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高森南小学校の桜:ソメイヨシノ  
   

近くの、高森南小学校の桜が素晴らしいというので見に行ってみました。 

 桜は、ソメイヨシノだそうで、昭和6年統合校舎建築の際に植えられたものだそうです。 

 ソメイヨシノは成長が早く、一般には寿命も60年と言われているそうですが、

130年ぐらいの老木もあるそうで、ここの桜は90歳ぐらい、

古木の迫力に圧倒されますが、まだまだ元気に長生きしてもらいたいものです。 

 今日は平日で、まだ授業中のようで、生徒さんが桜の下でお掃除をしていました。 

 どうもおじゃましました。

雲龍山松源禅寺:臨済宗妙心寺派

   

直親の勉強も済んだので、いよいよ本題の松源寺へと向かいます。 

  大河人気は、相当なもので、寺の駐車場は一杯、大型バスも何台か止まっています。 

 山門は江戸中期に再建されたものだそうで、町指定文化財にもなっているそうです

本堂前も参拝客で行列状態、市瀬住職もおおいそがしで、

松源寺や井伊直親の話をしてくださいました。

松源寺は、戦国時代の初めに松岡城主・松岡貞正が開基で、

弟の文叔瑞郁禅師によって開山された寺だそうで、井伊直親が逃れて来た時は、

現在の地より少し上の牛牧村の寺山に造られたそうです。 

 その後、織田軍の兵火で焼失、家康により松岡城廃絶となった後に、

伊那郡代官の朝日受永氏が、関ケ原の戦いの功労により、幾つかの神社・仏閣の寄進を受ける事にしたそうで、

松源寺もその一つとして現在の松岡城址に再建されたものだそうです。 

 その後明治30年に火災に合い、現在の本堂は明治33年に再建されたものだそうです。

  寺紋は丸に左三階松、松岡氏の家紋ではなさそうなので、朝日氏のものかな? 

 朝日氏の祖先は、木曽義仲の妻・山吹だというから、金刺一族になるのかもしれません。

松源寺前の桜は、エドヒガンザクラ・樹齢は300年ほどだそうです。 

  参拝の後は、松岡城址を見学に行ってみました。

   
松岡城址:
松岡氏は、平安中期の武将陸奥の安部貞任の次男・仙千代が長年にわたる京都朝廷派遣の陸奥守との戦に敗れ、

牛牧村に逃れ地頭となったのが始まりだそうです。 
(安部総理は、安部貞任の末裔だとか。)  

 鎌倉時代末までは、平地の古城に居を構えていたそうですが、

南北朝時代になって、三州街道を見下ろす、段丘先端の要害の地に松岡本城を移したのだそうです。 

 南北朝時代になって守護の小笠原氏も分立、戦国前期までは、

知久氏・下条氏・小笠原氏と並ぶ南信濃の大豪族となったそうです。 

 上社の神事・御射山祭の頭役も何回か務めた事もあるそうです。

  武田信玄が、神峰城の知久氏を攻め落としたので、軍門に下り、

織田軍に敗れた後は、徳川方についたそうですが、小笠原氏が豊臣方に加担、

ともに豊臣方に加担しようとしたのが、座光寺氏を通じて家康の知る所となり、

井伊家にあずかりの身とはなったが、結局は改易となったそうです。
   
松尾栄宗教美術院:  

最後に訪れたのは、松尾栄宗教美術院です。 

 高速手前に看板が出ていたとかで探しながらいきましたが見つからす通過、電話で訪ねながらの訪問です。 

 高森町歴史民俗資料館で勉強した、本学神社の標識に従い細い道を上り、

本学神社よりさらに上った所にアトリエがありました。 

 広い庭の入口まで、松尾さんが迎えに出てくださっていました。  

 松尾栄宗教美術院は、父の栄氏が亡くなってからは、次男の隆康さんが、絵の方を引き継ぎ、

兄の方は営業と、二人三脚で運営されているそうです。 

 人数が多いので、二手に分かれて、アトリエに伺い、

さっそく仏画製作過程や、心配りについて教えて頂きました。

   
   
   

仏画は、技法は日本画と同じジャンルに入るそうですが、描く対象がことなり、

仏画では経典の教えに従って、忠実に表現する事が大切になってくるそうです。 

  最初は、経典を正確に解釈して、線で表現した元図を作り、

それを絹のカンバスに転写する所から始まるのだそうです。

   

隆康氏は高野山に7年修行、得度もされたそうですが、父・栄氏の残された元図を基に描いている時、

この表現は何を表しているのかわからず見返す事もあるそうです。 

 背景の地塗りは先に書くのだそうですが、自由で依頼主の思いも入れる余地はあるそうです。

  台の上の大作の涅槃図は、縮図を2本書いたそうで、今回の完成までに6年ほどかかっているそうです。 

 入口に大作の、曼荼羅がありましたが、このような大作になると床に置いて巻きながらかかねばならないそうです。

  色は、描きあがった時だけでなく、時代がたって古色がかかった時の色合いを思いながら描かれているそうです。 

  いずれにしろ、膨大な集中力と忍耐を要する、修行の道の様で感服の至りです。

   

ギャラリーに戻り、お茶を御馳走になりながら、父栄氏の作品や思いについて話して頂きました。 

  栄氏は伊那の陶器店で働いており、後に美術商を始めたそうですが、

どうしても絵描きになりたいと思っており、どんな絵にするか考えていた所、

夢枕に観音様が現れ、私を書けば暮らしていけるとのお告げがあり、仏画を描く様になったのだそうです。 

 国宝の半分は仏画だそうで、200年から1000年のものまであるそうですが、

自分の世代に後世に残るものがなくならぬ様、また画法も文化も残さねばならぬと言われていたそうで、

自分達もそうしたいものと思いガンバッテおられるそうです。 

  隆康氏は、各地での写仏講座の講師も務められているとか。

栄氏の作品は、地元諏訪にも幾つか残っているそうで、

岡谷の平福寺の両界大曼荼羅は、成田山新勝寺の平成大曼荼羅の制作に当たって、

和尚から試作に書けと言われ製作したものを納めたものだとか、

その他にも上社の襖絵とか、メンバーの方の家にも残っているとか。  

 思い出話はつきませんが、今回の旅もここでお開きとなりました。

   
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