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第百五十回自然と歴史探訪遊んで学ぶ・松代の街へ]

   
 

 

真田宝物館:

週末に降った雪がまだ残る中、今年は幕末の大先覚者佐久間象山没後150年と言うこともあって、

北信の松代を訪ねる事になりました。 

   塩嶺トンネルを抜けても、今回は雲が厚く、折角会長さんが北アルプスの展望図を用意して下さいましたが、

かんじんに山は見えませんでした。 

     姨捨まで来て前方を見ましたが、こちらも厚い雲に覆われ、どうやら北信五岳の展望も期待出来ません。 

   バスは長野インターで高速を降りるとすくさま、ようこそ松代への看板が出てきます。 

  なんせ北信なので、雪が多いかと思って来ましたが、諏訪よりははるかに少ない様です。  

 今日の最初の訪問地は真田宝物館です。  

 松代は古くは、勅使牧の一つ大室牧が有った所だそうですが、戦国時代になつて、

武田信玄が川中島の合戦に備え、山本勘介に命じ海津城を作ってからは、城下町として発展して行ったのだそうです。

  松平忠輝がここを管轄する頃から城の松城と言われる様になり、真田信之が藩主となつてからは、

明治4年の廃藩置県までは真田家10代の支配が続いたそうです。 

  幕府の命により、名前が松代となったのは三代幸道の時だそうです。

 町中に入って来ると、松代駅が見えてきます。  

 明治から大正にかけて、岡谷同様製糸・物流の中心駅として活躍して来た駅も、

2012年に長野電鉄屋代線が廃線になり今は静かに駅舎だけが残っていました。

宝物館は12代当主が大名道具・古文書等を街に譲渡したのを期に、

松代高等学校の移転後の校舎を改造し昭和44年にオープンし、

昭和52年には新館を建て市立博物館となつたのだそうです。 

 館内には、今日一日町を案内して下さる、松代文化財ボランティアの会の宮澤会長さんが待っておられました。

  まずは、入口にあった真田家の系図で真田家について説明をして頂きました。

   真田氏は上田市真田町が発祥の地だそうで豪族滋野姓の海野氏の一族だそうです。 

 幸隆は、海野氏の一族として武田・村上・諏訪軍と交戦、敗れて上野へ逃れたが、

後に武田傘下に入り、信濃先方衆として活躍。  

長男・信綱、次男・昌輝は長篠の戦で戦死、三男・昌幸は勝頼の命で沼田へ行き、武田家滅亡の戦から免れたそうです。

  昌幸は、豊臣の大名となり上田城を築城、この時次男・信繁(幸村)は人質として

大阪城に入り後に大谷吉継の姫を妻としたそうです。 

 長男・信之は本田忠勝の娘を家康の養女として妻に迎えたそうです。 

  そんな縁もあり、関ヶ原の合戦では清須会議で、長男・信之は東軍、次男・信繁と昌幸は西軍につく事となり、

東軍勝利の後は信繁と昌幸は九度山に蟄居となつたそうです。 

 大阪夏の陣では、信繁は再度西軍として戦い戦死、信之は上田六万石の城主となり領地を継いだが、

後に松代十万石と沼田三万石の領主となり、松代に移りその後は明治まで十代松代藩主として統治してきたそうです。 

  見学は新館第一展示室からスタートです。

江戸の末期には幕府に内緒で鉄砲も作ったとか。 (松本・高遠藩でも作られた)  

 真田家家紋、六文銭は六地蔵への冥土の渡し賃だとか、それでは無粋なので女性用に結び雁金等の家紋を使い分けていたとか。

奥の部屋には、武具・武田・豊臣・石田・家康等からの書状が展示されていました。 

 幸村の書状で残っているのは少ないそうですが、九度山蟄居の時、父昌幸の言葉を書状にしたものが展示されていました。

   太刀は騎馬戦時代のもので大きく、刃を下に、元寇の戦以降は短くなって刀となつて刃は上に向けて架けるそうです。

  重要文化財の青江の大太刀があるそうです。

旧館の第二展示室は大名道具の表道具が、第三展示室は大名道具の奥道具が展示されていました。

  第三展示室の入口には、十代藩主・幸民の正室・真淨院・島津輯子の嫁入り道具でしょうか、

昔は結婚しても家紋も名前も変わらなかったそうです。

.階段の壁に素敵な絵がありました。 典厩寺天井絵のレブリカだとか。

  下におりて第四展示室では、松代焼200年の煌めき・企画展として、松代焼が展示されていました。 

 松代焼は江戸中期第七代藩主・真田幸專の命で出来たもので、当初は藩窯として2ケ所で民間には出回らなかったそうですが、

後に民窯として広まったそうで7つの窯があったそうです。

   作っていたのは生活雑器で、京都からも注文が有ったとか。

7っの窯はそれぞれ違い、それらを総称して松代焼と言ったそうです。 

 昭和初期に一時は廃窯となつたそうですが、昭和47になつて復興されたそうです。

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