話すようになったきっかけは 欧州で 英語を母国語としない方々が 稚拙ながらも 堂々と話している姿を見て 伝えよう 理解しようとする態度に接してから・・・という話だったと記憶している。 アブドル氏の話す英語を聞いているうちに だんだん 話すことに抵抗を感じなくなっていった。 

プジョーの中は狭かった。 大柄なアブドル氏の背中が 小さいシートからはみ出している。 プジョーは タハリール広場を出てナイル川を渡り ゲジーラ島(ナイル川の中州の島)に入る。 金曜日で空いていると思ったが やはり混んでいた。 ボコボコに凹んだ車が 煙を吐いて 堂々と走る。 観光バス トラック 荷馬車 が入り混じり 混沌としている。  鼻先を突っ込んだ方が勝ち・・・とばかりに 横から車が突っ込んでくる。 派手にクラクションを鳴らす。  カイロの街を抜けるまでに 交通事故で 路上に男たちがたむろしている光景は 数え切れないぐらい見た。 

「エジプシャンのドライバーはクレージーだ。 クレージーでなければカイロの街は運転できない。 ははは。」
「僕には出来ない。」
「日本人はジェントルだ。 やめたほうがいい。 カイロの運転はエジプシャンだ。ははは。」

カイロの街を抜ける頃 車はようやく少なくなってきた。 アブドル氏はスピードを上げる。 プジョーのエンジンは唸り ボディーが軋む。 メーターを見ると 90km/h 以上出ている。  二車線の一般道路の両脇には露店が並んでいる。 買い物する人がうろうろしている。 大きな荷物を背負って道路を渡る老人もいる。 悠然とロバの馬車が前を行く。 荷台には子供が乗っている。  アブドル氏はクラクションを鳴らしながら スピードを増し 反対車線に出て 馬車を追い抜く。 前からバスが来る。 ハンドルを切り タイヤを軋ませ 元の車線に戻る。

「アブドル 大丈夫か?」
「OK OK  ノープロブレムだ 任せてくれ。」

アラブ人のノープロブレムは 多くの場合問題がある。 頼むから事故らないでくれよ。 
悠々とカラベーヤを着た爺さんが道を横切って行く。 炎天下のアスファルトは焼けて 所々黒く変色し 陽炎が立っている。 スピードは100km/hを超えた。 

景色は乾いた畑が続き 所々にカーペット工場が見える郊外を プジョーは疾走を続ける。 激しい風切り音 唸るエンジン。 アブドル氏の肩は力が入って 力んでいる。 

「アブドルは子供いるの?」
「うん 二人いる。 男の子と女の子だ。」

目つきのきつくなった彼をリラックスさせようと 子供の話をしたが効果は無かった。 
景色は 砂漠に変わった。 スピードは110km/h。 12時までにホテルに戻ったら 40ドル だめだったら半額という 陳腐なシンデレラみたいなプレッシャーが効き過ぎた。 
いくつかの街を抜けて プジョーは砂漠の中に続く 真っ黒い一本道を疾駆する。 時間は10時30分を過ぎ。 タハリール広場を出て一時間以上が過ぎた。 いけども乾いた砂漠ばかり。 お昼までには戻れない。 そう考えていた頃 車は減速し 横道に入った。 

「メイデューム。」

アブドル氏が前方を指差す。 遠くにシルエットが見えてきた。 メイデュームのピラミッドは 遠くから見るとバベルの塔の様なシルエット。 次第に近づくと 四角の角錐形のステップピラミッド構造を持っていることがわかった。  他のピラミッドに比べ 側壁は急峻で 滑らかな面を作っていて とても昇れるものではない。 さらに近づいて行くと 周辺は瓦礫がうず高く積もっている。 ピラミッドの側壁や上層部が崩れ落ちた跡の様だった。  

10時45分 プジョーは ゲートに着いた。 アブドル氏は ゲートのツーリストポリスと何か話している。 時間が無いので さっさと車を降りて ゲートで料金を払い 妻と二人でピラミッドへ向かう。 タクシーが数台止まっているだけで 観光バスは一台もいない。 人影もまばらだった。 後ろからアブドル氏が 時計を指差して言った。

「時間が無い 早く見てきてくれ。」
「OK  ここで待っていて。」
「このツーリストポリスが一緒に行ってくれる。」

白い制服に 黒いベレー ツーリストポリスと書かれた袖章をつけた 若い警察官が ピラミッド入り口まで付いて来てくれた。 瓦礫の山を登り 赤いピラミッドと似た 斜めの坑道をしゃがんで降りる。 中は ほとんど誰も居ない。  せり出しの重力分散天井を抜けて はしごを登って 玄室に入る。 中はきちんと照明がされていて 他のピラミッドと同じ要領で見学できた。 時間が無いので 早めに切り上げ 出口へ戻る。 先ほどの若い警察官が待っていてくれた。 彼と妻と三人で瓦礫の坂を下りる。 観光客は 僕らのほかに欧米系のご夫妻 と アラブ系の黒いベールをかぶったご婦人とご主人だけだった。   

ツーリストポリスに お礼を渡し アブドル氏のプジョーら乗り込む。 時計は11時を過ぎていた。 
もと来た一本道を いきなり 100km/hで プジョーは爆走しはじめた。 アブドル氏が時間を気にしているのは明らかだ。 背中から焦りが伝わってくる。 落ち着かせようと話しかけても 聞いていない。 ハンドルにしがみついている。 大柄で色黒 毛深く太い腕 髭にギョロ眼のアラブ人が 床に穴のあいたポンコツで小型のプジョーのシートに座りハンドルにしがみついている。 その姿を想像してほしい。 そして その車は 100km/h 以上のスピードで 一般道路を爆走しているのだ。 滑稽だが笑えない。 貴女も 貴方も その車に乗った事を想像して欲しい。 

ついにメーターは120km/hを越えた。 やばい。 たぶん猛烈なエンジン音だったのだろうが 音については 今は まったく覚えていない。  プジョーは 砂漠を抜けて 畑と集落と市場のあたりに入って来た。 車も人の往来も多くなったが アブドル氏は タイヤを軋ませ バンバン追い越しをかけて行く。 なんとかしなければ。 

前方でトラックが急停止した。 

「アブドル 危ない。」

プジョーのタイヤが悲鳴を上げる。
私は左手で手摺を握り締めていたが お尻はシートから浮き上がり 前に滑り出した。 ひざ小僧は前のシートに押し付けられた。 顔は前のめりになり 床しか見えなかった。 ぶつかる・・・。
車は止まった。 衝撃音は無かった。
アブドル氏は 両手でハンドルをドンと叩き 訳のわからない言葉を叫んだ。

あと1メートルだった。
トラックの前には荷崩れした馬車がいて ガラベーヤ男たちが取り囲んでワ-ワ-やっていた。 アブドル氏は気を取り直し 運転を再開した。 衝突を避けたプジョーは何とか動いていた。 手摺をつかんでいた左手はブルブルと震えている。 妻も驚いて言葉がでない。

「アブドル 安全運転で行こう。 事故は嫌だ。」
「OK OK わかった。」
「飛行機の時間はあるけど ランチ抜きで荷造りすればなんとかなる。 落ち着いて行こう。」
「 OK セーフティー ドライブ。」

プジョーはカイロ市内に入った。 アブドル氏は観光案内を始める余裕が出てきた。 

「あれが カイロのオペラハウスだ。 日本の支援で出来たんだ。」
「アブドルはオペラに行くの?}
「いや あれはリッチなレディーとジェントルマンが行く所だよ。 ミスター ・・・ セミラミスに泊まっている あんたのような人が行く所だ。」 
「僕はリッチじゃないし オペラには行かないよ。」
「ふ〜ん そんな事ない 俺から見たら十分リッチだよ。 エジプトまで観光に来れるぐらいなんだから。 そら セミラミス ホテルが見えてきた。」
「メイデュームまで連れて行ってくれてありがとう。」
「それより 約束の12時に 間に合わなかった。 30分遅れたけど その・・・ムニャムニャ 俺は努力したんだ・・・わかってくれよ・・・ブヅブツ。」
「君は最初に三時間半かかると言ったが 三時間でメイデュームまで往復した。 30分早く 頑張った。 だから20ドル払うよ。」 

セミラミス ホテルの前にプジョーは止まり ドアが開いた。 

「払うよ 確かめて。 1 2 3 ・・・ 19  20ドル 」

アブドルは 髭面に満面の笑みを浮かべて言った。

「サンキュー ジェントルマン ハブ ア グッド トリップ」
「ショクラン  マッサラーマ。」

ホテルに帰ると12時40分を回っていた。  シャワーを浴び 昼食抜きで荷造りした。 
カイロからメイデュームまで 地図を見ると 直線距離で80km ぐらいある。 道のりだと 90kmぐらい。 東京から小田原に行ってお城を見学して 帰ってきたようなもの・・・そう思うと 三時間の小旅行も感慨深く 心に残る。 高速道路もないのに 良く行って来たものだ。   

帰国は エジプト航空 カイロ-成田 直行便。 飛行機は当時の最新鋭のB777。 行きのバンコク経由 おんぼろB747 が嘘のようだった。  帰国の飛行機の中で アプドルの髭面を思い出していた。

1997年10月 末  エジプト カイロ メイデューム



帰国からおよそ10日 ハトシェプスト葬祭殿で 旅行者を襲った悲しいテロの知らせ。 同年の九月も カイロ博物館の近くで爆弾テロがあったばかりで、 ルクソール近郊や主要な観光地では 自動小銃を持った軍隊やツーリストポリスが多く警備にあたり 物々しさを感じていました。 そのような警備体制の中で あのような悲しい出来事が起こるなどとは・・・言葉もありません。   メイデュームで ツーリストポリスが付いて来た理由が理解できた気がいたします。 


1997年11月 
ルクソールのテロで犠牲になられた方々にお見舞い申し上げ お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたします。
 

           合 掌

 

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