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二階の204畳の大広間。

会館は、外側は洋風ですが、中の各部屋は和風の作りになっています。 

 大広間の天井は折上格天井になつており舞台に向かって前方が高く、後方は低く作られ、

中央には柱もなく、舞台の上から前方を見ると、諏訪湖が見え全体が一段と広く見える工夫がされていました。

  柱の無い天井は釣り天井になつているのだそうです。  

  大広間は、表彰式等に使用されたそうです。     23代総理大臣・清浦奎堂の書。

   

窓はどの位置でも止まる分胴作り。

向かいの浴室の屋根には模様があるそうですが雪で見えません。 

 浴室の壁には白熊のレリーフが。

レリーフは言われて見ないとちょっとわからない所にありました。

大広間の柱は合わせ柱で、中に配線が通り電灯が点く様になっていたそうですが、

蛍光灯に変わってしまいちょっとアンバランスな感じがします。 

  一階の廊下にはまだその名残が残っていました。

一階には、6個のギヤマンの取っ手があるそうです。

片倉館の設計は明治から昭和にかけて多くの官庁建築等を手掛けて来た、森山松之助氏によるものだとか。

 壁には、この諏訪湖湖岸の軟弱地盤の上に、鉄筋コンクリートの建物を建てるにあたって、

二千数百本の松の杭を打ち込んだという、地盤工事の図面がありました。 

 この工法で造られたものには、高島城・東京駅等があるそうです。 

  完成当時の写真がありました、諏訪湖もすぐ目の前に広がり、

岡谷の寄宿舎住まいの女子従業員も船で、片倉館の湯に入りに来たそうです。

   

 

片倉財閥は、初代・片倉市助が明治政府が群馬に官営の冨岡製糸工業を開業した翌年の明治6年に、

岡谷で生糸作りに着手したのが始まりだそうです。 

  従業員の教育等にも力を入れ、岡谷の鶴峰公園を造ったのも初代だそうです。

  二代目・兼太郎は工場の海外・朝鮮展開、多角化に取り組み23工場と48支店を経営したそうです。

  第一次世界大戦で荒廃した欧州・敗戦国ドイツの復興を視察する為ヨーロッパに渡りそこで、

ヨーロッパ各国の農民の厚生施設のすばらしさを見、特にチエコスロバキアの温泉保養地・カルルスバードの施設に感銘して、

地域住民の為の公共の福利厚生施設を造ろうと、片倉一族の有志から資金を集めて温泉地上諏訪に造ったのが片倉館だそうです。

廊下にある兼太郎の像の脇に、黒い石がありました。 

 千人風呂に敷かれた石だそうで、左は新しいものだが、右は長年の使用でかなり摩耗して小さくなったものだそうです。

  利用の多さがうかがわれます。

   
タイル張りの土間。

一階には小和室が
2室有りました、今でも休憩室として現役で活躍しているそうです。

小和室は、広さは同じぐらいですが造りはちょっと違う様です。

雪見障子のガラスの模様も1枚づつ違っています。

中広間の奥の廊下の向こうには、タイル張りの土間がありました。 

 外から直接入れる様になっているそうです。

   
重要文化財の渡り廊下を通って浴室へ。 

浴室の方は入浴客がいる為か、女湯の入口で見学も終わり。

最後は内蔵を改造した館長室を特別に見せていただきました。

   
重要文化財の石塁。

重要文化財の噴水。

  
昼の新年会の時間もせまってきたので、歩いての諏訪湖一周はここまで、残りはバスで一周します。
ちょっといっぷく:マリオ新年会  

マリオさんに戻り、皆さんそろった所で新年会の始まりです。 

 会長さんにご挨拶頂き、さっそく乾杯。  

 せっせと歩いて、ひと汗かいた体にビールが沁み渡ります。 

  今年は、餅つきはありませんでしたが、新春にちなんで七草粥をいただきました。 

 今回は、皆さん歩いての諏訪湖一周組はありませんでしたが、

素晴らしい雪景色の諏訪湖と、近くに居てもあまり立ち寄らない、新しい観光スポツトをめくり、

片倉館の館長さんの名調子の解説も聞けて、充実した一日を過す事ができ、

素晴らしい新年をスタートすることが出来ました。

 来月もまた素敵な企画が有る様で、楽しみです。  感謝、感謝。

   
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