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一段高い所にある普賢堂は、落ち着いたただずまいですが、普賢菩薩をお祀りする為に、

近年芝高輪にある高野山真言宗の東京別院の本堂(御影堂)を移築したものだそうで、

江戸時代のたてものが、東京の戦火にも合わず残っていたものだそうです。   

多少痛みが出始めているようで、木鼻の下にサナギがツタンカーメンに似ている、

天蚕の繭がいっぱい着いていました。

聖天堂。

内には他に、元禄時代の水屋(鐘突堂だったそうです。)、四代高島藩主忠虎公

によって創られた聖天堂(秘仏・大聖歓喜天)、明治になって造られた成田堂等が目につきました。

   最後に、この寺は諏訪善光寺と相対して造られているという事なので、山門の所から

対岸を眺めましたが、残念ながらみあたりませんでした。

上原城址:  

永明寺山山頂。

今日は快晴、当初予定していた頼岳寺の横を通って一路、上原城址へと向かいます。 

 途中、板垣平の看板を横目に城跡目指してさらに上へと向かいます。  

板垣平は諏訪氏の館の有った所に、諏訪氏の没後、武田家家老の板垣氏が諏訪郡代として政を行った所だそうです。

途中、上原城址の案内板らしいものはありましたが、通りすぎて永明寺山山頂まで、やつてきました。

上原城址までは、歩いて下ることになりました。 ちょうど野の花も咲いており、早速横山教室の開校です。

下向きなので、モミジイチゴ、上を向いたニガイチゴもありました。  ムラサキケマン。

途中に有った、上原城水源には山赤蛙のオタマジャクシが一杯でした。

しばらく下ったところで、案内の看板に出会います。

そこから、車道をはずれ小道に入ってすぐに主郭に続く道と、三の郭に向かう道に別れます。

三の郭に続く道ぞいには、いくつもの観音さまが迎えてくれます。  

   

金毘羅神社。

上原城は、典型的な中世の山城で、残っているのは珍しいものだそうです。  

三の郭の跡には、金毘羅神社が建っていました。   

城郭の有った山が、金毘羅山という事なのか、頼岳寺の鎮守神として四国の讃岐から

金毘羅大権現を勧請して祀ったものだそうです。   

金毘羅神社の前で、横山先生に、諏訪惣領家最後の物語をしていただきました。   

諏訪惣領家五代、頼重は武田信玄の妹をもらい代わりに前妻の小笠原家臣の娘との間に出来た、

(諏訪御料人)を人質に送ったのだそうですが、天文11年信玄は兵を起こして、

上原城に向かったが、頼重は信じられずにいたそうですが、高遠藩も信玄に内通するにいたり、

上原城をすて近くの桑原城へと退却したのだそうです。   

この時の兵は150+農兵600名だったそうですが、頼重が偵察のため本丸から下ったところ、

兵は大将が逃亡したと思い逃げ出したのだそうです。  

その後、武田からの和睦の申し出を受けて、城を明け渡し、弟頼高とともに甲府に送られ、

板垣家の屋敷で切腹することになったのだそうです。   

これで、五代続いた諏訪惣領家もほろんでしまったのだそうです。、物見岩。

12時はかなり回ってしまいましたが、適度な運動も出来、ちょっとお腹も空いたところで、

今日の昼食の会場へと向かいます。

今日の昼食は、茅野のマリオローヤル会館での食事会となりました。  

最初にビールで乾杯をし、楽しい食事会が始まります。

上原城に始めて行った人という事で、殆どの人が手をあげました。  

皆さん、近くにおられ知ってはおられた様ですが、意外と実際に出かけたことが無かったようです。

おかげで、皆さんまた一つ新しい体験が出来たようでした。

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