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蛇石キヤンプ場でバスを下りて、すぐに御柱探訪に向かいます。 

 林道ゲートを通って横川の上流へ。

暫く行くとちょっと開けた所に出ます。  中央電気工業浜横川鉱山跡だそうです。 

 近くには搬出用の坑口が残っていました。 

坑口は、1Kmほど急斜面を上った所に、12,3ケ所あるそうです。

 蛇石もそうですが、このあたりは中世代(25000万年〜6600万年前)変成岩の地層だそうで

層状のマンガン鉱床が有ったそうです。

 鉱山は明治
43年に開山し、最盛期には国内1,2位の鉱山で250300人の人達が働いていたそうです。  

 しかし残念ながら鉱山は昭和
58年には閉山になってしまったそうです。 
   
さらに行くと、山の神があります。   江戸中期の祠があるそうです。  
 

大洞林道・江戸時代にはこの辺りに木地師達が暮らしていたそうです。 

やがて、岩尾沢林道に入って一気に高度をかせぎます。  うまく御柱が見つかるとよいのですが。

中央アルプスの最北端・経ケ岳も望める辺りまで上って来ると、道の脇には立派な樅の木も出てきます。 

 御柱まではもう一息かと期待されます。

 

さらに上るとついに重機の姿を発見、この先で御柱の伐採が行われているそうですが、

斜面も急で見学は危険との豊田・大総代の説明で今日の探訪はここまで、

この後は茅葺の館に一旦勢揃いするそうでそこで見る事が出来るそうです。 

  大総代は伐採に毎日つめておられるとか、御苦労様です。

下って来ると途中に、七社御柱がありました。 

 七社とは、七社明神社の事でしょうか、七社明神社とすると、

上社の御柱の伐採を担当する山作衆の祈願を行う茅野市神原の神社かもしれません。   

タラノキの実。 
十分に紅葉を堪能した所で国指定天然記念物の蛇石に到着です。 

  川の中には二条の火成岩・閃緑岩が平行して走っています。 

 黒い方は水成岩の黒色粘板岩・龍渓石だそうです。   

最後に、2009年の98のマリオ倶楽部でも訪ねた、大きなヒノキの下にある木地師の墓を訪ねました。

  江戸時代に橋・大洞の辺りには君ケ畑の流れをくむ木地師達が1020戸ほど暮らしていたそうで、

木地師達は天皇の認可の下、苗字を名乗る事、全国どこの山にでも入って樹木を伐採出来たそうです。  

墓は各地のものをここに集めたものだそうですが、墓には菊花紋が彫られたものが幾つかありました。

 

ちょっといっぷく:タイガー食堂
昼食は小野の町まで戻り、駅の近くにあるタイガー食堂でいただきました。
 
  創業は初代・田中虎次郎さんが大正
14年にカフエ・タイガーを開いたのが始まりだそうです。 

 又昭和
29年には山下清氏が、新潟の花火を見に行く途中に2ケ月ほど滞在して行ったそうです。
 
  トイレにはそんな思い出の記事もはられていました。
 
 午後から訪れたね古田記念館の方に教えていただいたのですが、

古田晁氏の生家であつた本棟造の母屋は、吉江銀行の建物部材を使った豪華な建物で、

昭和
48年に古田氏が老後の住家として建て替えを行った時に、タイガーさんに移築されたそうですが、

昭和
60年の御柱の時に焼けてしまったそうです。
 
  残っていれば、貴重な所での食事となったのでしょうがちょっと残念。 

 しかし昼食は美味しくいただきました。 
小野宿問屋:旧小野家住宅・県宝

前回小野宿を訪れたのは、2011年の第127回のマリオ倶楽部の時でした。  

 この時も平日で休館日、表だけの見学でしたが、今回は会長さんが事前に予約を取って下さったそうで、

中を見せていただく事ができました。 

 豊臣秀吉の代になつて、松本に石川康正、飯田に毛利秀頼が配置されたそうですが、

当時交通の要所であつた小野宿をめぐつて、両者の対立があり、

秀吉が知行割として、小野宿を南北に二分して以来、現在も行政地域が分かれているそうで、

ここ南小野の問屋の見学のお願いは辰野町の教育委員会に、

もう一つの北小野の古田晁記念館の方は塩尻市の教育委員会の方にお願いする事になったそうです。 

  ここ小野宿問屋では、辰野町教育委員会の太田さんと小野宿問屋保存会の会長の小野さんが案内して下さいました。

   小野家はこのあたりの庄屋だったそうですが、江戸時代初期に大久保長安によって開かれた初期中山道も廃止

小野宿は伊那街道の宿場となつたそうです。

  そんな頃小野家5代目当主が伊那街道問屋役となつたそうです。  

 問屋では現在の郵便局の業務が主だったそうです。

式台から続く玄関。   式台玄関から続く客用・三部屋の中央のひろま。

奥の一段上がった所が上段の間。 
公爵・徳川家達の書・遠益清。

隣の八畳間には、小野村千村代官・飯田藩主・堀大和守の宿札が展示。

幕末になつて小野宿は大火に合い、小野家は土蔵だけが焼失をまぬがれたそうで、

現在の建物はその後に建てられたものだそうです。 

 小野宿は、大名の通る事がない脇往還で本陣が無く、問屋が本陣の役割もになつていたのだそうです。 

  小野家では、明治3年に問屋制度が廃止になるまで問屋を続けたそうで、

12代目八左衛門(正實)は、名主役・寺子屋師匠・陸運会社の元締・初代小野郵便局長等を勤められたそうです。 

  14代目・八千雄は明治41年に宮内省に入り、4代の内大臣秘書官を務めたそうです。  

 そんな事でか、各部屋の襖・額にはいろんな人の書が多数残されていました。 

  建物・屋敷は16代目が平成元年に辰野町に寄贈され、

平成16年に旧小野家住宅・土蔵そして小野家文書が長野県県宝に指定されたそうです。   

主屋は、桁行8間半・梁間10間の本棟造りで松本平にある本棟造りと違い庇が付いていないのが特徴だとか。  

 

 
 
 
   
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