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第百八十六回自然と歴史探訪[信州の鎌倉塩田平・手塚の里を訪ねて]

式内大社生島足島神社:

今回訪れる塩田平は信州の鎌倉として、マリオ倶楽部でも以前訪れた事がありますが、

今回は下諏訪山王台に霞ケ城を築き、木曽義仲とともに粟津ケ原で戦死した金刺光盛の父で、

金刺一族でもあった手塚信綱がここ塩田平の別当を務めた事もあり、

今も手塚の里や手塚氏にまつわるものが幾つか残っているそうで、

平安末期から鎌倉初期の塩田平に目をやりながらの訪問として企画された様です。 

  ここ上田の平では、奈良時代には国分寺も置かれ、国府が有ったという痕跡は残っていないそうですが、

信州では中心的な位置づけにあった様です。 

 その後平安中期の記録では国府が筑摩(松本)との記録があるそうで、

政治の中心も上田から松本の方へ移っていったのかもしれません。  

 平安末期に小県で一大勢力を持っていたのは、海野一族で、

木曽義仲の挙兵に海野氏が加わったのも、手塚氏の働きが有ったからかと思われます。  

  今回 最初に訪れるのは、上田市下之郷にある生島足島神社です。 

 今回はガイドをお願いしてあるとかで、生島足島神社で待ち合わせです。  

 東京では、桜の開花宣言が出されたそうですが、久々に越える和田峠は昨日の雪で銀世界、

トンネルを越えると噴煙の上がる浅間山が我々を迎えてくれます。  

 マリオ倶楽部で、生島足島神社を訪れたのは第25回の時で、早いものでもう12年前になります。  

 バスは、駐車場を探しながら行、西門側にある駐車場に到着、歩いて神社へと向かいます。

西の鳥居を入った所で、ガイド・小林さんと落ち合い、現在の入口として使われている東鳥居へと移動します。

  胴伏の欅も御神木・家族欅だそうです。

神社は式内大社だそうで、平安中期の神社帳・延喜式に大社として載っているそうです。 

 以前は国幣中社だったそうですが、昭和21年に神社の国家管理が廃止され、

今は人事権や資格に制約のある別表神社となっているそうです。  

ガイドさんによると、夏至には東の鳥居から日が昇り、冬至には西の鳥居に日が沈むそうです。

神門手前にある手水舎で身を清めてからお参りです。

神紋は立梶紋と三つ巴紋。   本殿の出雲式の大根注連縄。 
大阪にある神武天皇が生島足島神を勧請して創建したとされる生國魂神社の神紋は三つ巴紋と橘紋だそうです。

まずは参拝。  

生島足島神は、伊邪那岐命、伊邪那美命の国生みによって生まれた大八島(日本列島)の霊だそうで、

建御名方富命が諏訪に入る前にこの地に居た生島足島神に仕えたとか、

もとは本郷の中心に有った泥宮にあったものを移したとか、

科野国造の多氏や金刺氏が国魂として宮中から生島・足島の両神を勧請した等、

諸説あるそうですが、いずれにしろ手塚太郎の居たころには、かなりの勢力をもつた神社だった様です。 

 本殿は、下宮と対向して北向きに建っていますが、

本殿内にある内殿・県宝は、西向きで戦国時代に造られたものだそうです。 

 元々は、内殿だけがあったそうですが、明治になって覆屋として本殿が造られ、

現在の権現造りの本殿は昭和16年に造られたものだそうです。 

 内殿は見えませんが、内陣と外陣に分かれており、床は土間のままで大地が御神体という事の様です。 

神島にある盤座・神の降りる所だとか。 御神橋。  

本殿は出雲式園地・池心の宮園地という形式で造られた神島にあり、

摂社の建御名方富命が米粥を煮て献ずる時に渡った橋で、現在も続く御籠祭の時に使われるとか。

下の宮・諏訪神社前の夫婦欅。 

諏訪神社本殿。  

 樹齢800年だとか、左右で夫婦欅だそうですが、

お参りすると夫婦円満、安産の御利益があるとか、皆さんさっそくお参りします。

江戸初期に上田藩初代藩主・真田信之の寄進により再建されたもので、

本殿の部材は大工棟梁・宮坂勘四郎が一木から作ったそうで、門も御門屋の形式で県内でも一番古く、

本殿・門ともに安土桃山時代の様式によるそうで、県宝にも指定されているそうです。

  新しそうに見えるのは、昭和16年に塗り替えがされたからのようです。

  向拝頭貫上部蟇股は龍、扉上の蟇股の彫刻は麒麟。

  脇障子上部の熨斗結びの透かし彫りは桃山様式だとか。

   
神楽殿。 
   

神社には、ちょっと気になる建物が二つあります。  神楽殿と歌舞伎舞台です。  

現在の建物は、歌舞伎舞台が明治元年に造られたものだそうです。 

 神楽殿は、創建当時のものとすると戦国時代のものという事になります。 

 屋根には武田菱が付いており、武田氏にまつわる建物が有ったという事で、

内殿も戦国時代のものだとすると、かっての生島足島神社全体が武田信玄によって再建されていたのではと考えられます。

  しかし、信玄の頃に歌舞伎舞台というのはちょっと早すぎるので、

代わりに何があったのだろうと疑問がわきます。

 歌舞伎舞台は、左右の太夫座、廻り舞台、せりあがり等も残っており、

県内の農村歌舞伎舞台の中で最大級のもので、県宝にもなっているそうです。

一時は戴明学校下之郷学校の校舎としても使れたとか、成り立ちはちょっと違いますが、

坐光寺の麻績神社にある歌舞伎舞台付の学校としてつくられた麻績学校校舎が思い出されました。

廻り舞台とせりあがり。 廻り舞台の仕掛け

旧諏訪神社も現在の形とは、かなり違っていた様です。  

中には信玄の武将たちの起請文のレプリカが展示されていました。 

 全部で94通の古文書があるそうで、そのうち83通が信玄にかかわるものだそうです。

 国指定の重要文化財になっているそうです。

見事な梁。   旧諏訪神社鬼瓦。 

   

御神輿も置かれていました。  

紋は菊、御柱祭りの時は宮中より幣帛料が下されるとか、紋はそんなスポンサーによるものなのかもしれません。

この神社には御柱があります。 

 上の宮・生島足島神社の一と二、下の宮・諏訪神社の一と二です。 

 いずれの一の柱も西側に建っており、内殿の向きとも考えると、正面は西になるのかもしれません。

   
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